SUGAR CANE
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もう一ヶ月?まだ一ヶ月?時間の感覚が麻痺しています。いろいろありすぎて、もう半年くらい経ったんじゃないかという気がするし、つい数日前の出来事だったような気もする。あの日は私は母と盛岡の病院にいました。去年のクリスマスに甲状腺癌のため緊急入院していた母も放射線治療も終了し、あと二日もしたら退院予定でした。退院に備え看護師さんの手を借りて母を入浴(といっても、風呂場でシャワーのみ)させ、終わったので身支度も済ませて脱衣所から出て車いすに移動させようとしていた時でした。尋常じゃない揺れに驚き、ただでさえ足元がおぼつかない母を車いすまで歩かせようと両手を引いていた看護師さんが「私につかまって」と立ったまま抱き支えててくれていました。私は廊下で畳んでいた車いすを広げていました。長い揺れがまだ続いてはいたけれど、いくらか落ち着いてきたときに母を車いすに座らせ、部屋に戻りました。病院でも一時停電になったものの自家発電で戻ったのでテレビをつけると間もなく「大津波警報」という言葉が飛び込んできました。そして、数十分後には私が昔勤めていた社屋が有った場所に、防波堤を乗り越えた波が大量に流れ込んでる映像がテレビに映し出されていました。「何?これ・・・」映像は今実際起こっている事なんだろうけど、どこか現実味がなく、でも底知れぬ怖ろしさの中にいました。揺れの直後に旦那と姉に送ったメールでどちらも「大丈夫」と返信は帰ってきたものの、それ以降は連絡が取れず、姉の家族の動向や旦那が無理に動こうとして何か悪い事が起こっていないかなど考えるといくらでも不安材料が出てきて気が気ではありません。二日後にはガソリンが残り少ない中、遠野まで来た旦那が公衆電話から姉の一家の無事を伝えてくれて、どっと安心したのでした。波が押し寄せたところには親戚が何件かありましたが、聞き続けたラジオで無事を確認出来ました。病院の配慮もあり、退院を一日は延ばしてもらえたのですが、週が変わると緊急の患者さんがおしよせてくるのでベッドを開けなくてはならないということもあり、退院が決まっていた私たちは病院を出ることになりました。家からはガソリン不足のため迎えに来れず、帰宅難民となる私たちに病院が避難所を紹介してくれました。先生や看護師さんに守られていた病院とは一転、避難所暮らしとなりました。今はみんなそういう暮らしをしているのだから贅沢は言えないと思いながらも、放射線治療の影響で喉を痛がり咳を頻繁にする母を見ながら「これからどうなるんだろう」ととても不安になりました。母の病気を知り、不安や心細さを感じながら早く家に戻れるようにならないかな・・・と思い過ごしていた入院生活だったけれど、その頃のほうが幸せだったと思うのは皮肉な事です。避難所での夕食をいただいたのですが、おにぎり一個も喉を通らず無理に口に押し込んでいた時に盛岡に住んでいる従兄から電話が入りました。今の状況を言うと間もなく従兄の奥さんが避難所まで迎えに来てくれました。自分だけならどこでもどうにかしようと思うけれど、母の体調を思うと、やはり従兄のお宅にお世話になる事にしました。そして従兄の家族には大変お世話をおかけしました。それから一週間、地元で一般車もガソリンを調達できるようになった頃、早朝3時ごろからスタンドに並んでる姉から「給油ができたら迎えに行く」とメールが入り、その日のうちに迎えに来てくれ、震災から10日目、無事家に帰る事が出来ました。私の家や姉の家は被災地ではあるけれど、内陸部にあったため茶碗やちょっとしたものが壊れただけで大丈夫です。でも、姉の家族では職場を流され仕事が無くなってしまったり、家を流されてしまった親類もたくさんいます。友人の甥が行方不明と聞きました。無くなった人の名前に昔勤めていた会社の上司や作業員さんの名前がありました。子供のころから親しんだ「釜石の町」が無残な姿になってしまいました。助かってもこの町を出て行く人が増えていくのではないでしょうか?「早く復興を」と言いますが、この状況から立ちあがるのにどれくらいの時間がかかるのでしょうか?。ただでさえ不景気だった町がこのまま先細りになりそうで、寂しいです。まだ一ヶ月、もう一ヶ月。。。
2011年04月11日
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