新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0

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2005年07月17日
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皆さん、3連休をいかがお過ごしでしたか。

自分は、皆さんにとっての観光地のど真ん中で暮らしているらしい事。
改めて感じ取る週末でした。それも大阪あたりから北上してくるクルマと
疎遠な狙い目を散策していると、こちらにはまだまだ見所が多いのが
新しい発見につながります。

滋賀は、色々な意味で自分には不思議な地域です。

両親が滋賀県人でありながら、自分は親戚づきあいからも墓参りからも
完全に距離を置いてきました。実の処、親戚も多分先祖代々の墓の方も
わたしを度し難いと、忌避していたのではないかと内心思っています。


郷里滋賀に戻ることはできなかったという事がありそうです。それを
可能にしたのは、あの朝鮮動乱やベトナム戦争などに喚起された戦後
日本の未曾有な経済成長だったのは皮肉なものだと思うのです。しかし
両親には、そんな透かした事を言ったり考えたりする余裕など皆無で
ただひたすら稼ぎと生活と子育てに駆け抜けたという事なのでしょう。

そんなこんなで自分は、両親にとっての滋賀ともまったく違い人間関係
については滋賀には絶無に近いところまで絞り込まれてきました。自分に
とっての滋賀は、これまでのところ純粋な記憶。回想される体験でしか
なかったわけです。



怖いですね。ある意味自分の子供を生むと言うことは恐怖と背中合わせかな?
最近は親殺しも多いしね。それなりに背負っている重たい人生の苦労が石の
ように重たい・・・それが人生かなと??
                     ひめちゃん3058さん


ひめちゃんのコメントは、先の夏目漱石の「夢十夜」第三夜 という小説の感想です。
7月15日の引用はWEB上のライブラリーである青空文庫にリンクしておきましたの



それほど怖がることもないと思いますが、さりとて
緊張感が緩むと少々キツイこともありそうです。

子供をみていると、自分のなりたちが良く分かり
興味深いです。好き嫌いが嫌いな子供にも、感覚が
鋭敏で食べられないものが多いというのは自分自身

してという手順以外に、記憶を回想させて体験を
などることができるというのは子供を持っている親
だけが体験できる境地です。


滋賀は、二重三重四重の思いを馳せる新しいテーマですが、、、

親も、親族も知りえなかった無意識にすら片鱗を残していないような、すでに
肉に染みついて染まったアザのような痕跡を、育った大阪で培った素養だけを
手がかりに思い出してゆくような気分です。

福井県は、自分の現在の生活圏からは至近になりますが古い時代に我が一族
の祖先が浅野長政の家臣団として明智光秀の没落以後に1583年坂本へ。
大津と坂本を統べて2万石の小大名として活躍した時期に、同伴したのだ
という意味では、福井県は私自身も親族も知りえなかった歴史の最深部だ
という事になります。

関が原の合戦で敗れ以後の凋落は、一族をどのように翻弄し、鍛えたので
ありましょうか。そんな話題を親族や他界した祖母などに持ちかけても一笑に
ふされたことでありましょう。

土曜日には、賤ヶ嶽のふもとのドライブインで琵琶湖を眺めてきました。
浅野長政が武功により大津坂本を拝領する契機となった古戦場であれば、
近いこともあり一度丁寧に散策してみたいという気持ちも生じます。

いくさと戦争で血塗られている自分の出自については、平素僅かも意識は
しませんが、つくづく我々は人殺しとは疎遠でいられない存在のようです。



1544/1547~1611(天文13/16~慶長16)安土桃山時代の武将。秀吉政権の五奉行の1人。
通称弥兵衛。はじめ長吉と名乗るが,晩年に長政と改名。尾張春日井郡北野に安井重継の子
として生まれ,織田信長の弓衆浅野長勝の養嗣子となる。織田信長に仕えるが,豊臣秀吉と
は相婿とあって親交が厚く,1573年(天正1)に秀吉から120石を受けるなど,早くから秀吉
に属していた。1582年明智光秀の死後あとを受けて近江坂本城主となり,翌年には近江で
2万300石を領した。1585年には五奉行の首座に列し,1587年九州に従軍後,若狭1国の大名
となり小浜城に移った。次いで従五位下,弾正少弼に叙任。太閤検地奉行を務めるとともに,
小田原・奥州征伐に従軍。1592年(文禄1)には軍監として朝鮮に渡り,翌年甲斐1国を与え
られ22万5000石を領した。秀吉の死後,徳川家康暗殺計画に連座の容疑を受け,家督を子幸長
にゆずり,武蔵国府中に蟄居。関ケ原の戦いでは幸長とともに東軍に属した。戦後,幸長は
紀州和歌山城主として37万6000石を領し,長政は,江戸に住んで常陸・近江両国で養老料
5万5000石を領した。江戸で没。高野山悉地院に埋葬される。




天文16年(1547)、尾張春日井郡北野生まれ。父は安井重継、母は浅野長詮の娘。幼名、長吉。

織田氏の弓衆である叔父、浅野長勝の二女と結婚し浅野家の養子となってから、弥兵衛といった。
この叔父長勝が、養女としたのが、秀吉の正室ねね(おネ)であり、後の北政所である。秀吉の妻
と長政の妻は姉妹ということになる。

長政の初陣は、天正元年(1573)、浅井攻め。のちに秀吉に仕え、賤ヶ嶽合戦で功があり、近江
2万石を領す。同11年(1583)には京都奉行職。大津、坂本2城、2万石の城主となる。

小牧長久手合戦の後、秀吉が家康との和解に、妹、朝日姫を家康に嫁がせる際、浜松に同行した。
同15年(1587)、若狭小浜城主、8万石、翌年(1588)、従五位下、弾正小弼に任命される。
小田原攻めにも参加。奥州に遠征。会津若松にて奥州仕置に任ず。秀吉の天下統一に悉く貢献した。

文禄2年(1593)、嫡子、幸長とともに甲斐に移り、22万石を与えられ、征韓の役にも出陣。
慶長3年(1598)、秀吉の死の直前、五奉行の筆頭。

秀吉の死後である翌年(1599)、家康暗殺計画の嫌疑を受け、謹慎。家督を幸長に譲り、武蔵府中
に隠居。関ヶ原合戦では家康を支持し、東軍に加わった幸長の功(家康の後詰)により、和歌山37万
9千石の領主となり、慶長11年、長政は常陸真壁などに隠居料5万5千石を与えられた。

慶長16年(1611)4月7日、江戸(下野塩原温泉とも言う)で没。65歳。

その子幸長は和歌山城主として、38歳で死んだが、後継ぎがなかったため、弟の長晟が継ぎ、のち
安芸広島に42万石の太守となった。

ちなみに「忠臣蔵」の赤穂浅野家は、支流である。










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最終更新日  2005年07月19日 19時48分52秒
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