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九月の朝は、まだ夏の名残をたっぷりと含んでいた。
校舎に入ると、エアコンの効いた空気が汗ばんだ首筋に触れる。上履きに履き替えながら、葛城静は今日が何日目かを数えた。夏休みが明けて、三日。
教室の扉に手をかけた瞬間、静は気配で気づいた。
中の空気が、いつもと違う。
扉を開けた。
三十二人分の視線が、一斉にこちらを向いた。
昨日まで静の存在を空気のように扱っていたクラスメートたちが、スマートフォンを手に持ったまま、どこか引きつった表情でこちらを見ている。一瞬の静寂のあと、ひとりが小声で何かを囁いた。隣の子がうなずいた。また別の誰かが画面を見せ合うようにして笑った。
静はその視線の意味を、すでに理解していた。
昨夜、Xのトレンドに自分の名前が載っていたのを、就寝前に確認済みだったから。
自分の席に向かいながら、静は正面を向いたままかばんを机に置いた。
「ちょっと、静」
声をかけてきたのは黒瀬朱莉だった。
クラスの女子グループを束ねる、いわゆるスクールカーストの頂点に位置する人物だ。夏休みの間ずっと静をパシリとして使い倒し、三日前には「ブスに夏休みは似合わないよね」と廊下で大声で笑った、その当人。
その朱莉が今、満面の笑みを浮かべながら近づいてくる。
「あのさ、私たちってずっと友達だよね? そう思ってたんだけど、静はどう?」
静は立ち止まった。
朱莉の顔を、まっすぐに見た。
何かを言う気にはなれなかった。
言葉よりも先に、手が動いた。かばんのサイドポケットからイヤホンを取り出し、ゆっくりと両耳に差し込む。続いて胸ポケットから眼鏡ケースを出した。夏休みが明けてから毎日かけていた、顔の半分を覆うような分厚いフレームの伊達眼鏡を外して、ケースにしまう。
教室がざわめいた。
誰かがスマートフォンのシャッターを切る音がした。
静はそれを無視して、朱莉だけを見た。
「ごめんなさい」
低く、落ち着いた声で言った。
「趣味の合わない方とはお話ししない主義なの」
朱莉の笑顔が、固まった。
静は朱莉の横をすり抜けて、自分の席に座った。イヤホンから流れる音楽が、ざわめき始めた教室の声をきれいに遮断した。
——これは、モブ子と呼ばれた少女が、誰にも媚びなかった夏の話。
話は、少し前に遡る。
葛城静、高校二年生、十七歳。
身長百六十二センチ。腰まで届く黒髪。緑がかった瞳。
ただしそれは眼鏡を外した場合の話で、学校では常に分厚いフレームの伊達眼鏡をかけ、地味な色のパーカーを羽織っていた。おかげでクラスでの存在感はほぼゼロに等しい。
名前を呼ばれることはほとんどなかった。
たいていは「ねえ」か「お前」か——そして「モブ子」。
最初にそう呼んだのは朱莉だった。一年の春、最初のクラス替えで席が隣になったその日に「あなたってなんかモブっぽいよね、モブ子って呼んでいい?」と言った。確認を取る体裁を取っていたが、断れる空気ではなかった。
それ以来、静はそのグループにとって都合のいい雑用係になっていた。
プリントを職員室に届けること。放課後に荷物を持つこと。課題を「参考に見せてもらう」こと。理由もなく呼びつけられること。
断らなかったのは、静なりの理由があった。
揉めることが面倒だったから——というのは半分本当で、半分は嘘だ。
本当のことを言えば、静にとって学校はもともとそれほど重要な場所ではなかった。
自分にとって重要な場所は、別にあった。
夏休みが始まった翌日の午後。
静は両親が長期の海外出張で不在にしている別荘に来ていた。自宅から車で二時間ほどの距離にある、小さな一軒家だ。広い庭と、屋内プールと、防音のしっかりした一室がある。
静はその部屋の機材の前に座り、ヘッドセットを装着した。
モニターには配信ソフトの画面。待機中のコメントがすでに数百件、数千件と流れ始め、画面を埋め尽くしていく。
画面の隅に表示されたフォロワー数は、九十九万八千人。
今夜は百万人突破記念のライブ配信だった。
配信者名は、シズネ。
「お待たせしました」
マイクに向かってそう言った瞬間、コメント欄が弾けた。歓声を表す文字列が、滝のように流れていく。
学校では絶対に出さない、低くて静かな声。感情の起伏を抑えたような、それでいてどこか温度のある話し方。それがリスナーたちの間で「シズネの声」として認識されていた。
ゲーム実況から始めて三年。顔出しは一切しない。プロフィールに年齢も性別も書いていない。それでも声とトークと、月に一度だけ配信するASMRで積み上げてきたフォロワーだった。
この夜の配信は、三時間続いた。
後半は機材を持ってプールサイドへ移動した。屋内の照明が水面に反射して、青白く揺れている。静はフロートに腰かけながら、リスナーの質問に淡々と答え続けた。
コメントが途切れることはなかった。
百万人という数字が現実のものになったとき、静はモニターを眺めながらしばらく黙った。感動とか、興奮とか、そういったものはあまりなかった。ただ——積み上げてきたものが形になったという、静かな手応えだけがあった。
最後に静は言った。
「いつも見てくれてありがとう。趣味の合う方と話せる時間が、私は好きです」
コメント欄が、また弾けた。
静はモニターを見ながら、口元だけで笑った。
翌朝、静は眼鏡をかけて登校した。
いつもと同じパーカー。いつもと同じ無表情。昨夜百万人のフォロワーに届いた声の持ち主だとは、誰も気づかない。
「モブ子、数学の課題見せて」
朱莉がいつもの調子で言った。
静は無言でかばんからプリントを取り出し、差し出した。受け取った朱莉は礼も言わずにそっぽを向いた。
静はそれを見て、特に何も感じなかった。
ただ——心のどこかで、ほんの少しだけおかしいと思った。
昨夜、百万人の前で話していた自分と、今ここでプリントを差し出している自分が、同じ人間だということが。
朱莉に言われたのは、その三日後だった。
部活帰りの廊下で、グループ全員に囲まれた状態で、朱莉が笑いながら言った。
「ブスに夏休みは似合わないよね。モブ子がプールとか、想像しただけで笑える」
グループの子たちが一緒に笑った。
静はそのとき何も言わなかった。
言う必要が、なかった。
昨夜のライブ配信で、プールサイドから百万人に向けて話していた声の持ち主が、今ここに立っている。それだけで十分だった。
静はただ、歩き続けた。
背中に笑い声が追いかけてきたが、手の中のスマートフォンを見れば、シズネへのコメントがまだ増え続けていた。
——夏休みが終わるまで、特定班が動くまで、あと十四日。
(第2話へ続く)
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