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わたしは 呼び止めは しない 今 旅立つ 君を わたしは 悲しみは しない 君は もう 大人だから ただ ひとつだけ お願いがあるの この 夏の 思い出だけは 忘れずに 閉じておくれ わたしは 振り返りは しない 去りゆく 日々の 暮らしを わたしは 思い出の中で 君に あえるから ただ ひとつだけ お願いがあるの この 夏の 思い出だけは 忘れずに 閉じておくれ 作詞/神戸俊樹 作曲/三好清史 歌・演奏/センチメンタル・シティ・ボーイズ(神戸俊樹&三好清史) ※ブルース調のスローバラードです。
2013.11.28
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[☆゚+.暑中お見舞申し上げます゚+.☆]´ノ∀`)ゲンキ~♪ 連日、厳しい猛暑が続いております。巷では夏休みモードに入り、避暑地でのんびり過ごしておられる方もいるのではないでしょうか。 大衆文藝ムジカ創刊号の原稿締め切りが迫っているため、寄稿する作品が中々決まらず選定に四苦八苦しております。 既に紹介済みの「夏休み」ですが、動画の部分を編集し直しましたので、お楽しみ頂ければと思います。 こちらから動画が再生出来ない方は↓をクリックしてみて下さいませ。 夏休み(吉田拓郎・カバー)ギター/ヴォーカル:神戸俊樹ギター/三好清史パーカッション/神戸俊樹
2013.08.14
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7 日、大阪・ボディメーカーコロシアムで行われたプロボクシング、WBAバンタム級タイトルマッチ「亀田興毅VSパノムルンレック・カイヤンハーダオジム」 の一戦は、チャンピオン亀田興毅が辛くも2-1で判定勝ちを納め、チャンピオンベルトを守り6度目の防衛成功を果たした。 然しながら、試合後のリング上では勝利を祝うチャンピオンの笑みは影を潜め、持てる力の全てを出し切った挑戦者の清々しい姿とは対照的にどちらが勝者なのか分からないほど会場も重い空気に包まれていた。 試合前半、チャンピオンをロープ際に追い込み、細かいパンチの連打を浴びせる挑戦者は不敵な笑みを浮かべつつ、サウスポーを苦手とする亀田の弱点を知り尽 くしたかのように、挑戦者の繰り出した強烈な左アッパーが亀田の顎を捉え、試合序盤から挑戦者に先手を取られると言うチャンピオンらしからぬ体の動きが試 合の展開に不安を抱かせていた。 顔を赤く腫らし、鼻からは鮮血がほとばしり、その痛々しさに会場に詰めかけたファンも波乱の予感を抱かずには居られなかっただろう。 勝利を確信したかのように、時々笑みを見せるほどに挑戦者は余裕すら見せていた。追い詰められているのはチャレンジャーではなく、確かに亀田興毅自身であった。 結果は僅差での判定勝ちであるが、試合経過を振り返ってみると事実上の亀田敗北と言ってもよいだろう。それはリング上でうなだれる亀田自身の言葉が物語っていた。 多くのファンの前で土下座までして懺悔を乞うチャンピオンの姿は余りにも痛々しく、自分の目指すボクシングが出来なかった事への悔しさと自責の念でマットは重く沈み込んでいた。 ボクシングに限った事ではないが、自分が相対する相手は恋人のような存在である。相手を知り尽くす事によって自分には無いものを発見し、それを自分に置き換えてみるという心理面でも相手を上回る事で試合を有利に進める事が出来る。これは謂わばプロポーズにも似ている。 相手をこちらのペースに持ち込んでしまえば勝利は目前であり、恋の駆け引きもこれと同様であるからだ。恋人が必ずしも自分の得意とする相手とは限らないし、苦手な側面も必ず持っているだろう。故に亀田興毅の恋人はサウスポーなのである。意味不明(´∀`*)。
2013.04.10
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師走の冷たい風が肌を突き刺し吹き抜けて行く。今年も余すところ数日となり、来年に向けて希望のカウントダウンが始まろうとしている。 そんな時、海の遥彼方から届いた一報は、冬将軍の到来を思わせるような「松井秀樹引退」、それは一つの時代が終を告げる鐘でもあった。 米国時間12月27日(日本時間28日)、国内では街の至る所で仕事納のサラリーマンやOLたちの忘年会などで賑わっていた。 クリスマスの余韻を漂わせつつ、街は人々をネオンの妖美に誘い込んで行く。38歳と言う年齢はわたしたち一般人からすれば全く若い部類に入るかも知れないが、スポーツの世界においてはやはり歳を取り過ぎたと言う事なのだろうか。 20年と言う野球人生に自らピリオドを打った松井秀樹の表情には、僅かながらの未練を残しつつも次のステップへ踏み出す希望の光も見え隠れしていたように思う。 ニューヨークのミッドタウンで行われた記者会見で、松井は言葉を一言一句噛み締めるように紡いで行った。 彼が公式の場に姿を見せるのは久しぶりの事でもあり、戸惑いと緊張感も連れ立ってその発する声は、か細く弱々しいものに思えたが、時間の経過とともにいつもの松井らしさが戻り穏やかな表情に変わって行った。 彼自身が言う通り、ゴジラ復活のチャンスはあったかも知れないが、結果的にシーズンが終わって見れば納得の行く内容ではなかった。 ファンの立場から見ればまだまだ松井の活躍を見たいのは当然かも知れないし、野球はメジャーだけでなく日本のプロ野球もあるのだから帰国して日本のチームでプレイを続けて欲しいと思ったりもするが、おそらく彼にとってメジャーが野球の最終地点だったのかも知れない。 そしてまたスポーツの世界は結果が全てを物語るし、そう何度もリプレイが通用するほど甘い場所ではない事を松井自身がその身体で十分理解していたのだろう。 今ここで松井秀樹の歴史を振り返れば、それは「怪物ゴジラ誕生」であり、そしてまさしく豪快なホームラン王として長きに渡りプロ野球界に君臨するのである。 わたし自身が最も記憶として残っているシーンは彼がまだ高校生だった頃のこと。1992年、夏の甲子園大会「星陵高校VS明徳義塾」の試合であるが星陵は敗退したものの「5打席連続敬遠」では、当時の高野連が急遽記者会見などを開き社会問題にまで発展している。 対戦相手の監督の口から「高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」と言わしめるその実力はプロ野球選手も驚愕するほどであり、常に彼の周りには多くのマスコミ陣が群がっていた。 デビューが華々しいほどそれとは対照的に引退宣言は引き波の如く時代を加速させるものであるが、輝かしい栄光と希望をその背中に刻み込み、バットに別れを告げる松井秀樹に「ホームランに花束を」と感謝の気持ちを込めて見送りたいと思う。
2012.12.29
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7月27日に開幕し、17日間に渡って各種競技が行われたロンドンオリンピックが先日、13日に幕を降ろした。 参加国は204、約1万1千人のアスリートたちが参加し、26競技302種目に渡り熱い熱戦が連日行われ、時差の関係から日本では深夜に競技が行われる事が多く、テレビに釘付けになり寝不足に悩まされた人たちも多かったのではないだろか。 日本は、金メダル7個を含む合計38個のメダルを獲得し史上最多となり、日本国民に輝かしいプレゼントを齎してくれた。 これ程までに日本選手が活躍出来たのは、おそらく昨年に日本を襲った未曾有の大震災と、それに続き起こった福島第一原発事故で大ダメージを受け、その灼熱 地獄の中ら這い上がる日本人の不屈の精神力と最後まで諦めない一種の執念が多くのメダルを呼びこんだのではないだろうか。 世界に日本の底力を見せ付けた思いであり、なでしこジャパンは宿敵アメリカに惜しくも敗れたものの、内容的には一歩も劣らない金メダルにも匹敵するほどの銀メダルだったと思う。 男子サッカーも快進撃を続けたが善戦及ばず、3位決定戦で韓国に敗れメダル獲得には至らなかったが、未来の男子サッカーに希望を与えた事は確かである。 それにしても、オリンピックを政治の舞台に利用してしまう韓国には呆れ果ててしまったが、尖閣諸島や竹島などの領土問題が燻る中、これが韓国のやり方なのかと、余りにも下品なやり方を見て、如何にも韓国らしいと苦笑してしまった。 そして、わたしが最も注目して見ていたのが、女子卓球。わたし自身この重い病気の身でありながら唯一得意なスポーツが卓球だからである。 福原愛選手のファンでもあり、彼女が幼い頃から応援して来ており、一度でいいから冥土の土産に福原選手と一戦交えたいとさえ思っている。 シングルスは残念な結果であったが、女子団体ではなんと初の銀メダルに輝いた。これもまたなでしこJAPAN同様に金メダルに匹敵するほどの価値があると思った。 4年に一度開催されるオリンピックを幾度となく見て来て思うのだが、メダルを手に出来る選手はほんの一握りの選手たちだけである。 その殆どの選手たちはメダルに縁のない人たちだ。マスコミがスポットを当てるのはメダリストたちだけであり、その影には多くのアスリートたちの流した涙が溢れている事を忘れてはならない。 そしてまた、オリンピックが『平和の祭典』『スポーツの祭典』と呼ばれて久しいが、昨今のオリンピック裏事情を見ると、『金満オリンピック』と思えてなら ないのである。もちろん、オリンピックが齎す経済効果は莫大なものであるが、それを目当てに各国が開催地として名乗り出てオリンピック開催候補地がオリン ピック招致として金塗れになるのを見てしまうと、この何処が平和の祭典だろうと疑問を抱いてしまうのである。 メダルを獲って当たり前のオリンピック、それは本当の意味でスポーツの祭典なのだろうか?それが各選手たちにプレッシャーとなって圧し掛かりその結果、実 力の半分も出せないまま惨敗してしまうと言うのはよくある事で、今回では男子柔道がそれを如実に表しているのではないだろうか。 国民もマスコミも「メダル・メダル」と騒ぎ過ぎる。『オリンピックは参加することに意義がある』と言う有名な言葉は既に過去の遺物となり、メダルに執着するあまりメダルの為のオリンピックになり果ててしまったのである。 メダルはあくまでも目標や結果であり、スポーツ本来の精神を忘れてはいないだろうか。平和の祭典が真実ならば、世界一貧しい国と呼ばれている『バングラディシュ』でボランティアオリンピックでも開催してみればよい。
2012.08.19
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馬に乗って去って行く男の背中に向けて少年が叫ぶ「シェーン、カムバック」。西部劇の名作『シェーン』のラストシーンであるが、このシーンにつては様々な捉え方が存在する。 つまりシェーン死亡説の話しであるが、それは置いといて、イチローの電撃移籍で多くのファンやそうでない人たちも一様に驚いていた。 イチローのファンからしてみれば「イチロー、カムバック!」に違いない。シアトルのセーフコフィールドで行われた移籍会見を見て、彼の頭が余りにも白い事 にも驚かされたが、38歳にしてこれほど白髪が多いのはメジャーリーグで活躍して来た11年間がわたしたちの想像を遥かに超える過酷なものだった事を窺わ せている。 身体の大きな大リーガーの中にあって、イチローはどちらかと言えば、小柄で華奢な体格であるが、その彼の何処に年間200本も安打を打つエネルギーがあるのだろうか。 もちろん彼の優れたバッティングセンスと、ボールを獲物の如く狙い撃つ野生の鋭い眼光を持ち合わせているからであるが、それ以上に彼自身を支えて来たのは、人並みならぬ練習量にあるからだ。 天才バッター、安打製造機と異名を取るその背景に、人には見せない彼の涙ぐましい努力があったからこそである。 ヤンキースへの電撃移籍は、若手投手2人と金銭による交換であるが、会見では自らトレードを希望したと話している。 然しながらその実情は若干異なっている。地元紙がイチローに対するアンケートを実施したところ、1番起用が28%、下位打順で使うが38%、クビ或いはトレードに出すが30%もあったと言う。 地元での評価がそれだけ低いのが現実だったのである。ある意味でプライドが高い故、自分からトレードに出るという結果になったものと思われる。 ブラッド・ピット主演の映画『マネーボール』を最近観る機会があったのだが、イチローが活躍しているシーンが盛り込まれていた。 2000年代初頭のメジャーリーグに於いて、財力のある球団と貧困球団の格差を描いたストーリーであるが、日本のプロ野球に例えれば、読売巨人軍が一時、 金にものを言わせ優良な選手ばかりを集めて選手全員が4番バッターと言う、打線重視のチームになったが優勝は出来なかったという苦い経験があり、9人野球 のチームワークが如何に重要かを見せ付ける結果となった。 つまり金の力で優れた選手を集めても、チーム全体が力を発揮する訳ではない事を実証しているのである。 連続200本安打、ゴールドグラブ賞も途切れたイチローは、確かに衰えを隠す事は出来ない。年齢に付いて回る体力や気力などはスポーツの場合、顕著な形でそのプレーに反映されてしまう。 されど、11年間マリナーズに貢献して来た彼の功績は揺ぎ無いものであり、誰も彼のプレーを真似する事は出来ない。 今季で契約が切れるマリナーズにとってみれば、イチローのトレード志願は『大海で浮木に出会う』心境であった筈だ。 球団は違えど、新天地のヤンキースでヒットを重ねて行く彼の姿を誰もが見たい筈である。イチローにとっての野球人生第3ラウンドのゴングが今、鳴ったのである。
2012.07.31
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ボクシングファン待望の試合が先日、6月20日に大阪・ボディメーカーコロシアムで行われ、超満員の会場は2人の王者の激しい打ち合いに釘付けとなった。 WBC世界ミニマム級王者の井岡一翔と、WBA同級王者の八重樫東との世界王者統一戦である。日本ボクシング史上初の日本人世界王者同士による団体王者統一戦という事もあり、試合開始前から好カードとして大きな注目を集めて来た。 試合開始直後から、井岡の放ったストレート、フックが八重樫の顔面を捉え、試合終盤まで井岡のペースで進みはしたものの、八重樫もチャンプのプライドを守る為、必死に打ち返し最後まで2人の激闘が続いた。 井岡の強烈なパンチを浴びた八重樫の顔面は見る見る内に腫れ上がり、膨れ上がった両瞼の奥で、井岡のパンチが見えていないようにも思われたが、その奥に光るボクサーの眼光は最後まで死んでいなかった。 2回のドクターチェックをものともせず試合に臨む八重樫の闘争心は、井岡を委縮させるほどの脅威になっていたが、天才ボクサーの名を欲しいままにして来た井岡にも意地があった。 左ジャブを容赦なく八重樫に浴びせポイントを重ねる井岡であったが、これぞWBAのパンチとも言える右ショートにたじろぎ腰が落ち掛けた。 然し、『日本ボクシング界を背負う』使命感に燃えている若干23歳の若武者は負ける訳には行かなかった。 井岡は試合5日前に38度の高熱を出したばかりで本調子とは言えなかったが、僅かなチャンスをものにする野生感と勝負運が八重樫より一歩リードしていたのかも知れない。 12回をフルに戦い抜き、その統一王者の称号を手にしたのは、井岡一翔であった。3-0の判定勝ちではあったが、その試合内容は近年のボクシング史上類を見ないほどの好試合であった。 2人のボクサーの実力が拮抗している場合、手数の多い方が試合を有利に進めるものであるが、有効打の数から言えば、彼らの差は五分五分だっただろうと思う。 世界を背負っている2人の意地のぶつかり合いであったが、どちらが勝っても負けても2人とも日本を代表する世界チャンピオンである事は間違いない。 低迷を続ける日本ボクシングの現状を省みれば、彼らの試合が今後の日本ボクシングに与えた影響は計り知れない。 八重樫がこのまま引き下がるとも思えないし、おそらくリベンジマッチが近い将来実現するだろう。エリートボクサー井岡VS苦労人ボクサー八重樫の再戦が今から待ち遠しくて仕方がないと思っているのは、わたしだけではないかも知れない。
2012.06.24
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ディスコの女王と呼ばれ、70年代後半から80年代前半にかけて数多くのヒット曲を世に送り出した『ドナ・サマー』が今月18日、がんのため死去し、彼女の全盛時代を知る多くのファンを悲しませたばかりだと言うのに、その彼女の後を追うように逝った『ロビン・ギブ』。 彼もまた彼女と同じように癌に侵され、その闘病の末の死であった。ビージーズと言えば、『ステイン・アライヴ』を思い起こす人が多いだろう。怪優のジョン・トラボルタをスターダムに押し上げた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』は余りにも有名であり、ビージーズが手掛けたそのサウンドトッラクは全世界で4000万枚を超える驚異的ヒットとなり、そこからシングルカットされた『ステイン・アライヴ』『恋のナイト・フィーバー』『愛はきらめきの中に』等は全米シングルチャートで1位を独占するなど、ビートルズ以来の輝かしい成功を収めている。 然しながら、わたし個人として最も記憶に残っている曲が、『マサチューセッツ』である。この曲に出会った時わたしは13歳で、国立療養所の天竜荘で心臓病の治療を続けていた。 病棟に隣接する養護学校で1日4時間までという厳しい時間制限のある教育を受けながら、病棟に帰れば楽しみと言えば、洋楽を聴くか漫画を読むくらいのものだった。 小学2年の時にビートルズを知りそれ以来、洋楽かぶれとなったわたしは、小さなトランジスタラジオが恋人代わりで、暇さえあればFENのビルボードチャートに耳を傾けていた。 洋楽ばかり聴いている影響で、知らず知らずの内に英語が得意になっており、英語のテストで、『Mustを使って文章を作りなさい』という設問で、すかさず、『I Must go home』と書いたのであるが、それはマサチューセッツの歌詞を丸暗記しており、その歌詞の中にその文章があったからである。 記事に張り付けてあるYouTubeの画像を見てお分かりの通り、彼らのデビュー当時は5人編成であったが、1972年以降にはギブ3兄弟のみのトリオ編成となっている。 この3兄弟における音楽の起点は教会の合唱団と言う事もあり、3人ともヴォーカルを担当しまた、彼らの心に響くハーモニーの美しさは『涙のくちづけ』でお馴染のレターメンにも匹敵するほどである。 3男のモーリス・ギブも2003年に他界していることから、バリー・ギブがビージーズ最後の一人となってしまった。 最後に、これとは関係ないが、『みのもんた』の奥様だった御法川(みのりかわ)靖子さんが、癌のためお亡くなりになりました。この場を借りて、謹んで心よりご本人さまのご冥福をお祈り申し上げます。
2012.05.26
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アメリカはあらゆる意味において先進国であり、そのアメリカがくしゃみをすれば(日本)世界が風邪を引くと言われるほど、多大な影響力を持っている。 世界の頂点に君臨する超大国のアメリカは、軍需産業を初め、航空宇宙学、科学、情報、医療など様々な分野で最先端を走り続けている。 映画や音楽など娯楽性と芸術性を併せ持つ分野においても、他国の追随を許さず常に世界をリードし数多くの偉大なるアーティスト達を輩出しており、それは今後も続く事であろう。 然しながら、超大国であるが故の底知れぬ深い闇をも含んでいるのも事実ではないだろうか。先日、急死した歌手のホイットニー・ヒューストンに、言い知れぬ病んだアメリカの姿がわたしにはだぶって見えたのである。 当初その死因について『溺死』との報道があったが、それは彼女がバスタブに沈んだ状態で発見されたからであり、直接の死因については謎の部分が大半を占めていたが、検証の結果、処方箋の薬とアルコールを一緒に摂取していた事が判明した。 薬の内容は、不安・パニック障害などに用いられる『アルプラゾラム』と、それに加えて鎮痛剤など複数に及ぶものであった。 輝かしい栄光を手に入れ、アメリカ音楽界のトップスターとなった彼女は世界中から『歌姫』と呼ばれ、絶賛の言葉を欲しいままにして来た。 そんなスーパースターの彼女には余りにも似つかわしくない『死』の姿であるのだが、人生の螺旋階段を踏み外し、転げ落ちるように底の見えない深い闇の中へと吸い込まれ、その果てに死の扉をノックしてしまったのである。 彼女の人生が狂い始めたのは、1992年にR&B歌手の『ボビー・ブラウン』と結婚してからの事であった。一人娘を授かり一見幸せそうに見えてはいたが、 夫のDV・薬物中毒、アルコール依存症、セックス中毒などにより、瞬く間にその頂点から転落。2006年に離婚後、麻薬中毒の治療を開始する事となった。 2009年に復帰作アルバム『I Look To You』がヒットし、歌姫の完全復活かとファンを喜ばせたのも束の間、薬物とアルコール依存から脱し切れずに2011年から治療に専念する事となる。 今年に入ってからは、破産寸前である事が発覚し、関係者の支援に縋りながら生きていたと言われている。 1992年に初主演映画『ボディガード』で、ケビン・コスナーと共演し、女優としての片鱗を見せつけ、そしてまた映画の主題歌『オール・ウェイズ・ラブ・ユー』が彼女自身の最大のヒット曲となっている。 薬物によってその輝かし人生を棒に振ってしまったアーティストは他にも大勢いる。2009年に死亡したマイケル・ジャクソンの場合は強力な麻酔薬『プロポフォール』を投与された事が直接の死因だったようであるが、正式には『他殺』であった事が判明している。 アメリカの音楽シーンを振り返ると、『ジャニス・ジョプリン』『ジミ・ヘンドリックス』『ジム・モリソン』など、偉大なアーティストたちが若くして、やはり薬物により命を落としている。 白人ギタリストの大御所『エリック・クラプトン』もまた、薬物・アルコール依存で長きに渡り苦しんだが、見事に復活を遂げている。 資本主義、合理主義、個人主義などが混在したアメリカ社会の象徴が、病んだ自由の女神であってはならない。 ホイットニー・ヒューストンの死は防ぐ事が出来なかったのだろうか?奈落の底でもがき苦しむ彼女の姿を多くの人間が知っていた筈である。 余りにも簡単に手に入る薬物、それはアメリカだけの問題ではなく、日本に住むわたし達の身近に起こり得る危険性を十分に孕んでいる事を忘れてはならないと思う。
2012.02.19
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女子フィギュアスケート界のプリンセス浅田真央。その彼女がいま悲しみの淵に佇んでいる。彼女の母である匡子(きょうこ)さんが『肝硬変』の為、9日早朝に亡くなったからである。 浅田真央選手については、これまで何度か記事として取り上げて来たが、彼女の家族については一切触れる事がなかった。 それは興味の本質が浅田真央自身に注がれていたからであるが、彼女のスケートの原点に眼を向けて見れば、そこには必然的に家族の姿が垣間見えて来るのである。 『舞』、『真央』という東洋的美人姉妹スケーターを育て上げたのは、『リンクママ』として表に顔を出す事なく、黒子に徹した母親『匡子さん』の存在を今更ながらに思い知らされるのである。 匡子さんがいつ頃から『肝硬変』を患っていたかは知らないが、スケートにかける娘たちに余分な心配を掛けまいと、病に対する弱みを一切断ち切って『舞』『真央』の滑りを影ながら力強く見守っていた。そしてまたその熱い母の視線を彼女たちは感じ取っていた筈である。 世界の頂点に近づく真央選手もまた、自分自身と母の為、そして多くのファンの為にこれまで幾度となく華麗な滑りで自分を表現して来た。 母やファンの期待に応える為と言うよりも、おそらく真央自身の心の中には、『自分のスケートが母の病を治す』という気持ちがあったのかも知れない。 わたしの父も42歳の時に『肝硬変』が原因で亡くなったが、父の場合は酒が要因であったから自業自得の死であった。 匡子さんが患っていた『肝硬変』がどのような過程を辿ったのか定かではないが、助かる術がなかった末の死だったのか…。 母と二人三脚で歩んで来たフィギュアスケート、そして二人の目標である『五輪金メダル』、匡子さの夢は潰えてしまったが、フィギュアスケートで培った精神力で真央選手自身も必ずや復活するものと思うし、そしてまた心の奥深くにその目標は熱く刻み込まれた事と思う。 今年は大震災で多くの魂が失われて行った。親を亡くした子、子を亡くした親、家族全てを失った身内や友人・知人などなど…。 あらゆる『死』を眼の前にして、わたしたちの心は粉々に打ちひしがれてしまったが、遺された者はその痛いほどの悲しみを乗り越え、全ての人の思いが報われる事を願って、これからも生きて行かなくてはならないと思う。
2011.12.14
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元横綱の朝青龍が現役で活躍していた頃、相撲は確かに人気があった。様々な問 題を土俵の内外で起こし、相撲界の問題児として角界を悩ませ続けた彼ではあったが、相撲界の人気を牽引し続けて来た事も事実であり、恐いもの見たさに朝青 龍を一目見ようとその場所に足を運んだ人たちも多かった。 場所中は連日満員御礼の幕が垂れ下がり、多くの座布団が宙に舞う日も度々 あった。しかし朝青龍が去った後の相撲界は、一人横綱となった白鵬の強さばかりが際立ち、そしてまた彼の連勝記録と、白鵬自身の横綱としての孤独な土俵が その責任感として積み上げられて行くばかりであった。 日本人力士は衰退の一途を辿り、浮かび上がるのは閉鎖的な相撲社会の闇ばかりで、ファンの相撲離れに追い打ちをかけた八百長疑惑。 不信感ばかりが募る中その疑惑を払拭しようと、相撲協会も漸くその重い腰を上げ本格的に相撲界の改革に乗り出したが、手詰まり感の漂う角界に新風を吹き込むまでには至らず、結局のところ力士たち一人ひとりの「やる気」に任せるしかなかったように思われる。 今年の新語・流行語大賞に「なでしこジャパン」が選ばれた事からも言えるように、スポーツが人の心に訴え、与える力は限りなく大きい。 相撲がスポーツかどうかは別としても、多くの相撲ファンが存在し力士たちのぶつかり合う巨体に真剣勝負を期待しその迫力に魅入られるように、土俵の中は神聖な闘いの場所であるのだから、そこに相撲以外の打算や疑念を持ち込むべきではないとわたしは思う。 様々な紆余曲折を経て、生まれ変わろうとしている相撲界に明るい兆しが見え始めたのは、今年9月の秋場所を大いに沸かしてくれた琴奨菊の新大関誕生であった。 日本人力士で唯一大関だった魁皇が大記録を土産に引退した後の土俵だっただけに、多くの期待が琴奨菊に注がれており、それを見事に実現した彼の力強い「がぶり寄り」が「万里一空」を生みだしたのである。 その琴奨菊を追い掛けるように稀勢の里が大関昇進を決めたばかりであるが、2場所連続で日本人の大関誕生は、今後の相撲人気に火を点ける起爆剤になる事は間違いないだろう。 強い日本人力士が活躍している場所は見ていてもやはり面白い。力士或いは、力士を目指している者にとって横綱は憧れであり、誰もがその地位を目指して日々精進に励んでいると思うが、横綱になる事よりも難しいのが大関という地位ではないだろうか。 大関に昇進出来る条件は、「3場所連続で三役の地位にあり、その通算勝ち星が33勝以上」となっているが、勝てばそれで良いというほど単純なものではなく、その相撲内容にも大きく左右されるからである。 横綱は相撲の頂点ではあるが、優勝と勝ち続ける宿命に追われるその果てにあるのは引退だけであり、格下げになる事はない。大関の場合は勝てば天国、負ければ地獄という過酷な位置にある。その意味でも自分の相撲道を最も問われるのが大関である。 稀勢の里は33勝に一歩届かなかったが、安定した相撲内容が良しとされ大関に相応しいと判断された事から大関昇進となった。現在の幕内力士の中で白鵬と互角に勝負出来るのは、稀勢の里だけではないかとさえ思えて来るのだ。 土俵に上がった時のふてぶてしさや、その眼光鋭い眼力で相手を威圧する様は勝つ事への拘りが如実に表現されているのである。そしてまた既に横綱になれるだけの素質と身体を持ち合わせている事から、いま最も横綱に近い力士とも言えるのではないだろうか。 66代横綱の若乃花が去ってから一体何年が過ぎただろうか…。相撲ファンの誰もが期待している日本人横綱の誕生、相撲人気と一緒に日本に相撲が帰って来てくれる事を願うのみである。 余談ではあるが、元横綱朝青龍が詐欺に合い1億円を騙し取られたというニュースを知った時、本人には悪いが真っ正直な性格の彼らしいと、つい苦笑してしまった。
2011.12.04
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ザックジャパンは金正日の貢物になった…。そんな異様とも思えるような感想を抱かせる試合内容だった。 サッカー、ワールドカップブラジル大会アジア3次予選で、アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表は、16戦無敗と言う破竹の勢いを引っ提げて臨んだ北朝鮮戦であったが、完全アウェーの洗礼に悩まされ持てる力の半分も出せなかった。 それは平壌到着直後から始まっていた。4時間に及ぶ空港での足止めはまさに「軟禁状態」、選手たちが持ち込もうとしたガム、即席ラーメンなどが嗜好品だと 判断され持ち込み禁止。入国審査や税関の検査で待機中に3回も停電するなどして、日本チームの公式練習開始が3時間も遅れてしまうなど、明らかに北朝鮮側 の意図的な圧力があった事は明白であった。 そのようなザックジャパンにとっては過酷とも思える状況の中で試合は始まった。実力から言えば北朝鮮を大きく上回る成績を残している日本代表であったが、5万の観衆全てが敵という「キムイルソン・スタジアム」の正気を失った殺気が日本チームを追い詰めて行く。 北朝鮮にしてみれば、この日本戦のみに焦点を当てて臨んだアジア予選だった。日本に勝つ事、それのみが目標であったのかも知れない。 それを裏付けるような北朝鮮が仕掛ける捨て身の肉弾戦と相まって、日本側は不慣れな人工芝のピッチにミスを連発。 終始、北朝鮮有利の状況下で試合は進んだものの、身体を張った守備で何とか凌ぎ、前半を0-0で終えたが、完全アウェーのダメージは日本チーム一人ひとりの足元を確実に侵食して行った。 後半戦開始5分、北朝鮮にフリーキックからの折り返しを頭で決められ1-0に…。日本側にも得点のチャンスは何度か巡ってきたもののそれを活かす事が出来ず、試合終了のホイッスルがスタジアムとザックジャパンの心に虚しく響いた。 冷静なザッケローニ監督が顔を紅潮させ、身体を震わせながらこうつぶやいた。「アンフェアな北朝鮮…」。 日本にとって不本意な初黒星ではあったが、これもまた未来を見据えたザックジャパンの一つの糧として捉えれば、意味の無い負けなど存在しないのである。 それにしてもスタジアムの片隅に「よど号ハイジャック事件」で国際手配中の元赤軍派メンバーだった若林盛亮容疑者の姿があったのには少々驚かされた。 北朝鮮にしてみれば彼の存在も、日本との交渉時に使用する単なる駒の一つに過ぎないという、金正日のしたたかさを垣間見た気さえするのだが。
2011.11.21
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先日終了した世界陸上2011韓国テグ大会は、注目度で他者を圧倒したウサイン・ボルトの一人舞台と言ってよいほどであった。 人類史上最速の弾丸ライナーの名を欲しいままにその頂点に君臨し続けているボルトであったが、それ故に男子100メートル決勝のフライングはまさに衝撃的であった。 静寂に包まれるトラック、スタートラインに並ぶボルトとそのライバルたち。駆け引きはそのスタート前から始まっていた。 固唾を飲んで見守る観客たちの視線はボルトの導火線に火を点けるほど熱かった。それが彼にとってのプレッシャーだったのか、それともはやる気持ちを振り切れなかったのか…。 ピストル音が鳴る前に飛び出してしまったボルト、会場に鳴り響く「ボルト、フライング失格」の声、そして静寂がどよめきとため息に変わり、シャツを脱ぎ棄て天を仰ぐボルトの顔が苦渋と無念の涙へと変わって行った。 今大会から採用されたフライング1回で失格という厳格な規則は、感覚派のウサイン・ボルトにとって裏目となる結果となった。 他の選手とボルトの違いは勝負勘である。つまり号砲の鳴るタイミングを予測してスタートを切るのがボルトの走りであり、「稲妻」と呼ばれる所以である。 そのフライングを打ち消すような走りを見せたのが男子400メートルリレー。アンカーのボルトは余力を残すほどの圧倒的なスピードでゴールし、世界最速の称号を不動のものとした。 フライングを制した「堅実派」の勝利ともとれる世界陸上2011であったが、本命と目された選手が次々と姿を消す波乱の多い大会でもあった。 この大会でメダル2、入賞5を下回らない成績を目標に掲げた日本勢であったが、ハンマー投げで金メダルを獲得した室伏広治の活躍が際立ったのみで、入賞はロード種目の4つに留まるという、大誤算の結果となった。 前回メダリストたちの相次ぐ惨敗、期待の大きかった女子マラソンの尾崎好美は18位の結果に終わるなど、ロンドン五輪への架け橋が遠のいている。 そのような敗北感が漂う中で、市民ランナーとして一躍有名になった男子マラソンの川内優輝選手の18位は今後の男子マラソン、特に団体競技に一筋の光明を灯すものとなっており、ロンドンオリンピックでのメダル獲得に期待が膨らむ好結果と言ってよいだろう。 世界陸上と同じくロンドン五輪を目指す『なでしこジャパン』のアジア最終予選も北朝鮮との試合を残すのみであるが、世界一の称号と国民栄誉賞という重い足 枷を引きずりながら戦う彼女たちの姿を見るにつけ、ロンドンへの切符は揺るぎないものではあるにしろ、その先に待ち受ける困難を『なでしこJAPAN』の 一人ひとりが享受してこそメダルへの道が開けるものである。 困難は乗り越えられる者にしかやって来ない…この言葉を全てのアスリートに贈りたいと思う。
2011.09.07
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既に公開済みの『吉田拓郎のカバー(夏休み)』と、『海岸通りカバー(イルかバージョン)』に引き続き、今回はいよいよ井上陽水の登場である。 この紙飛行機をカバーするに当たり、『陽水ライブ(もどり道)』に収録されているライブバージョンと、陽水のセカンドアルバム『センチメンタル』に収録されている曲を自分なりにミックスさせ、アレンジ等を経て完成した『紙飛行機』。 この紙飛行機はわたし自身10代の頃から歌い込んで来たため、わたしのレパートリーの中では代表作の一曲となっている。 若い人には馴染みのない曲であるが、わたしと同年代(フォーク世代)を生きて来た人たちからすれば、実に懐かしく当時の陽水ブームを思い起こす事だろう。 『ライブもどり道』は当時(1973年)にリリースされミリオンセラーを記録し、ライブLPとしては、オリコンチャート歴代1位のセールスを誇っている。 井上陽水の原点がこのライブアルバムに集約されていると言っても過言ではないと思う。この紙飛行機を歌い込んで行くうちに、いつしか陽水の高い音域に近づく事が出来、陽水のオリジナルKeyそのままで歌い込めたのは、やはり猛練習を積み重ねた結果である。 あれから数十年の歳月が流れ、今の病弱なわたしに当時と同じように歌いこなせるかと言えば、それは愚問…。心肺能力が極端に落ちてしまった現在では、ワンフレーズ歌っただけで、息も絶え絶えで、当時を彷彿させるような真似は出来ない。 この紙飛行機を後輩のバンド仲間に聴かせたところ、ドラムスとベースが入れば完璧と褒め称えられた事は言うまでもない。 出来ればPCで聴いて頂きたいところだが、モバイルユーザーも多くいるであろうから、ヘッドフォンを使用して聴いて頂ければより一層臨場感を味わう事が出来ると思う。
2011.09.06
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なでしこJAPAN優勝で沸き返るその陰で、歴代最多の通算1047勝を土産にして一人の力士がその道に終止符を打った。 年齢・体力から言っても、いつ引退しても不思議ではなかったが、元横綱・千代の富士の持つ大記録を目前にして意地があったのであろう。 大関・魁皇は、その恵まれた身体と相撲界切っての怪力を持ってすれば、横綱になる素質は十分備えていたが、ここ一番という時にその身体に似合わぬ優しさが邪魔をするのか、いま一歩鬼神になり切れず涙を呑む事が多かったように思う。 外国人力士が台等する相撲界の中で、日本人力士の大関としてその位置を維持する彼の孤独な闘いは、これからの相撲界を背負って行くであろう若い力士たちの手本であった。 おそらく身も心も傷だらけの中で、『俺を見ろ』と言わんばかりの取り組みで日本人力士にエールを送っていたのだ。 人は燃え尽きる瞬間が一番美しく輝いている。その燃えカスさえ残さず土俵を背にする魁皇の姿に観客も含め多くの力士たちが心の中で手を合わせたに違いない。 引退後は年寄「浅香山」として後輩たちの指導にあたるが、第二第三の魁皇を育てあげて貰いたいものである。 大関の地位に甘んじて来たことに後悔がなかったかと言えば、それは彼の真意を射ていないだろう。力士の誰もがそうであるように、可能性の追求こそが精進であり目標を一段ずつ登りつめて行った先に結果としての横綱が待ち構えている。 途方もなく長い階段を登るのと同じように人生もまたこの階段なのである。荒みきった相撲界に金字塔を立てた魁皇もまた金メダリストなのかも知れない。
2011.07.24
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『神は乗り越えられる試練しか与えない』という言葉通りの試合内容だったが、まさかPK戦で勝敗が決まると一体誰が予想出来ただろうか。 猛暑の続く日本とは正反対のような、少し肌寒いドイツ、フランクフルトで幕を開けた女子ワールドカップ。約5万人の大観衆がひしめく会場の雰囲気に臆する事もなく、なでしこジャパンの快進撃は始まった。 ヨーロッパ勢が群雄割拠するサッカーにおいて、アジア勢がそこに名を連ねる事は男子サッカーでも至難の業であり、ましてや世界の頂点に立つ事など『夢のまた夢』であると思っていた。しかし、それを現実のものに変えてしまった日本女性たち。 前回の覇者であるドイツを準々決勝で下し、勢いに乗ったチームは準決勝で強豪のスウェーデンを撃破。メダルが確定した時点で充分過ぎる活躍と成績を残していたから、決勝でアメリカに敗れても悔いはないだろうと思っていたが、それは大きな間違いであった。 ボール一つを奪い合うサッカーは危険なスポーツの代表でもあり、身体と身体が交差しぶつかり合う様は格闘技と言ってもよいほどだ。 体格だけを取ってみれば、ふたまわりも上の白人選手の方に分はあるが、それを上回るコンパクトなドリブルとパスの連続はボクシングに例えてみれば『ジャブ』そのものである。「ジャブを制する者に世界は見える」と言われるように、なでしこJAPANをここまで成長させて来たものは、サッカーの基本に忠実であったからだろう。 基本の積み重ねこそがスポーツの原点であり、世界に最も近い場所である。類まれな動物的直観と最後まで勝負に拘る信念を持ち合わせていた彼女たちだから達成出来た世界一。 試合開始直後からアメリカの執拗な猛攻を耐え忍び、そして掴んだチャンスは絶対ものにするという貪欲なまでの勝負勘には脱帽するばかりだ。 1対1で迎えた延長前半で、ワンバック選手の放ったヘディングシュートが日本のゴールに突き刺さった時、『万事休す』もはやこれまでと諦めてしまったファンは多かったと思う。 しかしそれは彼女たちの劇的なドラマの始まりであった。残り時間が押し迫る後半にその瞬間はやって来た。 キャプテン澤の同点ゴールは足の長さで上回るアメリカ選手の隙を掻い潜るように、一瞬早く放った技ありキック。この時点で勝負は付いていたように思えてならない。 PK戦でゴールを大きく外したアメリカ選手の天を仰ぐ虚ろな表情が全てを物語っていた。世界王者のアメリカにとって、日本に負ける訳がないと言う思い上がりがあったかどうかは別にしても、負けられないアメリカと胸を借りるつもりで試合に臨んだ『なでしこジャパン』がアメリカを相手に正々堂々と実力で勝ち取ったW杯であった。
2011.07.20
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今から45年前1966年6月29日、4人の男が羽田空港に降り立った。天候不良の為、飛行機の到着が大幅に遅れ彼らが日本に到着したのは、明け方の午前4時に近い時間だった。 そして前代未聞のロック・コンサートが日本武道館で行われる事となる訳だが、『武道館とは、日本武道振興の為に作られた伝統と尊厳を重んずる武術の殿堂であり、その場でロック・コンサートを行うなどとは武道の精神を冒涜し、日本の若者を伝統的な価値観から堕落させる…』という、批判が当時のお堅い大人たちから出ていた。 おそらく1万人を超える観客を収容出来る規模の会場が武道館以外にはなかったのだと思われるが、この武道館公演に関しては様々な憶測が飛び交ったのも事実である。 このビートルズ来日から2年ほど遡った1964年、藤枝の片田舎に住む8歳の少年が一枚の赤い45回転のシングル盤に耳をそばだてていた。 神戸家の広い裏庭の奥まった一軒家に『順ちゃん』は住んでいた。わたしより9つ年上で、わたしにとってみれば「お兄ちゃん」のような存在だった。「とし坊、いいもの聞かせてやるぞ」そう言って、小さなポータブルプレーヤーにレコード盤を乗せ、針をそっと落とした。 それは全くと言ってよいほどの未知なる音だった。「♪♪シェゲナベイビィ~ナウ~シェゲナベイビィ~ツィスタウンシャウ~♪♪」「なに、この歌!?すごい!!」 それまで日本の歌謡曲や童謡しか知らなかった幼い8歳の少年を、そのリズミカルでアップテンポのまさに『シャウト』で斬新な曲が洋楽の虜へと変えてしまったのである。 確か、A面が「ツイストアンドシャウト」B面が「ロールオーバーベートーベン」だったと記憶している。ビートルズだけでは飽き足らず、当時人気の高かったベンチャーズやアニマルズ、ホリーズなどの曲も毎日のように『順ちゃん』の処に行って聴かせてもらった。 1967年頃から始まったラジオの音楽番組『オールジャパンポップ20』を聴くのが日課となり、今でも強く印象に残っている曲がジャン&ディーンの『パサディナのおばあちゃん』この歌が流行っていた頃はビーチボーイズ全盛時代で、サーフィンサウンド真っ盛りだったと思う。 箒をギターに見立てて、ベンチャーズや寺内タケシ、加山雄三の『エレキの若大将』などの真似ごとをして大きな声で歌いまくっていた。その歌声は3軒隣りの「小川国夫宅」まで届いていたようだ。「俊樹ちゃん、歌上手だねぇ…」と隣のパン屋のおばさんが飴玉を三つ四つくれたりした。 こうしてわたしは吉田拓郎に出会う15歳まで洋楽一途の純真な少年時代を送った。アップしてあるビートルズの映像は、彼らのファンであれば一度は観た事があるであろうと思われるほど有名なビルの屋上で唐突に行われたライブ。 1969年、ビートルズの破局があらゆる場面で垣間見られる貴重なドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』から抜粋した『ゲット・バック』と『ドント・レット・ミー・ダウン』のメドレーである。場所は彼らが作ったアップル・レコード社の屋上。 このゲリラライブが放映された1969年1月30日、わたしは国立療養所天竜荘の12病棟大部屋の食堂に設置してあった14インチ程度の小さな白黒テレビで確認し、その彼らの演奏姿に釘付けとなった事を覚えている。 つい先日、小笠原諸島と岩手県の平泉が世界遺産に登録されたばかりであるが、音楽にも世界遺産が適用されるならならば、まさしくビートルズはそれに相応しいと思っているのは、わたしだけではないだろう。
2011.06.30
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前回、吉田拓郎の夏休みをアップしたところ結構好評だったので、今回は「海岸通り」をアップ。この曲は1974年にヒットした曲なので、フォーク世代の人にとっては郷愁を誘うこと受けあい。オリジナルはかぐや姫のメンバーだった伊勢正三だが、イルカ(本名:かんべとしえ)が見事にカバーし、名曲として蘇えった。原曲を殆ど聴いていないので、まともに練習もせずぶっつけ本番で演奏してみたが、テイク2程度ですんなり録音出来た。自分なりにアレンジしているので、完全コピーとはいかなかったが、雰囲気は出ているのではないだろうか。是非、皆さんも一緒に歌ってみて下さい。
2011.05.24
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相撲界が激震に揺れている。この揺れはおそらく当分続くことになるだろう。相撲の八百長疑惑は今に始まったことではないが、八百長の内容を携帯メールでやり取りすると言うのはいかにも現代っ子らしい。 野球賭博問題で「膿を出し切る」と宣言していた理事長たちの声がなんとも虚しく思えるし、懲りない土俵の世界には常識が通用しない相撲界独特の魔物が棲みついているのだろう。 相撲は神事である。それが大前提となっている筈なのだが、国技という隠れ蓑を傘にして勝負が単なるマネーゲームのように扱われ、力士たちの間に蔓延する魑魅魍魎が神を冒涜し始めて行く。国技は言葉と形だけのものに成り下がり、相撲の歴史は尽く汚れ切ってしまった。 所詮は不完全な人間のやることだから、規律を守り歴史を汚さぬ心構えなどは「金」の前にあっては脆く簡単に崩れ去る。相撲に完璧を求めることの方がナンセンスなのかも知れないし、相撲だけを特別扱いして来た我々の責任も無視する事は出来ない。 横綱がどんなに連勝記録を伸ばしてみても、「八百長」の一言がその大記録すら蜃気楼に変えてしまうという状況。 土俵の隅でうずくまりながら嘆いている相撲の神様の姿がわたしには見えて来る。相撲界の歴史に敢然と名を残して来た名勝負が「迷勝負」に思えて来るのはわたしだけではないだろう。
2011.02.04
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NHKが主催する中高年バンドの祭典「熱血!オヤジバトル」も今回で14回目を向かえる。回を重ねるごとに多彩なオヤジバンド、ミュージシャンたちがステージ上で熱演を繰り広げて来たが、今年はわたしの友人である「江戸川レノン」こと石井ひろあきさんが、オリジナル曲「僕が生まれて来たのは」でエントリー。 一台のパソコンで一票投票可能。第一次投票は11月7日の23:59分締め切り、第二次投票は一次の上位10バンドに絞って11月10日の夕方から17日の23時59分締め切りで1バンドがネット選抜枠で決定。NHKが別途選ぶ数バンドと地区大会出場となります。 石井さんの動画・投票アドレスを下記に記して置きますので、皆さんからの応援、投票をお待ちしております。ブログにアップしている映像は今年4月25日、瑞江駅近くの「ハックルベリィ」にて収録したものです。 http://cgi2.nhk.or.jp/oyaji/selection/vote_east/band.cgi?pid=109
2010.11.04
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財団法人 日本相撲協会は名称を改め、本日より「大日本賭博協会」と致しました。 日本人力士がどうして弱いのか漸く分かった。外人力士が強すぎるとばかり思っていたが、それはわたし の買被りだった。 野球の試合結果ばかり気になる力士たちは、稽古や勝負に全く実が入らなかったようだ。本来の相撲は そっちのけで、野球賭博に骨身を削る力士や親方たちに愛想を尽かしたのは、わたしたちだけでなく、最も大切なスポンサーまでもが、ソッポを向いてしまった。 自業自得と言えばそれまでだが、前回の記事で、「NHKが放送を自粛すればよいと」提案した事が現実 となり、相撲離れが加速する一方だ。横綱白鵬にまで飛び火した賭博問題は、白鵬自身が花札賭博に手を染めた事が、彼自身の言葉で明るみに出たが、ギャンブルの怖さは、最初は遊びのつもりで始めた賭け金が気づくと万単位になり、更にエスカレーとして行き、万 札が何枚も宙を飛ぶ結果となる。 ギャンブルは覚せい剤的な依存性があるから、場合によっては一家離散というケースが幾つもあり、人生 を台無しにしてしまったという話しをよく聞く。 今回の件で、悪質性が最も高い元大関琴光喜と、元大嶽親方が解雇という処分になったが、後の関係者は 謹慎処分と減俸という、生ぬるい処分に留まっている。 歴史の長い国技と言われる相撲道に、取り返しの付かない最も不名誉な汚点を残してしまった事に対し、 理事会の「名古屋場所開催」の開催は恥の上塗りに他ならない。 相撲をやっている場合か?本当に猛反省しているのか?と言った疑問が全く解消されていない。野球賭博 の全貌解明も未だに出来ていない状態での場所開催は、理事会の傲慢そのものだ。膿を出し切らない内は、やはり名古屋場所を中止し、その時間を徹底解明に当 てるべきである。 もちろん、名古屋場所を楽しみにしている相撲ファンも大勢いるが、中止したとしても理解は得られる筈 で、暴力団との決別が明らかになった時点で出直す事が、ファンに対する礼儀でもある。 数十人近い力士が土俵に上がれず、天皇杯や外部からの表彰も辞退する事になり、そのような状態でまと もな場所を開催出来る筈がない。 ここまで名古屋場所開催に固執する相撲協会の考えは理解に苦しむ。開催すべきという意見も一部にあったが、やはり中止する勇気を持つことこそ、真の相撲道には必要なことであるだろう。 スポーツには全体責任という言葉があうように、一人の失態は全員の責任という、徹底した管理と規律を 重んじるのであれば、責任を当事者だけに押し付けてしまうのは、自浄作用とは程遠い内容であり、改めて相撲界の特異な体質が根深い事を裏付けるものである。 今回の野球賭博問題を受けて、外部有識者による独立委員会も設置されたようだが、メンバーに些か疑問 が残る。 彼ら全員が相撲界とは利害関係のない人物かどうかである。各メンバーの肩書きなどを見ても、本当に正当な機能を果たすのか疑問が拭えない。 いっそのこと相撲協会を株式会社にしてしまった方が、自浄作用は働くのではないかと思える。そうなる と相撲は国技と呼べなくなるが、「国技」に拘る必要は既に残ってはいない。 すべてを一新して再スタートを切るのであれば、そのくらいの大改革が必要ではないだろうか。
2010.07.14
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江戸川レノンさんの歌を聴くのも約1年ぶり。昨年、わたしは入退院の繰り返しで音楽を聴きに行くどころの騒ぎではなかった。それでも好きな音楽を片時も離さず聴いていたいため、入院中も病室にウォークマンを持ち込み、点滴を打ちながらビートルズの懐かしいナンバーを聴いていた。足でリズムを取りながら気分よさそうにしていると、「神戸さん、何を聴いているの?」と、若い看護師が声をかけてくる。わたしよりふた周りも若い健康体を持つ、かわいい女性に声をかけられるのは入院中でしかあり得ないだろうと思いながら、「ビートルズだよ」と返答する。どんなに時代が流れても、そしてどんな世代でもビートルズは知っている。「わたしのお母さんがビートルズのファンだったの…」「へえ、そうなんだ」「武道館のライブに行ったと自慢してたよ」随分と昔の話題で話しが弾んだ。12日の午前中、あの「順ちゃん」がわたしの身体を心配して、わざわざ藤枝から車を飛ばしてやって来てくれた。懐かしいシングル版を十数枚持ってきてくれたのだが、あいにくレコードプレーヤーがなかったので、その場で1965年の音を聴く事は出来なかったが、あの「ツイスト&シャウト」と44年ぶりの再会となった。初回版なので赤版。350円。B面は「ロール・オーバー・ベートーベン」。他に「プリーズ・プリーズ・ミー」「恋する二人」「ミッシェル」「ガール」「ひとりぼっちのあいつ」「消えた恋」など。当時のビートルズの曲は東芝「Odeon」から発売されていた。そんなビートルズファンでありながら、わたしが最初に購入した曲は「ゲット・バック」。そして「ヘイ・ジュード」「レボリューション」「レット・イット・ビー」など。初期のビートルズは一枚も持っていなかったのである。小遣い10円ではレコード盤など買える筈もなかったからそれは仕方の無いこと。わたしの身体が更に元気になった時は、江戸川レノンさんと一緒に「ラブミードゥー」をやってみたいと思っている。
2010.04.09
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<A xhref=' http://www.youtube.com/watch?v=dGDqUh0wCtw '>WIEGENLIED</A>携帯で動画を閲覧出来ない方は、パソコンからアクセスして、映像と音楽をお楽しみ下さい。オリジナル「夏の思い出」を含む全21曲を収録。1984年、東京都品川区西大井のアパート(ひかり荘)にて収録。ヴォーカル:神戸俊樹ギター:三好清史/神戸俊樹ブルースハープ:神戸俊樹パーカション:神戸俊樹/三好清史編曲:神戸俊樹/三好清史1.あどけない君のしぐさ(2:40)2.帰郷(3:30)3.海岸通り(3:22)4.夏の思い出(3:21)5.あかずの踏み切り(2:21)6.黒い夏(2:41)7.冬京(3:13)8.粉雪(2:30)9.ゼンマイじかけのかぶと虫(3:13)10.紙飛行機(3:25)11.りんご(2:06)12.恋のうた(1:48)13.僕のエピローグ(4:21)14.風の街(3:12)15.落陽(3:58)16.マーク2(3:00)17.バス通り(3:06)18.東京(4:18)19.せんこう花火(2:16)20.夏休み(3:02)21.いつか夜の雨が(4:25)
2009.12.06
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七夕の日に「マイケル・ジャクソンに生き返って欲しい」と願い事をした人はいただろうか? アメリカではその日、彼の公開追悼式が行われ、多くの参列者が最後の言葉を送った。 「マイケル…」とファンの震える声は、涙と共に天国にいるマイケルに届いた筈である。 そして次の日には「マイケルの幽霊」騒ぎで「YouTube」にアクセスが殺到。 幽霊でもよいから一目マイケルの姿を見たいという熱烈なファンの思いとは裏腹に、その幽霊の正体はカメラに映りこんだカーテンの影だったという。 死んで彼の偉大さを改めて実感することとなったが、彼が平和主義者だった事は「USAFORAFRICA」が物語っている。 「音楽が世界を動かす」それを実感したのは1967年に宇宙中継され世界31カ国で同時放送されたビートルズの曲「愛こそはすべて」を聴いた時だった。 今や音楽は誰でも簡単に世界中の曲をリアルタイムで聴き、共有することが出来るようになった。 1980年代に入ると、音楽は聴くから観るに大きく変貌して行く。 「観ながら聴く」MTV(ミュージックビデオ)の登場である。 これを駆使したのが、マイケル・ジャクソンやマドンナであり、大成功を収めた。 「BAD」では、巨匠「マーチィン・スコセッシ」を監督に起用し、ショートストーリーを織り込んだ短編映画を見事に描ききっているのである。 80年代に活躍したアーティストたちをマイコレクションの中から抜粋してみよう。 「a-ha」 「ワム」「クイーン」「ダリル・ホール&ジョン・オーツ」「ヴァン・ヘイレン」「カルチャー・クラブ」「デュラン・デュラン」「ジャーニー」「TOTO」 「スティング」「ポリス」「ビリー・ジョエル」「ユーリズミックス」「メン・アット・ワーク」「オリビア・ニュートンジョン」「ヒューイルイス・&ニュー ス」「プリンス」「ホイットニー・ヒューストン」「REOスピードワゴン」「ブルース・スプリングスティーン」「ダイアー・ストレイツ」「ペットショップ ボーイズ」等が挙げられる。 皆さんはどんな曲を思い出すだろうか。 マイケル・ジャクソンは「セイセイセイ」で、ポール・マッカートニーと共演し、新たなマイケルを垣間見ることが出来た。 わたし個人としては、以前から彼に「ビートルズ」の曲をカバーして欲しかったので、ポールとの共演は夢の中の出来事のように思えた。 マイケルに残して欲しかったもの、それは「マイケル・ビートルズを歌う」であったが、彼なりにアレンジしたビートルズを聴きたかった。 わたしが七夕に願ったことが通じていれば、今頃「レット・イット・ビー」を歌ってくれているかも知れない。 改めてマイケル・ジャクソンに合唱。
2009.07.18
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プロレスラー三沢光晴の訃報を知った深夜、わたしはあまりのショックで眠ることが出来なかった。 力道山から始まったプロレスの歴史は長く、その意志を継いだレスラーたちによって、現在では様々な団体に枝分かれし、闘うスタイルやレスラーの層も幅広くなり、バラエティに富んだ試合を楽しむことが出来るようになった。 力道山亡き後を巨匠ジャイアント馬場と闘魂のアントニオ猪木が更にプロレスを面白く導いていった。プロレスの王道を行く馬場と、ストロングスタイルの追求を目指した猪木の両者によって、全日本と新日本の二つがともに人気を二分した形になり、プロレスの全盛時代を迎えた。 その中から、多くの人気レスラーたちが次々と登場した。 わたしを最もTVに釘付けにしたのは、初代タイガーマスクの存在であった。 わたしは、子どもの頃からプロレスが大好きで、養護学校にいた頃は友人たちとプロレスの話題に明け暮れていた。 「プロレス入門」という本を購入し、徹底的にプロレスについて学んだ。 覆面レスラーと言えば、デストロイヤーが悪役のイメージを植え付けた格好だが、ミル・マスカラスの登場は、それまでの悪役イメージを払拭した。 リングに登場する度に覆面が変わるというのも驚きだったが、反則を一切しないと言うクリーンな試合と鍛え抜かれた筋肉美、素早い動きと華麗な空中殺法に魅了されてしまった。 プロレスは他の格闘技などと違い、筋書きのあるショーであるが、演劇などの舞台と違い観客は360度からリングを見つめる。 その中で如何に観衆を楽しませることが出来るかで、試合内容は大きく違ってくる。 技をかけられたら受けてたつ。これが最低限のルール。 レスラーは試合そのものよりも、練習の方がハードであるだろう。 激しい内容の試合には怪我が付き物で、無傷のレスラーは存在しない。 受け身の練習を果てしなく繰り返し、練習によって身体が悲鳴を上げても、どうしても鍛えることの出来ない部分が頭部。 バックドロップの名手だったジャンボ鶴田は「へそで投げる」という名言を残していった。 プロレスの内容を面白くするために、危険な技が次々と取り入れられて行き、見る方としては更に興奮し楽しめるのだが、レスラーはリングに命を懸けた「役者」なのである。 リングの外で亡くなった「力道山」「ジャイアント馬場」「ジャンボ鶴田」「橋本真也」など、時代を築いた選手がいる中で、三沢光晴はリング上で逝ってしまった。 リングの上で死ねるのなら本望なのか…。 こんなに早く君のテンカウントを聞くとは思わなかったよ。 合掌。
2009.06.23
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絶頂期のチャンピオンと闘う挑戦者は運が悪い。 ベルトを奪える確立はかなり低くなるからだ。 しかし、どんなに優れた強いチャンプも何れは負ける時がくる。 それが勝負の世界。 年齢から来る体力の衰えなどは、どんなに練習を積んでも一時的にはカバー出来るとしても、12ラウンドをフルに闘いぬくにはかなり厳しいだろう。 人間の身体は20歳を境に衰え始める。 だから10代後半か20代前半が最も自分を鍛え、練習を積み重ねそして強くなる絶好の機会でもある。 全てのスポーツがそうだとは言い切れないが、ボクシングや相撲など、個人プレーの場合はそれが最も顕著に現れるのではないだろうか。 その点から見れば内藤大助選手はよく頑張っているが、先日行われた「WBCフライ級タイトルマッチ」内藤大助VS熊朝忠の試合内容について、わたしがジャッジならば引き分けか内藤選手の負けだったと思わざるを得ない。 試合後彼はリング上でいつもの通りファンに向けて侘びを入れていたが、最近の彼は少し喋り過ぎるところが目立つ。 彼自身はおそらく内心は勝った気持ちがしなかっただろう。 次の試合では良い試合を見せると約束していたが、「次があると思うな」とわたしは言いたい。 相手が中国人だったから舐めてかかっていた訳でもないだろうが、試合内容を見れば従来のボクシングが影を潜め、当たらないパンチに焦りさえ感じていた。 ダウンを奪われながら最終ラウンドでは相手を追い込むシーンも見られたが、ダウンを奪い返すほどの内容ではなかったように思える。 内藤選手の人気が高くなった背景にはあのビッグマウスで有名な亀田ファミリーの存在があったからだ。 TBSの操り人形だった亀田を前面に送りだし、亀田兄弟が絶頂期の時に試合をさせるとうTBSの思惑が当たり、それ以来内藤選手の控え目なコメントや私生活にも脚光を浴び、彼はボクシング以外の番組にも何度も登場するようになって行った。 ボクシングの基本は自分の為に闘い、よい結果を残すことである。 ファンサービスは二の次である。 この内藤選手の防衛が意図的に行われたとするならば、彼にはもっと稼いで貰わなければならないという裏取引があることも否定は出来ない。 内藤選手もそろそろファンの為ではなく、自分自身の為の試合に打ち込んで欲しいという願いはわたしだけではないだろう。 KOはもちろんファンのだれもが期待するところではあるが、それだけ集中すると自分のボクシングが狭くなり自分の持ち味は半減する。 リング上での言い訳めいたインタビューはもう終わりにすべきで、次があるならば初心に戻り、デビューした頃の自分で試合に臨むことである。 それともTBSの為に次の操り人形が現れるまでは現役でいる積もりなのだろうか。
2009.05.31
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今年の夏は暑くなりそうだ。 そんな夏を目前に控え、水着メーカーも新作に力を入れ、今年はどんな水着が流行するのか楽しみでもある。 楽しめる水着ならば何の文句もないのだが、水泳の世界、特に競泳に目を向けてみると、競泳男子二百メートル背泳ぎの入江陵介選手が出した世界新記録が幻となってしまったようである。 着用していた水着(デサント社製)が認可されなかったということ。 プロ、アマを問わずスポーツには必ずと言ってよいほどスポンサーが着く。 スポンサーのバックアップがあってこそのスポーツではあるが、それが露骨に表れてしまうとアスリートより記録或いはスポンサーが優先されてしまう結果となる。 競泳水着については、国内外のスポーツメーカーが凌ぎを削って優れた素材の研究に余念がない。 毎年新しい水着が登場し、アスリート達はその選択に戸惑いすら感じている。 水着に左右されるような記録で混乱を招くようなら、いっそのことサポーターだけ着けて泳げば良い。 或いは大会ごとに水着を統一し、誰もが同じメーカーの水着で競えばいいと思う。 現状のままで行くと、まるで札束が泳いでいるような気がしてならい。 記録が誰のためにあるのか、もう一度よく考えてみる必要がありそうだ。
2009.05.27
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1973年夏、わたしは静岡市で唯一のレコード店「すみや」にいた。 目的は「井上陽水」のコンサートチケットを買うためだった。 当時の日本に於ける音楽シーンは「フォーク全盛」の時代であった。 大御所「吉田拓郎」を筆頭に「井上陽水」「泉谷しげる」などが目覚しい活躍をしていた。 この年に最も人気が高かったバンドがある。 「ガロ」代表曲は「学生街の喫茶店」。 この曲は街中の何処に行っても流れており、いつの間にか自分も口ずさんでいたほどである。 彼らはどちらかと言うとアイドルグループでもあった。 若い女性に人気があったし、複数のバンドやミュージシャンたちが出演するコンサートでは必ずとりをつとめていた。 彼らが現れると女性たちは一斉に金切り声を上げながらステージ近くまで押し寄せていた。 そんな風景を尻目に、わたしはさっさとコンサート会場を後にしたものである。 何故か「ガロ」は好きになれなかった。 井上陽水は拓郎、泉谷などとは少し遅れて人気が出たアーティストだった。 がなり声を張り上げて歌うメッセージソング「人間なんて」やブラックユーモアたっぷりの「黒いカバン」などと比べてみると、陽水の曲は情感たっぷりの叙情歌だった。 LP「ライブもどり道」がミリオンセラーを記録し、まさに陽水時代の幕開けだった。 この頃に「荒井由実(松任谷由実)」「五輪真弓」などがデビューした。中島みゆきに至っては更にその後となる。 フォーク全盛だっただけに、人気が高かったのは前者以外に多くのバンドやアーティストが群雄割拠していた。 もちろん「かぐや姫」の存在なくして70年代は語れない。 現在でも活躍しているチェリッシュは、デビュー当時のメンバーが5人であり、「なのにあなたは京都に行くの」がヒットし、わたしも好きだった。 この頃の歌謡界では、天地真理を筆頭に「麻丘めぐみ」「南沙織」「浅田美代子」「アグネス・チャン」などがアイドルと呼ばれ始めていた時代でもある。 日本のロック界に目を向けると、「シュガーベイブ」「はっぴぃえんど」「サディスティックミカバンド」「チューリップ」「甲斐バンド」などが代表するグループだろう。 ただし、彼らはフォーク・ロックに分類されていた。 「竹内まりや」は当時まだアマチュアで「センチメンタルシティロマンス」というバンドのバックコーラスを担当していた。 静岡では最も大きいとされていた会場は「駿府会館」で、ここで様々なライブコンサートを観てきた。 海援隊がノーギャラで登場し、「母に捧げるバラード」を熱唱していた時代でもあった。 忌野清志郎を語る時、わたしはどちらかと言うと「RCサクセション」の印象が強い。 井上陽水のステージが始まる前に彼らが前座として登場した時は非常に驚いたものである。 その時歌った「僕の好きな先生」がいまだに耳の奥で木霊しているほどだ。 RCと言えばやはり「古井戸」は欠かせないだろう。 大学ノートの裏表紙にさなえちゃんを描いたの・・・わたしは今でもこの曲を自ら歌う。 仲井戸麗市が後にRCサクセションのメンバーに加わったのは誰もが知るところだ。 僕の好きな先生、忌野清志郎は今頃天国で煙草を吸いながら歌っているのだろうか。 合掌。
2009.05.15
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3月7日、福島・アルツ磐梯で行われたフリースタイルスキー・世界選手権。女子モーグルで日本を代表するエース「上村愛子」選手が初優勝を飾り、早々とバンクーバー冬季五輪の内定を決めた。不況の風が吹き荒れる中、多くの企業が内定取り消しをしているが、彼女の内定は100%取り消される事はないだろう。世界屈指と言われる難コース、選手たちの前に立ちはだかる荒れた雪の中で、転倒者が続出。雪に舞い上がる白い悪魔は、アスリートたちをことごとく寄せ付けず、大きな白い壁となって立ちはだかった。その中を一人のアスリートが白い煙を立てながら滑走する。加速するスピードは最早誰にも止められなかった。トリノ五輪の無念さを胸の内に秘め、それは彼女のチャレンジ精神に火を付けた。3年前のあの日、悔しい思いを涙ながらに語ったあの一言が脳裏をよぎる。「一体どうすればオリンピックの表彰台に上がれるの・・・」上村愛子は悩み、苦しんでいた。しかし今の彼女にはその頃の面影は微塵もない。自信に溢れた微笑を浮かべ、最高の滑りを見せたのだから。彼女をここまでに成長させたのは、恩師「ヤンネ・ラハテラ・コーチ」である。この人物との出会いがなければ、今の上村愛子は存在しなかったかも知れない。全てのアスリートに通じるものは、練習と努力であるが、それだけで目標地点に到達することは難しい。やはり、自分を育ててくれる優秀なコーチがいてこそ目標が達成出来るのである。これはわたしたちにも言えることで、人生にはコーチが必要な場合もある。自分では解決出来ない難題にぶつかった時、それを超えるヒントを与えてくれる人物と出会うこと。どんな人物がコーチになり得るかわ分からないが、そのような人物は意外と近くに存在しているかも知れない。だから、人との出会いは大切であり、自分の人生に置いて重要な要素なのである。彼女がこれまで歩んで来た道は決して平坦なものではなかった。先天性の心臓病を持って産まれ、そして学生時代にはいじめにも合うという、辛い子ども時代があった。しかし、スキーと出会い諦めない心を培って彼女は大きく成長した。アスリートにはつき物の怪我にも泣かされ不遇の時代もあったが、どんな時でも自分を信じて来たからこそ、現在の彼女が在るのだと思う。わたしはスポーツが出来ない身体ではあるが、彼女やそして多くのアスリートたちから学ぶものは多い。スポーツは出来なくとも、その心は一体となって共有する事は出来る。即ち「諦めない心」を持つことである。
2009.03.15
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ボクシングは自分を極限の状態に追い込むスポーツだ。その中で如何に勝機を見出すかが勝敗を左右する。 WBCフライ級タイトルマッチ内藤大助VS山口真吾の試合は、序盤から激しい打ち合いとなった。予想では内藤選手が圧倒的に有利と思われていたが、試合というものは始まってみなければ判らない。挑戦者、山口は序盤チャンピオンのスピードに押され気味ではあったが、中盤以降練習を積み重ねたジャブが当たり始め、そこらかの得意とする左フックを内藤の顔面めがけて打ち込んでいった。激しい打ち合いが続き、これはノックアウトで短期に勝負が決まるだろうと思われたが、両者のスタミナは底が知れず、内藤の打たれ強さもさることながら、挑戦者のタフさもそれ以上に目立った。チャンピオン内藤が言うように、「逃げないボクシング」を貫き、そして全てをかなぐり捨てて立ち向かう挑戦者の姿がこの試合を盛り上げ、観客を興奮の坩堝へと引き込む。採点では内藤がリードしていたことから、試合は判定かと思われた11回、ドラマは起きた。 初めてダウンを奪われた山口、そしてそれを見逃さないチャンピオン。内藤が繰り出す嵐のような連打をレフリーが割って入った瞬間、内藤選手の4度目の防衛が成功した。試合後のインタビューで終始謙虚な姿を見せるチャンピオン。その謙虚さの中には獲物を追い詰め仕留める、豹のような鋭さがあることをボクシングファンなら見逃すことはないだろう。年齢の壁を越えたチャンピオン、試合を重ねる度に強くそして進化する内藤選手。おめでとう。そして挑戦者の限界を越えた頑張りに拍手を送ろうではないか。
2008.12.26
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楽天イーグルスの5階VIP席チケット2枚を偶然手にしたのが、7月15日のことだった。しかし、わざわざその為に仙台まで足を運ぶほどの熱狂的な楽天イーグルス、千葉ロッテマリーンズのファンではなかった。しかし、一生の内にこのようなチケットなど手に入れる機会などないだろうと思ってみると、野球ファンから見れば、喉から手が出るほど手に入れたいチケットなんだろう。わたしたち家族がこのまま持っていても、宝の持ち腐れになってしまうような気がしていた。しかし、わたしの周りには楽天ファンがいない。誰かに譲るにしても心あたりがなく、迷っていた。8月30日、時計は午前9時を少し回っていた。東京駅での待ち合わせ場所と言えば「銀の鈴」。しかし、初めて東京駅を下りる人間にとって見れば、銀の鈴だろうと、駅の改札口だろうと関係なかったと思う。わたしにとっては退院後、初めての長時間外出。しかも一泊二日の仙台までの小さな旅である。しかしこの仙台行きは大きな意味を持っていた。彼にして見れば、別に仙台まで行く必要はなかった。わたしに会えればそれでよかったのである。彼とは・・・もうひとりのわたしの息子。27年前、2歳をもう少しで迎える息子を残して上京した。生きてさえいれば、いつか再び会える日がくるだろうと思いつつ、過去を振り返りながら過ごしてきた27年間。29歳に成長した息子の顔は全く分からない。「目印に父さんの本「天国の地図」を持って行くから」と言っていた息子。銀の鈴は朝から大勢の人たちで溢れかえっていた。みなそれぞれ誰かと待ち合わせをしているのだろう。人ごみをの中を凝視しながら、息子らしき人物を探して回った。「いない・・・、まだ時間が早いから来ていないのか、それとも迷ってしまったか」と思い始めていたとき、わたしの目の前に一際輝いた青年。運命を感じた瞬間だった。顔は分からずともそれが息子であることを確信したわたしは、彼に近づいた。本など目に入らなかった。「父さんですか・・・」わたしは「うん」と頷く。彼の目が真っ赤に染まり、涙で潤んでいた。27年目の親子の再会。逞しく好青年に成長した息子ではあるが、わたし以上に想像を絶するような苦労を重ねてきた。しかし、その表情は晴れやかで清清しく、わたしの方が恥ずかしくて隠れてしまいたいほどだった。父親として何ひとつしてやれなかったし息子には謝罪するしかなかったが、心優しい大人に成長した姿を見て、そしてわたしの中に在ったひとつの気掛かりが神様からの贈り物によって、達成されたのである。ところで楽天イーグルスVS千葉ロッテの試合は打撃戦となり、非常にゲームとしては面白い内容だった。10回延長までもつれ込み、結果的に楽天イーグルスが8対6で逆転負けであったが、これぞプロの野球という場面を幾つも見せてくれたので、充分満足出来た。
2008.09.08
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アテネ五輪で金メダルを獲得した実力者である、日本のハンマー投げの第一人者室伏広治ではあったが、今回は惜しくもメダルに届かず、5位という成績に終わった。過去に金メダルを取ったからと言って、次の舞台で必ずしも金メダルが取れる訳ではない。アテネと北京の間には4年間という年月があり、その間のトレーニングや調整、そして精神的なプレッシャーなどを抱えて望まなければならず、アテネの事は過去の事と切り捨てて心気一転、初タイトルに挑戦する積りで望なければ、良い成績は残せないだろう。ハンマー投げ、砲丸投げ、円盤投げ、槍投げなど遠くに投げる競技が日本人には余り向いていない現状で、やはりパワーを見せ付ける白人選手たちは、身長も体格も日本人より遥かに優れているように思う。そんな中で室伏広治選手は日本人離れした体格とそして何より甘いマスクで女性ファンも多い。日本人選手で今のところ室伏選手を越えるほどの実力を持った選手が現れない以上、室伏引退の声は何処からも聞こえては来ない。両親から引き継がれたDNAはいまだ進化の途上にあり、幕引きはまだまだ先の話しだろう。ハンマー投げは謂わば物理学の世界である。投げる時の角度、スピード、両足の位置そして重心を何処に置くか。それらを一瞬のうちに計算し最も遠くへ飛ばす方法を考え出した彼は更に飛躍を遂げ、メダルとともに私たちの前にその雄姿を見せてくれることだろう。
2008.08.23
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1978年「勝手にシンドバッド」を引っさげてメジャーデビューを飾ったサザンオールスターズ。この曲を聴いたとき「コミックバンド」かと思った。早口で何を歌っているのか分からない。確かにテンポはよく、リズミカルではあったが、当初流行っていた曲は、世良公則&ツイスト「銃爪」「宿無し」、キャンデーズ「微笑み返し」、山口百恵「プレイバックPart2」、ピンクレディー「サウスポー」「UFO」、アリス「ジョニーの子守唄」、矢沢永吉「時間よ止まれ」、沢田研二「ダーリング」「抱きしめたい」「サムライ」、渡辺真知子「かもめが翔んだ日」、サーカス「Mr.サマータイム」、八神純子「水色の雨」、アン・ルイス「女はそれを我慢できない」、中島みゆき「わかれうた」、中原理恵「東京ララバイ」、桜田淳子「追いかけて横浜」、郷ひろみ「バイブレーション」、榊原郁恵「夏のお嬢さん」などである。当時を振り返って見ると、サザンの曲が既成のジャンルに当てはまらないという印象を強く持った。2ndシングル「気分しだいで責めないで」も同様にヒットしたが、やはりイロモノ的なバンドと言う見方を音楽業界のみならず、視聴者もそう思っていたに違いない。しかしそれは3枚目のシングルで大きく覆されることとなる。「いとしのエリー」はR&Bの大御所レイチャールズがカバーをするといほどの名曲。この1曲によって桑田佳祐の実力、サザンオールスターズというバンドの底力を見せ付けられることとなった。以後、彼らは日本の音楽シーンに於ける最大且つ実力派ナンバー1の座を長年に亘り維持し続けるロックバンドとして成長した。そんな彼らが無期限活動休止を発表。デビュー30年目を迎えるサザンに一体何が起こったのであろうか。ソロはともかく、バンドの場合は3人以上のメンバーを揃えなければならず、バンド結成は以外と難しい。個性豊かな気の合う仲間、そして最も大事な「音楽に対する方向性」が同じでなければならない。誰でも最初はアマチュアからスタートするが、この時期にある程度メンバーがふるいに掛けられ、紆余曲折しながら、完成に近いものが出来上がる。デビューしたては無我夢中で勢いだけで突っ走る。自分達の世界を創り上げることに没頭し、その中からヒット曲が出る度に喜びと達成感を味わって行く。やがて時が経ち、気が付いて見ると自分達の方向性に僅かながらも食い違いが出ている事に気付く。どんなに気を許し合った仲間でも、個々の意見を尊重し、受け入れなければならい時が来る。今では伝説ともなったローリングストーンズが、デビュー以来一度も解散する事無くいまだに現役でいられるのは、カリスマ的存在のヴォーカリスト、ミックジャガーの影響が大きい。バンドを揺ぎ無いものにするのはその中心にいるリーダーが人間的、音楽的に如何に優れているかだ。ビートルズはリーダーが二人いたために解散に至ってしまったが、桑田佳祐率いるサザンは桑田が何処までミックジャガーになれるかだろう。再び帰ってくるとは言っているものの、このまま解散なんてことにならないようファンの一人としてお願いするだけである。
2008.05.25
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久しぶりのライブハウスレポート4月20日の模様です。デジカメ撮影の為、光源不足で写りが少々悪いですが、ご容赦下さい。京成線、市川真間駅の近く歩いて2,3分の所に小さなライブハウスがある。石井ひろあき(江戸川レノン)さんと知り合って2年になるだろうか、彼がこのライブハウスに時々出演するので、わたしもライブを聴きに出掛けるようになった。小さいがライブ内容は非常に濃いと思う。ここに集まるミュージシャンは様々だが、みなこのアルマナックを愛している。これはおそらく、マスターの人間性だろう。ライブが終了するとマスター自らがギターを持ちオールドソングを披露してくれるが、殆どがカントリーである。さて、この曲は説明するまでもない、飛行機事故で亡くなったジョンデンバーの大ヒット曲。1971年の作品 Take me home, country roads今では子どもでも知っている名曲でもある。誰もが一度は口ずさんだ歌ではないだろうか。親しみ易く覚えやすいメロディと歌詞。音楽は初めて合った人同士をその場で友人に変えてくれるという、素晴らしい力を持った人間同士を繋ぐツールである。わたしの声も入っているので(邪魔かな)皆さんも一緒に歌ってみて欲しい。映像はYouTubeなので記事とリンクしてあります。
2008.05.21
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フィギュアスケート世界選手権で見事金メダルに輝き、女王の座を手に入れた浅田真央。しかし、メダルは結果であって、目標ではない。金メダルを狙うのはどの選手も同じだろうが、メダル獲得を目標にしてしまうと、それがプレッシャーとなり、自分本来のスケートが出来なくなる場合がある。彼女が失敗を恐れず、大胆な滑りを見せられるのは納得のいくスケートを目指しているからだ。敢えて自分に試練を与え、メダルのことは考えず常に高見を目指す彼女の精神力は他の選手を寄せ付けない強さを持っている。スポーツの基礎は体力と身体能力。それをどこまで活かせるかは、日々の練習の積み重ね。そして持って生まれた才能。観衆を魅了し、リンクを上手に使って自分を大きく且つ大胆にそして美しく見せる。自分だけの持つ世界を音楽に乗せてリンクと調和する美的センスがなければ、この世界で頂点を目指すことは出来ないだろう。
2008.03.29
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熱烈な女性ファンの黄色い声が館内を飛び交っていた。3月22日、亀田興毅の復帰戦が千葉・幕張メッセにて行われた。8ヶ月のブランクを経てリングに上がった亀田興毅は冷静だった。今までの試合とは違い緊張の糸が張り詰めた会場にはもちろん、彼のKOシーンを期待するファンの熱気で溢れていた。わたしはこの試合を見るに付け、今までの亀田ファミリーやTV局、マスコミの大騒動を頭の中から一切消して、純粋にレクソン・フローレスとの復帰戦を見つめていた。そうでもしないと、先入観がじゃまをして正しい判断が出来なくなってしまうからだ。亀田一家はマスコミに踊らされ、散々利用されその挙句に踏み潰された悲運の一家だからだ。環境が変わった状況からの再出発。生まれ変わった亀田興毅として、彼の成長ぶりを観察してみようと思ったのである。試合開始直前で、行き成りダウンを奪った彼は「これは行ける...」と思っただろう。それを目の当たりにした観衆も一瞬どよめき、このままKOで終わると思ったに違いない。しかし、さすが世界ランク上位の選手ともなるとそう簡単に倒れてはくれない。試合そのものは終始、亀田興毅のペースで進んだが、6ラウンド辺りで興毅が首を傾げていた。「おかしいなぁ、倒れへん、パンチは当たっているのに...」こんな疑問を自分自身に問い掛けていた。8ヶ月ものブランクがあり、本番からかなり遠ざかっていた彼。その間激しいトレーニングを積んでも、やはり気の抜けない本番のリングとでは大きな差が存在する。自分にパンチ力がないのではない、序盤でダウンを奪うほどの必殺パンチを持っている。相手のボクシングが巧いのだ。追い込まれれば、頭をつけ、クリンチで交わしてくる。相手との距離を計算して深追いしないなど。防御の技巧派である。だから余計に興毅にして見れば実に戦いづらい選手だっただろう。しかし、結果は3-0の文句の無い判定勝ち。本人は勝利に対しそれほど嬉しい表情は見せなかった。やはりKOが頭から離れなかったのだろう。亀田家の長男として、この試合はノンタイトルとはいえ、大きな意味を持つ試合だった。二人の弟たちに見本となるボクシングを見せなければならないという、大きな課題を背負っていたからだ。父、史郎氏の下を離れ今新たな挑戦を目前にして、日々研鑽を重ねるその先にこそ自分の目指す夢があることを、弟たちにもボクシングを通して教えてあげることが出来るよう、成長していってほしいと思う。
2008.03.27
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3月8日に行われた(WBC)フライ級タイトルマッチ、内藤大助VSポンサクレック・ウォンジョンカムの試合は辛くも内藤選手が判定で引き分け、2度目の防衛を果たした訳だが、消化不良と言う試合内容にいささか残念な気持ちが残った。チャンピオンの目的はベルトを守ることにあるので、終始防御に回る事が多い。ボクシングの醍醐味は壮絶な打ち合い、ダウン、そしてKO。近頃のボクシングではそのKOシーンが殆ど見られず、判定に持ち込まれる事が多くなっている。これは両者のテクニックやパンチ力にさほど差がないことも上げられるが、挑戦者の場合試合に敗れても失うものがないことから、捨て身で王者に立ち向かう闘争心が絶対条件である。チャンピオンも挑戦者の時代が当然あった訳で、その頃の自分と同じ様に戦えるかと言うと、これは疑問が残る。チャンピオンの座を如何に守り通すか、連続防衛をどこまで伸ばし連勝し続けるか、これは相手に勝つ事ではなく、ベルトを手にした時からは自分との戦いとなる。結果的に試合内容に不満が残る事も多々あり、観衆を楽しませる試合から遠ざかってしまうのも事実である。昨年行われた、内藤大助VS亀田大毅の試合は暴走した大毅選手とセコンドについていた亀田ファミリーの影響もあり、ボクシングとは呼べない試合内容になってしまったが、TBSの思惑通り興行的且つ視聴率アップでは成功を収めたと言えるだろう。但しこの試合で一番得をしたのはチャンピオンの内藤大助選手自身だった。このカードが組まれた時から国民の期待を一身に背負い、その期待に応え内容はともかく勝利したのだから、これで地名度は大幅にアップし、日本中に彼の名が知れ渡り一夜にしてスターダムにのし上がったのである。TV、マスコミからの出演依頼が殺到し、様々なTV番組に登場するようになった内藤選手。自叙伝「いじめられっ子のチャンピオンベルト」と言う本まで出版するに至った。しかし、タイトル戦の前にチケットが多く売れ残ったことで、こんな筈ではないと困惑を隠せないでいた。有名人の仲間入りを果たしたことが、自意識過剰となりそれが「自惚れ」に繋がったとすれば、初心に帰り自分がハングリーなボクサーである事を認識しなくてはならない。チャンピオンの使命とは自分に挑戦することである。そして自分に勝つ、これが真の王者にふさわしい姿なのである。
2008.03.11
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大相撲初場所を目前に控え、朝青龍がピッチを上げている。横綱同士、白鵬との稽古では「思ったより強い」と白鵬の口から言わしめたほどである。一連の大騒動から数ヶ月が経たったが、当時マスコミや相撲関係者そして相撲ファンから落胆の声が聞かれ、バッシングの荒らしに見舞われ、心身共に相当のダメージを受けたのではないかと思われたが、そんな事があったのかと、過去の不祥事を忘れさせるほどの気合が入った稽古だった。本来なら数ヶ月も土俵や相撲の世界から離れていれば、身体も心も大きなダメージを受けるのだが、朝青龍は違った。彼の復帰振りが予想外の展開を見せる中、横綱審議委員会から厳しい言葉がつき付けられたが、そんなことに動揺することなく、「我が道を行く」を貫き通す朝青龍。彼の心には「日本人には負けない」という闘争心が燃え上がっているのだろう。これは紛れもなく朝青龍から日本人に対する「挑戦状」である。日本相撲協会は朝青龍の確固たる強さを認めている。彼を引退に追い込めない理由のひとつがそれである。高砂親方の指導力不足が指摘され、それが相撲界全体に及び相撲人気を低下させ、更に国技を侮辱されながらも何ら手の打ち様がない相撲協会の体たらくが生んだ現在の土俵。相撲に興味がなかった人たちが朝青龍を見に来る。観客動員数にどうしても朝青龍は欠かせない。これが大相撲の弱点である。人気と実力を兼ね備えた力士が少ない中で、興行成績を何としても上げて行かなければならない。矛盾を押し曲げていよいよ注目の初場所が始まろうとしている。
2008.01.12
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大相撲九州場所を振り返ってみよう。前半は千代大海が俄然調子よく白星を重ねて行った。このまま行けば優勝も視野に入ると思っていたのだが。後半では既に全勝力士が消え、勝負の行方は混沌とした状態が続く。誰の手に賜杯が渡されるのか、もつれたまま後半戦が続く。そして迎えた千秋楽に珍事が起きた。そのまま行けば優勝決定戦もあり得たのだが、千代大海がまさかの休場。右ひじ関節捻挫が原因であるが、千代大海にとってはまたとない優勝のチャンス。しかし、怪我をおしてまでの出場は今後に響くと判断した九重親方の意見を曲げるほどの優勝に対する執着心はなかったようだ。これが千代大海の弱さである。その昔、力道山が肩を脱臼し、試合が出来ないのではとプロレスファンを冷や冷やさせたことがあった。しかし力道山はその試合にアメフトのプロテクターを肩に嵌めて試合を行った。プロレスは娯楽番組だから、観衆を喜ばせるのが商売。もしかすると肩の脱臼も見せかけだったかも知れないが、そこはやはりプロ。プロレスの頂点に立つ者は如何なる場合も試合を放棄しない。それが人気の秘密でもあった。相撲とプロレスを一緒にすることは出来ないが、力道山も相撲界出身。千秋楽の土俵にブーイングの座布団が舞い上がる。それも当然だっただろう。緊張感の全くない白鵬の相撲ぶりに、ファンががっかりしたのも無理はない。優勝が星取りで左右されるのではなく、今回のような事態になった時は「今場所は優勝者なし」でもよいのではないだろうか。それでなくとも、モンゴルの地から朝青龍の笑い声が聞こえて来そうな内容。「俺がいないとやはり駄目だな」とTV画面に向かって高笑いする朝青龍の姿が見えて来る、残念。
2007.11.29
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急性脳梗塞で倒れたオシム監督が治療を受けている「千葉・順大浦安病院」は、わたしの娘が産まれた病院で数回訪問しており馴染みが深い。最新の医療体制は日本でも有数であり、最新の治療を受けられる。その点に於いては不安材料は今のところない。後はオシム監督自身の持つ体力と精神力に任せるしかないだろう。脳梗塞はわたしのように心臓疾患を抱えている者にとっては、命取りの病気である。健康体でも高齢になれば罹患しやすい疾患のひとつだ。オシム監督自身も心臓に持病を抱えての、監督就任だった。日本のサッカーに不足しているもの、それは猫の持つ俊敏性と毛玉にじゃれ付く子猫のようなサッカーボールに対する執着心だろう。そしてもっとも大切なことは走り続けること。これは従兄弟が現役の時代によく言っていた言葉でもある。従兄弟も2年前脳内出血で倒れたが、奇跡的な回復を成し遂げた。監督という立場はグラウンドでボールを追う選手と同じほどハードで過酷なもの。自分の思い描いた通りに試合が展開しなければ、ストレスも増幅し血圧も上がるだろう。増してや、遠い国からはるばる日本にやって来て、生活環境も大きく変化し、言葉の壁や毎日の食事など仕事以外でも大きなストレスを受ける。どれほど強靭な体力と精神力を持ってしてもこれらのストレスを跳ね返すことは不可能に近い。オシム監督が回復しても拭えない不安はその後遺症である。元の身体に戻ることは奇跡でも起きない限り、まず無理だろう。例え引き続き監督を続けることが出来る状態であったとしても、日本はそれを受け入れるべきではない。今後はオシム監督の生涯を見据え、出来るだけ長く生きて貰いスタンドの外からアドバイスを受ける形を取るのが懸命な判断だと思われる。日本の全てのサッカー選手よ、今こそ君たちは野生のハンターになるのだ。狙った獲物は逃さない、敵に奪われることなく、オシム監督の待つゴールへ突き進むのだ。オシム監督の苦笑いを見る為に。
2007.11.23
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わたしはこの歳まで一度もゴルフをやったことがない。自慢話しにもならないが、時間はあっても、肝心なお金がない。TVゲームでやってみると結構面白く楽しめるので、実際にやったとしたら自分の性格からいって夢中になり、とことんやらないと気が済まないと思う。ボーリングをやった時もそうだった。横浜の伊勢崎町辺りに暫く住んでいたことがあり、友人と二人で仕事が終わった土曜の夜から朝まで投げ続けたことがある。その時のベストスコアは205だった。右手がしびれてきたので、最後は左手で投げるという状態だった。あの頃巷では「インベーダーゲーム」が大流行していた時代。横浜は東京に近いが雰囲気は全く違う。浮浪者ばかりが集まって出来ている一角があり、そこには近づかない方がよいという噂が広まっていたが、道を間違え関内へ行く途中に紛れ込んでしまった。街のそこらじゅうに「レゲエのオジサン」(死語)がうようよしており、その中の一人が近づいて来るではないか。わたしは「やばい…」と内心思いながら無視していると「煙草をくれ」と声を掛けられた。内ポケットに入れてあるセブンスターを一本取り出し差し出した。そのオジサンは酒臭く顔は汚れて真っ黒、かなり長い時間風呂にも入っていないようで、プーンと異様な汗と垢が入り混じった臭いが鼻をついた。煙草を受け取ると嬉しそうに汚い歯を見せながらにこりと笑いながら「ありがとよ」と言い残し去って行った。まるで死体のように道路の真ん中に転がっている人もいたりと、ここだけは華やかな伊勢崎町やお洒落な元町から放り出されたゴミタメのような感じを受けた。ゴルフの話がつい夢中になって昔話に花が咲いてしまった。さてここからが本題である。つい先日のニュースで皆さんもご存知かと思うが、防衛省の守屋武昌・前事務次官が、老舗防衛専門商社「山田洋行」の元専務からゴルフ接待を受けた問題。相変わらず官僚や役人たちの不祥事が続いている。突付けば必ず何か出てくる旧態依然とした体質は国のトップが変わっても同じこと。与党である自民党と福田首相にとっては、インド洋での海上自衛隊の給油活動を継続するための新テロ対策特別措置法を早期に成立させたいと思っている矢先に、関係者からの不祥事が明るみに出て、渋柿を食わされたような思いをしているだろう。企業の働きマンたちにとっては接待ゴルフも仕事の内だが、ゴルフだけでなく賭けマージャンのお土産付きとは呆れてしまった。自衛隊員倫理規程違反を知りながらも家族ぐるみでの不祥事を20年間に渡って続けていたとなると、あの赤福や比内地鶏も真っ青。偽りに満ちたこの国の行く末に果たして希望はあるのだろうか。
2007.10.29
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サッカーファンであればおそらく誰もが知っているだろう。ワシントン・ステカネロ・セルクエイラ。ブラジル出身、浦和レッズ所属。黄金の右足を持つストライカーとしても有名である。彼のことを知ったのは実はつい最近のことで、ある女性がわたし同様に三回目の心臓手術を受けることに不安を抱き悩んでいたことがきっかけだった。ワシントンのことをブログで取り上げて欲しいという要望があり、わたしなりの視野でこの記事を書くことにしたのである。ワシントン自身、公式ブログを持っていたので早速拝見してみたのだが、驚いたことにわたしの従兄弟に顔がよく似ていた。従兄弟については過去に話しているので知っている方も多いと思う。ジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機に所属しており、FWの神戸と言われスポーツ新聞などに度々掲載され、芸能人とも仲がよかった。2年前脳内出血で倒れ、口も聞けず動くことすら出来なかった従兄弟が、今では自由に会話が出来、杖を付きながらも歩けるまでに回復したのであるが、その回復力は長年サッカーで鍛えた身体が功を奏しているのだと思った。わたしも藤枝出身なのでサッカーとは縁があるが、何せこの身体は幼い頃から心臓病に侵されており、とてもサッカーを出来る状態ではなかった。ワシントンは2003年に2度に亘る心臓手術を受けており、一時はサッカーを諦めなくてはならない状況に陥った。しかし彼のサッカーに対する情熱と執念が再びサッカーボールに乗り移り、奇跡の復活を成し遂げたのである。彼がゴールを決めた時、自分の胸を叩いてアピールするのは、「僕の心臓は大丈夫」と自分とファンの人々にメッセージを送っているのである。それだけでなく、彼は日本心臓財団とも縁があり、ワシントンがゴールを上げる度に貯金した全額を日本心臓財団へ寄付していたのである。心臓疾患で苦しみ、療養を続ける人々に勇気と希望を与え続けている彼は、心臓病だけでなく全ての病気は克服出来るのだという希望をボールに込めてサッカーを続けているのかも知れない。
2007.10.16
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内藤大助VS亀田大毅戦、このカードを組んだこと自体が無謀であった。おそらく以前と同様にTBSの視聴率稼ぎにボクシングが踊らされたわけである。視聴率はかなりアップしただろうから、TBSとしてはしてやったりである。自分の実力を知るには強い相手と戦うのが一番手っ取り早い。負けて当然だと捨て身で挑戦者はチャンピオンに立ち向かう。それが世界タイトルマッチの醍醐味であるが、今回の試合はあまりにも力の差が在りすぎた。品格の無さは亀田家のトレードマークだから今更進路変更する訳にもいかない。プロデューサーが作り上げたボクシング界の沢尻エリカと言ったところか。しかしエリカ嬢には女優魂がある。亀田大毅にはプロボクサーとしての誇りもなければプライドもないだろう。それがリング上で如実に現れた。子どもだから致し方ないにしても、最低の礼儀というものがあるだろうに、それさえかなぐり捨ててリングを去った亀田家の将来はTBSが今後何処まで彼らについて責任を持つかにかかっている。人気が急降下すれば誰も振り向かない芸能界と同じ事をボクシングに持ち込んだTBSの功罪は大きいだろう。亀田兄弟はまだ若いし、将来がある。それだけが希望とでも言うべきか。敗れて初めて知る涙の味を忘れずに努力を続けることが大切である。
2007.10.14
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エルビスプレスリーが42歳という若さでこの世を去ってから、30年という歳月が流れた。彼の代名詞である「キング・オブ・ロックンロール」、色褪せる事なく今でも輝き続けている。わたしはビートルズ世代であるが、当然エルビスの曲もよく聴いた。ロックギタリストのジェフベックが監獄ロックをカバーしており、エルビスの曲として初めて耳にした曲。但し、その時この曲がエルビスの歌だとは知らなかった。「この胸のときめきを」は彼の代表曲のひとつであるが、ここら辺からわたしはエルビスに傾倒していったように思う。ハウンドドッグやラブミーテンダーなどは後になってから聴くようになった。ビートルズやボブディランなどにも影響を与えた偉大なロックンローラー、エルビスプレスリー。映画「エルビスオンステージ」を観たのは1971年、わたしは15歳のロック好きな少年だった。派手な白いコスチュームに身を包んだエルビス、それはフェニックスを思わせる衣装だった。彼の生の歌を聴けないのは残念ではあるが、音楽を通し至るところでエルビスの面影を見る事が出来る。映画「ブルースブラザース」のエンディングは監獄ロックだったし、ハウンドドッグのボーカル大友康平はエルビスの生き写しにも見える。多くのミュージシャンたちに影響を与えたエルビス、彼はまさに不死鳥である。
2007.08.23
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相撲会に大ブーイングが吹き荒れている。朝青龍の仮病疑惑とサッカーが、土俵の中と外から批判の嵐。更に二場所連続の出場停止処分に対し、甘すぎるとの声が飛び交う。相撲ファンやそうでない世間の人たちに、日本の国技と言われる相撲が地に落ちたと言う印象を与え兼ねない。朝青龍自身もかなり動揺しており、このまま引退する可能性も出て来ている。それも自分が撒いた種だから仕方のない事だが、土俵に足を向けて眠っているようなもので、高砂親方にしてみれば飼い犬に足を噛まれたようなもの。現役を続行したところで以前のような力強い相撲はもう取れないだろう。サッカーをやった時点で朝青龍の相撲人生は終わったも同然。彼にしてみれば単なる遊びの玉転がしだっただろう。力士、しかも相撲の頂点に君臨する横綱が土俵の外とは言え、相撲を忘れて遊びに興じる等とは神様に唾を吐きつける様なもの。朝青龍の取り巻き連中やサッカーの相手をした人たちはこの事をどう思っているのだろうか?横綱の無礼講を止める者が誰もいなかった?これも疑問だ。力士は勝負に臨む時「神」になる。しめ縄を腰に巻く意味を理解している力士がどれだけいるか知らないが、相撲協会の指導が甘すぎる。若者にあまり厳しくすると関取がいなくなる不安があるのだろう。人気も一頃より低迷してきているのも事実で、国技が危機に瀕しているのも現実である。安倍総理の退陣と朝青龍の引退か、どちらが早いのか...なんとも情けない話題ばかり続く昨今である。
2007.08.04
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横綱だったら、どんな我がままも許されるのか?仮病疑惑で窮地に立たされた朝青龍。相撲界始まって依頼の巡業参加お断り。巡業そっちのけで、サッカー...相撲をなめているとしか思えない行動。折角名古屋場所で優勝し、強さを見せ付けたばかりだったが、やはり品格に欠ける横綱は調子に乗りすぎだろう。いっその事破門してしまったらどう。これも前代未聞になるが。高砂親方も知らなかった、母国で中田英寿と楽しそうにボールを蹴ったはいいが、自分の横綱と言う名誉を蹴り飛ばしてしまった。破門とは行かなくともここは少し熱いお灸を据えた方が本人の為である。次の場所は休場処分。相撲自体は詰まらなくなるが、のうのうと土俵に上がって欲しくない。それともサッカーボール持参で土俵でサッカーをやってもらおうか。横綱の場合、負け越してもその座から陥落する事はない。後は引退するのみだが、横綱朝青龍はもう見飽きたし、変わって大関になった琴光喜を横綱に昇格してしまえ。土俵の外では頭の中からすっかり相撲を忘れ、横綱という立場さえお構いなしのご乱行ぶりに開いた口が塞がらない。あんなに優しい高砂親方を裏切るような行為は断じて許されるべきではない。
2007.07.31
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インドネシアの密林から探し出して来た今度の対戦相手は、まだあどけなさが残る19歳の少年だった。初回でKOするだろうと思っていたが、かなり手こずっていた様に思う。ボクシングに慣れてきた亀田興毅は、デビューしたばかりの頃に見られた獲物を倒す時のような鋭い眼光は消えうせていた。一撃で相手をリングに沈めるパンチも見受けられない。リズミカルなパンチの連打は高く評価できるものの、試合を見ているファンはKOを早く見たいと思っているし、それが亀田の持ち味でもある。八百長と罵られた試合も既に過去の物。何時までも引き摺っている訳にはいかないが、新たな八百長疑惑で揺れる相撲と同様でファン或いは視聴者の記憶は以外と根強く残っているもの。KOから随分遠ざかっている自分に対しても興毅自身が一番焦っている様にも思える。TBSに踊らされる亀田一家の運命や如何に。さて、どうせならTBSさんよ、引退が囁かれている辰吉に花向けとして亀田興毅VS辰吉丈一郎のカードを実現させてみたらどうかな。むちゃな話しではあるが、TV局の得意なドラマとしては申し分ないだろう。階級などこの際関係なく、これまでボクシング界に貢献して来た辰吉も興毅のパンチを浴びてリングを去るなら本望ではないだろうか。99%あり得ないだろうが、1%の可能性として辰吉が勝ったらそれはそれで大いに盛り上がる。視聴率も破格の勢いであがるだろうし、ランダエタ戦をも遙かに凌ぐだろう。ボクシングを娯楽番組にしてきたTBSなんだから最後まで娯楽だと押し通せ、その位の根性で番組を作れと言いたい。
2007.05.26
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亀田家のボクシングと言えばKOが魅力の一つ。ライトフライ級からフライ級へ転向した亀田興毅の試合が先日行われたが、「3回で倒す」と言った強気の発言とは裏腹に3-0で判定勝ちを収めたものの、本人に笑顔は戻らなかった。それもその筈で、ランダエタ戦で培ったスタイルは影を潜め、単調な一直線のボクシングに戻ってしまった。口先だけなら何度でもKOは出来るが、それが的外れに終わってしまった時、悔しさと同時にファンの期待も色褪せてくる。昨年の夏、八百長試合と罵られ、精神的にもダメージを受けた彼であるが、それをばねにしチャンピオンベルトを返上してまでフライ級に臨んだわけであるが、最初の試合としては苦いスタートとなったに違いない。ノンタイトル戦という事もあり、場合によっては試合に臨む気持ちのあり方に左右される面もあるだろう。全力を出し切って相手を倒しにかかり、結果的に怪我などしても詰まらないという消極的な面が背景にあっただろうとも思われる。相手の選手もおそらく練習代わりの試合くらいに軽く見ていたかも知れない。将来チャンピオンの座を掛けて戦う相手にもなり得る訳で、自分のボクシングスタイルを相手に見せてしまっては分が悪い。70%程度の力で自分の実力を相手に見せず、様子を伺う試合とも言える。ノンタイトル戦のマイナス面は試合に緊張感が見られないことだろう。だがプロであればタイトルに関係なく自分のスタイルを貫き通すのが一流のファイターでもある。観衆を納得させる試合の難しさ、こと一対一のような格闘技であればなお更である。
2007.03.31
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森進一の代表曲「おふくろさん」騒動。事の始まりは皆さんもご存知の通り、森進一が台詞を一部追加して歌っていた事がどうも作詞家の川内康範氏を激怒させたらしいが、我々聴く側の人間からすればそれほど怒り心頭するほどの事でもないのにと思ってしまう。大抵の人は(わたしだけかも知れないが)おふくろさんの作詞・作曲が誰なのか知らない。演歌に興味が無ければなお更のこと。今回の騒動で漸く知ることが出来た。歌にしろ書籍にしろ世間に出てしまえば著者や歌手の想像を遙かに超えて一人歩きして行くものである。しかしそれにしても川内氏もかなりの頑固者と思えてくる。口も利きたくなければ顔を見ることすら拒否しているようで、このままでは「おふくろさん」が涙流して二人に向かって「どちらもいい加減にして」と怒っているような気がする。ヒット曲であればあるほど、大勢のファンの心を掴み名曲と呼ばれるようになる。そして歌の好きな人間なら誰しも口ずさむし、物まねもされるだろう。そのうち捏造されて替え歌まで出来上がってくる訳だ。作詞家・作曲家・歌手はまず誰もが好んで口ずさんでくれるような曲を作りたいと思っているのではないだろうか。たまたま「おふくろさん」のイメージが森進一と重なったから出来上がった曲であり、どちらが欠けても誕生はしなかった。歌とは何か、みんなが楽しんで歌える歌、共感し、涙をながし、誰が歌ってもよい曲が名曲ではないのか。日本には著作権侵害問題が最近厳しく語られ始めては来たが、今回の騒動でさすがのJASRACも頭を抱え込んでいるようだ。しかし日本の音楽業界で利益を貪るJASRACの悪質な徴収方法がトラブルを巻き起こしている面も伺える。森進一の代わりに「おふくろさん」を歌わせて欲しいと名乗り出ている演歌歌手「吉幾三」青森から方言を上手く取り入れた「おら東京さいくだ」を引っ提げて一躍人気者になった彼の青森弁「おふくろさん」を一度聴いてみたい気もするが、青森弁では駄目だと川内大先生に怒られるかも知れない。
2007.03.15
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一部の週刊誌が発端となって広がった朝青龍の八百長疑惑。昨年の夏に行われた世界タイトルマッチ亀田興毅対ランダエタ戦を思い出した人も多いだろう。八百長が行われる背景には色々あるが、誰が一体得するのか。例えば賭け試合だったりすると暴力団が絡んで来たり、結構物騒な話しに発展する事もある。スポーツ界では私たちの眼が及ばぬところで裏家業の人たちが暗躍しているのも事実であり、あるある大事典ではないが捏造は日常的に行われているだろう。週刊誌も売り上げが命であり、ネタが尽きれば根も葉もないところからスキャンダラスな記事を思い付き、世間を騒がせて売り上げアップを狙うもの。そうでもしないと誰も読んではくれない。真実は二の次でとりあえず誰かを標的にしてしまえば、後は好き勝手に巧妙な文章で話題を作り上げてしまうのである。記事の内容に振り回される相撲協会や関係者、そして最もダメージを受けるのが標的にされた力士たち。次の場所にその影響は大きく現れ、いつもの相撲はとれずにどこか動きもぎこちなく精彩に欠けてしまうのである。八百長などそう簡単に出来るものではないが、相撲の世界では星を買ったり売ったりしている場合はあるかも知れない。素人に分かるような試合はまずしないだろうが、後になってあの取り組みはいかさまだったかも知れないと言われるような事では困るので、迫真の演技をする訳である。わたしが見た過去の相撲で一つだけわざと負けたと思われる取り組みがあった。昭和49年頃だったと思うが、第54代横綱の輪島対大関貴ノ花の一番だった。輪島と貴ノ花が親友だった事は相撲ファンであればご存知のはず。この二人はライバル同士でもあったが、天才力士と異名を持つ輪島と方や角界のプリンスと呼ばれ女性ファンも多かった貴ノ花。二人は同時に大関に昇進したものの、貴ノ花は大関が精一杯で、9勝6敗と常にファンを冷や冷やさせる相撲内容が多かった。その場所は確か角番だったと記憶している。もし負ければ大関転落という状況でかなり苦戦していた。そして横綱輪島との取り組みでより切りで貴ノ花が勝ち、何とか大関の地位を保つ事が出来た訳であったが、その試合で輪島の負け方が非常に不自然に思えたのである。わたしの思い込みなのかも知れないが、輪島が親友の為にわざと負けたように思えてならなかった。この試合について何処からも疑惑の取り組みだという声は上がらなかったが、これも一つの八百長だったのかも知れない。大切な友人を助ける為に星ひとつあげたと考えるなら、敵に塩を送った上杉謙信だとも言えるのではないだろうか。
2007.02.20
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