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勤労・学生・主婦を始めて3日。毎日キッチリ残業もし、授業で抜けさせてもらう分、空いている時間は降る活用し目標の仕事量をこなす毎日。 クラスは悲しいかなレベルアップできず、前回終了したレベルと同じレベルのクラスに戻った。しかし、その時に一緒だった生徒はみんな自分の国へ帰ってしまったので、また新しいクラスメイトに違う先生でのスタートだ。 クラスは相変わらずEUが殆んどで、アジア系は日本人が私を含めて3人と韓国人が2人。現在の先生は文法にかなり力を入れており、既存のテキストを開く事が無い。2度目のトピックスなのでチョット飽き気味の私には調度都合が良いが、彼(先生)曰く「このテキスト、ハッキリ言って嫌いなんだよ」って。そういえば、前の時にロシア人のジュリア(仮)が聞き取りの最中、「ものすごく退屈なんですけどっ!」と先生に文句を言っていた。確かに、英国訛りでどうも耳障りな声のトーンと、興味を誘わないテーマは眠気しか誘わない。しかも、聞き取りのやり取りが長時間で(10分近くテープを聞かされる)、集中力が続かないのも退屈な理由である。レベルがある程度高い故、仕方が無いのだろうが・・・ 実は、再来週からサウジアラビアから75人、平均年齢19歳の少年が1年間の滞在予定でやって来る。学校スタッフはこの準備にピリピリしている。サウジアラビアと言えば、以前クウェートからの我まま少年のことを書いたが、この少年と同じようなお子達が70人以上、それも1年間滞在するのだ。と言う事は・・・1年間ストレスから開放されない・・・と言う事になる。なんと恐ろしい・・・ 先生のスケジュールを決める旦那は特に女性の先生の割り振りに頭を抱えている。サウジな人はチョットだけ"男尊女卑”的なところがある。それを考慮しなければならないし、また、"お祈りの時間"が1日5回。これも考慮しなければならないそうだ。また、金曜日の午後は一切授業を入れることが出来ない。・・・なんとも面倒な人たち・・・ 私の意見として、アメリカに何を彼らは学びに来るのか?と考えた時、英語と言う言葉だけでは無く、その英語を通してアメリカの文化も学びに来るのでは?と考える。しかし、この考え方をしているのは日本人くらいで、欧州の人たちの大部分は"英語"だけを学び、生活文化に対しては"自分の国じゃ~・・・”と言い訳をし従おうとしない。よって、逮捕されたり学校を追い出されたりする。 今回やって来るサウジのティーンエンジャーも英語を学びに来るが生活スタイルはあくまでもサウジスタイルを通すのか?お祈りの時間は仕方が無いとしても、アメリカに来るのだから、それも1年間も居るのだから、その間に是非"レディーファースト"と女性を尊敬する念も学んで欲しい。そして、自分の我を通す事じゃなく譲る事も。折角、違う文化の国へ来たのだら”Do as the Romans do.(郷に入れば郷に従え)”も学んで欲しい。
2005年09月30日
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今日、改めて”オフィシャル"な職場復帰をした。そして明日から勉強も始める。とりあえず1日2クラス。それ以上は宿題が出ても出来そうに無いかもしれないし、仕事が中途半端になりそうで"最低限"のクラスにしてもらった。 今朝、学校へ行くとスタッフが私の顔を見ると”Welcome to back!"といってハグしてくれる。7月、日本へ行く前に"さようなら”と入ったけど、"また戻ってくる"なんて言ってもなかったし予定にもなかった。が、結構照れくさい物である。なんだか”出戻り"ぽくって・・・ しかし、肝っ玉母や学校長のイアンの私に対する期待度というのは結構高く、私も嬉しい。問題は、本当に授業!前と同じレベルに入れてもらうのだが・・・いくらたっても上達していない自分が情けない。旦那に言わせると"そら~、勉強していないからショウガナイでしょ”とあっさり言われた。特に日本へ5週間行っていた事も原因の1つで、私の英語力はほぼ振り出しに戻った感じだ。 とりあえず、頑張ろう・・・1月からはもっと厳しい環境に身をおくことになるのだから・・・
2005年09月28日
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・・・というのは、アメリカンフットボールシーズンである。毎週日曜日は大学チーム、そして毎週月曜日はプロチーム。毎週日曜日の夜には旦那に「明日は何の日だ?!」と聞かれ「Monday Foodball」と答えらねければ怒られ、そして当日は当日で「今夜は何をする?」と聞かれ、「Footballを見る」と答えなければすねられる。ハッキリ言わせて貰えば、興味の無い私にはどうでも良いのだ、アメフトなんて! 旦那のご贔屓チームはデンバーブロンコス。大抵の人は自分の出身地や出生地のチームのファンであるが、旦那もその例に漏れずデンバーブロンコスのファンだ。何年も前は全米第1位2位に君臨していた時期も有るそうだが、そんな物は"過去の栄光"であり、このところは冴えない。先々週の開幕第1戦目はマイアミ・ドロフィンズにみごと敗退。先週は3点差で逃げ切りどうにか勝った。そして今日、地元デンバーでカンザス・シティーChiefsとの試合があり、テレビで放送される。 カンザスはものすごく強いチームらしい。そしてその上テレビ放送・・・私の"統計"ではブロンコスがTV放送されるゲームで勝つ確率は2割強だ。開幕試合はTV放送され見事に負けたが先週は放送されず勝つことが出来た。そして本日、オンエアーがあり尚且つ強いチームとの試合。勝てる理由がないと私は見た。 旦那のブロンコスへの思いは、阪神ファンの思いと同じようである。負けると手がつけられないくらい落ち込むし、勝てばこれまた手がつけれないくらい有頂天にある。試合中は普段口から出ないような言葉がポンポン出てくる。・・・人が変わるのだ。 で、私は何をするか・・・興味の無い試合はつまらない。そこで私はゆっくり風呂に浸かる。1時間くらい浸かってリラックスする。この前日本へ帰った時に友人が誕生日プレゼントとして沢山の入浴剤をくれた。それを入れて”温泉気分"を味わう。 本日の試合、東海岸時間9時にキックオフ。深夜1時前まで試合は続く・・・
2005年09月27日
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日本のお化けシーズンは夏、盆辺りであろう。しかし、ここじゃハロウィーンが近くなる今時期からお化けシーズンになる。先日、あるテレビ番組が幽霊が出るといわれている場所へ夜出かけていて、その人たちがキャーキャー言っていた。その時に取った写真というのに人影があるというが、どう見ても"合成でしょ??"って感じで、怖いと言うより”あんたら、何やってんのぉ??”と言う感じだ。 ここ近年、日本のホラー映画がアメリカでリメイクされヒットしている。"リング"から始まり、"着信アリ”もリメイクされるとか・・・ホラー映画好きの友人(アメリカ人)が言うには、日本のホラー映画は体が冷たくなりそうな怖さが有ると言う。アメリカのはまるでお化け屋敷で、大音響と共に相手を"脅かす"。が、日本のは"忍び寄ってくる"。 そんな話を昨晩友人達と晩ご飯を食べながら話していて、話題は"今年のハロウィーンのコスチュームはどうする?"になった。実は私は決めている。今年は”サダコ”になる。長い髪を前にたらして、チョット濡れた感じにする。顔と手は白く塗って目のふちを赤くして周りは黒く塗り、白いワンピースを着る・・・んんん・・・サダコ・・・ 実はハロウィーン当日、コスチュームでリンカーンモールにあるレストランで食事をするとお店によっては飲み物がタダの所がある。それも目当てなのだが、1年で1回、本当に気合が入る日なのだ。去年初めて体験したが本当にみんなスゴイ。面白いのはマイアミらしく"ドラッグ・クィーン"が多い事だ。ドラッグ・クィーンとは男性がものすごくハデに女装する事。去年は着物を着た"芸者"なドラッグ・クィーンが多かった。芸者=ゲイ者・・・"ゲイ”つながりなのであろう。今年は是非カメラを持参したい。それくらい面白い。 そして、もし10月にオーランドへ行くと言われる方へ・・・10月から11月に賭けてユニバーサルスタジオは"ホラーナイト”らしく、夜は公園全体幽霊がウロウロするそうだ。是非お越しを・・・
2005年09月26日
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日常生活に戻った。家には私独りで誰とも喋らない。あんなに2週間喋り倒したのに、こんなに静かなんて・・・ 実家へ妹がマイアミを出たことを電話で伝えると、すでに彼女から連絡が入っていたらしく知っていた様子。「長い間本当に世話になったって言っていたよ。ありがとうって」と父から言われた。グッとこみ上げるのを抑えながら「こちらこそ、2週間楽しかったよ」と言うのがやっとだった。 それから2週間サボリのサボった掃除を始めた。彼女が使っていたマットレスを片付け、掃除機をかけ雑巾でタイルの床を、それはまるで修行僧のように拭く。モップで拭くより雑巾で拭くほうが一心不乱"無"になれるので、たまに私はこうして雑巾で拭く。しかし今日は"無"になれなかった。時折こみ上げてくる感情、そして流れる涙。"どうしちゃったの?私?"と思うくらい・・・失恋したってこんなに泣いた事が無いのに・・・ そういえば、姑から私達がコロラドから帰った後の数日間は"ハートブレイク"になったみたいに脱力して何も手につかないくらい寂しいと言われた事があった。きっと今の私も同じなのだろう。 今日は湿気も少なく、風も気持ちが良い。明日は私の心も今日の天気みたいに快晴になりますよう・・・
2005年09月25日
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朝7時過ぎの便で妹がマイアミからシカゴ経由で日本へ帰っていった。2時間前までには空港へ行かなければならなかったので、妹を4:10に起こし、4:40に自宅を出発した。幸い我が家から空港までは13マイル(約20キロ)の上、ハイウェイにもすぐ乗れるため、早朝は20分で空港に着く。今日も5時前には空港に到着した。 チェックインの後、空港のカフェテリアでシナモンレーズンベーグルのクリームチーズサンド1個を私と妹で分けて食べ朝食を済ませ、6:30前にセキュリティーゲートで別れた。 去年の今頃も彼女と同じ場所で別れたが、その時は彼女がゲートの向こうへ行くのを見送りながら涙したが、今年はそれがなかった。前回、帰りの道中半分ぐらいまで助手席で泣いていたがそれが無かった今年、旦那は「大丈夫?」と心配してくれた。去年はまだ移住して間が無く友達もおらず、妹が帰った後は独りぼっちだ・・・と言う思いが強く泣いたが、今はチョット状況が変化した。友達も多少なりとは出来たし、日本へすぐ帰れることが分っている。「去年と違って、今年は孤独感は無いから・・・」と言うと「君は一人じゃないよ」と運転しながら手を握ってくれた。 仕事を残している旦那と会社で別れ、一人自宅に戻り妹が使っていたシーツやタオルを洗濯していると、彼女の出発時刻になった。きっと彼女を乗せた飛行機は我が家上空を通る。そう思って7時半前バルコニーから空を見上げていたら、銀色に光る飛行機が我が家上空を旋回し北へ向けて飛んでいた。変な話だが、私はその飛行機が彼女の乗っている飛行機だと確信があった。バルコニーから乗り出しその飛行機を見上げていると、今まで押さえ込んでいた感情が一気に噴出し涙が流れた。彼女が使っていたブランケットを抱えそれに顔を埋め声を押し殺して泣いた。寂しい・・・そんな気持ちと"次はいつ会えるんだろう”という気持ちが私を号泣させる。 「やっぱり、遠いわ・・・」空港からの帰り道、旦那にポツリとつぶやいた。「うん・・・遠いね・・・」と旦那もつぶやいた。マイアミを発って27時間後の明朝朝8時(日本時間の25日午後9時)ごろに彼女は実家に戻る予定だ。本当に遠いがそれでも彼女は来てくれる。インターネットの普及で世界は狭くなったといっても、その距離は永遠に変わることはない。また明日からはネットのチャットでの会話になるだろう。 長時間のフライトと結構な額の旅費。それでも会いに来てくれてありがとう。また会う日まで・・・
2005年09月24日
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妹のマイアミ滞在もそろそろ終わりの声を聞く今日この頃、彼女が日本から借りてきた携帯に電話が入るようになった。それも会社から。"ファイルがどこにある?"とか"データーはどこに保存してある?"など、明らかに仕事の話。そしてどの電話も普通に掛かってきている。 妹はDOCOMOで海外で使える機種を借りていた。その借りた電話に彼女のFOMAカードを入れておくだけで日本の電話番号にかければそのままアメリカに居る彼女にかかるそうだ。"マジで??メチャメチャすごい!!”と感心している私に「ボーダフォンはきっともっと簡単じゃない?」とあっさり・・・日本の携帯の進化はスゴイ・・・と思っていると同時に気がついたことがある。それって、地球上に居る限り会社からの呪縛から逃れられないのでは???私がOL時代、年に1~2度独りで海外をフラフラしていたが、それは一切会社の事や知り合い、家族から離れ、自分を見つめるためだった。国内に居る限り携帯電話で連絡がつくが、海の向こうへ行くとそれが出来ない。そのお陰で独りで居る事が出来た。その間は当然仕事の事など思い出しもしない。 しかし、今はそれが出来なくなったようだ。どこへ行こうとも、携帯があれば普通にかかってくる。嫌でも現実に戻される。それも時差関係なく・・・日本に居る人は日本の時間でかけてくるから。なんて恐ろしい!!現実逃避したくても出来ない世の中になったのではないか?? などとこの日記を書いている最中にも寝ている彼女(朝8時半)に電話が鳴る。かわいそうな妹・・・あなたはマイアミに来ても仕事からは離れられないのね・・・
2005年09月22日
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今年はハリケーンの当たり年だ。・・・と去年も同じ事を言っていたかも・・・しかし、今年はAから始まってすでにR。18番目のハリケーンということになるが、ナショナル・ハリケーンセンターじゃ名前をWまでしか決めていないそうだ。9月の時点でR・・・あと5つ分の名前しかないという事は6つ目が来たらどうなるんだ~?と私の興味はあらぬ方向へ・・・ 前回、カトリーナの時トロピカルストームからハリケーンになったが、殆んどの人は甘く見ていた。その教訓から(?)今回は妹も居ることだし、準備を一応しておくことにした。 しかしだ・・・前回も書いたが何をどう用意してよい物か分らない。とにかく近所のスーパーへ行く事にした。それも歩いて。「車で行かないの??」と妹からブーイングだが、車で行くと駐車場に入れないどころか、置く場所も無い。だから歩く。歩いていけば当然買うものは制約される為、無駄な買物はせずに済むのだ。 結局買ったものは・・・ピタ、ほうれん草のディップ、サルサソース、トルティーヤチップ、バナナ、缶スープ・・・旦那に言わせると"普段の買物"だそうだ。缶詰の豆がこういうときには棚から消えるが、豆類があまり好きじゃない私はどうでも良い。それよりはバナナで飢えをしのいだ方が良いだろう・・・ さて、一夜明けて、今一番ハリケーンが近い所にいる。妹はもっとすごい物を期待していたらしく「なんだ・・・こんなもの??」と言う。前回の台風15号の方がもっとすごかったと・・・ 外にも出れないので結局洗濯を始めた。するとお隣に住むマリア(仮)おばさんも洗濯室にやってきた。「こんな日は洗濯ぐらいしかやることないものね~」と。今日は外出も出来ない、退屈な日だ。(ちなみに、旦那は仕事に出掛けました)
2005年09月20日
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朝から快晴の日曜日。とてもマイアミらしい空の色。遅い朝に起きて3人でお気に入りのカフェへブランチに出かけた。前の夜クラブへ行ってその疲れが出るかしら?と思っていたのに何のその・・・この空の色を見ると家の中に居るのが勿体無い。 ブランチの場所はサウスビーチの北側。それも裏通りにあるカフェの為、観光客用ではなく殆んど"ご近所さん"用のカフェだ。店内は明るくシンプルで、日本の"チョットお洒落なカフェ"を思い出させる。 そのカフェでブランチを食べ、一旦旦那を自宅へ送り私と妹はビスカヤ・ミュージアムへ出かけた。ここはインターナショナル・ハーベスター社の元副社長であった故ジェームス・ディアリングという人の冬の為の別荘だった。感謝祭後、彼はここに来てイースターまでの約4ヶ月をここで過ごしたのだが、"冬の別荘"だからといって侮れない。そこには莫大な私財が投入されているのだ。 この建物は1914年から2年間かけられて建てられた。ほんの数十年しかたっていないのだが、そこにはまるで400年以上前に建てれたイタリア・ルネッサンス様式の風格がある。家具などの調度品もローマ帝国時代物やら2世紀頃のもの、また、メディチ家のものだったテーブル等等・・・まるで博物館のようだった。 そのわけは、このディアリング氏が実業家である以上に博識な人だったことにある。彼はエンジニアの関係でドイツ語、農業関係でフランス語を読み書き出来、ラテン語もこなす。これらの語学を生かし彼は欧州へ旅行へ行きこれらの調度品を買い付けた。また、この家にはちゃんと電気設備が整っており、電話はもちろんエレベーター、冷蔵設備、セントラルヒーティングなどが整っていた。 とにかく、庭も広大でこれが"個人の財産"だったのかと思うと圧巻である。今はマイアミ・デットカウンティーが買い上げ一般に公開されているがそれでも維持には莫大な経費が掛かっているだろう・・・と他人事ながら懐が気になるところだ。 ここの中庭からは海が一望でき、その先にはキービスケーンが見える。その風景はまたすばらしい。ここに過のヨハネ・パウロ2世やエリザベス女王が訪問されたり、1994年にはサミットがここで開かれたのが"納得"できる。 入場料は大人12ドル。しかし、シーワールドもそうだったが、ここにも"フロリダ州住民割引"がありIDを提示すれば9ドルだった。(シーワールドは一般料金で2回分の入場券が付く)そして30分~1時間ごとにあるガイド付きツアー(英語)は無料。私たちもこれに参加したが、合計5人の少人数だった上、ガイドさんがかなり建築に詳しかったので面白かった。 完成から9年後の1925年、ディアリング氏はこの屋敷で亡くなったが、ほんの数ヶ月しかこの屋敷を使っていなかったことになる。しかし、それから何度となくハリケーンに合い、多少のダメージが庭園には合ったそうだが、建物への被害はなかったそうだ。 あまり観光で見て回るところが無いマイアミだが、ここはゆっくり出来て面白い。建築や美術、骨董等にご興味のある方へ是非お奨めである。(追記) ”Bad Boys 2”でキューバ人のマフィアがマイアミで住んでいた"ママの家”はここです。
2005年09月18日
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とうとうマイアミビーチにて クラブデビュー!! をいたしました。 実は、友人の一人トム(仮)が本日サウスビーチのクラブで”バーテンデビュー”することになり、そのお祝いかねて冷やかしに行った。 イアン(仮)と妹、そして私達夫婦で近所の寿司屋にてちょっと遅い晩御飯を食べている時にこの話を聞いた。”これは私のクラブデビューか?”と期待が膨らみ深夜に出かけることになるが返事は”行く!” 食事後、早速自宅に帰り服を一応”お出かけ用”に着替え自宅を出たのが12時前だった。 途中イアン宅へよりそこで彼とトムの女友達(元彼女)を拾って迷いながら目的地のクラブへ着いたのが12時半ごろだった。サウスビーチの週末は”クレイジー”に一言に限る。だからほんの数メートル車で進むのにも大変な上、彼がいるクラブの住所がはっきり分からなかったのだ。 グルグル裏道やら本当にわけの分からない裏通りを回り、しばらくしてトムからメールが入り住所が分かった時、私たちは偶然にもそのクラブのそばにいた。 さて、車を店の前に横付けし、店に入る。店の前にはレッドカーペットが敷いてあり強面な兄ちゃんが立っている。私たちはそこで自分達が21歳以上で合法的に酒が飲めることを証明するためにIDカード(免許証等)を提示する。しかし、妹はフロリダのIDも安全のためパスポートも持ち合わせていなかった。そこで旦那が説明したら「あ~、大丈夫」と強面はあっさり了解してくれ中へ… 真っ暗な店内に赤いライトが見え、結構人がいた。しかし、久しぶりのクラブ、タバコの煙が目にしみた。カウンターの中で働いているトムに挨拶をし、彼の奢りで1杯飲ませてもらった。 店は日本ほど凝った作りじゃない。ただカウンターがあり皆そこで飲み物を注文し、立って飲む。音楽は80年代の音楽中心で、天井からLPレコードやらカセットテープやらがディスプレーでぶら下がっていた。 目が慣れて店を見渡すと、結構客層が若い。女の子はミニスカートにおなかが出るくらい短いタンクトップ、そして彼女らは曲に合わせて腰を振る。男の子が意外と大人しく、皆立って飲んで喋って… さて、私たち大人グループ。立って飲んでいたが、そのうちイアンが”ショットで飲まないか?”と聞いてきた。私はアルコールにめっぽう弱いのでお断り。その代役で妹を立てた。妹は「ん~…テキーラなら…」と恥じらいながら注文し、私以外4人はテキーラ入りのショットグラスとスライスレモンを持って乾杯、一気にテキーラを喉に流し込みレモンをかじる。一人だけ何もしないのは寂しいので、私はレモンだけ同じタイミングでかじった。 しかし…1時間ぐらい過ぎたところで睡魔が襲ってきた。独身時代、朝5時まで飲んでいた(私は飲めないのが)のに、今は午前1時を過ぎると目が開けていられない。旦那も妹もあくびをしている。”嗚呼…潮時…”本当に年をとったと実感させれたが、私たち3人は帰宅することにした。 なんと、最高潮に盛り上がる時間に帰宅できるようになった私も成長したが、午前2時を越せなくなった自分がちょっと悲しい・・・ 自宅に戻り、シャワーを浴びベットに入ったのが3時前だった。疲れたが、それでもクラブへ行ったというのがうれしかった。そして朝9時まで早朝の雷雨にも気が付かず爆睡したのであった。
2005年09月17日
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今日も朝から快晴である。天気予報じゃ"もしかしたら雷”だったが、そんなものは微塵と感じさせない、とってもマイアミな天気だ。 そして今日は昼前からバスに乗ってショッピングモールへ行ってきた。木曜日と言うので人はまばら。お店によっては店員の数の方がお店の客より多い。そのお陰でフードコートでもお手洗いでも、ついでにレジでも並ばずに済んだ。 妹はマイアミに来るにあたって"秋物”の服を狙っている。マイアミは年中比較的に暑い。秋物が出る今頃は暑くてウールのセーターやブルゾンなど着れる状態ではない。なので結構品数が豊富でありサイズも揃っている。 私が日本へ帰った時、今回は夏に帰ったので夏物最終セールで服を結構買ったが、前々回は冬バーゲンのごろ帰った時はさすがに手が出なかった。お陰で散財せずに済んだが、前回は結構お金を使った。そして妹も本日散財。しかし、彼女にとっては満足の行く買い物だったようでご満悦だ。 彼女の買いっぷりになんと私も影響されて、長袖のブラウスを1枚買った。これくらいなら学校へ行ったりするときに着れそうだ。マイアミはどこも年中冷房でキンキンに冷やしてある。建物内に1日中居るとなれば何か厚手の物が1枚必要になるから。 ところで、私のこの"浪費"、旦那には内緒にしておく。決して怖いわけじゃないが私ばかり買って旦那が我慢しているのを知っているから・・・(あまり洋服に対して欲が無いのが助かっているけど)
2005年09月16日
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オーランドはディズニーワールドやユニバーサルスタジオや・・・"アミューズメントパーク"が沢山ある事で有名。やはり筆頭はディスにーワールド。本当にその面積となると"広大"の一言に尽きる。しかし、今回のメインはこのディズニーワールドでもなく、ユニバーサルスタジオでもない、”Sea World"だった。 私の妹は今から十数年前に1度オーランドに来たことがある。その時、帰国した彼女から聞いたのは"日本からものすごく遠い。そしてディズニーワールド以外何も無い、タダの田舎”と言うこと。 そして、今回私が行き、この目で見た感想は"きっとお金が有るカウンティーなんだろう”。それは何気ない道路、街路地そしてそこに植えてある木や芝生、歩道の手入れの仕方で分る。ちなみにマイアミは・・・途中歩道が無くなってみたり、ゴミが落ちていたり・・・"観光地"に相応しくない光景に会うことしばしば・・・ さて、"シーワールド"。ここのオーナーはなんと"バドワイザー"ビールの会社”ANHEUSER-BUSCH INC”である。内容は海に住む動物の生態系を観察したり、当然イルカやアシカのショーもあり、目玉はシャチのショーである。よくテレビで水を観客にバシバシかけるシーンを見たことがある方も多いだろうが、オーランドにシーワールドには水族館等で飼われている中で世界1大きなシャチが居る。名前は"シャムー"。大きさは忘れた! このシャムー、本当なら大きな海をものすごいスピードで泳ぐシャチだが、ここの水槽に住んでいるため(それでも大きい)立てば180Cmはある尾びれもその機能を果たすことができないため撓っている。確かにショーに出てくるシャチたちは悠然と泳いでいるように見えるが、動物大好きな旦那には 軽い動物虐待?だそうな。確かに、あんなにでかい生き物が比較的広いとはいえ狭いプールから出れないとなると、可哀想でもある。 さて、私的に楽しかった"アトラクション"を1つ上げておきたい。それはBudweiser Hospitality Centerである。ここはバドワイザービール5種類くらいが飲み放題!そしてBeer Schoolがありそこで30分くらいのバドワイザーの歴史やら会社の事、そしてビールについての歴史や作り方などの講義を聴く(もちろん英語)。そして6種類くらいビールを試飲し、最後に代表で選ばれた人が"ファイナルテスト"を受け(1問だけ)、その人が無事に正解を答える事ができたら受講者全員に"名誉ビヤーマスター"の証明書が与えられる。もちろん受講料もタダ。ビール好き、酒好きな人はもちろん、私みたいに"酒はあまり・・・"な雑学好きには結構楽しめる。ただし受講には21歳以上である事を証明するための"写真付身分証明書"が必要になる。日本から旅行で来られる方はパスポートの持参が望ましい。 結局、私達は開園直ぐから閉園(午後7時)まで居たが、月曜日だったのと、夏休み後だったお陰でどのアトラクション(ショー)も待ち時間なしだった。一応"行った!”という証拠でイルカショーの写真を添付。全部ショーを見たが、このイルカショーが一番好き。
2005年09月15日
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せっかく妹が来ているので、着いた早々ではあるが翌日日曜日から2泊3日でオーランドへ来るまで行って来た。 ところで妹が着いた10日は夜から激しい雷雨になり道がまるで川のようになった。雷は西から東から光り、ものすごい音がする。妹が「こんな雷の音、聞いたことが無い!」と言うくらい激しい。 しかし、翌日日曜日は朝から快晴で、一路オーランドへ・・・ 続きはまた明日!(かな)
2005年09月14日
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最近夢中になっていることがある。それは"読書"。私は雑誌好き、新聞好き。日本でのOL時代、常に文庫本と電子辞書がバックの中に入っていた。ちょっとの時間が有ると本を読む、雑誌を読む・・・自称"活字中毒"。でも我が夫にはかなわないが・・・ 今読んでいる本。これは日本の文庫本で"ワイルド・スワン"。上・中・下と3巻からなっており内容は著者、著者の母、その母の母と3世代の混乱の中で生きた中国人女性の話である。 始まりは満州にじわじわと日本が侵攻しいるころにさかのぼる。そして蒋介石が率いる国民党が支配し、それに取って代わって共産党が中国を治めようとし、過の毛沢東が共産主義を掲げながら文化大革命を推し進め・・・と、読んでいて怖くなる事もしばしばあった。 実は私自身、余りこの時期の中国の歴史が分っていない。世界史を勉強したが蒋介石も毛沢東も文化大革命もその単語は知っているが内容まで余りわかっていなかった。”はて?習ったか??"と記憶を辿るが・・・高校生の私は余り勉強しなかったからな~。それに、世界史担当の先生はとにかくヨーロッパ史、それもオスマントルコやローマ帝国時代大好きな先生だったから余りオリエンタル方面の歴史に力を入れていなかった。"記憶にないわけだ・・・" そんな私は2度中国へ行った事がある。1度目は上海・蘇州、2度目は北京メインだった。どちらも自ら希望していったわけじゃなく、社員旅行だった。1度目の上海の時は”随分昔の日本もこんな感じだったか?"程度の印象で"中国へ来た!"と言うより"アジアのほかの国に来た”ぐらいだった。しかし2度目の北京は違った。 ホテルの従業員からして上海の人と違う。ホテルの従業員の態度が日本じゃ到底考えられないくらい"横柄"だった。お金を2重取りされたがそれのクレームに対しても絶対に謝罪しないどころか逆切れされた。それを見ていた北京人のガイドも見て見ぬ振り。上海から同行していたガイドは北京のガイドに押さえつけられていて何も文句が言えない。 とにかく北京のガイドは”北京は中国人の憧れの街です。世界で一番すばらしい街です”を繰り返す。天安門広場の毛沢東の肖像画、広々した敷地の中に何も無い(骨董品等)紫禁城。赤い布地に黄色の文字で書かれた横断幕。その時に感じた不思議、でも馴染めない空気の謎がこの本によって解き明かされたような気がした。そして、何故いつも彼らが日本を攻撃するのかも。 この本は私の姑が私に譲ってくれた。姑は姑で戦前を生きた人間であり、彼女の兄に当たる人はシベリアへ抑留され最後の船で帰ってきたときは人間が変わっていたと言う。去年、彼女に私はなかにし礼氏著書の"赤い月"をあげた。その時に彼女は初めて兄がどんな所に居た(満州の北の方からシベリアにかけて)が分ったと私に言った。それまで姑は兄がどんな所でどんな目にあったか一切教えてもらえなかったので想像もつかなかったのだ。 それ以来、彼女は満州に関しての本を人に借りたり譲ってもらって読み出した。その中の1つが今回私に譲ってくれた"ワイルド・スワン"だった。今までは日本時から見た満州だったが、この本は中国人から見た満州で、特に戦後日本が降伏してからが見方が違っている。そして、著者もその母も、その母の母も、芯が強い女性でありどんな苦境にも耐えてきた人達である。ほんの数十年前まで女であろうが人前で殴られたり、尋問されたり・・・自分の人生、特に女性の人生は父親によって、国によって決められる・・・そんな世の中で彼女は数少ない"生き残った"人たちだ。 そうそう。もう1つ私には"謎"だったことが有った。19歳の時に中国語を習っていたが、講師は台湾からの留学生だった。そして日本の大学で現代中国文学の研究をしている言っていた。”それなら中国じゃないの?台湾じゃ出来ないの?"と訊くと「台湾じゃ禁止されているから」と言い、それ以上は教えてくれなかった。その疑問もこの本で解けた。 それにしても、何て私は勉強不足だったのだろう。この本によって今やっと自分の中に有った色々な疑問が解き明かされたのだが・・・なんともこの年齢になってやっと・・・だ。 ちなみに、上記に書いた中国語だが全くモノにならなかった。その講座の全くの初心者は私だけでしかも最年少。他の多くの受講者は元満州出身だったとか、軍で満州に居たとかで"忘れないために"に習いに来ていたのである程度出来る人ばかりだった。よって、私みたいな超ビギナーにレベルを合わせてもらうことが不可能だったのだ。本当にゼロから教えてくれていたなら私は今中国語をメインに生活していたかもしれないのに・・・残念!
2005年09月10日
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経緯は、昨晩肝っ玉母と話したことからだ。彼女は今日(8日)から休暇に入ることになっていた。しかし、勤務時間内は生徒からのリクエスト等の雑務が多いため彼女本来の仕事が捗らない。そのため昨夜10時前でもまだ彼女はオフィスに居た。「明日からはバケーションだから」と言う母。日が1日家に居る私は「良かったら手伝わせてもらえないだろうか?」と言ってみた。出来る範囲のことしか出来ないが、家に1日中居るのも暇なので…母は「私は嬉しいけど・・・」と言う。その場に居た学校長もOKを出し、そして今日約2ヶ月ぶりに仕事に復帰した。 朝10時。仕事場に着くと皆が”Welcome to back!(おかえり)”といってくれハグしてくれた。”またここで働くの?”と言う質問に"今日だけね”と答え、母のオフィスへ行った。そして仕事をもらい別室へ。 私の主な仕事は前も変わらずコンピュータへの入力だが、一応"虎の巻"を持参してたから良かったものの、2ヶ月こうも人は忘れる物なのか?と思うくらい最初は手間取った。記憶の探り"どうだったか??"と考える。やっているうちに思い出してくるが・・・加齢か?それともこれは人間普通の事なのか??と思うぐらい。 仕事はかなり順調に進み、お昼を挟み6時間半で全て済んだ。母は「やっぱりフランシスは仕事が速くて確実で良いわ~。」と褒めてくれるが、訊けば私が日本へ行くために後釜を用意した母。しかし彼女は北欧出身だからか?私ほど仕事が捗らなかったそうだ。「本当に、彼女には悪いけどイライラしたわ」と言う。そこで私は10月からカレッジが始まるまでの数ヶ月間、ここで勉強しながら働く事を言ってみた。母は”I'm so happy!"と喜んでくれ、「アシスタントとしてもだけど、友達としてフランシスが居ないと寂しい」とまで言ってくれた。 私はこれを聞いて、自分の生活がマイアミにもあることが改めて嬉しかった。日本への望郷の念はあるし、恋しい。しかし、少しずつここに立ちだした自分もチョットだけ誇らしい。 取り合えず1日だけの職場復帰。時間はあっという間に過ぎた。楽しかった・・・
2005年09月09日
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この週末、日本から妹が2週間滞在予定で渡米してくる。彼女は2度目のマイアミ訪問で、私と旦那の家族あわせてもマイアミに来たのは彼女1人だけだ。他の友人達家族は"息子(娘)がマイアミに居る!"って言うのでクリスマスに家族単位で来たり、そうじゃない時にお兄さんが、お母さんが、友達が・・・って具合にやって来る。それもアメリカ国内だけじゃない。欧州からもやってくるのに、旦那の家族なんてコロラドからさえ来ない。来てもらっても我が家は狭いのでホテルを取って貰う以外ないが。それでも旦那の独身の友人すら来ないんだもの・・・ さて、我が妹。毎年この時期に会社の創立記念日と土日、そして秋分の日、それと自分の有給を使って旅行に当てることが多い。そして私がマイアミに着てからは去年と今年来ているが、去年来たときはまだ引越してきて間がなく、ゲスト用のトイレは物置状態だったし、家具も揃っていなかった。そして彼女も5泊7日とは言え、ゆっくり出来たのは中4日。あわただしく帰っていった。しかし、今年は彼女の勤続何周年記念とかで1週間の休暇と結構な額の旅行券が支給されると言う。彼女はそれらを利用してマイアミに来る。 土曜日の夜7時半ごろマイアミに到着し、翌日曜から2泊3日でオーランドへ行き成り行く。しかし、オーランドから帰ってからの予定が無い。去年キーウエストへ行ったのが唯一の遠出だったが、それも今回は"要らない"そうだ。そもそもここはリゾートしに来る所であって"観光"しに来る所じゃない。だからニューヨークやボストンみたいに見て歩くところは少ないし、ホノルルみたいに日本人が少ないから高級ブティックみたいなものも余り無い。 前回も結局は"ショッピングモール巡り"が殆んどだった。しかし、ここに住みだして1年が過ぎた。去年の今頃よりはここの事が分ってきている。特にレストラン関係の情報は去年と比べると雲泥の差だ。それに今回は私が車の運転が出来ると言うのも結構強い。 日本から帰ってきて丁度3週間目に妹が来る事になるが、彼女が帰ると当分私達は日本から遠ざかることになる。「日本から距離を置き、日本を忘れさせる!」とイアンは言う。でも、日本人である以上日本を忘れるのは無理だ。食べ物も思想も日本人の私だ。彼女の帰国後は西の空を眺めて望郷の念に浸る・・・多分。
2005年09月08日
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3連休が終わってしまった。今日は火曜日。旦那は7時前には出かけていったが、私は余り覚えていない。何故なら昨夜床に就いたのは午前2時ごろ。ポーカーナイトだった。 3連休の終わりの昨日はカレッジフットボールの試合とが重なった。”あ~フットボールシーズンに突入したのね・・・”この日を境に我が家(旦那)のアメフト三昧の日々が当分続く。 ポーカーはイアン宅で行われた。私達夫婦は早めの晩ご飯を済まし私の飲むアルコール飲料を持参した。メンバーは私入れて5人の紅一点。聞けば、皆は私を負かすためにプレイをしたいと言っていたそうだ。この日記の初期に書いたが、初めてポーカーをして私は25人位の中で勝ち抜いた。この記録は後にも先にも最高ならしい。だからこそ私をやっつけたいそうだ。 トム(仮)は挨拶のハグをしに私に近づいてきた”オォ~ダーリン・・・”といつもの通りのハグ。そしていつもなら"元気かい?"とくるのだが昨晩は「忘れるな。もし俺を今夜負かしてみろ、もう友達じゃないからな」と耳元で囁かれた。何て恐ろしい・・・彼は"脅迫"してきたのだ。 でも勝負は勝負。そんなことを言うからか??トムと刺しで勝負のときはいつも私が1つ上の手で勝ってしまった。そのたび彼は「フランシス、さっき言った事、覚えているよな」と再び"脅迫"する。しかし彼はかなり早めにドロップアウトしてしまった。 最終的にはイアンと私の勝負になった。12時を回ったころにはアルコールが入っている私は眠くて仕方が無く駆け引きが面倒になった。それは彼も同じだったようで、お互いが手元のチップを全部賭ける"ALL IN"をした。何度かそれをしたがなかなか勝負が決まらない。かろうじて私のほうが優勢だったが・・・最終勝負、やはりALL INで賭けた。結果私の1ペアで勝ち。12ドル頂いた。 私は勝負しながら公言していたのが、"もし私が勝ったら、今回のハリケーン被害に寄付をする”だ。だから、今日は出掛けるついでにこの賞金を寄付してこようと思っている。あぶく銭は手元に残しても仕方が無い。このわずかなお金でも何かの役になればいい。 しかし・・・これでまたみんな私に勝負を言ってくるだろうな~・・・
2005年09月07日
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今日は朝から珍しくドンヨリ曇り空。こんな空は夏場には余り見かけない。そして風がチョット涼しく感じられる。そしてもう直ぐお昼になろうかと言う頃から雨が降り出した。横殴りでもない、雷も鳴らず土砂降りじゃない"優しい雨"が降る。旦那と「もう、秋なんだね」と言葉を交わしながらしばらく静かに降る雨を眺めていた。 ここは前にも書いた事があるが、1日中雨が降り続くことはハリケーンが来ていない以外余り無い。今日も小1時間ほど降ったあとは雲が切れ日差しが出てきた。「出掛けよう!」と旦那が言い、車に乗った。 3連休。昨日の土曜日はイアンと旦那と私の3人で近くのモールへ買物へ行き、一緒にカリビアン料理の夕食を食べて解散した。男2人は本屋で生徒達への教材を物色するのが目的であった。日本の本屋なら1,2時間あっという間に過ぎるがアメリカの本屋での時間潰しは私には少々キツイ。なので私だけ本屋の側にある結構大きなショッピングモールに"放牧"してもらった。 そこで感じたのが、お店の人の私への接客態度。"どうせ英語の分らない日本人の観光客"としか思ってもらえていないのか、他の人には声をかける店員も私の側には寄り付かない・・・と言うか”無視”。別にいいけど・・・私は適当に店の物を物色。気に入れば買うし、気に入らなければ買わないだけだ。 モールの各店舗は早くも"秋物セール"をしている。まだまだ暑いマイアミで秋物は"暑過ぎる"ので幸いにも購買欲が沸かない。結局買ったものは化粧品とヘアケア用品。そして旦那から連絡が入ったのは1時間を過ぎた頃だ。「これ以上放牧が続くと、我が家は破産するぞ~~!」と半分脅して迎えに来てもらった。 そして本日は大き目の本棚を買うのを目的に出かけた。実は旦那の両親から2ヶ月遅れのバースデーカードを頂き、プレゼントとして100ドルもらった。自由に使える100ドル。でも"何に使ったか判らない”は嫌だ。で、これから本が増えるであろうと予測し、今使っている本棚の倍の大きさのものを求めて出かけた。 マイアミの南に"コンテナストアー"と言うお店がある。そこはお店の名前そのまま、部屋の棚や物置の棚などを売っているお店だ。ちょっとしたセールをしていたので100ドル少々で棚が買えた。 今の今度に引越してもう少しで1年になる。今まで使っていた4段の本棚は30ドルぐらいの物で、増えた本で溢れていたので自分への誕生日プラス1周年記念で良い買物ができたと自負している。 それにしても私達は休日を使うのが下手だ。世間の人はもっと有効に3連休を使っているだろうに。しかしイアンは言う。「全米からマイアミビーチに旅行に来るんだよ。そこに僕達は住んでいるんだ。だから連休だからってわざわざマイアミビーチから出かける必要なんてないよ」と。我が家のベットルームからの景色はまるでリゾートホテルのようだから・・・これで満足してしまっているというのは確かにある。
2005年09月05日
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先日、渡航以来久しぶりに会った学校長のイアン(仮)に「お仕事が懐かしくないかい?」と訊かれた。日本から帰ってからと言うもの、私は家に居る毎日である。2人だけの生活なのでそんなにすることも無く、長い1日を過ごしている。だから彼のこの一言はなんだか見透かされているようで・・・ しかしイアンは続けてこう言う「君を雇ってあげてもいいんだけど、お金の味を覚えさせてしまったからね~。なかなか難しいんだよね・・・」ナヌ??"雇ってあげてもいい”って??誰も頼んでおらんが??しかしこれって"私を雇いたい”って聞こえたのだが・・・そこで私は「前回、ここで働いた事はいい経験だったし楽しかった。始めはタダ働き状態だったけど、それは苦にならなかった。でも、お金が入ったことはとてもラッキーだったけど」そこでイアンは提案をしてきた。私がコミカレへ通う1月までの数ヶ月間、英語の勉強が私には必要じゃないか?それならそれまでここ(旦那の学校)で勉強をしながらここで働くってどうかしら??と。ESLの勉強は半日しかない。午後が午前か。だから授業がない半日授業料相殺の為働くと言うのを言ってきたのだ。側に居た旦那は「君(私)と彼がいいのならそれでいいんじゃない?」と言う。10月になれば夏休みで来ていた生徒の殆んどが帰って学校内は静かになる。自分には丁度良いかもしれない。取り合えず私は彼に"よろしくお願いします"と日本流に頭を下げてそこを去った。 それを妹に話すと「両立が出来るの?」と訊かれた。そうだ・・・両立だ・・・宿題とかは何時するんだ???家事もある。そんな余裕は私にあるだろうか?前回"共働き"だったとき、ある程度の事を旦那に仕込んだ。今度はもっと旦那の家事への負担が多くなるかもしれない。でもある意味良い機会かも・・・姑には「○○(旦那の名前)を仕込むのはフランシスさんだからね~上手く調教しなさ~い」と言われている。姑はうちの旦那を絶対に彼の父親のようにしてはいけないと私にいつも言う。彼の父は日本の人より亭主関白で、たての物を自ら横にはしない人だ。義母は"教育しなかった自分が悪い"と言い、私には自らの息子を"教育しなさい"と言う。 食事の後片付けはしてくれるが、掃除は全くしない。・・・と言うかしても"これが掃除をしたと言えるか??”レベル。洗濯は機械に放り込むだけだから出来るが・・・そのまま入れるのでシワシワのまま乾燥機から出てくることがある。食料品の買い物は・・・適当に選ぶので痛んだ物を選ぶ事も多々ある。そして、これは仕方が無い事かもしれないが、原価計算をしない。だから"なんでこんな高い物を買ってきたの???"ってことが良くある。 しかし、私としてはある程度出来ても完璧に出来られると困る。完璧に出来るようになったら私の手抜きが出来ない。私だって完璧じゃないもの。適当に出来るレベルまでに・・・お願いしたい。先ずは玄関で脱いだ靴、何とかしてよ!
2005年09月04日
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・・・と言っても、日本では友人達や職場の人たちと"カラオケ"は付き物だったので、たまに行っていたが、アメリカでデビューはまだだった。 アメリカのカラオケは日本の10年位前のように人前で、それも舞台で歌う。ちゃんとDJが居て、曲に合わせてミラーボールを回したり、昨日行ったお店は曲によってはDJがピアノを弾いてくれる。そして他にも自由に使える楽器が用意してあり、楽器が弾ける人はどんどん弾いていた。 さて、私も思いかけず、そのような場所にいけるチャンスに恵まれたのは、旦那の職場の人が”今日はめちゃくちゃ歌いたい気分!”と言ったのが始まりだそうだ。そして声を掛けると参加者は10人を越えていたそうだ。我が家みたいに夫婦で参加する者もいれば姉妹で参加など・・・客観的に見れば"一体、何の団体??"って感じだった。実際、皆で移動中歩いていたらご年配の女性から「あなたたちはどこから来たの?」と尋ねられた。「ケンタッキー!」「コロンビア!」「イスラエル!」「JAPAN!」と、本当に改めてみんなさまざまな所から来ているのが分る。そんなヘンテコな団体は一先ず中近東料理のレストランに行った。カラオケ店のオープンが夜10時だと言うので、私と旦那が夕食を食べる為に居た店に皆がどやどややってきた。 それぞれビールを飲んだり、夕食を食べたり、お喋りして過ごしても9時にもならない。それなら・・・と言うので、プールバーへ場所を移した。そこでイアン(仮)とトム(仮)と合流。しばらくビリヤードをして時間を過ごし、10時半に目的地のカラオケ店へ移動した。 この時点でかなりみんなアルコールが入っていたので移動時も大変だった。ロブ(仮)はプールバーからグラスに入ったスコッチをそのまま持って移動し、”マイアミビーチならいろいろなところに知り合いが居る"とかですれ違う人皆に声を掛ける。挙句の果てには持っていたスコッチをホームレスのおじちゃんに上げていた。実は、フロリダじゃ(と言うか、アメリカでは)外でアルコールを飲むのが禁止されている。おっちゃんにスコッチを渡したロブは近くに居たポリスに”ホームレスがスコッチもってウロウロしてる”と垂れ込みに行こうとした・・・(^^; (これはさすがに旦那が止めた・・・) さて、カラオケ店のシステムだが・・・何も飲まなければタダで歌えて楽しめる。テーブルやバーのカウンターには日本のように歌本は無い。歌う曲を決めるのは入り口に設置してある"歌本コーナー(私が勝手にそう呼んでいる)"へ行き、備え付けの用紙に曲の番号、タイトル、自分の名前を記入しDJの前においてある"リクエスト箱”に入れる。そして、順番が来たら名前を呼ばれるというシステムだ。 日本の曲も数百曲あったが、なんだか中途半端に古く歌手名がなく曲名だけなので良く分らないのが本当の所だった。"歌える曲無いな・・・"と思っていたところ、皆が「フランシス!日本の歌歌ってよ!」と言う。悩んでいた時に、フランス系移民のマイケル(仮)がフランス語の歌を歌い始めた。フランス語が分らないオーディエンスはそれでも彼を盛り上げて、歌い終えた時は大喝采だった。私はこれに後押しされ"一丁やってみるか・・・"で"夏祭り”(ジッタリンジンだった?)をリクエストした。 自分の番が来るまでというのは、ものすごく緊張する。ここに来る人たちと言うのは本当に歌う事が好きで、上手だ。中にはそれは”モノマネ"の域に入っている人もいたし、歌詞なんて見ず、歌に陶酔している人も居る。酔っ払いのロブは歌もさることながら、踊って周りを笑わせていた。「みんなすごいわ・・・」と思い、もう帰りたくなったと思ったときに自分の名前が呼ばれた。 "夏祭り"と言う曲、実は歌った事が無い。何故この曲を選んだか・・・それは”ノリでカバーできるだろう"と踏んだからだ。でも私は若くない・・・それに気がついたときは遅かった。とにかく"縦ノリ”のこの曲に合わせて自分も一応のって歌った。歌っている時に気がついたのが、黒人の女の子3人組が居たのだが、彼女達が私の歌に合わせて日本語で「イチ・ニッ・サン!」と繰り返し歌っていた。会場見ればみんな面白いように縦にのっており、知らない黒人のお兄さんがベースをあわせて演奏し、酔っ払いロブは後ろでボンゴを適当に叩いている。"何なんだ??このノリは??”と思いながら本当に死ぬ思いで歌い終えた時すごい声援でビックリし、後ずさりするように舞台から降りた。 一緒に居た人はみんな私にハイタッチし、息を整えていたときDJに呼ばれた。何かしら?と思い行けば「もっと日本の曲歌ってくれよ!いつも同じような(英語の曲)んで飽きてんだよ」と嬉しい依頼を頂いた。しかし、時計を見れば午前1時過ぎ。旦那と「次回必ず」と約束し他の友達を店に残し家路に付いた。 今朝、起きたら声は枯れ気味。やっぱり若くないのにあんな曲歌ったからだ。でも、アメリカのカラオケって面白い。チョット病み付きになりそうである。
2005年09月03日
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半日遅れて本日9月1日。風が涼しくなったように感じ、日差しもほんの少し柔らかくなったような気がするマイアミ。それでも30度越えは当たり前で、夜はエアコン無しじゃ寝れない。 そして9月1日は防災の日。私の地元は地震も滅多になく、台風も余りヒットしない土地の為、"防災"についての危機感が薄い。関東方面ではこの日に訓練等をするそうだが、私達にとって9月1日は2学期の始業式の日。”出来ていない宿題の提出最終締切日”告知日以外何もなかった。 日本でも報道されているであろう、前回のハリケーンカトリーナ。日に日に被害の全貌が明らかになっていくが、ニュー・オリンズでの死者は千人を越えると言われている。避難して無事だった人も、家が流れていたり、水の中だったり・・・毎回ニュースを見るたびに胸が痛む。 私の住んでいる地区も、同じハリケーンの直撃を受けた。前にも書いたが同じマイアミでも我が家のように被害がなかった場所もあれば、家が水に浸かったり停電になったり・・・とその被害状況はさまざま。ただ死者が出ていないのが幸いだった。しかし、カテゴリー3にまで勢力が落ちたとしても、ニューオリンズ近辺を襲ったハリケーンがそのままここを直撃したら・・・と思うと、どう対処していいのか判らない。出来るだけの物をバスルームに入れ、電化製品はバスタブの中に入れて避難すると旦那は言う。しかし、その判断を何時つけるのか?準備にどれだけ時間が掛かるのか?どこへ逃げるのか?何をもって逃げるのか??? 実は去年の丁度今日、私の名前につけているがハリケーンフランシスが最大級の大きさ、カテゴリー5でマイアミに近づいてきた。その時の中心の最大風速は時速300km。自治体は"避難命令”を出し、殆んどの住人が北へ進路を取った。高速は溢れる様な数の車でふさがり、普段3時間で行ける距離に半日以上掛かった。当然トイレなど行けようが無い。幸い一緒に避難した生徒のバスがトイレ付きだったのでそれを利用したが、殆んどのサービスエリアのトイレは"水が無い"を理由に使用禁止だった。 途中、高速のサービスエリアの駐車場で仮眠を取り、目的のアトランタへ着いたのは、マイアミを出発して30時間後の事だった。フロリダ州内では殆んど飲まず食わず(トイレの心配があったため)寝ず。仮眠を取った後ジョージア州に入ってから初めて椅子に座って朝食のパンケーキを食べ、そこのトイレで用を足し、顔を洗い・・・17時間経ってやっと半分来た事に安堵すると同時に、これからまだ半分あると言う不安で複雑だったのを覚えている。 結局アトランタに1週間滞在したが、私達の場合、旦那の会社が規約に基づいて"ハリケーンで避難する場合は職員の家族も同伴の事"とあるため、費用が掛からずに済んだ。しかし、もしこれが一般家庭となると莫大な費用が掛かる。避難の場合に備えて貯金でもしていないと、なかなか出来るものじゃないと思う。 今回のハリケーンでも周辺の州は避難命令を出していただろう。しかし、なかなか簡単に出来ないのが現状なのは前回の避難で理解できる。実際、現在住んでいるコンドミニアムの住人の殆んどは逃げずにここに居たそうだ。"緊急の場合でもパトカー、救急車、消防車は行かない”と言う自治体の警告を承知の上でだ。建物の立地上、このコンドは風の影響が受け難い。だから前回のハリケーンでもガラスが割れる事もなく災害がなく過ごせたのだ。 "私達は本当に運がいい”これが最近私の口癖のようになっている。そして私の環境にとても感謝している。
2005年09月02日
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旦那は時々遊びで色々な質問をしてくる。例えば”お米と味噌、どっちかを一生食べるなと言われたらどっち?”とか・・・まぁ、子供の頃に"うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、どっちかを食べろと言われたらどっち?”みたいな感じだろうか・・・(実はこれを私が教えた・・・) その遊びの延長で、以前旦那に”お金もある、時間もある。だから1度やってみたいことを1つ上げよ”と言われた。そして私は何気に”四国八十八ヶ所御遍路”と答えた。もちろん日本に住んだ事のある旦那は知っていたが、余り詳しくは知らない。そして何故私が行きたいのか当然分らない。私は歩きながら"無"になりたい。そう答えた。 そんな事を忘れていたある日、シャワーから出た旦那が「閃いたんだけど!」と言う。「何を?」と訊くと「お遍路さんやろうと思う」と言い出した。旦那はてくてく歩き、それを日記に書き留めたいという。「あの白い服着て~」と鼻息を荒くして言う旦那。とにかく彼は歩いて回りたいと言う。何年かかってもいい。毎年2週間歩きたいそうだ。 それを実家の母に電話したついで言ってみた。"馬鹿な事を・・・"と言われると思っていたが、母は「いいことじゃない?私が死んだら位牌をもって回って欲しい」といい、詳しい事を檀家のお寺さん(真言宗)に訊いてみてあげると言ってくれた。 ある本を読むと、お遍路は一人がいいとある。一人で歩くと今まで見えなかったことが沢山見えるとあった。自分の我や高慢さ・・・歩くことでそれら心の苔が落ちて来るそうだ。しかし私は旦那と2人で歩く。きっと私の我ままで喧嘩することもあるだろう。そんな時お大師様はどう思うだろう・・・などと考えた。 私がお遍路したい理由がもう1つある。3年前に亡くなった父方の祖母の供養の為だ。この祖母は若くして夫に先立たれ、私の父含め3人の子供を育て上げた。長男夫婦と一緒に住んでいたが、とても幸せな晩年を送ったとは思えない。チョット陰のある嫁さんに気兼ねをしながらいつも家に独りだったように思う。私達外孫もこの嫁さんに気兼ねをして気軽に祖母に会えなかったし甘えなかった。祖母に毎日会いに行けた出したのは、祖母が寝たきりになり病院に入院してからだ。 2,3週間だったか、毎日私は祖母に会いに行った。そして、ある日普段から人に気兼ねをし遠慮していた祖母が私に「お父さんに来てくれるように言ってくれ」と頼んだ。その頼み方が尋常じゃないと感じた私は直ぐ父に電話をして病院に来てもらった。そして祖母は父に「直ぐ退院したい」と言った。「手続きがあるから、あと2晩くらい我慢できるか?」と訊いたら祖母は「直ぐここから出たい!出してくれ!」と怒りながら訴えたそうだ。 父は祖母を兄宅には戻さず、我が家に引き取った。我が家に来てからというもの、祖母は坂道を転がるように悪くなっていった。私も仕事が休みの日は看病をしたが、我が家に引き取って丁度1週間目に祖母は亡くなった。実は亡くなった時、泣きはしたが悲しくなかった。むしろ"これでやっと厄介な事から開放されたね、ばあちゃん・・・”と思った。やっと祖母が自由になれた・・・そんな思いだった。 その祖母の供養は現在両親がしているが、波乱万丈の人生を送り、結局死ぬまで家の外に出ることの無かった祖母を四国に連れて行ってあげたいと思っている。(多分祖母は旅行を疎開以外、生涯したことが無かったと思う) それと、姑が何かを思い願い書いている写経も奉納してあげたい。姑はいつも両親や身内に線香を上げている。彼女も気持ちの中では日本のお墓参りをしたいといつも思っているが、諸事情から今後も無理であろうと思っている。その思いで写経をしているのなら、その写経を是非持参し各お寺に奉納したい。 今、お遍路への準備としてお経本をひらがなに全部書き換えている。旦那はひらがなは読める。般若心経もひらがなでなら読めるだろう。そして慣れたら経本に持ち替えれば良い。そして、もう少し過ごしやすくなったら歩く練習を始めようと思う。もしかしたら、私達のお遍路はもう始まっているのかもしれない。
2005年09月01日
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