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被造世界は、神の二性性相に似た人間を標本として創造されたので、被造世界には、人間の体のような有形実体世界ばかりでなく、人間の心のような無形実体世界もまたあるのである。無形実体世界は、我々の生理的な五官では感覚することができず、霊的五官だけでしか感覚することができない実在世界である。この有形、無形の二つの実体世界を総合したものを、天宙と呼ぶ。心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできず、無形世界を知らなくては、有形世界を完全に知ることはできないのである。それゆえに、無形世界は主体の世界であり、有形世界は対象の世界であって、後者は前者の影のようなものである。有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる。第一に、神は人間を被造世界の主管者として創造された。被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もその人間を中心として合性一体化して、神の対象世界となる。そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。第三に、神は人間を、天宙を総合した実体相として創造された。神はのちに創造なさる人間の性相と形状の実体的な展開として、先に被造世界を創造されたのである。霊人体の性相と形状の実体的な展開として、無形世界を創造されたので、霊人体は無形世界を総合した実体相であり、肉身の性相と形状の実体的な展開として有形世界を創造されたので、肉身は有形世界を総合した実体相となるのである。ゆえに、人間は天宙を総合した実体相となるので、人間を小宇宙という理由は、ここにあるのである。肉身は肉心(主体)と肉体(対象)の二性性相からなっている。肉心は肉体をして生存と繁殖と保護などのための生理的な機能を維持できるように導いてくれる作用部分をいうのである。肉身が成長するためには、陽性の栄養素である無形の空気と光を吸収して、陰性の栄養素である有形の物質を万物から摂取して、これらが血液を中心として完全な授受作用をしなければならない。肉身の善行と悪行に従って、霊人体も善化あるいは悪化する。これは、肉身から霊人体にある要素を与えるからである。このように、肉身から霊人体に与えられる要素を、我々は生力要素という。平素の生活において、肉身が善の行動をしたときには、心がうれしく、悪の行動をしたときには、心が不愉快さを経験するが、これは、その肉身の行動の善悪に従って、それに適応してできる生力要素が、そのまま霊人体へと回っていく証拠である。霊人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、霊感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管できる無形実体としての実存体である。霊人体はその肉身と同一の様相であり肉身を脱いだのちには無形世界(霊界)に行って永存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体の内に、このような永存性をもつ霊人体があるからである。霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。生心は、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。.霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。霊人体は、地上の肉身生活においてのみ完成できるのである。霊人体は肉身を土台として、生心を中心として、創造原理による秩序的三期間を通じて成長し、完成するようになっているが、蘇生期の霊人体を霊形体といい、長成期の霊人体を生命体、完成期の霊人体を生霊体という。神を中心として、霊人体と肉身が完全な授受作用をして合性一体化することにより、四位基台を完成すれば、その霊人体は生霊体になるが、このような霊人体は無形世界のすべての事実をそのまま感ずることができる。このように、霊人体に感じられるすべての霊的な事実は、そのまま肉身に共鳴され、生理的現象として現れるので、人間はすべての霊的な事実を肉身の五官で感じて分かるようになる。生霊体を完成した人間が地上天国を実現して生活したのち、肉身を脱いで霊人として行って生活する所が、天上天国である。それゆえに、地上天国が先に実現したのち、天上天国も実現できるのである。霊人体のすべての感性も肉身生活の中で、肉身との相対的な関係によって育成されるので、人間は地上で完成され、神の愛を完全に体恤して初めて、肉身を脱いだのち神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。霊人体のすべての素性は肉身のある間に形成されるので、霊人体の悪化は肉身生活の犯罪行為に由来するもので、霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、我々は地上で善なる生活をしなければならない。救いの摂理の第一次的な目的が地上で実現されなければならないので、マタイによる福音書一六章19節でイエスは天国の門の鍵を地上のペテロに授けてマタイによる福音書一八章18節で地上でつなぐことは天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるであろうと言われたのである。天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。人間は完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行為によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった霊人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛になって、地獄を自ら選択するようになる。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長できるように創造されたので、霊人体の繁殖も肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされる。
2010.06.07
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創世記一章を見れば、天地創造は、地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、というところで、光を創造されることから出発して、その次には、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられ、その次に、陸と海とを分け、続いて、植物をはじめ、魚類、鳥類、ほ乳類、人類などを創造されるのに、六日という期間を要したと記録されている。これによって、我々は被造世界の創造が終わるまで、六日という時間的な過程があったということを知るのである。聖書に記録された創造の過程が、今日、科学者たちの研究による宇宙の生成過程とほぼ一致するということを見るとき、この記録が神の啓示であることは間違いないということを再確認することができる。ここにおいて、宇宙は時間性を離れて突然に生成されたものではなく、それが生成されるまでには、相当な時間を要したという事実を知った。したがって、創世記一章にある天地創造を完了するまでの六日というのは、実際は、日の出と日没の回数によって計算される六日ではなく、創造過程の六段階の期間を表示したものであることが分かる。神は初めの日の創造が終わると、「夕となり、また朝となった。第一日である」(創一・5)と言われた。夕から夜が過ぎて、次の日の朝になれば、第二日であるにもかかわらず、第一日であると言われたのは、被造物が夜という成長期間を経て、朝になって完成したのち、創造理想を実現するための出発をするようになるからである。このように、被造世界で起こるすべての現象は、必ずある程度の時間が経過したのち、初めてその結果が現れるようになるので、これは被造物が創造されるとき、一定の成長期間を経て完成できるように創造されたからである。被造世界は神の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたものである。神は数理性をもっておられるということを推測でき、絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので、三数的な存在である。したがって、唯一なる神に似た被造物はその存在様相やその運動、さらにまたその成長期間がみな三数過程を通じて現れるようになる。被造物が完成するに当たっても、その成長期間は、蘇生期、長成期、完成期の秩序的三段階を通じてのみ完成するようになる。自然界で三数として現れている例を挙げてみれば、自然界は動物と植物と鉱物からなり、物質は気体と液体と固体の三相を表している。植物は根と幹と葉の三部分からなり、動物は頭部と胴部と四肢の三部分からなっている。人間は成長期間の三段階を完成できずに堕落し、創造目的を完成できなかったので、この目的を再び完成するに当たっても、この三段階を通過しなければならない。人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなり、善の主体であられる神も不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。創世記二章17節で、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言をみて、彼らはいまだ未完成期にあったことは確かである。人間は長成期の完成級で堕落したのであった。被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏というのである。万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間を経過することによって完成する。人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成する。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われた創世記二章17節のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。神が人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、神の創造の偉業に加担させることによって、創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。直接主管圏とは何であるか?神を中心として、ある主体と対象とが合性一体化して四位基台をつくり神と心情において一体となり、主体の意のままに愛と美を完全に授受して善の目的を完成することを直接主管という。
2010.06.05
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被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記録されている創世記1章4節~31節のみ言を見れば、神は自ら創造された被造物が、善の対象となることを願われたことが分かるこのように被造物が善の対象になることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。それでは、被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造されたのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよと言われたのである。 (創1:28)それで人間がこの三大祝福のみ言に従って、神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、喜ばれるということはいうまでもない。神の三大祝福は、創造の根本基台である四位基台が成就された基盤の上でのみ成就されるのである。それゆえに、神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。すべての存在は二重目的をもつ連体である。すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがある。性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相と形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。 神もその実体対象からくる刺激によって、神自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるのである。すなわち、四位基台の基盤の上で、三大祝福による天国が実現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずる善の対象になるのである。そこで、これがいかにして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。 神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。完成した人間は神の聖殿となり(第一コリント3:16)、神と一体となるので(ヨハネ14:20)神性をもつようになり神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。ここで、その心と神は、このような実体対象からくる刺激によって、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるので、喜びに満ちることができるのである。それゆえ個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない神の第二祝福を成就するためには、個性を完成したアダムとエバが夫婦となり、子女を生み殖やし、神を中心として、家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。このように、四位基台をつくった家庭や社会は、個性を完成した人間一人の容貌に似るようになるので、これは、神を中心とした人間の実体対象であり、したがって、神の実体対象ともなるのである。それゆえに、人間や神は、このような家庭や社会から、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずるようになり、喜びに満ちることができる。したがって、人間が神の第二祝福を完成すれば、それは神の喜びのための善の対象となるのである。神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性の完成を意味し、人間と万物が合性一体化することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない。神を中心とする人間は、その実体対象である万物世界からくる刺激によって、自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるために、喜ぶことができるのである。そして、神は人間と万物世界とが合性一体化することによって、神の第三対象である被造世界によって、神自体の本性相と本形状に対する刺激的な感性を相対的に感じて、喜びに浸ることができる。それゆえ人間がこのような神の第三祝福を完成すれば、それも神の喜びのための善の対象となるのである。このように神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に実現されたはずであって、このような世界を地上天国というのである。元来、人間は地上天国で生活して、肉体を脱ぐと同時に、霊界で自動的に天上天国の生活をするように創造されているのである。天国は、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである。
2010.06.04
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神は創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものである。これはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、万有原力と呼ぶ。あらゆる存在の主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。このような過程を通して、力を発生せしめる作用のことを授受作用という。万有原力と授受作用の力とは、各々原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという、相対的な関係をもっている。したがって、万有原力は縦的な力であり、授受作用の力は横的な力であるともいえるのである。ここにおいて、万有原力と授受作用を中心として、神と被造物に関することを、具体的に調べてみることにしよう。神はそれ自体の内に永存する二性性相をもっておられるので、これらが万有原力により相対基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相対基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を発揮するようになるのである。被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相対基準を造成して、授受作用をするようになる。この授受作用の力により、その二性は相対基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって初めて、その個性体は神の対象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも発揮できるようになるのである。陽子と電子の授受作用によって原子が存在できるし、またその融合作用などを起こすことができるのである。また、陽陰二つのイオンの授受作用によって、分子が存在するようになり、化学作用を起こすこともできる。植物は、雄しべと雌しべの、動物は雄と雌の授受作用によってその生体を維持し、また繁殖する。人間の肉体は、動静脈、呼吸作用、交感神経と副交感神経などの授受作用によって、その生を維持しており、その個性体は体と心の授受作用によって存在しながら、その目的のために活動している。さらに、家庭においては夫と妻が、社会においては人間と人間が、国家においては政府と国民が、世界においては国家と国家が、お互いに授受作用をしながら共存している。古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用しているので、誰でも悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。では、良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのである。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。この良心の主体を神と呼ぶのである。堕落は、人間と神との授受の関係が切れることによって一体となれず、サタンと授受の関係を結び、一体となったことを意味する。イエスは神と完全な授受の関係を結んで一体となられた、ただ一人のひとり子として来られたお方である堕落した人間が、イエスと完全なる授受の関係を結んで一体となれば、創造本性を復帰して、神と授受作用をすることによって、神と一体となることができるのである。それゆえに、イエスは堕落人間の仲保となられるのである。(ヨハネ3・16)キリスト教は、愛と犠牲により、イエスを中心として、人間同士がお互いに横的な授受の回路を回復させることによって、神との縦的な授受の回路を復帰させようとする愛の宗教である。マタイ福音書7章12節で「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」と言われた。
2010.06.04
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被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象である。このような実体対象を、個性真理体という。人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。個性真理体は、すべて神の実体対象ともなるので、それらは各自、神の本性相と本形状に似て、それ自体の内に性相と形状、陽性と陰性の二性性相を、共に備えるようになる。二性性相を中心として見た神と被造世界との関係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給う神の二性性相が、創造原理によって、象徴的または形象的な実体として分立された、個性真理体から構成されている神の実体対象である。神と被造世界とは、性相と形状との関係と同じく、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横など、二性性相の相対的な関係をもっているのである。
2010.06.04
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すべての存在を形成しているより根本的なまた一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。.見える外形は見えない内性に似て現れたものである。その内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状という。性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相というのである。これに対する例として、人間は体という外形と心という内性とからできている。心を性相といい、体を形状というのである。体は第二の心であるということもできるので、これらを総合して二性性相であるという。これによって、あらゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在しているという事実を、知るようになった。それでは、性相と形状とは、お互いにいかなる関係をもっているのであろうか。無形の内的な性相が原因となって、それが主体的な立場にあるので、その形状は有形の外的な結果となり、その対象の立場に立つようになる。したがってこの両者はお互いに、内的なものと外的なもの、原因的なものと結果的なもの、主体的なものと対象的なもの、縦的なものと横的なものとの相対的関係をもつようになるのである。あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。また森羅万象の第一原因としていまし給う神は、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するのである。性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもっているので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている。神を中心として完成された被造世界は、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリント第一の手紙の11章7節に、『男は、神のかたちであり栄光である』と記録されている聖句は、このような原理を立証しているのである。このように、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。神は、本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に本性相的男性と本形状的女性の二性性相の中和的主体としておられ被造世界に対しては性相的な男性格主体としていまし給う。
2010.06.04
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無形にいます神の神性をいかに知ることができるだろうか?それは被造世界を観察することによって知ることができる。そこでパウロは聖書のロマ書1章20節で「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在している者は、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。これについて実例を挙げてみれば、 すべての物質の究極的構成要素といわれている素粒子は、みな、陽性、陰性、または陽性と陰性の中和による中性を帯びている。これらが二性性相の相対的関係を結ぶことによって、原子を形成するのである。すべての植物は雄しべと雌しべによって存在するし、すべての動物は雄と雌とによって繁殖、生存するのである。人間を見ても、神は男性のアダムを創造されて、その対象として女性のエバを創造されたのである。このようにすべての存在は陽性と陰性の二性性相による相対的関係を結ぶことによって存在しているのである。さらに、電離した陽イオンや陰イオンが、各々陽子と電子との結合によって形成されているように、雄しべや雌しべ、あるいは雄や雌もまた、各々それ自体の内部で、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在することができるのである。人間においても、男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。
2010.06.04
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復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。 前編で既に論証したように、人間は長成期の完成級において堕落し、サタンの主管下におかれるようになってしまった。したがって、このような人間を復帰するためには、まず、サタンを分立する摂理をなさらなくてはならないのである。 しかし、既にキリスト論において詳しく論じたように、堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない。 ところで、この原罪は、人間が、その真の父母として来られるメシヤによって重生されるのでなければ、取り除くことはできないのである。 それゆえに、堕落した人間はサタン分立の路程を通して、アダムとエバが成長した基準、すなわち、長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生することによって、アダムとエバの堕落以前の立場を復帰したのち、メシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することができるのである。 このように復帰摂理は、創造目的を再び成就するための再創造の摂理であるから、どこまでも原理によって摂理されなければならない。それゆえに、これを復帰原理というのである。 我々はここにおいて、復帰摂理がどのようにして成就されるかということについて調べてみることにしよう。
2010.06.02
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人間はだれでも悪を退け、善に従おうとする本心の指向性をもっている。 しかし、すべての人間は自分も知らずにある悪の力に駆られ、 本心が願うところの善を捨てて、 願わざる悪を行うようになるのである。 このような悪の勢力の中で、人類の罪悪史は綿々と続いてきた。 キリスト教ではこの悪の勢力の主体をサタンと呼ぶのである。 そして、人間がこのサタンの勢力を清算できないのは、 サタンが何であり、またそれがどうしてサタンとなったかという、 その正体を知らないからである。 それゆえに、人間がこの悪を根こそぎ取り除き、人類の罪悪史を清算して、善の歴史を成就するためには、 まず、サタンがサタンとなったその動機と経路、およびその結果を明らかに知らなければならない。つまり、このような問題を解明するために、我々は堕落論を知らなければならないのである。
2010.06.02
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人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙に関する根本問題を解決するために苦悶してきた。 けれども、今日に至るまで、この問題に対して納得のいく解答を我々に与えてくれた人はまだ一人もいない。 それは本来、人間や宇宙がいかに創造されたかという究極の原理を知らなかったからである。 さらに、我々にはもっと根本的な先決問題が残っている。 それは、結果的な存在に関することではなく、原因的な存在に関する問題である。 ゆえに、人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである。 創造原理はこのような根本的な問題を、広範囲にわたって扱っている。
2010.06.01
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