元気力UP!

元気力UP!

2025年06月29日
XML
カテゴリ: 吾輩は猫である




吾輩は猫である。その26:忘年会の夜、謎の声に導かれて
「その日は向島の知人の家《うち》で忘年会|兼《けん》合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを携《たずさ》えて行きました。
十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛会で、近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。
晩餐《ばんさん》もすみ合奏もすんで四方《よも》の話しが出て時刻も大分《だいぶ》遅くなったから、もう暇乞《いとまご》いをして帰ろうかと思っていますと、某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは○○子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きますので、実はその両三日前《りょうさんにちまえ》に逢った時は平常の通りどこも悪いようには見受けませんでしたから、私も驚ろいて精《くわ》しく様子を聞いて見ますと、私《わたく》しの逢ったその晩から急に発熱して、いろいろな譫語《うわごと》を絶間なく口走《くちばし》るそうで、それだけなら宜《い》いですがその譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです」主人は無論、迷亭先生も「御安《おやす》くないね」などという月並《つきなみ》は云わず、静粛に謹聴している。
「医者を呼んで見てもらうと、何だか病名はわからんが、何しろ熱が劇《はげ》しいので脳を犯しているから、もし睡眠剤《すいみんざい》が思うように功を奏しないと危険であると云う診断だそうで私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起ったのです。
ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって四方から吾が身をしめつけるごとく思われました。
帰り道にもその事ばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。
あの奇麗な、あの快活なあの健康な○○子さんが……」「ちょっと失敬だが待ってくれ給え。
さっきから伺っていると○○子さんと云うのが二|返《へん》ばかり聞えるようだが、もし差支《さしつか》えがなければ承《うけたま》わりたいね、君」と主人を顧《かえり》みると、主人も「うむ」と生返事《なまへんじ》をする。
「いやそれだけは当人の迷惑になるかも知れませんから廃《よ》しましょう」「すべて曖々然《あいあいぜん》として昧々然《まいまいぜん》たるかたで行くつもりかね」「冷笑なさってはいけません、極真面目《ごくまじめ》な話しなんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になった事を考えると、実に飛花落葉《ひからくよう》の感慨で胸が一杯になって、総身《そうしん》の活気が一度にストライキを起したように元気がにわかに滅入《めい》ってしまいまして、ただ蹌々《そうそう》として踉々《ろうろう》という形《かた》ちで吾妻橋《あずまばし》へきかかったのです。
欄干に倚《よ》って下を見ると満潮《まんちょう》か干潮《かんちょう》か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。
花川戸《はなかわど》の方から人力車が一台|馳《か》けて来て橋の上を通りました。
その提灯《ちょうちん》の火を見送っていると、だんだん小くなって札幌《さっぽろ》ビールの処で消えました。
私はまた水を見る。
すると遥《はる》かの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞えるのです。
はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面《おもて》をすかして見ましたが暗くて何《なん》にも分りません。
気のせいに違いない早々《そうそう》帰ろうと思って一足二足あるき出すと、また微《かす》かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。
私はまた立ち留って耳を立てて聞きました。
三度目に呼ばれた時には欄干に捕《つか》まっていながら膝頭《ひざがしら》ががくがく悸《ふる》え出したのです。
その声は遠くの方か、川の底から出るようですが紛《まぎ》れもない○○子の声なんでしょう。
私は覚えず「はーい」と返事をしたのです。
その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。
人も犬も月も何《なん》にも見えません。
その時に私はこの「夜《よる》」の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたいと云う気がむらむらと起ったのです。
○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるように私の耳を刺し通したので、今度は「今|直《すぐ》に行きます」と答えて欄干から半身を出して黒い水を眺めました。
どうも私を呼ぶ声が浪《なみ》の下から無理に洩《も》れて来るように思われましてね。
この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。
今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめているとまた憐れな声が糸のように浮いて来る。
ここだと思って力を込めて一反《いったん》飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」「とうとう飛び込んだのかい」と主人が眼をぱちつかせて問う。
「そこまで行こうとは思わなかった」と迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。
「飛び込んだ後《あと》は気が遠くなって、しばらくは夢中でした。
やがて眼がさめて見ると寒くはあるが、どこも濡《ぬ》れた所《とこ》も何もない、水を飲んだような感じもしない。

要約


その日は向島の知人宅で忘年会と合奏会が開かれ、主人公はヴァイオリンを携えて参加する。盛会の中、某博士の夫人から、○○子という婦人が突然病に倒れ、譫言の中で主人公の名前を呼ぶことを知らされる。その話に胸を締めつけられるような不安を覚えながら帰途に就く。吾妻橋に差し掛かったとき、川の彼方から自分の名前を呼ぶ○○子の声を感じるようになり、次第にその声に惹かれ、橋の欄干の上に身を乗り出してしまう。ついには飛び込む決意を固めるが、実際に水に入った感覚はなく、目が覚めると体は濡れていなかった。この出来事は現実か幻想か――迷亭の語りによって読者は不思議な余韻の中へと誘われる。

解説


この回では、明治の都市文化が色濃く反映された「向島」「吾妻橋」などの地名や、人力車・合奏会といった当時の上流階級の生活が描かれています。また、譫言や幽霊のような声の描写を通して、夏目漱石特有の「理性と幻想の境界」の演出がなされており、物語は幻想文学の趣きを帯びます。迷亭の語り口は軽妙でありながらも、読者に死や存在の不確かさを思わせ、現実と非現実のあいだを彷徨うような読後感を残します。猫の視点を介しながらも、漱石が人間の精神の深淵を巧みに描いた一編といえるでしょう。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025年06月29日 10時08分19秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: