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2007年10月23日
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赤福の餅を知ったのは、小学生時代に伊勢神宮へ修学旅行に行った時だ。学年主任が、修学旅行の前に、赤福の注文を取りに各組に顔を出してきた。伊勢には、赤福と御福があるなどと公立小学校の教諭のぶんざいで、餅を売り歩いていた。(恥をしれ!大阪市立五條小学校)

当時、すでに赤福餅を薦められることが当然のようであった。赤福の先代は、伊勢の名士だったそうだ。どうせ今の路線は、先代が牽いた。そのとばっちりを後継者が喰らうわけだ。餅屋のジュニアは、左団扇というわけにはゆかなかった。自分は、相当な甘党だが赤福餅は好きではない。あれば食うという程度。御萩の類は、やはり小豆の残っている天王寺ステーション地下の大阪前田と個人的には決めている。


餅屋が、汚い真似をするのは子供の頃から先刻承知である。



実は、小学生時代。大阪の鶴橋の裏町を走り歩いていた。突然、母親が口にする「ういろ」というのが食べたくなり、生菓子づくりの家に通いつめてとうとう作らせてしまった。あれはかなり嫌な仕事だっただろう。名古屋じゃあるまいし、大阪で。ういろを食べたいと騒ぐ。なんという悪い餓鬼だ。失礼したもんだ。というわけで、多少は生菓子屋が苦労しているのか、結構舞台裏から眺めて知っていた。その代わり賃つきなどといって、餅米を持参したら半分取り上げて鏡餅にするサービス(というのか、れっきとした収益性の高いビジネス)も眺めていた。なにしろ鏡餅をつくってくれるだけで、餅米をせしめては、一年間の製造にまわすといわれていた。ほんとうかどうかは知らないが、砂糖や餅は食糧統制時代には、ほんとうに調達には困ったことだろう。


終戦直後には、闇市でご婦人に砂糖を分けてくれるとか、米を望むだけ売ってくれる農家があるなどと騙して山奥で狼に化けた殺人鬼がいた。今からは想像できない砂糖に価値があった。餅は、まばゆかった。早死にした祖父が、赤福の餅は本当に旨いと手放しで褒めていた。農家の惣領といっても、その程度のものだ。自分は、どうしても赤福は好きじゃない。


ちなみに、赤福にかぎらず食品メーカーやスーパーマーケットなどいい加減なものである。


ダイエー系など、毎朝前日の食肉やら鮮魚をラップをはずして翌日のラベルを貼り付けるのが行事化していた。バイトやパートは、みな知っている。食べるものが無かった時代を通過した連中は、そんなこと平気のヘイザ。世間からどれほど指弾されても断固としてやったもんだ。八百屋や魚屋を駆逐したスーパーマーケットを選択したのは、ほかならぬ消費者なのである。自分から言わせれば、消費者も悪い。










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最終更新日  2007年10月23日 22時39分41秒
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