新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0

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2008年02月15日
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昔、ハーメルンの町はねずみに悩まされていた。ある日、背の高い男の人が市長を訪ねて来て、 ねずみを退治する代わりに千ギルダーをくれるように言った。その男が笛を吹くと、数えきれないほどのねずみたちが出てきて、川に飛び込み、溺れ死んでしまった。町の人たちは大喜び。笛吹き男は約束の千ギルダーをくれるように市長に頼むが、市長はお金を払うのが惜しくなり、 ねずみたちは勝手に出て行ったのだと言う。笛吹き男は、笛を吹き、子供たちを岩山の穴の中へと連れていってしまった。子供たちは二度と戻って来なかった。




連合赤軍を描いた映画、「実録・連合赤軍」が完成したらしい。

幻泉館 主人さんのブログ で紹介があったので、若松が事前に前触れしていた奴がついに仕上がったのかと感慨が湧く。彼は、頭にきたかもしれないが佐々敦行が東映系で自画自賛映画「突入せよ!あさま山荘」を世に問うたことが若松孝二を触発したのではないかと思った。

連合赤軍の事件そのものは、たしかにテレビ放映が長く続き国内経済を左右するほどの大事件ではあったが、個人的には事件について昨今のスポーツイベントほどの関心も抱かなかった。リンチ殺人は、ともかくも山岳拠点で武装ゲリラをめざしたという路線を知った時点から、軌跡の行き着く先はほぼ読めていたからだ。


自分の年齢は、村上龍やら坂本龍一らと同じ年代である。

高校入学時点で、学生叛乱の狼煙があがった。絵に描いたような、69er(シックスティナイナー)なのである。大学進学時点で、闘争は終結しており団塊の世代の残した焼け跡のようなキャンパスの大掃除を強いられた世代。だから、全共闘世代とやらの手口も、組織論、その思考様式の至近距離で見てきている。彼らは、スルスルと企業社会へ潜り込み、その後の世代に大きく借りがあるという認識は彼らは持ち合わせはなく、まもなく年金生活者として大量に世に流れ出てくるのだ。


あの熱病のような季節を、通じて思ったことはなぜ「党派ありき」だったのだろうかという思いだ。当時も、無党派的な活動様式はあった。しかし、それは新左翼党派の番外として「ノンセクト」といわれる党派でしかなかった。彼らの中で、個的にテーマを追うものは稀有ではなく、存在しなかったように思う。学生叛乱が、いきなり党派の論理で登場したことは彼らにとっては、禍根ではないのか。その事をいまなお考えてしまう。


大阪府下公立高校でも、市岡高校での紛争が引き金となり府下全域が無期限バリケードストライキに向かうという空前絶後の激変が生じた。そんな空気の中で、登場した赤軍派についてのイメージは、少なくとも今考えられているイメージのそれとは対極的なものだったことは間違いない。

都市型の学生叛乱が、もたらした軍事専従者を超セクト化してまで突出させようという赤軍派的な試行が、まちがっても野暮な毛沢東=林彪型山岳拠点志向に合流するなど思いもよらなかった。校内できわめて少数の右翼高校生だった自分ですらそう思ったのだから、当時のヘルメット学生にとっては、都市型叛乱を本格的な武装叛乱へ誘導しようという徹底してスーパーミリタントなセクトであったあの赤軍派は、おそらく現地闘争に明け暮れている高校生左翼少年にとってほとんど唯一の決意性だったのだろうと思う。ばかばかしいのだが、当時進学か、赤軍兵士かという二者択一みたいな悩みを抱えていた公立高校生は、少なからずいたと思う。


従兄は、坂東と同じ県立高校に進んで同年だったように記憶する。坂東は京大入学、かたや従兄は阪大に合格できずじまい。東大紛争で入試中止になった余波とはいえ、あの年次の受験は熾烈だったようだ。赤軍派という存在は、途轍もないエリート集団だったのである。ちなみに従兄は、のちに二期校理系から某大手家電メーカーに就職する。












1967年(昭和42年)

アメリカで、ボクサーのムハマド・アリが、宗教上の信念に従って徴兵を拒否。


6・20 べトナム反戦大阪府民集会。五千人参加。大阪府学連・兵庫県学連二千人デモ。全学連、原潜バーブ号横須賀寄港阻止の現地デモ。二百人参加。三里塚・芝山連合空港反対同盟、大橋連輸相の成田来訪阻止闘争。一千人が成田駅頭・成田市役所前で座り込み。教育大の学生五十人が、移転反対で三輪学長宅に押しかけ、出かけようとした学長の車を取り囲んで座り込み。その後、三百人に増えた学生のため、交通がマヒし、機動隊が出動、学生を排除した。


7・9 べトナム侵略反対・エンタープライズ寄港阻止・沖縄返還・砂川基地拡張阻止大集会。五万人が参加。全学連六千人、反戦青年委二千人は、基地正門前で座り込みデモ。革マル全学連大会。


10・9 各大学で、山崎博昭君虐殺抗議の集会とデモがおこなわれる。 キューバ革命の指導者の一人、ゲバラが、ボリビアでゲリラ活動中に捕えられて処刑されたと、ボリビア政府が発表。ゲバラは三十九歳だった。

10・17 日比谷野外音楽堂で、虐殺抗議・山崎博昭君追悼中央葬。一万人参加。集会の後、遺影を先頭にデモ。演説のために姿を現した秋山勝行三派全学連委員長が羽田闘争の指揮者として東京駅前で逮捕される。


11・10 佐藤訪米阻止、京都・大阪・兵庫三府県学連総決起集会。二千人が大阪市内デモ。

11・11 佐藤内閣のべトナム侵略戦争荷担に抗議して、エスペランチストの由比忠之進さん(73歳)が首相官邸前で焼身自殺。



1968年(昭和43年)


1・17 佐世保でエンタープライズ帰港阻止闘争。全学連千五百人が佐世保の平瀬橋上で機動隊千四百人と衝突。二十七人逮捕。福岡(九大生一千人)、京都(反戦七百人)、札幌(学生三百五十人)など各地で抗議行動。


1・29 東大医学部自治会、登録医師制度導入に反対して無期限ストに突入。

1・31 マル学同中核派主催の全学連佐世保闘争報告大集会。日比谷公会堂に六千人結集。

4・3 全大阪反戦青委主催で白川和夫君の追悼集会。共産同の指導部をにぎっていたマル戦派が脱退、関西ブントが新指導部を握る。


4・28 沖縄デー闘争。中核派が東京駅を占拠。沖縄では第八回祖国復帰要求県民総決起大会開催、二十万五千人が参加。北九州市で青年労働者・学生が米軍の山田弾薬庫撤去闘争、三百人が座り込み。中核派とブントに対し破防法が適用され、中核派・ブントの五人の幹部が破防法第四〇条「凶器もしくは毒劇物を携える多衆共同して検察もしくは警察の職務を妨害する罪」で事前逮捕される。


6・2 エンタープライズ寄港阻止・佐藤内閣打倒横須賀大集会。労働者・学生五千人が参加。米軍ファントム機が九州大学工学部に建設中の大型計算センターに墜落炎上。これを機に、米戦闘機九大墜落抗議緊急闘争が開かれ、九大生数百人が米軍パトカーを包囲。以後連日抗議デモが繰り広げられる。








6・12 パリ、ソルボンヌの学生街で学生と警官隊が衝突。

6・15 ベトナム反戦・安保粉砕・佐藤内閣打倒、六・一五記念首都総決起集会。日比谷野音で集会のあと国会へデモ。日比谷野音の会場では、中核派と革マル・解放連合との乱闘事件が起き、三派全学連は実質的に解体した。大阪では、全学連を先頭に一万人が御堂筋でデモ。社学同は、駿河台で路上にバリケードをきずき、ASPAC粉砕の神田解放区闘争を展開。東大では医学部学生数十人が安田講堂を占拠。


8・21 ソ連軍のチェコ武力介入に、全学連・反戦青年委など百数十人がソ連大使館に緊急抗議。22~23日も座り込みなどの抗議闘争。


9・2 大阪府立市岡高校生徒会、始業式をボイコット。



12・29 坂田文相、紛争中であることを理由に東大全学部の入試中止を決定。



1969年(昭和44年)


3・19 反戦高協などの各派高校生組織を中心に高校生五百人が集会を開き、文部省へデモ

4・28 沖縄反戦デー。高校生をふくめた学生一万人は、首相官邸をめざし東京駅―新橋駅、お茶の水などで武装デモ。反戦青年委五千人、銀座を中心に都心を制圧。べ平連も、この一帯でデモ。学生ら渋谷駅頭・佐藤私邸襲撃。池袋・品川駅占拠、世田谷の交番襲撃。早大・高田馬場駅・大手町で集会座り込み。午後九時半、東京駅付近でデモ。社共両党は沖縄復帰協の要請で、代々木公園で集会の後デモ。沖縄では二十万五千人の県民が決起、那覇の大会には十七万人が参加しデモ。大阪で労学二万人御堂筋デモ、札幌・仙台など全国名地で激しい闘いが展開された。逮捕者九百六十五人(うち女性百三十三人)。逮捕者の中には高校生も数多く含まれていた。


6・28 新宿西口広場のフォークソング集会で暴動が勃発。機動隊が導入され、六十四人が逮捕される。



8・31 全国の高校生五百人、静岡県掛川西高の大量処分に抗議、掛川で処分撤回・手引書体制粉砕全国高校生総決起集会。掛川西校ヘデモ、機動隊の壁を破って七人が校舎へ突入、占拠。この後、札幌北高・京都日吉が丘高・千葉東高・大阪市岡高など多くの高校で始業式粉砕闘争。稲城多摩野戦病院設置阻止総決起集会。三多摩労協・反戦青年委・学生・市民二千五百人がデモ。


9・5 全国全共闘連合結成大会。革マル派を除く中核派、社学同、学生解放戦線、学生インター、共学同、フロント、プロ学同の八党派、全国の四十六大学、百七十八全共闘組織の学生二万六千人が日比谷公園に結集。議長に潜行中の山本義隆(東大全共闘代表)、副議長に秋田明大・日大全共闘議長を選出、「七〇年安保闘争勝利・沖縄闘争勝利」などのスローガンを採択するが、デモの最中に姿を現わした山本義隆議長が逮捕される。この日、共産同赤軍派がはじめて公衆の前に姿を現わし日比谷公園内で示威デモした。しかし、全共闘運動そのものは、以後は急速に退潮し、学生運動はセクト中心に戻っていく。



9・13 共産同赤軍派の全国拠点五ヵ所に一斉強制捜査。二十一人が逮捕される。


10・22 都立日比谷高校で全学闘争連合の生徒が教室を封鎖。同じく、都立立川高校でも校舎の一部を封鎖。都立竹早高校、生徒会が無期限ストを宣言。



11・5 大菩薩峠にある山荘「福ちゃん荘」で軍事訓練をしていた赤軍派五十三人が、凶器準備集合罪で検挙。




1970年(昭和45年)


1・16 赤軍派、東京で蜂起集会。「国際根拠地建設、70年前武装蜂起貫徹」がスローガン。

2・7 赤軍派、大阪で蜂起集会。


3・31 赤軍派の九人(田宮高麿[27歳、大阪市大]、小西隆祐[25歳、東大]、田中義三[21歳、明大]、阿部公博[22歳、関西大]、吉田金太郎[20歳、元工員]、岡本武[21歳、京大、のちにテルアビブ空港を襲った岡本公三の兄]、若林盛亮[23歳、同志社大]、赤木志郎[22歳、大阪市大]、柴田勝弘[16歳、高校生])が羽田発福岡行の日航機「よど号」(ボーイング727、乗員七名、乗客百三十一名)をハイジャック(=フェニックス作戦)。機は福岡空港に着陸したのち、韓国の金浦空港に着陸した。










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最終更新日  2008年02月15日 10時23分27秒
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