しあわせのかたち

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『新世紀エヴァンゲリオン』観覧記(1)



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 ちょっとした切っ掛けがあり、『新世紀 エヴァンゲリオン』のDVDを見ることになった。この作品がTV放映されていたのは10年前で、当時は巨大ロボットもののアニメなんぞ露ほどの興味もなかったのだが、まあ「ひとつの時代を作った」とまで言われるほどの情報ソフトであるならば、一度は見といたほうがいいかもしれない、と思って見ることにした。

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 エヴァを語る予備考察として、まず前エヴァ時代、というよりすべてのアニメーション作品における重要なメルクマールとなった『機動戦士ガンダム』について書いておきたい。

 ガンダムを考察する方法は多々あるが、ここでは「少年の成長の物語」としての側面を見てみよう。まずガンダムを家族的な意味合いで切り取ると、あまりにもわかりやすく、典型的な構造があることに気づく。

 主人公アムロを中心に、アムロ(の成長)に対する「役割」を分析するとすると、父ブライト、母ミライで、兄はシャア、姉はセイラ、弟がハヤトで妹がフラウであろう。家はホワイトベースである。同作中にはそれぞれ構造的に重要な言動があったりするのだが、まあそれはここでは置く。
 ここでは「そういやそうだな」と思っていただければいい。

 作中では、「少年」であるアムロは手にした武器ガンダムを持って「家」であるホワイトベースを飛び立つ姿が何度も象徴的に描かれる。当初不完全で不安定なアムロ少年はホワイトベースから出撃し、さまざまな外部と触れ合って成長していく。
 ガンダムの最終回では、それまでアムロ少年の心の拠り所であったガンダムが朽ち果て、それでも家族(ホワイトベースの乗組員)のもとに帰っていく姿が描かれる。「乗り越えるべき社会性」として振る舞う兄、シャアが、自身の社会的使命(ザビ家の排除)を果たして去っていくことを思えば、見事な大円団といえよう。


 さてそんな「成長の物語」である『機動戦士ガンダム』を、エヴァンゲリオンは強く意識しつつ始まる。

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<1話~4話>(DVD1枚目)

 いきなり疲れている。
 10年前のアニメって画面がえらく稚拙なんだよな。

 で、内容である。
 アムロが17歳という設定であるのに対し、エヴァの主人公碇シンジは14歳である。低年齢化は時代の流れか。共通点をあげるとすれば、どちらの主人公も「実父が作成した巨大ロボットに、本人が望まないまま」、パイロットとして乗り込むことになる。

 アムロ、シンジ両名とも自身の「社会的役割」に反発し、心身共に不安定になる点も同じ。「こんな役割はもうまっぴらだ」という意味のセリフは両主人公が両作品の初期にそれぞれ口にするが、シンジ君は葛城ミサト一尉に、アムロはセイラさんにビンタを喰らうのも象徴的だ。
(ガンダムではアムロの代わりにカイが引っぱたかれるわけだが、この違いはあまり重要ではない。作中カイは常にアムロの影として描かれる)

 両作品で大きく違うのは、「父性」の有無である。
 少なくとも1~4話までには、エヴァに「父的存在」は出てこない。
 父性とはすなわち「社会的存在」である。

「少年」の成長に欠かせない、社会性を体現する者。
 時に厳しく、特に暖かく、少年は社会に出るさいに社会との距離を測る基準となる者。ガンダムでは「軍人としてのブライト」であったわけだが、それがエヴァには存在しない。

 主人公の実父である碇司令は単なるロリコンの異常科学者(マッドサイエンティスト)である。社会性を体現するとはとてもいえない。


 見始めて初めて気がついたが、作中に「父性」が存在しないと、カタルシスがない。全編見た知り合いによると「エヴァには徹頭徹尾、カタルシスはない」と言っていたが、おそらくすれはこの父性の不在が大きく関わっているのだろうな、と思う。

 4話までで主人公は2体の「使徒」(敵役ね)を倒すが、そこに「正義が実践された」というカタルシスはなかった。「とりあえず危機は去った」という安堵感が残るだけである。


 人は何に触れたとき、正義を感じるのか。
 おそらくそれは父性、すなわち社会性と強くリンクしているのだ。


 探しものはまだ見つかっていない。
 続きは後日。「使徒」の目的も存在意義も、まだ作中では語られていない。
 主人公たちは「生き残るために」戦っている。
 使徒はなんのために人類を攻撃しているのだろうか。

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