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昨日は朝モーニングサービス、来週手術する予定の方と昼食。
宣教師が15年間住んでいた家が空き家になり、壊す方が良い状態と判断し業者に見積もりをしてもらう。いつの間にか帰国し家の中にはベッドや器材、ものすごいゴミがそのまま残っており、「立つ鳥後を濁さず」のことわざを教えておけばよかったと思った。午後に片付け業者がきてきれいにしてくれた。引っ越した宣教師が友人にお金を預け方付けを頼んでいたのに、頼まれた方がこちらから言わなければそのままで良いと思っていたようだ。ともかくもきれいになったことを感謝している。
今日は午前中洗礼式。午後から入学希望者との面談。毎日恵みの中で感謝しつつの日々です。
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翌月曜日の一時限目が終わると、クラスの男子生徒のほとんどに周りを取り囲まれた。みんなにやにやしている。私はなぜだか真っ赤になった。そんなに大胆でも積極的でもないし、バンカラでもない、どちらかと言えばおとなしい真面目な生徒だったのだ。そのうちにクラスで一番大きい生徒が、私の前にひざまずき、胸の前で十字を切った。それが合図のようにみなで、「アーメン・・・・・・」とはやし立てた。私の真っ赤な顔が、さらに赤くなる。どうして分かったんだと心臓の鼓動が聞こえるほどだ。
海岸で歌を歌い、服を着たまま海に入る人々を、柔道の練習に行く途中の友人が見て、不思議に思い近づいたら、その中に榮義之がいたという次第であった。だれにも知られないよう決心した私だが、バプテスマを受けたのは厳然たる事実である。イエス・キリストを信じたのも、だれに強制されたのでもない。十字架にいのちを捨ててまで愛してくださった方を、深い感動とともに信じたのも事実。だから真っ赤になりながらも、蚊の鳴くような声で、「そうだ。僕はアーメンになったんだ。みんなもいっしょに教会に行こう」と言った。それが精一杯だった。しかしこれがクリスチャンになって最初のあかしとなった。
その日以来、クリスチャンであることを恥じたことはない。酒も飲まず、タバコも吸わず、人生何の楽しみがあるのかと冷やかされたこともあった。しかし、この世の楽しみは、それが何であれ、虚しさに終わる。そのことは、本人自身が一番よく知っている。そんな虚しい空洞を、イエス・キリストは満たしてくださるのだ。人はイエス・キリストを受け入れる時、初めて真の満足を得る。その腹から生ける水があふれ、流れ出すような、いのちの充実を体験することができる。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」 (ヨハネの福音書4:13、14)
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」 (ヨハネの福音書7:37、38)