新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0

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2006年03月27日
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言葉は「石垣」、言葉は「城」。
そう思っている。

信玄ではないが、言葉は、人そのものであり価値自身である。

そんな日本の国際化と、国益を守り、ひいては国を守るためにも言葉に
ついてのこだわりをふたたび取り戻すことはわれわれの急務だという
気がしてならない。ところが、その中で日本語ともども高い関心事で
ある、英語の教育現場は自分らの育ったあそこからあまりにも退嬰的
なまま、変わらないのだという。

たまゆら1/fさんと、MIXIで英語の勉強法をこそこそ密談している。

朽ちてゆく脳細胞と闘うというのも一興のような気がしないでもない。







東後: これからは、英語を勉強の対象そのものにしている人と、英語を
手段にして何かをやっている人との英語力を比べると、英語を対象にして
やっている人はよほど頑張らないと負けちゃいますよ。というのは、英語
を対象にしている人は、英語についてはレクチャーできるんですね。
ですが、英語を実際に使っている人は、いわば、タクシーの運転手のよう
なもの。人を運ぶことが目的で車を運転している人と、車が好きで趣味で
運転している人の違いみたいなものが出てきますから、運転技術にかけて
はとてもじゃないけど、タクシーの運転手に勝てないでしょう。それと
同じですね。ですから、やはり目的を持つことによって馬力が増す。
この日本語は適切かどうか僕はわかりませんけど―― 言語の徹底的手段化。

佐々木: 要するに、ほかに目的を持つということですね。

東後: そういうことです。言語そのものを対象にする人、言語学者は
一握りでいい。

佐々木: それは全面的に賛成ですね。

東後: でも、英語の先生はみんないつのまにか英語学者になっちゃって
いるんですね。英語を使って何か話したり、書くという訓練ができてない。
とにかく話せないというのは、スキルになってないんですよ。いや、話す
ことはうまいのかもしれません。ただ、その内容を自分の持っている英語
というヴィークルに乗せたことがないから、結局、話ができないということ
で孤立しちゃうんですね。内容を運ぶように言葉を使ってないんですね。
だから、 英語をぞうきんみたいに使わなきゃだめだって。
佐々木: 日本人はちょっと文法に気を使い過ぎますね。私は文法はめちゃ
くちゃでもいいから、とにかく話すことだと思うんですけど、どうなんで
しょうか。

東後: それについて、忘れないうちに話しておきたいんですが、すごく
重要なことなんです。日本人が今でもいかに英語を目的として競っている
のか、つまり手段として使っていないかという例なんですが、先日、英検
の表彰式があったんです。そこで1級、2級、3級を取った人が表彰され
まして、1級の中のとびきりすばらしい人のモデルスピーチというのが
あったんです。スピーチを全部暗記して、壇上に上がったんですね。
ところが、途中で忘れちゃった、2分ぐらいたったときに。

佐々木: 真っ白になっちゃった。

東後: そう。ところが原稿を持ってなかった。仕方がないから、英語で、
「自分は忘れました、原稿を取ってきてもう一度やっていいですか」と
言って、壇上をおりた。そして、原稿を持って、再び壇上に上がってもう
一度スピーチを始めたんです。その間、そこに参加している先生方とか
関係者はシーンとして。もう何と言ったらいいのか……とにかく、みんな
彼の「英語」を聞いているんです。内容じゃないんです。
「これが1級の英語なのか」って。だから、彼はますますあがっちゃう
わけですよ。彼はアメリカに20年住んでいて、英語はペラペラなの。
だから、話の内容を聞いてくれているんだったらコミュニケーションに
なるから、少しぐらい忘れたって大丈夫でしょう。ところが、彼も英語の
デモンストレーションをしなさいと言われているから、パーフェクトに覚え
て、パーフェクトに忘れた。その後、僕は5分ぐらい祝辞の時間をもらっ
たんだけど、あまりシーンとしているからもう胃潰瘍になりそうで、話が
できないんです。わかりますか、忠臣蔵の松の廊下の雰囲気なんです。(笑)
怖い顔で見ないでくださいと僕は言った。だれも笑わない。にこりともしない。
そういうところに、日本人の持っている本質的な国民性みたいなものを感じ
たし、 英語というものをまだ大切にショーケースに入れて、眺めて鑑賞して
評価しているという縮図だと思いますね。それを僕は一気にぞうきんだと
言ってやったのね。

佐々木: 向こうの学会が、どれだけ楽しいジョークで始まるか。それなのに、
日本人の学者がどれだけまじめにやっちゃうか……。

東後: そのまじめさが、かえってネガティブになっちやうのね。

佐々木: そういう意味では、外国人のプレゼンテーションて、日本語が
下手でも上手ですよね。

司会: ただ我々が英語を考える場合、どうしてもそのシステム、つまり
学校英語、受験英語という枠を考えないといけないんですが、それらと、
ほんとうにコミュニカティブになっていく英語を学ぶというニつがどういう
関係にあるのかということについてご意見をお聞かせいただけますか。

佐々木: 今の受験が変わればいいんですよね。

司会: だけど、今の状態ですと受験英語に相当縛られている学校英語と
いうものがあって、じゃ、その中に、例えば今までのアプローチじゃない
コミュニカティブ・アプローチをやっていこうというのはわかるんです
けれども、そうすると、矛盾が生ずる……。

東後: 僕はこういうふうに考えるんです。学校英語と受験英語があって、
また一方に新たなコミュニカティブ・アプローチがあるという、そういう
並立の関係ではないと思う。コミュニカティブの考え方というのは、両方
にじわっと浸透していって、最後には受験英語、あるいは学校英語という
ものが、本質的に変わってくるべきで、やはり受験の英語、学校の英語と
いうものは残ると思うんですよ。今、ものすごく非難されているのは、
その受験英語、学校英語そのものの持つクオリティのおかしさだけで、そう
いう枠組みがあること自体は別に問題ではないわけですね。
今回の大学設置基準の自由化で、各大学が今カリキュラムの検討をやって
いますね。そうすることで、大学が高校生に求めている語学能力というのは
何かということを再確認しながら、試験問題が少し変わっていかなきゃなら
ない。すると、受験英語は変わってくる。僕が一番希望しているのは、
受験英語が変わると、それに合わせて先生方は子どもを指導されるわけです
から、学校英語というものの内容も変質してこないかなということです。
 だから、コミュニカティブ・アプローチというのは、少しずつ底辺から
彼らの意識を変えて、結果として今の受験英語、学校英語の質を変えていく
という性格のもので、これが出てきたら、これとこれがなくなるという、
そういうものではないと思うんですよ。

佐々木: 変化していくために、どのぐらいの時間がかかりますか。

東後: 50年。

佐々木: 私もっと早いと思いますけどね。

東後: いや、僕は50年。

佐々木: この間、東大でビデオを使った授業が始まりましたね。それから、
国立大学の入試問題が随分変わってきました。受験そのものが。受験が
変われば、予備校が変わって、予備校が変われば、学校の先生が変わって
いって……。

東後: 50年かかりますね。

佐々木: 私は10年ぐらいの短いスパンで変わってくるんじゃないか
と思いますが。

東後: 10年では無理だな。

カビラ: そういう現場にいないもので印象でしか言いようがないんです
けれども、いったい中学校が何校あるんだ、高校が何校あるんだと考えて、
それにいったい英語の先生は、何人いるんだ……万単位ですよね。変わら
ないですよ。

佐々木: そんな……全然、希望はない?

カビラ: いや、希望はあるんですが、僕は50年説です。

           東後勝明×ジョン・カビラ×佐々木瑞枝 司会あわやのぶこ
                   「脱モノリンガル時代の英語教育」





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最終更新日  2006年03月27日 19時07分51秒
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