世情語られている、いわゆる「倫理観」というものは取ってつけた用語であって
現実の日本人は過去現在いわゆる倫理観とは疎遠な民族である。たとえば、
他人から後ろ指をさされようが、我れかくかくを信じるなどという精神的な態度
を維持する人間など見たことが無い。「内的な堅牢さ」というものは、歴史的
に日本人がもったことがない。おそらく今後も、日本人にはついぞ疎遠なまま
であろう。それは日本人にとって、不足なのではなく積極的ななにかであると
いう気もするほどだ。
倫理性の根づきとは、私見ながら「一神教的伝統」が、可能ならば千年ほどの
規模でわれわれの生活と意見に対して宗教的な環境として訓導することがない
かぎりにおいては、社会に基盤を形成することは期待薄である。
誰もが指摘するように、日本人の道徳とは「他者視線」といわれるものだ。
道徳教育とは、偉そうにご託を並べているが詰まるところ自分と同じ共同体(村)
の構成員(メンバー)の目線に晒され標準化されることが与える影響がその内実
を占めているだけで、せいぜい箇条にしただけのものなのである。
村を離れれば、なんでもやれる。それが日本人だ。そんな日本人の兵士が「買われた
命」の悲哀で、同じく買われた命の韓国人売春婦と「なんでもやった」という歴史が
あったとして、われわれ日本人が一体どのようなとがめだてを行えるというのだろう。
かりに従軍慰安婦の置屋に長蛇の列で押し寄せた日本兵士の現実があったとして、
ではこれを倫理的にとがめだてできる日本人が存在するとは到底わたしには思えない。
自分は、二十代に高島平の団地で自殺者が多発するという話を聞いて当時それは
当然だろうと思った記憶がある。マンモス高層団地が、心霊スポットに転化するという
必然性は、われわれ漂流する実存の座標感覚の喪失とその情況の指示向線上に
ぼんやりと浮かんでくる物理と言って良い。そこには、「仲の良い家族」が存在していて
も、すでに家族はすでにバラバラに集散している吹き寄せのようなもの。個室テレビと
個室電話、いまや個室電話から携帯電話である。個化、孤化は、いまや情況として
固化してしまっているではないか。
早い話、親の目線をいくら鋭敏に研ぎ澄ませてみても実の娘や息子の挙動と情報接触
を救い上げる術は存在しない。この郊外的な日常。郊外的現実は、完全に日本人の
心象を包囲しているとみる。それは私には、結局あの秋葉原、日本橋に横溢している
とめどないサブカルチャーの進撃の根拠だと思われた。親の意見、価値観など遠い昔に
遠景へ退き、せいぜいならば擬似的な「マスコミ的心象」「マスコミ的世間」が居座って
いる程度。それすらも存在感はいたって怪しいと思う。
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