起訴、不起訴という検察官の「裁量範囲」が、検察組織という権力の外にさらなる権力もどきの実態を形成し、ひとつの裏利権を形成してしまっている。裏利権に、警察の裏事情が複雑にからみ、この国の司法、行政ごと国民のほうを向いている暇などないほど金と、腐敗しきった組織原則で迷走してくださっているというのが現実だろう。

われわれの日常で警察との接触があるのは、せいぜい落し物の届け出と自動車運転免許証の交付更新などかもしれない。しかし、何らかの犯罪がある場合には、かならず警察が動きだすものと素朴に信じられている。水道管から水が流れるように、犯罪に警察の司法活動が対応すると、そう考えるのがほんらい健常な市民感覚であろう。
犯罪の摘発を行政職として実行するはずの警察機構が、行政職として職務を遂行するに際して、常に検察に裁可を得て、司法職者の判断に依存しているという現実があるからだと思われる。
実は、警察そのものが行政職者と司法折衝者を分けている。これを知ったのは、過去に警察署で窓口担当者が、ある実害を生じた事件で被害者となった私が署にでむいてのか被害届けについて受付をおこなわない、との言明をうけて問いただした際に、そのような事例につねに案内される小部屋、その部屋は、「相談窓口」と呼ばれるものだけれども、わざわざ被害届けを受け付けない理由の言い渡しを受けて驚いたことがある。(それは昨年、自分のバイクが放火された事件の前である。放火されたバイクは、警察はおろか消防署すら放火である旨の罹災証明をださない、という同伴ぶり。つまり警察の退嬰的なことは、もはや消防署にまで関与を広げているという情けない事態だ。)
警察官そのものも、実は「捜査」と呼んでいる司法警察活動にも「司法巡査」と、「司法警察員」という役割の差異がある、というのである。被害者にとっては、なんの関係もなさそうなそらした説明だが、行政職である、警察のその顔の中身として、一般市民が窺い知れない事情がある、というのである。被害届けをまじめに受け付けていたのでは、司法巡査に過ぎない行政職であるわれわれは、つねに行政職に過ぎないヒラの警察官(つまりは、ノンキャリアという意味と大差ないと感じた)は、警察署長らに代表される司法警察員の走狗(パシリ)であって、そうたやすく被害届などを受けていられない、という驚くべき説明だった。
いうまでもない、この司法警察員などというもったいぶった解説の背後にあるものは警察そのものが書類送検(検察送検と呼び変えた方が分かりやすいだろう)の先である、巨大な検察官への配慮で凝り固まっているということだと読み解いて間違いないと思う。なぜ、国民の窮状を斟酌せずに、検察官へこれほどに配慮や気兼ねをせねばならないのだろうか。
それが、まさしく有罪率100%神話。かつてあれほど不人気だった検察官がいまや司法修習生が、こぞって検察官志望とっている秘密がそこにあると思われてならない。
欧米の裁判所は「有罪か無罪か判断するところ」。わが国は「有罪であることを確認するところ」。
これ。 これなのである。
被害届などを受理しちまって、まちがっても容疑者をみつけられず加害者をつきとめられないようでは検挙率にも響くが、それよりも検察送検して有罪にできないような真似を実行する度胸が、ヒラの司法巡査らには恐ろしくて手を染めかねるというところまできているのだ。まして上層と地下社会の癒着はみえみえ。そういう時代相も、あいまっていそうだ。
国民主権などとは世をたばかる真っ赤な嘘。この国は、法科支配、司法職主権だったのかと言いたいほどだ。

ユニクロ帝国 2024年01月11日
三浦十右衛門の課題が終息をしました。 … 2023年12月23日
I'll see you in my dreams 2023年02月08日
PR
コメント新着
サイド自由欄
カレンダー