新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0

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2007年02月02日
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して実務を担当していた妹なので網羅的で、緻密に詰めて親父の晩年を検証してくる。


兄妹で慨嘆するのは、周囲に取り巻く女の数の多さだ。どうも親父は、いかにもという風
に思えるのだが、女については質よりも量という人だったと思える。養子だった祖父は、
ともかくも曾祖父、高祖父の頃からの血筋なのだろうか。よくもこまめに女をコレクション
したものだと思う。それが、どれも安っぽいのである。ひと口、ほりこんだら吐き出すような
手合いが多い。たまにまともげなのがいるかと思っても、せいぜい曽根崎新地のお姐さん
で、債務保証にまわって焦げ付かせているのを弁護士をいれて請求しているのやら。

つまり女とは、すべてカネにからんでの絆であると、達観していたフシもある。どうやら親父にとってみて、ついに女はどこまでいっても所詮請求書印刷機のようなものだ、と割り切って暮らしていたのではなかろうか。そう思うしかないほどなのである。それでも妹によれば、それぞれの女性についての格付けがあるらしい。もっとも本人にとって重きをおいていたらしきは、タンスの底から写真が沢山まとめて出てきた女性だろうという。そうすると病床で、死に水を取るとわれわれ遺族の前で豪語していた某女性は、結局便利屋さん。せいぜい入念な身の回りの世話を託すための介護医療関係者のチャーターぐらいの位置づけだったのかもしれない。周囲の人たちは、その女性を実のところ二号さんだと思っていた人もいて、知らない人は親父の後妻だと信じていたそうだ。しかし、兄妹には分かっているが、絶対に離婚届に捺印しなかったのも父親である。ひとつには、自由になる金が半減することと、国に税金を取られるのが絶対に嫌だったというのがありそうだが、われわれ兄妹には分かっている。生きているあいだに女房に、つまり母親に対して自由になる金を渡したくなかったのだ。

世間では、こういう因業オヤジが存在することをまったく知らずに生涯を終える人もおられるのかもしれないが、自分の父親がそういう奇矯な人格であることは人性の本質的な部分を理解するためには大変寄与するものである。親父のおかげで、親鸞などの読解がたいへんよく進んだ。親鸞は、このようなわが親にしてすら「往生を遂ぐ」と言明したのである。普通の親ではないが、可愛い親父だったと思う。善良な世の父親たちが、往生できるのであればこのような無茶な親父が極楽往生できない筈がないと思う。家族には冷淡に限りなく近いスタンスでありながら、地域社会や飲み仲間、遊び仲間には手厚く金をばら撒き続けた。ばら撒くほど金が続いた筈が無いのだが、とりあえず家の外では金を撒く相手から鴨扱いを受けていてさえ、その自覚もありや無しやひたすら金を撒き続けていた最晩年だった。


また、あるとき、「唯円房は、わがいふことをば信ずるか」と、おほせのさふらひしあひだ、
「さんさふらふ」とまうしさふらひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて
おほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まうしてさふらひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてんや。しからば往生は一定すべし」と、おほせさふらひしとき、「おほせにてはさふらへども、一人も、この身の器量にては、ころしつべしともおぼえずさふらふ」と、まうしてさふらひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとは、いふぞ」と。「これにてしるべし。 なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし 」と、おほせのさふらひしは、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、おほせのさふらひしなり。
親鸞「歎異抄」第十三条

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またあるとき、聖人は「唯円房、私の言うことが信じられますか?」と仰せられたので、
「はい、信じます。」と申し上げたところ、「それでは、私の言うことに決して背かないか?」と重ねて仰せられたので、謹んでお受け申しましたところ、「それでは人を千人殺してみなさい、そうすれば必ず浄土に往生することは間違いがありません。」と仰せになりましたが、その時私は、「お言葉ではございますが、この私の器量では千人はおろか、一人も殺せそうにはありません。」と申したところ、「それではどうして、親鸞の言うことに背かないと言ったのですか?このことによって思い知らねばなりません。 どんなことでも心に思うままになるのであるならば、浄土往生のために千人を殺せと言われたら殺すことができるはずです。しかし、殺さなければならない業縁がない以上一人も殺せないのです。自分の心が良くて殺さないのではありません。またその反対に、殺さないつもりであっても、百人・千人の人を殺してしまうこともあるのです。」 と仰せられました。これは自分の心が良ければ往生ができて、自分の心が悪ければ往生ができないと勝手に思い、不思議なご本願により往生させていただくということを知らないためにおこる誤りへのおさとしのお言葉であります。


記憶では、親父が母親について「殺してやる」ぐらいのことは口走ったように聞く。だが、兄妹はそんなことを実行できもしないし、やれっこないのを知っている。そもそも自分たち兄妹の前でそんなことを口にしたことは、一度もない。つまり、親父は母親に認めて貰ったことが一度もないということが不満でならなかったのだ。親父は、一度ぐらい本気で母親に感謝されたかった人なのではないだろうか。そのように思われてならない。親父が、母親を殺すことが絶対にないというのは、そもそも女房に認めてもらいたいという動機で生きてきた男が、その相手を殺せる筈が無いからである。入れ替わり立ち代り女を漁っていたのも母親が嫌がるのが愉快でならなかった、という面が必ずある。つまり、女房離れがついに終生できないままだったのが当該のわが親父なのである。

さらに、親父も母親も滋賀の人である。双方、大家族で村ひとつ離れていない近隣同士。相互にその近親、縁戚が地域社会で見事に複雑な交際が重なり合っている。こんな関係で、どうして殺し合いなどできるものか。旅客機の中で発砲するような真似ができる筈がない。自暴自棄になることがあっても、ぜったいに母親を殺すなどできないのが親父だったと思う。

夫婦が、殺しあってバラバラ殺人が実行できるのも都市生活がもたらした固有の悲劇だ。わたしがこのブログで繰り返し「運気」だといってきたのは、そのようなものを包含して述べている。左翼には、このような運気についての基本洞察がない。だからリンチ殺人などで、思想上の同志をまんまと刺し殺せるのだ。

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最終更新日  2007年02月02日 23時13分43秒
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