PR
Freepage List
Calendar
仏教では、人間には108の煩悩があると言われています。
ただ、時代・宗派によりまちまちとも言われ、小は3にはじまり、通俗的には108、大は64000とも言われるのだそうです(Wikipediaより)。
Wikipediaの解説で印象的だったのは、
「人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。」という部分です。
今までいろんな高次の存在とチャネリングしてきた中でほぼ共通しているのは、人間らしく生きなさいという視点です。
あくまでも、現実世界を大切にして、そこから得られる様々な経験を積むことが一番大切なのですよ、と。
我々が力を注ぐべきポイントが現在にあるということは、セスやエイブラハムも伝えているところですが、
その際、自らの行動の指針となる「心地よいか否か」という感情が、いわゆる煩悩として分類される欲とは一応区別して考える必要があるように思います。
どちらかというと、この感情は、魂の奥底から生じるものであって、欲とは異なると思われるからです。
我々が現実世界にフォーカスするとして、誰もが思うのは、自分なりの幸せではないでしょうか。そして、これに関連して、誰もがうらやむ成功とは何かについて、エイブラハムが興味深いことを言っています。以下引用します。
トルフィーでも、お金でも、人間関係でも、物事でも、あなたが望むことが実現すれば、それは成功だ。
だが、喜びを見いだすとき、あなたは自分の波動が宇宙の源と調和していることに気づくだろう。
望まない何かに焦点をさだめているとき、あるいは望む何かが欠如していることに焦点を定めているとき、喜びは感じない。
したがって喜びを感じていれば、波動が矛盾することはない。
思考と波動が矛盾しているときにのみ、望みの実現が遠ざかるのだ。
おもしろいことに、大勢の人たちが人生経験を図る物差しを
探して多大の時間を費やしている。
本当は自分のなかに非常に高度で正確でいつでも使えるナビゲーションシステムがあるのに、自分の外に善悪の区別を教えてくれるものを求めている。
この「感情というナビゲーションシステム」に注意していれば、そして今自分がいる場所で見つかる一番心地よい思考だけを心がければ、視野が広がって、本当に望むものの方へ進みやすくなる。
物質世界の時空という明暗のはっきりした素晴らしい現実のなかを進むとき、自分の感情に敏感になって心地よい方へと思考を導けば、やがては「内なる存在」という広い視野で人生を見られるようになる。
そして、自分が見えない世界の視野で選んだ道を歩いているという満足感を覚えるだろう。
これは、見えない世界にいて、物質世界の素晴らしい身体に宿ることを決意したときと同じ視野のことだ。
見えない世界の視野が得られたとき、自分が永遠に進化していく存在であること、この明暗著しい最前線の環境には素晴らしいチャンスがあることが理解できる。
さらに自分が持つすばらしいナビゲーションシステムの性質を理解し、そのシステムを使うことに慣れれば、「内なる存在」と同じ見方でこの世界を見られるようになる。
すべての創造者の自由意思に応じて働く「引き寄せの法則」の力強さ、公正さ、正確さもわかってくる。
見いだせる限り最も心地よい思考を心がけることで、あなたは見えない世界の視野に再び接触できる。
そして生きる目的、人生への情熱、それに自分自身に再び触れて、歓喜に震えるだろう。」
(『引き寄せの法則』エスター・ヒックス・ジェリー・ヒックス著、ソフトバンク・クリエイティブ社、132-133頁)
つまり、エイブラハムがここで言っているのは、我々が人生を生きる上で、行動の指針となる「心地よいか否か」という感情であって、仏教でいうところの煩悩的な欲ではないわけです。
もっと根源的な魂の奥底から生じる感情なんだと思います。
ですが、面白いのは、仏教で言うところの煩悩の教えと、エイブラハムの教えは、どこか通じるところがあるように思えるのです。
つまり、ありのままを受け入れたうえで、素直な自分自身の気持ちという羅針盤に従いなさいという点です。
もちろん、大乗仏教ではそこまでは明確には述べていないんですが、興味深いのは、以前釈迦のパーソナリティーと思われる存在と非物質的にコンタクトをとったとき、
釈迦が伝えたもともとの教えは、「現実世界をいかにして実り豊かに過ごすか」といったように、セスやエイブラハムとほぼ共通する内容を述べていた点です。
本来釈迦が伝えたのは、そういった内容だったというのです。
セスによれば、釈迦は多次元的世界を見通す力を持っていたとされていますから、釈迦は、エイブラハムが現世において生活しながら人々に道を説いていたようなものです(笑)。
ですから、両者は似ていてある意味当然なのかもしれませんね。
釈迦も当然知っていたわけです。
我々のフォーカスすべきポイントが現在にあるのだということを。
なぜなら、「今」しか存在しないのですから。
無数にある「今」が過去、未来を形成しているわけです。
ありのままを受け入れたうえで、現実世界にフォーカスする。
その際重要となってくるのが「それが自分にとって心地よいと言えるかどうか」という感覚であること。
これは、我々にとってとても大事なことのような気がしますね。
人間というのは、自分のため、家族のため、他の誰かのために、いつの間にか本来の自分が求めている気持を犠牲にして物事をやっていたりします。
「自分はずっと、家族のために毎日毎日一生働き続けてきた。
だけど、死んでみて気づいたら、あー自分は今まで何をしてきたんだろうと思う。
日々の生活に追われるだけで、自分らしさというものを見失っていた。
自分はいったい今まで何をしてきたんだろう。」
ある霊能者の人が書いた本の中に、死者の上記のような思いがつづられていました。
その言葉を目にしたのは、もう今から何年も前のことで、スピリチュアルに興味を持ち始めたばかりくらいの時だったと記憶していますが、妙に印象に残っています。
おそらくそれは、私は当時から「自分らしい生き方」というものをどこかで追い求めていたからかもしれません。
嫌々やっている苦しい苦しい日々ではなしに。
多くの高次の存在が口をそろえて伝えてきているのは、
「現実先にありき」ではなく、「思い先にありき」ということです。
思いが現実を作っているからです。
与えられた環境の中で、自分らしい生き方ができたら最高ですね。