実は、この話題はこちらのブログで何度も取り上げている。大多数は興味がないらしいので、勝手に口ばしっているだけだが、興味を示す人も意外に少なくないような気がする。早い話、自分の母親が、子供の頃からうるさくてしかたがない。迷信深いのとは少し違うようだ。本人は、天然自然の不思議、みたいなことを言っているが、霊験だの、あの世だのを持ち出されても知ったことかというのが不孝者な息子の基本姿勢だ。小学生時代に、やけに山伏だの修験者だのが家にきて、憑き物めいた話をするので与太にもいろいろあるものだとつくづく感心した。自分は、迷信深くもないものの、与太の愉しみはよく分かるので、飛び跳ねた話は大歓迎である。
もっとも自分自身は霊的感受性が皆無のようで、墓の上で寝ていても熟睡してしまう。
むかし、長野県の宿で食事がおいしく女将が気さくで楽しい旅館があった。そこで同僚の出張時に強く推奨したものだ。後日、帰社した同僚からさんざん恨まれたものである。夜中に魑魅魍魎が怒涛のごとく押し寄せてきて、一睡もできなかったのだそうだ。朝、おそるおそる窓を開けると裏は一面の墓地で、腰が抜けるようだったといっていた。あの恐ろしい旅館で、よくぞ熟睡して朝夕飯が食えたものだと呆れられた。心なしか同僚の頬が削げていたように思う。気の毒な事をした。
そんなこんなで、周囲の霊的感応者らのそれぞれがさんざんな眼にあっているのは耳にする。
母親に言わせると、アメリカの戦闘機に殺されずにすんだのもなにか霊的な疎通のせいなの
だとか。そうすると、自分が悪運強く生きているのも、なにかの霊界のおぼしめしなのだろう。
母親が、 守山空襲
で殺されておれば、当然自分は生まれておらぬが、それよりも2歳で死に
かけても、5歳で家を放火されても、涼しい顔して生きていられるのはなぜなのだろう。考えて
みれば、墓の上で涼しい顔して寝ていられるという「鈍さ」もなかなか凄い能力だとわれながら
感心してしまうわけだ。同じようなことを、前にも述べたが、何度述べてもここのところは実に
面白くてならぬのである。むかし比叡山を焼き討ちしたむちゃくちゃな戦国大名がいたが、
多分自分のような奴だったのだろう。

共感覚(きょうかんかくsynesthesia、ギリシア語で「共」+「感覚」)とは、
視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五感が未分化である人間の幼児期のさまざまな
感覚が(特異的に)関連しあうこと。
例えば、7という文字に青い色を感じたり、音階のミの音に緑色を感じたり、ハンバーグの形が
苦い味に感じたりするなどである。その後の成長による感覚の発達にともなってこうした共感覚は失われていく。しかしながらたまにこうした共感覚を保持したままの大人もいる。特に、その場合に共感覚と呼ぶ場合が多い。
女性の高い声を「黄色い声」などと言うように、人類、あるいは特定の環境・文化に共通の感覚はある。しかし、共感覚を持たない人には感じられない先述のような感覚(数字に色を見るなど)を、共感覚者は切実な実体験として感じている。
共感覚の中でも、音楽や音を聞いて色を感じる人は「色聴」といわれる。絶対音感を持つ人の
中には、色聴の人がいる割合が高い。音を色で判断しているとすれば、音を判別するとっかかりが通常より多いことも一因と考えられる。
これは、自分が霊的感応力というのか、霊能について考える手がかりにしている生理学の視野に登場した「共感覚」についての読み解きである。
思うに、いわゆる「霊能」とは、これら共感覚と同じ地平にあるものだとするならば生物の起源以来の由来を踏襲するわれわれが細胞から分化する際に、外胚葉とよばれる同じ位相に感覚器官を平衡させて感受していた名残という気がしてしまう。
われわれが霊長類として脊椎動物の極相にあるについても、原生動物以来の、膨大な年限をかけての系統進化の過程でたぶんこの細胞分化の集約度ごとにそれぞれ塊をなしてなんども高度化してきたのだろうと思うが、五感がそれぞれ相互干渉しあう事のないというのは、脳の高度化にとって必要だったにせよ、はたしてわれわれと言う種のそれぞれの一固体(個人といってもいい)にとって、それほど幸せなことなのかどうかは判断に苦慮する。

自分は、視覚的なものが大変刺激として好きで音で耳にするものはなるべく少ないほうが
快適だ。だが、音感の良い人は、つねにスリーピングマスクをして視界をさえぎって音曲に没入していたいという動機の人も多数見かける。脳の好む刺激ですら個体差があるのだ。
霊能者たちのように、五感の外側に人生の意味の所在を求めるという姿勢も重々ありえる事
なのだと思う。
では、なぜこれほど自分には霊的感受性が希薄なのだろうか。
それは、どうにも 言語の有意味性が霊的感応者とまるで違っているからではないだろうか。
自分などはつねに言語の有意味性が、記憶と体験から昇化し、化体したものだと思っているのだけれども、霊能者にとっての体験は自身の思うそれとはまるで違っているようなのだ。
その差は、先に述べた「不良設定問題」への対処方で劇的に違ってくると思う。
自分にとって、「不良設定問題」の解法は、思い出すことであるけれども、霊能者にとっては憑いてくるなにかなのである。 どちらも現在とは相違するなにかなのであるから、形而上的な存在だとは思うのだけれど、いずれにせよそれは快適であるか否かではなく、それ以外の選択しかありえない、というかたちでわれわれに纏わりついてくる。
ひめようこさんは、自分のブログを比較的良く読んでいて文字面は訳が分からないといいながら拙生のみょうちきりんな語彙を辞書をひきながら、結構楽しんで読んでくれているらしい。たぶん、なにかが行間に漂っていて「言霊」のように彼女には憑いていくのだろう。こちらは、ただ思い出しているかのように脳裏へ連続して湧いてくる事柄を適当に打刻して忘れないように信号化しているだけなのだが。いったいどこで言霊を連行してくるのだろうか。興味はつきない。
ブログを読んでいる人の流儀を聞いていると、これまでのわれわれの活字生活で図書をつうじて読者が著者の作品を読み解くのとは相当違っている気がする。
ユニクロ帝国 2024年01月11日
三浦十右衛門の課題が終息をしました。 … 2023年12月23日
I'll see you in my dreams 2023年02月08日
PR
コメント新着
サイド自由欄
カレンダー