宇宙は本の箱

     宇宙は本の箱

濃霧の朝


ふと 振り返ってみる。
今はもう指先から音楽は流れない。それだのにとても何かが懐かしい。


ひとりの少年を愛していた。
子供の頃の・・・若き日の、十年は決してみじかくはなく、けれど十年の歳月が流れたからといって、私は私がその少年を想っていたことの真の意味に到達したわけはなく、当たり前のように逢わなくなった頃のある朝、アパートから表の通りに出ると町はすぐ先も見えないくらいの濃霧に包まれていて、この指先がある音楽を奏で始めたのだった。

指先を眺めていると急にえも言われぬ懐かしさにとらわれて私は思わず振り返った。
そこにいるはずはないのに、それでも、幾度も幾度も、バス停に着くまで振り返った。
後ろにはただ濃霧につつまれた町があるばかりだったが、あのしなやかな脚がプラタナスの通りを今駆けているのだと思った。
子供の頃のあのプラタナス通りが、このプラタナス通りに繋がっているのだと思った。

私はいつも真っ黒の長いコートを着ていて、その襟を立てて町を急いだ。
あなたは少年よりりりしいと恋人は言い、私をヒュヤキントスと呼んだ。
どうしてそんなにりりしいんだと言ったけれど、私は殊更なにも考えずに過ぎた。



山と山の間にあるこの町には霧がよくかかる。
今日は昼からはすっかり良い天気になって、私はこんな時間まで庭の手入れ。
我が家の庭の沈丁花はもうすでに満開で、こちらの庭では桃が赤い。
懐かしさに浸っている間は十代でも、こんなことばかりに時間を費やせる有り難さにはや老後を思ったりする。




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