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(クーグスクの拝所)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」に「宇堅/うけん集落」があります。この集落の東海岸沿いにある「具志川火力発電所」に隣接した場所に「クーグスク」が構えています。「ガンジバル/岩地原」と呼ばれる地域にある「クーグスク」は金武湾に舌状に突出した標高約16メートルの岩山で、標高4〜5メートルの砂丘で連結されています。この砂丘上には弥生式土器と鉄斧を出土した「宇堅貝塚群/岩地原B地点」が立地しています。「クーグスク」は碗を伏せたような景観をしており、その頂上部の形状は幅6メートル、長さ28メートル程の長楕円状を呈しています。表面調査の結果では石垣遺構などは確認されておらず、グスクの三方は海に囲まれ北西側一方のみ砂丘を通じて陸と繋がっています。「クーグスク」の北側には拝所があり石碑とウコールが祀られていますが、このグスクは地元の人々の間でもよく知られていない謎に包まれた岩山となっています。(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所に設置されたウコール)(ウコールと賽銭)(クーグスクの拝所に祀られた石碑)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの浜の入り口)(クーグスクの浜)(具志川火力発電所のパイプライン)(具志川火力発電所のパイプライン)(パイプラインとクーグスク)「宇堅貝塚群」は勝連半島北側の付け根にある「宇堅集落」の海岸線(岩地原・荒吹原・目長原)約2キロの範囲に分布する弥生〜平安時代(約2000年前)の貝塚遺跡です。「クーグスク」がある「岩地原」は更にA・B・C地点に分かれています。「宇堅貝塚群」からは沖縄で作られた土器の他にも九州で作られた「弥生土器」や鉄斧、装飾品として使ったガラス小玉等が出土しており、海を超えて九州の人々と交流していた事が分かっています。特に鉄斧や銅製漢式三角鏃は沖縄での出土は珍しく貴重な発掘となっています。昭和54年(1979)には土地改良事業に伴い移籍範囲確認調査が行われ、平成元年(1989)から翌年にかけては「具志川火力発電所」の建設に伴う発掘調査が実施されました。(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスクの浜の岩とパイプライン)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(具志川火力発電所の煙突)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.30
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(我如古ヒージャーガー)沖縄本島中部に「宜野湾市」に「我如古/がねこ集落」があります。「我如古公民館」の北側に隣接した崖下に「我如古ヒージャーガー」があります。この井戸は今から100年以上前の明治25年(1892)に集落出身の「ミーシーシ/新末吉」と「ウィージョー/上門」の勝れた石工2名の指導により、村人総出で半年の月日をかけて造られた湧泉であると伝わっています。湧泉から流れる清水は人々の日々の飲み水や野菜や芋の洗い水、さらに衣類の濯ぎ水などに利用されるなど長く地域の共同生活用水として親しまれてきました。(我如古ヒージャーガーへの案内板)(我如古ヒージャーガーの入り口)(我如古ヒージャーガーへ降る階段)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの湧き口)(我如古ヒージャーガーの樋石)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの洗い場)(我如古ヒージャーガーの洗い場)(我如古ヒージャーガーの洗い場)「我如古ヒージャーガー」の造りは、洞穴から流れ出る地下水の湧き口に山羊(ヤギ)のあごひげのような水流しの樋(とい)をかけた「ヒージャーガー形式」となっています。この井戸は集落の伝統行事である「ウマチー」や「ウビナディ」などの節々の拝みや、新年を迎える時に身を清める「ワカミジ/若水」、子供の出生のときの湯浴みに使う「ウブミジ/産水」など、村人ひとりひとりの人生の節目に使う大切な水は「我如古ヒージャーガー」の湧水を汲み取って利用されていました。(我如古ヒージャーガーの拝所)(我如古ヒージャーガーのウコール)(我如古ヒージャーガーの湧口)(我如古ヒージャーガーの湧口内部)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの平場と洗い場)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの広場)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所のウコール)(我如古ヒージャーガー/石畳道の階段)「我如古ヒージャーガー」の特徴は不整形な積み石の面がカミソリさえも差し入れられないほど精巧に噛み合う「相方積み/あいかたづみ」の手法が取り入れられている事です。さらに湧泉へ降りる15段を数える石畳道の下側5段が自然の岩盤を削って仕上げられ、湧泉の外側に広場を設けるなど、至る場所に当時の知恵と工夫がうかがえます。この広場はかつて村人同志の出会いや情報交換の場として賑わったと言われています。「我如古ヒージャーガー」の石積みの一部は長い歳月の間に崩れてしまいましたが、市教育委員会では平成3年(1991)から2年がかりで現在に見る石垣の復元工事を行いました。(二代目我如古ヒラマーチャー/我如古平松)(二代目我如古平松の石碑)(二代目我如古平松の石碑)(二代目我如古平松の記念碑)(我如古ヒラマーチャー/我如古平松)現在の国道330号線「我如古交差点」の南側に、かつて樹齢300年を誇る立派な「ヒラマーチャー/平松」がありました。枝ぶりも300坪ほどありましたが沖縄戦で失われてしまいました。現在は「我如古公民館」の広場に二代目の平松が育っています。「我如古集落」には次の謳が残されており「二代目我如古平松」の記念碑に刻まれています。『我如古平松や 枝持ちの美らさ 我如古美童ぬ 身持ち清らさ』YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.27
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(安慶田御嶽/安慶田の拝所)沖縄本島中部の「沖縄市」に「安慶田/あげだ集落」があり、この集落の北側の小高い丘に「安慶田御嶽」の拝所が建立されており「安慶田の拝所」とも呼ばれています。この御嶽には3つの神が祀られており、拝所に向かって左側に「火之神/ヒヌカン」中央に「御嶽之神/ウタキヌシン」右側に「天地神/テンチシン」の石碑とウコールが設置されています。「安慶田御嶽」では3月、5月、6月に行われる豊作祈願の「ウマチー」の時に稲穂や神酒(ミキ)を供え、豊穣を祈り豊作に感謝しました。現在でも教友会の方によって祭祀が執り行われています。(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽の石碑)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の鳥居)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の祠)(火之神/御嶽之神/天地神の石碑)(火之神/御嶽之神/天地神のウコール)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の慰霊之碑)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の鳥居)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)「安慶田御嶽/安慶田の拝所」の南東側で「安慶田小学校」の北側に「アガリカー/東リカー」があります。現在、この井戸は丸型の石蓋が施されウコール(香炉)が設置されています。かつて集落で子供が生まれた際に使用する「ウブミジ/産水」をこの井戸から汲み「ミジナディ/水撫で」をして子供の健康を祈りました。「安慶田集落」の村人は旧暦1月1日の旧正月に朝早く「アガリカー」から「ワカミジ/若水」を汲みお茶を沸かして飲み一年の未病息災を祈りました。この井戸は「安慶田集落」の東側に隣接する「照屋/てるや集落」の住民からも拝されています。「アガリカー」の北側に「比謝川/ひじゃがわ」に掛かる「安慶田橋/あげだはし」が残されています。現在の「安慶田橋」は1966年6月18日に竣工されました。(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカーのウコール)(安慶田橋)(安慶田橋の橋名板)(あけだばしの橋名板)(安慶田橋の橋名板)「安慶田集落」の最北端にある「越来水辺公園」の「比謝川」沿いに「ムトゥジマガー/元島ガー」と「クシバルカー/後原カー」が隣接しています。「安慶田」の集落が現在地に移動する前に利用されていた井戸であると言われています。「安慶田」の井戸としては最も古く、元の集落を意味する「元島」は「古島」を意味する事から別名「フルジマガー」とも呼ばれています。かつては旧暦の9月吉日に「カーウガン/井戸御願」が行われていました。(ムトゥジマガー)(ムトゥジマガー)(ムトゥジマガー)(クシバルカー/フルジマガー)(クシバルカー/フルジマガー)(クシバルカー/フルジマガーのウコール)(クシバルカー/フルジマガーの内部)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.23
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(我如古大主の拝所/我如古グスク)沖縄本島中南部にある「宜野湾市」の南端に「我如古/がねこ集落」は方言で「ガニク」と呼ばれ、1671年に「宜野湾間切」が成立するまで「浦添間切」に属していました。この集落の南側には「我如古グスク」の小高い丘陵の森があります。このグスクは中山王国最後の王であった「武寧/ぶねい」の三男である「我如古大主/がにくうふしゅ」が築いたグスクと伝わっています。現在グスクの遺構は残されていませんが、丘陵中央部の頂上付近に「我如古大主」の祠と石碑が建立されています。祠内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、祠の後方には「我如古大主」と彫られた石碑が築かれています。「我如古大主」の拝所に向かって右側には石積みで造られた古墓があり、その歴史の長さと文化財としてのを知ることが出来ます。(我如古グスクへの道を示す看板)(我如古グスクの丘陵頂上)(我如古大主の拝所)(我如古大主の拝所の祠)(我如古大主の拝所の祠内部)(我如古大主の拝所の石碑)(我如古大主の拝所の霊石)(我如古大主の拝所の古墓)(我如古大主の拝所の古墓)「我如古集落」には女性だけで踊られる「スンサーミー」の行事が継承されています。女性は揃いの「キーチリー」と呼ばれる絣(かすり)を身に纏い円陣を組み、地方(じかた)の唄三線に合わせしなやかな舞を披露します。「スンサーミー」は500年以上も昔に「察度王」の子孫でもある「我如古大主」が「我如古グスク」を築城した際、その祝宴で披露されたのが始まりであると伝わっています。かつては豊年や子孫繁栄を願い旧暦8月17日に踊られていましたが、いつの頃から「サングヮチャー」と呼ばれる旧暦3月3日に踊られるようになりました。「我如古大主」の祠の前方に「グスクガー」と云う井戸があり「スンサーミー」の踊りの前にウガミ(拝み)が行われます。(我如古グスクのグスクガー)(我如古グスクのグスクガー)(グスクガーのウコール)(グスクガーの内部)(我如古グスクのパパイヤの木)(我如古グスクのパパイヤの実)(我如古グスクから見た沖縄本島西海岸)(我如古グスク)「我如古グスク」の北側にある畑に「チブガー」と呼ばれる井戸があり、現在は農業用水として利用されていますが、かつては「ガニクメー」と呼ばれる地域の人々の飲料水の他に水浴びなどにも使われていました。現在も水が湧き出ており水タンクも現存しています。沖縄戦後に捕虜となった宜野湾村民は、各地の収容所を経て米軍が割り当てた土地に住むようになりました。その土地の一つが「ガニクメー」で我如古・志真志・佐真下・真栄原・大謝名の地域住民が割り当てられました。現在「チブガー」の畑では様々な農作物が栽培されており、井戸水で育った芭蕉の木々には沢山の島バナナが実を付けています。(チブガー)(チブガー)(チブガーの井戸水)(チブガーの井戸水)(チブガー)(芭蕉/バナナの木)(芭蕉/バナナの実)(芭蕉/バナナの実)(芭蕉/バナナの実)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.20
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(漢那のミーキ墓/村墓)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があります。この集落の南東側の「明記原/ミーキバル」に「漢那の村墓」が立地している事から、この墓は別称「ミーキ墓」と呼ばれています。県道234号(漢那松田線)沿いにある森に構える墓は石灰岩洞穴の横穴を利用した墓で、内部については入口が石積みで密封されている為、現在でも詳細は不明となっています。「漢那のミーキ墓」を拝んでいる関係者によると、墓の入口は死体を棺に入れたまま風化させる「シルヒラシ」と言う場所となっており、その奥に厨子甕などの納骨器が安置され、さらにその奥の洞穴には風化で個性を失った遺骸を投げ込んだと云われています。(漢那のミーキ墓/村墓の森)(漢那のミーキ墓/村墓)(漢那のミーキ墓/村墓)(漢那のミーキ墓/村墓の階段)(漢那のミーキ墓/村墓の門石)(漢那のミーキ墓/村墓のウコール)(漢那のミーキ墓/村墓のヒジャイガミ)(漢那のミーキ墓/村墓のヒジャイガミ)(漢那のミーキ墓/村墓のニジリガミ)(漢那のミーキ墓/村墓のニジリガミ)(漢那のミーキ墓/村墓)(漢那のミーキ墓/村墓のアジシー)(漢那のミーキ墓/村墓のアジシー)(漢那のミーキ墓/村墓のガジュマルの根)(漢那のミーキ墓/村墓のガジュマル)「漢那のミーキ墓」の本墓を利用していたのは「漢那集落」で墓を所有していない門中でしたが、寄留民が利用した場合もあったと伝わっています。本墓の前方には「アジシー」と云う石灰岩製で家型の納骨器(石棺)が安置されており「漢那集落」でも特別な人物が納骨されたと言われています。「漢那のミーキ墓」は集落の墓の変遷や風葬などの習俗を知る上で非常に重要な文化財となっています。「漢那のミーキ墓」の南側には「惣慶のミーキ浜/明記浜」と呼ばれる天然浜があり、ウミガメが上陸し産卵する美しい浜として知られています。(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜のグンバイヒルガオ)(惣慶のミーキ浜/明記浜のグンバイヒルガオ)(惣慶のミーキ浜/明記浜)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.16
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(シルフチ森の厨子甕と石棺)沖縄本島北部に「宜野座村/ぎのざそん」があり、この村の南側に「惣慶/そけい集落」があります。集落と惣慶の浜の間にある石灰岩独立丘は「惣慶集落」の古い墓所で「シルフチ森/シルフチムイ」と呼ばれています。「シルフチ森」の頂上部は天井が落盤した「陥没ドリーネ」になっており、その岩陰には16箇所の風葬墓が設けられていました。沖縄戦後、集落の各門中が新しく墓を造り「シルフチ森」に安置されていた遺骨は移されましたが、現在でもガマ(鍾乳洞)の内部には厨子甕や石棺に納められた遺骨が残されています。洞穴内には岩陰に石を積んで入り口を設けた「ムラバカ/村墓」も現存し地域の人々により拝されています。(シルフチ森の北側入り口)(シルフチ森のガマ)(シルフチ森のガマ)(シルフチ森のガマ入り口)(ガマの鍾乳石)(ガマ内部の厨子甕と石棺)(ガマ内部に降りる階段)(ガマの鍾乳石)(ガマ内部の厨子甕と石棺)(ガマ内部からの風景)(ガマ内部の厨子甕)(ガマの拝所)(ガマ内部の厨子甕と石棺)(厨子甕に納められた遺骨)(シルフチ森のガマ)(ムラバカ/村墓)(シルフチ森のガマに通じる階段)「シルフチ森」のガマ内部にはグスク土器、徳之島産カムィヤキ陶器、褐釉(かつゆ)陶器、沖縄産陶器が発掘されている為、かなり古い時代から「シルフチ森」は利用されていたと考えられています。なお、頂上の洞穴は天井に穴が開き竪穴が二手に分かれている形状から「チヂフギ/頂上穴開き」が「シルフチ」に変化したと云われています。「シルフチ森」は「惣慶集落」の墓の変遷や風葬などの習俗を考える上でも大切な文化財となっています。さらに「シルフチ森」の西側にも入り口の階段があり、他のガマを利用した風葬墓を確認する事が出来ます。(シルフチ森の西側入り口)(シルフチ森)(ガマの拝所)(ガマの内部)(シルフチ森の植物)(シルフチ森のガマ)(ガマ内部の石棺)(シルフチ森遺跡/シルフチムイ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.13
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(天願太郎治の馬クンジー石)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」に「天願/てんがん集落」があります。天願公民館の北東側に「天願太郎治の馬クンジー石」と呼ばれる岩があります。弓の名手として知られる「天願太郎治/ティングヮンたろうじ」は「天願グスク」の城主であった「後天願按司」の子息として誕生し、幼少期には「尚巴志/しょうはし」に仕えた武将の「護佐丸/ごさまる」により養育されました。「天願太郎治のクンジー石」は保存状態が良く、琉球石灰岩の岩には馬を繋いだとされる穴が現在も残されています。「天願集落」の東側にある米軍海兵隊基地「キャンプコートニー」の敷地内に「リーカムイ」と呼ばれる「霊化森グスク」があります。「天願太郎治」はこのグスクに居住したと言われており、森の中腹にはガマ(洞窟)があります。ガマの内部には左側にヒヌカン(火の神)、右側にはビジュル(霊石)が鎮座し、戦前まで旧暦9月には「ビジュル拝み」が行われていたと伝わっています。(天願太郎治の馬クンジー石の標識)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石のウコール)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石に空いた穴)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願集落のフクギ)(霊化森グスク/リーカムイ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.09
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(泉川泉/東り泉)沖縄本島中部「うるま市/旧具志川市」の金武湾に面した位置に「天願/てんがん集落」があります。天願公民館の東側に「泉川泉/イジュンジャーイジュン」と「東り泉/アガリイジュン」の2つの井泉が合祀された拝泉があります。向かって左側の「泉川泉」の泉名は姓「久保玉栄氏/屋号泉川」の屋敷の前に泉があった事に由来します。また「泉川泉」は「生ぶ川/ウブガー」とも呼ばれています。「泉川泉」に向かって右側には「東り泉」が合祀されており、別名「天願東泉/ティンガンアガリガー」や「村泉/ムラガー」とも呼ばれています。「東り泉」は「泉川泉」が枯渇後に天願川沿いに新設され大正末期まで村人に使用されていましたが、昭和58年の天願川河川改修工事の為に現在地に移設されました。(泉川泉/東り泉の標識)(泉川泉/生ぶ川の祠内部)(泉川泉のウコール)(東り泉/天願東泉/村泉の祠内部)(東り泉のウコール)「泉川泉/東り泉」の合祀拝泉の敷地内に「泉川泉/イズンザーイズン」と彫られた石碑が建立されています。この石碑は「天願老人クラブ清流会」により創立20周年記念事業として建てられ、向かって右側には『「汝よ此所は水が湧く」と示された先人たちは大きな授かりものとして凡そ四七〇年前に泉川泉を創設し地域の飲料水として広く利用されまた生ぶ川として高度の利用価値を示された泉として邑人達に尊厳され今尚其の遺風と伝来は区内外からも崇拝される等地域の方々が認めているところである。昭和六一年十月十四日建立』と記された石碑があります。また、この石碑には次のような詠が読まれています。『泉川の水や 滝山からか湧つら 生ふ水や邑に 繁栄むたち』(泉川泉の石碑)(泉川泉の石碑)(泉川泉の祠)(東り泉の祠)(泉川泉/東り泉の合祀拝泉)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.02
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