田舎暮らしのリアル|薪ストーブ、スポーツ少年、ときどき小説家。

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2026.03.08
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カテゴリ: アルファポリス


 九月の朝は、まだ夏の名残をたっぷりと含んでいた。

 校舎に入ると、エアコンの効いた空気が汗ばんだ首筋に触れる。上履きに履き替えながら、葛城静は今日が何日目かを数えた。夏休みが明けて、三日。

 教室の扉に手をかけた瞬間、静は気配で気づいた。

 中の空気が、いつもと違う。

 扉を開けた。

 三十二人分の視線が、一斉にこちらを向いた。

 昨日まで静の存在を空気のように扱っていたクラスメートたちが、スマートフォンを手に持ったまま、どこか引きつった表情でこちらを見ている。一瞬の静寂のあと、ひとりが小声で何かを囁いた。隣の子がうなずいた。また別の誰かが画面を見せ合うようにして笑った。

 静はその視線の意味を、すでに理解していた。

 昨夜、Xのトレンドに自分の名前が載っていたのを、就寝前に確認済みだったから。

 自分の席に向かいながら、静は正面を向いたままかばんを机に置いた。

 「ちょっと、静」

 声をかけてきたのは黒瀬朱莉だった。

 クラスの女子グループを束ねる、いわゆるスクールカーストの頂点に位置する人物だ。夏休みの間ずっと静をパシリとして使い倒し、三日前には「ブスに夏休みは似合わないよね」と廊下で大声で笑った、その当人。

 その朱莉が今、満面の笑みを浮かべながら近づいてくる。

 「あのさ、私たちってずっと友達だよね? そう思ってたんだけど、静はどう?」

 静は立ち止まった。

 朱莉の顔を、まっすぐに見た。

 何かを言う気にはなれなかった。

 言葉よりも先に、手が動いた。かばんのサイドポケットからイヤホンを取り出し、ゆっくりと両耳に差し込む。続いて胸ポケットから眼鏡ケースを出した。夏休みが明けてから毎日かけていた、顔の半分を覆うような分厚いフレームの伊達眼鏡を外して、ケースにしまう。

 教室がざわめいた。

 誰かがスマートフォンのシャッターを切る音がした。

 静はそれを無視して、朱莉だけを見た。

 「ごめんなさい」

 低く、落ち着いた声で言った。

 「趣味の合わない方とはお話ししない主義なの」

 朱莉の笑顔が、固まった。

 静は朱莉の横をすり抜けて、自分の席に座った。イヤホンから流れる音楽が、ざわめき始めた教室の声をきれいに遮断した。

 ——これは、モブ子と呼ばれた少女が、誰にも媚びなかった夏の話。

 話は、少し前に遡る。

 葛城静、高校二年生、十七歳。

 身長百六十二センチ。腰まで届く黒髪。緑がかった瞳。

 ただしそれは眼鏡を外した場合の話で、学校では常に分厚いフレームの伊達眼鏡をかけ、地味な色のパーカーを羽織っていた。おかげでクラスでの存在感はほぼゼロに等しい。

 名前を呼ばれることはほとんどなかった。

 たいていは「ねえ」か「お前」か——そして「モブ子」。

 最初にそう呼んだのは朱莉だった。一年の春、最初のクラス替えで席が隣になったその日に「あなたってなんかモブっぽいよね、モブ子って呼んでいい?」と言った。確認を取る体裁を取っていたが、断れる空気ではなかった。

 それ以来、静はそのグループにとって都合のいい雑用係になっていた。

 プリントを職員室に届けること。放課後に荷物を持つこと。課題を「参考に見せてもらう」こと。理由もなく呼びつけられること。

 断らなかったのは、静なりの理由があった。

 揉めることが面倒だったから——というのは半分本当で、半分は嘘だ。

 本当のことを言えば、静にとって学校はもともとそれほど重要な場所ではなかった。

 自分にとって重要な場所は、別にあった。

 夏休みが始まった翌日の午後。

 静は両親が長期の海外出張で不在にしている別荘に来ていた。自宅から車で二時間ほどの距離にある、小さな一軒家だ。広い庭と、屋内プールと、防音のしっかりした一室がある。

 静はその部屋の機材の前に座り、ヘッドセットを装着した。

 モニターには配信ソフトの画面。待機中のコメントがすでに数百件、数千件と流れ始め、画面を埋め尽くしていく。

 画面の隅に表示されたフォロワー数は、九十九万八千人。

 今夜は百万人突破記念のライブ配信だった。

 配信者名は、シズネ。

 「お待たせしました」

 マイクに向かってそう言った瞬間、コメント欄が弾けた。歓声を表す文字列が、滝のように流れていく。

 学校では絶対に出さない、低くて静かな声。感情の起伏を抑えたような、それでいてどこか温度のある話し方。それがリスナーたちの間で「シズネの声」として認識されていた。

 ゲーム実況から始めて三年。顔出しは一切しない。プロフィールに年齢も性別も書いていない。それでも声とトークと、月に一度だけ配信するASMRで積み上げてきたフォロワーだった。

 この夜の配信は、三時間続いた。

 後半は機材を持ってプールサイドへ移動した。屋内の照明が水面に反射して、青白く揺れている。静はフロートに腰かけながら、リスナーの質問に淡々と答え続けた。

 コメントが途切れることはなかった。

 百万人という数字が現実のものになったとき、静はモニターを眺めながらしばらく黙った。感動とか、興奮とか、そういったものはあまりなかった。ただ——積み上げてきたものが形になったという、静かな手応えだけがあった。

 最後に静は言った。

 「いつも見てくれてありがとう。趣味の合う方と話せる時間が、私は好きです」

 コメント欄が、また弾けた。

 静はモニターを見ながら、口元だけで笑った。

 翌朝、静は眼鏡をかけて登校した。

 いつもと同じパーカー。いつもと同じ無表情。昨夜百万人のフォロワーに届いた声の持ち主だとは、誰も気づかない。

 「モブ子、数学の課題見せて」

 朱莉がいつもの調子で言った。

 静は無言でかばんからプリントを取り出し、差し出した。受け取った朱莉は礼も言わずにそっぽを向いた。

 静はそれを見て、特に何も感じなかった。

 ただ——心のどこかで、ほんの少しだけおかしいと思った。

 昨夜、百万人の前で話していた自分と、今ここでプリントを差し出している自分が、同じ人間だということが。

 朱莉に言われたのは、その三日後だった。

 部活帰りの廊下で、グループ全員に囲まれた状態で、朱莉が笑いながら言った。

 「ブスに夏休みは似合わないよね。モブ子がプールとか、想像しただけで笑える」

 グループの子たちが一緒に笑った。

 静はそのとき何も言わなかった。

 言う必要が、なかった。

 昨夜のライブ配信で、プールサイドから百万人に向けて話していた声の持ち主が、今ここに立っている。それだけで十分だった。

 静はただ、歩き続けた。

 背中に笑い声が追いかけてきたが、手の中のスマートフォンを見れば、シズネへのコメントがまだ増え続けていた。

 ——夏休みが終わるまで、特定班が動くまで、あと十四日。

 (第2話へ続く)



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最終更新日  2026.03.08 14:00:32
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