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ここのところリアルに私事(サッカーW杯とか広義の女性問題とか)がバタバタしていて、更新どころじゃない日々が続いております。お暑うございますね。体調もグテグテになっているショータです。 まあ語っとくことはいろいろあるんだけど、最近自分も含めてなんか周囲が面倒なことになってるなあ、という印象が強いわけでね。忙しいと自分のなかで一番大切にしている「ぼーっとする時間」というのが奪われていく気がして、それはちょっとブルー。 エビバデ落ち着こう。まずぼーっとしよう。 ※ 身分不相応を承知で買った『美徳なき時代』(アラスデア・マッキンタイア著・篠崎榮訳/みすず書房刊)が意外に面白く読めている。活字が小さくて結構な大著だからちょっとずつしか読めないんだけど、「徳倫理学」という学問が非常に刺激的だということがわかって、満足している。 どういうことが書いてあるかというと、「正しい、ということってなに?」、「善いこと、っていうのはなに?」ということを考えていて、過去の偉大な思想家たちの論説を丁寧に紹介し、そこにマッキンタイア自身の決断(あえて「考え」ではない)を添えている。 いまのところ一番刺激的なのは、本書の冒頭にある「我々は考える筋道を失ってしまっていて、ただ結論だけを知っている状態なんだ」という指摘だった。 例えば私はいま、「明日の朝も太陽は東から昇る」と思っている。「なぜ昇るのか?」と言われれば、きっと地球の自転公転作用だとかあるいは天文学的観察結果だとかを使って、「ね、だから明日も太陽は東から昇るでしょ」という【推論】を述べるだろう。 ではまったく同じ命題を、「人を殺してはいけない」に置き換えるとどうなるか。 きっとかつては、物理法則と同じように「考える筋道」が用意されていた(「聖書にそう書いてある」とかね)。その筋道に沿って考えれば、「明日はも太陽は東から昇るでしょ」と同程度の、確度の高い【推論】が述べられただろう。 けれどいまは違う。 考える筋道は失われてしまった。 その材料すら残っていない。 それは例えば「それに至る公式」や観測結果が一切合切失われて、ただただ「E=mc2」とか、あるいは「太陽は東から昇る」と書かれた紙切れが手渡されている状態に等しい。 我々は「いつ、どこで、どのような契機で」、考える筋道が失われてしまったのかすら知らない。多くの人は「すでにいまは失われてしまっている」ということすら気づいていない。「私だって本当のところは気づいていない。私の状況設定が正しければ、原理的に気づけないことになる。だからこれは、推論を導くための推論でしかない」 そういうマッキンタイアの記述から、「徳倫理学」について語り出す。 正しいってなに? 善きことってなに? それを導き出す手段とは? いま我々が立っているのは、「物理公式が一切失われた世界で、太陽は東から昇る、ということを推論せよ」というような、大変ムチャな状況である。そのうえで「正しい、善きこと」を決めていく、ということなのだ。 難しいよね。 でもかなり刺激的だ。そして最後まで読める自信がまったくない。 あうー。 ※ それとはまた別に、山口県光市母子殺人事件に関して、一番なるほど! と思える文章に出会った。法哲学の助教授であるおおやセンセの論考である。<以下引用> では裁判とは何か。過去の痕跡である証拠と、過去への推測である証言をもとに、どのような出来事の連鎖を想定したらそれらがもっとも矛盾なく理解できるかを双方当事者が提案し、それをもとに裁判官がある特定の展開を「過去の事実」として権威的に確定するようなものである。出来事が因果関係によって結ばれた連鎖のことを、「物語り」(ナラティブ)という。裁判とは、過去を合理的な物語りとして理解し、再編しようという社会的な営みなのである。 <4月23日付け「引き続き原稿」より引用終了> ここにおいて注目しなければならないのは、「合理」の取り扱いである。 この場合の合理とは、「近代合理主義に照らす合理」、という意味だ。 我々はいま、タイムマシンに乗ることはできない。 過去に遡ってある事件について「あの時はどうだったの?」と見て帰ってくることはできない。 特に問題になるのは「殺意」だ。「殺そうと思って殺した」のか、あるいは「殺すつもりはなかったが、殺してしまった」のか、そんなことは殺人事件を犯した本人ですらわからない。(まったく同じことが「恋心」、「浮気心」にも言える)「証言」とはあくまでも、どこまでいっても、「過去への推測」なのだ。 では「わからない」我々はどうすればいいのか。 それでも社会生活を営んでいくためにはどうすればいいのか。「物語る」しかないのだ。「物語」を書き記し、述べ、主張し、最も納得できる(あるいは最も納得させられる)ことを選び取っていくしかないのである。 裁判は字義どおりの「真実」を探すものではない。 否、裁判においての真実とは、「合理で考えて最も納得できる過去の物語」を選び取っていく作業なのである。 私の探しものはまだ見つかっていないが、大変感銘を受ける記述に出会うと、自分が少しだけ賢くなったような気がして嬉しい。
2006/07/14
政治思想とか構造主義とかの話をするのが割と好きなのだが、世の中的には極少数派でしかも石持て追われる系の趣味であることを自覚しているので、オンライン上の友人以外には「マッキンタイアの徳倫理学においては、個人主義よりも共和主義が推奨されている」だとか、あるいは「後醍醐天皇と昭和天皇のあいだにある共通点と差異点の数は、俺とジョージ・ブッシュのあいだにあるそれと同等である。すなわち伝統とは本来量的に同等なものを質的に異質だと信じる信仰にすぎない」だとかいう変態チックな話題はしない。 つーかどっちかというと避けている。 そんな私だが社内にはこれまた極く少数ではあるが、こういう話がわりと好きな同年代の女がいて(単に無理やり私に合わせてくれているだけかもしれない)、で、仕事の合間にポコッと時間があいたのでメールでも打つことにした。件名:貴方が好きだと言っていたSubject:フィーゴ様の画像です。どぞ。 と書いて、添付でフーコーの画像を送った。 そしたら約2分後に。件名:ありがとうSubject:お礼にネドベド様の写真をお送りします といって戻ってきたメールに貼付されていたのはポルポトの画像だった。 1文字も合ってないのにこの敗北感はなに? 探しものは見つかっていないが、自分より頭がいい人にからかわれるのは、まあ楽しい。
2006/07/01
本日は日本対クロアチア戦です。 正直時間がないので、今日はこの先書こうと思ってた(たぶん半分以上は書かない)ネタをヘッドライン(別名手抜き、もしくは備忘録)でお届けします。●大石英司のブログ(とコメント欄)で、「医師は聖職か?」というようなやり取りがヒートアップしていてかなり面白い。おそらく本物の小児科医(他の医療分野より仕事がキツい)がコメント欄に登場し、「私が気に入らないんだったらよその病院に行ってくれ」というような発言をしている。●医者には「応召義務」という法律があって、初診患者を断わることができない。いっぽう患者は「自分がかかる医者」を選ぶことができる。医療行為を「医者と患者の契約」だと考えると、これはかなり不均衡な状態だ。●自由主義経済市場において、「売り手」(この場合は医者ね)が「買い手」(この場合は患者)を選ぶことはどこまで許されるのか? またその経済原則は医業(特に小児科や救急救命)にも当てはまるのか?●もちろん医者には「医者を辞める自由」がある。その待遇、境遇が気に入らなければ医者を辞めればいい。ただコトはそう単純じゃなくて、医療業務の多くが3Kであることは最近広く知られているところであり、医者数が不足したり優秀な人材が医業に集まらなくなったら困るのは結局ユーザー(患者、っつかほとんど日本国民全員)だというね。 ※●そのコメント欄で拾った聖書からの引用。<「マタイによる福音書」第10章34~39節より以下引用開始> わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。 こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。<引用終了> キリスト教が新興宗教だった頃の、キリストの言葉ですな。 大変深みのあるお言葉です。 ※●西欧における「近代の発生」と宗教改革は切っても切れない関係にある。それまで「信仰」とは神父や教会からの教えを信じることであった。しかし宗教改革以降、人は自分で聖書を読み、自身の内面の神と対話するようになった。ここに「個人」の発生起源がある。●例えばドイツ語の起源は、それまでラテン語(聖なる文字であり一部の人間にしか理解できないところに意味があった)でしか記されていなかった聖書を、ルターが当時ザクセン地方の方言であった言葉に訳したところにある。●上記が言語の統一による近代国家の萠芽である。 ※●当たり前の話だが、前近代には、近代小説というものは存在しなかった。あったのは「詩」か、もしくは「物語」(戯曲含む)、あるいは「随筆」である。では「物語」(戯曲)と「近代小説」とはどう違うのか? ものすごく乱暴に言えば、ひとつの文節における長さが違う。●中世以前、ひとりの主人公が(例えば『龍馬がゆく』だとか『大菩薩峠』のように)数百万字以上に渡って活躍し、成長(堕落)していく物語は存在しなかった。●重要な要素として、製本技術が未発達だったから、そんなに長い書物をぽんぽん作ることができなかった(国家の正史などは国家(王家)予算で作成可能)ということが挙げられる。●しかもさらに、「近代小説」の誕生には自己同一性と階級社会に強く関わるようだ。どうかかわるかは未考察。●「じゃあ源氏物語とかはどうなんだ?」というご意見もあろうかと思われる。源氏物語を始めとした前近代の物語は、すべて章(源氏物語は帖)が細かく区切られていて、単章だけでも閲覧可能。つまり「ひとつの長い物語」というよりも「一章ずつの個別の物語の集積」と考えるのが妥当。●どういうことかというと、中世以前の物語はだいたい「名画を集めた美術館」のようなものだと考えると理解が早い。名画はその一枚だけでも観賞可能。●ちなみに聖書もそういう個々の章で独立可能な構成だ。●例えば源氏物語だと『蛍』の帖とかね。絵画的で幻想的。「源氏物語」という一連の作品では存在しなくてもいいエピソードなのに、メチャクチャ美しい逸話。当時の長い「物語」とは、こうした美しかったりおかしかったりする「章」の集積なのだ●<『蛍』の帖ストーリー>光源氏は養父となった玉鬘の婿探しに苦心する。そんな時、源氏の腹違いの弟で妻を亡くしたばかりの兵部卿の宮が尋ねてくる。源氏はさっそくふたりを引き合わせるが、玉鬘は御簾の向こうにおり、夕暮れどきで暗くて兵部卿からは玉鬘の顔が見えない。兵部卿はあれこれと喋ってみるが、玉鬘は終始無言。隣室でそれを察した源氏は(玉鬘は美しく、兵部卿が見れば惚れると確信していた。なにせかつて源氏も養父のくせに惚れたほど)、御簾のなかにそっと蛍を放つ。 蛍の光で御簾の向こうにふっと浮かび上がる美しい玉鬘。 その蛍を見て(自分が兵部卿から見られている、とは気づかずに)玉鬘が手すさびに一句。 声はせで 身をのみ焦がす蛍こそ 言うより勝る 思ひなるらめ(声を出さないで身を焦がしてばかりいる蛍のほうが、貴方様(兵部卿)のように声に出しておっしゃるより、もっと切ない思いなのでしょう) こ れ に 惚 れ な い 男 が い る か この時22歳と(当時としては)けっこうな年増だった玉鬘に、この一撃でバッチリ惚れる兵部卿。この日以降恋文を送りまくるが、結局フられる。●なお中世文学上「玉鬘」とは女性の毛髪の美称辞。また、髪は勝手に伸びていくことから、「どうにもならない運命」なども指していた。源氏物語の作中、柏木などの二枚目からも思いを寄せられるが、突然さえないバツイチのオッサンである髭黒大将と結婚してしまう。数奇な運命を辿ったこの美しい女性に「玉鬘」と名づけた紫式部のセンスったらもう! ※●今日の日記はだいぶ脈絡がない。●まあいいか。探しものは見つかっていない。
2006/06/18
この5月24日に発売された『an an』のセックス特集号が凄いらしい。 私も噂には聞いていたが、さっき友人が「いま付属のDVDを見たが、えらいことになっている」と興奮して報告していった(暇なヤツである)。 聞けばAV女優の夏目ナナが「多くの女の望むセックス」を演じていて、まんまAVであるという。見てきた友人によると、セックス中のキスが多いこと、お互いの体をすり合わせることが多いこと、という点が男が見るAVと違うポイントで、あとはほぼAVだという。 公式サイトには「人気AV女優の夏目ナナさん主演で、女性が楽しめる内容を目指して撮り下ろした、約35分の力作です。彼と一緒に観るもよし、こっそりと一人で観るもよし、めくるめく愛の世界にぜひ触れてみてください。」とあった。 このDVDは『an an』が読者アンケートを集計して、「こういうセックスがいい」というほぼ純度100%の女性意見から構成されているそうだ。そういう視点からのセックス映像というのは大変興味ある。貸してくれ~、と頼んだ。 ええと。 セックスというのは非常に「閉じていく傾向の強いコミュニケーション」であるから、例えば付き合っている者同士、結婚している者同士は、なるべくお互い「こうしたほうがいい」とか「こんな方法はどうだろう」とか、話し合ったほうがいいと私は思っている。 セックスの快楽は形而上(精神)の要素も強いが、形而下(技術)の要素も強いからね。 世間一般的には「優しさ」だとか「気遣い」だとかいう精神論で語られがちだが、私は経験的に、精神と技術のプライオリティは半々、自動車の左右輪のように、どちらも備わっていなければ前には進めないと思っている。どちらか片方が速く回り過ぎると、あらぬ方向に曲がっていく。 しかもやっかいなことに、セックスは身体に直接的に関わることだけに、個人差が大きい。足並みを揃えて順調に前に進みたいと思うのなら、それぞれの好みを告解し合うのがいい方法だろう。 少し前に古い女友達とバーで飲んでるとき、「ちょっと聞いてよ、彼氏のセックスがもう下手で下手でねえ、ホントあたし、セックスが嫌いになってきて、もう一生しなくていいかなぁ、と思ってるの」と言われたことがある。そこまで思い詰める前に、「こうしてみようよ」だとか「こういう方法のほうが気持ちいいのに」と話し合えばよかったのに、と私は言ったが、もう手遅れっぽかった。 一度嫌いになってしまうと、(恋人関係がそうであるように)修復は難しい。 こういう雑誌(DVD)が、そうした異性との話し合いを持つキッカケになればと思う。 ただ面倒なこともあって、多くの女性、それもマジメで「いい女性でありたい」という女性ほど、そういう「気持ちいいセックスのやり方」の話を忌避する傾向にあって、自己抑制も強くなり、自分の意見を抑圧することになる。 そしてこの自己抑制は「恥ずかしい」という心理機制に強く関わることであり、かなり多くの男が、というよりこの社会全体が「あったほうがいい」と思うものだ。私も恥ずかしがる女性は大好きです。ああ聞いてませんねそうですね。 マジメでいい女ほど、悩みが深くなる、というこの悲しいスパイラル。 話し合いはしたほうがいい。けれど「恥ずかしがる」という心理機制はあったほうがいい。 このアンビバレントな2つの要素は、セックスを奥深いものにする、と思っている。 その点で、こうした週に60万部も70万部も売れてしまう、書店やコンビニで大々的に並ぶマスメディアの「セックス攻勢」には、なんだかなあ……、攻めすぎだよなあ、と思ってしまうわけで。 結論を言うと、早くDVD見たい。 探しものはまだ見つかっていないが、下半身的にはそれどころではない。
2006/06/17
サッカーW杯への熱狂を見ながら、まったく別のことを考えていた。 ※ 珍しく、読み終えたばかりの『ヘルメットをかぶった君に会いたい』(集英社刊/鴻上尚史著)を読み返している。いや面白いんだって。 本の帯には「これは小説です!」(つまり「フィクションです」ということ)と大きく書かれているが、鴻上のエッセイに何度か出てきたエピソードが何度も登場する。どこまでがフィクションでどこまでがドキュメントかも、この作品を楽しむポイントだろう。 主人公の「僕」はある日の深夜、60年代の歌謡曲を集めたCD集のTVCMを目にする。そこには資料映像として一瞬だが、主人公の母校である早稲田大学の校舎と、その入り口で学生運動への勧誘をする女性が映る。 ヘルメットをかぶりながらアジビラを配る女性の、その微笑みに魅せられて、演出家である「僕」はさまざまなツテを辿ってその女性を探すというストーリーだ。 作中には「60~70年代に日本の若者たちを覆った、学生運動とはなんだったのか」という考察が繰り返される。それは著者の鴻上や私自身も含めた「遅れてきた者たち」にとっては絶対に体感できない、共感することも難しいムーブメントだったのか。 おそらくたぶん、当時学生運動に身を投じていった若者たちにとっては、「政治」とか「国家」とか「思想」とか、あるいはもっと大きく「時代」だとか「世界」だとか(あるいはもっと小さく「日本」とか「戦争」とか)、そういう今となっては抽象的でボンヤリとしか理解されないものが、もっとずっと具体的で身体的で、手を伸ばせば届くものだと思えていたんだろうな、と思う。 喩えるならそれは、今、日本代表のユニフォームを来て、顔に日の丸をペイントした若者が「日本がんばれ!」とモニターに叫ぶとき、彼らにとって「サッカー」だとか「代表選手」だとかが、すごく身近に感じられるのと近いんじゃないか。 いま、何を「リアル」だと感じるか。 これはそういう話なんじゃないかと思っている。 もちろん当時「思想」や「国家」や「政治」に熱狂していた若者が、いま「サッカー」だとか「日本代表選手」だとかに熱狂するというのは、どちらが悪いだとかいいだとかいう話ではないだろう。いやどちらかというと、サッカーに熱狂しているほうが平和で温和でいい世の中なのかもしれない。 ベトナム反戦運動に命を賭けるよりは、4年に一度のサッカーの祭典に踊り狂うほうがいいに決まっている。どんなにドップリ浸っていたって、サッカーなら引き返すこともできるし傷も浅いだろう。 そういう確信がある上で思うのだけど。 どうも若者たちが熱狂する対象というのが、どんどんどんどん具体的で身近で「わかりやすいもの」になっているのは気になる。 いやもしかしたらこれは、「最近の若者はバカになってきている」という、そういう簡単な話なのかもしれない。「思想」より「サッカー」のほうがわかりやすい。「自分はいま感動している!」ということが、より身体的に、簡単にわかる。『資本論』より『ゴーマニズム宣言』のほうが手軽に読めるし、ゴダールの撮った映画よりハリウッドのドタバタ劇のほうがわかりやすい。どれも「物語」という点では同じだ。同じだけども、資本論やゴダールはわかりにくく、一応深みがあるとされている。 ああそうか。 たぶんこれは、若者が変わった、という話ではないんだろう。 それぞれが享受する「世界」のほうが、複雑怪奇でわかりにくくなっているんだと思う。先が見えなくて、暗くて、苦しくて、辛くて、面倒で、正誤や善悪の基準が壊れ切った世界だからこそ、物語くらいは「わかりやすいもの」が求められているんだな。きっと。 近代が成熟しきった。 そう言うと簡単なんだけども、悩み苦しむ人に処方箋を作るには難儀になっていると思うし、たぶんこの流れはもうこの先ずっと止まらないだろう。 探しものは見つかっていない。 いやまあ、バカでいいし、バカは楽しいんだけどね。
2006/06/14
いよいよ明日はサッカーW杯日本対オーストラリア戦である。 W杯とは何か?というと、それを定義する言葉はいろいろあるが、まあ一般的で有名な言葉を借りればそれは「お祭り」である。お祭りは単に見ているだけよりも、参加したほうが楽しいに決まっている。 そんなわけで本来であればスタジアムに行くべきだし、それが無理ならスポーツバーやモニターのある居酒屋かなんかで盛り上がるのが一番楽しいし、正しい姿だと思う。 4年前、私は池袋のスポーツバーでベルギー戦だかを観戦したのだが、店全体が一体となった感じになり、見ず知らずの人と抱き合ったり大声を掛け合ったりして、えらく楽しかった。帰路ではそれこそ意味なく通行人とハイタッチ。 ナショナリズムの原点がここにあるんだなあ、なんて思っていた。「個」が溶ける感じね。 最近話題になっているネット上の「炎上」なんかも、これと関係あるんだろうなあ、なんて思う。 とまれかくまれ、私のこれまでのサッカー観戦経験から冷静に分析すると、日本代表の戦績予想は三敗で予選落ちである。贔屓目に見ても1敗2分けだ。 しかし世界的なお祭りに、国を挙げて盛り上がろうというとき、「どーせ勝てないんだから盛り上がってもしゃーない」なんて言うのは、人生の楽しみ方がわかっていない愚か者なのである。 蓮實重彦は「サッカーの魅力は?」と尋ねられ、「精緻に構築されたシステム、文明、文化、構造が、野蛮で無規範な暴力によって砕け散るところ」と答えている。 オーストラリアは強い。クロアチアも強い。ブラジルなんざ世界一である。 10回戦ってその勝率を競うのであれば、間違いなく日本はズタボロに敗れるだろう。 しかしサッカーは受験勉強ではない。 W杯は出世レースではない。 サッカーW杯で代表を応援する時だけは、冷静な分析なんぞクソ食らえなのである。勝ってくれ。頑張れ。俺がついてるぞ。 明日はビール片手にモニターに向かい、酔っ払いながらそう叫ぶのである。 うむ。まことに正しい姿だ。 探しものなんぞどうでもいいのだ。
2006/06/11
(問)13個の宝石があって、そのうちひとつだけ偽物が紛れ込んでいる。 偽物は「重さ」だけがわずかに本物と違う、ということだけがわかっていて、それが本物より軽いか重いかはわかっていない。(本物はすべて同じ重さとする) ここに「どちらが重いか軽いか」を計る「天秤ばかり」がある。 これを使うと、最小何回で偽物を特定できるか? その方法も併せて答えなさい。 今年、中学1年になる従兄弟の娘さんから今朝突然電話がかかってきて、「いま教室で話題になってるんだけど、わかる?」と聞かれた。 職場で電話を受けて、メモ用紙片手に30分ほど呻吟。 3回だ。 検算にそれからもう30分。<以下、若干ネタバレ><1回目が釣り合わなかった場合> 軽い 重い 未計測(本物確定) ○○○○ ●●●● ◎◎◎◎◎ ↓(2回目) ? 本物確定 余り|○○●●●| |◎◎◎◎◎| ○○● <2回目が釣り合った場合>(3回目) 「余り」から 本物確定 |●○| |◎◎| →「余り」が重ければ「●」 軽ければ「○」 釣り合えば、「余り」のうち使わなかった「○」<1回目に釣り合った場合>(2回目)「未計測」から 計測済み(本物確定) 疑惑の余り |◎◎◎| |●●●| ◎◎<ネタバレ終了> こんな感じで、乱雑に書かれたメモ用紙を写メで撮って従兄弟の娘さんに送る。 しばらくしてから、「ショータ君、すごーい! クラスのみんなに自慢しちゃった!」という電話連絡が入る。最近の女子中学生って、休み時間にケータイかけてもいいのな。 いやー、今日もいい仕事したなー。 若干いい気分になったものの、今日は仕事のミスが発覚したので昼一から某社に謝りに行ってきます。もう平謝りね。ははは。泣ける。 探しものは見つかっていない。 マジでもう大人とか嫌。
2006/06/06
5月29日付けの日記に書いた不倫してる会社の女の子の話。 一昨日かな? 夜中に電話がかかってきた。「相手の男から電話があって、奥さんにバレた、と」。 女の子は「あ、これで終わりか」と思ったらしいが、相手の男は「嫁さんには不倫の相手とは別れる、と言った。でも別れたくない。会える機会は減るけど、関係を続けたい」と言っているらしい。 それで「どうしよう」という話だった。 どうしようもなにも、あからさまに「そんな男とは別れろ別れろ」と言ってほしがっているので(そもそも私に相談すること自体、そういう意図があると思われ)、期待通り「そんな莫迦男とはとっとと別れなサイ」と言った。 ただどうなんだろうね。 ちょっと熱心に別れを薦めたことを、いまは少し後悔している。「しあわせ」ってなんだろうね。 相手の男と私は、なぜか今月末のあるパーティで同席することになっている。 相談を受けた女の子はもちろん来ないわけだが、「知らないふりしててね!」と私は頼まれている。 さて、どうしたもんかね。 ※ 内田樹著の『態度が悪くてすいません』を読んでいて「あー」と思った話を少し。 現代文で書かれる「幸せ」という単語の語源は、「仕合わせ」、もしくは「為し合わせ」だと言われている。まあ能や狂言でよく出てくるし、国語の時間に習った方も多いのではないか。「仕合わせ」とはどんなものかというと、「あるものAと別のあるものBが出会って(出会わせて)、ピッタリといい具合に収まること(収めさせること)」である。 本来別々の「もの」や「人」同士が、「合う」ことによって丁度いい具合になる。その状態を「仕合わせ」と呼び、そこから転じて「幸せ」という言葉になった。 狂言の題目『末広がり』は、ある日「末広がりを買ってこい」と大名から命じられた冠者が、「末広がりってなんだ??」と思いながらも京で「末広がり屋(実は田舎者を騙そうとしている悪者)」に出会う話。 大声で「末広がり屋はおらんか」と言って回る冠者の前に「それがしは、末広がり屋でござる」と悪者が現われると、冠者は「それは仕合わせなこと」と答えている。「モノを探す人」と「そのモノを売りたい人」が、幸運にも道端で出会ったこと、「ぴたりといい具合に収まったこと」を指しているわけだ。 現代では「幸せ」は英語の「lucky」に近い、状態や心理を表わす言葉として使われるが、本来は「仕合わせ(る)」という他動詞的な使い方を含んでいた。「しあわせ」とは本来、偶然やってくることもあるし、求めて引き寄せることもできる(引き合わせる)ものなのである。 歌謡界の天才中島みゆきはかつて、『糸』においてこう書いた。♪縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない 縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます♪ きっちりと本来の「しあわせ」の意味を踏まえており、中島の仕掛けには毎度「さすが」、と唸る。最近ミスチルがカバーしたそうだが、そちらの歌詞カードではどうなっているのだろうか? ※ 私に不倫の相談を持ちかけてきた女の子の望みは、おそらくただ話を聞いてほしかっただけなのだろうと思う。愚痴をこぼしたり、自分の決心をほんの少し後押ししてもらうこと「だけ」を期待しているのだろう。 うん。そんなことはわかっている。 けれど。 私はかつて、「誰かを宗教から本気で脱退させようとするならば、別の誰かの人生がもうひとつ必要だ」と書いた。脱退させようと願うならば、その願った者は、自分の人生を懸ける覚悟が必要なのだ。「そんな男とは別れちまいなよ」と電話口で言う私には、もちろん相手の子のその後の人生を背負う覚悟も権利も能力も資格もない。そもそも背負うつもりがない。矮小な私は、ひとりでとっくに手いっぱいだ。 しつこいようだが、そもそも相手の子は、そんな覚悟なんか持たれたら困るんだろうけどね。 けどね。 相談者も回答者も、いろんなことに無自覚すぎるんだよね。それはきっと、私の自意識過剰な恥ずかしい妄想なのだろうけど。 もしも「恋愛力」というものが人に備わっているのならば、それはこの「自意識過剰」を長く持ち続け、恥ずかしい「誤解」を「誤解ではないかもしれない」と思い続けられる力のことなんだろう。 探しものは見つかっていない。 私はその子の仕合わせを願っております。願ってるだけです。 それは自分では彼女を「幸せ」にはできないから、余計強く願うんだろう。 それに今は、やっぱりとても「仕合わせ」とは思えないんだよね。 あー、無責任だなあ。
2006/06/02
例えば幼少から青年期にかけての頃、自分のなかの感情で、モヤモヤウズウズした「なんだかよくわからない思い」、「どうにも名付け得ぬ感情」が渦巻いたことはないか? 気になる異性のことを考えた時。 教師に理不尽なことで叱られた時。 名作と言われる小説を読んだり映画を見たりマンガを読んだりした時。 親の言動がどうしても許せないと思った時。 友人に裏切られた時。 可愛がっていたペットが死んだ時。 どうしてもやらなければならない勉強をしている時。 意味なく叫んでみたり、体を動かしてみたり、「この感情はどういうものなんだろう」と考え抜いても、結論はでたようなでなかったような。 多くの人はそんな「名付け得ぬ感情」があったことさえ忘れて、大人になる。 あるいは論理的であろうとする人間は、その感情の「名前の不在」に耐え切れず、「これは“恋”だ」「これは“怒り”だ」「これは“感動”だ」「これは反発”だ」 と、自分のそれぞれの感情を、社会一般によく言われているような、「誰でもが感じるであろう思いの名前」に当てはめ、「そうか、これは恋だったのか」と納得する。 けれど、それは本当に恋なのか?(byドルバッキー) 世間一般的に言われる「恋」という感情や、それにともなう言動。 これに自分のなかで生まれたモヤモヤした感情。 このふたつがピタリと一致することは、有り得ない。一緒であるはずがない。 ある人は「あの異性を抱きしめたい」と思い、ある人は「傷つけたい」と思い、ある人は「見守りたい」と思い、ある人は「忘れたい」とさえ思う。形態も大きさも質もまったく違うそれぞれの「モヤモヤとした感情」を、「それは恋だよ」などと乱暴に括っていいはずがない。 一緒であるはずがないふたつのものが、なぜ一緒になるのか。 それは自身が持つ感情を、人が積極的に「世間一般的に“恋”と呼ばれる感情」にすり合わせるからだ。 なぜそんな「すり合わせ」をするのか。「名付け得ぬ感情」は「わかりにくい」からである。「恋」や「怒り」や「感動」という名前をつけて、「わかりやすく」したい。「伝えやすく」したい。 人間は自身の感情であれ事象であれ事件であれ物体であれ、いま目の前にある「名付け得ぬもの」を、そのままにはしておけない生き物なのだ。 これが構造主義的記号論のキーコンセプトである。「わからないもの」を「わからないまま」にしておくのは難しい。「わからないまま」にしておくことは、実は知性の働きによるものだ。 少年はなぜ少女を殺したのか? 妻はなぜ夫を捨てて逃げたのか? 男はなぜいきなり包丁を振り回して無関係の人を傷つけたのか? 世に起こる数多くの事件、事象を、人はなんとか「わかりやすく」しようとして、理由付けをする。それは恋か、痴情か、病気か、社会悪か。なにがしかの理由をつけずにいられない。理由をつけて、既存の概念に「すり合わせよう」、「押し込めよう」としている。 9.11テロの時、「いま、本来はわかり得ないことを、“私にはわからない”と声に出して言う知性が求められているのではないか」と書いたのは蓮實重彦だった。この「わからないままでいる」という態度を知性と呼ぶ思想が、ポスト構造主義の考え方である。 ちなみにそのポスト構造主義を、私はよくわかっていない。 この説明で、説明しきれているとも思えない。 ポスト構造主義は「それでいいのだ」とバカボンのパパみたいに言う。 わかんねーなー。 探しものはまだ見つかっていない。
2006/05/31
『君が代』の替え歌がネットに流布しているらしい(ソースはここらへん)。 産経新聞は若干お怒りのようだが、阿呆か? 内心の自由は縛れないし、そもそも誰も、縛ろうとすら思っちゃいないだろ。「国家は殺人を強いるものだと伝える歌だ」についちゃ荒唐無稽としか言いようがないよ。当たり前のことなに今さら言っちゃってんだ。国家は国民に、納税や勤労を強いるのと同じように、殺人を強いる。当然だろが。死刑執行官や法務大臣や裁判官をなんだと思ってるんだ?? 近頃の教師って、「近代国家が殺戮を担うシステムであること」、「暴力を集中管理するシステムであること」すら教えてないの??? 国歌や国旗に敬意を持て、と主張すること自体がすでにして内心の自由の侵害であり、原理主義信仰者による戯言だ。これは「愛国心教育」についての教育問題についてもいえることだが、学校で「愛国心」を教えるなんてこと自体、私はバカバカしいと思っている。「愛国心について」ならまあ許容範囲なんだけどね。 教育者にできることは、せいぜいが「敬意を表すこと/敬意の表し方」だ。 それ以上のことを教えようとするのであれば、それは職務を超えた不当な干渉であり、それすら教えられないなら職務怠慢である。 ※ 昨夕、長いこと仲良くさせてもらっている友人の女性と話していた内容なのだが、「世の中には恋愛のルールを破りたくても破れない人と、守りたくても守れない人がいる」という話について少し。 ※ 友人の女性は上記の基本路線に同意しつつも、「恋愛のルールってなんですか?」という質問を投げ掛けてきた。私はそれを「性規範だと思う」と答え、友人は「それは社会通念ではないか」と重ねた。 まあ正直申し上げて私にとってはその「恋愛のルール」が、規範であっても社会通念であってもどちらでもいい。多くの人々に「無軌道な恋愛は許されない」という認識があればよいと考えている。 けれどどうだろう。 友人の女性との話しで、最後まで決着がつかなかった問いのひとつに、「恋愛の始まりには理由がなく、終わりには理由がある」という沙翁の命題(確か『ロミジュリ』)についてのやり取りがある。 いま思い返すに、正確には「(恋愛の終わりには)理由が必要」だったかもしれない。むう。ちょっと意味が変わってくるな。まあいいや。 私はそれは、沙翁が吐いたペテンであり、「恋愛には始まりだって理由がある」とし、「それは恋愛者が弱ってハードルを下げていることだ」と答えた。友人の女性はそれに対し、「そんなことはすべての関係性で起こることだがら、勘案すべきではない(恋愛の理由として顧慮すべきではない)」と返した。 人間、生きていれば誰だって「心が弱る」ということはある。 不意に、つまんないことで、あっという間に、心は弱る。 風邪で寝込んでいる時に介抱してくれた異性にコロッとまいってしまうことがよくあるように、この「心の弱り」は体調にも非常に強くリンクしている。 けれど私は、(体調があるていどコントロール可能なのと同じように)この「心の健康状態」もあるていどコントロール可能だと思っている。人は見たいものしか見ない。信じたいものしか信じない。それと同じように、恋したいと思うから恋するのだ。 なに? 無意識は自意識下では制御不可能? そこのフロイト、ちょっとこい。説教してやる。テキトーなこと言うな。 私は近代思想史に燦然と輝く仕事を為した、大天才のジグムント先生より自分の経験を信じる。 恋心はコントロール可能だ。 自分を厳しく律することで、「この恋は許されざるものだ」と、想いを断念することはできる。 そう確信することで初めて、いや、そう思い込むことでしか、恋という不当なインベーダーに人が立ち向かうことはできない。 つまんない男に引っ掛かるなよ。 そいつはただのペテン師なんだよ。 そういう心の叫びを、何度吐いたかわからない。 恋愛はフェアであるべきだ。 そうでないと私だって、ズルのしがいがない。
2006/05/30
かつてウチの会社で働いていたバイト君の親御さんが、オレオレ詐欺に引っ掛かったそうだ。「貴方の息子さんが○○○(当社名)で働いている時に、120万円の負債を作った。今日中に振り込まないと訴えざるを得ない」という電話が掛かってきたそうだ。 このご時世にそんな典型的な手段でまさか、と思うなかれ。 そういう油断がオレオレ詐欺の蔓延を生む。 ※ 政治思想や運動について、ものすごく抽象的なことを考えている。 どれくらい抽象的かというと、「モダニズムの終わり」について思いをはせるくらいボンヤリとして実態のないものを想定している。 ※ 山本義隆という人物をご存じだろうか。 元東大全共闘議長であり、アカポスを持たない孤高の物理学者であり、教育者だ。 いま、この人物のことを少し調べたいな、と思っている。 1960年代後半に沸点を迎えた、全共闘運動の頂点にいた人物である。 ある作品や思想的イデオロギーや宗教や、あるいはある人物そのものの価値評価というのは、それを見る人それぞれ見方によってずいぶん変わるだろう。 私の場合は「その終わり方」というもののに、かなり影響を受ける。 物語を紡ぎ始めるというのは、意外と簡単だ。 試しに小説なりドキュメンタリーなり、自身の好きな方法で「物語」を書き出してみればわかる。原稿用紙にして1~2枚であれば、それなりのものは誰でも書けることに気づく。 それすら無理だ、という場合には、自分の人生について書いてみればいい。感動した場面、辛かった場面、泣いた場面。人間関係から時代背景まで書き連ねれば、誰だって(重ねて書くが、400~800字くらいまでなら)それなりに面白いものができるだろう。 しかし書き出したその「物語」を収束させ、読み手(それは書き出した自分自身も含まれる)に納得させるかたちで完結させるためには、相応の技術と経験と、知識と知恵が必要となる。「全共闘」という、ある時代を代表するイデオロギー的事件は、いったいなんだったのだろうか。それはどんな物語だったんだろうか、と考える時、私はその終わり方について大きな感銘を受けた。 ※ 1960年代中盤、京大基礎物理学研究所に国内留学していた山本は、母校の全共闘運動に参加すべく、研究生活を放り出して東京に舞い戻る。当時の京大物理研究所所長、湯川秀樹は山本の物理学における知性を惜しみ、涙を流して止めたそうだ。 山本が全共闘運動に参加したことは、日本物理学会における大きな社会的・学問的損失である、と語る人もあるという(03年、物理学論文『磁力と重力の発見』でパピルス賞、毎日出版文化賞、大佛次郎賞受賞)。 1969年1月、安田講堂陥落時点で逮捕状が出された山本は、同年9月の全国全共闘連合結成大会で警察当局に逮捕。その後、学生運動は度重なる組織分裂と対立、内ゲバにより急速にその勢いを失っていく。 内田樹に拠れば、1974年の冬、全共闘運動が沸点を超えて飽和し、急速に冷め「シラケ」が覆い尽くした東大キャンパスにおいて、安田講堂事件を指揮した山本義隆は、たったひとりで全共闘の最後の立て看板を片づけていたという。<以下引用開始>痩せて疲れ果てた山本義隆が1974年の冬、東大全共闘最後の立て看を片付けているとき、彼の傍らにはもう一人の同志も残っていなかった。冬の夕方、10畳敷きほどある巨大な立て看を銀杏並木の下ずるずるとひきずってゆく山本義隆の手助けをしようとする東大生は一人もいなかった。目を向ける人さえいなかった。法文一号館の階段に腰を下ろしていた私の目にそれは死に絶えた一族の遺骸を収めた「巨大な棺」を一人で引きずっている老人のように見えた。東大全共闘はひとりの山本義隆を得たことで「棺を蓋われた」と私は思っている。<内田樹の研究室 「政治を弔うということ」より引用終了> 学生たちが占拠した安田講堂が、8500人の機動隊により陥落する直前の69年1月19日午後5時50分、安田講堂防衛隊長の今井澄は「最後の時計台放送」を敢行する。われわれの闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん。われわれの闘いは決して終わったのではなく、われわれに代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時、この放送を中止します。 この放送のわずか5年後の74年冬に、山本義隆はどんな気持ちで、たったひとりで立て看板を片づけていたのだろうか。それは思想の葬送の儀式として、まっとうなものだったのだろうか。 陥落以降、現在までの37年間のあいだ、東大安田講堂から、学内解放を願った学生の声が響いたことはない。 ただひとつわかるのは、全共闘という思想運動は、聡明で偉大な頭脳を持ったひとりの科学者が、その幕引きを背負ったということだ。 いつか、現代の趨勢を握るモダニズムという思想が死んだ時、あるいは当世流行りのプチ・ナショナリズムが死を迎える時、たったひとりでその看板を片づける、思想の死を我が身一つで引き受ける「現代の山本義隆」を生み出すことができるのだろうか。 そんなことを考えている。 探しものは見つかっていない。 こんなことに拘泥していると、いよいよモテなさそうだ。あわわどうしよう。
2006/05/26
エヴァ関係の日記をフリーページに移す。 続きはそのうちこっそりアップします。 ※『ダ・ヴィンチ・コード』(映画版)を見た。 間延びしすぎ。 小説版の長大なエピソードを無理やり詰め込んだので、切迫感がない。かといって原作にある数あるウンチクを噛みしめるヒマはない。『24』のように長いTVドラマ方式にしたほうがよかったのではないか。 あと、主人公のラングトン教授とヒロインのソフィーのラブロマンス的な部分はバッサリカットされていた。まあそれは別にいいんだけども。 ※『人間は考えるFになる』(講談社刊・土屋賢二×森博嗣対談)読了。 お茶の水女子大の哲学教授でエッセイストのツチヤ教授と、ミステリー作家で元名大助教授の建築学者、森博嗣との対談本。どちらもキャラクターが立っており、ふたりの持ち味がよく出ている対談。両方の作品をそれぞれ2冊以上読んでないと退屈だろう。私は両方読んでいたので、まあそれなりに面白かった。 どちらも知性が高く切り口が独特なので、シリーズ化して時事ネタなんかを語らせれば毎回読むと思う。ただ問題は、たぶん与えられたネタについてそれぞれ別々に書いたほうが面白いだろう、ということだ。 対談じゃなくて往復書簡みたいなかたちのほうが、両者の知性が生きると思う。 あとタイトルが見事。ファンならクスリと笑える。 ※ 会社の庶務の女の子と昼食。 髪の毛がだいぶ伸びていたので、会社の近くで評判のいい美容院の場所を聞いた。いくつか教えてもらったが、どこもイマイチとのこと。仕方がないので理髪店に入り、まあそれなりにダサい髪形になる。 気になったのは、食事中の女の子との会話。「既婚男性は全員、つねに愛人を欲しがっているはずだ」と言われたので、「んなわきゃーない」と返したらえらくショックを受けられた。俺がそんなに愛人を欲しがっているように見えたのだろうか。 話の流れで今度、庶務軍団の飲み会に男子代表として参加することに。 むうううう。団交の危機。糾弾されてしまうのだろうか。 探しものは見つかっていない。(「男」とはそういうもんだ、という)それなりに強固な信仰を持った三十路前の独身女性4人を相手に、カッコをつけつつ説得する自信はもちろんない。しかしこれは自身の教義を掛けた聖戦だ。頑張れ俺。祝福を俺に。
2006/05/25
忙し過ぎてネットの逃避中。あかん、仕事終わらな過ぎて壊れてきた。 以下は4~5年前に友人から送ってもらった有名なジョーク。ある大学で教授が女生徒Aに、「適当な条件下で、大きさが通常の6倍になる体の器官を挙げてください。その時の条件も言って下さい」と質問をした。指名された女生徒Aは、顔を真っ赤にしながら冷ややかに「これは適切な質問ではありません。この件は学校に告発します」と答えた。しかし教授は平然としたまま、別の生徒に同じ質問を繰り返した。次の女生徒Bは落ち着いて答えた。「目の中の瞳です。暗いと大きくなります」「正解です。それからAさんには言いたいことが3つあります」と教授は続ける。「1つ、授業は真面目に聞きなさい」「2つ、あなたの心は汚れています」「3つ、6倍になるなんて思っていたらいつの日か本当にがっかりする日が来ます」 というわけで、瞳である。 私は学生時代ずっと、目からは光線が出ていると信じて疑わなかった。何かを真剣に伝えようとする時、必ず相手の目をシッカリ見据えて伝えるようにしていた。 まあ具体的に何を伝えたかったかというと、「一緒にお茶飲みに行かない?」とか「つきあってくれ」だとか「ホテル行こう」とかだったわけだが(阿呆である)。 以下はそんな阿呆な私が、大学の演劇論を受け持った先生に教わった話。 研究室まで追いかけていって、詳しい話を聞かせてもらった。 現代日本社会では一般的に、黒目が大きいほど意志が強そうだったり誠実そうだったり、女性だったら可愛く見えたりする。黒目とはいわゆる「虹彩」と呼ばれる部分(私はかなりブラウンがかかっている)で、特に真ん中の黒い部分を「瞳孔」(まあ多くの日本人は真っ黒)という。 虹彩の大きさは個人差があるが、せいぜいゼロコンマ数ミリであり、成長期以降は根本的な大きさが変わる人はあまりいない(病気を除いてね)。 ただこの瞳孔を、相手に大きく見せる方法はある。 言うまでもないことだが、相手に自分は誠実だと思わせたい時、意志が強い人間だと思わせたい時、可愛いく見せたい時にお使いください。役に立つかどうかは知りません。 まず第一点。 冒頭のジョークにあるように、瞳孔は筋肉によって一定の条件下で大きくなったり小さくなったりする。一般的には2ミリから6ミリくらいまで変わる。明るいところにいれば小さくなり(縮瞳)、暗いところにいれば大きくなる(散瞳)。さらにいえば興奮すると交感神経の作用で瞳孔は大きくなる。 これを最大限に利用するには、屋外から屋内、明るいところから暗いところに入ることだ。 告白の場所は屋内で。目が慣れる(充分に散瞳する)までジッとためてからにしましょう。 第二点として相手から見られる角度がある。 人間の瞳孔はネコやヤギと違って円形である。 円の面積を最も大きく「見せる」には、真正面から正対することだ。 何も胸を張って真っ正面を向く必要はない。顔だけが相手の瞳に正対するようにしましょう。 よく人間の動作を観察していると、話し相手の顔が真っ直ぐこちらに向いていることが、驚くほど少ないことに気づく。それは相手がアナタの顔を見たくないわけではなく、単に日本文化のうちに「相手の瞳に正対して話しかける」という動作が組み込まれていないだけである。 口説きたい相手、大事な商談相手、苦手な上司への弁明などは、相手の瞳に正対して臨みましょう。人がやっていないぶん、効果的になります。 以上。 重ねていうが、効果は保証しない。散瞳は意志の強さを表現するから、もしもまったく脈のない相手にこういう方法を取ったなら、かなり恐がられ嫌がられるだろう。 探しものは見つかっていない。 学生時代は、こんなことばっか真剣に考えていた。どう考えても効果なんかたかが知れているわけだが、それでも一所懸命こういう努力をしていた当時の私は、なんだか可愛い(そうか?)。 なお、これを先生からはもうひとつ。「効果的な喋り方」というものも教わった。 こちらも気が向いたらそのうち書きます。
2006/05/19
まだ偏頭痛が抜けない。 ストレスか、と思ったが、虫歯のような気もしてきた。 歯医者行きたくないなあ。。。 ※ 村上春樹がノーベル文学賞を受賞するのでは? という話がでている。 3月に産経が報じ(ここ)、かなり文学通の友人からも「そろそろだと思う」と聞いた。 産経のソースは村上が今年の「フランツ・カフカ賞」(チェコのカフカ協会が選出)に選出され、同賞の直近受賞者2人(04年のエルフリーデ・イェネク、05年のハロルド・ビンター)が連続してノーベル文学賞にも選出されたことを挙げている。 友人はそれに加え、村上の世界的評価の高さと、「そろそろ日本人にも」というタイミングを考慮して予想していた。村上の作品は20カ国語に翻訳されており、欧米やシナ、南米などでもミリオンセラーになっている。受賞が決まればノーベル文学賞の受賞は川端康成、大江健三郎に続いて3人目。 ノーベル文学賞の発表は毎年10月中旬だが(授賞式は12月)、またぞろ大手書店の棚が村上フェアで溢れかえるであろう。 この件について報じ、論考を加えるサイトは多々あるが、私が「ほほう」と思ったのは例に漏れず内田センセの記事。こちらで「村上文学には“父”が登場しない」と書いている記事だ。 この場合の「父」とはなにか。 内田の論考を借りればそれは、その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。である。 キリスト教世界ではそれは「神」であり、イスラム社会圏では「預言者」であり、コロニアルでは「宗主国の文明」であり、たとえば自然主義文学では「家父長制度」というような形態をとる。 村上は自身が形作る世界のなかで、その「不在」を描くことで「父がいない世界のなかで、人々はどう過ごしていくのか」を提示してきた、と内田は分析する。 上記のような定義に拠れば、父とは「補助線」である。それは原理的に個々人の自由を侵害する存在であるが、自身の立脚点を示すことになる。それが存在しない世界とはどんなものであるか。そこで人々はどう生きていくのか。 それが村上が描く世界観の本質だ。 そうした世界観の造形において、村上とカフカに共通点が生まれる。<上記内田のサイトより引用開始>「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」これが村上文学に伏流する「問い」である。「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。それが絶望的に困難な仕事であるかは誰にもわかる。けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。<内田樹の研究室、「村上文学の世界性について」より引用終了> まさしく我々が直面せざるを得ない、文学的ポストモダンの精髄である。 無限に相対化され続ける個々人の「善悪」や「正否」を、相対化されたうえでも選び取っていかなければならないためには。 村上文学に登場する「僕」のような生き方は、私はどうにも好きになれないのだが。それはたぶん、その世界には葛藤もカタルシスもないからだ。善悪や正否は、あらかじめ決めといてほしいんだけどなあ。 探しものはまだ見つかっていない。 ただまあ、「わかりやすいもんばっかり享受してるとバカになる」とは思っている。
2006/05/17
仕事が忙しくてレンタルビデオ屋に行けていない。 次にひと段落するのは21日あたりなのだが、その日は映画館に『ダ・ヴィンチ・コード』を見に行こうと決めている。なかなかエヴァの劇場版を見る機会が来なくて、残念やらホッと一息やら。 ※ ふとしたキッカケで古いメールの受信箱を読む。 昔、ちょっと好きだった人からのメールを読んで、ほわんとした気分になった。 メールをもらった当時は思い付かなかった、「こんな言葉を返せばよかった」というようなことが次々頭に浮かぶ。そこに書かれている文言が変わったわけではないのに、いま読むとまるで別の人からもらったように感じる文章もある。 もらった当時は返事を返さず、なぜ俺は返事を書かなかったんだろう、と心底不思議に思うものもある。 ロランバルトはこれを、『テクストの快楽』で解析した。 難しげな哲学系サイトに出てくる「テクスト」という単語は、「テキスト」が訛ったものではない。テクスチャア(Texture)の略だ。「織り成されたもの」という意味である。 何が織り成されているかというと、書き手の心情と読み手の心情である。 テクストは「書き手が書く時、どう思って書いたか」よりも、むしろ「読み手が読む時、どう思いながら読んだか」というほうが重要だ、とバルトは言っている。「読者の誕生は、作者の死をもって贖われなければならない」と、文学者風に書いた。 私が久しぶりに読んだ、懐かしく古いメールを書いたあの人もきっと、いまこれを読み返せば「なんでこんなことを書いたんだろう」と思うはずだ。そういう意味で、このメールの送り主はもうどこにもいない。作者は死んだのである。 どうしてバルトはこんなことを考えついたんだろう、と、ふと悩んだ。 たぶんラブレターだな。 読み返して赤面して思い付いたに違いない。 探しものは見つかっていない。
2006/05/16
朝起きてから偏頭痛がする。 苦めのコーヒーを淹れて飲んだのだけど、収まる気配がない。 気圧の関係だろうか。痛いなあ。 ※ 今日は寒いですね。東京はしとしとと雨が降っています。「風光る」とか「山笑う」とかは春の季語です。そして東京に住んでいるかぎりそういう言葉にピタッと合うような春の瞬間に出会うことは少ないのですが、それでもこの5月の春の加減はちょっとヘンテコな感じがしています。 寒い春の日は「冴返る」と言うそうですが、どうも春なのに寒い日ってのは「冬」とは違って、元気を奪っていくような寒さですな。何事も、始めから与えられないのと、一度与えられてから奪われるというのとでは、悲しさも切なさも違うもんです。「僕たちはいつも、希望には鈍感で絶望には敏感だ」というのは、なんともまあ辛い話です。はい。 ※ 休日出勤の途中でレンタルビデオ屋さんに立つ寄ったが、『エヴァンゲリオン』の映画版がレンタル中だった。明日からまたちょっと忙しくなりそうなので、新規レビューの続きはまた今度。 ネットをウロウロしていたら、内田樹先生がブログで『冬ソナ』と村上春樹の世界性という記事を書いていた。要旨としては、どちらの物語も「父がいない世界で息子はどうやって生きるか?」という問いをめぐる共通点があるそうだ。 冬ソナは見ていないのでよくわからないが、村上春樹の作品については、「父性の欠如」とよく言われてきたような気がする。実際読んでいて私もそう思ったし。 そうか。 私はエヴァンゲリオンという作品についても「父性の欠如」を読み取ったのだけども、これは村上春樹の作品観、世界観との共通点ともいえるのか。そういえば作品全体を流れる雰囲気も、両者は似ている。「何かが欠けていたまま育ってきてしまった“僕”が、その代替物を求め彷徨う物語」ね。ふむ。 ※ 気になって「エヴァ×村上春樹」で検索をかけると、大塚英志が怒っているテキストが引っ掛かった。<以下引用> 村上春樹が『アンダーグラウンド』執筆の動機としてこういう意味のことをいっている。自分はあちらこちらからサブ・カルの断片を引用してジャンクを作ってきた。それが自分の方法だ。それはオウムと同じである。ならばいかにすれば自分はオウムと異なるものを作れるのか。 庵野のバカに聞かせてやりたい、とは言わない。だが、村上の問いは正しい。結果としての『アンダーグラウンド』は不満だが、出発点は正しい。------------------------------------------------------------------------ <おたく>の問題とはつまりはそういうことだ。あんたもぼくもただのサブ・カルにすぎない。だが、幼女を殺さず、サリンをまかず、サブ・カルであり続けることは可能なのか。 そこで、サブ・カルをやめて国家とか教科書問題に逃亡するのは反則もいいところである。 そうではなくて、くり返すが、人はいかにして、幼女を殺さず、サリンをまかないサブ・カルでいられるかを考えること。そっちに行かないサブ・カルたること。------------------------------------------------------------------------ 別に考えたくなければ考えたくなくてもいい。秋だか冬になりそーな「エヴァ」の完結篇をカードでも集めながら待っていればいい。そうやってれば20世紀なんかあっという間に終わるのだから。 それにしても「エヴァ」のファンときたらどうして黙々と柔順なまでに「エヴァ」商品を買い続けるのだろう? この素直すぎる羊さんと化した新世代の<おたく>についても引っかかるものがあるんだけどね。
2006/05/13
(のっけから引用開始) 普通、関係性という言葉は、人間対人間を表わします。芸術は、常に、この対人間の関係性を描き続けてきました。そして、芸術は、観念の袋小路に踏み込んでしまい、物語という名のコピーを量産し続けるか、物語を嘆き続ける前衛を生み続けているのです。 が、この映画の関係性は、人間対物質の関係性なのです。関係性という時、人間の可能性を探るために、一度、対物質の関係性に取り組んでみようとしているのです。世界との関係性という時、今は、世界という名の人間のことです。が、世界という言葉の中には、物質が存在しているのです。 ★ 人間になった元天使はどうしたのだろう。いつか恋が終わり、それは少しも悲しいことじゃなく、それでも恋は終わり、そしてコーヒーであるだけで感動的だったコーヒーは、物質という存在から観念という存在へと、下落し、風景は風景でなくなる。その時、あの天使はどうしたのだろう。いや、どうすればいいのだろう。 そして、彼の後に続く天使はどうしたらいいのだろう。 ★ 旅立ちを書くことはたやすく、可能性を歌い上げることは感動的にやさしい。僕は、その後を書き続けたい。それが、僕が芝居を続けている唯一の理由なのです。 僕たちは、絶望よりも希望に鈍感で、希望よりも絶望に敏感です。 ですが、この作品は決して、悲劇ではありません。 (引用終了) あまりにも『新世紀エヴァンゲリオン』という作品と親和性が高い文章なので、敢えて引用させていただいた。 これは1988年に鴻上尚史が、『天使は瞳を閉じて』という戯曲を書き、それを上演するさいに観客に渡された「ごあいさつ」なるパンフレットの前文のようなものに記された文言である。全文はこちらを参照。 以前この日記で書いたことがあったが、鴻上は『ベルリン天使の歌』という映画を見て、深く感動し、そして腹を立てる。「大切なのはここからじゃないか。天使が人間になって関係性を構築し、そこから物語が始まるんじゃないか」と考え、この『天使は瞳を閉じて』を書くキッカケを得る。 エヴァには「近代」という時代、思想、イデオロギーに、「人」が直面せざるをえない問題意識を内包している。 そして(だからこそ)私がエヴァンゲリオンという作品に抱いた嫌悪感、忌避感、ジレンマは、鴻上が『ベルリン天使の歌』に抱いた感情に通じるのだ。なお、鴻上の諸作品にはエヴァに相通じる部分が多々見られる。『トランス』で描かれた精神病への記述もそのひとつである。機会があればこちらも論じてみたい。 ※ 先行して映画版の最終回まで先に見ちゃったのがよくなかったのか。 ハタとエヴァのレビューの続きを書くのが難しくなったことに気づく。 このレビューの冒頭に記したとおり、エヴァには父性が最後まで登場せず(よって登場人物は一人残らず子供のままで)、これは「少年の成長の物語」であり(最終回の途中で庵野は「近代人が抱える宿痾」と「少年の自立」をすり替えているが)、さらに神殺しのニーチェが忌避した論理展開であり、おまけに「エヴァとヒト/アダムとシト(リリス)」のふたつのカップルの可能性の話であり、アニメというメディアの独自性をフル活用しつつ、ハッピーエンドの話ではあるものの、ミサトさん可愛いなあなんてロジックが、いま私の頭のなかをグルグルと回っている。どうにもね。ちょっとね。 TV版25話、26話と、劇場版2話を、もう一度見直してみよう。 以後のレビューを書くのはそれからだ。 エヴァは(TV版も映画版もともに)「少年の自立」を言祝いで終わる。「僕はここにいてもいいんだ」「父に、ありがとう。母に、さようなら」「おめでとう。おめでとう。おめでとう」 おそらくこれは庵野監督の祈りだ。 祈りと願いだとわかりつつ、私はあえて思う。 甘ったれてんぢゃない。大切なのはその願いを成し遂げてからだろうが。 私の探しものは、まだ見つかっていない。
2006/05/12
これで5回ほどエヴァづくしの日記書いてて、おまけに毎回写真まで貼付してるわけなんだけど、大丈夫か俺? 読者置き去りにしてないか? ドン引きされてないか? ※ 先日何気なく立ち寄った本屋さんで『エヴァンゲリオンの夢』(東京創元社刊/大瀧啓裕著)なる立派な装丁の分厚い本を見つける。 価格は3400円。悩み抜いたすえ購入を見送り。 高ぇーよ。重いし。 パラパラとめくると、著者は宗教関連書やそれを元ネタにしたSF書などを翻訳することを生業とした翻訳家らしい。1話ごとの概要とその謎解き、読解などを丁寧に展開している。キリスト、ユダヤ、イスラムなどの各宗教に造詣が深く、エヴァのオープニングに使用されている「セフィロートの図」解説や使徒の構造分析などなど、緻密に解読している。 最終2話についての考察は読んでみたが、なかなか秀逸であった。(ミサトさんを「錯乱の女王」と呼ぶのは独断にすぎると感じたし、三位一体説へのこじつけはちょっと無理があると思ったけどね) 帰りに寄った古本屋で『新世紀エヴァンゲリオン』(マンガ版/貞本義行著/角川書店刊)の1~8巻をまとめて購入。しまった、前傾著(『エヴァの夢』)が買えちゃうぢゃん! と思いつつも、フムフムと読み進める。原作(DVD版)とディテールが違う部分がありますね。 9~10巻までは既刊のようなので、いずれ買うだろう。 ※<13話~16話>(DVD4枚目) コンピュータウィルスに模した使徒がネルフのマザーPCである「マギシステム」に侵入。赤木リツコ博士がその防御プログラムを作成し撃退するのが13話。「マギ」とは新約聖書でキリストの生誕を予言した東方の三博士のことを指すわけで、作中の「マギシステム」は3つのブロックに分けられていた。 赤木リツコの母親が開発エンジニアだったそうで、「母はマギを“科学者としての自分”、“母親としての自分”、“女としての自分”の3つに分けた」と解説する。リツコさんも「親」に対してトラウマかあるいはコンプレックスを抱えているらしい、という設定なわけね。 なんでこう、出てくる登場人物のみんながみんな、親に対して「心的外傷」を抱えてるかなあ。まあわかりやすい構図ではあるんだけどね。エディコンですわ。やっぱりエヴァには「父性」が存在しない。 14話は1月3日というTV公開時期の都合もあり、これまでの総括っぽい内容。13話までの各話に登場した使徒の各名称がここで明らかにされる。サキエル、シャムシエル、ラミエル、カギエル、イスラフェル、サンダルフォン等々、いわゆる「天使」の名前が使われている。イスラフェルのみイスラムに登場する天使の名前であり、冒頭に記した『エヴァンゲリオンの夢』で著者の大瀧は、「死海文書を物語のキーワードとして配置する以上、キリスト没後に成立したイスラムの天使を配置したのは庵野監督の間違い」と書いていた。 まあほら、衒学ですから。 同話ではテストのため、シンジ用の機体である初号機に綾波レイが搭乗。感想を聞かれ、「碇君の匂いがする」と言っている。ありていに言えば、ここらへんから綾波はシンジ君に対し、「同業者」以上の存在を意識し始める。恋ですなあ。嗅覚から入る恋愛感情ってなかなかやっかいだよね。 体臭は重要です。それはその人の生い立ちに関わることだからね。香水の起源は人類誕生とともにあった。 15話ではシンジ君と碇ゲンドウ、ミサトさんと加持リョウジというふたつの関係性についての邂逅が中心。どちらの関係もよじれ切っており、前者は寄り添いつつ離れ、後者は離れつつ寄り添う。父子よりも男女の関係のほうが簡単ですか。まあそうでしょうな。男女は「代わり」が効きますからな。 最後の5分で加持リョウジが内閣調査室のスパイだということが明かされ、ミサトさんの前に「セントラルドグマ」と呼ばれるネルフの地下中枢部が見せられる。使徒と思しき怪獣(?)が十字架に模した拘束具にくくり付けられ、二叉の槍が胸にドカンと刺さっている。加持は「アダム(第一の使徒)だ」とミサトに説明するわけだが、後にそれはアダムではなくリリス(第二の使徒)だということがわかる。 こういうつまんない嘘つくなよなあ。見てる時はたいそう混乱した。 旧約聖書に書かれるアダムとイブ(エヴァ)とリリスは、三角関係だと捉えることもできる(ちょっと無理やりだけど)。イブとはアダムの肋骨から作り出された存在であり、ふたりは人類を生み出していく。 それとは別に、リリスとはイブの前にアダムの妻だったとされる女性。 リリスは性にたいして奔放であったとされ、アダムに見捨てられて悪魔化されてしまう。 私としては、イブはアダムから作り出された「人(ヒト)」なのに対し、リリスはもともと存在していた(神ないし天使ないし悪魔だった)、という点に注目していたんだけど、エヴァ作中ではそれに引っ掛けたような話はでてこなかった。 このアダム-イブ-リリスという関係性をもって、シンジ-レイ-アスカと模すのは無理があると個人的には思う。 刺さっている二叉の槍は「ロンギヌスの槍」(磔刑に処されたキリストを刺したとされる槍。神殺しの武器であり、傷を治したりする奇跡も起こせる)。これは初出時からピンときた。この槍はのちにストーリー上、重要なアイテムとして登場する。「使徒」は加持に「アダム」と呼ばれたこの怪物との接触を狙っていること。 それを防ぐためにネルフは使徒と戦っていること。 使徒とこのアダム(と呼ばれた怪物)が接触すると「サードインパクト」なる人類を滅亡に導く大惨事が起こるだろうと予測されること。 実はそのサードインパクトなる事象が、碇ゲンドウとそれを裏で操る「ゼーレ」なる秘密組織が意図する「人類補完計画」の狙いであること。 などなどがうっすらとだが見えてくる。 ここにおいては「人類補完計画」の全容、つまり「どういう状態が、“人類が補完された状況”だと言えるのか」という、計画そのものの目的は明らかにされていない。 16話。見る前からタイトルの「死に至る病、そして」が気になっていたわけだが、それについての説明はほとんどなかった。 巨大な球状の使徒が登場する。内部に虚数空間と呼ばれる、まあドラえもんの四次元ポケットのような空間を持っており、そこにシンジ君が搭乗する初号機を取り込んで出してくれない。 救出作戦の甲斐なく初号機の電池は切れ、青息吐息のシンジ君の回想シーンが流れる。夕暮れを走る電車内でシンジ君は自問自答を繰り返している(『暗夜行路』の時任か?)。自意識過剰全開で、両親や友人との関係性に悩み苦しむシンジ君。 共感される方も多いシーンだと知りつつあえて書くが、自意識過剰による自己嫌悪は、自己を決定的には傷つけない(これは私の信仰なんだけどね)。たとえそれが長く続き終わりが見えなくても、だ。自己を本当に傷つけられるのは他者だけだ。 自己嫌悪はどこかで自己に甘い。「自分自身で自己を傷つけ、悩み苦しむ各登場人物」というのは、エヴァンゲリオンという作品全体を覆うキーカテゴリーなんだけど、私は「それは子供の理屈だよ」と思っている。 平たく書くと、甘ったれてねーで他者と向き合え、ということなんだが。 他者を傷つけ、傷つけ返されることでしか人間は「人」たりえない。 これは庵野監督も視聴者に伝えたいテーマだったことは想像に難くない。 また、同話には重要なシーンのひとつに、綾波がアスカに対して「あなた、人に褒められるためにエヴァに乗ってるの?」と問い掛けるシーンがある。アスカは「そうよ、悪い?」と興奮して返すわけだが、これはアスカが正しい。もっと自信をもって返すべきだった。「あなたはなんのために生きているのか?」などという質問を他者にするのは、自分が確固たる信念をもっている時に限るべきだ。綾波はなんのためにエヴァに乗っているのか。なんのために生きているのか。それは「他者に自己を認めてもらうため」ではないというのか。 結果的にこの質問を端緒にして、アスカは追いつめられていく。 アスカは認められたがっていた。誰よりも「他者からの評価」を露骨に気にしていた。「それは虚しいことなのかもしれない」と気づいた時、アスカは「ひとり」だということに気づき、無償の愛(母からの愛)を求めている自分に向き合うことになる(これにはアスカが幼い恋心を寄せていた加持リョウジとミサトさんのヨリが戻る、ということも重要だ)。 近代社会成立以後、「そんなもの(無償の愛)は幻想だ」ということになっている。まあそりゃそうだ。江藤淳はその著作(『江藤淳コレクション1』内に収録された「明治の一知識人」/ちくま学芸文庫)で、夏目漱石について「彼(漱石)はエゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人として生きなければならなかった」と書いている。 ※ 本項は前項までと違い、(これまで意識して避けてたわけだが)1話ずつその構造とキーワードを見てみた。案の定、長くなったわりに中身があんまりない。むううううう。 ただこのあたり(13話くらい)から、数話まとめて考察することが難しくなってきている。1話内に盛り込まれる要素がケタ外れに増えているのだ。おまけに触れる範囲が多様多彩になっている。もうね、あっちにいったりこっちにいったり。 衒学要素も露骨になってきた。 具体的にいうと、私が「お、これは」とか思うシーンがメチャクチャ増えているのである。まったく面倒な作品だよ。とほほ。「衒学的」と書くと大変卑下した言いようだが、「知的好奇心を刺激」と書くと、それを否定することはできないな、と思ってもいる。特に、かつて文学理論系を学んだ身としては辛い。(身についてないのがもっと辛い) いまは「意味を求めてしまう病」みたいなことを考えつつ、探しものは続く。(5/12 12:44頃微修正)>刺さっている三叉の槍は「ロンギヌスの槍」(修正前) どう見ても「二叉」です。本当にありがとうございました。
2006/05/10
うーむ。 これ書いてる途中に最終回まで見ちまった。 見なきゃよかったとちょっと思っている。なんというか、アニメーションってサブカルチャーだなあ、というのがいまの感想。 決してバカにしているわけではないけれども、バカにされても仕方がないような収拾のつけかただ。少し頭にもきた。 ※ ぼちぼち折り返し地点を越え、いよいよストーリーの全体像が掴みづらくなってきたので(こういう物語も珍しいわけだが)ネット検索を使って資料収集を始める。 参考になったサイトは以下のとおり。ガイナックス公式【補記】関連商品に興味がない場合はほとんど意味なし。ここではじめてマンガ版とゲーム版の存在を知る。「謎を残す」という手法は視聴者に対して裏切りだとは思うけれども、作品が終了したあとも話題を残す→関連商品が売れる、という効果はあるんだなあ、と思った。公開後10年経ってもこれだけ話題が続くのは、エヴァが作中でその伏線をすべて公開しなかったからだろう。でもやっぱり裏切りだと思う。電脳補完計画【補記】Yahoo!の特設ページ。各話の紹介が役に立った。五月末までの期間限定公開だそうなので、動画や画像などを落としたい場合は急いだほうがよさそう。新世紀エヴァンゲリオン-Wikipedia【補記】ものすげー詳しくてたまげた。作中のキーワード解説から元ネタ紹介、関連商品の網羅に資料整理と、ともかく緻密。エヴァンゲリオン(架空の兵器)や新世紀エヴァンゲリオンの登場人物等と、関連項目も充実。多過ぎてある程度の予備知識がないと、読んでもなにがなんだかわからない点も注意。まあ百科事典ってそんなもんか。EVANGELION(新世紀エヴァンゲリオンについての考察、謎解き、解釈)【補記】yasuakiさんという個人が作ったファンサイト。サイト中の使用画像がガイナックスからの掲載許諾を受けているものなど、ただの素人とは思えない。グッズのアフェリエイトが少々ウザいが、内容は盛りだくさん。広範な知識をフル活用してエヴァンゲリオン作品全体の解題に挑んでいる。全部読み切れてない。アニメ的なもの、アニメ的でないもの【補記】東浩紀による作品レビューと考察。買ったままで読んでない『郵便的不安たち』(朝日新聞社刊)を引っ張り出さねばならんかなあ、どこにしまったかわかんねえなあ……と困っていたが、ネット上で公開されているようで助かった。宮崎駿(『天空の城ラピュタ』等)、大友克洋(『AKIRA』等)、押井守(『攻殻機動隊』等)との比較が大変に興味深い。参考になったが、レビュー自体が映画版の2作公開前に書かれたものであり、それへの考察がないのが惜しい(近著『網状言論F』に言及があるらしい。読むべきか?)。著者の東は間違いなく賢くて鋭いのだが、ことオタク文化に関してはかの唐沢俊一翁に「オタクがわかってない」と批判されているところが気にはなっている(「(東は)文章が下手」という唐沢の指摘には同意。まあ内容には関係ないけど。ただ師匠の浅田彰も下手だったんだからしゃーないんでないかなあ)。新世紀エヴァンゲリオン【補記】ネット上のアニメ論客たちが、それぞれエヴァという作品に触れた時期の回想と、個々の考察が対話形式で展開。エヴァがTV公開された95~96年という時期に、アニメファンたちがこの作品をどう捉えたのかがわかって興味深い(いや私、当時はアニメなんてまったく興味なかったもんで)。エヴァのTV放映時期がWindows95の発売時期と重なっていた、という指摘は、いまさらながら「あ、そうか」と思った。年表つくらにゃイカンかなあ。むう。 ちなみにエヴァTV放映は95年10月~96年3月(翌97年の春と夏に映画版公開)、Windows95日本語版の発売は95年11月。オウム真理教による地下鉄サリン事件は95年3月。大塚英志のおたく社会時評【補記】大塚には吉本隆明との対談集『だいたいで、いいじゃない。』(文藝春秋刊)でもエヴァについての言及があり(こちらに引用記事あり)、ともかく同作品について攻撃的。「自己啓発セミナーと手口が一緒だ」という指摘は当を得ていると思うのだけども、それに対して庵野は「(自分は)セミナーに出たことはない」と言っているそうだ。違うよ庵野さん。反論すべきポイントはそこじゃない。「(セミナーと手口が一緒だからって)だからどうした」と言うべきだったんだ。そう答えられないところに庵野の(ひいては「アニメ」というカルチャー全体の)弱さがあり、かつ大塚がジレンマを抱くポイントだと思う。 優れた文学や演劇や音楽は宗教的トランスをもたらす。それをマネたのが自己啓発セミナーだ。だから作中に読者や視聴者を引きずり込み、その価値観を(脳ミソごと)揺さぶるためには、手口が似るのは当たり前。恋愛だってそうだ。ただ文学や演劇や音楽は、その表現活動と研究に一生を費やすに足る奥行きがある。揺さぶるほうも揺さぶられるほうも、そういう確信がある。が、アニメやマンガにはそれがない。それはたぶん「サブカルチャーだから」ではない。これについては後述したい。エヴァにとりつかれた人々の悲喜劇【補記】院生が書いたと思われる、エヴァを巡る言説論。膨大な先行研究をチェックしているあたり、学術論文経験者らしくて助かる。上述の東、大塚のレビューへの言及もあり。神崎のナナメ読み【補記】庵野秀明監督が04年5月に放映されたNHKのトーク番組『トップランナー』出演時のコメントが記載されている。注目すべきは以下。なんかすべてを説明しちゃってる気がする。庵野「何か内面的なモノを見てみたいと云う雰囲気が、バーってあの頃、増えたと思うんですね」本上「もの凄く心情を・・・こう・・・言葉にして出すって云う主人公だったりとか、そういうところが、ものすごく印象に残っているんですけれども。みんな、そういうモノを求めていたと云うことでしょうかねぇ」庵野「当時は、そうじゃないですかね。僕自身、哲学を知らないんですよ。あまり哲学的なことはやっていない、今までも。エヴァはそういう風に云われてますけれど、あれは哲学じゃなく"衒学的(げんがくてき)"なんですね」衒学についての解説テロップ「知識があることを自慢すること」庵野「あの~"知ったかぶり"と云うのが一番近い表現だと思うんですけれど。衒学的・・・」本上「"知ったかぶり"・・・」 庵野「よく知らないけれど、こういう言葉を使っていれば賢そうに見えると云う・・・(観客の薄ら笑い)。それがエヴァですね。でもそれは、賢そうに見えるところが、何かパッと見た目"かっこいい"とかですね、"何か裏があるかも?"そう云うところに行くので、それはそれで、そういう方法論だと思うんですけれど・・・。何だろう、僕にとってフィルムは"サービス業"なんですよ。お客さんがお金を出して、映画だと1000幾ら出して見に来てくれる訳ですから、その1000幾らをお客さんが出したのと同価値の"面白さ"、"見てよかった"みたいなのをお客さんに返す仕事だと思うんですね。少なくとも、サービス業である以上、お客さんに何かしらそういう"良かった感"みたいなモノをあげなきゃいけない。それをフィルムに入れとかなきゃいけないと思うんですよ。そこで、あの~う、エヴァの場合は、ちょっと"利き過ぎた"感じがしてですね・・・」武田「利き過ぎた?」庵野「ええ。現実逃避の"よりしろ"とか、後は現実からそこに逃げ込む"装置"みたいなモノにされつつあるのが、見ていて嫌だったんです。映画になった時(97年に劇場公開)は、元々そういう予定だったんですけれど、お客さんにはとりあえず水を被せて、何か目を覚まして帰って欲しい・・・そういうのがありました。僕にとっては、それも"サービス"なんですよ。お客さんにとっては良い事だと思うんで。あのまま、居心地の良い所にずっと居て、それも一つのサービスだと思うんですけれど、エヴァの場合はそれをもうやっちゃいけない気がしたんですよ。少なくとも目を覚ますキッカケみたいなモノを入れなきゃいけない・・・それがお客さんにも良い事なんだろうと云う事で、最後はそういう事をやっていましたけれど。僕にとっては、それも"サービス"なんですよ」(上記サイトの庵野秀明 in トップランナー【3】より引用抜粋) 上記発言を読んで、私は冒頭に記したような「頭にきた」が加速することになる。庵野はメディアとしての「アニメ」も、そしてそのファンも、信じていないのだ。 小説家が「小説ばっかり読んでるとダメになるぞ」と書くか。映画監督が「映画ばっかり見ているとオタクになるぞ」と言うか。ミュージシャンが「こんな曲ばっかり聞いてないで街に出ろ」というのか。 庵野は寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」をひいているが、それは寺山の文学に対する絶大な信頼(と悪魔的な魅力への理解)があってこそ成り立つテーゼだということを、庵野は理解しているのだろうか。 ここに私は、「アニメ」という表現手段そのものが、(それに生活を賭している庵野自身でさえ)信用に足るものではないことを示してはいるのではないか、という一抹の悲しさを見る思いである。 アニメにはまだ、衒学を気取るほどの厚みが足りない。おそらくそれは、人柱が足りていないということだろう。富野、宮崎、大友、押井、そして庵野といった表現者たちは、おそらく後世に記録されるべき天才たちだ。しかし、それら天才たちの人生を埋葬させてなお、「文化」は生け贄を求めている。 ありゃ、長くなった。 レビューの続きはまた後日書きます。 探しものは見つかっていない。 三十路すぎのサラリーマンの大型連休が、エヴァンゲリオンによって潰された。 これを情けないし悲しいと思うのは、アニメというメディアに対する差別である。 しかしこの差別は、庵野秀明という現代アニメーションの大家のひとりが引き起こしている。これを責任転嫁というか。いうな。うん。いう。
2006/05/08
「作品の考証をしたいならあらすじくらい書いたほうがいい」という助言をいただく。なので公式サイトからザッと引用。時は西暦2015年。南極の氷雪溶解による世界的危機(セカンドインパクト) から復興しつつある時代。箱根に建設中の計画都市、 「第3新東京市」に突如襲来する“使徒”。彼らはその正体も目的も不明だが、 さまざまな形態・特殊能力で人類に戦いを挑んできた。この謎の敵“使徒”に人類が対抗する唯一の手段が 「汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン」である。国際連合直属の特務機関「ネルフ」によって主人公「碇シンジ」を含む3人の少年少女がその操縦者に抜擢された。今、人類の命運を懸けた戦いの火蓋が切って落とされる。果たして“使徒”の正体とは? 少年たちの、そして人類の運命は?パワフルなバトルアクション。謎また謎のスリリングなストーリー。少年少女達の葛藤、そして心の成長。ダイナミックに展開する、本格アニメドラマです。 前回のラストでドイツにあるネルフの支部から、弐号機とともに「アダム」と呼ばれる細胞組織が日本に運び込まれてきた。その形態から、どうやら「使徒」と強く関係しているらしいことがわかる。 あーなるほど。Adam(アダム)とEve(イブ/エヴァ)で、「使徒(シト)」と「人(ヒト)」なわけね。 なんというか、ここにおいてこの作品全体に漂う衒学趣味の方向性がやっとこさっとこ理解できたような気がする。旧約聖書と構造心理学ですか。ははー。遅いですかね。<9話~12話>(DVD3枚目) 全般的にアスカが活躍する回が多い。 ロボットアニメらしからぬエヴァシリーズではあるが、この9~12話はアクションシーンが多用される。第10話「マグマダイバー」では使徒が使徒になる前の、胎児のような姿が映し出される。 使徒(シト)は人(ヒト)なのか? そこらへんの説明がいっさいないまま物語は進む。 制作者サイドの狙いとしては、ここらで単純な冒険活劇を見せておこう、ということがあったような気がするが、どうも私には合わなかった。エヴァンゲリオンというシリーズが旧約聖書に引っかけて人間の内面を描こうとするのであれば、中途半端な青春ドラマや恋愛ドラマ、いわんや「巨大ロボットアニメ定番のシーン」などは邪魔に感じてしまう。 特に「恋愛」と「青春」は、舞台となる第3新東京市が「セカンドインパクトによって四季が壊れ、常に夏」という設定と無関係ではないだろう。狙いはわかるが狙いすぎ、というヤツである。 もうひとつの狙いとして、この9~12話の連作では、アスカの魅力を見せようとしているところが気になった。エヴァに登場する3人のヒロイン、綾波、アスカ、ミサトを、制作者サイト(具体的には庵野秀明監督)は「それぞれ別の魅力を持った女性」として描きたかったのではなかろうか。 まったくタイプの違う3人の女性(赤木リツコ博士を入れて4人とカウントしてもいいかもしれない)が作中で活躍すれば、視聴者はどの女性かが好きになる。はずだ。そんな狙いがあったのではないか。 現実存在としての女性には、綾波的な要素もアスカ的な要素も、ミサト的な要素もあるんだけどなあ。私には登場する女性全員が、ファザコンに見えて仕方がない。庵野監督の持つ女性像の投影なんだろうか。 とまれかくまれ、まあ私ならミサトさんが好みかな。(まんまと庵野監督の狙いに引っかかっているわけだが) 探しものは見つかっていない。 職場の知り合いに聞いて回ると、「全編見た」という知り合いが2人いた。 感想を聞くと、「暗い気分になった」、「ラストが納得いかなかった」とのこと。 感情移入するとロクなことにならなさそうだ。 むうう。アニメくらい寝っ転がってラクな気分で見るべきだと思うんだがなあ。 旧約聖書によると、知恵の木の実(リンゴ)を食べたイヴは「あらやだ、私ったら裸だわ」と気づいて、イチジクの葉で体を隠す(「イチジクの葉」は機密機関ネルフのトレードマークであり「知恵による隠蔽」を象徴する)。 知恵を持ったことを知った神は、アダムとイブをエデン(楽園)から追い落とす。 このことから、キリスト教では「知恵」を「罪」と考える。 神ってずいぶん心が狭いなあ、って思うよね。 これは「人間の知恵が、やがて人間自身を滅ぼすんじゃないか」という不安から来ているのではないか、といま私は思うわけで。
2006/05/06
連休満喫中。 本日のお昼はクリームシチューでした。うむ。うまい。 ※ エヴァンゲリオンについては唐沢俊一と岡田斗司夫が「これは純文学だ」と言っているらしい。純文学の要諦は「そこに人間が描かれているかどうか」だと私は認識している。 そういう意味ではロボットもののアニメーションのいくつかは、エヴァ以前から人間を描いていた。鉄腕アトムや仮面ライダー、銀河鉄道999やサイボーグ009は「人間ではないもの(サイボーグやロボット)」を描くことで観客に「人間とはなにか」を問うていた。 これは人間か? それとも人間以外のものか? そうした問いを重ねることによって、人間の沿革を浮かび上がらせてきた。 こうした問いの元祖は「神学」にある。 古来より人は、神と天使と悪魔を語ることによって、「人とはなんであるか」を考えてきた。 もちろん結論はでていないわけだが。 ※<5話~8話>(DVD2枚目) このセンテンスはふたりのヒロインが象徴的に描かれる。 5話ではひとりめのヒロイン綾波レイが暮らすアパートの描写があり、主人公シンジ君との長い会話がある。また、8話ではドイツからの留学生というかたちでふたりめのヒロイン、惚流・アスカ・ラングレーがやってくる。 内向的で無口な綾波に対し、多弁で活発なアスカ。 これは3人目のヒロインともいえる葛城ミサトにも言えることだが、エヴァに登場する女性はよくシャワーや着替えのシーンが描かれる。まあここらへんは視聴者サービスだな、と思うのであるが、なんというか……あまにりも男性にとって「都合のいい女」として両名が描かれるあたりが、なんだか私は悲しい。 どの女性もステレオタイプにすぎるのである。 感情の多寡が認められるアスカと、明らかな感情の欠損が認められる綾波。 どちらにも共通するのは「自分が認めうる【大人(社会)】に自分を認めてほしい」という強烈な思いである。「わたしはわたしである」と、自分以外の誰かから認証をもらいたい。そういう欲求。 その指向性自体は間違えていないとは思うが、彼女たち(そして主人公シンジも)が認めてほしがっている「大人(社会)」は、作中には存在しない。かろうじてその欠片を残す碇司令は、(前項で触れたように)人間的に壊れてしまっている。ここにこの作品のひとつのパラドックスがある。 自意識過剰で不安定な主人公と、ステレオタイプな女性性。 文学作品でいえば漱石の『それから』や紅葉の『金色夜叉』が想起されるところだ。視聴者のなかで「こんな女はいない」と思う人はいなかったのか。 ※ また、主人公シンジとふたりのヒロイン(綾波とアスカ)のさらなる共通点として、「ここ(舞台)よりほかに帰る場所がない」という点が挙げられる。3人には帰るべき故郷も、そこで待つ家族も描かれない。この「逃げ場所がない」という心理状況は、自意識が肥大し、内向的な人たちによく見られる特徴だ。ようするに心に余裕がない。 他者との接触を拒否し、「自分」に逃げ込んだ人々は、さらなる逃げ場所として自意識を深化していき、精神世界を掘り下げていく。その先にはなにがあるのか。 いま目の前にあるリアルな現実(他者と社会と自己が絡み合う外在世界)から内在世界に逃げ出すことはできる。しかしその内在世界ですら追いつめられた人は、今度はどこに逃げればいいのだろうか。 ※ DVD映像末尾に記されているライナーノーツによれば、第8話以降は「アクション編」と題され、エヴァ全体のなかでは明るく外向的な話が基本路線とされているようだ。 これで外向的か。 アスカという存在がそのモチーフとなっているのだろうが、父性はあいかわらず作品全体から欠損しており、従ってカタルシスは相変わらずない。 ここにおいて指摘しておくが、主人公シンジ、綾波、アスカの3名にたいして、「なにか人間として大事なものが欠けている」と思う人が多かろうと思う(まあアニメの主人公たちにそういうものを求めるほうがおかしいのだが)。 冒頭に記したように、「不在」を描くことでその「存在」を浮き彫りにさせようとしているんだろうな、と私は考える。ここにないのは社会性(使命と正義と他者性)だ。 それが描かれることが、この先あるんだろうか。 探しものはまだ見つかっていない。「使徒」の目的も存在意義も、いまだ語られていない。
2006/05/04
4月末の嵐のような公務を終え、9連休を満喫しております。 ※ ちょっとした切っ掛けがあり、『新世紀 エヴァンゲリオン』のDVDを見ることになった。この作品がTV放映されていたのは10年前で、当時は巨大ロボットもののアニメなんぞ露ほどの興味もなかったのだが、まあ「ひとつの時代を作った」とまで言われるほどの情報ソフトであるならば、一度は見といたほうがいいかもしれない、と思って見ることにした。 ※ エヴァを語る予備考察として、まず前エヴァ時代、というよりすべてのアニメーション作品における重要なメルクマールとなった『機動戦士ガンダム』について書いておきたい。 ガンダムを考察する方法は多々あるが、ここでは「少年の成長の物語」としての側面を見てみよう。まずガンダムを家族的な意味合いで切り取ると、あまりにもわかりやすく、典型的な構造があることに気づく。 主人公アムロを中心に、アムロ(の成長)に対する「役割」を分析するとすると、父ブライト、母ミライで、兄はシャア、姉はセイラ、弟がハヤトで妹がフラウであろう。家はホワイトベースである。同作中にはそれぞれ構造的に重要な言動があったりするのだが、まあそれはここでは置く。 ここでは「そういやそうだな」と思っていただければいい。 作中では、「少年」であるアムロは手にした武器ガンダムを持って「家」であるホワイトベースを飛び立つ姿が何度も象徴的に描かれる。当初不完全で不安定なアムロ少年はホワイトベースから出撃し、さまざまな外部と触れ合って成長していく。 ガンダムの最終回では、それまでアムロ少年の心の拠り所であったガンダムが朽ち果て、それでも家族(ホワイトベースの乗組員)のもとに帰っていく姿が描かれる。「乗り越えるべき社会性」として振る舞う兄、シャアが、自身の社会的使命(ザビ家の排除)を果たして去っていくことを思えば、見事な大円団といえよう。 さてそんな「成長の物語」である『機動戦士ガンダム』を、エヴァンゲリオンは強く意識しつつ始まる。 ※<1話~4話>(DVD1枚目) いきなり疲れている。 10年前のアニメって画面がえらく稚拙なんだよな。 で、内容である。 アムロが17歳という設定であるのに対し、エヴァの主人公碇シンジは14歳である。低年齢化は時代の流れか。共通点をあげるとすれば、どちらの主人公も「実父が作成した巨大ロボットに、本人が望まないまま」、パイロットとして乗り込むことになる。 アムロ、シンジ両名とも自身の「社会的役割」に反発し、心身共に不安定になる点も同じ。「こんな役割はもうまっぴらだ」という意味のセリフは両主人公が両作品の初期にそれぞれ口にするが、シンジ君は葛城ミサト一尉に、アムロはセイラさんにビンタを喰らうのも象徴的だ。(ガンダムではアムロの代わりにカイが引っぱたかれるわけだが、この違いはあまり重要ではない。作中カイは常にアムロの影として描かれる) 両作品で大きく違うのは、「父性」の有無である。 少なくとも1~4話までには、エヴァに「父的存在」は出てこない。 父性とはすなわち「社会的存在」である。「少年」の成長に欠かせない、社会性を体現する者。 時に厳しく、特に暖かく、少年は社会に出るさいに社会との距離を測る基準となる者。ガンダムでは「軍人としてのブライト」であったわけだが、それがエヴァには存在しない。 主人公の実父である碇司令は単なるロリコンの異常科学者(マッドサイエンティスト)である。社会性を体現するとはとてもいえない。 見始めて初めて気がついたが、作中に「父性」が存在しないと、カタルシスがない。全編見た知り合いによると「エヴァには徹頭徹尾、カタルシスはない」と言っていたが、おそらくすれはこの父性の不在が大きく関わっているのだろうな、と思う。 4話までで主人公は2体の「使徒」(敵役ね)を倒すが、そこに「正義が実践された」というカタルシスはなかった。「とりあえず危機は去った」という安堵感が残るだけである。 人は何に触れたとき、正義を感じるのか。 おそらくそれは父性、すなわち社会性と強くリンクしているのだ。 探しものはまだ見つかっていない。 続きは後日。「使徒」の目的も存在意義も、まだ作中では語られていない。 主人公たちは「生き残るために」戦っている。 使徒はなんのために人類を攻撃しているのだろうか。
2006/05/03
ここ数週間で、カウンターが回る数が多くなっている。 ここだけでなく他のブログもスパムのエロTBや宣伝コメントが増えているところを見ると、業者関係が周回することが多くなったのだろう。 もともとこのサイトは更新が不定期であり、しかもたいていのエントリは長くて読みづらい。書いてる本人もよくわかっていない哲学的な記述がダラダラと続き、私でさえ読み返すと苦痛な日記がいくつかある。 そんなわけだから、いわゆるひとつの「通り過ぎるだけ」という人も増えているのだろう。別に私はそれを悲観しているわけでもなければ、改善しようという気もいまのところない。 コミュニケーションをとることだけを考えるのであれば、表出欲を抑えてもう少し読ませるようなテーマを短くまとめる。書きたいものを気兼ねなく書くことのほうが、今の私にはプライオリティが高い。 ただ事実認定として、ひとつ。 ネット社会がリアル社会に近づいてきたな、という印象がある。 ※ 1990年にWWWが開かれてから17年。よくも悪くもインターネットという世界は、これまでになかったコミュニケーションツールを用いて一部の特殊な人々によって成立してきた。 具体的に言えば個人用のPCを持ち、それをある程度の頻度で使うことができる環境にあり、そこで「誰かと語ろう」とする人々が、その世界専用の言語でもって成立してきたわけだ。 しかしネットに繋ぐ人口が急増したことにより、そこに「語らない人々」が大量に流入してき、この世界がいま急速に変わりつつある。 ※ webの特徴のひとつに、それは「個人的なメディアである」ということが挙げられる。 ネットは私と在米の友人を(4000?の距離を越えて)瞬時に繋ぐ。 けれどそれはあくまで小さいモニタ(窓)を介してのコミュニケーションであり、彼の手は届かず、身体感覚的な距離は遠いままだ。 長電話を続けていると、どんどん時間が濃密になり、自意識が肥大し、相手との精神的距離感が縮まっていく感覚を覚えた人は多いのではないか。ネットはそれを無自覚に加速させる。 目に見えない相手、手が届かない相手、身体的距離感が遠い相手と長くコミュニケーションをとっていると、それに比例して精神的距離感はどんどんと縮まる。なぜならそこでのコミュニケーションでは、「自分は【いま】、【ここ】ではひとりなのだ」と常に確認され続けるのだから。「自分はここに、ひとりで立っている」 そういうことを確認し続ける作業はしんどい。だからたいていの人は長くネットを回っていると、コミュニケーションを求める。「あたしはここにいる。あたしに対して返事を返してよ」と。「あたしはひとりではないんだ」と。 これまでのネット社会では、その世界に住む人々はすべてそうした孤独感を持っていることが前提となっていた。だからこそ特殊な共同体が構築されていた。 しかしここにきて。「自意識が肥大しきり、自分にしか言葉を向けない人」、「ブログを完全に(非公開に近しい)日記だとわり切っている人」、「情報を得るだけが目的で双方向通信に興味がない人」、そして「宣伝目的の業者」が増えてきたことにより、この孤独の世界観を共有できない人々が相対的に増えてきている。 もっと具体的に言おう。 この世界で言葉を発している貴方に対して、無関心な人がこの世界に増えてきているのだ。 それは町を歩き電車に乗っている時と同じように。 誰も貴方を特別だとは思わない。 誰も貴方に声をかけない。 誰も貴方と話したいとは思わない。 そういう社会にネットが近づきつつある。と思う。 それはおそらく一番最初に、ネット社会でのアイデンティティの在り方に変化をもたらすはずだ。そしてそのネット界でのアイデンティティの変化は、ゆっくりではあるが確実に、リアル社会での「人の在りよう」も変えていくのだと思う。 探しものは見つかっていない。 実在主義者であるサルトルは言った。自己とは他者と取り結んだ関係においてのみ創出される、と。「実在」とは他者との関係の取り結びようなのだ、と。 モニタを通して他者と繋がるかぎり、人は他者と同じくらい自己と向き合っている。自意識は自己により掘り下げられ続け、その容積は巨大化を続ける。内的で形而上的な世界だけが広がっていく。 それはおそらく、リアル社会と同じく、人にとってあまり心地いい社会ではないのだろう。
2006/04/25
学校の教室でいかがわしい妄想にふけっている時、ふと「誰かに思考を読まれていたらどうしよう」と思ったことはなかろうか。あまつさえ「読んでいるのは知ってるんだぞ!」などと頭のなかで叫んだことはないか。 まあ大なり小なり似たような経験は誰にもあると思う。 私の場合は中学の頃、英語の授業中に好きだった同級生の横顔をぼーっと見つめている時だった。 2500年以上の歴史を誇る西洋哲学では、「誰かが自分の思考を読んでいるかもしれない」という可能性を否定することはできない。人類の思考の歴史は「世界は5分前に作られたわけではない」ということの証明さえできていない。 ※ よく誤解されがちな哲学古典のひとつに、D・ヒュームの「懐疑論」がある。 人間は普通、無根拠に「明日も太陽は東から昇る」と思うし、「自分の思考は誰にも読まれていない」と思う。 しかしどちらも自然科学では証明できない。 ヒュームが提唱した「懐疑」は、この「証明できない」という部分だけが大きく取り上げられがちではあるが(実際証明できないわけだが)、哲学界では実はその部分はそれほど重要視されていない(当然の前提として踏まえられることは多々あるが)。ヒュームが懐疑論で述べたかった要旨も、この部分ではない。 ヒュームが言いたかったのは、「なぜ人は、誰も証明できないことなのに“明日も太陽が東から昇る”と思い、“誰も自分の思考を読んでいない”と思い込んでしまうのか」ということだった。 歴史学者であり哲学者でもあり、終生キリスト教会から敵視され続けたヒュームが出した結論はそれほど難しいものではなかった。 人は信じたいものを信じてしまうものなのだ、と。 明日も東から太陽が昇ると信じたいから信じるのだ。 神がそう決めたのでもなければ、教典にそう書いてあるからでもない。 そしてヒュームは続ける。 神や教典が定める「独断」から離れようぜ。それはすべての人間が寄る辺無き個人として生きることであり、徹底的な孤独のうちにその生を位置づけることになる。その道は辛く厳しいだろう。でも神も教義も人間が作り得た。 それは絶望ではなく希望であり可能性なのだ、と。 人は神さえも疑い得る存在なのだ、と。 ※ この「すべての前提は疑い得る」という論証は、当時欧州で支配的であったキリスト教だけでなく、その論理を導き出した西洋哲学そのものにも刃を突き立てた。 けれど忘れてはならないこともひとつある。 懐疑論には希望が込められていた。 それは紛れもない事実である。 ※ 現代まで残る大仕事をなした哲学者にしては珍しく、ヒュームの人柄は大変善良で友人づきあいも良好であったことが知られている。 キリスト教会や多くの敬虔な信者から異端視されていたにも関わらず、晩年エディンバラに隠遁したあとも、ヒュームの家にはA・スミス、H・ブレア、W・ロバート、A・ファーガソン、B・フランクリンなど高名な学者・聖職者たちが集まって彼の意見を聞きたがった。 無神論者と呼ばれたヒュームに、死を目前にした心境をアダム・スミスが尋ねると(当時は「信心のない人間は死後、何もかも無くなってしまう」と考えられており、恐れられていた)、「僕の著書で目覚めた人々が、そこらにはびこっている迷信の体系を粉々に崩壊させるのをぜひ見たい。だから三途の川の渡し守のカロンに“もうちょっと待ってくれないか”と頼んだんだ。でも“そんなことは何百年たっても起こりはしないからダメだ”と言われちゃったよ」と返している。 1776年8月、彼の偉業と人柄を讚えて付けられたヒューム自宅前の「セント・デイヴィッド・ストリート」には、大雨のなか葬儀に参列するために多くの人が集まった。 ある葬列者が言う。「でも彼は無神論者だったんだよな」。 別の葬列者がそれに答え、「いいや、彼は正直な人間だったんだ」と返したという逸話が残っている。 汝、しあわせであれかし。 主よ、彼の魂に祝福を。 探しものはまだ見つかっていない。
2006/04/23
知り合いっちゅうか腐れ縁のヤツとチャットで話していて、なんでか知らんが「昔の彼女の名前は憶えているか?」という話になった。 ザッと記憶を辿ったところ、最初1/3くらいしか思い出せず、ちょっと頑張ってみても半分くらいしか名前が出てこない。なんたるちーや。 その腐れ縁野郎に「酷い奴だな」とか「人でなしだな」とか冷静に言われたわけだが、そのとおりですすいませんしか言えない。 これはいったいどういうことだ。 トラウマか?(たぶん違う) えっとね。顔なら2/3くらい思い出せます。 これってさ、顔は思い出せるけど名前が思い出せないというのは、シニフィエとシニフィアン的にはどうなんだろうか。呼び名を記号として認識していない? そんなことを考えて、よしんばうまく論理的整合性がとれたとしても、言い訳無用で俺様がダメ野郎だということは変わらないので、考えるのをやめた。 まあなんていうの? 恋愛力が常に前向きなんだということでどうだろう。どうだろう。 探しものとか言ってらんないよね。
2006/04/19
春ですなあ。でも寒いですなあ。 なーんか最近、エントリが抽象的で観念的なもんばっかりになってる気がする。 ま、いーんだけどさ。そして今日のもえらく観念的デス。よろしく。 今回は不倫について語るわけだけども、私がこういうテーマで考えるとき、「法」についてはあまり勘案しない。「法=倫理とか道徳」とかになっている人は、(「骨の髄まで近代人ですねえ」とは思うが)このログを読むと不快だと思うのでやめたほうがいいと思います。はい。 ※ どうして現代日本では、結婚したらそれぞれの妻や夫以外を愛することは許されないのだろうか。もちろんこれは結婚しているカップルにかぎらない。彼氏や彼女がいたとしたら、その特定の相手のみに貞操を守ることが社会的によしとされている。それが現代日本の性的観念だ。 もちろんこれは「制度」であり、「権力」である。(ついでに前近代的でもある) その制度と権力によって、姦淫者は許されない。(ということになっている) それに逆らうことは社会的ないし倫理的に「罪」であり「罰」を受けるべきだと規定され、それを為せば「周囲の忌避の目」(という暴力)にさらされるだけでなく、なにより自分自身の「倫理観」に深く根差して個々人の行動や言動や情動を著しくさいなみ、「罪悪感」という名の心理規制が行為者を断罪し続ける。 この個々人の心理作用を、M・フーコーは「パノプティコン」と名付けた。 監獄である。 史上最強の「監視者」とは誰あろう「自分自身」(の良心とか常識とか社会的倫理観とか公共心とか信仰心とか)なのだ。 不倫を告白するサイトを見ると、どこからともなく飛んできた「名無しさん」や「通りすがり」が、「そんなことをいつまでも続けていてはいけない」と、ブログ執筆者に対して(真剣に相手に関わる覚悟を寸毫も持たないまま)暴力的に書き散らす。 そしてなにより重要なのは、たとえそうした無責任な他者による介入がなかったとしても、たいていの不倫者はその告解(不倫の告白)において「自身の行為は罪であり、いつしか自分は罰を受けるべきだ」(ないしはいずれ「通常の状態」に戻るべきだ)と理解していることにある。(多くの者はその理解により得られる背徳感を、不倫相手のその相手自身の魅力だと無自覚に誤解する) 不倫とはほぼ無条件で「更生」されるべき行為であり、不倫者とは「矯正」されるべき対象なのだ。それはたとえ「自分自身」がその行為をなしていても、である。いや、自分自身がやっているからこそ、自分自身が「裁きたい/裁かれたい/裁かれるべきだ」と思い込む。 現代日本では、通常、このような情動がまったく起きない人は厚顔と称され忌み嫌われる。 誰だって「周囲から忌み嫌われる」なんてのは嫌だ。 その「そんなのは嫌だ」という心理それ自体が暴力装置として駆動し、「制度」を完成させている。 ここにおいて、書き手が一定以上の容姿を持つと判明している場合には、異性は「俺もあたしも」と意味不明で誇大な期待を抱き、同性は必要以上に忌避するケースが多々見られるが、これは前述の「背徳感」とそれがもたらす愉悦により説明できちゃうわけね。 一夫一婦制なぞ長い人類史においては特異な社会現象にすぎず、おおむねキリスト教信者たちがデッチあげた幻想にすぎない制度であっても、多くの人はその思想の根本にある(アダムとイブのように)「ひとりの男にはひとりの女」という恋愛関係を「自然だ」と誤解する。 ※ 誤解されるとアレなんで書いておくが、私は「だから不倫はどーってことない」だとか、「みんなバンバンフリーセックスしてもOKぢゃん」とか、「不倫者たちは許されるべきだ」とか、あるいは「つか俺だってやってるしなんか悪いの?」とか言うつもりはまったくない。やってないし。 ただこの社会制度は「面白いなあ」とは思っている。だってそこには「近代」が覆い隠した欺瞞があり、「ねじれ」があるんだもの。これはさあ、17世紀に生きたT・ホッブスってオッサンがかました壮大なハッタリに、ものすげー多くの人が引っ掛かってるだけなんじゃないかと思うんだよね。 だって考えてごらんよ。「近代」の重要なルールとして、「人は他人に迷惑をかけず、自分たちの合意があれば何をしても構わない(個の自由、権利の保証)」というのがあるわけでしょう。いやあるんだよ。それが保証されて初めて「個」が成り立ち、その「個」の契約的集合体が「近代社会」(国家とかね)だと規定されてるんだから。 なんといっても、社会が個人を規定するのではなく、自立した個人が社会を組織する、というのが「近代社会」の要諦だからね。ま、厳密にいうと「社会(他者)からの規定」+「内的自我の統合」で、「自己」が立ち現われるわけなんだけども。 で。 ということは、当人同士の了解さえあればフタマタだろうがサンマタだろうが、誰に何を言われる筋合いはないわけだ。だから私は、不倫を忌避し、個々人が勝手にそれを断罪するのは「前近代的だ」と書いたわけだ。「自己」は「社会」(他者)がないと立ち現われない。 しかしいったん立ち現われた「自己」は、(自由と権利を保証されているがゆえに)自身が所属する社会を選び取ることができる。 けれども。前近代的な制度を一切残さない社会なんて、この地上にはないんだよね。フタマタ、サンマタを許す社会はあるけれども、それは別の強い前近代姓を孕む社会だったりする。 そして仮に「近代性を強く保持したままの男女の関係が成り立つ社会」が創出したとして(現代フランス都市部がわりかし近かったりする)、それはリバタリアン(自由主義者)が夢見たエルドラドであり、その彼らが夢想するユートピアに立って初めて、彼らはハタと気づくわけだ。 あれ? これって「強い者が勝つ」ルールぢゃん、と。 弱肉強食で、「万人が万人を脅かす」、素敵な奪い合いの世界だよ。 強い男(ないし女)が異性を独占し、君臨する世界なわけだ。「それじゃあマズい。あまりに厳しい。なんとかしよう」と思って創出されたハズの「近代社会」が、その自身が内包する「近代」によって、前近代社会を目指してしまう。 ここに近代が拭い切れない前近代性があり、限界があるわけだ。 ホッブス爺さんが「このままじゃイカン。厳しい。みんなすぐ死んじゃうよ」と危機感を抱いたのは、百年戦争でズタボロになった欧州で、という思想背景がある。 勝手に誰かが誰かを殺しまくる社会はもうまっぴらだ。最低限「命」だけはなんとかしよう、と思い付いたのが「リバイアサン」の創出だった。 その心情はよくわかる。 だから「自分の命」だけは保証されるし、主権を持つ者には「抵抗権」が認められている。「近代」という時代はそれに与する人々を豊かにし、「命」だけでなく「資産」や「家族」や「自由」や「権利」に対する侵害にも、抵抗権を認めるに至った。 けれどもここにきて。 21世紀の近代のどん詰まりに立って。 再び弱肉強食の世界(前近代に限りなく近い近代)へと立ち返る道を向かっているわけだ。 面白いよねえ。 探しものは見つかっていない。 私は不倫を告白している、という行為自体は別になんとも思わない。 けれども、その自身の「罪」に厚顔でいるよりは、悩み、さいなまされ、苦しみ、「明日は今日よりもうちょっとよくなる」と信じて生きている人には、けっこう好感を持っています。 前近代でいいぢゃん。ひとりでいるよりはふたりのほうがいいし、できれば愛する人とは「ふたりきり」になりたいもんだよ。 社会とは、その構成単位が小さくなればなるほど、そしてその外部が強大であればあるほど、結束を強める性質を持つ。 この広くて無秩序な世界に、「ふたりきり」なら最強だよ。 イエスという2000年前に生きた人類史上最強のホラ吹きは、たぶんそれを知ってたんだろうねえ。 だから「姦淫はやめとけ。ろくなことにならんよ」というそれまでの民間伝承(旧約聖書)を、自身も強く引き継いだんだろうね。
2006/04/18
『Op,ローズダスト』(福井晴敏著・文藝春秋刊)読了。 無事異国の地から帰ってまいりました。 で、飛行機のなかで読了。一気に読んでしもうた。 まあなんちゅーか、福井晴敏は出世作の『亡国のイージス』からずっと手法が変わらないなあ、という印象。特殊部隊で訓練を受けた若者と「古きよき日本」を体現するようなオッサンがペアで未曾有のテロと戦うってパターンね。 根底にあるのは常に「平和ボケした日本人よ目を覚ませ」というメッセージ。 TVタックルでハマコーが怒鳴るよりはずいぶん説得力あります。 ラスト近くにはガンヲタへのオマージュ的シーンもあったりしてね。泣かせます。 ※『世界をよくする現代思想入門』(高田明典著/筑摩書房刊)もついでに読了。 著者はたぶんすげー頭のいい人なのだと思う。私のように体系的に哲学や現代思想を学んでいない者でも、そう感じ取れるくらい平易に読み進められる内容だった。 一番関心したのは、哲学という学問の基本の基本を大変わかりやすく書いていることだった。以下、簡単に内容を抜粋してみる。Q.「哲学」とはどんなものか?A.「哲学」とは、 1.形而上学(ある事象がもつ「意味」、「理由」を考える学問) 2.倫理学(ある事象の「正しい状態」を考える学問) (合わせて「正しい」とは何か? どんな状態か? を考える学問) 3.論理学(形而上学で考えられた「意味」を見据え、倫理学で考えられた「正し い状態」にまで辿り着く道程を考える学問) 以上の3つの学問の総称。Q.「哲学」と「現代思想」の違いとは?A.上記1~3において「普遍的な回答がある(真理)」と考えるのが哲学。そうではなくて「目的が違えば手段が違うため、普遍的、汎用的な回答はない」と考えるのが現代思想。Q.「哲学」および「現代思想」の目的とは?A .哲学や現代思想に限らず、すべての学問は「人々を幸せにするため」のものである。「人々を幸せにするための普遍的な回答がある(それを探す)」というのが哲学であり、(上記のように現代思想では「普遍的な回答はない」とするため)「ケースや考え方によって回答は異なる」、とするのが現代思想。考え方の根本的な部分が違うため、両者はまったく別の学問であると認識すべき。Q.なぜ哲学は「諸学の王」と言われていたのか?A.あらゆる学問に共通する(普遍的、汎用的)、「考え方の手法を考える学問」だから。哲学は長きに渡ってその成果を多くの学問にもたらした。しかしだからこそ、現代思想に移行して「普遍的な回答はない」とされて以降、哲学は諸学の王とは呼べなくなった。(もちろん「現代」という時代にも、「普遍的、汎用的な回答はある」とし、それを求める「哲学者」は存在する)Q.「哲学」と「現代思想」で得られた成果の要諦を簡潔に表わすと?A .ある事象を認識するとき、人は「それはAか、非Aか」という認定の繰り返しを行なう。しかし根本的にはその2分法の設定自体を疑うべきである、ということ(この疑う行為を「脱構築」という)。Q.で、哲学や現代思想は「世界をよく」したり「人々を幸せに」できるのか?A,現状ではできる人もいるし、できない人もいる、としかいえない。が、いまもそのふたつを「できる」ようにするために考え中。現在までの結論としては、「自分も含めた周囲数メートルの範囲の人やものが幸せという状態に近づけるように各人が努力しましょう(それより狭くても広くてもロクなことにならない)」ということになっている。 まあこんな感じ。簡単でしょ? 哲学や現代思想系の本やサイトで書かれている難解な文章は、(それが体系的に学んだ人が書いたものであるならば)すべて上記の原則を押さえてあるはずである。逆に言えばこの基本中の基本を押さえていないものはたいがい偽物、というより生兵法というヤツだ。 いやもちろん生兵法が悪いとはいわない。このサイトで書かれるすべての文章だって生兵法だ。ただいかなるものであっても「本物」には敬意を払うべきだと私は考えているし、そのためには「本物か生兵法か」を見分ける手法はなるべく多く確保しておきたい。 で、私としては。 上掲書の著者が書いた現状の結論。「自分も含めた周囲数メートルの範囲の人やものが幸せという状態に近づけるように各人が努力しましょう」という部分。これがすこぶる気に入っている。小学校の教室に掲げられた月間目標みたいでいいでしょ。 政治とか、思想とか、経済とか、軍事とか、社会とか、文化とか、人間関係とか。 難しく語ろうと思えばいくらでも難しく語れる。また、簡単に語ろうと思ったっていくらでも簡単に語れる。どちらも必要以上に為されたものに、私はあんまり興味がない。 ※ 人は記録に残っているその始めから、歴史が始まったその最初から「幸せってさ、なに?」と考えてきた。なんなんでしょうねえ。 探しものは見つかっていない。今日も探す。やれやれ。 過日、NYのビーチェ本店でイタリアンをいただく。 値段のわりに庶民的な店内の雰囲気は好感が持てたけど、ローマの街角の定食屋で食ったパスタのほうがうまかった。人生経験としては、街娼と交わした立ち話のほうが役に立ったような気がするなー。NYは住みづらいってさ。「ここは完全に人間が作った、人間のルールで回っている街だから」だそうだ。深いねどうも。 またサボテンでも買って帰るかね。
2006/04/17
来週から一週間ほど異国の地に旅立って来ます。 ネット環境は確立してるんだけど、たぶん仕事でいっぱいいっぱいなので皆さんご機嫌よう。 なんつーかまあ06年度も社畜っぷりにターボかけてお送りいたします。 ※ 内田樹著・編の『9条どうでしょう』(毎日新聞社刊)を読んでいる。 読みでがあったのは町山智浩の章くらいか。以前このサイトで熱く語った「国民意識の喚起のために徴兵復活!」を町山が書いていてワロタ。 結局9条を巡る問いとは「普通の国」とはどういうものか? という各人のイメージに拠るところが大きいような気がしてきた。これを語るためには「普通ってなんだ」という大変面倒くさい問いに直面しなければならないので、それは措く。 ただ内田が上記著作中で述べるように、「普通になりたい、というメンタリティがよく理解できない」というのは私も同意する。「普通(のまま)でいい」ならわかるんだけどね。あと町山が書く「米国が国家として保障する自由」についての考察については興味深かった。(以下引用) たとえば、アメリカでの星条旗焼き捨てを見てみよう。国家への反抗として星条旗を焼き捨てる行為は、六十年代のベトナム反戦運動や、黒人民族主義運動の過激派がよくやった。最近はスパイク・リーが「圧制の象徴である星条旗を焼き捨てろ!」とアジっているが、その行為にはすでにあまり効果がない。というのも、九十年代に星条旗(自分で買ったものに限る)を焼く行為を罰することが憲法違反だと判決されてしまったからだ。星条旗は国旗を焼き捨てる自由すら保障する国家の象徴だ。焼き捨てるよりは振ったほうがいい。かくして、保守も反体制も、少数民族もゲイも、自由の象徴である星条旗を振る。僕はイラク戦争に反対するデモに参加したが、デモ隊はブッシュ大統領を自由の敵と攻撃しながら、みんな星条旗を振っていた。日の丸を強制することがいかに逆効果かわかるでしょう?(以上『9条どうでしょう?』p87~88より引用終了) たとえば現日本政府を批判したいと思ったとき、日の丸を(焼くのではなく)振る日本人というのはいるのだろうか。いねーだろうなあ。 ここらへんが町山のうまいところだと思うのだが、彼は「自由の象徴である星条旗」とは書くが、「国家が保障する自由を象徴する星条旗」とは書かない。 その「自由」は誰に保障されたものなのか? 国家か? 人権か? 本来は「国家を規制する憲法に記された人権」に保障されている【だけのはずの】国旗を焼く自由が、それを主張する人々が星条旗を振ることによって「国家が保障する」ということにすり替わっている。 うまいね、アメリカも町山も。 米国民が信じる「自由」とは、(星条旗を振って主張するかぎり)「国家に保障された」、「国家が保障すべき」、自由でしかない。しかし本来「独立宣言」や「米国憲法」で謳い上げられた「自由」とは、そんな矮小なものではない。 にも関わらず、「星条旗」は「自由そのものの象徴」を擬態する。 わしゃその手法が恐ろしいよ。 ※ 護憲派も改憲派も、護憲派よりの改憲派も改憲派よりの護憲派も、あるていど憲法問題を真剣に考え、いくばくかの資料(憲法そのものも含む)に目を通した人であるならば誰でも、その認識において一致しているところがある。 先制攻撃権どころか自衛権まで放棄したかのように読める日本国憲法第9条は「理念を表わしたものである」ということだ。 これを「いまある現実に合わせよう」とするのが改憲派であり、「現実に合わせる必要はないだろ」とするのが護憲派の主張である、と括って大きな間違いはない。 乱暴でスマンが、どちらの主張にも一本スジはとおっているような気が、いまはしている。 なんか憲法について考えると頭が痛くなってくるよね。 なんでだろ。 探しものは見つかっていない。 眠いぞえ。
2006/04/07
東京の桜はただいま八分咲き。 今日18歳のモデルさんと仕事したんだけど、事務所から「これよかったらどうぞ」と言われて渡されたのが、その子が14歳の時に撮ったイメージビデオだった。先ほどPCでチョロッと再生したら、水着姿で戯れており大変可愛かった。 んだけど。 そのDVDは数万枚売れたそうで、で、そのDVDを買った野郎どもはどういう目的でその動画を見るのか、ということを考えたら、かなり暗い気分になった。 いや可愛いんだよ。凄く。 この可愛さは多くの人に認められるべきだとも思うし、この子自身は体を張って商売をしているわけで、それに値する対価を受け取るべきだと思う。 けどね。14歳だよ。 私が「資本主義なんかクソったれだ」と思うのは、こういう時なんだよね。 ※「別れた。悲しい。なんか奢れ」という大変簡素かつ直情的なメールが古い女友達から届いた。かねてから相談するたんびに「早く別れろ」と、ムダと知りつつ(誰からだろうが他人から言われたことで信念を曲げるような女ではない)言ってきた手前、「よしゃ。奢ってやる。なんでも好きなもん言ってみろ」と返したら、「コンラッドのゴードンラムゼイでディナー」 とか書いてきやがった。 ちょwwwwwww「女というのはだね。恋が終わるとお腹がすくのだよ」 ということを書いてきたのだが、いやそれはわかるんだがそれと夜景が飛び切り綺麗な高級フレンチとの繋がりがよくわからん。 ずいぶん昔、村上龍が友人として、とあるいい男といい女の別れ話に立ち合った時のことを書いていた。 どうしようもないどん詰まりの関係に陥った二人は、静かに別れ話をし、女は美しい涙を流していたそうだ。 大粒の涙を流しながら女はしかし、話が終わると村上の奢りで出てきたこれまた飛び切りのステーキをパクパクと食べ始め、「リュウさん、美味しいっ! これ美味しいのっ!」と言い、1人前きっちり食べ切ったそうだ。 もちろん泣きながら、である。 こんな連中と真剣勝負するなんて、間尺に合わんと思う。 俺達が「勝った」と思った瞬間のたいていは、勝たせてもらっているのだ。 というわけで養老の瀧にならんかのう。 ※ 話は極端に変わるわけだが。 クラシックで『春』といえば、おそらくビバルディの『四季』にある、協奏曲第1番に付けられたタイトルが一番有名であろう。中学校の昼休みとかにかかっていたあの曲だ。 けれど私はベートーベンのバイオリンソナタ第5番のほうが、なんだか好みである。 ベートーベンのバイオリンソナタは10番を除いた1~9番(私が持っているCDには第9番とセットで5番が収められている。どちらもオススメだ)を、彼は30歳前後の時に作ったと言われている。 1770年の年末、ドイツのボンに生まれたベートーベンが30歳前後といえば、全ヨーロッパの関心が、フランス革命とその鬼子として誕生し好き放題暴れ回っていたナポレオン・ボナパルトに向けられていた時代である。 ベートーベンのラインナップをふと眺めて見る時。 後年に作られた偉大な交響曲の数々はもちろんスーパーウルトラ大傑作ではあるけれども、私はこの、「自分が生きているこの時代の大変革期に、俺は音楽で世界を変えてやるのだ」という意志に満ちあふれた「バイオリンソナタ第5番」が、なかなかに気に入っているのだ。 ※ 私はクラシック音楽に興味なんかない。 フランス革命史にも暗いしベートーベンの人生もよく知らない。 ただ10年くらい前に「こういうの聞いてたらカッコいいかなー」と思って、ワゴンセールのなかから数枚取り出したCDのなかに、これが入っていただけの話だ。 歌詞カードの代わりに入っていたライナートートにベートーベンがこのピアノソナタを書いた経緯が簡単に書き留められており、そこで「春」という副題はベートーベンの死後に誰かが付けたものだと知った。 まこと「春」というタイトルが似合う楽曲だと、何度聞いても思う。 ※ 汐留の47階にある高級レストランの名前だとか。 クラシックとか。 フランス革命史だとか。 こういうことを知っていると、一般的に便利だったりする。具体的には女の子と話す時に、守備範囲が広がる。美少女フィギアの制作者だとか声優の本名だとか、鉄道模型だとか軍事とか政治思想だとかよりはずいぶんマシだ。 差別だよなあ。でも「していい差別」だよなあ。 なんてことを少し考えた。 探しものは見つかっていない。 男と別れた女友達にDVDをプレゼントしたら嫌われるかなあ。うーむ。
2006/03/29
桜がチラホラ咲き始めましたね。いい季節です。 毎年この時期になるとネットを中心に大きな事件が起こる、という印象があるんだけど、どうなんだろうか。 さてさて懸案となっている町山論争の本論なんだけど、まあボチボチ書いてはいる。いるけど出さないかもしれない。それを出すまで日記も書けないというのもバカバカしいので、あえてそれ以外の話題をば。 ※ トヨタ自動車の会長であり経団連の会長も務める奥田碩氏が、講演で「勝者が報われ、敗者も次のチャンスが与えられて、努力次第で勝者になれる仕組みを作るべきだ」と発言したそうだ。(ソースはここ) 発言の一部分だけを切り取ると意図が伝わらないのであらかじめ書いておくと、奥田会長は上記発言の前に「(格差社会は)高齢化や核家族化などが背景にあり、(小泉首相の)構造改革の影響ではない。誤った印象論で構造改革を中断するような事態は避けるべきだ」と言い、「そのうえで」と前出の言葉につなげている。 ※ 政界や財界でいま活発に議論されている「格差社会の是非論」が、なぜかどれもこれも白々しく響いてしまうのは、その根底に「人間はみな平等である」という「庶民にはとても同意できない前提」があるからだ。 奥田会長といえば近年稀に見る「物事をハッキリ言う人」ではあるが、その奥田会長ですら言えないことがある。人間は平等ではない、と。格差なんか生まれた時からある、と。 小泉首相が「格差がでるのは悪いことではない」と言い、なぜそれが問題になるのか。 その論議が本質的に転倒している原因がここにある。 格差はあるのだ。それは生得的に存在している。 日本の中流家庭に生まれるのとアフガンでゲリラの子として生まれるのと、その後に歩む将来が平等であろうはずがない。もっと根本的な話をすれば、小谷野敦、宮崎哲哉、内田樹らが主張しているように、こうした議論には常に「遺伝」(および初等育児環境)の格差についてまったく無きがごとく取り扱われている。 少年ジャンプとバラエティ番組しか見ない家庭で育てられた子と、岩波や筑摩の全集をシリーズで揃え、TVはNHKしか見ない家庭で育った子とで、学校での国語力や会話での語彙に【差が出ない】と主張できる者を、私は知らない。 私は少年ジャンプと夏目漱石全集とで、どちらが高等でどちらが低俗かなどという話をしたいわけではない。『ワンピース』からは高校入試問題は出ないし、マンガしか読まずに育てば語彙は貧困になると言いたいのだ(このブログを見よ。なんと貧困なことか)。 格差は最初から存在する。それも埋めようの無い格差が。 ではなぜ小泉首相の「格差は悪いことではない」という発言が問題視されるのか。 それは「近代国民国家」という、いま我々が暮らす社会そのものが、「できるだけ格差を減らそう」という目的のもとに設置されたシステムだからだ。 あなたと私は違う。 頭の中身も顔も性格も倫理基準も道徳観念も好みの異性も好きな食べ物も、もう何もかも違う。それは埋めようがない。その本来埋めようがない「差」を、「国民」という名の元に塗り潰す効果を狙ったのが、「近代国民国家」というシステムなのだ。 なぜか。生産性を向上するために。軍事力を増強するために。共同体を強固にするために。今日より明日はもうちょっとだけ豊かになれるように。身近な不幸を目の当たりにして後ろめたくないように。 そうした理由で、人は近代に入り、民主主義を作って「国民国家」を創出した。「格差がいいか悪いか」などという議論をしたいわけではない(そんなものは最初から存在している)。議論の前に、目的を忘れてるぞコラ、という話をしたいのだ。 現在の日本政府および小泉首相が、「格差社会」を歓迎することについては、私は賛成も反対もしない。ただ目的をすり替えるのであれば、ひと言あってしかるべきだろう、とは思う。 探しものは見つかっていない。 まだ花粉とんでるよね。嗚呼。
2006/03/27

町山論争関係のエントリーがいっこうに進まない。 終わるのかコレ。 そんなわけで期待して見に来てた皆さんすいません。 ※ 雨降ってるね。 日本は3日にいっぺんは雨の降る国です。それはつまり、人生のうち3分の1は雨に出会っている日があるということだ(そのまんまですね)。まあここでは何度も書いているように「雨」というのは日本列島の風土を象徴するような気象なわけで、だからしてえらいこと古くからたびたびモチーフにされてきた。 どれくらい古くからかっつーと、古事記&日本書記から。 つまるところ、遡り得る一番古くから語られているわけです。 放蕩息子で暴れん坊のスサノオが勘当を喰らい、「姉ちゃんこれで許して」と言って天照に献上したのが天叢雲剣(雨叢雲ぢゃないよ)でして、叢雲というのは積乱雲を指すといわれてます。 この剣はヤマタノオロチの尻尾からポロッと出てきたもので、それに関する神話解釈は諸説紛々なわけですが、まあ一般的にはヤマタノオロチは「山」を指し(「洪水、水害」を指すという説も有力)、叢雲は文字通り雲を呼ぶ剣なわけです。 山に積乱雲が立って雨が降り、それが川に流れ落ちて清流となり、稲田に豊作をもたらす、というような解釈が、私は好きであります。 ※ 町山智浩関係はまあボチボチ書いているんだけども、ふと自宅の本棚を見ると町山と同じ映画評論家の(さすがに格が違うけど)蓮實重彦の『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』(青土社刊)が目に付く。 おお久しぶり、と思ってパラパラめくると、やっぱり蓮實はメタメタに面白いわけだ。 蓮實といえば元東大総長なわけで、ある講演が終わったあとに、質疑応答の時間に学生から「用語が難解すぎてよくわかりませんでした。なぜ大学の先生の講演はこんなに難しいんですか?」と問われたお人。 おそらくこれは一時期流行ったソーカル事件あたりで顕著になった流れのひとつで、いわゆるインテリと呼ばれる人に対して「賢しらに振る舞ってるだけぢゃねーの? ホントに理解して使ってんなら俺達にわかるように話せよ」だとか、あるいは「知識人はもっと大衆に寄り添うべきだ」みたいな魂胆が学生にあったのだと思われる。 そんな質問(というか揶揄?)を受けて蓮實重彦御大答えていわく。「(難しいと思うのは)それは貴方がバカだからです。」 と一刀両断にしたのが有名な大先生。 まあ私のような愚民はただひたすらリスペクトするより仕方がない方であります。 ちなみに私は縁あって一度だけ蓮實の講演を聴いたことがある。すげーわかりやすくてしかも面白かったわけだが。「学生たちとの団交の席で、教師たちがつぎつぎと野次り倒されたが、蓮實重彦だけは、ほとんどポーカーフェースで、静かに、学生たちと討論した。私は蓮實の説得術を見て、いままでとはまったく異なるパラダイムで物を読み出す方法があるのに驚嘆した。もちろん学生たちは誰一人として蓮實重彦に太刀打できず、団交はいつも学生たちの空振りに終った。」(辻邦生著、『海燕』第11巻第9号の記述。こちらより孫引き) まあ上記のような具合である。 講演録は「蓮實重彦 講演」で検索するといくつか読めるのでご参照あれ。 温和な表情と柔和な語り口で、内容は高度なのにスルスルと頭に入ってくる。 そんな蓮實が語ったものだから、「中田(英寿)は日本のスポーツ記者を全員バカだと思っていて、それは正しい」だとか、「バカばかりがスポーツを語るから美しいスポーツが生まれない」だとか、まあ過激なわけだ。 そのうち使うだろうと思ってフリーページに引用しといたオルテガ(『大衆の反逆』)しかり、ニーチェ(『道徳の系譜』)しかり、このへんの系統だとハイデガーやポパーやフーコーも入るのかな? とまれ、「バカが大嫌いで、ちゃんとバカにはバカと言う」を実践するスーパーインテリの書くものは大変面白い。「ああなるほど確かに、サッカーは文化なわけないな」だとか、「動物たちが見せる文化の破壊を楽しむ」だとか、そんな記述にフムフムと言っているうちに時間は経つもので。嗚呼仕事とかブログで書こうと思ってたことは後回しに。 探しものは見つかっていない。 大掃除の最中こそ、出てきたアルバムを眺めひたってしまうような感じ。 やめられない止まらないごめんなさい。 でもって下はネットで拾った画像。蓮實重彦が東大総長時代(画像の「前」はあとで加えられたもののようだ)に学生が作ったコラージュ。これ、山下耕作監督(1968年)が撮った『総長賭博』の宣伝ポスターを、主演の鶴田浩二の顔を蓮實に置き換えてTシャツにプリントしたもので、実際ネットで販売されてたそうだ。 ほ、、、、、欲しひ。。。。。
2006/03/16
「序論」と偉そうに銘打っておきながら、本論をアップするかどうかは未定。 なんか少年漫画の「未完」みたいだ。 ※ のこのこ映画を見に行ったこともあって、3月10日の日記で取り上げた、町田智浩の『ホテル・ルワンダ』論争について書き始めた。……んだけども、関係サイトをぐるぐる回ってあれもこれも、とリンク貼ったり自分の立ち位置を確認してたりしたら、あっという間に2時間近くたってしもうた。 なんだかメタメタ疲れたんで一時中断。ギブっす。 時間を見つけてちょぼちょぼ続きを書いてはいるけれども、完成したとしてもアップするかどうかわかりません。まあ「なにがどう問題になっとるんだ」という方は下記リンクでも読みつつ気長に待っててくだせい。端緒となった、町山パンフレット全文http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060304/1141410831各所で論戦を巻き起こした端緒の記事http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225 もはやタグ打つ気力も尽き果て。 書いている内容はいろいろあるんだけど、最後の一文に関する違和感だとか町山の狙いだとか、そんなことを考えてまつ。 ※ ちょっと唐突だけど、私は「普遍的な倫理」とかいう文言が出てくるとゲンナリしてしまう。そういうものを求めてしまう心象は理解できるんだけどね。や、そういうことを書いている人がいてね。なんかもう優生学とか「人類補完計画」とかまであと一歩だなあ、とさえ思ってしまう。「普遍的な倫理」なんちゅーものが「ある」と思える心象に憧れさえ抱いてしまうとともに(皮肉じゃないよ)、そういうものを求める発想が虐殺を巻き起こしてきた事例もあるだろうになあ、とも思う。 例えば特定の宗教や特定のイデオロギーや特定の民族感情があったとして。それらはそれぞれ「人」に対して功罪があって、平たくいえばそうしたものは、他者に対しての虐殺を防ぎもするし、加速させたりもする。 町山論争では「職業倫理」とか「家族愛」とかが取り上げられているけれども、このふたつだって人を殺しもするし、助けもする。そんなことは町山が踏まえてないわけないじゃないか。町山が、さも「職業倫理を貫けば人は救える(ルワンダで虐殺を防いだ)」と読めるように書いたのは、もちろん理由がある。と思う。 町山はこの映画を見せることで、お前ら「虐殺」のこと、「世界」のこと、「歴史」のことを、もうちょっと考えてみてくんない? と思っていて、おまけに「もし万々が一、この映画を見たことで、見て考えたことによって、虐殺なんちゅう悲惨なことが起こる可能性が、ほんのちょびっとでも減ればいいなあ」とも思っちゃっている。 そのための仕掛けとしてあの一文を盛り込んでいるのだ。そんなのわかってるって? いいや、わかってないね。町山は1月14日付けの記事で「観客一人一人の中にある排他性、つまり虐殺の芽を摘むことなのだ」と書いたすぐあとに、2月25日には「『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない」と嘆いているのだ。 町山はプロのエンターテイナーだから、心の底では「映画で人が救える」なんてことは考えていない。絶対考えてない。と思う。映画も音楽も演劇も文学も、人が背負ってしまった業(人は他者との関係性に立脚しなければ人たりえないにも関わらず、人を殺し続けてきたしこれからも殺し続けるだろうということ)を軽くすることはできない。 ただそうした物語は人類史の誕生からずっと「涙を拭くハンカチ」として機能してきたし、これからもそういうツールとして存在しつづける。人間はそういうものが必要なのだ。 だから町山のようなインテリは、(あたかも芥川が「小説」というツールに悲壮な決意を込め続けたように)「救えやしねーよ」という確信を持ちながらも、「映画っていいもんだろ」といい続けているわけだ。 そういうところをまるっと無視してあれこれ言うのは、そりゃなんつーか。 可哀相じゃね? ※ いろいろブログを回ってる過程で、「映画評論家なんかに、“その映画の見方”なんかを説教されたくない」なんていう表現を見かけた。誰も「見方の説教」なんかしとりゃーせんし、そんなことを言うならパンフレットなんか買わなきゃいいのに、と思った。あとそういうことをブログで書くのは「見方の説教」ではないのだろうか? わからん。 ※ そうこうしているうちに仕事も煮詰まってきちゃったんだけど、昨晩聞いた世界一不幸な女性の逸話を思い出しつつ頑張ってみる。 俺よりだいぶ不幸な女の子がいる。だから俺も頑張れ。 そんな感じで仕事してます。 いま地獄の底のほうから「おのれぇ~」とか聞こえてきたけど、耳なんかとっくに塞いでるしそもそも涙で前が見えない。まあしょーがないよ。私は一回くらいヤってんじゃねーか? といまだに思ってるし。 ※ 昨夜遅くにTVをつけたら自民党の武部幹事長が「謝罪広告を載せるということなので、(民主党や永田議員にたいして)民事でも刑事でも告訴しない」という旨の会見を開いていた。 永田議員は国会内で武部に対して「金に汚いのは貴方じゃないですか!」などと言っていて、それについては小谷野敦先生が3月2日付けの記事(気力と礼儀でタグ打ち込み)で、「憲法五十一条に、国会議員が議院内で行なった演説等について、院外で責任を問われない、とある」と書いてらっしゃる。「特定人物の名誉が毀損され、自殺した事件でさえ、国家賠償法による賠償請求は最高裁で棄却判決が支持されている」として、判例を引用している。 判例の理由を読んでみたが、まあ妥当な理由だ。 国会議員の発言責任は国民全体に対して負うものであって、特定個人にはない。国会で名誉棄損だなんだと騒がれることで、議員の自由な発言が阻害されてはならない、ということだね。 そりゃわかるんだが。 小谷野先生は「責任追求など不可能である」とおっしゃっているが、武部は一応それらの判例を踏まえているっぽく、永田議員の「国会内の発言」ではなくて、「TV等での発言」に対して告訴を準備していたようだ。いまソースを探してたんだけど、面倒くさくなったんで捜索中止。 確か『TVタックル』かなんかで永田議員はたいそう吠えていたから、それについて告訴するつもりだったんじゃないかなあ。 ※ あー。ちょろっと書くつもりがだいぶ長くなってしまった。 私には、文章をもうちょっと適当に書き流す訓練が必要だ。 探しものはまだ見つかってない。
2006/03/15
日本中のスギを切り倒してほしい。 気力も体力も尽き果て(もともとそうたいしてあったもんでもないが)、屋内でジッとしている。 ※ 会社のすぐそばにお花屋さんがあって、通勤の途中やお昼を食べに外にでるたびに、「ああ今日もキレイな花が咲いているな」と思う。 たまに「花束でも買って帰ろうか」なんてことも思ったりする。 そういう時、家に買って帰った場合に一緒に喜んだり、「いったいどういう風の吹き回しだ?」と怪訝に思ったりしてくれる相手がいることに、少し幸せな気分になる。 自分の行動にたいしてなんらかの反応が帰ってくる。 それが期待できる。 もしもそれができないとしたら。 恋愛というものが人のコミュニケーション欲発露の一種だとするならば、この「何かを贈りたい、何かを発したい」という感情の受け止め先を求めること、その感情そのものが、ものすごく生のかたちをした「恋愛」なんじゃないかとぼんやり考える。 ※ 久しぶりに鴻上尚史の『プロパガンダ・デイドリーム』(白水社刊)を読み返している。 殺人事件を起こした息子を持つ家族が、いかにしてメディアに翻弄され、それに抗うか、というストーリーの骨子に、恋愛をまぶした感じの戯曲だった。 殺人者(長男)を家族に持った父は「世間への謝罪」を拒み、母は自殺し、長女は絶望する。そんななか、主人公である次女は一編の小説を書き上げ、それを話題にしてほしいと、ルポライターやテレビ局のプロデューサーに売り込んでいく。 その小説は「傷ついた者」を癒す教祖が登場し、信者の悩みや苦しみを理解しつつ、昇華し、「世間」と戦うモチーフとなっていくストーリーだった。暗号の羅列のようなこの小説を、売れないルポライター・山室はただひとり理解し、それを書いた次女の感情に思いを寄せる。 まあいつものとおり、モチーフがわかりづらい。ただ鴻上の作品はどれも、演劇というツールを用いて観客(および読者)に「わかってくれよ」という悲痛な叫びが描写されていて、その悲痛さゆえに心に残る。「私(俺)を理解してほしい」というのは、非常に原始的でなおかつ根源的な願いだ。だからこそ、わかりやすく響く。 ちなみに『プロパガンダ・デイドリーム』には冒頭に、“「新しい教科書を作る会」の西尾幹三郎氏”というキャラクターが登場する。アイパッチをした軍服姿で登場し、日の丸をバックにして、『君が代』をケータイの着メロにしている女子高生に対し、そんな女学生は、銃殺だ。それが嫌なら、従軍慰安婦にさせろ。 と言う場面がある。 なかなか上手な戯画化だった。 ※ 毎日新聞が朝日の笑える体制変更を報じている。 ここね。 記事によると、社員のメールとweb閲覧記録を3年間保存しておいて、調査委員があとでチェックできるようにシステムを変更するそうだ。「情報源と微妙なやり取りもある。会社に見られる可能性があれば使えなくなりますよ。自由な言論を掲げる報道機関が検閲まがいのことをするのかと、みんな呆れてます」(中堅記者) いままでチェックしてなかったのか、と驚いたのがひとつ。 見られて困る(横やりが入る可能性が高くなる)ようなやり取りをメールなんかですんなよ、というのがひとつ。 でもって、もうなんというか。 これ以上ないほどに、「報道機関」という存在自体が絵に描いた餅だった、ということを裏付ける記事だね。えー、お前らそれ、食えると思ってたの?? みたいな。 この監視システム導入のきっかけとなった出来事のひとつに、「朝日新聞vs.NHK問題」で話題になった『月刊現代』への記事素材流出問題が挙げられているという。 古い友人がセコセコとweb上に要点を書き写していた例の「証言記録」である。お疲れさま。 このNHK番組改編問題を追いかけ続けていた朝日の名物記者、本田雅和は、この4月1日付けで「アスパラクラブ運営センター員」に異動になるとのこと。どこだよそれw。毎日の記者が本田自身に「今回の異動に何を思うか」と電話で直撃取材したところ、「くだらないことを聞くなよ。ジャーナリストなら、もうちょっとまともなことを取材したらどう?」 と答えて切ったそうだ。 ま、確かにまともじゃねーわな。アンタの動向は。 せいぜい「アスパラクラブ」で頑張ってくだせい。 私の探しものは見つかっていない。 メディアなんかに何かを仮託するなよ。莫迦を見るに決まってるんだから。
2006/03/13
花粉がひどくて仕事する気力がまったくわかない。 今日は雨なので少しマシ。しかし寒いね。 ストレス解消に買い物でもするべえとAmazonを回って、こちらを予約。カエラ好き属性ではあるのですが、主な目当てはもちろん白井ヴィンセントだぜ。 つばカッター&微笑み返しサイコー。 ※ この週末は、リスペクトしている物書きののひとり、町山智浩が「見るべし」と推薦している『ホテル・ルワンダ』を見に行こうかと思っている。 粗筋や歴史背景の紹介はこちら。 町山の推薦の言はこちらを参照。 映画は10年前にルワンダで起こったフツ族とツチ族の虐殺劇を舞台にしており、そこで職業倫理を貫いて1200人を守ったあるホテルマンを主人公にして描かれている。(上記町山のブログより引用) 孤立無援のポールさんを最後まで支えたのは、愛国心でもキリスト教の教えでもなく、ホテルマンとしての、接客業としての職業倫理だった。 つまり「どんな客も差別しない」ということ。接客業では、店内に入ってきた人を、たとえ客でなくても、どんな服装をしていようと、どんな人種だろうと、基本的にお客様として取り扱うよう教育される。もちろん「他のお客様のご迷惑になる」時は出て行ってもらうこともあるが、「追い出す」のではなく「お帰りいただく」わけだ。 ルワンダは国家をあげて虐殺を推進し、キリスト教教会でも虐殺が行われた。 国家や民族や宗教が、隣人への差別と憎悪を押し付ける時(戦争時はたいていそうだ)、 ポールさんは職業の倫理だけに従うことによって、多数派から独立した判断を貫いた。(中略) ポールさん自身は英語版DVDの付録で『ホテル・ルワンダ』を見た人に求めることとして次のように言っている。「ルワンダを教訓にして、この悲劇を繰り返さないで欲しい」 つまり、ルワンダへの寄付ではなくて、あなた自身の生きる場所でルワンダの教訓を活かせ、と言っている。(引用終了) 町山は映画館で購入できるパンフレットにも「解説」を寄稿しており(この映画の公開のためにそのほかいろいろ尽力してきたらしい)、その最後の一行に「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」と書いた。 そのひと言について「なーんだ、町山って“ウリはいつでも被害者ニダ”の人なんだ」と思ったブロガーがいたようで(町山の父親は韓国籍)、「中等教育は受けたのか?」と町山に反論を喰らっている(こちら)。 平たく言うと、素人ウヨDQNが宝島出身の元祖サブカル保守論客相手に(準備も覚悟も素養もないまま)ケンカを売り、逆に馬乗りになられて(言論で)ボコボコに殴られた、ということのようだ。 一部コメント欄で「町山は大人げない」なんちゅう意見があるようだが、まあネットでの批評で大人げないもヘッタクレもないわな。戦闘力の差が圧倒的なのは、別に町山のせいじゃない。 ※ このホテルマン自身が固執し、1200人の命を救った価値観とは、平たく言えば「誰が使おうと1ドルは1ドルである」という資本主義イデオロギーだ。その根底には人権思想が流れており、そこには旧来の価値観である「人種、民族、宗教」といった人間区分方式ではなく、「客とサービスマン」という区分が採用されている。 私自身は人権思想に疑いを持つ者ではあるが、民族的虐殺への対抗理念として、いまこの世界が持ちえている「使えそうなイデオロギー」は人権くらいしかないだろう、ということも承知している。 ここが難しいところであり、かつおそらく町山自身も持っているであろうジレンマとして、「人権だってそうたいしたもんじゃないけどな。でもしゃーないな」という思いがある。 人類史における虐殺と呼ばれる事件のほとんどは、ある支配的イデオロギーの「正義」により駆動されている。正しいと思うからこそビシバシと人を殺せるわけだ。「暴力」をどう管理するか。 哲学は約2500年間それに悩み続けており、決定的な回答に至ってはいない。「よりマシに」という願いのもとに唱えられた人権思想でさえも、そうした虐殺をイラクやアフガニスタンで見せつけてている。 ※ 最近私は米国で4年連続エミー賞を獲得した『ホワイトハウス』(米国名『The WEST WING』/スカパーで放映中)にハマっている。米国大統領とそのスタッフの日常を描き出したドラマで、なかなか見ごたえがある。 そのなかで印象的なシーンがあった。 大統領と個人的に親交のあった軍医の乗る輸送機が、ヨルダン上空でシリア軍の命令により撃墜される。報復攻撃を検討する参謀本部に対し、激昂して「徹底的にやるべし」と命令をくだす米国大統領。 興奮する大統領は補佐官に対し、語る。「二千年前、ローマ市民は世界中どこを歩いても彼を傷つける者はいなかった。なぜならローマ市民を傷つけた者は、必ずそれ以上の報復を受けると世界中に知れ渡っていたからだ」 ローマ市民が安全に世界中を歩き回るためには、カルタゴを初めとする周辺諸国の虐殺が必須であった。理想に燃える為政者の願いは、より多くの犠牲者の上にしか成り立たない。「世界中を安心して歩き回れる」などというユートピア思想を捨てないかぎり、虐殺はなくなならない。早大教授の文学者、松原正は「人間が人間であるかぎり、正義のために人間を殺し続けるだろう」と書いている。 ※ 上記の論戦についていろいろ考えているうちに、「アップするからにはパンフレットの解説くらい見といたほうがいいだろうなあ」と思って、いま買ってきて目の前にある(映画はまだ未見)。(町田の解説全文を読みたい方はこちらをどーぞ) ふーん、なるほど……。 こりゃ確かに意見が別れるだろう。最後の一文(「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」)に違和感を持つ人もいるだろうなあ、とは思う。私は持たなかったけどね。朝鮮人虐殺に抗った鶴見警察署長の逸話などが想起されたし。 私はルワンダ内戦に関して朝鮮人虐殺の例を引いたのは、妥当だと思っている。両事件の内実を知れば知るほど「違い」が気になるという気持ちはわからないでもないが、そもそも比喩や例題や想起というのは、ある程度の飛躍を内包しているもんだ。 まあこの件は、映画を見終わってからまた何か書くかもしれない。 私の探しものはまだ見つかっていない。 本件に関して「どういう感想を持つかは個々人の自由」とか書いちゃってる人がいて微妙に痛いんだけれども、町山が問題視しているのは「(否定的な)感想を持つこと」じゃないよ。準備も覚悟もないままに「感想を表明する」ことにより、他者を傷つけることに対して怒っているのは明白です。そこんとこ間違えないようにね。 叩くなら叩き返される覚悟くらいは持つべきで、その点については100%賛成。 叩いている自覚がないのが一番やっかいなんだよね。
2006/03/10
仕事の合間に買い出しに出かけたコンビニでよくかかっている楽曲が気になっている。百万回の「愛してる」なんかよりもずっとずっと大切にしてるものがある♪ というヤツだ。 いまネットで調べてみたら、Aqua timezというグループの『等身大のラブソング』という歌だった。たいそう流行ってるらしいね。周回遅れですまぬ。 メロディや声が気に入ったということもあるのだが、なにより「恋愛において百万回“愛してる”って言うのより大事なことってなんだろう?」というのが気になってちょっと調べた。 歌詞全文はここらへんを参照。 どうやら「百万回“愛してる”ということ」よりも、「相手を抱きしめる」とか「そばにいる」ということのほうが大切だと説いているようだ。 いい曲であるし買おうと思っているのだけども、私は作詞者のその主張には首肯できない。そういうことは実際に百万回、いや百回でいいので言ってみてから主張してほしい。(「とっておきの言葉を 熱く甘い言葉を(言えないから)いつもの喋り言葉で」というあたりの意味がよく掴めないんだが、「大切だ」とか「そばにいてほしい」とかなら言える、ということなのだろうか?) ※ 私が「言葉による現実変成能力」という概念を知ったのは、内田樹の著作からだった。これは内田の造語なのだろうか。いくつか内田のブログから抜粋するが、まあちょっと読んでもらったほうが早いのでいくつかリンクする。「想像の力」「言葉の力」「配架の愉しみと語彙について」 真ん中のリンクにある、バートランド・ラッセルの言を引用しよう(『論理哲学論』(L・ヴィトゲンシュタイン著/中央公論刊)序文より引用抜粋)。 私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることはできない。(・・・)世界は私の世界であるということは、言語(それだけを私が理解している言語)の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。(引用終了) 上記はどういうことかというと、私たちが認識できる「世界」は、私たちが持っている「言葉」(語彙)の範囲でしかない、ということだ。(むうう、余計わかりづらくなったような気が) 試みに例を出すと、最近レミオロメンの『粉雪』という曲がたいそう流行っている(「それも周回遅れ」とか言わんで。竜宮城 人外魔境にいるんだ。許してくれ)。こなーゆき~ ねえ 心まで白く 染められたなら~♪ というアレである。「粉雪」という言葉に適応する英単語は存在しない。「powdery snow」という言葉があるが、それはあくまで「粉末状の雪」だ。スキー場で言う「パウダースノー」と同じで、「粉雪」という単語が持つ情感は含意していない(もちろん別の意味が含まれることは承知している)。「雪」は降るものだが、「粉雪」は降るものではない。 舞うのである。 もちろんイギリスだってアメリカだって、雪は降る。 上空から「snow」がチラチラと降りてくれば「It snow」(雪が降る)と表現するだろう。雪原に一陣の風が吹き、微量の雪が舞い上がって景色を白く染め、それを窓から見ていれば多くの英国人は「美しい」と思うはずだ。 しかしそれは「粉雪が舞う」という言葉を持つ日本人とは、別の感じ方なのだ。 なぜならそれを表現する言葉を、彼らは文化として持っていないから。 誤解してほしくないのは、それをもってして英語圏の文化が貧しいだとか日本語は豊かだとかを言うつもりは寸毫もない、ということ。雪に関しての日本語の語彙はエスキモーの語彙よりもずいぶんと少ない。砂やラクダに関する語彙はアラビア語に遠く及ばない。 さてここで、例えば「粉雪が舞う」という表現を知らない日本人がいたらどうだろうか? というのを少し考えてほしい。 粉雪では一般的すぎて想像しづらい、というのであれば、内田センセが例に出した「瀰漫」(びまん)という言葉でもよい。瀰漫とはじわじわと瘴気を撒きつつ世間や人々に広まっていく、という概念だ。 そういう言葉を知らない人、語彙に登録されていない人にとっては、その概念は存在しない。「瀰漫」という言葉が持つ、じわ~っと人々のあいだに広がるなんとも嫌な感じは存在しない。 概念が存在しないということは、「それについて考えることができない」、つまり「ないのと同じ」ということである。アラビア人にとっては「ラクダ」は数十種類が存在する多様で多彩な生物だが、日本人にとってはラクダはラクダだ。逆に「米粒には神様が宿る」という感性(概念)を文化として持たないアラビア人にとっては、米は米にしかすぎない。 ※「愛している」とは、口に出して言うべきなのだ。 それは「大切だ」でも「そばにいたい」でもいい。 百万回でも二百万回でも言うべきなのである。(言えるもんならな) そしておそらく、言い手が(「とっておきの言葉」や「熱く甘い言葉」を想像できるほどに)「言葉」にたいして敏感であり、かつ相手を強く強く想っているのであれば、言い手はその時、「言葉の領域」に出会うことになるだろう。 自分の目の前にいるこの人に対しての、いまの自分のこの溢れるような感情は、「愛している」という単語が持つ情感に、本当にぴったりと一致している感情なのだろうか……? と。 それは「愛している」なのか? 「大切にしたい」なのか? 「そばにいてほしい」なのか? 「好き」なのか? 「いとおしい」なのか? どれもこれも適当なようで、適当でないようで。「言葉はいつも思いに足りない」 とは鴻上尚史の言葉である。 それは「言葉」の限界/境界を示している。 もちろんその限界は、新たな「言葉」を登録することで、ほんの少しだが広げることができる。 それは同時にその人の「世界」が広がることを示している。 以前にも書いたが、「言葉による世界の限界/境界」を「恋愛」という場面で知る人は幸せである。 多くの場合、それは「言語差別」だとか「階級」だとか、あるいは「上司に話が通じない」だとか「最近の若者は何を言っているのか理解できない」だとか、もっというと「辞世の言葉」だとか、そういう切羽詰まった状況で発現する。 ※ なお、本稿について、「そうはいっても日本には古くから“言わなくてもわかるだろう”とか“野暮なことを言わせるなよ”とかいう伝統があるだろう」と反論される方がいらっしゃるかもしれない。 私はその主張に一定の理路を感じているし、便利な概念だとも思う。 けれどもこういった「言葉の現実変成能力」についての論考にてそういう考えを称揚する方は、残念ながらインターネット上では反論の機会を失うことになる。「言わなくてもわかるだろう」とお考えの方は、ぜひ何も言わずに私を納得させてみてください。 探しものは見つかっていない。「配架の愉しみと語彙について」の中段あたりにおいて、内田が警鐘を鳴らす「昨今の日本語の痩せ方」については、一点を除いて(後述)大いに同意する。たいていの親は子供がジャンクフードばかり食べたり下賎なTV番組ばかり見ていると注意し、キチンとした料理を幅広く食べさせようと努力するし高尚(と言われるよう)なメディアに触れさせようとする。 けれど、語彙溢れる豊穣な会話をしようと努力する親、というのはあまり見ない。 もちろん「したくてもできない」ということが最大の理由であろうが。 私だってそうだ。だからせめてそうした場面に立ち合うのならば、自身の限界を知り、高めるよう努力はしたい(食事やメディアだって同じである)。多くの親やメディア自身は、「言葉の境界」にまず自覚的になるべきだ。 ああそれと、内田センセ。(後述部分ね)「瀰漫」を「び漫」、「瘴気」を「しょう気」と表記することを忌避されるのであれば、ご自身もまず「子供」を「子ども」と表記することを止めるところから始めてはいかがでしょうか。子供の「供」はそれのみ単一で使う「従者」や「供物」といった意味ではありません。子供は「子」+「供」ではなく、「こども」という熟語にあてたセットの言葉です。 特別な主張があって「子ども」と表記しているのであれば、説明すべきです。
2006/03/02
あ~。おっぱいおっぱい(暴走)。 ちょっと仕事で疲れてますショータです。 ※ 業務上のやり取りで、取り引き相手から露骨に嘘をつかれたり隠し事をされたりする。「どんな職場だそれ」とお思いだろうが、まあそういう職業なんですとしか言いようがない。 実は私、警察官なんです。 ……。 少しくらい信じてもいいじゃないか。まあ嘘なんだが。 ただ私の祖父は警察官だった。 ……。 まあそれも嘘なんだが。 さておき、そういう業務上の嘘が発覚したとき、問い詰めると相手は「嘘をついたつもりはない」という。 ギリギリ嘘じゃない範囲で隠し事をしただけだ、と。 それが相手から見れば「どう考えたって嘘だろ」と思われることは多々あるし、今日私が経験したことも、そうだった。事実が広く発表された時、私には、相手から嘘をつかれた、裏切られた、という感情しかなかった。「嘘」と。「作為のある隠し事」と。「作為のない隠し事」と。「当人が諒解していない誤報(流した当人も知らなかった、騙されていたというケース)」と。 認識論的には、上記に明確な線引きはできない。 もちろん相手は、私個人や私が所属する会社に悪意があってやっているわけではない(と思う)。向こうだってそれが仕事だからやっているわけで、その事情も狙いもよくわかる。 わかるんだけど、だったらもっと上手にやってほしいなあ、と思うことは多い。本当のことを伝えるよりも、嘘を上手につくほうがよほど技術と知恵と信頼と体力が必要になる。嘘を上手につくのは疲れるんである。リスクも背負うことになる。 相手にたいして誠意が必要なのは、仕事の世界では大前提だ。あって当たり前。これはそのうえで、の話ね。 大なり小なりそういうことは、私だってやる。仕事だからやるし、業務上意識的に隠し事をしたり嘘をついたりすることへの罪悪感はそれほど感じない。 だからこそわかる。 相手に「嘘をつかれた、裏切られた」と思われてしまうのは、その情報を流した当事者に、技術か知恵か信頼か体力か、あるいはそのいくつかが足りなかったのだ。 そしてもう一点。 相手をナメているんである。 たいていの場合、人は「嘘をついた」と言われても大丈夫だと思えるような状況でしか嘘はつかない。 ※ で、まあここまで書くと嫌でも想起されちゃうのが、1月から話題になっているホリエモン騒動だ(私の業務とライブドア問題とは直接的な関係は何もないけれども、引っ掛けて考えて共通点を見出すことはできる。そういう考え方を「構造的見地」という)。 堀江が逮捕され株価が暴落した時、あるいは堀江の罪(と一般的に言われているもの)がメディアに報じられた時、ライブドア株保持者は「堀江に騙された、嘘をつかれた」と思ったのだろうか。 あるいは永田寿康議員の掲げたメールが「本物だと立証できない」(変な言い草だねしかし)と民主党が発表した時、永田のこれまでの言い分を信じた人々は「騙しやがって」と思っただろうか。永田自身はそのネタ元の「元記者」なる人物にたいし、どういう感想を持ったのだろう。 少なくとも私は、堀江は(彼が生きていた舞台である)「株式市場」や「株主」にたいしては誠実な男だったと思っている。永田も「議会」や「有権者」や「支持者」にたいしては、誠実な男だったろう。 だから両者の構造的な問題点は共通していると思うし、彼らにたいして誠意がどうこう、楽して儲けようどうこう、危機管理がどうこう、という批判はピントがズレているんじゃないか。 そんなことをぼんやり考えている。 何度も書くが、嘘や隠し事を完結させるためには、技術と知恵と信頼と体力が必要だ。 そしてこのご時世で仕事をして生活を営んでいくには、多少の嘘や隠し事が必要なんだとも思う。「嘘」よりは「作為のある隠し事」と思われたほうがマシで。「作為のある隠し事」よりは「作為のない隠し事」と思われたほうがまだマシで。「作為のない隠し事」よりは「当人も知らなかったんだ」と思われたほうがもうちょいマシで。 だからもっと上手にやらなければならんとは思う。 大人って疲れるねえ。 探しものは見つかっていない。 は~。おっぱい。
2006/03/01
ほどよくだらーっと思考中。 学生の頃は一人暮らしの女の子の家に住み着くのが趣味で(趣味!?)、コーヒーとか飲みながら一日ぼーっとしているのが好きだった。あれは愛だったんだろうか。よくわからん。モラトリアム乾燥期。 確かハタチぐらいの頃のある日、同級生の女の子の家に転がり込んでしばらく生活してた時に、家主の子に「ねえ、何を考えているのかわからない男は、たいてい何も考えていないって本当?」と聞かれたことがある。 本当です。 なんも考えてませんでした。そして今もたいてい何も考えてない。 あの子、どこかで見ているだろうか。 男とか女とかあんまり関係ないと思うんだけどなー。 しあわせでいてほしいと思うのだけども。 ※ 今日も今日とて意味があるようでまったくないことを考えながら、ズルズルとソバ屋でカレーソバをすすっていた。何を考えていたかというと、「生きていくための損得勘定」とか。 仕事とかさ。 恋愛とかさ。 法律とか学問とかスポーツでもいいんだけどさ。 個々人が支払った努力にたいして、間尺に合うということってあるんだろうか。 第3章まで読み進めた『資本論』にはそこらへんのことは書かれていない。 例えば育児を見てみると、とても「損得勘定で間尺に合う」とは思えない。 男女の恋愛でもそうだ。 相手にそそぐ愛情の量と、相手から受ける(と認識する)愛情と。 間尺に合う、なんてことがあるんだろうか。 冷静に論理的に考えると、私は「損得勘定でイーブンにはならんだろう」と思う。少なくとも(「自分の人生」という貴重すぎる)身銭を切るギャンブルとしては、分が悪過ぎる。 自分が愛しただけ、相手は愛し返してはくれない。 自分が働いただけ、上司や雇用主は自分を評価してくれはしない。 自分が貢献しただけ、社会は自分を守ってはくれない。 とかくこの世はままならぬ。 初めから損含みの不条理なものなのだ。 そしておそらくこれは、「理由なんてよくわかんないけど、とりあえずそうやって人間はずっと生きてきた」としか理解できない種類の問題なのである。 私ひとりの言葉では説得力がなかろう。 世紀を代表するスーパー天才にご登場願おう。(以下引用開始) 私たちは信仰や慣習の原初の起源については何ひとつ知らないし、これから先も何ひとつ知ることができないだろう。信仰や慣習の根源は遠い過去のうちに沈んでいるからである。しかし、現在についてなら確かなことがひとつある。それは社会的行動とは個人が自発的に演じうるものではない、ということである。(『今日のトーテミスム』より引用抜粋/クロード・レヴィ=ストロース著・みすずライブラリー刊) なぜ私たちは子供を生み育てるのか? なぜ私たちは他者を愛するのか? なぜ私たちは労働するのか? なぜ私たちは共同体を作るのか? なぜ私たちは「何か」を信仰せずにいられないのか? なぜ私たちは道徳的であろうとするのか?「そんなもんはわからんよ」とレヴィ爺さんは言う。 意味など問うても栓なきことよ、と。 ただわかるのは、人類は「それら」を続けてきたし、「それら」を続けてきたものが「人類というイキモノ」である、とレヴィ爺さんは語る。 ※ いったい私は本ログでなにが言いたいのか。 コトは大きく飛んで、女系天皇論議と秋篠宮妃ご懐妊報道についてである。 特に女系天皇については、左右両派からさまざまな論理が飛び出している。 私が目にした範囲で最も「やるなあ」と思ったのは、古い友人が書いた安い掛け合い漫才の台本だった。 「女系天皇反対派の迷走」と題された友人の論考は、特に以下の部分で悪魔的に鋭い。(以下引用開始) 議論するのにふさわしい対象とは、それが合理的なことが要請される場合に限られるといいたいんだよ。合理的であることが要請される議論をおこなうと、天皇制なる非合理な制度の基盤を掘り崩してしまうのではないか?。そう懸念してるんだよ。そもそも、議論なるものは、信頼できる法や制度を整え、それに服従するリベラル勢力が持ち出すならいざしらず、伝統といった超越的なものに服従することを旨とする保守勢力が、しかも「天皇制」について持ち出すのは、天皇制そのものを葬送する行為になりかねないじゃないか。(引用終了) 上記は「議論好きのウヨク」という(私もそこにカテゴライズされる)連中を、まとめて葬送する文章である。まさに論理のバンカーバスター。「ウヨは(特に天皇制そのものについては)議論すべきではない」という、死刑宣告だ。 そんな殺生な、と私は思う。思うが、確かにその通りだ。 だから私は負け惜しみのように、以下のように続けねばならない。「じゃあお前らリベラルが信奉する法や制度は、(現在の社会制度のほとんどが不合理だというのに)充分に合理だって言えるのか。そもそも合理なんていうものにどれほどの価値があり、意味があるというんだ」と。「合理」とは畢竟、理を求めることである。理とは意味のことだ。 法も、信仰も、恋愛も、出産も、労働も、人類はその起源から「意味を求めずそれを行なってきた」。「天皇制にはどんな意味があるのか」 という問いは、深く鋭い。 それについては、「意味? 意味を求めて何になるんだい? そもそも意味がわかってやっていて、それが理に適ってることってどれだけあるんだい?」 と返さざるをえない。 きっと初めから、そこにしか居場所はなかったんじゃないか。 いま私はそう思う。 探しものは見つかっていない。 私は不合理に信仰する。ゆえに私は不合理を選択する。 女系天皇賛成。皇室典範なぞどーでもいい。
2006/02/28
来年の4月に入社する予定の新入社員を選考するためのセミナーに参加するハメに陥った。いったい私に何をやらせるつもりなんだこの会社は。セミナーの応募人数は1000人を超えるそうで、私はそのうち数十人に会って話を聞くことになるらしい。 同じ役目を任命された同僚と雑談。同僚「何を話せばいいんだろうなあ」私 「さあ……。最近読んだ本とか聞けばいいんじゃねえ?」同僚「ここんとこ、仕事関係の本しか読んでないなあ……」私 「そうだねえ。俺もだよ」同僚「ここ最近、仕事以外でどんな本読んだ?」私 「んー……。『資本論』かな」同僚「は?」 大変シュールなムードになってしまった。 すまん。悪いのはどう考えても俺だ。 探しものは見つかっていない。 もうなんちゅーかこんな日々。 ※ 忌まわしい記憶が想起されてしまったので、ここで書いて浄化しておく。実は私、新入社員試験の検査官は入社以来2回目である(セミナーから参加させられるのは初めてだが)。 最初に任ぜられた時は、『コーラン』を読んでる頃だった。 なんだこの不幸な連鎖は。 唯一わかるのは、私に当たった学生さんがえらく不憫だということである。 相手に賢く思われる読書歴ってどんなんなんだろうね。 おお、こいつすげえと思うようなヤツがいたらメモっておこう。 んで私のほうであるけども。 この先あるかどうかわからないが、『旧約聖書』とか『論語』とか読むようになったら、また新入社員選考に駆り出される時期だと警戒したほうがよさそうだ。
2006/02/27
毎度どーも。約3週間ぶりになるのかな。ショータです。 皆さんは元気だったでしょうか? そうかそれはなにより。 私のほうは相変わらずバタバタしているなかで祖母が亡くなったりして公私ともに混乱している次第です。ウチの婆さんは享年94歳で大往生だったんですが、最後の10年は寝たきり、ここ2年はほとんど意識もなくて、孫である私の顔もほとんどわからない状態でした。 火葬を済ませてお骨を拾ってきたわけなんですが、神道形式の葬儀だと、亡くなった人間が「どういう人だったか」という履歴を祝詞にして読み上げるんですよね。まあ10分くらいなんですけども。 それを聞きながらふと、「死とはどういう状態を指すんだろうか」とか考えちゃいました。 ※ 現代社会では「死」という状態を、近代医学の定義に則って規定している。 これについては知り合いとチャットで「脳死と死」についてちょこっと(15行くらいかな)話した。その知り合いはかつて「脳死は死ではない」と主張していたように記憶しているが、いまはどうなんだろうね。そのことについては聞かなかったや。 法医学会における脳死の定義について知りたい方はこちらをどーぞ。詳しく載ってます。 脳死については語り手がどのような立場で語っているかというのにまず注目すべきで、上記リンク先の中の人はどうも「脳死は死だ」ということにしたいみたいね。 その理由を上記リンク先の筆者は以下のように規定している。>(1)脳機能は機械で代替できない。>(2)脳以外の手、足、心臓、腎臓などはいずれも機械に置き換えても生きているといえるが、脳だけは機械が代替することはできない。>(3)もし脳を機械で代替できたとしても、それは人間ではなくロボットというべきである。>(4)全脳の移植が可能になったとしても、通常は臓器を移植された人が生きていると考えるが、脳の場合は移植された人が生きているとは感覚的に考えられない。>(5)もし埋め込み型の人工心臓が半永久的に使用できるようになったとき、脳死を死と認めなかったら、その人は死ぬことはできない。白骨になっても心臓だけが動いているという恐ろしい事態が起こってしまう。 そして結論はこう。>したがって医学の進歩と共に、死の診断基準は変更せざるを得ない。 非常に正直なお医者さんのようで、ようするにこれは「医学会では“脳(脳機能)の有無”が人間を人間たらしめているものだ」と言っているに等しい。異論のある方も多かろうし、私も「そうかなあ」と思うのだが、取り急ぎ話を進めよう。 大変デリケートな話題なので私の婆さんに登場願って若干脚色を加えて例示してみたい。下記の場合、どの段階が「死」なのだろうか(これはもちろん「どの段階が“生”なのか」という問題と裏返しになる)。(1)曽祖母の体内で卵子と(曽祖父の)精子が結合。分裂開始(2)心臓、脳、手足などが形成完了(受精後3カ月くらい)(3)出産直後(4)幼児期~少女期~思春期(5)祖父と出会い結婚、私の実母を出産(6)老齢期に腰椎骨折、寝たきりになり要介護者に(7)昨年夏に発熱、心神消失(8)今年1月より自発呼吸停止。人工呼吸器設置(9)今年2月、医師により脳死判定(不可逆的な脳機能停止判定)(10)家族の同意をとって医師が死亡宣告(心臓死)(11)死亡宣告より3日後に葬式(12)同日火葬、骨だけになる(13)約50日後に納骨 ←イマココ(14)一年後に一周忌、3年後に3周忌の法要(15)子孫全滅、誰も彼女のことを思い出さなくなり、彼女の存在した事実を知る人間が誰もいなくなる 書いてて思ったが、これってものすごい個人情報だよね。 まあ人間であるかぎり誰もが似たような道程を辿るわけで、そもそもが可愛い孫のすることだ。婆さん、堪忍してくれ。(西に向かい礼) さて。 これを読んだ読者諸兄は上記(1)~(15)のなかで、どこまでが「生」でどこからが「死」だと認識しているだろうか。出産前についてはまたこれ大きな議論が必要だから、ここでは(3)以降に話を絞ると、おおむね(8)から(10)のあいだだと思われる。(ちなみに日本の法医学会では(10)とキッチリ決められていて、その前や後に医師資格を持たない者が勝手に線引きすると、刑罰に問われたりする) こうして自分で書き連ねると露骨にわかるのだが、人間という生物はおおむねその人生の最大のイベントである「生の瞬間」と「死の瞬間」というのを、自己で決定することはできない。もちろん自覚もできなかったりする。 この一事でもってしてすでに「自己決定権なんてねーよなー」なんて思ってしまったりするわけで、人権主義者(あるいは人格権主義者とかね)はそこんとこどう考えているのかぜひとも聞いてみたいのだが。(例えば「人権は(1)~(15)のどこからどこまでの段階で付与され、どこから奪われるのか」とかね) まあそれも別の議論なんでここでは措く。 ※ 私は上記についてどう考えているかというと、そもそも「死」についての一律的な(全人類的な)定義なんていうのは無理があるだろう、という立場だったりする。ズルいねどうも(笑)。 近代医学という狭いパラダイムのなかでさえも、「医学の進歩とともに死の判断規準は変更せざるをえない」と言っているように、「死」という概念は時代や文化によってユラユラと揺れ動き、移り変わっていくものだ。 例えばウチの婆さんの場合。 脳が死に(「正常に機能している」と近代医学が規定する状態に戻る可能性が極めて低くなり)心臓が停止したあとも、髪や爪は伸び続けた。まだ生きている細胞は分裂を繰り返しており、一部の代謝機能は活動を続けていた。 停まった心臓だって継続的に電気ショックを与え続ければ、脈動を続けただろう。 意識についてはとっくの昔になくなっており(「意識がない」と周囲が規定した状態に長期間おかれ)、ほぼ反射機能だけが残る状態が数ヶ月続いていた。 ウチの婆さんはいつ「死」んだのか? それは医者が決めるのか? 身内である俺やオフクロが決めるのか? 法律が決めるのか?(いずれにしてもそれは婆さん自身でないことだけは確かなわけだが) ※ 人間は生まれてきた瞬間に、誰もが「死」に向かって進んでいる。 というより、死に向かってゆっくりと進んでいる状態を、「生」と名付けている。 そして自分自身ではなく、周囲のさまざまな状況、状態、認識、文化、環境、他者からの規定により、「死んだ」と規定される。もちろんそれは、大きく揺れ動く。 ちょっとこれは深いな、と思いながら、いまなぜかマルクスの『資本論』を読んでたりする。もう15回目くらいで、読むたびに「何が書いてあるのかサッパリわからん」と放り投げてきたわけなんだけども、なんでか知らんが今度は(今度こそは)ちょっと理解できてきたような気がする。 これってひょっとして。「人間というものは、他者からの規定によりその存在(とその消失)が認められており、それ以外には認められようがない」 というようなことが書かれているのか? 往古の日々。 初めて『資本論』を手に取ったのは中学三年の頃であった。 正月に祖父母と両親が食卓を囲んで談笑していた頃、爺さんの書棚にも『資本論』が刺さっていた。ビッシリと書き込みがあって、インテリだった爺さんを尊敬し、そのことを祖父母に伝えると、爺さんも婆さんも「まだ早い」と言っていた。 爺さんは「こっちを読め」と言い、岩波の『罪と罰』を貸してくれた。 婆さんは「それも早い」と言っていたが、いま、遥か西の方でおそらく私を見ているであろう爺さんと婆さんは、何を話しているのだろうか。 探しものはまだ見つかっていない。
2006/02/26
ここ2~3日、いくつか日記らしきものを書いてはいるのだけれども、いずれもアップには至っていない。いずれもたいしたもんではないのだが、やっぱ公開するには一応構成とか考えなきゃ……と、余計なことを考えているせいだ。 いやそれは決して「読んでくれる方に失礼のないように」とかいうことではなくて、単に「読んだ人にほんの少しでも賢く思われたい」だとか「面白い人だと思われたい」という、当方のスケベ心が大半なのではあるわけなのだけどもね。 ※ なんかいま、改めて↑のように書いてみたら、急にいろんなことがバカバカしくなってきた。人間っつーのはいろんな行動のなかに、この「スケベ心」っちゅーのが割り込んでくるもんですな。はあ。 ※ 閑話休題。『ダ・ヴィンチ・レガシー』(ルイス・パーデュー著/集英社文庫)という本をご存じだろうか。大ヒット作となった『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著/角川書店)の二番煎じを狙ったセコい翻訳文庫本で、昨年2月に出版。それでも一連のダ・ヴィンチブームにあやかって、四版を重ねて4万5000部のスマッシュヒットになっている。(なお余談ではあるが、著者のルイス・パーデューは「『ダ・ヴィンチ・コード』は自分の著作からの盗用である」として約168億円の請求と出版差し止めを要求する訴訟を起こし、一審で敗訴しているらしい。ソースはここ。原著は『ダ・ヴィンチ・コード』よりも『ダ・ヴィンチ・レガシー』のほうが先に出版されたようだ。ややこしいねえ) さてしかしこの『ダ・ヴィンチ・レガシー』。 比較的新しい本にも関わらず、上記リンクの版元直系書籍販売サイトでは「在庫なし」と表記されている(Amazonでもユーズドのみ)。昨年5月に版元(集英社)が手持ち在庫8000部の断裁と回収を決定したからだ。 なぜか。 差別表現があると指摘され、全芝浦屠場労組と交渉を開始したためである。 問題となった表現は、殺人シーンの比喩として「まるで屠殺小屋だ」と書かれている部分。 翻訳前の原文は「It was a slaughter house」。直訳だ。「そこは(まるで)屠殺小屋だった」としか訳しようがない。 集英社と全芝浦屠場労組との話し合いは紛糾、難航を極め、和解にいたったのは昨年12月。2回の確認会、10回ほどの交渉を経て、集英社が社内全部署を対象とした研修会、説明会を実施することを約束することで、決着したという。 それを受けてか、『ダ・ヴィンチ・レガシー』は2月6日に重版されるようだ。 当該カ所がどのような表現に変わっているのか、私は注目している。 ※ 比較的制約が少なく、書きたいことが自由に書けるネット界ですら、ほとんど表に出てこないテーマがある。上記のような、差別表現にたいする被差別側からの指摘、糾弾だ。 小林よしのりが95年に『ゴーマニズム宣言差別論スペシャル』を発表して以来、明らかに世間一般の差別表現、もしくは被差別者そのものに対するスタンスに変化が見られた。このマンガは、一部では「解同(部落解放同盟)べったり」という批判もあるようだが、しかし、メディア界(特に出版界)において、差別表現に関するあるひとつの潮流を作り出したのだ、ということは記憶されねばならない。 それは、『ゴーマニズム宣言差別論スペシャル』以降、メディアは差別表現について、「語ってもいいんだ」という風潮に大きく傾いているということである(「差別表現を使ってもいいんだ」とは書いてないし思ってもいない)。 むろん私個人は、差別表現については広範な議論がなされるべきだと思っているし、現在の風潮を大いに歓迎している。従来語られる機会の少なかった(一般の人が目にする機会の少なかった)食肉加工業や皮革加工業の実情、あるいはもっとストレートに被差別部落に関する書籍が、中堅クラスの書店にさえ堂々と平積みされる昨今の時流を見て、嬉しく思っている。 差別表現を含む差別に関する論考は、各所でどんどん行なわれるべきだ。 なぜなら現代差別に付いてまつわる多くの「悲劇」は、ほとんどのケースで差別側の無知・無理解に拠るものなのだから。(むろん、被差別側の無知・無理解によるケースだってあるだろう→「こんなことでここまで差別されるなんて思ってもみなかった」等) ※ では差別表現が比較的広範に議論されるようになってきた現代において、なお「ネット界ですらほとんど表に出てこない、差別表現にたいする被差別側からの糾弾」とは何か。 その差別糾弾が妥当なものである、とされるケース。 もしくはその差別糾弾が妥当であるかどうか、微妙なケースである。 冒頭に紹介した『ダ・ヴィンチ・レガシー』を巡る問題などは、まさにこのケースであろう。4万5000部も刷った本(なお重版が決定)について、7カ月におよぶ大手版元と屠場労組との交渉があり、そういう事実がありながら、この問題がネット場ですら取り上げられる気配はまったくない(Yahoo!、Google、インフォシークを使ってかなり頑張って探したが、当該図書の差別表現についての論考を見つけることができなかった。もし「あるぞ」という方はご一報を)。 例えばある差別表現についての糾弾が、明らかに過剰であったり執拗であったりする場合、つまり差別糾弾側が世間一般常識に照らしてどうも過失があったとされる場合、この情報化社会ではすぐに話題にのぼる。2ちゃんねらーやブロガーを含む多くのネットユーザーは、そうした話題が大好きだからだ。 メディア側もそこは承知しており、「これは世論の支持が得られそうだ」と思った場合は、だいたい(直接表現を避けたりリークしたりと)姑息な手段を使って視聴者や読者を煽ったりする。 そうすることによって、結果的にその「ある差別表現と、その糾弾」は多くの人の話題に登り、議論されることになる。『ちびくろ・さんぼ』復刊問題や手塚治虫の一部作品についての「注」、筒井康隆の断筆宣言にまつわる「言葉狩り」問題などは、その表現の差別性が多くの人に広く語られることによってはじめて、結果的に差別側にも被差別者側にも、もちろんそれらの作品を愛する多くの読者にも、大きな収穫をもたらしたと言っていいだろう。 けれど。 重ねていうが、「ある差別表現」について、(1)差別指摘・糾弾が妥当なものである、とされるケース(2)差別指摘・糾弾がグレーゾーンであるケース 上記について、特に差別糾弾側と被糾弾側との和解が成立したケースについては、ほとんど一般に広まる機会は失われてしまう。 ※ こういう現状は、もちろん私は問題があると考えている。 何度も書いて恐縮だが、差別表現についての論考は、多くの人が広くなされることによってこそ意味があるからだ。 現状ではただただ、「差別だ」と指摘を受けた側のメディアが、その差別表現について語られる機会の可否を握っている状況であり、それこそ「いまある差別を不当に隠すこと」にほかならない。『ダ・ヴィンチ・レガシー』の一件ならば、集英社はこの事実を広く公表し、一般からの意見を聞くべきだった。「その表現は不当な差別だ」とする全芝浦屠場労組も、可能なかぎり「我々はこの表現を不当な差別だと指摘し、その正否について広く問いたい」と声高に公表してほしい。 可能性はまだ残されている。2月6日に重版となり再発売となる、『ダ・ヴィンチ・レガシー』の第五版である。この係争の事実は(注なりなんなりで)そこに記載されるのか。それともしら~っと当該部分を削除あるいは改変してお終いか。 私は注目している。 ※ なお、この『ダ・ヴィンチ・レガシー』における「まるで屠殺小屋だ」という表現についてだが、私は「控えられるべき不当な差別表現であり、糾弾されてしかるべきものだ」と考えている。 私はずいぶん前に屠殺場を見学する機会に恵まれたが、そこでは衛生管理と整理整頓が行き届いた現場にて、畏敬に値する手技を発揮する加工者が黙々と作業に従事していた。当該「殺人シーン」が描写するような場所では決してなかったのである。 その記憶と「殺人シーン」とを比べると大きな乖離があり、当該表現は比喩として激しく不適当であるとともに、食肉加工業者にたいして誤解と不当な差別を招くだろう、という確信が私にはある。それが「糾弾されてしかるべき表現」とする根拠である。(ただ私は、著者であるルイス・パーデューが表現した米国の「Slaughter house」の実情は知らないわけだが) もちろんこれは非常にナイーブな問題であって、「では比喩として適当な場合はどうするのか」(例えば「衛生管理と整理整頓が行き届いた現場にて、畏敬に値する手技を発揮しつつ殺人を犯すシーンの描写」だったらどうか)とか、あるいはそもそも「slaughter」という単語に「食肉解体処理」という意味と、「残酷な殺人、虐殺、大量虐殺」という意味が同居している、という、文化としての言語問題などが存在している。 だから私は、「この本のこの表現では、不適当だ」とは判断するが、それが画一的に計れるものではないと思っている。そういったことは重々承知したうえでこれを書いている、ということはご理解いただきたい。 じゃあ出版社側(本件では集英社)はこうした場合、どうすればよかったというのか。 翻訳時に「注」をつければよかったのである。自分たちはこれこれこうした判断に拠ってこの表現を使ったのだ、と、初版時から書いて示すべきだったのだ。それが「著者の比喩は適当であると思う」でも、あるいは「これは不当な差別を助長する不適当な表現であるが、そのまま出さないと著者も翻訳者もうるさいので出した」でも構わない。 そうしたある種の信念を示すべきなのである。この信念や覚悟の不在が(あるいはその覚悟や信念の「表記・表明の不在」が)、おそらく今回、屠場労組の怒りをいっそうかき立てたことは容易に想像できる。 むろんそのうえでなお、屠場労組からは指摘や糾弾を受けたかもしれない。 それが面倒でやっかいなことだということはわかる。 けれども文化とは、そもそもそういう「面倒」なものなのであり、大手メディアは「自分たちは文化を守る」と常々、ヌケヌケと言っているではないか。 都合の悪いとこばっかり、しらばっくれるなよ。(なお、上記の部分は2月6日以降の第五版にてしかるべき注記があるか、あるいは以降に集英社より本件に関して一定以上の広報・告知があった場合には、お詫びして訂正する用意がある) 私の探しものは、まだ見つかっていない。 最後にひとつ。 記事文中に書いたように、差別における悲劇の多くは無知・無理解、加えて不勉強に拠っている。私自身、自分の(差別および差別表現についての)無知・無理解・不勉強は重々承知しているつもりだ。だから、というわけではないが、本件に関する私の無知・無理解・不勉強に拠る間違い、勘違いなどを発見した方は、お手数ではあるがどうか当コメント欄に書き込んでほしい。
2006/02/03
なんか頭が痛い。偏頭痛か? この1月17日に発表された直木賞を受賞した、『容疑者Xの献身』(東野圭吾著・文藝春秋社刊)を読了。ここ1週間ほど「ミステリー読みたい病」にかかっており、どうせなら話題作を、と思って買って読んだ。 1日で読み終わってしまった。 ある美人母娘が期せずして殺人を犯してしまい、それを天才数学者・石神が自身の命運を掛けて隠蔽することに。石神が仕掛けたトリック(アリバイ工作)に捜査陣は翻弄されるが、刑事の友人の天才物理学者・湯川がその謎を解いていく、というシナリオが骨格で、ミステリーの構成としてはなかなかのものだった。 トリック自体がなかなか目新しく、最後の種明かしは思わず「うむむ」とうなるほどのできばえだった。 ただこれはミステリーというより恋愛小説だなあ、という感想。 こうしたテイストが東野のウリなのだろうし、東野についているファンはそういうところ(恋愛小説っぽいところ)に好感を抱いているのだろうけど、私はちょっとそのノリがダメだった。トリック自体は秀逸。最後の石神の描写も見事だった。けど途中に挟まれる甘ったるいやり取り(心理描写等)は、バッサリ削ってほしかったな。 心理描写や物語の運び方(テンポ)は、森博嗣のサバサバした手さばきを見習ってほしい。 さらにいえば、「理系の天才」を描写する力は森のほうがある。これは旧帝大で工学部助教授(正確には大学院環境学研究科都市環境学専攻/旧工学研究科建築学専攻)まで務めた森と、単なる(大阪府立大)工学部卒の東野の差だろう、と断じてしまうのは学歴主義に捕われ過ぎた評価だろうか。 まあここらへんは単に私が湯川学(東野の小説に出てくる天才物理学者)よりも先に犀川創平(森作品に出てくる天才工学者)に出会ってしまったからかもしれないので、そのぶん差っ引いた評価を各人に勧めたい。 探しものは見つかっていない。 うーむ、ひょっとしてこの頭痛、寝不足か?(知り合いから指摘を受け、2月1日午前1時15分頃ちょい手直し)
2006/01/31
脳年齢41歳のショータですこんにちは。 2回目で30歳になり、3回目で24歳に。 早くも飽きてきたんですが、これはいったいどうすれば。 ※ ニートやフリーター問題に関して、以前内田センセが書いていた論考がずっと引っ掛かっている。 内田センセはニートを指して、「合理的に思考する人」と規定する。「労働とは本質的に、対価(賃金)を得るためにするものではない」という警句をもとに、「労働の価値を等価で受け取れないのならば、労働する意味は(ほとんど)ない」と。 だから彼らは働かないのだ、と。<以下引用>仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。このことは繰り返し学生諸君にお伝えしなければならない。賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。(中略)おおかたの人は誤解しているが、NEETは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが資本主義の名において、論理の経済に従って「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するに至ったのである。だから、NEETの諸君にどれほど資本主義的な経済合理性を論拠に学習することや労働することの肝要であることを説いても、得るところはないだろう。「勉強しろよ」「何のために?」「……就職するために」「何のために?」「……稼ぐために」「何のために?」「……金があれば、楽ができるじゃないか」「好きな時間に起きて、好きな時間に飯食って、好きなだけ好きなことができるのを『楽』というのなら、オレはもう楽だよ」「……」NEETにむかって学びと労働の必要性を功利的な語法で説くのはだからまるで無意味なことなのである。<引用終了> ニートという存在が資本主義社会の下で生まれ、いま、その存在自体が資本主義社会を壊そうとしている。内田センセが規定するように、ニートが資本主義社会の権化のような存在であるとするならば、それは資本主義というイデオロギーそのものの敗北なんじゃないかな、と私は考えている。 このような資本主義の崩壊過程(「別に欲しいものなんかないから働かない」という存在の多寡による斜陽化)は、20世紀を代表する大天才マルクスですら予想しえなかった。 斯様な喫緊の社会的課題にさいし、もしも我が家やその近辺で似たような状況に接したならば、と私は考える。私は愚民なので、先人の知恵を借りることくらいしか思い浮かばない。いわく。「彼らを子供扱いすることを止めたまえ。そうすれば彼らは子供であることを止めるだろう」 である。 探しものは見つかっていない。 子供や親類がニートになったらどうしよう、と考える人は「まだ」幸せだ。 私なぞ、いつ私自身がニートになるんぢゃないかとヒヤヒヤなんだが。 ヒモとかねー。超魅力的。
2006/01/30
週末。今日は暖かかった。なんだか心まで暖かくなる。単純だなあ。 保育園の保母さんをしている友人と少し話をした。 最近、シングルマザーが目に見えて増えているという話を聞く。 両親が揃っていても問題がある子はいるし、片親でもとても躾けの行き届いた子がいて、いちがいには言えない、という当たり前の話をつらつらと。 それとはまったく別の問題として。「それぞれの子供が、心地いいと思う他人との心の距離」についての話でひとしきり盛り上がった。 人は誰でも、ある一定の時期に自我が形成される。 それは心理学の知見では「他者を発見したとき」に訪れるとされている。「自分ではない何か」を見つけた時にはじめて、人間は「自分」を見つけるわけだ。それは無垢で丸出しだった「自我」というものを、自らが鎧う瞬間だと言い換えてもいいだろう。 その時に、その「自分ではない何か」とどのていどの距離をもって付き合うのが心地いいのか。その最初の立ち位置が重要だ、と、そういう話。 おそらくその「他者との心地よい距離」の初期認識というのは、「好きな食べ物」とか「好きな異性のタイプ」だとか、もっといってしまえば「母語」と同じくらい強烈に、人格形成に大きく関わるのではないかなあ。 ちなみに私は、自分では人懐っこいほうだと思っているし、わりとすぐ他者との心的距離を縮められるタイプだと自認している。しているのだが、私をよく知る周囲の人間は、たいてい「ショータは人見知りをする」という。なぜだ。 探しものをひとつ見つけた。 今日、新宿のビッグカメラでニンテンドーDSを購入。売り切れまくりで、新宿中探し回ってしまった。『脳を鍛える大人のDSトレーニング』も併せて購入したので、あとでやるのだ。 大変楽しみ。
2006/01/29
今日も寒かったねえ。 知り合いの18歳の女の子(モデルさん)が一人暮らしを始めるそうで、お茶しながら少し話をした。お父さんが心配しているそうで、まあ当たり前だわな。「彼氏と住むの?」と聞いたら笑いながら否定していたけど、どうなんだろうね。 彼氏いませんよー、と可愛く言っていたけれどもさ。「女が実家を出る理由」 なんてーのでなんかエッセイでも書けそうな雰囲気。 その子は「自立したいから」と言っていたけど、自立というのは一人暮らししたからといってできるもんじゃないと思うのだが。 とまれ、変な男に引っ掛かってなけりゃあいいのだけどもね。 なーんてすっかり視点が父親だ。もう10歳自分が若ければ、どうやって自分がその子の家に転がり込むか、とか考えたんだろうなー。 ※ 高島俊男センセがかつて、文春の連載(『お言葉ですが……』)で「雑誌連載のエッセイ記事というのは、暗闇に向かって石を投げているようなものだ」と書いていた。 だから読者からお便りを貰うのは嬉しい、と。 暗闇に向かって石を投げる、というのはなかなか当を得ていると思う。 ブログも、いやむしろブログのほうが(編集者がいないぶん)この表現に近いかな。 石を投げているんだから、それが誰かに当たったり、あるいは気づいて投げ返したり、声を掛けてくれたりいきなり殴り掛かってきたり、そういうこともあるだろうなあ、と。 大事なのはきっと、「暗闇の向こうには誰かいる」と感じ続けられる想像力なんじゃないかと思う。それが尽きたらきっと、ブログは書かれなくなるんだろうなあ。 ※『自由を考える 9.11以降の現代思想』(東浩紀、大澤真幸著/NHKブックス刊)を本屋さんでパラパラと。「僕たちには“匿名である自由”があるんだ」という記述が新鮮。 情報の追跡可能性が飛躍的に上がってきて、現代ではたやすく「名無しさん」を特定することができる。そのシステムの向上が、かえって「自分が固有の存在だと感じられなくなってきている」というようなパラドックスを生み出している、との東の主張は、なんとなくだけど首肯できる。 他の誰からも「お前はお前である」と名指されない自由。 そういう概念の発明が、現代では必要なんだ、と熱く説いていた。 ふむ。なるほど。 探しものは見つかっていない。 インフルエンザが流行っているようです。 皆さんご注意を。
2006/01/28
今日も寒かったですなあ。 冬の空は高いですね、なんとなく。 ※ ホリエモン逮捕の日から連日、飲みに出る日が続いている。 なのでニュース関係は新聞報道くらいしか目にしてないわけなんだけれども。 それでも気づいたことをいくつか。 株式市場というのは独特の「コード」が強くしっかりと存在している。まあすべての共同体はそういうもんなんだけれども、株は(株売買に興味がない私のような人間にとって)身近なようでその実しっかりと、専門用語という敷き居が設けてあったりする。 いっぽう今回のライブドア事件を端緒とした、ホリエモンの功罪や彼が社会に及ぼす(及ぼした)影響などを語るためには、そのコードを押さえておかないと語れないことに気づいた。一部写真週刊誌などが騒いでいる「ホリエモンと女性関係」などの記事が(普段よりいっそう)浅薄に見えるのは、おそらくそのせいだ。 彼がなにをしたのか。 彼のしたことのうちなにが法律に触れたのか。 これらを理解するためには、「株のコード」を理解し咀嚼する必要がある。 これはつまり、彼が徹頭徹尾「株式市場の人間」だということを表わしている。 株屋さんだったわけですね、彼は。てっきりIT屋さんかと思ってたよ。 こんな今さらなことを、三周遅れくらいで確認したりしている。 ※ 先日やっと、時間を見つけて『亡国のイージス』(劇場版)を見る。 原作のほうがよかったなあ。 映画版は女テロリストの存在だとか主人公如月の出自とか辺野古ディストラクションだとか、万事説明不足な印象。北朝鮮テロリストに中井貴一を配したのは適役であったと思うが、充分に魅力を引き出していたとは言えない。「よく見ろ日本人、これが戦争だ」 予告編にも使われたこの中井(北朝鮮テロリスト)のセリフは、原作のようにもう少し苦しい葛藤のなかで使ってほしかった。あれじゃどれが戦争だかわかんねーよ。「これが戦争だ」というセリフは、作中の俳優や観客も含めた、多くの人間が「これは(まだ)戦争ではない」、あるいは「戦争というものを理解していない」という状況で発してこそ意味がある。 テロリストの支配下に入ったイージス艦が東京湾深部を目指すという状況だけでなく、政府の対応や現場の自衛官の心象をもう少し丁寧に描いたあとでないと、「日本人は戦争というものをよくわかっていない」ということが浮き彫りにならない。残念。 副艦長役の寺尾聰も失敗に思える。 50代中盤でお涙頂戴の役柄を任されられる映画俳優が、人手不足だということなのだろうか。『半落ち』、『亡国のイージス』と、寺尾出演作は続いてダメだったわけで、『博士が愛した数式』もすでに結果が見えているような気が。どれも原作はそこそこよかったので少し悲しい。 最近、日本映画で「これは!」と思う作品に出会ってない。『バトルロワイヤル』はなかなかよかったが、『2』はいまいちだった。全般的に、(原作ではなく)脚本のせいだと思うんだがどうかなあ。バトロワは脚本というより深作監督の力技に痺れた、という感じだったし。 探しものは見つかっていない。 本日は遅い昼食。 焼き魚定食を食べながら、『チーム・バチスタの栄光』(海堂尊著/宝島社刊)読了。「2006年このミステリーがすごい」の大賞受賞作。選考数十秒で決まったそうだ。医療ミステリーで確かに面白い。2日で読んじゃった。これについては機会があればまた。
2006/01/27
ここ楽天広場でもちょくちょく話題になる、「表現の自由」と「コメントの削除」について考えている(なので、広場のなかで一番この議題がよく出てきそうなテーマにこの記事を載せておく)。 結論から書けば、私は「管理権が管理者にあるかぎり、コメントやTBの削除は管理者が自由に行なって当たり前だ」という考えである。 それで仮に卑怯だとか憶病者だとか言われるのは、明白な筋違いだ。 いやまあ言われてるかどうか知らんけど。よく見てないから。 つーか私自身はほとんど削除も制限もしないけど。変人だから。 これは、それがどのような記事であろうとも(例えば社会的、政治的、思想的な記事であろうとも)、そのサイトが論争を目的にして設置されている場合、あるいは当該記事が論争を前提としたものでないかぎり、ブログ執筆者にとって都合の悪い情報や気に入らない書き込みを制限するのはなにも責められることではないと考えている。 なぜなら「削除すること」も思想表現のひとつだと考えているからだ。「コメント削除は表現の自由の侵害になるのだから、オレの記事の検閲はするな」という方は、自分が書き込むことでそのサイトの管理者の「削除の自由(表現の自由の一種)」を犯すと主張していることを気づいていない。(と思う) これに対し、頑なに「それは表現の自由を統制するものであり検閲だ」というのは「自由」という概念を誤解している。むろん民主主義とはなんの関係もない。自由とはそもそも統制された上でしか存在しないし、民主主義社会における「表現(あるいは意見)」とは、一定の管理の上にしか成り立たない。まあ当たり前だわな。壁に書かれた落書きが、アートであるか淫猥画であるかは、(それが人類恒久の遺産とかでないかぎり)その壁の管理者が決めるものだ。 そもそもこの場合になお表現の自由を主張する者は、エロTBや明白な宣伝書き込みも制限するな、と言うのだろうか? まさかね。「人妻満載☆逆援助大募集(はあと)」とかいうスパムメールもフィルタリングすべきではない、と主張はしまい。 まさかとは思うが、個人管理のブログにおいて「社会的政治的思想的な書き込み」は、「(例えば)エロ表現」よりも守られるべきだという考えなのだろうか? なんか立川反戦ビラ訴訟の時の朝日新聞みたいな物言いだが、私は「表現内容によって“表現の自由”に画一的な階級をつけるべきではない」という考えをもっている。なのでもちろん、エロTBだろうと思想的な書き込みだろうと、一括的な区別は反対である。 ※ では削除や制限の際の判定基準はどのようなものであるべきか? 個人ブログにおいては、一定の規範(常識の範囲ね)をクリアしたうえでは、「管理者の好み(判断)」でいくしかないだろう。 管理者が迷惑だと思えばどんな内容だって迷惑だし、有益だと思えばどんな書き込みだって有益だ。もちろんこのサイトでは、エロTBや宣伝目的のみの書き込みはバンバン削除する(この前初めてエロTB一掃したんだけどね)。だってオレ的にすげえ迷惑だもん。 隣りの家から聞こえてくるのがモーツァルトのピアノ協奏曲であれば文句は言わないが(20番あたりだとなおいい)、読経や軍歌だったら「やめろ」と言うのと同じである。私には私の部屋で心安らかに過ごす権利がある。それと一緒だ。モーツァルトと読経のあいだに高低はない。ただ両者を区別するのは「聞く者の好み」だけである。 そもそも「他者の表現活動を、その内容によって高低をつける」というロジックで、ある表現を制限すべし、と主張してしまうと、いつ自己の信ずる表現活動が「低級だ」と見なされて制限されるかわからんではないか。馬鹿げた言葉狩りや発禁はこういうところから始まるのである。 どうしても書きたいことがありゃあ自分でブログ作ってそこで書きなさい。 ブログ記事でのコメントというのは、単行本における「注」のようなものだと私は考えている(事実私はそのように使うことが多々ある)。刊行済みの単行本に対して「それは間違っているから、俺の注をつけさせろ」などという主張をマトモに聞く出版社はない。 異論があれば自分で新たな反論本を書いて出版すりゃいいのだ。 ネットではそれと同等のことができるのである。 ※「なら(一営利企業である)マスコミが意図的に不都合な情報を報じないのもいいのか?」という反論はあろう。これには一定の理路を感じる(まあ事実として報じないことが多々あるわけだが)。 しかしこれはマスコミ側にも一応理屈があって、新聞なら紙面、雑誌なら誌面、TVなら放送枠という物理的時間的制限がある以上、その限られたスペースで「何を報じるか」というのは、営利企業である各マスコミの編集権に委ねられている。本来他人からギャーギャー言われる筋合いはない。 ここでポイントになるのはふたつ。 ひとつは「マスコミの紙面、電波は公共物である」という考えだ。例えばTVには、電波は公共物だと見なされるために放送法による規定がある。新聞だって雑誌だって部数の多いものは自主規制を求められるし、条例によって制限がかかる場合も多い。「18禁」とかいうアレね。「公序良俗」という概念を普遍化するのは難しいが(私は法原理主義者ではないので、憲法ないし民法における厳密な「公序良俗」概念を採用しない。ここでは「世間様に迷惑かけんな」という程度で使用している)、地上波TVと新聞は「公序良俗」の制限を受けるべきであり、雑誌、単行本、ネットはそのかぎりではない、という考えを持つ。 地上波TVはチャンネル数が限られており、夕飯時にニュースを見ていたら勝手にAVを流されたら困る(私個人は喜ぶかもしれんが子供がそばにいたら困る)。ここでもまた「オレ的に迷惑」というロジックに反するわけだ。 また新聞は宅配されるものだ。どの新聞を選ぶかは個人の責任において選択可能ではあるが、情報受信の受け手側の問題として、「本」や「ネット」よりも選択権が狭いこと(自ら進んで見る、読む、受け取る、という姿勢の問題ね)は注目されてしかるべきだろう。 一番手っ取り早いのは、マスメディア全般が「ジャーナリズム」だとか「社会の木鐸」だとかいう勘違いした看板を降ろすことにあろう。もっともこのメディア側の問題は本格的に議論するとさらに大きな問題が多々でてくるので、ここでは深く述べないが。 ※ 繰り返しになるが、私は私の管理するこのサイトでは、気に入らない意見はバンバン削除する。エロTBを削除するのと同じように、である。当たり前だ。私は私の管理するサイトで心安らかに過ごす権利があるのである。「読んでて不快だからひと言書きたくなった」とかいうヤツには、「じゃあ読むな」と言う。 読者には「二度とそのサイトに行かない」という選択権が存在しているのだ。「オレの文章は広く人民に伝えられるだけの、共有されうりかつ保護されるだけの価値がある」とかいう人のみが、「私(ショータ)の好み」を超え得る価値観なわけだが、さすがにそんな文章はこのサイトでは見たことない。むしろそういう書き込みなら歓迎しちゃうんだけどね。 探しものは見つかっていない。 莫迦は嫌いだ。
2006/01/23
特に学術的な知的好奇心を満たすために読みに行くサイトをいくつか。■内田樹の研究室:倫理学、哲学、フランス現代思想 最近売れっ子の内田センセ。早稲田駅前の成文堂では平積みになってました。 ほぼ毎日閲覧。神戸学院大教授■おおやにき:法哲学 憲法論で内田センセに書いていた反論があまりに見事だったので、それ以来ちょくちょく見に行っている。この人はいずれ(たぶん専門以外で)もっと有名になると思う。名大助教授。 ■ララビアータ:哲学 田島センセは、ともかく文章が美しい哲学者。更新が少ないのでたまに見に行く程度。昨年9月のアーカイブにある「希望」というエントリに一度TBを送らせていただいたことアリ。東北芸術工科大教授。■猫を償うには猫をもってせよ:文学 小谷野敦センセのブログ。単行本化された著作はだいたい読んでると思う。禁煙運動ファシズムへの反論を展開中。気持ちはわかるが勝てない勝負を挑むのはやめたほうが……。まあそれが『もてない男』以来の小谷野センセの芸ではあろうが。東大非常勤講師。■インタラクティブ読書ノート別館の別館:社会学 知り合いに教えてもらってからちょくちょく読みに行っている。2つ上の田島センセもそうだが、コメント関係に珍しく丁寧に返事を返すのは好感度高し。マンガやゲームの社会学的批評もしている。明大教授。 本日はまあ自分用リンク集代わりということで。 ところで大野センセは戻ってこないんでしょーか。 ※ そういえば。 仕事で乗った「稲毛タクシー」運転手の態度があまりに悪くて1日気分が悪い。 駅まで1メーターと知りつつ乗ったわけだが、行き先を告げた瞬間、「えぇー?」と声をだしやがった。 また、道路が混雑していたためいったんロータリーに入ると、我々を降ろしたあとそこから出るのに時間がかかるのはわかる。しかし、こちらも事情があるのだ。雨天だったし足の悪い同伴者がいた。それを承知していながら、ロータリーの遥か手前で「ここで降りてくんない?」とは何事か。 ずっと助手席の背もたれに肘をかけながらの運転態度といい、どういう社員教育をしているのか疑問だ。 探しものはまだまだ見つかっていない。 ねむい。
2006/01/18
ちと仕事で疲れている。 いや正確には、ドッと疲れる仕事上の重荷を背負うことになった。 メンドクセー。。。。。 ※ 仲良くさせていただいている中マロ姐さんのところで、少し前に「第一言語(の習得)」に関する刺激的なやり取りがあったようだ。ここね。リアルタイムで読んでいれば乱入したかったのだが、スカッと乗り遅れてしまったので若干悔しい。 でもたぶん、キチンとしたものを書くと長くなりそうで、それはそれで大変そうだなあ、コトが幼児教育だけにいい加減なこと書けんしなあ、とも思ったりもして少し複雑だ。 いま改めて当該記事をザッと読み返して、少しテーマとはズレるであろうが、吃音者(いわゆる「どもり」)のことを思い出している。 例えば「カ行」がどもる人は、「かわいいね」と言うべき場面、言おうと思い立った瞬間でも、最初の「か」が出てこないことを恐れて「美しいね」と言い換えてしまうことがあるそうだ。 言うまでもなく、「かわいい」と「美しい」はまったく別の描写であり、大きく異なる感情表現である。けれど言い換えてしまう。カ行を使うことを恐れて、どんどん「かわいい」という言葉を発話しなくなる。「言葉」は感情に強く影響を及ぼすから、「かわいいもの」を「美しい」と言った瞬間に、「かわいい、と思った発話者」自身も(もちろん言われた相手も)、その発話された言葉に影響を受けざるを得なくなるわけだ。 例えばこれは、日本語話者が英語で「切ない」という表現がわからなくて、かわりに「悲しい(ex.Sad)」と言ってしまう状況と近いだろう。 こうした吃音者の言い換えを「悲しく辛い状況だ」と、いまこのエントリを読んでいる方は思うだろうか? そう思った方は、では「A子さんはかわいい」という表現(文字でも音声でもどちらでもOK)と、自分のなかの「かわいい、と思ったA子さんへの感情」とがピタリと一致していると、断言できるのだろうか? 上記は少しわかりづらいかもしれないので、補則しておく。 例えば電車のなかで一組のカップルがいたとする。 女性が男性に向けて、「わたしのことを、どう思っているの?」と聞く。「愛している……うん、そうなんだけど少し違うな。いとしい……これもちょっと違う。大切だ……そうなんだけど言い切れていない。抱きたい……別の意味が入ってくるね。好きだ……薄っぺらい気がする……。一緒にいたい……そうなんだけどでも……」 と、延々と悩む男性。 これは鴻上尚史の著作から引いたエピソードだが、この男性の逡巡が、理解できるだろうか? 私にはできる。そしておそらくこの逡巡は、この男性の愛情(と広く呼ばれる心情)が深ければ深いほど続くだろうと思う。 言語学など学ばなくとも、あるいは表現や外国語を学ばなくとも、人は恋をすれば(第一言語だろうが第二言語だろうが)「ことば」と、その困難さに出会う機会がある。 そしてそれは、学問でもなく仕事でもなく、あるいは教育という切羽詰まった状況でもなく、ただただ「恋愛」という場面で出会うということについて、とてつもなく素敵なことなんじゃないかと私は思っている。 ※ 学生時代に、どもりの友人がいた。 そいつは私なんかよりよほどインテリで、だからなのか、初対面から「吃音などと言うな。どもりと呼べ」と言っていた。 友人はインテリだけどシャイで、当時クラスで一番軽そうで女の子に顔が広くて、酒のつきあいがよくてしかもバカっぽかった私に、ある日突然「同じクラスのYさんに告白したいのだが、一緒に来てくれないか」と頼んできた。 そんなもんひとりで行けよ、と言ったのだが、思い破れたあとに事情を知って愚痴をこぼせる相手がほしいんだろうなあ、と思い直して付き合った。私もヤツも、18歳で、しかも夏だった。 オレの友人でキミも知っているある男が、キミに大切な話があるんだと、そうだとわかるように含めてYさんを午後5時過ぎの空き教室に呼び出した。 ヤツをひとり教室に残し、私は扉の前で待っていた。 Yさんは約束の時間ぴったりに来た。 女友達を3人連れてきたけれど、私はひとりで中に入ってくれないかと頼んだ。チラッとなかを見るとYさんは私に振り返り、わかったと頷いてひとり扉を開けて入っていった。 扉の前に残された私と3人の女友達。 女の子たちは一瞬中を覗きたそうにしていたが、普段ユルユルとしていた私が「ゆめゆめそんなことは許さん」という顔をしていたからか、黙って私とは反対側の壁に寄り掛かって待っていた。 しばらくたって。 それはたぶん10分に満たない時間だったとは思うのだけど、ひどく長く感じられたあとに。「きっきっきっきっき……!」 という大きな声が教室から聞こえてきた。 私は祈るような気持ちになった。「きっきっきっき……キミのことが、好きだ!」 莫迦だよね。中学生じゃないんだからさ。 オレ、覗くなって顔してたのに、意味ねえじゃん。 そんなことを思っていたが、ヤツはすげえ。すげえヤツだ、と心の底から感動していた。 それからまたしばらく時間がたって、ヤツはひとりで扉を開けて出てきた。 ひとりで出てきたから、結果はなんとなくわかった。 入れ替わりに、3人の女友達が教室に入っていった。 チラリと見えた教室は、まだ夏の光が窓からずいぶんと差し込んでいて、逆光のためにYさんの表情はよくわからなかった。 一緒に階段を下りて校舎を出るとき、ボソッと「ダメだったわ」とヤツは言った。 そうか。まあ、しゃーない。 しかしお前、告白するにしたってあのセリフ選び、どうにかなんなかったのか。 無神経な私が笑いながらそう問い掛けると、そうだよなあ……とヤツは言った。 笑顔と泣き顔の中間の、変な顔をしていた。 じゃあなんて言えばよかったのか。 わかりっこねえなあ、なんて言いながら、駅に向かってトボトボと歩いていた。 今はまだ無理だけど、いつかわかるようになるんだと、信じて疑わなかった。 私もヤツも、18歳の、しかも夏だった。 私の探しものは、まだ見つかっていない。 ヤツがもう少し頭が悪ければ、「キミが」ではなく「あなたが」と言い換えただろうことは、しばらく後になってわかった。 そして私はたぶん、あの絞り出すようにでた重く鋭い告白の「ことば」を、カ行がどもると知っていて選んだその「ことば」を、一生忘れない。(追記) これもまあなんというか、全部実話です。「ヤツ」はいま職場で知り合った美人の奥さんと結婚して子供がひとりいます。可愛い女の子です。5年くらい前にうっかり酔っぱらって奥さんの前で「あの時」の話をしてしまい、その後メールでえらくイヤミな文章をもらいました。すまぬ。だって美人妻に「学生時代の恋話、聞かせて」ってせがまれたら断われんよ。 いっぽうYさんは夏休み明けにサークルの先輩とくっついたそうで、何度かカップルで歩く姿を見かけましたが、その後はよく知りません。女友達3人のうちのひとりとはその後何度か飲みに行くようになって、「Yちゃん、あの時泣きながら断わったんだよ」という話を聞きました。Yさんにとってもまた、18歳の夏でした。 ヤツの想いは破れたけれど、「ことば」は届いていたんだと、なんだか不思議に嬉しくなりました。(追記2) 本文中にリンクのある、中マロ姐さんにTBを送りました。 むうう、書き終えて読み返すと、ずいぶん主題とズレているような気もしないでもない。「子供を想う母の悩み」と比べてしまうと、えらく小さいなあ。まあ子供がいない小生では、どう書いたところで敵いっこないわけではありますけども。
2006/01/17
友人から「ぜひ見てみろ」と言われていた『猟奇的な彼女』をやっと見た。内容の説明するのが面倒なので、以下にリンク元の紹介文を引用しておく。<引用開始> 性格の優しい大学生のキョヌは夜の地下鉄ホームで美しい“彼女”と出会う。でもその時“彼女”は泥酔状態。酔っぱらい女は嫌いだったが、車中で倒れている“彼女”を放っておけず仕方なく介抱してホテルへ運ぶ。ところがそこに警官がやってきてキョヌは留置場で一晩を過ごすハメに。翌朝、昨夜の記憶のない“彼女”は怒ってキョヌを電話で呼び出した上、詰問するのだった。しかし、これがきっかけで、そのルックスとは裏腹にワイルドでしかも凶暴な“彼女”に振り回される、でもキョヌにとっては楽しい日々が始まるのだったが…。 <引用終了> 主演女優のチョン・ジヒョンがどこまでもキュートで可愛く、対する男優のチャ・テヒョンはひたすら弱く頼りなく、いわゆる両者の役柄が画面から滲み出るような絶妙な配役が光っていた。 内容は明るくコミカルななかに感動的なストーリーを折り込むという少女マンガ的な手法をとっていて、レビューを読むと「泣けた」、「ブームで終わらせてほしくない」などの賛辞が並んでいる。 私もなかなか感動しました。 ちょっと中だるみの印象があったけどね。 1時間半でまとめられる内容じゃないかな。 ※ 作中の「彼女」は上述にあるように「ルックスとは裏腹にワイルドでしかも凶暴」である。「殺すよ」、「死にたいの?」が口癖で、実際に気に入らないことがあると相手をグーで殴り倒す。 主人公キョヌがレストランで「コーラが飲みたいんだけど……」と言っても、「彼女」は「殺すよ?」と言ってコーヒーをふたつ注文してしまう。 そのことについて文化的、倫理的、道徳的、教育的な批判や意見を加えることは容易い。けど私はこれを見て、「あー、みんなこうして殴られたいんだろうなぁ」とただただ思ってしまった。 誰だってみんな、強くて美しいものには命令されたがっているのだ。 ※ 以前にも書いたけれども、私自身の性癖は悲しいくらいノーマルで、サディズムにもマゾヒズムにも傾倒していない(と思う)。けれどSMという趣向が、人間の奥底に潜む根源的な愉悦をこのうえなく刺激し、それはおそらく生でリアルな「人間性」というものの一片に光を当てているからだ、ということは確信している。 我々は誰しも(おそらくそれは人間が人間であるかぎり)、「強くて美しいもの」に虐げられたがっており、また自身を「強くて美しいもの」に仮装して、誰かを(何かを)虐げたがっているのである。 もっといってしまえば、個は、人間性は、人権は、人格は、どこかで(あくまで「どこか一片で」)毀損されたがっており、毀損したがっているものなのだ。 ※「人間性」というのはやっかいなもので、「強くて美しいものに虐げられたい」と思うと同時に、「正しさ」も手に入れたいと望む。 ちなみに「正しさとはなにか?」、「正しい状態とはどんな状態か?」というのを研究する学問を倫理学という。また「あるもの、ある事象」の意味を考える学問を形而上学といい、「あるもの、ある事象を正しい状態に導くためにはどうすればいいか」、を考える学問が論理学という。 形而上学、論理学、倫理学の3つをまとめたものが、「哲学」と呼ばれる学問だ。 話が少し逸れた。戻そう。 主人公キョヌを、凶暴で粗暴な「彼女」へと駆動するのは、「強くて美しいものに虐げられたい」という欲望だけではない。そこには「愛」という概念が存在し、「愛=正しい」という社会的装置が強烈な原動機として存在している。 どんなにムチャクチャで乱暴な「彼女」であっても、それに付き従うことが「愛」であるならば、(それは「愛=正しい」という等式ゆえに)「純粋な物語」として昇華されうる。 純粋に生物個体として考えた場合、「凶暴で粗暴で乱暴な彼女」に従順に付き従う行為は生存戦略として不利なことこのうえない。事実、作中でもキョヌは、「彼女」に付き従うことで何度か(社会的なものも含んだ)生命の危機に瀕することになる。 しかしこの「強くて美しいものに虐げられたい」、「正しいこと(愛)を求めたい」というふたつの人間性は、フロイトが「本能」として名付けた「自己防衛衝動」を、いともたやすく突き崩す。『猟奇的な彼女』が話題になったのは、従来「男→女」という構図であったこうした物語構造を、「女→男」とひっくり返して構成したところにある。冷静に考えれば「男→男」という構図だって「女→女」という構図だってあったのだが、なぜか「女→男」という構図はほとんど見受けられなかった(ジェンダー的視線で見れば、それは社会的抑圧があったからだ、となろう)。『ごくせん』、『女王の教室』など昨今話題になっているTVドラマも、もちろんこの系譜に連なる。『ごくせん』は「正しさ」を「道徳的」に担保し、『女王の教室』は学歴主義的学校教育にその「正しさ」を求めたにすぎない。 どちらも「教師」という権力者の暴力を、こうした「正しさ」(プラス強さと美しさ)でもって安易に肯定し、物語として昇華させているわけだ。 ※ 頭のいい人ならばお気づきであろうか。 これは構造的には、神風特攻隊や自爆テロと同じである。 対象物を入れ替えただけで、国、郷里、教義、信念、仕事、友情、家族愛、どれであろうとも同じことだ。それぞれの人がその対象物を「強くて美しくて、しかも正しい」と認めたのであれば、いともたやすく従順に付き従い、虐げられることをよしとし、自らの防衛衝動を投げ捨てる。 メロスが命懸けで走ったのは、友情が彼にとって「強くて美しくて、しかも正しい」と信じていたからである。 オレ? もちろんオレだって同じだ。 強くて美しくて正しいものには、従い、虐げられたいと思っている。そういうものを盲信したいと常に思っている。 だからナショナリズムや言語や、それに恋愛なんてものをいつも考えているわけだ。 ※ 探しものは見つかっていない。 こういう話を、一緒に『猟奇的な彼女』を見た女性に話してみた。 観劇後、ポロポロ泣いていた彼女はキョトンとしながら、「そんなことを考えているから、この映画をちゃんと楽しめず、感動が薄いんだ」と言われた。 なるほど。深いな。 オレはまだまだ信仰心が足りない。
2006/01/15
雨がザーザー降りですね。 私はいつから雨天が嫌いになったんだろうか。中学校低学年までは、雨が大好きだったのだけれども。 ※ 以前この日記にも書いたと思うが、先進国のなかでは例外的に、日本は雨の多い国だ。だから日本語には英語、フランス語、スペイン語、中国(北京)語などに比べて雨に関する語彙が多い。 パッと思い付く範囲で並べただけでも氷雨、五月雨、時雨、夕立、村雨、梅雨、秋霖、白雨、驟雨、小夜時雨、狐の嫁入りなどがある。万葉集にも古今和歌集にも雨を題材にとって詠まれた歌は多い。 近代文学作品でも雨をモチーフにした作品は多いのだけれど、なぜかいま頭の中をグルグル回っているのは 雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る 雨は真珠か 夜明けの露か それともわたしの忍び泣き♪ と、唱歌(『城ケ島の雨』作詞/北原白秋)だったりして少し変な気分だ。 そういえば北原白秋の墓は多磨霊園にある。友人の墓参りに行った時、それを目印にして探した。 ※ 今日はちょっと別に書こうと思ったこどがあったのだが、長くなりそうなので保留。 探しものは見つかっていない。 最近、「頭がいい、というのはどういうことなんだろう」と再び考えるようになった。あんまり考えないほうがよさそうなのか。咳が止まらん。むう。
2006/01/14
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