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神の愛を感じる
私はキリストの実在に触れ、そのリアリティを知っていることの素晴らしさゆえに、今迄、私が頼みとしていたいっっさいが虚しいものであったことを悟った。
由緒ある血筋や、神の選びの民であるという選民意識も、受けた宗教教育も、エリートである自覚も、何もかも、後生大事に握りしめていたものは、一瞬のうちに色あせ、私はそれらのものを喜んで捨て去った。
なぜなら、それらのものは、私が切実に求めてやまなかった魂の平安と、神の前における罪の許しの実現をもたらすことはなかったからだ。
血筋通いとか、宗教熱心であることが、その人の罪を消し去ることはない。
私は、熱烈に戒律を守ることについて努力してきたがゆえに、それを知っている。
いくら正しくあろうとしても、人は神の前に、完全になることなどできない。
ゆえに、戒律を守ることが神への道だと教える宗教の中に、市の解決はない。
しかし、今や私は、神の愛の本質へ抱かれている。
戒律を守ろうとする努力の中では、決して得ることのできなかった希望を得たのだ。
それは、宗教的な努力によってではなく、人知を超えた大きな神の愛を信じる信仰によって神に受容されるという希望である。
十字架こそ、その愛が真実であることを我々に告げている。
キリストは十字架の上で、自らを死へと追いやった殺人者たちのために、神の赦しを祈った。
この祈りの中にこそ、」無条件に捧げ尽くす神の愛の本質が現されている。
私はこのキリストを信じているのだ。
ピリピ人への手紙 3:7-9
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。