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残暑お見舞い申し上げます。お盆休みも終わり吹く風も何処となく秋の気配が漂っておりますが、皆さま如何お過ごしでしょうか。私は、1月から2月に掛けて入院生活を送りましたが、その後は何とか現状維持のまま現在に至っております。厳しい食事制限、水分制限、タンパク質制限で中々厳しい日々を送っております。さて、楽天ブログの更新がすっかりストップしたままになっておりますが、画像容量、トラックバックなどの諸問題で、現在FC2ブログにて記事を展開しております。楽天ブログを閉鎖するつもりはございませんが、今後はFC2ブログをメインとして活動して行きますので、読者の皆様、宜しくお願い致します。ビーチサイドの人魚姫 ←こちらをクリック願います。コメントを頂ければそちらにお伺いしてレス致しますので宜しくお願い致します。管理人:神戸 俊樹
2014.08.18
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日本の音楽シーンに輝かしい時代を築き上げた人気デュオ『CHAGE and ASKA』。その一人であるASKA(アスカ・本名:宮崎重明)容疑者(56)が先日の5月17日、南青山のマンションから出て来たところを待機していた警視庁の捜査員によって逮捕された。 容疑は覚醒剤取締法違反(所持)であった。逮捕当初は容疑を否認し続けていたが、23日になって容疑を認め、「覚醒剤を使用した事がある」と供述をしているようだ。同時に逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者とは一年ほど前から愛人関係にあったとされており、ASKAの夫婦間に亀裂を生じさせる要因にもなっていたらしい。 90年代の音楽シーンに絶大な人気を誇ったチャゲ&アスカ。人気ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌となった『SAY YES』は280万枚と言う記録的なセールスを樹立。その後、彼らの人気は留まるところを知らず、破竹の勢いでレコードセールスを塗り替え、巷ではチャゲアス旋風が巻き起こるほどであった。 私の記憶を振り返ってみると、彼らは確か7人編成のバンドとして音楽活動を始め、その頃は『チャゲ&飛鳥』と名乗っていた。当時、ヤマハが主催するポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)が音楽界の登竜門とされており、このコンテストを踏み台にして大きく羽ばたいて行ったミュージシャンは数多く、井上陽水や八神純子、中島みゆきなどもポプコン出身である。 チャゲ&飛鳥の曲を初めて耳にしたのは、『コッキーポップ』と言うラジオ番組で、『流恋情歌』と言う歌だった。どことなく演歌を思わせる歌詞とメロディが強烈で、私のお気に入りの一曲となった。この流恋情歌で、ポプコンつま恋本選会に出場し入賞を果たした。 彼らのデビュー曲は『ひとり咲き』であるが、この時は既にバンドではなく、チャゲと飛鳥の二人だけであり、ここから『CHAGEand ASKA』へと栄光と野望のリズムを刻み始めて行く事となる。 今回の逮捕に至ってはおそらく氷山の一角に過ぎないであろうが、増える事はあっても一向に減らない薬物乱用やそれに付随した事件・事故が多発する中で、当局にしてみればニュースなどマスコミが飛び付くような人物の逮捕がどうしても必要であった。 アスカ容疑者のような大物歌手を逮捕する事によって、事件の深刻度を世間にアピールする狙いも当局にはあり、『見せしめ逮捕』とも受け取れる。 覚せい剤などの違法薬物について時間を少し遡ってみると、国が暗黙の内に使用を認めていた時期がある。日本が軍部の統治下に置かれていた戦時中の事だ。兵士の士気を高める為にヒロポンを使用したり、軍需工場の効率を上げる為、作業員に錠剤を配布するなどして労働時間を大幅に増やし、強制的に作業に就かせていたとも言われている。 戦争と言う異常事態と狂気に満ちた時代だったから、薬物も必要悪とされていたのかも知れない。一昔前までは若年層に薬物使用が広がり、社会問題にまで発展した経緯がある。ところが、現在ではその若年層よりも40、50代の中高年層に覚せい剤の影が付き纏うようになった。 社会的・経済的にも安定した年代の人たちが何ゆえ覚せい剤に手を染めてしまうのか、その背景に見え隠れするのは苦悩する大人たちの心の叫びである。管理型社会のストレスは増大する一方で、ストレスの捌け口が見つからない、或いは発散の仕方に戸惑いを覚える中高年たち。金銭的な余裕も手伝って手っ取り早く入手した薬物に身を委ねてしまうと言う、実に危うい覚せい剤の構図が見えて来るのである。 逮捕されたアスカ容疑者もまた50代の中高年層であり、歌手としての絶頂期も既に過去物語りになりつつある。一度頂点を極めた者にとって、その時代が華やかであればあるほど現状を受け容れがたくなり、ヒット曲からも疎遠になればなるほど焦燥感に苛まされ、眠れない夜が何日も続く事となる。 もう一度夢を実現しようと思っても、曲作りのイメージが浮かんで来ず、その結果薬物の力を借りる事となり、気が付けばその薬物地獄から抜け出せなくなってしまうと言った、薬物依存のループに嵌り込んでしまうのだろう。 歌手は必ずしもヒット曲を出す必要がある訳ではない。もちろん歌がヒットし、有名になりファンも増えて来れば大スターの舞台を歩む事は容易くなるだろう。然し、それよりもある一曲を数十年と長く歌い続ける、歌い継がれて行く事こそが、本来の歌い手と呼べるのではないだろうか。 人の心を揺さぶり、いつまでも心の中に残る曲が一曲あれば、ヒット曲に恵まれなくとも名歌手・名曲として音楽の歴史に名を残す事が出来る筈である。
2014.05.25
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いっそこのまま 何処までも流れ流され夢の果て交えぬ心が 泣き出しても咲かせてみたい 浮世花 行く手遮る カモメの群れに流れ呼び寄せ 祈ります僅かばかりの 残り香にあの方恋しや 神田川 手首辿って 傷付けて 恋の数だけ 流れ行く心乱れて 夜の窓 一人漂う 神田川 叶わぬ想いと 知りつつも 流れに任せた 恋化粧 おぼろ月夜の 神田川 揺らり揺られて あの方へ
2014.04.05
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2014年の正月を無事に迎える事が出来、今年こそは入院0を目指そうと意気込んでいたその矢先の事だった。それは僅かな歯の痛みから始まったが、それがやがて緊急入院の切っ掛けになるとは思いもしなかった。 1月20日、昨年末に予約しておいた三井記念病院の歯科外来へ行き、痛みのある奥歯の事を伝え、一週間後に神経の治療をする事になり、痛み止めのロキソニンと抗生剤を三日分処方して貰った。翌日の朝、左顎に違和感があり少し腫れているように思ったが、さほど気にも止めず処方された薬を服用してやり過ごしたが、22日の朝、鏡を見ると左の頬が昨日の倍ほどに大きく腫れ上がり、口を大きく開ける事もままならなかった。 痛みはそれほどでもなかったが、その腫れ具合からして尋常ではない事が起こっていると察しが付いた。夜になってから流石に心配になり救急外来へ電話を入れると、明日朝一番に歯科外来へ連絡するようにと告げられた。 この時、既に入院の予感が脳裏を掠めたので心の準備だけはしておいた。翌朝8時30分丁度に電話を入れると、「腫れてしまいましたか…」と、予想していたかのような返答だった。直ぐに来院する事と入院の可能性もあるとの事だったので、入院グッズをバッグに詰め込み支度を済ませた。 体重も増えて心不全の兆候もあったが、顎の腫れで救急車を呼ぶ訳にもいかず、かと言って電車で行く元気もなかったのでタクシーを呼んだ。 歯科外来の待合室にいる時、看護師がやって来て顔の腫れ具合を確かめて行った。1時間ほど待った後、診察室に入るといつもの担当医が「かんべさん、ごめんなさいね…」と頭を下げて来た。担当医はわたしが心不全を繰り返し何度も入院している事を知っているし、心臓の事を気遣ってこれまで歯の治療をしてくれていたのだが、今回の腫れを起こした炎症が心不全の切っ掛けにもなっているのだろうと責任を感じている様子に見えた。 「入院になりますので、内科と連携して治療に当たります…」 昨年と同様に12階の一般病棟へと緊急入院、心不全も併発している事から、担当医は歯科と内科の二人が付いた。左蜂窩織炎(ほうかしきえん)での入院となる為、循環器ではなく、一般内科のようであるが、治療方針は前回と同様、ヘパリンに加え抗生剤の点滴、そして体重を落とす為に利尿剤のラシックス投与となり、先ずは「左蜂窩織炎」と心不全の治療が優先される事となった。 炎症を起こしている部分や歯全体の検査をした結果、残存不可能な奥歯が親知らずも含め3本ある事が分かりその3本とも抜歯しなくてはならず、炎症が収まり心不全が軽快した時点で抜歯手術を受ける事となった。 2月5日、心不全が軽快した為、一旦内科を事務手続き上退院となり、翌日6日に病棟もベッドもそのままで今度は歯科・口腔外科での再入院となる。手術は6日の夕方5時頃を予定していたが、2時間ほど早まり午後3時半頃に手術室からお呼びが掛かった。 薄いブルーの手術着に着替え、点滴のヘパリンは外して車椅子で看護師一人に付き添われ7階にある中央手術室へと向かった。手術室へ入るのはこの病院で「僧帽弁置換術」を受けて以来26年振りの事となるが、今回は意識を完全に保ったままの入室である。 7階入口に到着すると、執刀医や麻酔科医、手術室看護師ら数人が笑顔で出迎えてくれた。その横には既に手術を終えた患者が一人、ストレッチャーに乗せられて病棟へと戻る所であった。ドアが開き中へと入って行く。 物々し医療器材があちこちに見受けられたが、そこから更に部屋が幾つかに別れており、私はその中の第9手術室へと運ばれた。約15畳ほどあるかと思われる 空間の丁度真ん中辺りに小さな手術台があり、その上から手術用の照明器具である「無影灯」が満月の様に白く輝いていた。 その周りを囲うように立ち並ぶ医療器材の数々はどれも見覚えのあるものばかりだったが、人工心肺だけは見当たらなった。車椅子からその小さく狭い手術台へと移り、仰向けになった。顔が動かぬ様に頭の部分が枕で固定され目隠しをされた後、口の部分だけが大きく開いた布らしき物が顔に被せられた。 バイタルチェックの準備も整い、執刀医や第一助手が優しく声を掛けて来る。 「麻酔を数本打ちますからね~、ちょっと痛いけど御免なさいね…」 「直ぐ傍にスタッフがいますから何かあれば合図して下さいね」 「メリメリ、ミシミシ…」「はーい、一歩抜けました」それは想像していたより遥かに容易く抜けてくれたようで安心したのと、ワーファリンの影響でかなり出血するのではと不安が募るばかりであったが、そんな不安も取り越し苦労に終わってくれた。 続けざまに、2本3本とトラブルもなく予想時間の2時間を大幅に短縮して抜歯手術は終わった。 「麻酔が切れるとかなり痛みますよね…」私はその後の事が気になっていたので訊いてみた。 第一助手が抜いた歯を3本小さなケースに入れて渡しながら言った。 「48時間が痛みのピークです、個人差はありますが痛み止めもありますから…」 私は抜けた自分の歯を見詰めながら、小さく頷くと車椅子に移り「これからが大変かな?」と独り言を呟いた。部屋の外に出ると病棟の看護師が笑顔で待っていた。 「随分早く終わりましたね~、出血も殆どなくて良かったですね~」 「想像していたより簡単に終わってくれたみたいで安心したよー」と私も笑顔で言葉を返した。ベッドに戻り暫くすると抜いた部分にジワジワと鈍痛が走り出した。様子を伺いに来た看護師にすかさず痛み止めをお願いした。処方された痛み止めは私が予想していたロキソニン等と違って「カロナール」と言う薬だった。 それを2錠服用し痛みの去るのを待ったが、時間が経っても一向に痛みは治まらない。 薬が効かない事を告げると次は「ペンタジン」の点滴が始まった。抗生剤の「ヒクシリン」も始まっていたので、点滴瓶を2本ぶら下げる事となった。然し、そのペンタジンも効果がなく痛みは治まってくれない。 その内に今まで出血していなかった傷口から夥しい出血が始まる。殆どの患者が寝静まっている病棟で、私だけが痛みと出血に悩まされ続けていた。止血はガー ゼを傷口に押し当てるしか方法がない。然し、痛みでガーゼをまともに噛む事すら出来ず、うがいとガーゼ交換でまる二日眠る事が出来なかった。 ガーゼが役に立たない事から、抜いた部分を型どって透明の止血プレートを作り、それを被せて漸く出血は収まって行ったが、出血の原因は痛みにより血圧が急激に上昇した為であった。痛み止めの定番と言えば、ロキソニンやボルタレン座薬であるが、腎機能が低下している私にはそれを使えない為、それに代わる痛み 止めを何種類か試したが結局どれも役立たず、最後の手段として「モルヒネ」の投与となった。 まさか此処で「モルヒネ」のお世話になるとは想像だにしていなかったが、さすが「麻薬」だけの事はあり、その効き目は抜群で、それまでの痛みが嘘の様に跡 形もなく消えて行った。然し、内科の担当医はそのモルヒネを使うにあたり、かなり慎重で中々首を縦に振ってはくれなかった。 痛みが去ってしまうと抜歯後の回復も早く、体調を見て抜糸した後に退院となる筈だったが、結局抜糸は次回外来時に行う事となり、東京に二度目の大雪が降り 始めた14日の午前中に退院となった。心不全から開放され、息切れもなく足取り軽くいつもの道を闊歩し、途中好きな「神田川」で記念撮影をして普通に歩く 事の出来る有り難さを満喫しながらそぼ降る雪の中を家路へと急いだ。 結局の所、今年も例年通りの入院で始まってしまったが、それでも生きている喜びを噛み締めて、どんな状況下にあっても希望と笑顔は絶やさず前向きで歩んで 行きたいと思った。多くの善意ある人たちに背中を押されている自分に気付けば、やはり自分も誰かの背中を押したりさすったりして生きているんだとつくづく思う。
2014.02.24
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先ずは新年早々、喪中の記事でスタートする事になってしまい申し訳なく思います。昨年12月15日、故郷の藤枝にいる伯母の「ふさ枝」が他界致しました。訃報が従姉から届いたのは年の瀬も押し迫る暮れ近くの事でした。 従姉の話しでは、風邪をこじらせ暫く床に臥せっていたようですが、苦しむ事なく眠るように逝ったとの事。働き者で病気一つした事のない丈夫だった伯母の思い出は尽きませんが、わたしの事を自分の子どもたちと区別する事なく我が子のように可愛がってくれた事。 小学生になって初めての母親参観に来てくれたのも伯母でした。綺麗な着物を着飾って後ろの方からわたしに微笑み掛けてくれた姿が今でも鮮明に心に焼きつい ております。わたしの大好物だったカレーライスの時は必ず家に招いてくれ、お腹がはち切れるほど食べさせてくれました。 家に米がなくひもじい思いをしている時などは、それを察して袋に3合の米を入れ持たせてくれました。父の葬式の時もわたしの傍らに寄り添い、子どもの時と 同じように優しい言葉を掛け頭を撫でてくれたのです。わたしはもう18歳だと言うのに伯母からみればわたしはやはり我が子同然だったのかも知れません。 伯母の存在のお陰で母の居ない寂しさを紛らわす事が出来たのだと思います。大好きだった人たちが次々とこの世を去って行く、それはとても悲しい事ではありますが、大切な思い出となって心の中に生き続けてくれる事でしょう。 皆さん、大好きな人はいますか?いますよね…。いつまでも大切にしてあげて下さいね。慌ただし中で自分が喪中であった事をすっかり忘れてしまい連絡が遅れてしまった事をこの場を借りてお詫び致します。
2014.01.04
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白いカモメを夕陽が染める 日暮れにたたずむ影法師 此処に来ればあなたに逢える そんな気がして見つめた神田川 気まぐれな風が川面を滑り 想い出しぶきが頬濡らす 酔った振りしてあなたの肩に もたれて眠れば夢の川 カモメに託した想いは何処 届かぬ夢と知りながら 背伸びして見た神田川 あなたの背中を流れ行く 揺れる想いが川面を渡り 流れの早さが時を射す 飛び交うカモメはあなたの名前 せめてもう一度だけ逢えるなら ああ―神田川 んん―この身投げ打って
2013.12.17
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わたしは 呼び止めは しない 今 旅立つ 君を わたしは 悲しみは しない 君は もう 大人だから ただ ひとつだけ お願いがあるの この 夏の 思い出だけは 忘れずに 閉じておくれ わたしは 振り返りは しない 去りゆく 日々の 暮らしを わたしは 思い出の中で 君に あえるから ただ ひとつだけ お願いがあるの この 夏の 思い出だけは 忘れずに 閉じておくれ 作詞/神戸俊樹 作曲/三好清史 歌・演奏/センチメンタル・シティ・ボーイズ(神戸俊樹&三好清史) ※ブルース調のスローバラードです。
2013.11.28
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大衆に最も愛され続けた昭和の時代を代表する歌手の一人、島倉千代子さん(75)が、先日の8日に肝臓がんのため死去した。 島倉千代子さんについてここで多くを語る必要もないだろうが、実はわたし自身が島倉さんに個人的思い入れがある。それはわたしの母の妹である倭江(まさえ)叔母さんの顔が島倉さんによく似ていたからである。 島倉さんを初めて見たのは8歳の頃だったと記憶している。その頃のテレビ番組の中でも、音楽番組として最も人気の高かった『ロッテ歌のアルバム』に、島倉千代子さんと守屋浩さんがデュエットで出演し、「星空に両手を」という曲を歌っていた。 昭和の名司会者である玉置浩さんが、番組の冒頭にロッテのCMソングである「小さな瞳」がBGMとして流れる中で「お口の恋人、ロッテ提供…」そして流行 語にもなった「1週間のご無沙汰でした。玉置でございます」で番組は始まるのだが、そのナレーションは当時の子どもたちの間でも人気で物真似をする者が続 出していた。 島倉さんと守屋浩のデュエットは、島倉さん自身が強く希望した為に実現したのであるが、当時、甘い歌声の男性人気歌手として多くの女性ファンを魅了した彼を島倉さんが口説き落として実現した「夢のデュエット」として話題をさらっていた。 その番組で島倉さんを見た時に、「誰かに似ているなぁ…?」と思い、浮かんで来たのが倭江叔母さんであった。母ではなく叔母を連想したのは、自分の中に母 の存在が殆どなかったからだと思う。写真でしか母の顔は知らなかったし、いつもわたしを可愛がってくれたのが倭江叔母さんだったから…。 その叔母は長い間、精神病院に入院していたが、病院を脱走して行方不明になったままである。生きているのか死んでしまったかそれすら分からない。 だから、島倉さんをテレビで見る度に今でもその叔母の顔を思い出す。島倉さんの言うとおり、人生いろいろであるが、わたしの周りは余りにも色々あり過ぎて「人生いろはにほへと」である。 「俊樹だよ、おっ母さん」と言って、母を東京に招きたかった…。 慎んで島倉千代子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
2013.11.13
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わたしは入院する毎に病院で出された食事をカメラに収めておく。記念撮影などと悠長な事は言ってられないが、朝、昼、夕と毎日のメニューを撮影し、退院してからの食事管理に役立てようと思っているからだ。 心不全で入院した場合の治療方法はほぼ決まっているものの、担当医によってその治療方針は若干異なって来る。わたしのように年に何度も入院を繰り返す患者の場合は、前回入院時のカルテを参考にして更に一歩踏み込んだ治療方法を模索する。 基本的には点滴を打ちながらの絶食がお決まりコースで、心臓への負担を出来るだけ軽くする為の処置で、これに加えてラシックス(利尿剤)を投与。これは増 え過ぎた体重を減らし身体の浮腫を取る為であるが、余り大量に使うと腎臓に負担を掛けてしまうので、血液検査をしながら慎重に行われる。 そして最も重要なポイントが食事療法。心臓食の場合、一日の摂取カロリーは1600~1800迄とし、塩分は一日6g、それに加えて水分もかなり制限があり、入院初日~一週間は一日500ミリリットルと非常に厳しいものになる。 絶対安静と絶食、そして食事療法によって一週間も経てば体重は4~5キロ落ち、心臓もかなり楽になり、呼吸もスムーズに出来るようになるから身体の状態によっては酸素吸入も外せるようになる。 絶食をする理由は心臓への負荷を減らす為であるが、食べ物が胃に入ると身体の血液が一気に胃に集中しその為に心臓が普段の倍近い働きをしなくてはならな い。食事=心臓への負担が増える…と言う事になる訳で、更に胃が膨張すると心臓を圧迫して呼吸困難になってしまうため、食事の量も出来る限り抑えなくては ならない。 脳梗塞で右半身が完全麻痺し、救急搬送された1月、その時の食事は「心臓食1800キロカロリー」であった。心不全を併発している訳ではなかったので、脳 梗塞の状態(これと言った治療はなかった)が、安定した事を確認(後遺症は全くなし)し、10日ほどで退院出来たのだが、その一ヶ月後に心不全で救急搬 送。 心不全を起こした原因が前回入院時の担当医が新たな心不全の薬を経過もそこそこに投与した為、その副作用によるものであった。その問題の薬(メインテー ト)を中止して、脳梗塞以前に服用していた薬に一旦戻し、いつもの絶食と食事療法で体重を戻した後に約一ヶ月の入院期間を経て退院となったが、食事内容に 若干の変化があった。前回1800キロカロリーだったものが、1600へと僅かに減量されていた。 そしてその約2ヶ月後の4月末にまたもや心不全で救急搬送となる。3回目の入院で大きく変化したのが食事内容であった。食事が出された時、何かの間違いではないかと思い、看護師に思わず詰め寄ってしまったのだが、それは担当医の指示によるものであった。 腎不全食…と書かれた紙を眼にし、ため息を付いてしまった。心臓食でもかなり厳しい制限があるにも関わらず、今度は更にその上を行く腎臓食である。確かに 腎臓も健康な人と比べればかなり機能も落ちて弱って来てはいるが、とうとう食事にまでそれが及んでしまったかとがっくり肩を落とす羽目になってしまった。 腎臓食は12歳の時に入院した藤枝の志太病院小児科病棟以来であった。摂取カロリー1500、最も厄介なのは蛋白質の厳しい制限である。一日40グラムと言われて、それ以来買い物する度にタンパク質の含有量を気にしている。 独身男性が自宅で病院食とほぼ同じメニューを作るのは極めて難しい。撮影した病院食を参考にしながら出来るだけそれに近い物をと思っているが、中々思い通りには行かない。つい「腎不全定食がコンビニで売ってないかな(宅配は高い)…」と愚痴を零したくなるのである。 退院する時に冗談で「病院食の宅配とかやってくれると助かるのにねぇ…」と、栄養士に話を振ってみたが、「採算が合わないよね」とあっけない幕切れだった。 さて、今回、体重増加による心不全の症状が出た為、ブログを暫く休止し、皆さ様方には大変ご心配をお掛けし申し訳なく思っておりますが、入院時の環境を自 宅で再現出来る筈もなく、無謀とも思える自力療法で増えてしまった体重を約5キロ落とし短期間でブログ復活となった訳でありますが、医師の指示に逆らうよ うなわたしの真似は皆さん絶対にしないで下さい。 自力で回復出来たその背景には長年の闘病生活の中で培って来た、これは主治医にも分からない病気である本人にしか理解出来ない闘病マニュアルがあるからで あり、そのノウハウは先進医療や優れた薬剤をも凌ぐ生きる為のバイブルとも言えますが、難点は自分にしか通用しないと言う事です。が、然し、そのエネル ギーの源は、人との触れ合いの中で育まれ、成長して行く事だろうと思います。 所詮、人間は一人では生きられない、ならばお互いに助け合って笑顔を絶やさず前向きに明日を信じて歩いて行こうではありませんか。
2013.11.02
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国民的キャラクターとして子どもから大人まで幅広いファン層に絶大な人気を誇った「アンパンマン」の生みの親である「やなせたかし(本名:柳瀬嵩 94歳)」さんが、先日の13日に心不全のため亡くなった。 心不全の症状が出ていた為ブログも暫く休止していたのだが、やなせたかしさんの死因が心不全と言う事であり心なしか穏やかではなかったが、94歳と言う年齢を考えれば大往生ではなかったかと思う。 日本漫画家協会の理事長を長く努め、漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人と多くの肩書きを持つやなせさんと初めて出会ったのはわたしが16歳の時だった。 当時、みつはしちかこさんの「小さな恋のものがたり(チッチとサリー)詩画集」が女子中高生の間でブームとなっており、静岡の書店でも飛ぶように売れてい たと記憶している。この頃、わたしはまだ詩を書くと言うまでには至っていなかったが、手紙を書くのが一つの趣味となっていたため、何人かの相手と「文通」 をしていた。 気に入った女性相手にはやはり気の利いた言葉を綴りたいと思っていたので、そのヒントを得る為に何冊かの本に目を通していた。そんな中で一際目立っていたのがサンリオから出版されていた『詩とメルヘン』であった。 『詩とメルヘン』はやなせたかしさんが編集を担当した文芸雑誌で、一般人が投稿した詩やメルヘンにイラストレーターたちが挿絵をつけるという画期的な雑誌であり人気を博していた。わたしも何冊か購入し文通の手助けとしてお世話になっている。 やなせたかしさんは上記の肩書き以外にも多彩な経歴があり、作詞・作曲も手掛け多分野で活躍しその才能を発揮している。作詞では『手のひらを太陽に』が代 表作品である事は誰もが知るところであるが、「アンパンマン」以前には現在のようにそれほど注目を浴びるには至らなかった。 アンパンマンが初めて登場したのは1969年であるが、その頃のアンパンマンは普通の人間と同じ姿であり、現在のそれとは大きく異なっていた。子どもだっ たわたしの記憶に全く残っていないのは、大人向けの絵本「こどもの絵本」に掲載されていたからだと思うが、当時、親だった人たちの記憶には残っているかも 知れない。 アンパンマンがどのような経緯を辿って現在の人気キャラクターになったのか、アンパンマン生誕44年と言う長い過去を紐解いてみるのも良いかも知れないが、忘れてならないのは「空腹の人にパンを届ける」と言う骨子が誕生から現在まで変わる事なく貫かれている事であろう。 やなせさん自身が語っているように「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子供にパンを分け与えて助ける人だろう、と。そんなヒーローをつくろうと思った」は、やなせさんの戦争体験が背景になっているものと思われる。 食料の乏しい戦地での過酷な体験により、人間にとって最も辛いのは「飢え」であると言い切るやなせさんの言葉は「命の継続」が如何に大切かを教えてくれているのではなだろうか。 遅咲きのヒーロー「アンパンマン」はこれからもわたしたちに愛と勇気を教えてくれるに違いない。 謹んでやなせたかしさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)。
2013.10.19
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有名人の親を持つその家族は時と場合に寄ってかなり神経をすり減らす。成功している親の足を引っ張らぬよう毎日の気配りが欠かせない。それは親と子の立場 が逆転しても同じ事であるが、一般の社会と違い、芸能界のようなスキャンダラスに充ちた世界に身を置くとそれは更に顕著となって現れる。 先日、タレントみのもんたさんの次男で日本テレビ社員の御法川雄斗(みのりかわゆうと)容疑者(31)が、不正入手したキャッシュカードを使って現金を引き出そうとしたとして、窃盗未遂の疑いで逮捕された。 事実経緯の詳細が現時点で明らかになっていない事から、マスコミ関係者が余り騒ぎ立ててしまうと事の真相が表面に出ず藪の中に隠れてしまう可能性も孕んでいる。 彼が日本テレビのエリート社員と言う立場から見ると、罪状が窃盗未遂と言う部分も大いに気になるところであり、窃盗をするほど金銭に困っているとはとても思えない。 家庭も仕事も飛び抜けて恵まれた環境にあり、順風満帆の人生を歩んでいた御法川容疑者…。そこに降って沸いたような今回の窃盗未遂。この事件の背景にはわたしたち一般人には到底理解の及ばない何かが隠れているような気がしてならない。 彼にしてみれば、父「みのもんた」の存在は計り知れないほど大きかったのだろう。親の七光りを上手く利用して狡猾に振舞う政治家たちほどの神経の図太さを彼は持ち合わせていなかった。常に比較される兄の存在も彼には相当のプレッシャーと感じ取っていたのかも知れない。 自分の方を向いてくれない親の関心を引くために、子が意図的に親を困らせる事がある。まるで駄々っ子のように親の愛を独り占めしたくなる…。大人になりきれない自立心が欠如した心のままで育ってしまった結果ではないだろうか。
2013.09.17
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大衆文藝ムジカ創刊準備号が刊行されて2ヶ月余りが経過した。出版当初の不安は尽きる事がなく、反応の鈍さに意気消沈する日々もあった。 文藝誌として知名度や前評判がある訳でもなく、出版物のおよそ70%を占めるトーハンや日販といった出版取次の流通ルートとは全く無縁の状態であり、ムジカをどのように拡散し読者を如何に獲得するのかと言った大きな課題を残したままの船出であった。 ムジカ出版元の「丘のうえ工房ムジカ」は、発起人で詩人・歌人である「葛原りょう」氏の一言から始まった。 既成概念に囚われない全く新しいスタイルの文藝雑誌を作りたい…その熱い想いの背景には「詩の回復の試み、自らの役割」と言う彼の魂の叫びがあった。 自分たちで出版社を立ち上げ、旧態依然とした日本の出版界、そして文学界に新風を吹き込み、時代の流れに飲み込まれるが如くに読者離れ、そして活字離れが加速する現代に歯止めを掛ける「表現者」としての大いなる役目を担うものとする…。 この呼び掛けに共感し賛同した者数十名、この中には某著名人も数人含まれており、ムジカに寄せられる期待の大きさを裏付けるものでもあった。 然しながら具体的に事が動き始めると、予算の問題や印刷会社の選定に予想を上回る困難が待ち構えていたのである。 ムジカ執行部内での意見の対立や、運営方針の相違などでムジカに背を向けてしまった者もいたが、荒波の中で揉まれながらも準備を整え帆を掲げ出航したムジカであった。 葛原氏から「平積み」の知らせが届いたのは8月20日だった。日本国内では大手有名書店のベスト5に入る「紀伊國屋書店」であり、その知らせに驚いたのは言うまでもない。 平積み経験もあり、その意味を熟知しているわたしだからこそ言える事なのだが、過去に何度か話したように、長引く出版不況に追い打ちを掛けているのは、出 版界そのものでもある。デジタル製品の台頭により格安の電子書籍が流通し始めている事も大きく影響してはいるが、書店の激減は留まることを知らず年々撤退 を余儀なくされており、おそらく現在に於いての国内書店数は2万軒を下回っているのではないかと思われる。 それとは全く反比例しているのが、年間の書籍出版数なのだ。わたしが詩集を出版した8年前で7万冊と言われていたが、2012年には8万冊を超えているから驚きである。出版されたその8万冊にも及ぶ膨大な書籍が全て書店に並ぶ筈もない。 書店に足を運べば一目瞭然であるが、並んでいるのはどれもこれも某大手出版社の本本本…。当然ながら書店は本の売上で経営が成り立っている訳で、そこに全く未知の無名の本が並ぶスペースなど皆無である。 今回のムジカ創刊準備号の平積みに驚くのは当然の事であるが、書籍の扱いをどうするかは書店のオーナーが決める事であり、そこにわたしたち著者や出版関係者が立ち入る事は出来ない。 ムジカ創刊準備号はポップ広告まで付いており、書店の関係者も「これは売れる」と見込んで(勿論内容重視)平積みとしたのであろう。 周りには向田邦子、立花隆、山田太一、澁澤龍彦と言った有名作家陣の本も置いてある。ムジカの直ぐ横には芸術総合誌で有名な「ユリイカ」の姿も見える。 現時点で平積みされている書店は以下の通り。 紀伊國屋書店新宿本店2階、紀伊國屋書店浦和パルコ店5階。 因みにわたしの詩集「天国の地図」もムジカ(新宿本店)と同じ階に2冊棚差しされておりました。 ※大衆文藝ムジカ新聞掲載については、日を改めて記事にさせて頂きます。 ムジカ編集部では原稿を随時募集しております。机の中で温めている原稿がありましたら是非ムジカ公式ホームページまでお送り下さい。貴方の鮮烈なる作品をお待ちしております。 大衆文藝ムジカ公式ホームページ
2013.09.07
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22日正午、日米通算4,000本安打を達成した「イチロー」の偉業を伝えるニュースで沸き返っていたその矢先に飛び込んで来た一報は俄かに信じ難い内容のものだった。 「今入って来たニュースです…歌手で宇多田ヒカルさんの母親の藤圭子さんが西新宿のマンション敷地内で倒れているのが見つかり、病院へ搬送されましたが、間もなく死亡しました。関係者によれば、飛び降り自殺を図ったものと思われます。」 このニュースを聞いた時、わたしは8年前の記憶が生々しく蘇って来たのである。うつ病を克服し、社会復帰を果たしたばかりのわたしは西新宿にある某リース会社に勤めていた。 昼食を摂る為に外に出てみると、青梅街道沿いにTBS、朝日、日テレ等の報道車が一直線に並んでいる光景が眼に飛び込んで来た。ただ事ではない騒然とした気配に、ビルの窓から身を乗り出して様子を伺っている人も多く見受けられた。 会社に戻りヤフーで調べてみると「ポール牧自宅マンションから飛び降り自殺」の文字が踊っていた。当時のお笑い番組では高視聴率を維持していた「エンタの 神様」にゲスト出演し、「指パッチン」を披露していたばかりだったが、仕事が減り始めた事で悩みうつ状態になりその果ての結果だった。 人に笑いを提供し元気を与えてくれる「お笑い芸人」その本人が仕事で追い詰められ自ら命を絶つと言う何ともやりきれないニュースであった。 そして奇しくも同じ場所、日時までもがポール牧さんの時と状況が酷似しており、偶然とは言え巷では同居していた30代男性との関係や他殺説まで飛び交い始めているようだ。 1969年に「新宿の女」でデビューし、18歳とは思えぬ「大人の女」の魅力と心の底から振り絞るようなハスキーボイスが印象的で、まさに彼女の歌声は「怨歌」だと音楽関係者を言わしめた昭和を代表する歌手の一人であった。 華やかな芸能界にあって、どこか影の部分も併せ持つ所なども彼女の人気を支えていた。70年に発表した「圭子の夢は夜ひらく」が空前の大ヒットとなり、一躍トップスターに踊り出る事となったが、それ以降も話題の絶えない歌手人生を送っていた。 わたしは「自殺」と言う言葉に人一倍敏感であるが、それはわたしの母が福島の地で服毒自殺をしている影響が大きい。そしてわたし自身も過去に一度だけ自殺未遂を経験している。 2003年の丁度今頃の季節だったと記憶している。うつ病になりかけていたわたしは、何日も眠れぬ夜の中でもがき苦しんでいた。睡眠障害はうつ病の最も典 型的な症状であるが、当時のわたしはそれを病気と認めたくなかった。つまり自分は「うつ」ではないと決め込んでいたのである。 それは病気の悪化を招くばかりで、己との葛藤の日々は家族や周囲の人たちも巻き込み、押し寄せるストレスの波に呑み込まれて行くばかりであった。 家族全員が静かに寝込んだ深夜、処方されていた抗うつ剤と睡眠剤を水ではなくウイスキーで飲んでしまったのである。しかもストレートでコップ一杯分を一気飲みであった。 アルコールと一緒に睡眠薬を飲む事は非常に危険を伴う事を承知していたが、眠れぬ辛さがそれを上回っており、耐え切れずにアルコールに手を掛けてしまったのである。 芸能人仲間の間での藤圭子さんの評判は、「忍耐強い」と言う事であったが、それは日本人特有の性質で「美徳」とさえ捉えられている。然し、その裏を返せば「ストレスを内に秘める」体質と言うことになる。 日本人の自殺者が年間3万人にも及ぶのは、この「内に溜め込むストレス」が要因の一つともなっているのではないだろうか。 健康体であるならば、スポーツで汗をかいてみたり、好きな趣味に没頭する時間を持てればそれがストレスの捌け口となり、健康的な日常生活を送る事が出来るだろう。 人は誰しも光と影の部分があり、普段は表向きの昼の顔、然しもう一つは人に知られたくない夜の顔。芸能界と言う世間一般とはかけ離れた別世界では、その二つの顔が顕著に現れ、時には自分自身を破滅の道に追い込む危険性をも孕んでいるのかも知れない。 謹んで藤圭子さんのご冥福をお祈り申し上げます(合掌)。
2013.08.27
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[☆゚+.暑中お見舞申し上げます゚+.☆]´ノ∀`)ゲンキ~♪ 連日、厳しい猛暑が続いております。巷では夏休みモードに入り、避暑地でのんびり過ごしておられる方もいるのではないでしょうか。 大衆文藝ムジカ創刊号の原稿締め切りが迫っているため、寄稿する作品が中々決まらず選定に四苦八苦しております。 既に紹介済みの「夏休み」ですが、動画の部分を編集し直しましたので、お楽しみ頂ければと思います。 こちらから動画が再生出来ない方は↓をクリックしてみて下さいませ。 夏休み(吉田拓郎・カバー)ギター/ヴォーカル:神戸俊樹ギター/三好清史パーカッション/神戸俊樹
2013.08.14
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港に降り立つあなたの影を 追ってここまでやって来た 寄り添うカモメは恋慕の証 あなた気付いてくれますか 沈む夕陽にさよなら告げて ささやく灯は恋しぐれ 波止場の風に吹かれて眠る 恋しいあなたは夢の中 独りよがりの恋をして 想い出グラスにあなたを注ぐ 独り芝居の恋ならば いっそこの手で終わりにしたい
2013.08.08
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参議院選挙2013夏の陣は、大方の予想通り自民党の圧勝で幕を閉じたが、肝心の投票率は相変わらず低く、戦後の選挙では3番目と言う有り難くない結果だった。 国民の政治離れが加速する要因の一つが「安定しない政治力」だ。その背景に見えてくるのは、各政治家たちの統治能力の低さであるが、明治以降に始まった近代政治の中では現在が最も顕著である。 ライバルが群雄割拠し追い付け追い越せと各人が切磋琢磨し、政治力を競い合った時代は遥か彼方に消え失せ、国民に失望感を植え付けて来たその責任は非常に重い。 それでも、国民の半数が何かしらの期待を持って投票所へと足を運ぶのである。この国がより良くなって欲しいからこそ重き一票を投じるのだ。 薄れゆく政治への関心を呼び戻す為、「ネット選挙」と言う新しい試みもスタートした。立候補者や政党もツイッターやフェイスブック等を利用して自身や党の アピールに余念がない様子を見ていると、政治が多少なりとも浸透し始めているのではと、新たな希望を見出す事も出来た点は評価したい。 自民・公明の連立与党が過半数を大きく上回った事で、これまで長きに渡って続いていた「ねじれ国会」に終止符を打つ事になった訳であるが、ねじれているのは国会ばかりではなく、政治家たちの頭の中も相当ねじれており、わたしとしてはそちらの方が余ほど心配ではある。 都議選の時と同じく大惨敗に終わった民主党は、その責任を取った積りなのか?細野幹事長が辞任すると言うお家騒動が勃発。それに追い打ちを掛けているのが菅元首相の応援問題で、勢いを全く失った政党とはこうも容易く崩れ去って行くのかと思わせるような混乱ぶりである。 調子の良い時は何をやっても上手く行くのが人生の常であるが、調子の悪い絶不調の時こそ手綱を引き締めて理路整然と振舞うのが賢人と言うものである。 それとは対照的に大勝の美酒に酔っている暇などないのが、与党たる自民・公明である。金魚の糞さながらに自民に寄り添う公明党だが、その役割は大きく重要である。 自民党の暴走を抑えるのが公明党である訳で、憲法改正路線にひた走り、自衛隊を「国防軍」と位置付けし「防衛費」と称して莫大な税金を投入、安倍総理ならやりかねない事柄だけに、慎重に見守って行く必要があるだろう。 余程のマイナス面が生じない限り、おそらく安倍政権は長期に渡って国の運営を預かる事になるだろうが然し、震災・原発事故発生から2年以上が経った今でも数多くの人びとが事故の余波に苦しみ続けている現状がある。 アベノミクスが話題になり、その効果などを高く評価している声も聞こえて来るが、弱者を救えないアベノミクスであるならば、国民はきっちりと「ノー」を安倍総理の喉元に突き付けるだろう。 自民党の持つ「毒」が徐々に拡がらないよう、わたしたち国民が監視官としての役割を果たして行くべきであると思う。
2013.07.26
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ジャンルの壁を超えて、あらゆる分野のアーティストたちが一堂に集結。日本文学に新たな一ページが今、刻まれようとしている。 構想10年、準備期間4年を経て漸く皆さまの眼に触れる事となった「大衆文藝雑誌 ムジカ 創刊準備号」である。 ムジカの主宰者であり代表の「葛原りょう」氏の言葉を借りるとするならば、スタートから刊行に至るまで4年と言う長い歳月が流れてしまった事に対し、ムジカ参加者へのお詫びの念が編集後記に連ねてある。 ムジカの船出は順風満帆とは程遠く、編集メンバー内での意見の食い違いや対立があった事も伺わせており、嵐の中での出航は苦難の連続、刊行日を公言するも その約束は果たされず、苦悩する葛原りょうの痛々しいまでの姿をわたしは見て来たが、先日送られて来た2冊の雑誌を見て「待った甲斐があった」と心の中で 叫ばずに居られなかった。 そして早速5冊の追加注文を彼にメールで送り労いの言葉を掛けた。書籍作りに関して言えば彼は素人そのものである。わたしは長い期間、印刷会社やデザイン事務所などでポスター、チラシ、書籍といった印刷物を制作して来ており、書籍作りの難しさは十分心得ていた。 2年ほど前だったか、葛原君からムジカの刊行が遅れる旨のメールが届き、誠に申し訳ないとひたすら頭を下げる彼に対し、「妥協せず納得の出来る物を創って欲しい」とエールを贈ったものである。 葛原君自らが主催する絶叫朗読バンド「ムジカマジカ」での活動や、それに加えて持病の悪化などもあり健康を害しながらも文藝雑誌ムジカへの情熱は衰えるどころか、益々それは執念の焔となって彼の中で燃え続けていたのである。 ムジカ発刊の動機については編集後記に葛原りょうの言葉として詳しく述べられているが、その一部を抜粋すると、「文芸誌と名乗る書店に座を占める雑誌の読者離れに無関心ではいられず、危機感を抱いた」と言う事である。 表現者である彼としては、このような日本に於ける文学のある意味での衰退を野放しにしておく事が出来ないと言う責任感から「ムジカ」は誕生したのであろう。 ムジカには表紙画像をご覧頂くと分かるように、参加メンバーの名前が表記してある。その中にはベストセラー小説「オルゴール」の著者である「中園直樹」君 の名前もあるが、彼はムジカの編集メンバーでもあり、葛原りょう君の良きライバル・親友でもある(ライバルかどうかは不明だが)。 わたしの名前「神戸俊樹」の横に「勇樹」とあるのにお気づきだろうか?そう、彼はわたしの息子であるが、彼のプロフィールを参照すると、「一歳から父の存 在を知らぬまま、長い年月を過ごす。様々な経験を積んだ後、2008年に父親を探す活動を始め、同年8月に再会を果たす。父親が詩人である事をきっかけに 自ら作品を残して行く事を決意…」。 息子もまた詩を書くなどと思ってもおらず、正直驚いているが「蛙の子は蛙」と言ったところだろうか。彼の作品がわたしと決定的に違う所は、彼の殆どの作品は写真と詩の融合…つまり写真詩と言う事になる。 わたしは「ムジカ」に詩を4篇寄稿している。「石1」「石2」「果実」「折れたクレヨン」何れも未発表の作品である。 大衆文藝ムジカは全国の書店で取り寄せ注文が出来る他、直接「大衆文藝ムジカ公式ホームページ」宛に注文する事も可能です。又はわたしに一報頂ければ、わ たしが責任を持って取り扱いさせて頂きます。本書は著者特典として5部毎にお求めの場合は、定価4千円(1冊800円税込)のところを3千2百円にてお求 め頂けます。 是非、この機会にジャンルを超えた新しい文藝雑誌の感動を貴方も共有してみませんか。大衆文藝ムジカは季刊(年4回発行)を目指しながら、まずは編集部体制の確立を急務とし、年2回の発行を確実に実行出来るよう活動して参ります。 尚、ムジカでは皆さまからの作品を随時募集中ですので、机の中で温めている原稿がありましたら是非、ムジカ宛にお送り下さい。 詳しい募集要項はまた別の日にページを割いて皆さまにお知らせしたいと思っております。今後とも「ムジカ」を温かく見守って下さる事を、この場を借りてお願い申し上げます。 ※丘のうえ工房ムジカ ※大衆文藝ムジカ公式ホームページ ISBN978-4-9905964-0-8 C0092 ¥762E 丘のうえ工房ムジカ 定価800円(本体762円+税)
2013.07.15
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ちぎれるほどに右手を振って ありったけの笑顔を あなたに見せた ありがとう さようなら そう つぶやきながら 窓越しに揺れるあなたは陽炎 また逢えるよね 逢ってくれるよね 心の中に不安が募る 二人の距離が 列車とともに遠ざかる 一緒に連れてって そう言えないわたしに 涙の線路が霞んで見えた 人影まばらのプラットホーム 佇むわたしは ひと恋列車
2013.07.10
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山開きを目前に控えた富士山、世界文化遺産登録の勢いも相まって、四方の山を見下ろしに各地から多くの登山客が押し寄せる気配である。 今年の山開きは世界遺産と言う、とてつもなく大きなお土産付きであり、普段よりも数倍バージョンアップしているだけに、富士山に祀られている女神である「木乃花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)」もたいそうお喜びになっている事であろう。 先日、除外勧告を受けていた「三保の松原」であるが、ユネスコの委員国から登録を訴える声が相次ぎ、急遽この三保の松原も富士山と対である事が認められ、世界遺産に含まれる事が決定した。 富士山の眺望を楽しむ時、あらゆる場所・角度によってはその富士山の醸し出す雄大な美しさは千変万化である。富士山の楽しみ方は個々により異なって来るし、単体で見る方が良いと言う人も中にはいるだろう。 見るだけでは飽き足らずその魅力に取り憑かれた登山家も数多くいるし、富士山の捉え方は様々に変化し一度足りとも同じ景色を見せない所も富士山に限らず、自然の成せる技とでも言えようか…。 わたしの郷里である藤枝市にも「富士見平」と呼ばれる場所があり、そこは永享4年(1432年)、室町幕府の将軍・足利義教が富士山を見る為に大勢の家来を従え、駿河に下ったおりに駿府に入る前日、鬼岩寺に宿を取った。 その時に裏山(蓮華寺山)に登り高草山(藤枝で一番高い山)越しに富士山を眺め、和歌を詠んだと言われている。それ以後その場所が「富士見平」と呼ばれるようになったと言われている。 幼少期を藤枝で育ったわたしは、勿論この富士見平に何度か足を運び、富士山の景色を堪能したものである。 15歳の時に養護学校を卒業した跡、高校には進学せず、清水市の「三保の松原」からバスで30分程度の所にある療養所件職業訓練の施設で約1年半に渡りお世話になった。早朝5時には起きて、施設から徒歩10分程度で久能海岸に着く為、毎朝日課に取り入れていた。 駿河湾を挟んで東の方角には、圧倒的な迫力さえ魅せる富士山の姿が半分寝ぼけ眼の瞳に飛び込んで来る。早朝の富士山を眺めて一日が始まり、そして駿河湾の沖合いでは桜えびの小型漁船が幾つも連なって波間を往来していた。 清水市に住んでいた訳だから、勿論「三保の松原」にも何度か足を運んでいるが、それは海水浴が目的で、富士山を眺める為のものではなかった。 わたしは幼少の頃から心臓が悪い為、山登りは出来ない。然し、自分の命がある限り一度で良いから自分の足で富士山に登ってみたい…それが今のわたしの夢で もある。それは到底叶わぬ事と理解はしていても、一度もチャレンジした訳ではないので行動する前に諦める事だけはしたくないと思っている。 我が故郷の山・富士山…それはわたしにとって心の世界遺産でもある。
2013.06.29
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昨年末に誕生した第2次安倍政権だが、発足後半年余り経っても依然として高い支持率を維持したまま推移して来ている。 大胆とも言うべき「アベノミクス」経済政策を旗印に掲げ、その効果は株価上昇、円高ストップと一見、日本の経済は持ち直して来たかに見える。 先に行われた都議選は、この勢いに乗った安倍内閣の追い風を受けて、自民、公明とも立候補者が全員当選、そしてなんと常に4,5番手に隠れていた共産党が大躍進し、民主党を跳ね除けて野党第1党に登り詰めると言う前代未聞?の選挙結果となった。 地方選の一つである都議選だが、規模から言えば国政選挙並である事からも、自民党は「準国政選挙」と位置付けをし、この都議選に全力を注いで来たものと思われる。 日本の中心(首都)である東京を抑える事は国を抑える事にも匹敵する訳で、この選挙が如何に重要なポストであるかは、おそらく自民以外のどの党も把握していたに違いない。 但し、今回に限った事ではないが、懸念されるのは投票率が半分にも満たないほど低いと言う事である。半分以上の都民がこの選挙に興味を示さなかった、或いは「諦念」を抱くと言う政治家にとって最も憂慮すべき状況は過去と比べてみても何ら変わっていないと言う事実である。 投票率が下がれば組織票が俄然その力を発揮する訳で、そこに東京都民の意志がどれだけ反映されているのか疑問すら生じて来る。 今回の選挙で辛酸を舐める結果となった民主党は、政権が自民党に移った時点で既に終わっていたとも言えるだろう。 どれほど、民衆に向かってアピールしようとも、過去に連ねて来た「嘘八百」を覆す事は出来ず、民主に向けられた不信感は改善の余地なしと見受けられる。 橋下・石原両氏が率いる維新については、共同代表である橋下氏の「慰安婦問題」が大きく影響し自滅した形となったが、それも当然の結果だろう。 約一ヶ月後に行われる「参議院選挙」の結果も、既に見えてしまったと言う、虚しさだけが残りそうな今年の選挙に、風とともに去る民主の断末魔だけが木霊している気がしてならない。
2013.06.26
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君と一緒に見た薔薇 仄かに香るその中で 同じ夢見ていたあの日 二度と帰らない 二度と振り向かない 美しい季節とは裏腹に わたしの心に 濡れながら舞い散る 薔薇一輪
2013.06.15
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脳梗塞で救急搬送された時、愛猫である「タラ」の事を考える余裕など全くなかった。病室に移され病気の経過報告などを聞き、九死に一生を得た安堵感で緊張の連続だった表情に漸く笑みが戻った時、初めて家に残して来た「タラ」の事が脳裏を過った。 今回だけでなく、過去に数回入院の事態に陥った時、知り合いに預かって貰った事もあったが、そう何度も頼めるものではない事を薄々感じ取ってはいた。心不全になり掛けていた時、猫がいる事を理由に入院を自ら断った事もあった。 「猫と自分の身体をとどちらが大切ですか?」と、主治医からお叱りの言葉を頂いた事もあったが、「自分の身体が一番です」と即答する事は出来なかった。 わたしにとってみれば「タラ」は家族も同然である。それはおしなべて猫や犬や鳥などの動物と一緒に暮らしている者であれば納得頂ける筈である。 とは言うものの、脳梗塞と言う一刻一秒を争う緊急事態が発生した時は、理屈抜きで我が身の事が最優先される。二日三日家を留守にしたところで、インコなどと違い猫はそう簡単にくたばるものではないだろう。 猫と二人暮らしだった状況で、いざと言う時に頼れる者が近くに居てくれると心強いものである。幸いわたしには東洋大学に通う娘がいたので、落ち着いた頃に娘にメールをし、「タラ」の面倒を見てくれるよう依頼した。 たまたま娘が通う大学は都営三田線の白山にあったので、学校の帰りにわたしの住む西台(同じ沿線)に寄って餌と水とトイレの世話をして貰う事になった。最 初の数日はそれでよかったのであるが、娘は「タラ」を自分のアパートに連れて行く事を思い付き実行しようとしたのであるが、ペット用のバッグに「タラ」を 入れて運ぼうとした時、流石に住み慣れた家を出る事に不安を抱いた「タラ」が余りにも鳴いて訴えたため、娘はそれを断念し、途方に暮れながら「連れて行け ない…どうしよう」と母親に涙ながらに電話で訴えたそうである。 タラがわたしと住むようになったのはわたしが離婚した5年前の事。本来であればタラも前妻や子どもたちと一緒に新潟へ行く手筈だったのだが、どうしても猫を飼えない理由があったため、わたしが引き取る事になった次第である。 現在は元妻のもとでヌクヌクと何不自由なく愛情を惜しげもなく受けて幸せに暮らしているようだ。 然し、退院して自宅に戻ると、いる筈のタラがいない事を痛切に実感した。鳴き声を聞くことも出来ず、抱きしめて頬ずりする事ももう出来ないのである。僅か一匹の猫がいなくなっただけで寂寞とした思いに駆られ、それに慣れるまで相当時間が必要だったのは確かであった。 タラがいなくなったからと言って、もうペットの話題に触れないと言う訳ではない。約8年間のタラとの思い出は数多くあり、これからも折をみて記事にして行きたいと思う次第である。
2013.06.05
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あなたと眺めた神田川 春のそよ風に触れて 今日も静かに流れてる あなたと出逢った神田川 二人の想い出作りも ここからだったわね 橋のたもとに腰掛けて 手と手を重ね見つめ合う ファーストキスもここだった キラキラ光る神田川 あなたキラキラ星の川 空の果てから見つめてる わたし独り見つめる神田川 優しいあなたの神田川 さよならわたしの神田川
2013.05.22
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今年三度目の救急搬送。救急車を呼ぶ事にもう躊躇いはなかった。1月5日脳梗塞、2月5日心不全、そして4月28日またもや心不全。奇しくもこの日は25年前に僧帽弁置換術を施行した日でもあった。 GWのさ中でもあり、到着した三井記念病院の救急センターはいつもより運び込まれる患者が少なく閑散としていた。通常であれば2,3人の若い研修医が待ち受けている筈だったが、その研修医たちはは18時で早々に切り上げてしまったようだ。 急患の連絡を聞き駆け付けた当直の医師がわたしの顔を見るなり話掛けて来た。「あら、神戸さんお久しぶりね、わたしの事覚えてる?」「覚えてますよー、忘れる筈がないです」とお互いに笑顔で挨拶代わりの会話を交わした。 4年前になるだろうか…、やはり同じく救急外来に心不全で駆け込んだ時の担当医がこのY女医であった。いつものように左腕にラインを取りながら彼女は呟いた。 「研修医たちは?」看護師の一人が応える「18時で帰りましたよ」「あっそう…GWだからね」全て一人で対応しなければならない事に苛立ちを見せながら、右手首の動脈から採血を始める。 救急隊員から症状の報告を聞きつつ、手馴れた手付きで電子カルテの内容をチェックしていた。血液検査の結果が届くと、今の状態を詳しく話してくれた。 「ワーファリンが過剰に効きすぎて、いつ何処から出血してもおかしくないです…」この言葉の意味を瞬時にわたしは重く受け止めた。脳裏を過ぎったのは「脳 内出血」だった。 本来であれば前回と同様にバルーンを尿道に挿入するところであるが、管が尿道を傷付けて出血する可能性が高い事から今回は見合わせる事となったが、わたしとしてはその辛さを知っていたのでほっと胸をなで下ろした。 然し、今回このタイミングでの緊急入院も脳梗塞の時と同様に、何処か神懸かり的な部分を含んでいるような気がしてならない。つまり、担当医が言った「どこから出血してもおかしくない状態」と言うのは、脳内出血のリスクがかなり高まっていた事を示唆してるからだ。 19歳の時、静岡市立病院で弁形成術を受けたが、その時に不思議な話を聞いて驚いた事がある。わたしの父はその一年前に亡くなっていたのだが、わたしが手 術のため入院した時に、親戚の伯母の枕元に父が現れ、伯母にこう告げたと言う「俊樹が心臓の手術で入院しているから見舞いに行ってやってくれ…」。それは 一週間続いたと言う。 伯母は余りにもしつこいので父に向かってこう言った「あんまりしつこいと行ってやらないよ」。次の日から父の姿は見えなくなったと言う。 わたしのところには一度も現れる事はなかった父であるが、この広い空の何処かで今でも見守ってくれているような気がしてならない。 CCUに二日、循環器専門病棟に1日、そして今回は4年前にお世話になった17階の一般病棟へ。迎えてくれた看護師さんたち、循環器病棟でもそうであったが笑顔で話し掛けて来てくれた。 「神戸さん以前にも入院してますよね…」「はい、また戻って来ました」新人ナース以外は殆ど顔見知りなので会話もスムーズである。 さて、医療にある程度詳しい人であれば、この胸部レントゲン写真を見てその異常な心臓を容易く見抜く事が出来ると思う。右側が5月9日、左側が28日の入院時に撮影したもの。心臓が大きく肥大している事が良くお分かり頂けるだろうか。 「神戸さんの心臓は至る所が悪くて血液の逆流も起こりかなり疲弊しています」「今回は利尿剤を増やさず食事療法と新たな薬(メインテート)の投与でここまで回復しました」。確かにそうだった。外来ではワーファリンの効果を下げる為に「ビタミンK」を点滴したほどであるが、前回の時のように「ワソラン」「ラシックス」と言った心不全治療に於ける定番の薬は一切使用しなかった。 ヘパリンの点滴はワーファリンの効果が安定するまで続いたが、それも早めに終わった。入院二日目から食事が出たのであるが、その内容に戸惑ってしまった。それもその筈でいつもの心臓食ではなく「腎不全食」だったからである。 心臓食よりも更に制限の厳しい腎不全食は、カロリー1600、塩分6グラム、それに加えて蛋白制限がある。病院で出された食事は蛋白40グラム。 中学1年の時に食べた腎臓食以来であり、最初は何かの間違いかと思ったほどであるが、心臓と腎臓は密接な関係にあり、長い期間に渡り利尿剤のラシックスを服用して来た為に腎臓にかなり負担を掛けてしまっている。 腎臓は一度悪くなってしまうともう後戻り出来ないほどデリケートな臓器である。心臓は以外とタフであり人間の臓器の中では最も丈夫に出来ている。腎臓をこ れ異常悪化させない為に必要な事は負担をなるべく減らす事を心がけるしかないが、それは食事内容に大きく左右されるため、重要なポイントである。 病気の為にわたしはこれまで多くのものを諦めて来た。然しその諦めた分それ以上のものを手に入れる事が出来たのも事実である。健康は手に入らないが健康である事の素晴らしさを知る事が出来たし、病気を通して様々な人たちと出会い触れ合う事も出来た。 心臓病になっていなければ詩集を出版する事もなかったし、詩を書く事もしていなかっただろう。失ったものは確かに途方もなく大きいけれども、わたしは希望の光を常に絶やさず前を向いて歩く事を病気から教えて貰った気がしている。 常に感謝の気持ちを忘れず直向きに生きて行こうと思っている。皆さん、これからもこのわたしをよろしくお願い致します。
2013.05.12
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つい先日、坂口良子さんの訃報をお伝えしたばかりだと言うのに、またしても訃報について触れなければならなくなった。 若い層からお年寄りまで幅広いファン層を持つ、日本を代表する演技派俳優として知られている三國連太郎さんである。 14日午前9時頃、急性呼吸不全のため都内の病院で90年に及ぶその人生に幕を閉じた。仕事の関係で父親の死に目に会えなかった人気俳優の佐藤浩市さんの 言葉は、詰め掛けたマスコミ陣の質問を説き伏せるかのように、涙を見せる事もなく父の死を予感させる内容のものであった。 日本映画界にその人有りと言われるほど、大きな影響力とその鬼気迫る存在感は三國さんをおいて他にはいないのではないだろうか。 飢餓海峡などの社会派ドラマから時代劇、そして『ビッグコミックオリジナル』に連載中の釣り漫画である『釣りバカ日誌』の実写版などコミカルな内容のドラマにまで活躍の場は非常に幅広く多岐に渡っている。 三國さんの私生活については様々な噂や憶測などが昔から飛び交っているが、それもまた人並み外れた余りにも個性的すぎる故のものであろう。 結婚を4回も経験しているその背景には、実生活を犠牲にしてまで俳優の道に我を忘れてその情熱を注いだ結果なのだと思える。 生活や家族を犠牲にすると言うのは決して褒められた事ではないが、三國さんの人生そのものがスクリーンの中でしか生きられない、居場所がそこにしか無いと言う謂わば俳優としての孤独をわたしは感じ取ったのだが…。 三國さんが出演している映画やドラマは余りにも多く、その代表作品をわたしは決めかねているが、どうしてもわすれらない映画が一本だけある。 1979年4月に劇場公開された松竹映画『復讐するは我にあり』である。この作品は実際に起こった『西口彰事件』を題材にした、佐木隆三の長編小説が元に なっており、5人を殺害し約2ヶ月半に渡り逃亡し続け、1964年に逃亡先の熊本県で逮捕され、43歳で処刑された犯罪者の犯行の軌跡とその人間像を深く 掘り下げた作品となっている。 主演は今は亡き名優の一人である『緒方拳』。その緒方拳扮する犯人役『榎津巌』の父親が三國連太郎さんが扮した『榎津鎮雄』だったと記憶している。 確か犯人の嫁である倍賞美津子さん扮する『榎津加津子』と三國連太郎さんとの強烈な濡れ場シーンも鮮明に覚えているが、妖艶な色気をさり気なく見せる倍賞美津子さんもまた日本を代表する女優の一人である。 実際の殺人現場の一つとなったのは浜松市内のあるアパートであり、この頃わたしも友人のいる浜松へと足をよく運ぶ機会があり、この作品も浜松市内の映画館で友人と二人で見ていることから、この作品により一層没頭する事が出来た。 そして何より鮮明に記憶している場面がラストシーンである。処刑され遺骨となった息子の骨壷を両手で抱え込む父親の榎津鎮雄が骨壷の蓋を開け、息子の骨を一掴みすると口一杯に頬張り「ボリボリ」と音を立てながら食べてしまうのである。 そして山の絶壁から空に向かって骨を放り投げる…。映画はその空間に散らばった榎津巌の骨のシーンで終わりを告げる。 このラストシーンで三國さんの台詞までは思い出せないが、台詞自体があったのかどうか、台詞など要せぬほどに三國さんの鬼気迫る迫真の演技にわたしは圧倒されていた…。 ここに謹んで三國連太郎さんのご冥福をお祈り申し上げます(合掌)。
2013.04.18
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桜の花びらが舞い散る午後に あの娘は逝った 天使の衣を纏って空高く 注射が嫌だと駄々こねて 僕を随分困らせたっけ 君があんまり泣くもんだから 瞼を両手で押さえると 「バカっ涙であたし溺れちゃうよ」 と言って僕の腕にキスしたね 桜は散ってもいつかまた戻って来るけれど 君と過ごした日々はもう戻らない 桜の花びらが舞い散る午後に 涙の抱擁だけを僕に残したまままで あの娘は散った 閉じた瞼に最後のくちづけを
2013.04.13
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7 日、大阪・ボディメーカーコロシアムで行われたプロボクシング、WBAバンタム級タイトルマッチ「亀田興毅VSパノムルンレック・カイヤンハーダオジム」 の一戦は、チャンピオン亀田興毅が辛くも2-1で判定勝ちを納め、チャンピオンベルトを守り6度目の防衛成功を果たした。 然しながら、試合後のリング上では勝利を祝うチャンピオンの笑みは影を潜め、持てる力の全てを出し切った挑戦者の清々しい姿とは対照的にどちらが勝者なのか分からないほど会場も重い空気に包まれていた。 試合前半、チャンピオンをロープ際に追い込み、細かいパンチの連打を浴びせる挑戦者は不敵な笑みを浮かべつつ、サウスポーを苦手とする亀田の弱点を知り尽 くしたかのように、挑戦者の繰り出した強烈な左アッパーが亀田の顎を捉え、試合序盤から挑戦者に先手を取られると言うチャンピオンらしからぬ体の動きが試 合の展開に不安を抱かせていた。 顔を赤く腫らし、鼻からは鮮血がほとばしり、その痛々しさに会場に詰めかけたファンも波乱の予感を抱かずには居られなかっただろう。 勝利を確信したかのように、時々笑みを見せるほどに挑戦者は余裕すら見せていた。追い詰められているのはチャレンジャーではなく、確かに亀田興毅自身であった。 結果は僅差での判定勝ちであるが、試合経過を振り返ってみると事実上の亀田敗北と言ってもよいだろう。それはリング上でうなだれる亀田自身の言葉が物語っていた。 多くのファンの前で土下座までして懺悔を乞うチャンピオンの姿は余りにも痛々しく、自分の目指すボクシングが出来なかった事への悔しさと自責の念でマットは重く沈み込んでいた。 ボクシングに限った事ではないが、自分が相対する相手は恋人のような存在である。相手を知り尽くす事によって自分には無いものを発見し、それを自分に置き換えてみるという心理面でも相手を上回る事で試合を有利に進める事が出来る。これは謂わばプロポーズにも似ている。 相手をこちらのペースに持ち込んでしまえば勝利は目前であり、恋の駆け引きもこれと同様であるからだ。恋人が必ずしも自分の得意とする相手とは限らないし、苦手な側面も必ず持っているだろう。故に亀田興毅の恋人はサウスポーなのである。意味不明(´∀`*)。
2013.04.10
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女優の坂口良子さんが先月27日、57歳と言う女優としては円熟味が醸し出される年齢で惜しくも息を引き取った。 彼女の命を奪った病魔は、横行結腸がん(大腸がん)による肺炎であった。昨年、永かった春にピリオドを打つ形でプロゴルファーの尾崎建夫さんと再婚したばかりである。 結婚と言う幸せを一気に引き寄せ、仲睦まじい夫婦愛を育んでいた矢先の出来事に、夫である建夫さんの心情を思うと言葉が見つからない。 坂口良子さんはこれまで数多くのテレビドラマで活躍して来たが、わたしの脳裏に最も焼き付いているドラマは『グッドバイ・ママ』である。 1976年TBS系列で放映され、木曜夜の9時(ゴールデンタイム)で、視聴者の心を釘付けにし涙を誘うそのストーリーに、ジャニス・イアンが歌う主題歌『ラブ・イズ・ブラインド~恋は盲目~』が更にドラマを引き立てていた。 このドラマのストーリーは、未婚の母である坂口さん演じる主人公が、ある日を境に自分が不治の病(白血病)である事を知ってしまい、自らの寿命を我が子に全て捧げると言う『愛の物語』であった。 特にラストシーンは涙なくして見ることは出来ず、いま思い出しても目頭が熱くなって来る。娘の誕生日にケーキを買ったものの、激しい雨が降り注ぐバス停で誰にも看取られる事なしに家まで後僅かと言うところで息を引き取ってしまう…。 娘は何も知らずに無情の雨が降り続く中で、ただひたすら母親を待ち続けると言う壮絶なシーンが視聴者の印象に深く残ったドラマであった。 まるでこのドラマを再現したかのように逝ってしまった坂口良子さん、余りにも早すぎる彼女の死に多くのファンが心を痛めたであろう事は察しがつく。 ここに謹んで彼女のご冥福をお祈り申し上げます。
2013.04.05
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柔らかな春の陽射しを浴びて 雪が静かに融けて行く わたしの心とは裏腹に あなたへの届かぬ想いが 今でも淡い残雪となって 心の奥に冷たく横たわっている 季節は わたしを 足早に追い越して行くけれど わたしの想いは あの 凍てつく冬の彼方に置いてきた 残雪の恋 あなたの呪縛が 解けぬままで…
2013.03.31
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時の流れは予想以上に早いもので、誰にもそれを止める事は出来ない。せめてもう少し遅くなってくれればと思ったりもする今日この頃。 詩集・天国の地図が出版されてからこの3月で8年になった。刊行日が3月15日であり、詩集の誕生日という訳で8歳になったと言うことになり、誕生日を祝って喜んでいいのかどうか…筆者としては迷うところではある。 つまり、人間に寿命があるようにやはり書籍にも寿命がある。それを「絶版」という訳だ。本来ならば、とうの昔に絶版になっても不思議ではなかったが、お陰 様で出版当初の飛ぶ鳥を落とす勢いは毛頭影を潜めてはいるものの、年間を通して僅かながらに流れがあり、倉庫から流通に乗り読者の手元に届く動きが途切れ なかったことで出版契約が自動更新されていた訳である。 絶版はどのようにして決められるかと言うと、書籍の刊行日が古い順に処分されて行く。但し、出版一年で絶版になる場合も時にはある。一年を通して全く動きが見られなかった場合がそれに当たる。 過去にも話した通り、書籍の年間出版数は約7万冊に上り出版ラッシュで書店に置かれない本がその内の70%を占めていると言われている。出版社或いは出版社と契約している物流倉庫には在庫の数で溢れんばかりになっているのが現状である。 わたし自身、一時そのような書籍ばかりを扱う倉庫でバイトをした事があり、毎日4トントラックに零れ落ちんばかりの書籍の塊が運び込まれて来るのを嫌というほど見て来たが、如何に資源を無駄にしているか思い知らされるばかりであった。 今年3月に絶版を迎える書籍は2005年に出版された本が対象である。故にもちろん「天国の地図」もそれに当たる。文芸社からわたしに連絡があったのは昨年の10月末だった。 経済産業省が立ち上げた(コンテンツ緊急電子化事業「緊デジ」)は国の補助により約6万タイトルを電子書籍化しその売上を東北の被災地へ回すというもので あり、文芸社もこのプロジェクトに参加し、同社の書籍から800冊を厳選し電子書籍化する筈であったのだが、諸事情により文芸社はこのプロジェクトから撤 退せざるを得なくなり、その説明とお詫びの内容であった。 同社の出版物が何万冊あるかは知らないが、800冊の中の1冊として「天国の地図」にお呼びが掛かった事は誠に喜ばしい話であったが、結果的にその望みは叶わなかった訳で、更に追い打ちを掛けたのは絶版の話であった。 詩集は現在でも売れ続けてはいるものの、やはり出版社の現状としてこれ以上倉庫に置いておく訳にはいかなくなったようで、売れているのに何故?と疑問を抱いたが出版界の裏側にもそれなりの事情があるようだ。 そして更に話は進み、文芸社のプロジェクト撤退で著者様に多大の迷惑掛けてしまった事のお詫びとして紀伊國屋書店での常備陳列・配本の話になり更に契約更 新も継続される事となり、「瓢箪から駒」ではないが意外な展開になり、わたしとしては「願ったり叶ったり」の結果となった。 「絶版」と「再陳列」では天と地ほどの差がある訳で、まるで強運のわたしの魂が詩集にまで乗り移ったかのようにも思えた次第である。 陳列と言っても出版当初の平積みではなく、最も一般的な「棚刺し」ではないかと思われるが、その辺は書店のオーナーが決める事なのでどう置かれるのか分からないのが正直な所である。 陳列される書店は次の通り。千葉県「紀伊國屋書店・流山おおかたの森店」東京都「渋谷区・渋谷店」「新宿区・新宿本店」「世田谷区・玉川高島屋店」「千代 田区・大井町ビル店」福井県「福井市・福井店」大阪「堺市・泉北店」岡山県「岡山市・クレド岡山店」福岡県「久留米市・久留米店」熊本県「菊池郡・熊本光 の森店」以上となっている。 因みに絶版になった場合その本はどうなるかと言うと、著者の元に送られて来る。まあ、そうなったらバナナの叩き売りではないが、路上で売り捌くと言うのも一つの方法である。 出版当初から購入してくれた読者の中には、「サイン」を約束しながらもいまだにそれが果たせずに心苦しく思っており、出来るだけ早い時期にわたしの体調を見ながらサインさせて頂こうと思っている。 次回作待望論も多く聞かれる中、申し訳なく思いますが、いま少し「天国の地図」を温かく見守り応援して頂けると有難いです。
2013.03.25
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脳梗塞で倒れたあの夜の事、孤独と絶望感に打ちひしがれ、完全に麻痺した身体からは涙の一滴すら流れ落ちなかったが、心は無念の涙で溢れ返っていた。 ベッドから落ちた時に自分の右半身がどのような状態だったか全く想像すら出来ずにいた。紫色に腫れ上がった右腕が骨折しなかったのは奇跡とも言えるかも知れない。 辛うじて自由に動いた左手だけを頼りにベッド上に戻ろうと、必死にもがいていた。声を上げる事も出来ず、半開きの口からたらーりとだらしなく唾液だけが床に糸を引いて流れ落ちた。まるでそれは助けを呼べない苦悶と悲痛の涙だったのかも知れない。 次の朝を迎える事が出来るのか、そんな事すら考えも及ばなかったが、身動きが取れない身体の奥底で「このまま死ぬ訳にはいかない」とくちびるを噛み締めていた。 そして奇跡的な復活を遂げたあの日から丁度一ヶ月が経った2月5日の事だった。心不全の症状は数日前から現れていた。 短期間で急激に体重が4キロ増え、僅か数十段の駅の階段を昇る事が苦痛でならなかった。階段を昇りきったその場所で、もう一歩も動けずに呼吸が今にも止まってしまうのではと思えるほど苦しかった。 手足はおろか身体全体がダルマのように浮腫み、それは肺にまで及んでいたから起座呼吸をしても一向に楽にはならず食事も受付なくなっていた。 もっと早く病院へ行くべきであったが、父親ゆずりの下らないプライドが邪魔をし、限界ギリギリになって友人に諭されながら三井記念病院に電話を入れたのが 夜の8時頃だった。タクシーで行くと救急外来の看護師に伝え、車の手配をしている矢先に病院から折り返し電話が入った。 看護師からきっぱりと「救急車を呼んで下さい」と告げられる。わたしは過去に心不全で何度も緊急入院しているが、救急車を呼んだ事はなかった。おそらく脳梗塞の事もあり病院がその辺りも配慮に入れての判断だったのだろう。 退院後一ヶ月もしない内に病院へ逆戻りとなってしまった訳で、何ともやりきれない思いで胸が一杯であった。 救急外来では3人の若い男性医師たちが電子カルテを見つつ何やら呟いていた。「ラニラピッドを止めてメインテートに切り替えた…ふむふむ」「ラシックス40ミリを20に減らしたんだね…」「この辺が心不全の要因かな…」。 確かに薬が変わった事も心不全を招いた要因の一つではあるが、それだけではない。脳梗塞以前と後では身体に大きな変化があったのは事実であり、そしてまた自分の自己管理の拙さも手伝って複合的に心不全を発症したのである。 不安定なバイタルサインが出ている事から、いつも通りに左腕からラインを取りラシックスとワソランの点滴が始まった。安静時でも120を軽く超える頻脈と、そしてサチュレーションが95を下回っていた事もあり直ぐさま3リットルの酸素吸入が始まる。 高濃度の新鮮な酸素を貰って身体が喜んだのかその酸素がとても美味しく感じ、生きる事の意味が殊更身に染みた瞬間でもあった。 更にこれは自分でも予想外であったが、バルーンを尿道に挿入。そして紙オムツまで履く事になってしまったが、今回の心不全がかなりの重症である事を物語っていた。 絶対安静、ベッドから一歩たりとも降りる事が出来ないのである。外来で応急処置を済ませると運ばれた所は6階にあるCICU(冠疾患集中治療センター)であった。その場所は重症患者を受け入れる施設である。 物々しい医療機器と慌ただしく動き回る看護師たち。そして耳に響いて来る独特の機械音が生きている証の様に聞こえて来た。 「○○さーん、聞こえますかー?」「此処が何処だかわかりますかー」若い看護師たちの張りのある声がとても健康的に思えたが、呼び掛けられた患者からの反応は全く聞こえて来なかった。そしてまた入院慣れしたこの身体が病室のベッドに直ぐ馴染んでしまう事も哀しかった。 次の朝の午前中にある程度症状が安定した事から、そこを出て同じ階にある「循環器専門病棟」に移されたが依然として酸素も点滴もそのままで移動時は車椅子であった。 一週間ほどその専門病棟で加療し、2月14日に12階の一般病棟に移ったのだが、なんと脳梗塞で入院していた時と同じ病室であり、つい最近までお世話に なった医療スタッフたちがそのまま居たこともあり気恥ずかしさを隠す為「戻って来ちゃいまいしたー」と照れ笑いを浮かべて挨拶をした。 身体の浮腫は眼に見えるほどの早さで消えて行ったが、肺に溜まった水がいつまでも抜けずに残り、そして原因不明の微熱も続いていた事から入院は更に長引い たが、2月24日に退院の許可が降りた。「退院おめでとう」この言葉をわたしは過去に何度も聞いて来たが、本音を正直に言ってしまえばわたしは退院を心底 嬉しいと思った事がない。 病気が治って退院するのなら手放しで喜ぶ事が出来るのだが、このわたしが抱えている病気は治る事がなく悪化の一途を辿るばかりなのである。 完全看護のバリアで守られた特別室から厳しい現実が待ち受ける世界に放り出される訳で、自己管理を僅かでも怠ればまた病室に逆戻りという悪循環の繰り返しなのである。 然しながらこの自分が置かれた現実に希望を失っている訳ではない。空気を吸い、口が聞け、両手両足が動き自分の意思で歩く事が出来る何でもない当たり前な事が如何に幸せかをこの瞬間にも感じ取っている。 もちろん脳梗塞の再発或いは脳内出血など様々なリスクを抱えてはいるが、右半身麻痺と言う過酷な運命を乗り越えて奇跡的に生き延びて来たのだからここれを 新しく与えられた命として受け入れ「死」ではなく「生」をスタンスとして残された時間を全うして見せると自分に言い聞かせた訳である。
2013.03.14
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神戸俊樹さんが1/5(土)緊急入院された件についてご報告をさせて頂きます。結論から申し上げますと、来週には退院できると思います!詳しい検査の結果・・・■病名 心原性脳梗塞(場所:左中心後回り頭頂葉内側 横並びに小さな梗塞が二つ)※一度血栓が太い血管を閉塞したが、再開通した為症状が改善。■原因 弁膜症置換術後 心房細動 ワーファリン作用不足■症状 右半身麻痺■頚食道エコー検査結果人工弁が抜いてつけてある部分に血流のうっ滞があり、おそらくそこから血栓が飛んだとのこと今後はワーファリンでしっかり管理して血栓予防をしていけば大丈夫だとか■治療、補液、ヘパリンによる進行予防とリハビリ(ワーファリン3錠から4錠に増えました)※ヘパリン点滴は12日に終わりました。■推定入院期間、約二週間-------------------------------------------心原性脳梗塞とは?しんげんせいのうこうそく心臓の中でできた血栓が、血液を通して脳へ運ばれ、脳動脈を詰まらせる脳梗塞のこと。突然発症し、麻痺や意識障害が起き死に至る場合もある危険な脳梗塞。心房細動(脈拍が不規則に乱れる不整脈)などの心疾患により不整脈が起こり、心臓の働きが悪くなり、血流がよどみ、心臓内の血液が固まって血栓ができやすくなる。脳梗塞の15~20%がこの心原性脳梗塞といわれている。アテローム血栓性脳梗塞やラクナ梗塞などの脳梗塞は、生活習慣病の進行により、動脈硬化が徐々に悪化して起こりますが、この心原性脳梗塞は、前ぶれもなく突然発症し、梗塞範囲が広いため、明らかな麻痺や意識障害もおきやすく、再発もしやすく命に関わる危険な脳梗塞として知られている。一度の発作で倒れてしまうため、「ノックアウト型脳梗塞」とも呼ばれている。一過性脳虚血発作(TIA)とは?いっかせいのうきょけつほっさ脳に行く血液の流れが一過性に悪くなり、運動麻痺、感覚障害などの症状が現れ、24時間以内、多くは数分以内にその症状が完全に消失するものをいいます。脳梗塞(のうこうそく)の前触れとして重要とされる。------------------------------------------ 俊樹さんの場合も、一度は血栓が太い血管を閉塞し全身麻痺を起こして倒れたのですが、偶然にも血栓が溶解し再開通した為、症状が一気に改善。救急車で病院に到着した際には既に強い麻痺症状が治まっていた為に、緊急外来の医師が一過性脳虚血発作(TIA)だろうと判断して緊急入院となりました。その後の検査結果で心原性脳梗塞と判明。病院に運ばれた時には発作から既に12時間以上も経過していたので時間勝負とも言われる脳梗塞。もし自然に血栓が溶解されてなかったら今頃・・・と考えると本当に良かった・・・。何度も俊樹さんに伝えてきた「冬は必ず春となる」血栓が陽射しに解かされた雪のように感じて涙がでました。命に全てに感謝です。緊急外来で一過性脳虚血発作(TIA)だろうという判断で緊急入院したわけですが、結果は心原性脳梗塞だったので、正しい処置が行われていたのか等の心配もあり、お医者様に詳しく訊ねたところ「一過性脳虚血発作の疑いで入院した場合も心原性脳梗塞で入院した場合も処置は同じなので問題ない」とのこと。「軽いという言い方は適切ではないと思いますが、脳梗塞の後遺症としては軽い方ですよね?」という問いには即答で「軽いです。脳梗塞だけで言えば一週間ほどで退院できます。」とのことで安心しました。今回、ワーファリンという血液をサラサラにするお薬を3錠から4錠に増やしたので、お薬が安定するまで入院になりますが、今のところ順調で、来週早々に再検査して結果に問題がなければ退院になるでしょう。。とのことですヾ(๑^∇^๑)ノ 後遺症は軽かったと言っても、脳梗塞を起こしたわけで再発の可能性が高いと言われているし、薬での予防が肝心になるのですが、だからと言ってワーファリン1錠増やすのも俊樹さんは命がけです。このお薬は効きすぎると脳内出血のリスクが高まるし、効いてないと血栓ができて脳梗塞になってしまうそうで調整が難しくお医者様も悩まれたようです。俊樹さんも「心不全、脳梗塞、脳内出血、腎機能障害までも視野にいれないといけなくなって何もできないよ。」とボヤいておられましが前向きに頑張っておられます!後遺症については、入院当初、手の痺れやメールの打ちにくさを訴えられていてすごく心配でしたが、完全回復とはいえませんが、現在、文字はかなりスムーズに打てるようにもなって、言語に関しても当初は説明しようとしても言葉がでにくいなど心配がありましたが、今は特に問題なく普通に話しもできる状態です。右手の力は完全に戻っておらず、たまに左指が微妙に痺れたりする時があるとのことですが、お医者様いわく徐々に回復していくとのこと。これからも、神戸俊樹さんはたくさんの方々の励ましに支えられて、病魔などに負けずに一瞬一瞬を闘い生き抜く予定ですので(←引くにひけない笑)俊樹さん完全復帰までもうしばらくお待ち下さい☆代理人:マム
2013.01.17
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師走の冷たい風が肌を突き刺し吹き抜けて行く。今年も余すところ数日となり、来年に向けて希望のカウントダウンが始まろうとしている。 そんな時、海の遥彼方から届いた一報は、冬将軍の到来を思わせるような「松井秀樹引退」、それは一つの時代が終を告げる鐘でもあった。 米国時間12月27日(日本時間28日)、国内では街の至る所で仕事納のサラリーマンやOLたちの忘年会などで賑わっていた。 クリスマスの余韻を漂わせつつ、街は人々をネオンの妖美に誘い込んで行く。38歳と言う年齢はわたしたち一般人からすれば全く若い部類に入るかも知れないが、スポーツの世界においてはやはり歳を取り過ぎたと言う事なのだろうか。 20年と言う野球人生に自らピリオドを打った松井秀樹の表情には、僅かながらの未練を残しつつも次のステップへ踏み出す希望の光も見え隠れしていたように思う。 ニューヨークのミッドタウンで行われた記者会見で、松井は言葉を一言一句噛み締めるように紡いで行った。 彼が公式の場に姿を見せるのは久しぶりの事でもあり、戸惑いと緊張感も連れ立ってその発する声は、か細く弱々しいものに思えたが、時間の経過とともにいつもの松井らしさが戻り穏やかな表情に変わって行った。 彼自身が言う通り、ゴジラ復活のチャンスはあったかも知れないが、結果的にシーズンが終わって見れば納得の行く内容ではなかった。 ファンの立場から見ればまだまだ松井の活躍を見たいのは当然かも知れないし、野球はメジャーだけでなく日本のプロ野球もあるのだから帰国して日本のチームでプレイを続けて欲しいと思ったりもするが、おそらく彼にとってメジャーが野球の最終地点だったのかも知れない。 そしてまたスポーツの世界は結果が全てを物語るし、そう何度もリプレイが通用するほど甘い場所ではない事を松井自身がその身体で十分理解していたのだろう。 今ここで松井秀樹の歴史を振り返れば、それは「怪物ゴジラ誕生」であり、そしてまさしく豪快なホームラン王として長きに渡りプロ野球界に君臨するのである。 わたし自身が最も記憶として残っているシーンは彼がまだ高校生だった頃のこと。1992年、夏の甲子園大会「星陵高校VS明徳義塾」の試合であるが星陵は敗退したものの「5打席連続敬遠」では、当時の高野連が急遽記者会見などを開き社会問題にまで発展している。 対戦相手の監督の口から「高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」と言わしめるその実力はプロ野球選手も驚愕するほどであり、常に彼の周りには多くのマスコミ陣が群がっていた。 デビューが華々しいほどそれとは対照的に引退宣言は引き波の如く時代を加速させるものであるが、輝かしい栄光と希望をその背中に刻み込み、バットに別れを告げる松井秀樹に「ホームランに花束を」と感謝の気持ちを込めて見送りたいと思う。
2012.12.29
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核とミサイル依存症の国「北朝鮮」から、不意打ちの長距離弾道ミサイルが一発フィリピンの方角に向けて発射された。 今回のミサイルも前回4月の時と同様に、人工衛星と言う肩書きを付けての打ち上げだった。前回の失敗を是が非でも取り返すべく、当局は持てる技術の全てをミサイル一発(約700億円)に賭けていた事は周知の通りである。 金正日総書記の「先軍政治」を継承すべく金正恩政権は、父親の「遺訓」である「核・ミサイルの開発」を国の最も重要課題として継続の意思を明示し、金総書記没後1年を節目として国内外に武力と権力を誇示する為の「祝砲」と相成った訳である。 打ち上げまでの過程を省みると、其処には北朝鮮ならではの狡猾なシナリオが設定されていた訳だが、発射予告通りに進めたのでは自前の挑発行為そのもののインパクト性に欠けると思ったのか、打ち上げ延期と言う形で諸外国の警戒感を緩慢へと導く目論見があったようである。 日本国内では衆議院選挙戦の真っ最中でもあり、その延期によって当面は選挙一筋に打ち込めるとたかをくくっており、街中に騒音を撒き散らす街宣車もどきの選挙カーが縦横無尽に「○○に一票を」と選挙の時期だけ必死になる候補者たちの姿が至る所で見受けられた。 この悪意に充ちた北のシナリオに最も打撃を受けたのは休戦中の韓国である。情報が錯綜し混乱を招き政府の情報分析力に国民の批判が集中した。 韓国にとって北のミサイル発射成功は最も屈辱的なものであったろう事は察しが付く。何故ならば韓国は国産のロケットでの衛星打ち上げに成功していないからであり、長距離ミサイルの技術では北朝鮮に一歩リードされている形となってしまったからでもある。 何れにせよ、韓国、日本、アメリカなどの国々はミサイル発射を指を加えて見る格好となり、この打ち上げ成功が、今後の北朝鮮の傍若無人を更に加速させる可能性を秘めている事は確かなようである。 国連安保理は直ちに非難の意思表示を明確に打ち出しているが、各国の反応について北はそれすらもシナリオ通りの結果と受け止めており、北朝鮮への制裁圧力が高まったとしても、安保理そのものが弱体化している現状を見れば焼け石に水と言ったところだろう。 まさにやりたい放題の北朝鮮に対し、打つ手なしが現状である。過去の例も見ても分かる通り、何ら怯む事なく次の一手を用意周到に準備している北にとっては、してやったりの大成功だったのかも知れない。 但し、この北朝鮮の野望とも言える「核とミサイル」の融合は国力の乏しい現実の前にそう長くは続かないものとわたしは認識しているし、北朝鮮恐るるに足らずと言うのがわたしの率直な私見でもある。
2012.12.18
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12月5日、体調を崩しベッドに臥せっていた。昼時、テレビの電源を入れると飛び込んで来た「中村勘三郎さん死去」のニュース。 まさかとは思ったが、それは紛れもない事実であった。中村さんは確か12時間にも及ぶ食道がんの手術も成功し、回復の途上にあった筈である。 そのような大手術にも耐え抜く体力と気力を持ち合わせながら何故、亡くなってしまったのかとその死因について疑問が残るばかりであったが、ニュースの詳細に耳を傾けている内に、直接の死因が癌ではないことが分かったが、それはあまり聞き慣れない病名だった。 急性呼吸窮迫症候群(ARDS)を簡潔に言ってしまえば「肺炎」が悪化した状態であるが、肺炎が原因で死亡する患者の殆どは体力、抵抗力の弱ったかなりの高齢者の場合が多い。 順調に回復し院内を歩くまでになり、退院する日も時間の問題と思われていた筈なのに、そんな中村さんの身に一体何が起きたのであろうか。 病魔は影を潜めつつ足音さえ立てずに忍び寄て来る。まるで弱い者いじめの様にその対象を見つけると瞬く間にとり憑いて来ては、死の淵へと追いやって行く。 闘病は生きる為の病との闘いであるが、時としてそれは生きる為ではなく死ぬ為に生かされる場合もある。 わたしの親友も数年前に食道がんで他界したが、彼は余命3ヶ月を約半年延ばして逝った。彼との最後の言葉は「近い内にまた会おう」だった。 彼との約束を果たせぬまま、わたしはいまだに彼の携帯の番号を残したままである。40年以上に渡り心臓病と闘っているわたしであるが、余りにもそれが長す ぎると闘病そのものが生活の一部に溶け込んでしまい自分が病人だと気付かない時さえある。それが幸か不幸かは別として。 歌舞伎の世界に新風を吹き込み常に歌舞伎の立役者だった中村勘三郎さんは、幅広い芸風で歌舞伎の世界だけに留まらずあらゆるメディアを通してそのエネルギッシュな姿を思う存分に発揮し、わたしたちを大いに楽しませ感動を与え続けてくれた。 日本だけでなく中村さんの歌舞伎は世界にまで羽根を伸ばし、アメリカ、ドイツ、ルーマニアなどで公演し大成功を収めている。 歴史の長い歌舞伎の伝統を継承しつつ、常に斬新なスタイルで見る者たちを魅了して行くその姿は、歌舞伎界の開拓者とも言えるのである。 最後の舞台は2012年7月まつもと市民芸術館で行われた「天日坊」の千秋楽に源頼朝役で出演したのが最後であった。 わたしは取り立てて歌舞伎に詳しい訳ではないが、静と動の織り成すその融合的美学の真髄がこの歌舞伎に在ると思っている。日本の歴史的美学の代表である歌舞伎は、鎌倉・室町時代に大成した狂言や能と同じように江戸時代に花開いた演劇である。 「歌」は音楽、「舞」は舞踊、そして「技」は演技・演出となっており、まさしくこの三大要素の集大成が歌舞伎であり、総合芸術として完結されている。 日本では最も古い歌舞伎の歴史を受け継いでいるのが中村座であり、亡くなった中村勘三郎さんは18代目勘三郎でもあった。 中村さんがARDSに陥った時、病院を2回も転院するなど、医療スタッフも何とかこの国宝級の患者の命を繋ぎ止めようと必死であっただろうことは想像が付く。 然し、死の魔手はそう容易く中村さんの身体から離れて行ってはくれなかった。それにしてもまだ57歳と言う年齢は余りにも早すぎる。これからまだまだ活躍する場は幾らでもあっただろうし、わたしたちもまたそれを望んでいた筈である。 つい最近、森光子さんの訃報について記事を書いたばかりだと言うのに、こうして再び悲しい知らせを耳にすると、凍える冬の彼方から中村さんの慟哭が聞こえて来るような気がしてならない。最も無念だったのは中村勘三郎本人だったに違いない。 謹んで中村勘三郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。
2012.12.09
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失うことには 慣れている そう 思い続けて 来たけれど くちびるを 重ね合わせる度に 何故か胸騒ぎ いっそのこと 心憎い あなたを振り切って この 恋地獄から 抜け出したい
2012.11.26
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人生を一つの舞台として捉えれば、わたしたちもまた自分の人生を演じている訳であるが、何れそのステージから降りなくてはならない時期が来る。 それが「死」をもって人生の完結とするかは人によって捉え方は様々であるが、自分がどのような舞台を踏んで来たかによって故人が人々に与える影響は大きく、死後も尚その舞台があたかも魂を得たかのように存在しているのは間違いないだろう。 先日10日に肺炎による心不全でこの世を去った女優の森光子さん(92)は、激動の昭和と平成の時代を70年に渡り生き抜いた偉大なる女優の一人である。 彼女の芸歴やこれまでの活躍などをこのページだけで語り尽くせるものではないが、わたし個人としてみた女優「森光子」を語ってみたいと思う。 先に亡くなった大滝秀治さんが、「名脇役」と知られているように、彼女もまた脇役からのスタートだったようである。 70年という長さを省みれば、日本に於ける戦争の歴史をある程度紐解く必要があるだろう。1937年に勃発した日中戦争の影響もある中、当時の映画製作が激減した事などにより、歌手を志望し1941年に上京。 戦火の拡大が本土を超えて中国大陸など各地に飛び火して行く中、藤山一郎、田端義夫、淡谷のり子らと同じステージに立ち、戦地慰問なども経験している。 わたしはもちろん年代的に言っても彼女の歌を一度も聴いてはいないが、戦後は進駐軍などの施設でジャズやアメリカン歌謡などを歌っていたようである。 この様に若い頃からの様々な経験や体験によって現在の「森光子」が誕生した訳であるが、彼女の女優デビューは決して楽観的なものではなかった。 彼女の名を最もポピュラーにしたのが言わずと知れた「時間ですよ」である。わたしと同期の年代の方たちであれば皆そう思う筈。 わたしの見た「時間ですよ」は、1970~1973年に渡りTBS系列で放映されたものであり、この人気ドラマの中で女将さん役が大当たりし一躍彼女の名がお茶の間を賑わすようになり、一般視聴者にまで知れ渡る事となった。 「おかみさん時間ですよ」で始まるこの愉快なドラマからは多くの人気タレントや歌手が誕生しており、わたしの青春時代の一ページを飾ってくれている。 堺正章を始め、悠木千帆(樹木希林)、天地真理、そしてわたしが最も好きだったタレントの浅田美代子が「赤い風船」でデビューしたのもこの番組だったと記憶している。 国民的人気番組の主人公として森光子はお茶の間に欠かせない存在となったが、やはり本業はブラウン管の中ではなく、舞台女優と言うことだったのだろう。 それは「放浪記」との出会いによって確立されたものに成長して行く事となるが、彼女がエンターティナーと呼ばれる所以は舞台だけでなく映画、テレビドラマ、バラエティショーなど数多くの場面で培われて行ったその芸風にあるのだとわたしは思う。 病床にあっても尚、舞台に立つ事を諦めず、生涯現役を貫いた役者魂は多くのファンや後輩たちの心を熱く揺さぶるものであった。 時を同じくして亡くなった政治評論家の三宅久之さんや、そしてまた治療の甲斐も虚しく亡くなった桑名正博さんのお二方の分も含めて心よりご冥福をお祈り致します。
2012.11.19
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米大統領選の真っ最中に、ハリケーン「サンディ」が米東部に上陸。ニューヨークでは広範囲に渡り浸水被害に見舞われた。 このハリケーンに伴いオバマ大統領は重点地域での遊説を急遽中止し、対策に全力を注ぎつつ被害に合った地域を訪れ民衆に向かって励ましの言葉を送った。 結果的にオバマVSロムニーの大統領選は、オバマ大統領の圧勝と言う形で幕を下ろし、オバマ氏が引き続き第45代アメリカ合衆国大統領に就任する事となる。 オバマ氏が自然の猛威を味方に付けたかどうかは知らないが、ブッシュ前大統領の時の初動対応の緩慢さに民衆の怒りを買い、政権の危機管理の甘さを露呈しているだけに、過去の例が少なくとも影響していると言う背景が見てとれる。 アメリカはその歴史が物語るように選挙の国であり、国民が政権の中心に存在し国を動かしているのは事実である。 ジョン・レノンの歌う「パワー・トゥ・ザ・ピープル」が人々の根底に流れているからでもあるが、アメリカの選挙戦を見る度に思うのは、日本との大きな違いである。 我が国の場合、選挙は国民のものではなく、政治家たちの為に存在しているようなもの。薄れ行く政治への関心度を見るにつけ、国民の意識が低ければ低い程に優れた政治家が存在しないのは確かなのである。 優秀な政治家を創り育て上げるのは、わたしたち国民の責務ではないのだろうか?日本と言う国をこよなく愛し、更に発展しより良い国作りを望んでいるのはわたしたち一人ひとりの筈である。 もちろん、アメリカや他の国がその手本となる訳ではないし、それぞれの国で抱えている問題も様々であるが、根底に根付いている想いは同じ平和と調和である。 今回のハリケーン対策で、オバマ氏がパフォーマンスとしてそれを利用したとの噂も聞こえて来るが、それは天が彼に与えた「抜き打ちテスト」のようなもの。 その行動に有権者たちが合格点を与えた結果が再選へと導いたとも言える。「災い転じて福となす」ではないが、瞬時の状況判断がそれ以後の結果に大きな影響を及ぼす事は間違いないであろう。
2012.11.13
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手を伸ばせば すぐそばにいる けれども 一度だって 触れることの出来ない あなたは恋の影 追いかければ 追いかけるほど わたしから 逃げて行く 決して 重なり合うことのない わたしたち
2012.11.08
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その日(25日)、巷に号外が飛び交った。「石原慎太郎東京都知事 辞職」、それは政界再編成に向けて風雲急を告げる「石原流」特有のパフォーマンスだったのだろうか。 政権末期状態にある民主党の陳腐な辞任劇、就任後一カ月も経たずして、田中法相の「外国人献金問題」発覚。更には暴力団との癒着なども含めれば「辞任止む 無し」ともなるが、全く大臣としての仕事をしていなくとも「前法務大臣」と言う「肩書」が付いてしまうのだから呆れてしまう。 適材適所を熟知した大企業の人事異動も短いスパンで発令されるが、民間ではなく税金を頂く公務員、それも一国の中枢を司っている与党という絶対的立場にあ る政権内部から、自ら綻びを拡げてしまうような野田総理の人員選出ミスを見る限り、緊張感の欠片もない政治家たちのサラリーマン体質が永田町に蔓延してい るのではないかとさえ思ってしまうのである。 このような無責任国政の在り方に業を煮やしたのか定かではないが、安倍新総裁の誕生、橋下大阪市長率いる「日本維新の会」などの動向を元に「新党結成」のタイミングなどを計り国政復帰に向けて準備(第三極の結集)を進めていたものと思われる。 石原さんは1968年に自民党から(参議院)全国区に出馬し、本業の作家活動を続けつつ、政治家の道を歩み始めた。 1972年には参議院を辞職。同年12月に衆院選に無所属で出馬し当選、その後自民党へ復帰。然しながら石原氏の自民党時代はそう長くは続かなかった。 その3年後、1975年に議員を辞職し、東京都知事選に挑戦するも惜敗。その悔しさを振り払うかのように1976年に国政へと復帰を果たし、当時の福田(改造)内閣では「環境庁長官」に就任しており、ここからが石原氏の本格的な政治家活動と言えるだろう。 議員生活約25年と言う節目で唐突な議員辞職表明は、当時の国会を混乱の渦に巻き込み周囲からは「身勝手な男」と冷ややかな視線を浴びたものの、石原氏本人は「我が道を行く」を貫き通した。 そして1999年に都知事選に再挑戦し当選したが、この時の都知事選は有力候補者がひしめいており大苦戦を強いられた(鳩山邦夫、舛添要一)等がいた。 そして約14年間に渡り、日本の心臓部と呼ばれる大都会「東京」の監督責任者として、その辣腕を発揮して来た訳であるが、元々自民党の「タカ派」集団に属していた事もあり、その言動や行動に首を傾げる人も決して少なくはなかった。 例えば国際都市東京の宿命とも言うべき、外国人による凶悪犯罪の増加に伴っての「三国人」発言は、当時の記者団に「差別用語」との指摘を受けていたが、本 人曰く「古い人間だから…」で片づけられてしまうほど、作家人生の長い石原氏の表現方法とは思えぬデリカシーの欠如に落胆してしまう訳である。 人間は誰しも一長一短があり完璧な人間など居る筈もないが、国を動かすほどの権力者ともなれば、辞任が相次ぐ民主党のような醜態は出来るだけ晒して頂きたくないものである。 定年制のない政治家たちに取ってみれば、国会の場と言うのは美味しい職場だったりするのかも知れないが、80歳にして国政へ復帰と言う政治への執念深さ を、良い意味で捉えれば石原氏のような信念の持ち主に政治を任せてみたいという気持ちにもなり得るが、果たしてこれから何年間政治を続けられるのかその辺 が心配の種でもある。
2012.10.31
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それは医学界のみならず、世界のあらゆるメディアが注目する画期的な出来事であった。ノーベル医学・生理学賞を受賞した京都大学の「山中伸弥」教授のニュースは地球上の全ての生物に対し「神の恩恵」とも言えるほどのインパクトを齎した。 もちろん其処には山中教授とそのチームによる並々ならぬ努力と探究心があったからこそであるが、途方もなく長い医学の歴史に、月に残したあの足跡の様に今まさに輝かしい医療に於ける未来への扉を切り開き新しい一ページを刻み込んだのである。 このようなニュースは、わたしの様に重い疾患を抱えて生きる者たちにとっては歓喜すべき事柄ではあるが、果たして自分がこの世に生きている間にiPS細胞の実用化の恩恵を授かる事が出来るかどうか疑問は尽きないものの、自分が後30年生きられると計算すれば、その可能性は充分にあるだろう。 ほぼ半分壊れ掛けているこのポンコツ心臓であるが、よくぞ此処まで長らく耐え抜いてくれたと自分の心臓(病気)に敬意を表したいと思っているが、それが可能であるとするならば、薬に頼る生命から脱却したいと思っている。 日本人の死因トップは言わずと知れた「癌」であるが、iPS細胞が齎す未知の可能性として、新薬の開発、治療方法も劇的な変革の時代を迎えつつあると思われる。 然しながら、あらゆる世界には陰と陽が存在する訳で、つい先日、東京大学を懲戒解雇された「森口尚史」研究員のように、その人気に便乗するがの如く悪用する輩もおそらく出現する可能性は高い。 万事が善意によって成されるのであれば良いが、「薬害エイズ」などのように、己の利潤のみを追求せんが為に、数多くの一般人が犠牲となってしまう「禁断の果実」とも捉える事が出来る。 人間は欲を捨てて生きる事は出来ないが、その「欲望」をコントロールする理性を兼ね備えているからこそ人間らしい生き方が出来ているのである。 欲に溺れた者たちの醜態をこれまで幾度となくわたしたちは見て来たが、自分の中の「陰と陽」を理解してさえいれば大きく道を踏み外す事などないだろう。
2012.10.26
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2004年10月、父の30回目の墓参りに行った時に写した写真。この日は朝から土砂降りの雨で、東名高速も速度制限をしていた為、郷里の藤枝市に着くまでかなり時間がかかった。 この雨ではまともに墓参りなど出来ないだろうと思っていた。藤枝に着いた時は既に時計の針は午後1時を回っていたが、雨は相変わらず激しく道の至る所に水溜まりを作っていた。 コンビニで弁当を買い、車の中で家内と息子の3人で遅い昼食を済ませる。いい加減に止んで欲しいと心で呟きながら長楽寺へと向かった。 すると突然雨が小降りになり始め、寺に到着した頃はすっかり止んでしまったのである。車から降りた時は一滴も落ちて来ない。 空には秋雨前線がどんよりと立ち込めている。さあ今のうちに済ませてしまおうと、墓参りといつもの恒例の記念撮影。 そして車に乗った途端に雨が激しく降り始めた。妙な気分ではあったが、その日はひねもす不思議な現象が続いていた。 さて、おそらく既に気付かれた方がいると思うが、わたしの右肩に注目して欲しい。それは、ハッキリと鮮明に写し出された手。 わたしの肩をしっかりと掴んでいるではないか。専門家の鑑定によれば、どうも若い女性らしい。それもかなり昔に亡くなられている先祖の霊だと言う。 心当たりがあった。23歳で亡くなった叔母がおり、子どもの頃とてもよく可愛がってくれた綺麗な女性。鑑定士曰く、「これは非常に貴方を心配して守ってくれている守護霊なので大切にしなさい」との事だった。 この写真(心霊写真)は非常に強いエネルギーを放っているので、見た人にも良い事が訪れるかも知れないと、その霊能者(鑑定士)は語っていた。
2012.10.19
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映画やドラマの中心にいる訳ではないが、その俳優が居なければストーリーそのものが成り立たなかった。 俳優として数多くの作品に惜しげもなくその資質を発揮した「大滝秀治」さんが、2日の午後に肺扁平上皮がんの為、都内の自宅で亡くなった。 つい先日にも女優の「馬渕晴子」さんが、やはり肺がんのため亡くなったばかりである。馬渕さんは、女優として日本で初めて自分のヌードを公開するなどして、女性解放の一役を担っている面もあったが、やはり大滝さんと同様に、名脇役の一人として高い評価を受けていた。 大滝さんは、悪役から政治家、刑事役など幅広く様々なドラマ、舞台、映画などでその滋味深い演技をさり気なく醸し出し、存在感たっぷりの名脇役だった。 彼は、若い頃から老け顔でそれに伴って俳優の人生を左右すると言われる「声質」についても、決して褒められたものではなく当時から「悪声」と呼ばれてお り、その二つの個性により、ドラマの中心的存在に位置する事がなく、常に「脇役」と言う、俳優生活に取ってみれば「付けたし」のような部分に甘んじてはいたが、その個性を持ち前にし独特のキャラクターを創り出し、結果的に成功を収めている。 わたしの中で、最も印象深かったのはやはり名作「北の国から」で演じた「北村清吉」。普段は朴訥で殆ど口を聞かない清吉であったが、時には周りの者たちをねじ伏せてしまうほどの説得力と存在感をその個性に重ねて表現していた。 今年6月に他界した「地井武男」さんもまた名脇役の一人だったのかも知れない。大滝さんの訃報で、「北の国から」に出演していた役者が二人亡くなってしまい、このドラマの筋書きに二人の運命を重ね合わせてしまう人も多いのではないだろうか。 全ての人の人生に於いて、主人公(主役)は常に「あなた」、「自分」であるが、その影には多くの「脇役」が存在している事を忘れてはならない。 そしてまた、あなた自身も「脇役」である事が心の中に存在していて欲しいと思う。自分を支えてくれる人たちと、自分もまた誰かを支えているのだと言う事、それこそが人生そのもだと思っている。 あなたの周りには何人の脇役がいますか?あなたは誰かの脇役になっていますか?「名」が付く必要はない、さり気なく気付かれなくともあなたの大切な人の支えになっていて欲しい。
2012.10.10
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甘い言葉の誘惑を 嘘と知りつつ 受け入れた 女だもの いいじゃない 一度くらいは 夢見ても 指輪に誓った約束を 今更嘆いて なんになる 一緒に逃げてと つぶやいた あたしの言葉に 頷くあんた 罪な女の独り言 付き合うあんたは 大バカ者さ
2012.10.03
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たわわに実った果物や野菜、そして米など。実りの秋、収穫の秋がやって来ている。連日続いたあの猛暑が嘘のように、ここ数日は実に涼しく爽やかな秋の風が高い空を吹き抜けて行く。 そんな自然の営みを余所に、この夏を振り返って見ると、「デモ一色」だったような気がする。「原発再稼働」「脱・原発」そして「オスプレイ配置」などであるが、デモに参加した民衆の呻きにも似た叫び声は、虚構の空に虚しく消えて行った。 耳栓よろしくそれらの声に全く動ずる事も耳を傾ける事すらしない役人や政治家たちには、幼子の鳴き声ほどにも聞こえなかったのであろう。 そして今、海外に眼を向ければ言わずと知れた中国の「反日デモ」である。尖閣諸島を取り巻く領土問題でヒートアップする中国の人々。 9月中旬から8日連続で行われた反日デモは、その一部の民衆が暴徒化し日系企業を襲撃し、店舗などがその荒くれどもに取り囲まれ略奪行為にまで及ぶと言う、これは謂わば一種の戦争状態と言ってもよいほどであった。 中国による反日デモは過去に何度も繰り返されて来てはいるが、やはりその根底に渦巻いている憎しみは戦争が産み落として行った日本による中国の植民地支配にあるだろう。 切っ掛けは日本政府による尖閣諸島(中国名:釣魚島)の国有化に反発するデモであるが、それが中国の各地に飛び火し、大規模デモに発展した訳である。 然しながらこのデモを当局が操っていたと言う噂も実しやかに流れており、デモの背景に当然の如く中国上層部が関与している事は明らかである。 金銭を払ってまでデモに参加させると言う辺りは、実に狡猾な中国の手法であり、そこには何のイデオロギーも存在してはいない。 反日デモは現在鎮静化してはいるものの、これもまた当局の操作によるものと言う推測の域を出ないのである。 それに取って変わるように、中国国家海洋局と民政省による発表は尖閣諸島の山・岬などの計26ヶ所に中国独自の地名を付与し公表した。 この領有権を巡る問題は双方が歩み寄らなければこれからも半永久的に続いて行くと思われるが、アメリカに依存する日本にとっては、自力での外交努力だけで解決する事は皆無であるだろう。 日本国内で行われた「デモ」は20世紀初頭の頃であるが、江戸時代に勃発した「百姓一揆」もまたデモの部類に入るのではないだろうか。 原発デモについて言えば、永田町の首相官邸を取り囲んだ民衆の大波は、1960年(昭和35年)に起こった「60年安保闘争」以来であるが、その中身は50年前のものと比べ大きく異なっている。 つまり政党や労働組合などとは関係なく個人の意思によって人々が一堂に集まる事が多い。インターネットが全国的に普及している現代では、それらのネットを駆使し呼びかけを行うという、まさに現代の情報化時代を象徴した動きであり現象とも言えるだろう。 然し、そこに本来のデモクラシーは存在しているのだろうか?民主主義を紐解けば、国そのもは国民一人ひとりの集合体であり、国を動かしているのは我々国民と言う事になる。つまり民主主義体制下に於いての権力者は政治家ではなく国民なのだ。 50年前とは時代も大きく変化し、ある一定の水準を手に入れた日本経済の下で、わたしたちはなりふり構わぬ時代を疾走し、平和と安定した暮らしを手にしたかに見えたが、その対極に犠牲と痛みを伴う忘れ物を残して行った気がしてならない。 核家族化が訪れ否応なしに人間本来が持つ労いやスキンシップが失われ、傍観者のみが巷に溢れだし、その行く末に待っていたのは孤独死や自殺者が増加する無縁社会である。 大震災や原発事故によって、それらは曲りなりにも本来の人間性を取り戻してはいるものの、充分だとはとても言い切れないのが現状である。 日本人と違い、韓国や中国の人々は感情の表現があからさまで時にはそれらに嫌悪感を抱いてしまう事さえあるが今回のデモを見ても分かるように、国内と国外では非常に対照的である。 日本人の持つ奥ゆかしさは美徳ではあるが、無関心とは全く別である。オリンピックは参加する事に意義があると説いているが、さて、これらの「デモ」についてはどう判断すべきだろうか。
2012.09.27
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わたしは今でも月に一度のペースで精神科(うつ病)に通院している。それをもう6年以上続けているが、それまでに3回も病院を変えた。 1度目は運悪く評判の余り良くない心療内科に当たってしまい酷い目にあってしまった。そして大学病院に変更してみたが、余りにも待ち時間が長く(3時間待ち)、行く度に担当医が変わり同じ事を何度も話さなければならず非常に疲れてしまい結局そこも止めてしまった。 そして漸く3回目にしてやっと良い精神科医に巡り会えたのであるが、この担当医に出会えた事が詩集出版に繋がった一つの要因でもあった。 だからわたしは担当医にも献本をした。本を出版すると必ず献本作業がある。当然出版社がある程度マスコミ関係に献本するが、わたしは今までお世話になった先生や知人にも献本した。その数は約50人に及んだ。 静岡県を代表する藤枝市出身の作家である故・小川国夫氏にももちろん献本したが、この時は事前に電話を入れ、小川国夫氏本人とは話せなかったものの、奥さんがわたしの事をよく覚えており(実家が隣同士)、話が弾んだ。 他では須磨久善医師。当時は世界で5本の指に入ると言われたスーパードクターである。NHKのアーカイブにも出ている有名な心臓外科医。 お礼の葉書が届いた時には感激した。献本用のケースは文芸社が無料で提供してくれた。独立法人国立特殊教育研究所にも所蔵されている。自分が在籍した学校にも献本し、学校の先生たちからは高く評価されていてとても喜ばしい限りである。 写真は通院中の精神科に展示されている著書(天国の地図)。
2012.09.21
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何処から流れ着いたのか 行くあてもない 難破船がひとつ 暗い海の真ん中で 声を上げても届かない 波がすべてを遮るから 行方知れずの 難破船がひとつ ひとり残らず消えた海 魚の群れに拾われて 波間に漂う 難破船がひとつ 懺悔の海には もう 戻れない
2012.09.12
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尖閣諸島や竹島を巡り、領土問題に揺れる日本にその荒波が押し寄せている。中国や韓国など、相手国が強硬姿勢を見せてから漸く事の重大さに気付く日本政府は、今も昔も後手後手の対応。 100年以上も前の文献を埃の被った倉庫から引っ張り出し、それを証拠として日本の領土だと言い張っても、彼らはそんな昔の事など眼中になく、現在が最も重要なのである。 それまで何の策も打たず、放置状態を続けて来たそのつけが今、まさに日本を脅かしているのである。政府の対応に業を煮やした石原東京都知事が尖閣諸島を東京都が購入すると爆弾発言。その方向で島の地権者と話しが進んでいる事に面目丸つぶれの野田総理とその側近たち。 東京都による尖閣諸島上陸申請を早速不許可。同じ祖国の中で領土問題に対して足並みが乱れ、混乱しているようでは、北方領土も含めこれらの問題は前途多難である。 日本のトップでさえ、いまだ足を踏み入れていない「竹島」に韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が自らの足で竹島の土を踏みしめた。 これに対し日本政府は、独島訪問の抗議内容が入った書簡を韓国側に送ったものの、殆どが門前払いという情けない結果に終わった。 竹島が日本の領土であるとされる証拠が「ラスク書簡」。1951年、米国のラスク国務次官補が、竹島の領有権を主張する韓国政府に送ったものであるが、その中身には「朝鮮の一部として取り扱われたことが決してない」とう内容の事が記されているようだ。 韓国側の不法占拠を明確に示す決定的な資料であるが、この文書の存在がどれほどの影響力を持つかは全く未知数である。 相手は物の道理が通じない、それこそ未知との遭遇。戦前・戦後の忌まわしい過去(従軍慰安婦問題等)を両国が引き摺っている限り、韓国と日本の間に「友愛」という絆は生まれる事はない。 それにしても韓国の日本に対する猛反発は人種の大きな違いを見せ付けてはいいるものの、日本人が大人し過ぎるのか、それとも単なるお人好しなのか。原発デモ行進やパレードは兎も角としても、領土問題ではデモを起こす気にすらならないのだろう。 こんな自分さえ良ければの自己中心主義が蔓延るからこそ、国内外から「平和ボケ」と指摘されるのも頷けるのである。これだからあるブロガーに「竹島なんぞくれてやれ」と毒舌を噛まされるのだ。 中国が「釣魚島」と呼び、領有権を主張している尖閣諸島(魚釣島)については、米政府が公式呼称として「センカク」を採用していることが明らかになっているが、あらゆる所に米国の影が存在し、日本が自国のみで解決に至らない弱みを他国に曝け出しているようなもの。 それに付け込む中国や韓国の暴走。それを止められない弱小政府を見ていると、如何に日本の基盤が弱体化している事を見せ付けられる思いだ。 領土問題を個人レベルで捉えてみれば、人間の持つ浅ましい姿がそこに垣間見えて来る事だろう。土地絡みの利権問題、財産分与などや隣人との争いごとに至るまで、強欲な人間の罪深さだ。 相手のテリトリーを一切侵さない野生動物とは大違いで、地球・自然・共生という最も基本的テーマから大きく道を踏み外すのも残念ながら人間の特徴なのであろう。
2012.09.04
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切れてしまったら もう二度と 聞こえない 恋の糸電話 あなたとわたしを繋ぐ糸 か細いけれども しなやかに あなたの声が届くまで わたしは耳をそばだてる 微かに聞こえる あなたの声が わたしを好きだと 言ってくれるまで 恋の糸が途切れぬよう 願いを込めて 待ってます
2012.08.30
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日本がメダリストたちの凱旋パレードに熱狂している頃、遥か彼方、最果ての地シリアで一人の女性が命を絶った。 美人女性ジャーナリストの山本美香さんである。内戦が続くシリア北部アレッポで取材活動中に銃撃戦に巻き込まれ、ほぼ即死状態だったと言う。 一人の日本人が亡くなったところで、熱狂する50万人が集まった銀座パレードの大歓声で、彼女の悲鳴は掻き消され、誰一人その地に視線を向ける事はない。 くどい様だが、オリンピックが「平和の祭典」ならば、シリアの内戦を食い止めてみろと言いたい。スポーツに酔いしれるだけがオリンピックの役目なのか?そのメダルは平和のシンボルだろう。 オリンピック開催中にも、シリアでは多くの子どもや女性たちが戦争に巻き込まれ犠牲になっている。戦場ジャーナリストや戦場カメラマンたちは、命を賭けて世界中の紛争地帯に足を踏み入れ、戦争の悲惨さや愚かさをわたしたちに伝える「平和のメッセンジャー」でもあるのだ。 シリアでは既に27人ものジャーナリストが命を落としており、山本さんが銃撃戦に巻き込まれた当時の様子を、パートナーであり事実上の夫でもある佐藤和孝氏は、その状況を沈痛な面持ちで静かに語っていた。 政府軍、反政府勢力、そしてイスラム過激派が活動する現地では3方面から攻撃を受ける可能性が非常に高い。 銃撃事件発生時は、政府軍の戦闘機が上空を飛び交い空爆の真っ最中だったとも言う。シリア政府が自国の住民を無差別に攻撃すると言う、テロと何ら変わらない想像を遥かに超える権力と言う暴力がシリアでは日々平然と行われているのだ。 異常なまでの執念で反政府勢力を弾圧する国家、それがわたしたちと同じ人間なのである。山本美香さんは幼い頃に新聞記者であった父親の背中を見て育って来た事から、報道の道へと自分の人生を賭けたのであろう。 平和に対する情熱を人一倍持ち、紛争を通して平和の尊さを世界中に発信し続けた彼女の願いは届いているのだろうか。 報道の自由を擁護する民間団体の「国境なき記者団」は今回の山本さんの死に伴い、ジャーナリストを攻撃しないよう訴えてはいるものの、争いの当事者たちには自分たち以外は全て敵なのである。 個人の立場でボランティア活動に勤しんで来た「高遠菜穂子」さんを思い出してしまったが、皆さんの記憶からはすっかり消えている事だろう。 イラクで過激派の人質に合い、からくも無事に解放されたものの、そのイラクに再び戻りたいと発言したため、世論や当時総理大臣であった小泉純一郎氏からも批判を浴びた。 彼女はその後、PTSDに悩まされ続け眠れない日々を送っているという。わたしと同じ文芸社から「愛してるって、どう言うの? ―生きる意味を探す旅の途中で―」が出版されいるので、興味のある方は読んでみるとよい。 それにしても日本人の「平和ボケ」も此処まで来たかとつくづく思う。銀座のパレードには50万人もの人々が集まるのに、原発再稼働反対デモにはせいぜい10万人。 国の将来を左右する最も重要と思われる課題に対して、国民自身がこの程度の関心しか示さないのであれば、敗戦のどん底から不屈の精神で立ち上がった国民の意志は、きっと何処かに置き忘れてしまったのではないだろうか。
2012.08.26
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