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2007年08月11日
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死ぬことを想像して、怯えを感じるという子供がいるらしい。「オーラの泉」に出演していた渡辺えり子がそうだったらしい。自分は、渡辺とは対極的だ。死の恐怖に直面したことは、一度もない。死そのものに直面したことは、数え切れなくあったにもかかわらずである。


以前から、こちらの日記で何度も述べたように自分は死にかけるような「のっぴきならない隘路」は、何度も通過していると記憶しているし、記憶のかなたでも何度も死に掛けたと親から聞いている。だが、死に面した恐怖心とは疎遠である。あまりに何度も死に損なっているのに、死への想念というのか恐怖心そのものから免れている事をむしろ不思議に思ってきた。

番組で、江原らが渡辺えり子に対して授けているファンタジーは、「前世で中途半端な死に方をしてきたからだ」みたいなご託宣だが、前世が立派な往生だったら死の恐怖がないのだろうか、などと思ったりする。


自分が、死の恐怖からまぬがれていることは妹などには読めるらしくて、いつぞや十代ぐらいの頃に妹がわれわれ兄妹は、世間の子供とは少々違って斜にものごとをみる癖があるのもそこにかかわりがあるのではないか、などと言っていた記憶がある。妹と自分は、あまり疎通が良くなかったが、ある程度年齢を経てくると十代の頃の妹が言っていたことが、折々に理解できるようになる事もある。逆に、妹などのメッセージは、十代の男の子でしかない当時の自分には酷な気がしたりする。男の子は、とりあえず自分を形成するのに精一杯なのだ。死を想念するなどという高級な精神活動を行えるほど、余裕のある男の子は稀有だという気がして仕方がない。



もっとも、その後も死についての恐怖感が身に取りまつわらない理由については考え続けてきたほうだと思う。



我々は、生きる死ぬを考えても所詮は生きているものとも死んでいるものともつながってはいない。死の恐怖を感じるものは、死そのものとつながっているのではなく、単に死の恐怖とつながっているだけである。我々は生きていると同時に死んだものでできた複合体だ。死をとりあげても、それだけでは意味がない。意味がない、ということは核心と疎通がないという謂いだ。我々の核心は、永遠の生とも死んだ物質とも直接には疎通がない。死の恐怖がないという理由は、おそらく永遠の生の想念か、もしくは死そのものに近いのだろう。


死そのものは、恐怖とはなんの関係もない。なぜならば恐怖とは、人間にとっての恐怖だからだ。それでも恐怖に囚われた人間の精神が有意味であるのならば、それはよく生きたものにとってのみ唯一意味を生じるのではないだろうか。死を選択した者には、死の恐怖はすでに意味をもってはいないのだから。




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最終更新日  2007年08月11日 21時53分54秒
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