元気力UP!

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2025年06月04日
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カテゴリ: 吾輩は猫である





「なあに、そんなに大変な事もないんです。
登場の人物は御客と、船頭と、花魁《おいらん》と仲居《なかい》と遣手《やりて》と見番《けんばん》だけですから」と東風子は平気なものである。
主人は花魁という名をきいてちょっと苦《にが》い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えてまず質問を呈出した。
「仲居というのは娼家《しょうか》の下婢《かひ》にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋《おんなべや》の助役《じょやく》見たようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物が出て来るように仮色《こわいろ》を使うと云った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。
「なるほど仲居は茶屋に隷属《れいぞく》するもので、遣手は娼家に起臥《きが》する者ですね。
次に見番[#「見番」に傍点]と云うのは人間ですかまたは一定の場所を指《さ》すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を司《つかさ》どっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが届いておりません。
その内調べて見ましょう」これで懸合をやった日には頓珍漢《とんちんかん》なものが出来るだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見上げた。
主人は存外真面目である。
「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。
花魁が法学士のK君でしたが、口髯《くちひげ》を生やして、女の甘ったるいせりふを使《つ》かうのですからちょっと妙でした。
それにその花魁が癪《しゃく》を起すところがあるので……」「朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか」と主人は心配そうに尋ねる。
「ええとにかく表情が大事ですから」と東風子はどこまでも文芸家の気でいる。
「うまく癪が起りましたか」と主人は警句を吐く。
「癪だけは第一回には、ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。
「ところで君は何の役割でした」と主人が聞く。
「私《わたく》しは船頭」「へー、君が船頭」君にして船頭が務《つと》まるものなら僕にも見番くらいはやれると云ったような語気を洩《も》らす。
やがて「船頭は無理でしたか」と御世辞のないところを打ち明ける。
東風子は別段癪に障った様子もない。
やはり沈着な口調で「その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾《りゅうとうだび》に終りました。
実は会場の隣りに女学生が四五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるという事を、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。
私《わたく》しが船頭の仮色《こわいろ》を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐《こ》らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、極《きま》りが悪《わ》るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後《あと》がつづけられないので、とうとうそれ限《ぎ》りで散会しました」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。
覚えず咽喉仏《のどぼとけ》がごろごろ鳴る。
主人はいよいよ柔かに頭を撫《な》でてくれる。
人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。
「それは飛んだ事で」と主人は正月早々|弔詞《ちょうじ》を述べている。
「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんか起せませんよ」と消極的の主人はすぐに断わりかける。
「いえ、癪などは起していただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と云いながら紫の風呂敷から大事そうに小菊版《こぎくばん》の帳面を出す。
「これへどうか御署名の上|御捺印《ごなついん》を願いたいので」と帳面を主人の膝《ひざ》の前へ開いたまま置く。
見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく勢揃《せいぞろい》をしている。
「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と牡蠣先生《かきせんせい》は掛念《けねん》の体《てい》に見える。
「義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表《おひょう》し被下《くださ》ればそれで結構です」「そんなら這入《はい》ります」と義務のかからぬ事を知るや否や主人は急に気軽になる。
責任さえないと云う事が分っておれば謀叛《むほん》の連判状へでも名を書き入れますと云う顔付をする。
加之《のみならず》こう知名の学者が名前を列《つら》ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。

要約


前回に引き続き、主人の家では東風君が朗読会について語っている。今回扱った題材は近松門左衛門の「心中物」。登場人物には花魁や仲居、遣手、見番などがあり、配役に応じて仮声で演じる試みであった。
花魁役には法学士のK君が選ばれたが、口髭を生やしたまま甘いセリフを話す姿は不自然で、癪を起こす場面も再現できなかった。一方、東風君自身は船頭役で、身振り手振りを交えて演じたところ、近所の女学生たちが窓の下で聞いていたらしく、突如笑い出されてしまう。突然の嘲笑に気を削がれ、朗読会はそのまま解散となった。
その後、東風君は主人に次回の賛助員として名を連ねてほしいと依頼。主人は責任がないと聞いて気軽に承諾し、知名人に並んで名が記されることを「無上の光栄」と喜ぶ。

解説


この章は、明治期の文化活動の試みと、それに対する人々の反応をユーモラスに描いた一編。朗読会を題材に、演劇的手法による文学表現を目指す若者たちの情熱と、結果的な失敗を滑稽に描写している。
とくに、船頭役を演じた東風君が女学生の笑いに腰を折られる場面は、明治時代の若い知識人たちが西洋的芸術や古典芸能を咀嚼しようとしたものの、まだ未熟でぎこちない様子を象徴している。
また、主人が責任のない名義だけの「賛助員」として喜んで名を連ねる姿は、形式重視・体裁重視の人間心理を軽やかに風刺している。

夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる
本名は夏目金之助
帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する
帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表
1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表
1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社
そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる
1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠
享年50歳であった







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Last updated  2025年06月04日 23時03分24秒
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