新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0

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2006年11月17日
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平素、めったにブログの記事でめげたり落ち込んだりすることはない。書いていることでも、
読んでいることでも10年もすれば、一種のニルアドミラリィが形成されているのだろう。
パソコン通信を始めたのが、93年だからもう軽く10年は越えている。

しかし、あの源田実には正直呆れた。

まだ、検証すべき仮説とはいえ杉山巡先生の推量は相当確度が高そうな気がして
しかたがない。それにしてもけしからぬ。よりによって、カーティスルメイにあの恥辱の
勲一等旭日大綬章を授与の「下手人」が、風評とはいえ源田実だとは夢にも思わなかった。

あまりにも頭にきて、鬱々するので週末でもないのに大阪の実家に戻り母親にこの件
話に戻った。昨晩のことだ。母親は、八十にもなるが歴史には強いし、特定の分野
では猛烈に読書量もある。自分が学生時代に購入した本は、ほぼすべて実家に

のある話題でも、よく理解する。

なんだか人間インターネットのようだが、昨今の杉山巡先生の話題やらなにやらまとめて
母親に晩飯食べながら話してた。まあ、大概のことはあまり反応しなかったのだが、流石に
母親も憤懣を隠さなかったのは、源田実がカーティスルメイという母親が知らないアメリカ
の軍人に勲章を与えたということよりも、勝てる闘いを阻害した疑義があるということに
あるらしい。


母親は、18歳で京都府立医大の看護婦として大阪大空襲の罹災者の世話をしたと以前に
述べた。昨晩も彼女が言うのは、「自分は手抜きをしなかった。来る日も来る日も薬の
支給もなく、ピンセットで硝子の破片を支援先の現場へ駆けつける数え切れない罹災者
の世話をして、指がおかしくなっても続けた」と。

とりわけ、福井県から支援に来た看護婦たちの働きには心底心を打たれるほどのものが

と、高いスキルに瞠目したという。

つい正義感から、厚生係の長に若い娘が意見をしたという。気丈な母親の娘時代だ。
それぐらいのことはやったかもしれない。

そのときに、厚生係長は、ぼそっと「大阪の爆撃も悲惨で気の毒やが、京都もいつこういう
風になるやらわからんしなあ。薬もおいとかなあかんと思うてますんや」と、気まずそうに


結果的に、京都には敗戦まで爆撃らしい爆撃などなく無事だった。
薬をつかっても、どうにもならない悲惨な罹災者の傷病でもせめてあるものならば使って
差し上げたかったという思いが今だに禍根で残っているものらしい。


それにくらべて、源田実は許せない、というのだ。
母親からすれば、手抜き男というのだろう。
眼つきも鋭いが、どことなく卑しい雰囲気のする嫌な奴だったと母もいう。


堀越にパイロットの被弾防護や着水時の水沈配慮をさせなかったものはこの「論争」が
もたらしたものだったかもしれない。

ベテランの看護婦でも、ピンセットだけでは深刻な切創や火傷のある罹災者をいかんとも
しがたかっただろう。







その当事者とは、源田実と柴田武雄である。二人は海軍兵学校の同期生で同じ戦闘機搭乗員を目指した。12試艦戦(ゼロ戦の試作機の名称)設計のあまりに過酷な要求項目に苦慮した設計責任者の三菱掘越次郎氏は、会議の席上でその項目に優先順位をつけてほしいと申し出た。

空戦性能と速力と航続力の3点はそれぞれ相反する要素である。空戦性能を最重点にすれぱ、速力はある程度犠牲になり、また航続力も影響をうける。また、速力に重点を置けぱ、空戦性能は制約されてしまうし、燃科を沢山積めぱ速力は落ちてしまう。

当時パイロットを代表する源田と柴田は激しく論争した。源田は空戦性能最優先を唱えた。当時、彼は源田サ-カスの異名をとるほどの編隊空戦の立て役者であった。これに反して柴田は、速力重視を主張した。スピ-ドが劣れば、敵に逃げられてしまう。空戦性能の低下は、パイロットの技量向上で補えると唱え、両者は譲らなかった。 読者はどう判断するだろうか?

堀越技師以下の設計陣は、両者の主張を何とか満足させたいと、苦心の設計に挑み、世界の想像を絶する高性能の戦闘機を開発した。僅か940馬力のエンジンで最高時遠533キロメートル、当時どこの国の戦闘機も搭載できなかった20ミリ機銃2丁と7.7ミリ機銃2丁を装備し、爆弾も60キログラムを2発積むことが出来、増槽をつければ長駆3,350キロメートルを飛び続ける戦闘機を創り上げたのである。開戦の日、台湾の高雄からフイリピンのクラーク・
フイールド基地に空襲をかけたゼロ戦を、アメリカは戦後まで航空母艦を使って空襲したと思いこんでいたことでもその優秀さが分かる。

しかし、この防御装置を犠牲にして創られた脅威の戦闘機も、やがて戦況が互角になり、消耗戦の様相を帯びてからは、その弱点が被害を加速度的に増大させる。また、柴田武雄の主張がとおっていたら、グラマンはそう簡単にダイブで左にひねりながら逃げられなかったろうし、逆に追われた時も敵を引き離して脱出することが出来ただろう。

派手な機動部隊の陰で、柴田等の基地航空部隊は、黙々と航空撃滅戦を展開していた。連日休みのない戦闘を、限られた搭乗員と機材とで黙々と繰り返しながら、次々と南瞑に消えていった。そんな基地航空部隊を率いた柴田には、零戦の設計段階での自分の主張が通らなかった無念さが戦後も尾を引いていて、事ごとに源田と論争を繰り返し、ついにはお互いに口もきかず、手紙で論争を繰り返していたと言う。源田も柴田も掘越ももうこの世にはいない。

源田実と柴田武雄の終生の輪争
阿部 三郎(元零戦搭乗員・海軍中尉)













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最終更新日  2006年11月17日 23時42分26秒
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