新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0

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2005年09月06日
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実は、三浦梧楼の名を知ったのは司馬遼太郎の「街道をゆく」に起因する。

司馬遼太郎は、よほど会津松平家容保についての同情心が湧いたのであろう。

会津の姫君が高松宮妃になったことで、戊辰以来の朝敵の汚名を返上した?かたち
になっています。(2005/09/06 10:35:37 PM)       作家2507さん


作家2507さんのご指摘で、知ったもののこの国の「いつもの手」という気分が湧く。
昭和天皇廸宮裕仁が久邇宮邦彦の長女良子(ながこ)を娶ったあの大正13年の椿事も
当時は維新の元勲山県有朋が、その政治的失脚を賭けてまで婚姻不成立を画策するほど
天地鳴動の 「大事件」 であった。婚姻そのものが、クーデターというほどの内容だった
のかもしれない。新政府樹立に奔走した叩き上げの山県らにしても、司馬史観的に
会津容保などの肩越しにみれば、所詮公武合体派の封殺に辛勝した程度の成り上がりの



日本の権力の伝統で、常套といってよいのではないか。

実は、司馬遼太郎の「街道をゆく」NHKシリーズで、フランシスコザビエルの直後の回に
会津容保を取り上げていることについては中々重い意味があるとつくづく感じたものだ。




あらゆる思想を持った宗教や政治団体が今まで多くの殺戮を
繰り返していることや、その大量殺人によって平和はもたら
されていないこと、そして「思想のために死ね」と言うやつら
こそがのうのうとのさばっているといった内容の歌詞が繰り
返します。

思想にために死にいそぐことはない、誰だっていずれは死ぬ
のだからと。


多くの人が、それが正しいと叫んでいる中、それはちょっと
違うんじゃないか?というのはなかなか出来ないことです。
特にそれが「人々のため、われわれのため」と言う美しい
理想的な思想だと信じる人に対しては。

今日もまた取り留めのない書き込みでした。


思想のために死す ~破戒~
             マリィ ジョー ♪ さんの日記




いつも熱心に、この拙い日記を通読してくださっているマリィ ジョー ♪ さん
などの普段着な平和に向かう感慨は、まさしく自分自身のものでもある。
しかし、一体なにゆえにわれわれの身辺から血塗られた生活や大量殺人に代表
される暴力沙汰が消える日がないのであろうか。






うけても、拷問の存在を否認できる限り人間は自由である、と実存主義者は
いう(メルロ。ポンティ『知覚の現象学』の「自由」を参照)。果たして
そうだろうか。身体的感情を根本から抹消し、身体の存在の不可能性を極端
にまでおしすすめる暴力的状態のなかで、人間の意識の自由(対象の無化、
否認)など存立しうるはずはない。身体感情こそ人間の存在の根底であり、
そのなかから意識の自由も生育することができる。身体感情というあふれ
出る力が暴力によって削除されるとき、意識の超越力が発動する余地はない。
拷問をはじめとするさまざまの暴力は、ディスクールへの道も、対抗暴力への
道もすべて塞ぐゆえに、最も悲惨である。われわれは暴力を意識のなかで
否認することはできる。しかし暴力を幻想的にではなく現実的におしかえす
一切の可能性が奪われたところで、コギトの自由を語ることにどんな意味が
あるのか。        今村仁司「排除の構造」---力の一般経済序説







マルクス主義者の今村仁司の述べる「暴力的状態のなかで、人間の意識の自由
など存立しうるはずはない」という箇所は、まったくそのとうりである。ただ
同時に、誕生後ただの一度も非暴力的な情況から距離を置きスルスルとすごせた
という記憶がない自分などは、今村教授の主張の普遍性について敬意を表しつつ

ない私自身の存在について不思議なものを見るような気分になる。他ならぬ私自身
が「人間の意識の自由」について、なぜ深い確信を抱いているのかについては
解き難い謎のようなものとして残る。そんな思いはある。

まず、頑強な肉体を与えてくれた父母への感謝の気持ちが湧く。

冗談ではない。繰り返し日記でこれまでにも述べているように自身何度も死にかけ、

神をも畏れぬこの肉体の頑強さ、タフさは、我が事ながら神話的なほどまでに
超絶的な幸運の持ち主だと思っている。


ただ、しかし原則として今村教授の述べるところは分からないではない。

面白いことに、「この国のかたち」では、彼の国のごときにたとえば強制収容所で
いきなりなまでの屠殺的な規模で人々を抹殺するような真似は、なかなか政敵に
対しても実行におよばず、会津容保のように湯船につかる瞬間以外は肌身離さず孝明帝
から拝受した宸翰(孝明天皇からの直筆の親書)を携行して隠忍不抜の心根で過ごせば、
会津容保公個人としては「身体的感情を根本から抹消」されたが如き生涯であったと
しても、没後その一族郎党にはおのずと名誉復権の余地を与えるという風な、実に
パラドキシカルなまでの権力装置がいずこともなく起動し「ヌエ」的なその調整力を
発揮するという文化的伝統になっているらしい。

いずれにせよ、この国では「個人」がコギトの自由を語るという選択以外に概して
すべがないというのも哀しい現実である。そんな実存主義者の個々の現在のすがたを、
今村仁司に無造作に無意味といわれては立つ瀬がない。


「ごまめの歯軋り」とは、そういう事態をさす。






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最終更新日  2005年09月09日 07時09分36秒
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