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今まで、ドラマや映画の脇役ではちょこちょこ出ていたんですが、
いよいよ主演の ドラマ が始まりました。
斉藤工君の知名度が広がれば、必然的にシュタイナー教育の知名度も広がりますからね。
斉藤工君、頑張って下さいね!
以下は、津田塾大学で斉藤工君が、「"自分"と言う名の境界線 ~シュタイナー教育・世界貧乏旅行記・芸能界から見えたモノ~」というテーマで語った内容の抜粋です。
「斎藤工です。28歳、俳優です。
高卒なので、このようなキャンパスライフには憧れをもっていました。
今日、津田塾大学でこのような機会をいただきましたが、
話すにあたって「自分に何があるのか?」ということについて困ってしまいました。。
2年前に『ニッポン脱出』という自叙伝を出版しましたが、
そのときも同じことで困りまして。
そのときは、まず自分のこれまでを振り返ってみました。
すると、ユニークな環境においてくれた親のおかげで、
今があるということが見えてきました。
今日はそのユニークな環境を含め、
これまでの人生で、自分がどういうことをチョイスして
今に至るかを話そうと思います。
俳優業は、「非常職」だと考えています。
普通じゃない職業という意味ですが、
その非常職に就くまでの道のりは、
自分にとって自然なものでした。
ボクは1981年生まれで、
小学校は国が未認可のシュタイナー教育の学校で過ごしました。
シュタイナー教育とは、
感性を育て知識を重視しない教育で、
シュタイナー教育を受けた有名人としては、
ミヒャエルエンデがいます。
児童数は7名、ぼくの2歳上の姉が一期生で、
一学年空いてボクたちは二期生でした。
どこも親が教育に熱心な家庭でした。
7名しかいませんから、
先生と1対1で授業を受けたときもありました。
その学校は、2000年に小泉首相が学校法人に認可し、
現在、藤野にあります。
先日も行きましたが、僕は二期生ということで、
意見を言わせてもらえるんです。
今日は、当時のボクのノートを披露します。
母親が取っておいてくれていました。
小3のときのノートでは、
色鉛筆で書いた木の絵が、
ぱらぱらページをめくっていくと色鉛筆で書いた漢字になっていきます。
シュタイナー教育ではカラフルに色を使って表現させていました。
音楽のノートでは、五線譜に音符ではなく、
背景にイラストを描かせ、その上に音程を線で描いて、
その線に沿って文字を並べていっています。
算数のノートは、クレヨンや折り紙で、
カラフルに図形を表現しています。
どの教科も美術作品を描いているようなノートになっています。
シュタイナーでは小1から英語とドイツ語を習います。
ドイツ語のノートを見ると、母音と子音を色分けして書いています。
すべての教科がこのようにすすめられるので、
授業を受けているというより、創作をしているようでした。
シュタイナー独自の教科として、「人間と動物」というのがあります。
ノートを見ると、人間の身体を月や太陽で表現しています。
アタマが日で、身体が三日月・・・というような感じです。
ボクは、この授業で「イカ」について研究していたものが
残っているので、読み上げます。
「私はイカです。
敵が来たら 墨を吐きます。
私の口は足の真ん中にあります。
海の小さな生物を食べます。・・・・」
このように、自分がイカになりきって説明文を作りました。
ほかにも、猫や馬についても書いたものがあります。
それぞれの動物になって詩的に表現させています。
小6のときのノートでは、
白いノートに、罫線の代わりに背景を2色でボーダーに塗り分けて行をつくり
その上に文字も色分けして書いています。
神話の物語も書いていました。
「世界のはじまり
なんにもない世界
神様が光をつれてきて昼と呼びました
闇を夜と呼びました
昼と夜を合わせて一日と呼びました・・・」
自分のことながら、すばらしい詩の創作をしていたと思います。
このような特殊な教育を受けていたのですが、
もちろん親の意志による学校選択で、
当時は親のエゴだと思っていて、イヤでした。
家庭でも、食事はマクロビオテック、玄米中心の食事でした。
おやつは煮干など、戦後みたいでした。
初めてポテトチップスのようなジャンクフードを食べた時、
あまりに美味しかったことを覚えています。
テレビも禁止で、でもボクはキャプテン翼が好きで、
ノートにキャプテン翼の絵を描いているのが残っていますね。
ですから、ボクの土台はシュタイナー教育です。
そんなボクは小4のときに大きな出来事に出合いました。
サマースクールでイギリスに行ったのですが、
行きの飛行機でみた地図に日本が載っていなかったのです。
それはイギリスの飛行機なので真ん中にイギリスがあり、
右の端に小さくいびつな日本がありました。
子供ながらに、日本が小さいことにショックを受け、
こんな小国にとどまっていないで、世界に行ってみたい、
「自分は、この国で終わらない」という決断をしました。
シュタイナーの学校は七年制でしたが、
ぼくは6年生の3月に公立へ転校しました。
それは地元の公立中がサッカーの名門で、
サッカーがやりたかったからです。
転入して最初の行事が卒業遠足でした。
TDLだったのですが、
友達もいないので本当につまらなくて、
いまだにトラウマになっています。
そして、学習内容がまるで違うことに面食らいました。
シュタイナー学校では、公立の学校で学ぶような知識は
まったく求められていなかったのです。
当然成績は悪く、点数は取れませんでした。
あわてて母親と3ヵ月かけて猛勉強しました。
そのころのことで鮮明に覚えていることがあります。
美術の授業で、「空」といテーマで絵を描くことがありました。
みんなは同じように青い空、白い雲、を輪郭をつけて描いていました。
けれど、ボクはその日は暑かったので、なんとなく空を赤で描きました。
ボクだけ赤い空です。
すると、美術の先生に呼ばれました。
ボクはてっきり怒られるかと思ったら、「これはいい」と褒められたのです。
輪郭(境界線)が描かれていないことを褒められたのでした。
それがとても嬉しかったのです。
ボクは、絵でも境界線を描いていませんでしたが、
人生での選択のときも、境界線を描かないで、ニュアンスを重視します。
また、選択時が成長するとき、だとも思っています。
選択を迫られるような追い込まれた時にこそ、
人間は成長するのだということです。
さて、そのようにシュタイナー教育は
ボクに多大な影響を与えていたのですが、
一つだけ納得できないことがあります。
それはシュタイナーが手を使うことを教育するもので、
物を足で蹴ってはいけない、というルールがあり、
サッカーができなかったのです(笑)。」
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