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自動車学校 自動車学校・・とってもとっても大変でした。私が大変というより周りの方が大変だったかもしれない・・でも毎日やっぱりあんまり受からないから悲しくて、行きたくないなあと泣いていた思いでがあります。 建物にぶつけて、建物を壊したり・・エス字とかゼットの形になっていたり、車庫入れの練習をするときに立っている三角の印もいくつもなぎ倒して壊したり・・もうだんだん壊したり、変なことしてしまったりで有名になってしまって、車に乗ると教官の先生に「ああ、きみがあの子」なんて言われてしまうくらいでした。 勘違いもいっぱいしました。教官さんが「離して離して・・」っておっしゃるのです。何を?って思ったけど聞けなくて、初めはそっとアクセルから足を離して、それでも「離せ」っておっしゃるから、今度はブレーキから足を離して・・それでもだめだからもう離すところはここしかないと思って、ハンドルから手をぱっと離したら「ばかやろう・・。左の並木塀から車を離せって言ったんだ」とすごく叱られました。なんとか試験まで来たときに、急に雨が降り出して、ワイパーの動かし方なんて知らないって思い出して、どうぞ雨が強くなりませんようにって思っていたのに、どんどん降り出して、とうとう「ワイパー」って怒られて、どのスイッチかな・・これかな?って動かしたら、ライトがぱっとついて、違ったと思って、今度は何か押したら、シューって水が窓に出て、結局「ワイパーの場所を知らない」ということで落ちてしまったのです。いつも見て下さってる教官さんが「きみはいいこなんだけど、でも車はあんまりのらないほうがいいなぁ」なんて、私があんまりシュンとしているので、何かなぐさめなくちゃいけないと思って下さって、それでもいいところが見つからなかったのか「いい子」なんだけどなんてなぐさめてくださったのでした。それでついに卒業のとき「あんまりおいておくと、どんどん学校がこわれていくし、たまったもんじゃないから、はやく出ていってもらわないとね」とか「この学校卒業って言わないでね」とか冗談だかそうじゃないかわからない言葉をいただいて卒業をしました。大学の先生も私が路上に出ている時間は「危険だから、外は歩かないこと」なんて黒板に書いてて、「またぁ」とおかしかったです。 でも今は車大好き。でもやっぱりバックは苦手なので、できるだけバックはしないようにそれから細い道も入らないようにしています。でもまっすぐな道は得意です。(これ、得意って言っていいのかな?)
2006/11/24
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フランス料理やさん3年前、錦城養護学校にいたときのお話です。 作業で作った製品の売り上げの一部で一年に一度、打ち上げ会をします。今年はボーリングの後、片山津のラウィーブというフランス料理やさんへ出かけました。一年の作業の売り上げと言っても、それほど多い額ではありません。まして、その一部となると本当にわずかな額ですが、それでも、その額でなんとか子どもたちにコースのお料理を用意していただけないかというあつかましいお願いを、前もっておそるおそるしてあったのです。店長さんはすぐに、「いいですよ。お待ちしています」とお返事をしてくださいました。私たちはそれから、「もう一週間でフランス料理だね」「いよいよあと三日だね」とそれはそれは今日の日が来るのを心待ちにしていました。 お店の前には、とてもおしゃれな雪だるまが私たちを出迎えてくれました。目はワインのコルクの栓でできていました。頭には、エーゲ海のお日さまを思わせるような(フランスはエーゲ海に近いのかどうか、地理が驚異的ににがてな私にはわかりませんが)大きなメダルのようなものが取り付けてありました。もうそれだけで、まりちゃんや私はうれしくてなりません。ドアには、「ランチタイムは貸切になっています」という札がかけられてありました。 どきどきしてドアをあけるとそこには、とてもやさしそうな男の方が二人と、女の方が一人、私たちを待っていて下さいました。「貸切にしましたので、遠慮なさらずにごゆっくりどうぞ」という声に、十五人という大人数で押し掛けて申し訳ないような、それでいて、こんなふうに私たちがゆっくりできるようにと考えてくださったことがとてもうれしかったです。 テーブルはもうすてきなセッティングがされていました。そして、驚いたことに一人ひとりのところに、お店の方からのとてもおしゃれなお手紙がおかれてあったのです。 「錦城養護学校のみなさん。今日は来てくださってありがとうございます。私たちはこの日がくるのを楽しみにまだかまだかと待っていました。一所懸命用意をして待っていました。フランス料理といっても、かたくるしくしないで、楽しく食べてください。みんなで楽しく食べるととてもおいしいですものね。楽しく食べてくれると、おにいさんもおねえさんもとてもうれしいです。みんなもいつか働いてお金がもらえるようになったら、おお友達や家族の方をつれて来てください。それまで、私たちはがんばってもっとおいしいお料理を作れるように勉強します」それから、今日のメニューが英語で書かれてあって、その次に、それらひとつひとつが絵で描かれてありました。コースのお料理は私たちが考えていた額ではとうてい食べられそうにないような気がして、金額を伝え間違えていたんだったらどうしようと心配になるくらいのものでした。 横の席にいたみきちゃんやまりちゃんに「私、お手紙読むね」と言いながらそのお手紙を読みだしたのですが、途中で胸がつまって困りました。電話で予約させていただいた私たちのために、こんなに丁寧で、心のこもったお手紙を一人ひとりの席に用意してくださったこと、おそらくはドアの前の雪だるまもそのひとつだったのだとわかりました。お手紙の中の「まだかまだかと待っていました」ということは、手紙だけでなくて、本当にそうなのだわと思いました。 それから、私たちがフランス料理だからとかたくなって楽しく食べられないといけないと配慮してくださったこともうれしかったです。だってもし、(「あつ、あんな食べ方してる」って思われたらどうしよう)って考えたら、緊張して本当においしく楽しく食べられないものね。 それから、前に電話で店長さんに、「働いて給料をもらうということの意味を知りたいということもあって、毎年、楽しい会を持っているのです」とお話したことも大事に思ってくださったのだと思います。それで「お金をもらえるようになったら……」ということを書いてくださったのかもしれないなあと思うのです。子どもたちは私たちが「働くということはね」なんて話すより、ずっと自然にそのことを感じとったようでした。松崎くんは「これはお母さんが好きそうだし、これはお父さんがうまいって言うだろうな。いつか、二人をつれてきてあげよう」と言っていました。こんなうれしいことばを松崎くんが言ってくれたのも、お店の方が、私たちはいつも押しつけて話してしまうけれどそうではなく、やさしく教えてくださったおかげだなあと感じました。それから、私たち(子どもたち)は普段よく「がんばってね」って言っていただくのですけど、いつもがんばっている子どもたちにはそのことばが少し「重いな」って感じられることがあるのです。今日のようにお店の方が「私たち、もっとがんばって勉強します」と言っていただいたことは初めてのことでした。がんばってねという言葉はおそらくたいていの時、自分より、目下の人に(つらいこともあるだろうけど)がんばってねと言うことが多いのじゃないかなって思うのです。でも、きっとお店の方々が私たちを自分と同じ場所いると考えてくださったから言ってくださったんだ、だからこんなに温かく感じられるんだと思いました。 そのことはお料理が出していただいたあともずっと感じたことでした。お料理の説明をして下さる時にも、「これは、さけというお魚をすりつぶして、生クリームを加え、ムース状にしたものです」「パンはバターだけでなく、お料理のソースをつけて召し上がっていただいてもいいですよ」というふうに、私たちだけではなく、子どもたちに対しても(子どもだからとか、養護学校の子だからなんて少しも思わずに)一人の人間として、大人に対する時と同じように大切に誠実に向き合って言ってくださってることをしみじみと感じたのです。それはきっと今日だけではなく、いつもそういう姿勢でいらっしゃるのだなあと思いました。 先日、他の所へ校外学習へ出かけたときのことでした。とても親切な方でしたが、子どもたちと私たちが話をしているのを聞かれて、「養護学校の子か、見ただけやったら、なあーーんわからん。どこがおかしいのか、わからんわ。そこの男の子なんか、りっぱやがいね。普通に見えるわ。ね、僕?」と私たちに話かけてくださったたのです。私たちはそんな時、とっさにどう返事をしていいのかわからなくなります。子どもたちは黙って下をむいたり、逃げるようにして、他の部屋に行こうとしているのがわかりました。(僕たちは普通じゃないのか。養護学校に行く子はおかしい子なのか)と自分たちが分けられた言い方をされたのを感じたのでしょう。悲しい顔をしていました。短い関わりの時間にどれほどのことを言ったらいいのか、まして、子どもたちが聞いている中、どう話したらよいのかわからず、やっとのことで、「みんな明るくて元気な子たちです。いつもいろいろなことを一所懸命勉強しています」とそんな返事でいいのか悪いのか、答えました。でも、子どもたちは私の答えを聞いてほっとした顔をしてくれました。 ラウィーブの方は子どもたちに積極的に質問したり話かけることはなさらなかったけど、今日はそのことがまた、私たちを大切に考えてくださっているように感じられたのでした。 帰りにはきれいに包装したチューリップの花を一輪ずつ下さって、「またお越しください」とドアの外まで送ってくださいました。子どもたちが地域で生きていくときに、今日のような温かい関係が子どもたちをどんなに温かくほっとした気持ちにさせてくれるかということを、きっとお店に方のご好意で、オードブルから、スープ、お魚のお料理、お肉のお料理、サラダ、お口直しのデザード、手作りのケーキ、コーヒまで、経費いじょうのお料理をいただきながらしみじみと思いました。
2006/11/21
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へいちゃんの涙今日の全校集会の歌もへいちゃんは好きなようでした。体を揺らし、ハミングしているのが車椅子の隣に、パイプ椅子を置いて、座っていた私にも聞こえてきました。 瞬間何が起こったのかわからないほどでした。へいちゃんが私の髪をつかんで、ひっぱり、私の頭に歯をあてていました。周りの先生が「へいちゃん、離して…へいちゃん、どうしたの。離そうね」と懸命にへいちゃんの手をふりほどこうとしてくれました。へいちゃんはその時も何かに対して怒っている様子ではないのです。でもしっかり髪をにぎった手をなかなかほどこうとはしてくれませんでした。皮膚ごとはがれてしまうのではないかしらと不安になったけれど、やがてへいちゃんは手をゆるめてくれました。 けれど、今日のへいちゃんはなんだか変でした。気持ちが高ぶっているようでもないのに、また私の髪に何度も手をのばそうとするのです。悲しくなって、「へいちゃーん?」と背中をなぜても、へいちゃんはやっぱり私の髪をさがしていました。 そのあと教室へ戻ったへいちゃんはいつものように大好きな音楽に耳を傾けていました。同僚の先生が、へいちゃんに聞こえないように小さな声で「大丈夫だった?」と聞いてくれました。「うん」と返事をしながら、なんだか私、小さな子供のように声をあげてなきたかったです。どうしてだか、わからない…痛かったのは痛かったのです。今も頭の深いところまでじんじん痛いのは痛いのです。でもそういう理由ではない、何かわからない理由で、本当は声をあげて泣きたかったのです。でもそっと自分の親指を噛んで泣きたいのをがまんしました。だって泣いたらへいちゃんがきっと悲しむもの。 家に帰って、おふろに入ったら、びっくりするほど髪の毛が抜けました。髪を集めたとき、ふと髪の多さはへいちゃんの哀しみの大きさみたいだなと思いました。哀しみの大きさ?だけど、あのとき、何にもなかったのに…それからお湯に入りました、湯船に面した窓の外の激しい雨音とひゅーという風音が心細くて、私はまた声をあげて泣きたくなりました。たったひとりだから少し泣いてもかまわないわとそう思ったとき、私はふとずっと以前のことを思い出したのです。 へいちゃんの口にいつものように食事をスプーンにのせて運んでいるときでした。いつものように、ゆったりとした時間の中で、「どれから食べようか?」「今日はお豆とお肉とね、シチューがあるよ」そんな話をしながら、へいちゃんもいつものように口を開けて、食べてくれていたのです。それなのに、どんな理由も思い当たらないのに、へいちゃんの目がみるみるうちに涙でいっぱいになり、すーっと涙が流れたのです。「へいちゃんが泣いている…」なぜだか理由はわからいけど、泣いている… お風呂に入りながら私、そのときのへいちゃんの涙を思い出していました。どうして泣いたのだろう…どうして涙が流れたのだろう… へいちゃんはほとんど好き嫌いなく食べてくれるのです。だからきっと食事のことではないと思うのです。理由がわからないからこそ、へいちゃんの涙は私の心に深く残っていました。何か悲しいことを思いだしたのかしら?さびしいのかしら? 今日だって同じです。その前に特別思い当たることなんて何もなかったのに…そうよ。あさっては参観日だってあるのに…おうちから離れているへいちゃんだからきっとどんなにか楽しみなはずなのに… でももしかしたら、へいちゃんはその参観日のことを考えていたのかもしれません。前にへいちゃんのお母さんが学校に来られたとき、別れ際に「今度は10日にこれるかな?…大変。こんなこと言ってもし来れないとへいちゃんにはつらがるから…」とお母さんがおっしゃったのです。私たちは少し驚きました。へいちゃんは目が見えないので、カレンダーを見ることができないのです。言葉がないということだけで、へいちゃんはカレンダーとは関係なく毎日を送っているように私たちには感じられていたのかもしれません。どうして、今日が何日ってわかるのかな?あと何日で面会日ってどうしてわかるのかな?そんなふうに考えてしまっていたのだと思います。 へいちゃんのお母さんはへいちゃんが大好きでとても可愛がっています。小さな弟たちのお世話をされながら、お外でもお仕事をされています。でもいつもへいちゃんのことを考えられて、面会日などにはできるかぎりいらっしゃいます。参観日だってそうなのです。だからあさっての参観日にもきっといらっしゃるでしょう。お母さんだってへいちゃんと会うことを楽しみにされているのです。へいちゃんはお母さんと会える日が待ち遠しくてたまらないからこそ、お母さんが会いに来てくれるとわかっていながらも不安なのかもしれません。大好きなお母さんのことを思って毎日をくらしているのかもしれません。 もし誤解があったらと思って心配なのですけど、おうちでへいちゃんが暮らしていないからなんてそんなこと言いたいわけでも思っているわけでもないのです。そうじゃないのです。誰だって、いろいろな不安や哀しみを持っています。愛している人を失ってしまったり、すごく不安なことをかかえていたり、自分の思いがとおらなかったり…そんな哀しみをかかえながら生きているのだと思うのです。誰だってそうです。誰だってそう・・それなのに、私はへいちゃんが言葉を持っていないだけで、そんなふうな気持ちをいつも抱いているということになかなか思いがいかないのです。だからその哀しみに気がつくことができないのです。今だって、へいちゃんの今日のことの理由がわかっているわけではないです。ただそうかな?って…参観日のことかなって思っただけ…だけど、へいちゃんが心の奥にいろいろな思いを持っていることをいつも思って、そばにいたいと思いました。そして私、やっぱりへいちゃんがとてもとてもいとおしくて、そうだ…私が声をあげて泣きたかったのは、こんなにも心が動揺するくらいへいちゃんがいとおしかったのだと思いました。
2006/09/25
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こすもす 学校の花壇は、クラス毎に割り当てが決まっていました。限られた花壇に何を植えようかとみんなで相談して考えます。花壇といっても、畑が別にあるわけではないので、私たちのクラスは、すいかととうもろこしがいいという意見が出ていて、それに決まりそうだったのです。でもたけちゃんはさっきから、ずっとふくれっつらをしていました。「僕、植えたいものがある」「なあに?」と聞いてもなかなか答えをいいません。「僕が言っても絶対に反対しないでほしいんだ」まりちゃんは「そんなのだめに決まってるじゃない・・みんなの花壇なんだし・・・・」「でも、僕・・」たけちゃんは下を向いて小さな声で言いました。たけちゃんの植えたいもの・・それはコスモスでした。「どうしてコスモスなの?食べれないよ」すいかが食べたい男の子は猛反対です。でもまりちゃんは「もうちょっと考えてから決めよう・・この話は今度ね」まりちゃんがそう言うと、みんなは反対しませんでした。まりちゃんはいつも信頼されていて、それでまりちゃんが言うことはみんな間違いがないって思っているようでした。それでその日の相談は終わりになりました。その日、まりちゃんは病院に帰ってから、たけちゃんと何か話をしたようでした。まりちゃんが私に、「あいつ、何か悩んでいる気がする。きいてやらなきゃ」と言っていたのです。まりちゃんは脳腫瘍で手術を受け、その予後があまりうまくいかなくて、病院に入っていました。ひとりひとりの心のさびしさや悲しさに人一倍敏感なように感じました。 次の日の朝の会で、まりちゃんはみんなの前で、「花壇はコスモスにしよう。たけちゃんさ、もう種持ってるんだって」とても不思議なんだけど、まりちゃんのいうことだったら、みんなはなぜか反対しないのでした。それは(まりちゃんの言っていることだったら何か理由があるからその方がいい。その理由は絶対に自分勝手な理由ではないはず)・・そんなに簡単にコスモスになってしまって、不思議だなあと私は思いました。「みんなもいいの?」と聞いても「いいよ。すいかさあ、どうせお昼によく出るし」なんて言うのです。コスモスは私も大好きな花なので、とてもうれしかったけど、やっぱり不思議だなあと思っていました。コスモスの種の袋には「宿根コスモス」と書いてありました。3年生のわたるくんが、「やどねってなんだい?」と聞きました。「やどねじゃないよ、ずっと根っこが残ってて、また来年もその次の年も咲くってことだよ」まりちゃんがにっこり笑って言いました。種をまいてからしばらくして、たけちゃんの病状がよくなくて、病室から学校へ出てこれない日が増えてきました。たけちゃんは小児の白血病でした。一時期病気がうそのように元気だったのに、急に悪くなりました。病室に行くと、たけちゃんはいつもこすもすのことを私に聞きました。「枯れてない?大きくなってる?」「こすもすはね、秋に咲くというけど、でも夏にももう咲くんだよ」たけちゃんは病気のことは知らないのだとおうちの方が話しておられましたが、たけちゃんがコスモスの花が咲くのを心待ちにしているのを見るたびに、たけちゃんがもういなくなってしまうのではないか・・とけっして口にすることは許されないことをふと考えてしまって、怖くなるのでした。その日、たけちゃんの病室へ行くと、たけちゃんは眠っているところでした。またあとで、こようと思って、出ていこうとしたとき、たけちゃんは私がそこにいると知っていたよというふうに、言いました「先生、夢を見てたよ。気がついたら、僕ねコスモスの花の真ん中に座っていたんだ。ピンクの花びらがおわんのようにまるくなって、僕を囲んでいてくれて、すごく気持ちよかった・・そして、気がついたら、その花びらひとつひとつはまりちゃんだったり、かあさんだったり、とうさんだったり、先生だったりしたよ。僕ね、真ん中にいたよ。みんなが僕のこと見ててね。風に花が揺れるととても気持ちよかったよ。先生、どうしてコスモスが好きなの?コスモスね、僕も大好きになって来ちゃった」たけちゃんのお部屋で、泣くまいと思っていても、私は涙があふれてとまりませんでした。みんながたけちゃんの心をつつんでいて、たけちゃんはきっとその中で、ゆっくりとどこかもう一つの世界へ行こうとしているのかと思ったりもしました。 夏休みも終わりの頃、コスモスは咲き出しました。そしてとうとうたけちゃんも帰らぬ人となりました。病院から、たけちゃんがおうちに帰っていった日に、私たちみんなでたけちゃんを見送りました。車は遠回りをして、学校の花壇の前を通ってくれました。たくさんのコスモスたちが、風にやさしく揺れています。まりちゃんが、子供たちに、「来年も、この花壇はコスモスだよ。その次もコスモスにしよう・・たけちゃんは僕のこと忘れずにいてって言ってるんだよ」と言いました。 わたるくんが、たけちゃんを見送った後、どのコスモスの花がたけちゃん?と聞きました。どうしてそんなふうに思ったのだろうとまた不思議だったけど、みんな誰だってコスモスなんだという気がしていました。たくさんの人にまあるく包まれて、愛されて、咲いているんだと思いました。
2006/08/29
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当たり前のこと 久しぶりにしんちゃんのおうちにおじゃましました。しんちゃんはもう何年も前に一緒に勉強してからのお友達で、それ以来、しんちゃんのご家族ともとても仲良くしていただいているのです。時折、おうちに遊びに出掛けては、お夕飯をごちそうになることもありました。今回もお父さんから「久しぶりにやろう」と電話をいただいたのです。 夕方しんちゃんのおうちに行くと、ちょうど中学生の妹さんのえみちゃんが帰ってこられた所でした。お母さんが「えみちゃん、おにいちゃんと一緒に、餃子の用意買ってきて」と声を掛けられたのですが、えみちゃんはちょっと渋い顔です。「えー、だってお兄ちゃん、誰にでも返事するんやもん。えみ、すごく恥ずかしいわ」「そんなこと言わんと買ってきて。な、お兄ちゃん、誰にでも返事せんよね」しんちゃんは「はい、お返事はしませんですね」と答えたけれど、えみちゃんは笑って「その返事、すごくあやしい・・そうだよね、先生?」と今度は私に言いました。私も笑って、「そうやねえ」と言いました。それはこういうことだったのです。 しんちゃんが学校にいたときも、しんちゃんは誰のお話にもお返事をしてくれていました。いつも独り言を言っておられた男の先生とのやりとりはとても愉快でした。 その男の先生は、頭で考えられたと同時に言葉で表しておられるのかもしれません。それとも予定をたてたり、決意というか、がんばろうという気持ちの表れなのかもしれません。とにかくそういう癖なのだと思います。朝、学校に来られたときから、ずっとおひとりで、話をされるのです。私たちは最初、その先生のお話にずっと耳を傾けていて、いつお返事をしたらいいのだろうととまどったこともあったのですが、そのうちに馴れてきて、(ああ、ご自分にお話されているのだなあ)と思うようになっていました。でもしんちゃんはいつも必ず、お返事をするのです。「えっと、まず、今日することは・・」と先生。「カレンダーをめくったらどうでしょうか?」としんちゃん。(しんちゃんはカレンダーが昨日のままだということが気になっていたのですね)「さ、トイレに行って来よう」と先生。「はい、そうです。トイレに行って来てください。我慢はよくありません」としんちゃん・・・「まず、これをこうして」「次にこうして・・」と先生。「そうそう、次はそうです」としんちゃん・・こんな具合です。私たちはなんだかおかしくてにこにこしてしまうのです。でも当の先生は独り言だからか、しんちゃんが先生の言葉にお返事をかえしても、なんだか耳に入らないみたいに気がついておられなくて、うんとあとで、何かのビデオを見られて、「お、しんちゃん。いちいち返事してくれとったんか」と笑っておられたことがありました。こんなふうにしんちゃんはみんなの言葉にお返事をかえしてくれるのです。 「ね、先生も一緒に買い物行こう」えみちゃんがさそってくれました。そこで、3人で近所のスーパーにお買い物に行きました。お母さんお得意の餃子に入れるニラやにんにくやひきにくを買って、レジに並びました。レジの方が計算をされる前に「毎度ありがとうございます」とおっしゃいました。すかさずしんちゃんが「毎度はこれないのです。いつも来たいところなのですけどね」と言いました。レジの方が少し驚いた顔をされました。でも続けて、品物と値段を読み上げられました「ニラ 238円」「ニラは238円でございます」「挽肉 388円」「挽肉は388円でございます。餃子に使いますよ」・・レジの方がなんだか恥ずかしそうなお顔をされたときにえみちゃんが「お兄ちゃん」と少したしなめる口調で言いました。「あ、あ。すいません。お返事はしません・・でしたね」しんちゃんがそう言ったときに、私たちの後ろに順番をついておられた女の方がえみちゃんにおっしゃいました。「えらいわねえ、えらいえらい・・お兄ちゃんがこんなふうじゃ大変ねぇ」そのときのえみちゃんの言葉に、私はとても感激しました。「大変なんかじゃないです。兄は、ただ、どんな人に対しても一所懸命に返事をしているだけです。兄のしていることは人間として当たり前のことです」 私はそのとき、まだしんちゃんが私と一緒に毎日学校にきていたころのことを思い出しました。えみちゃんはまだ小さくて、小学校に上がる前でした。えみちゃんはお兄ちゃんが大好きで、何があっても「お兄ちゃん」「お兄ちゃん」と呼ぶのです。ころんでも、おかしの袋が開かなくても、さびしくなっても パズルが入らなくても・・どんなときでも・・大好きなお兄ちゃんを呼ぶのです。私たちはその様子をいつもいつもほほえましく見ていました。しんちゃんはそのたびに「はいはい、痛くないですよ」「袋が開かないと食べれませんね」とすぐにえみちゃんの近くに飛んでいって、スーパーマンのようにえみちゃんを守り大事にしていたのです。そして、それはきっと今でも変わらず、えみちゃんに何か助けがいることがあれば、一番に飛んでいくのだと思います。そのことをえみちゃんはちゃんと知っていて、そして、大きくなった今、今度はしんちゃんに何かあればきっと私がおにいちゃんを守ると思っているのかもしれません。
2006/08/08
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歯医者さん 雷に次いで私の怖いものというと……。 私ね。歯医者さん行くの、すごーーく怖い。歯が痛くて痛くてたまらなくなっても、どうにかして歯医者さんへ行かずにすむ必要はないかしら。歯をみがくとなおるかもしれない……なんて、もう手遅れのことを一所懸命してみたりお祈りしてみたり、「あーーーーん」と泣いてみたり、いろいろじたばたじたばたしてみて、それでも寝られないし、顔も腫れてきたみたいな気がする(気がするだけなんですけど)なあと思っているうちについに、もうどうしようもなくなって、それで泣き泣き歯医者さんに出かけて行きました(過去形なのは、今はすっかり悪いところはないはずだからです)。 それでね、ドキドキして半泣きで行った歯医者さんなのに、その歯医者さんったらね、「痛いですよ」なんて最初に言って、それで、麻酔もきいてないのにゴキゴキってはじめちゃったので、私は痛さと恐怖のあまり気が遠くなってしまって、気がついてから、「もういいです。やめてください」と言って、その歯医者さんから、帰ってきてしまったのです。 でも、ちっとも、もういいですじゃないのです。小さかった虫歯の穴が治療でもっと大きくなって、それから、もっともっと痛くなってしまったの。あーーーん、思い出すのも怖いくらいです。 また、一杯悩んで、泣いて、三日後に今度は前と違う歯医者さんに出かけました。今度は加賀八幡温泉病院の中の歯医者さんです。私はあんなに怖い目にあったので、前よりもっと慎重で、びくびくおどおどしていました。 受付で、泣きそうになりながら、でもこれだけはお話しておかなければならないと思って、「あの、私、痛いの……とても怖いんです」と言いました。受付の人は優しく、「はい、わかりましたよ。先生にそうお話しますから安心してね」とそう言ってくれました。 でもね、恐怖心の塊になっているので、名前を呼ばれた時は、ああ、いよいよと何か恐ろしい瞬間がきてしまったかのようでした。 先生の名前は中新先生。少し、イッセー尾形さんに似た方です。「痛いの怖い」ということは、ちゃんと先生に伝わっていました。「そんなに口をギュウーとつむんでたら診れないからね。今は見るだけだから、口をあけてね」そんなに優しい言葉も、私は前のお医者さんでの経験から、疑ってしまうのでした。「約束?」と尋ねると「うん、約束」と中新先生は本当に、少しずつ気持ちをほぐしてくださるのです。「じゃあ、ちょっとだけコンってしてみるよ」「本当にちょっとだけコン?」「うん、ちょっとだけ」それでね、「あ。痛い」と顔をしかめると「ごめんごめん、痛かったね。ああ、この歯はねぇ。うーーん、神経をとらないといけないなあ。ああそんなに悲しい顔をして、僕の顔を見つめないでほしいなぁ……困ったなあ。どうしようかな。でもね、うーん、やっぱりとりましょ。」と最後は、有無を言わさない感じなのですけど、こうまで、優しく少しずつ言ってくださると、これは、決して無理やりではないので、(よおし、頑張って、わたしも耐えぬかなくっちゃ)という決意が湧いてくるので不思議です。 治療中も、それでもまだ、怖くて自然とつうーっと涙がこぼれると、看護婦さんは治療の一環みたいな感じで、さり気なく涙までふいてくれました。 それで、中新先生がいらっしゃらないときでも、代わりの先生が、私が怖がりなのを、ちゃんと引き継ぎで聞いて下さっていて「大丈夫だから」と同じようにしてくださって、とてもうれしかったのです。 本当に、私はどうしようもない患者なんですけど、私は、中新先生や他の先生や、看護婦さんが、無理にではなく、でも、私が(患者さんが)なんとか自分から、治療してもらおうという気持ちを持たせて下さっていることにとても感謝して、それから、尊敬しました。 ところで、この間、麻弥ちゃんのお母さんにお聞きしたのですけど、麻弥ちゃんも、夏休みということで、偶然にこの歯医者さんに通わせていらっしゃるそうです(この歯医者さんがたくさんの障害をもった方の治療にあたられているということをよそで、聞かれたのだそうです)。 麻弥ちゃんは、治療が怖くて、歯医者さんをとても嫌がっていました。中新先生は、歯医者さんは怖い所じゃないということを、私に教えてくださったと同じように麻弥ちゃんにも教えようと思われたのだと思います。 だから、おそらく中新先生は、無理に、たとえば、開口器という機械で、それこそ無理やり口をこじあけて、治療するなんてことはもちろんせず、(これを使って、嫌がられると口が少し、裂けたりすることがあるというのを聞いたことがあります。おお怖い)少しずつ治療にあたられたのだと思うのですが、お母さんは、麻弥ちゃんがあんまり嫌がるので、歯医者さんに慣れるまで待つのをやめて、いっそ、全身麻酔でいっぺんに治療してしまったほうがいいのじゃなかしらと考えられたりもしたそうです。だって、その病院は、麻弥ちゃんのところから、ずいぶん遠いのです。わざわざ出かけて、その度にあばれられたら(《あばれる》というのは、私のかたよった言い方ですね。麻弥ちゃんはどうしても嫌だという気持ちを伝えているだけなのですから)お母さんも とても困られて、時にはイライラしたり、「どうして、じっとしてられないの」と怒ってしまったりということもあったのだそうです。 でも、麻弥ちゃんのお母さんが本当に、麻弥ちゃんの気持ちにいつも添われてて、素晴らしいなあと思うんですけど、お母さんは、ある日、気がつかれたのです。 麻弥ちゃんは、いつもは車の中で寝る子じゃないのに、どうして今日は寝ていたのだろう、そういえば、この間、歯医者さんに行くときもじっと目をつぶって寝てしまった、もしかしたら、麻弥ちゃんは、いつも歯医者さんへ行くとき通る道をすっかり覚えてしまって、ああ今日は歯医者さんへ行くんだと気がついた時に、なんとか心の中の不安を抑えよう、怖い気持ちを抑えようとして、目をつぶり、努めて寝ようとしていたのではないか……そうして、それはやがて、確信に近いものとなりました。そしてお母さんは私にこうおっしゃいました。「私は、麻弥が、自分で、ひとりなんとかしようとしていたのに、それに気がつかずに怒ってばかりいたのです。いっそ、全身麻酔で……と思ったりしていたのです。一番つらかったのは、一番怖かったのは麻弥のはずなのに……」 麻弥ちゃんは話し言葉としての言葉は今、ありません。でも、たくさんの気持ちを持っていて、それをいつも、なんらかのサインでおくってくれているのですね。そして、そのことにいつも気がついて、気持ちに添うておられるお母さんだから、麻弥ちゃんはまたさらに、気持ちをおくろうという気持ちにどんどんなるんだなあと思いました。 それでね、私も麻弥ちゃんと中新先生のおかげで、《歯医者さんでは、がんばる》という気持ちになったのでした。
2006/07/19
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手紙が届いた 郵便受けの中の手紙の差出人のお名前を見ても、なんのことかわかりませんでした。いったいどなただったろう、それにしても不思議な肩書き・・そう思って文字をしばらく眺めていて思い出したのです。その方の肩書きは「公園のおっちゃん」というのでした。その方とお会いしたのは、関西へ出かけたときでした。 その日は雪の降る日でした。講演会場は駅から歩いて5分と聞いていたのに、歩いても歩いてもそこにはつきませんでした。道はあってるようなのに、地図だって見てるのに、もう40分も歩いたのに・・と不安になっていながらも、まだ2時間もあるから・・とそれほどあわててはいませんでした。けれど(5分のところをタクシーに連れていっていただくのは申し訳ないって思ったのは間違いだったかもしれない・・タクシーの運転手さんだったら、きっとすぐにわかったのに)とため息まじりに考えだしていたところでした。関西って雪の少ないところだと思っていて、おまけに小松では晴れていたのです。だからコートもなしで傘ももっていませんでした。 主催者の方に書いていただいた地図に載っている公園をみつけました。うれしくて、その中を走るようにいそいでいたら、途中ですべってころんでしまいました。ころぶのは慣れているけれど、たった一人、見知らぬ土地に来て、講演会場になかなかつかないし、お洋服もどろどろだし、髪もぬれちゃったし、こんな格好でたくさんの方の前に出なくちゃいけないんだと思ったら、自分でもびっくりするくらい急にわきあがるように悲しくなって、近くのベンチに座って、ちょっと泣きました。その方にお会いしたのはそのベンチででした。「痛かったんか?」さっきまで確かに私の横には誰も座っておられなかったはずなのに・・その方はいつのまにかそこに座っておられました。その方はきっと公園の中のテントに暮らしておられる方なのだとそのとき、私はなぜだか思いました。「痛かったんか」の問いにうんと小さくうなずくと、何か口の中でおっしゃたのだけど、私には聞き取れませんでした。その方はじっと下を向いておられて、私はなにを話そうかと思いました。そして道を聞きました。「〇〇ホールというのはどこにあるのでしょう?」その方は首を傾げて「おっちゃんはわからんわ」っておっしゃいました。わからんわとおっしゃったけれど、とても温かく、わからないことがとても残念そうに言ってくださったので、さっきまでちょっとだけ泣いていたことがうそのようにうれしくなりました。「駅から5分って書いてあるのだけど、もうすごくたくさん歩いたの・・」「そうか・そうか・・」”おっちゃん”はやっぱりとてもやさしかったです。どうしてポケットを探しておられるのかなと思ったら、ポケットから飴を出してくださいました。きっと大事にずっと持っておられた飴なのだと思います。飴の包み紙が飴にくっついていて、食べたとき、「あれ?」って思いました。「ナイロンくっついとったか?なめとればとれるよ」と”おっちゃん”は教えてくれました。「ほんとう・・」とてもきれいにナイロンはおもしろいようにはがれました。大きな甘露飴みたいな飴はとても甘くて、ほっとしました。その方のことをどう呼んでいいかわからなくて、「なんてお呼びしたらいいですか?」とお聞きしたら、「おっちゃんでいいよ」とおっしゃいました。でも”おっちゃん”っていう呼び名にこちらにいてなれていなくてためらっていたら、「渡辺っていう名前やった・・しばらく使ったことがなかったな」と言われました。「私、6時までにどうしてもそこへ行かなくちゃいけないんです。渡辺さんありがとうございました」立ち上がろうとしたら、「ちょっと待って・・」と”おっちゃん”は傘を貸してくださいました。「でも私、ここにすんでいないから返せないかもしれないんです」”おっちゃん”は、「たくさんあるからいいよ。それとも骨が曲がっていて恥ずかしいか?」と言ってくださいました。確かに骨は曲がっていたけど、その傘は雪をよけるには十分すぎるほどでした。「じゃあ返しにきます」と言ったのに、「いいよ、あげるよ」と言ってくださったので、私はそれをいただくことにしたのです。 公園を出て、地図を頼りに歩いたらそれからしばらくして、そのホールはありました。まだたったばかりの真新しいホールでした。主催者の方が私のぬれていたり、泥だらけだったりするかっこうを見てびっくりされたようでした。それから「ちょっと遠かったでしょう?ここ、できたばかりなので、私たちも初めてきたので、遠くてびっくりしてたんです」と言われました。私はそのとき、顔には出さなくても、ちょっと怒りました。お話をいただいたときに、「道をしょっちゅう間違えるので、ちゃんと行けるか心配なのですけど・・」とお話したとき、「駅から歩いて5分ほどで、すぐにわかりますから・・」って確かにおっしゃったのに・・と思いました。私がちょっと怒ったのには本当はもうひとつ理由がありました。でもこんなことで怒るのは本当はとてもおかしなことだし、恥ずかしいことと自分が嫌でもありました。だから本当はお話したくないほどなのです。どういうことかというと、講演依頼のお電話があったときに依頼してくださった方が「私たちも教員で、勉強させていただくのやけど、山元さんも勉強になるのやから、まさかおことわりにはならないでしょう」っておっしゃいました。「お互い様ですから、私たちも、そのつもりでお待ちしますから」「講演が終わったら、懇親会に出てくれますか?でも用意できるのは交通費くらいなので、お泊まりしてはいただけないんです」っていうふうに、私はお話するまえにどんどんおっしゃって、なにも予定は入ってはいなかったのですけど、でも私の気持ちを言うことができなかったので、ドキドキしました。でもやっぱりと思って、「それでは会のあと、泊まらないで電車で帰ります」と言うと「でもたぶんもう金沢の方へ帰る電車がないんやないかと思うのです」お泊まりもできないし、帰れないならどうしたらいいのかなって、私はどうお返事していいかわからなくなってしまって、でもひとりでお泊まりしたくないなあと思って、「電車がないのなら、懇親会には出ないで帰ろうと思います」って言いました。お互いに勉強っていうことも当たり前のことなのに、私はなんだか気が進みませんでした。子供たちのお話をさせていただくことはうれしいことと思っていたので、こんなふうに考える自分が嫌でした。自分が嫌なのに、相手の方のことも心の奥でが怖がっていて、だから、そのホールまで5分じゃなかったのは、本当はご存じなかったんだって思ってまた嫌って思ったのだと思います。それで、”おっちゃん”に会えたことはすごくうれしかったことだったのに、この時のことをあんまり思い出したくはありませんでした。 家に帰ってから、でも”おっちゃん”のことは何度も思い出しました。それでお礼のお手紙を書きたいと思いました。前にも大阪駅で、お世話になった方で、やっぱり住所をもっておられない段ボールのおうちにすんでおられた方にお手紙を出したとき、手紙は「宛先不明」で戻ってきてしまいました。でも今度は名字も知っているので、郵便局の方に申し訳ないなあと思いながら、またお手紙を書きました。宛名のところには、〇〇の〇〇市〇〇公園と書いて、それから公園の絵地図を書いて、テントの絵もかいて、”渡辺のおっちゃん”と書きました。その手紙は何日たってももどってきませんでした。最初は私の手紙どうなったかな?って何かの折りに思い出したりしていたけど、でもきっとついてはないだろうなって昨日まで思っていました。その手紙を出して、もう2年以上たっていました。私はその手紙を出したことさえすっかり忘れていたのでした。 ところが昨日いただいた手紙は”渡辺のおっちゃん”からのものだったのです。手紙は届いていたのです。郵便やさんが、私は書いた、宛名と地図で、”おっちゃん”を探してくださったのです。こんな手紙を出したと書くと郵便局の方や、それからどなたかに叱られてしまいそうです。だって、とても迷惑をおかけしますもの。でもお手紙、出したかったのです。親切な郵便やさんに今日はお礼を言いたいです。本当にありがとうございました。”おっちゃん”は「げんきですか?てがみをくれておどろきました。しんせつなゆうびんやさんが、渡辺さんというひとはいませんかとたずねてもってきてくれました。さいしょはおっちゃんのことかどうかわからなかったけれどえでかいたちずで、おっちゃんのことだとわかりました。うれしくてなかまにもみせました。へんじがかけるとはおもいませんでした。けれど、かくことができました。げんきでいてください。こうえんのおっちゃんより」これは原文のままです。私がいただいた宝物のようなお手紙がこうしてお返事で帰ってくるなんて、私、うれしくて、うれしくて、信じられないくらいうれしくてたまりません。思い出したくないと思っていたことも、本当は”おっちゃん”に会うことができるために、それから住所を見て、届くはずがないだろうなんて思わずに探してくださった郵便やさんのことを知ることができるために、みんなあったのかなと、あんなふうに考えてしまったことをやっぱり恥ずかしく思います。そして、考えたら、毎日届けていただいているお手紙も、郵便やさんが心をこめて届けてくださってるのだと改めてありがたく思いました。それから2年間も私のことを覚えていてくださった渡辺のおっちゃん、ありがとう。
2006/07/17
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太郎君 とても大きな小学校の教員をしていたときのことです。その小学校の近くに、親御さんの方のなんらかの理由で、親元で一緒に生活することが難しいために、親元を離れて生活する子供たちの養護施設がありました。小学校へその施設から何人かの生徒さんが通ってきていました。私が出会った太郎くんという6年生の男の子もそのひとりでした。 作文の時間にあやちゃんがこんな作文を書いてきてくれました。 「私のお母さんはとてもおっちょこちょいです。いつも買物にいってレジにいくと「しまった。買うの忘れた、あや、ちょっと順番ついとって」と言って忘れたものを買いに行きます。毎日なので、なれています。それなのに、私が学校に教科書やノートを持っていくのを忘れるとお母さんは怒ります。お父さんはそれを見て「遺伝、遺伝」と言って大きな声で笑います。私もお母さんの遺伝なのでしょうがないと思います。私のお父さんと私が似ているところは顔と笑い方です。お父さんは「子供は親に似るもんや」と言います。お父さんはちょっとゴリラに似ています。私は顔はお母さんに似たかったなあ。」 とてもおもしろい作文で、家族の暖かい様子が書かれていたので、私はその日その作文をとりあげました。家族と離れて暮らしている太郎くんがつらい思いをするかなあという考えが頭をよぎったけれど、「家族の仕事」「命-僕が生まれたとき」など避けては通れない課題がたくさんあって、太郎くんのことを気遣いながらもしょうがないかなあと思っていたのでした。 太郎くんはその授業の間、一度も発言しませんでした。そのとき、私は少しもわかってはいなかったのだけど、太郎くんの心の中には家族のだんらんがないというさびしさだけではなく、私が考えていた以上の苦しみがあったのです。 その授業があってから太郎くんは何日も元気がありませんでした。今まで家族についての授業をしても、元気がなくなるということがなかったので、私は太郎くんが元気のない理由さえわかってはいませんでした。 「この頃元気がないみたい。心配だな。体の調子よくないの?」太郎くんに声をかけても太郎くんはびっくりしたように大きな目で私をみつめてただ首をふっただけでした。 けれど太郎くんは私に話したいことがあったのです。学校を終わって車のところへいくと太郎くんは私の車の後に隠れるようにして座っていました。「どうしたの?もう真っ暗になっちゃったね。ごはんの時間がはじまっちゃうんじゃなあい?」太郎くんの顔をのぞきこむようにはなしかけたとき、私の目の中に、太郎くんの思い詰めたような真剣な表情がとびこんできました。「俺の父さんのことを知っとるか?」太郎くんの話し方はきっぱりとしていました。私に話したいことがあるといった感じでした。私は返事につまってしまいました。太郎くんのお父さんは刑務所に服役中なのでした。そしてお母さんは太郎くんが小さい頃、お父さんと太郎くんをおいて、家を出てしまわれたということでした。その原因は太郎くんのお父さんの暴力だったと聞いています。「あやは『子供は親に似るもんや』って言ったやろう。だけどな、俺は俺で、父さんとは違う人間やろ」 太郎くん自身も父親の暴力を覚えていて、でも自分はそうじゃないと私に伝えたかったのでしょうか。けれど、太郎君の苦しみはそういう思いからくる苦しみだけではなかったのです。最初の言葉では太郎くんの苦しみのほんの少ししか知ることができなかったのです。「この間、修一のところに遊びにいったら、修一があわてて玄関に出てきて小さい声で『外で遊ぼう』って言ったんや。先生どうしてかわかるか?修一の母さんが俺と遊ぶなって言ったんや。俺が父さんの子やから、いつ暴力をふるうかわからんと思ってるんや。俺といると悪い影響があると思ってるんや。俺は修一の様子でそのことがわかったんだ。修一は友達やけど、修一に迷惑をかけたくないから、もう修一のところには行かないよ。こんな話は施設ではしょっちゅうあることやよ先生。施設の子は就職もむつかしいし、結婚もむつかしい。あの親の子やからってそう言われるんや。物がなくなればあいつが盗ったんじゃないかと真っ先に疑われる。俺は好きで父さんの子供に生まれてきたんじゃないんや」 私はまたしても自分がなにも考えていなかったのだとがわかり、自分のことが悲しくなりました。小学校6年生の太郎くんを前にして、私はなにも知らず、何も考えず、何も気が付かずにいました。なんらかの理由で服役しておられる人がいることは知っていました。暴力をふるう人がいれば、その子供さんだっていることもわかっていました。でも、「生まれるつき」とか「遺伝」とかいうことが話題にのぼったときに、こんなふうに苦しむ子供たちがいるということに少しも考えがおよばなかったのです。私のクラスには太郎くんがいて、それなのに、私は太郎くんの苦しみや悲しみをひとかけらだって知らないでいたのでした。自分の父さんを嫌な人だと思うことはとても苦しいことだと思います。それなのに、自分はそのお父さんの嫌なところに似てしまうのじゃないかとおびえています。そして太郎君のせいでは少しもないところで、つらい思いをしているのです。。太郎くんはそれから下をむいて、そしてまた涙をためて私をみつめました。「先生、そやけど、俺、父さんの悪口言われると、かっとなる。自分で自分がわからんくなるくらいかっとなる。そいつを殴り付けたくなる。でもそしたら父さんと同じや。父さんの遺伝が僕の中にやっぱりあるんや。そう思うと心配でおられんくなる。先生は似るということはお父さんやお母さんやずうっとずっとまえのおじいさんやおばあさんからの贈り物みたいな気がするって言うとったけど、俺は絶対に刑務所へはいるような人間にはなりたくないんや」私は太郎くんをただぎゅっと抱き締めただけでした。何と言っていいかわからなかった。何も言えませんでした。 その太郎くんがこのあいだ、私のところに会いにきてくれました。もうすっかり大人になって、今大工さんをしていると教えてくれました。もう〈若い者〉を使っているのだと教えてくれました。「先生、父さんだって悪いところばっかりじゃないんだよ。俺の器用なところなんかさ、父さんゆずりさ」って太郎くんは笑っていました。
2006/07/11
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人権集会 人権学習会の講演会に呼んでいただいたときのことでした。主催者のおひとりが、よく知っている先生でした。在職中は子供たちのために素晴らしい授業をされて、私も参観させていただいたこともありました。「共に生きる」ということについてもよく考えられ、障害を持った方も、そうじゃない子供たちも一緒に学ぶことについてや、平和の大事さなどについてもたくさんのことを教えてくださいました。私の尊敬している先生なので、私の話をきいていただけることが、恥ずかしいけれどうれしい気持ちがしました。 控え室で、中学校の校長先生や、公民館の館長さんや、その先生をまじえて、お話をしていました。 その先生は今、私がいる学校の近くの小学校にも勤務しておられました。その小学校は私たちの学校と長い間交流を続けています。それで、卒業生のこともよく知っておられたのです。それでこんなエピソードを話してくださったのです。「聖子ちゃんは元気かな?もうとっくに卒業しただろうけど。いやあ、小学生は大人がいえんようなことを平気で言うからなあ。聖子ちゃんによだれなんかたらすなよ。汚いじゃないかって言うんだ。そしたら、あの聖子ちゃんがよだれを交流中はたらさなかったんだ。学校の先生に聞いても、学園の先生に聞いてもよだれを出さないことはないという話だったのに、交流中はださないんだよ」 私は先生がどういうことをおっしゃりたいのかなと思ったのですが、「よだれを飲むときって、のどのどこかの弁が閉まったり、開いたりして飲むことができるそうですね。聖子ちゃんは脳性麻痺なのですけど、脳性麻痺の方はその弁の開閉がうまくいかなくて、唾液を飲み込むことがとてもむずかしい方がおられるそうですね。お医者さまは人の100倍も努力しないとたらさないでいられないと聞いています」とお話しました。「そうや。そんな努力が小学校の子供といるとできるんや」「いやあ、交流っていうのは、やっぱりすごく力を持ってるものですな」そんなふうにお話は終わったのです。 「共に生きる」ために力を尽くしてくださった先生の尊敬の気持ちはずっと今もそのままだし、大好きなままなのです。だから読んでくださってる方に、誤解されないかなと心配なのですけど、私、少しわからなくなったことがあるのです。 それはこんなことです。 ひとつはなぜ聖子ちゃんはその間、たとえば100倍の努力をしてまでよだれをながさなかったのだろうということです。いつも唾液を飲み込むことがむつかしい聖子ちゃん、学校で勉強するときはノートが唾液でぬれないようにと口にタオルをくわえて字を書いていた聖子ちゃんが、「汚いな、よだれ流して」という言葉を聞くことは聖子ちゃんの心を傷つけはしなかったのでしょうか?それから聖子ちゃんの誇りを傷つけはしなかったのでしょうか?私は誇りを傷つけられるということは、体の痛みよりも痛い痛いものではないだろうかと思うことがあります。よだれを出すことを汚いと言われることは、いつもの聖子ちゃんを否定されたことにはならないのでしょうか?その誇りを保ちたいために、聖子ちゃんは100倍の努力をしてまでよだれを出さないようにがんばったのではないのでしょうか? もうひとつわからないと思ったことがあります。交流ってすごいなという結果になったこのお話は「よだれを流すこと」は「よだれを垂らさないでいること」より劣っているということの前提にたってはいないのかということを思うのです。そういう前提があると、障害を持った人たちはとてもつらい立場におかれることになると思うのです。そして「人権の話」の柱になるであろう、「人はみんないろいろだけどいろいろでいいんだ。すてきなんだ」ということに大きく反するような気がするのです。 こんな話もあります。 立つことがむつかしく、ベッドでねたまま生活をおくっている子どもたちがいます。立たないでベッドですごしていると、足や手が堅くなり、内側に形がかわって曲がってくるということがおきてきます。もしこれから歩くということを選択する場合、曲がっていると歩くことができないので、手術をするという場合は別なのですが、歩くということを選ばない、または選べない(歩くといことがむつかしい)子供たちにも、「足がまっすぐの方がかっこいい」「他の大勢の人の足の形に近づける」などという理由で手術をする場合があります。私は小さいお子さんにそういう理由で痛い手術をすることに対して、とても不思議な気持ちがしていました。大勢の人の足の形が、萎縮のために曲がった足よりすぐれていて、少しでも大勢の人の足の形に近づけたほうが幸せだという気持ちがそこにはないのだろうかと思ったのです。そんなことについて疑問を持っていたときに、福島先生という、大学の先生にお会いすることができました。福島先生は目と耳が不自由で、指文字で通訳の方を通して話されたのですが、やはりこのことについて、無用な手術には疑問を感じるとお話しておられて、ああ、おんなじ気持ちとうれしくなったのを覚えています。 人権集会だったからこそ、なお私は思うのです。その社会に大勢いる人が、少数の人の持っているものや、個性を自分たちに近づけようとし、またその結果近づけたことをいいことのように思うのは、大勢の人たちの勝手な言い分なのではないのかと。 私はやっぱりよくわからないままです。だからどこか違っているかもしれない。 お箸やスプーンで食事をする人たちが、文化が違うために手で食事をする人たちを招いてともに暮らし、あの人は箸で食事をするようになった、よかったねと話すことは、その人の誇りを傷つけることにはならないのでしょうか? 体に傷をつけることがいけないことは誰でも知っています。でも心にある誇りを傷つけることも、けっしてしてはいけないこと・・それなのに、知らず知らずにしてしまうことが私たちにはたくさんあります。人権を守ることって何なのか、もう一度ちゃんと考えてみようと思います
2006/07/08
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つーちゃんの耳掃除 つーちゃんのお母さんがその年の年度の始め、「学校に希望することはなんですか?」という問いがのった書類に書かれたことは、「耳掃除をしてください」ということでした。つーちゃんは小さい小さい時から耳掃除が嫌いでした。お母さんのお話では、嫌いというより、絶対にさせてくれない、逃げていくし、捕まえて押さえこんでも抵抗して暴れるからものすごく危ないしできない状態だということでした。それでも、小さいうちはつーちゃんも力がないし、大人4人がかりで押さえて耳鼻科の先生がなんとか巨大な耳あかをとることができたこともあったけれど、中学生になって、背も170センチになった今は、とてもむつかしいということでした。それからもうひとつ、つーちゃんがさせてくれないことは体温をはかること。耳掃除と同じくらい嫌がってけっしてさせてくれないということでした。 その年、私は、毎週、一週間に一時間だけつーちゃんと二人きりでお勉強することができることになったのでず。 つーちゃんは、お話ことばとしてのことばは持っていないけれど、もちろんたくさんの気持ちをもっています。でも、つーちゃんはお話ことばがないし身振りサインなどもあまり使わないからつーちゃんの気持ちはなかなか伝わりにくいのです。嫌だったら嫌な表情をするし、怒ったりもするし、うれしかったり楽しかったりするときはとてもうれしそうだけど、つーちゃんの気持ちはそれだけじゃあないはずです。たとえば教室にいて、今からどこどこへ行きたいんだということや、お腹がすいたけど、ごはんよりも今はあんぱんが欲しいなあとか、もっというと、缶コーヒーの温かいのじゃなくて、今日は冷たいのがいいけど、明治のかUCCの、なんとかっていうのがいいなあとか、そんなふうにも思ってるんだと思うのです。でもつーちゃんの気持ちはなかなか相手に伝わりにくいのです。それからつーちゃん自身も相手の気持ちを知ろうとするのが苦手の方だなあと思うことがあります。「そのごみ箱取ってほしいな」とお願いすると、お願いしながら指差しをしている方向にセロテープが置いてあると、指差しの方に気をとられて、セロテープを取ってくれたりすることがあります。 つーちゃんと一緒にいて、私たちの大事な時間では、気持ちをきちんと伝えあうことを大切にしようと考えました。そのことで、私が耳掃除や体温をはかるのをどうしてもつーちゃんとしたいんだということをきいてもらえるかもしれないとも思いました。耳掃除や体温をはかるのをもちろんお母さんが望んでおいでるということもあるけど、私はやっぱり耳掃除も体温をはかるのも日常でとっても大切なことだし、それが簡単にできるようになったら、(できないことができるようになるということは)生きていく社会が広がることになるなあと思ったのです。 でも、いろんなこと考えてたけど、私はなによりつーちゃんと一緒にいることが楽しかったです。つーちゃんって本当にそれはそれは素敵に笑うんだよ。今つーちゃんのしていることが楽しいという時だけじゃなく、ああこの人は僕のしたいこと、あんまりじゃましないなあとかと思うと、すごく素敵な笑顔を私にもむけてくれるようになったのです。(つーちゃんは、細い棒や薄い紙をオルガンと壁の隙間とか、机と壁の隙間とかに捨てるのが大好きなので、大事なものだとそれがいつのまにかなくなってとても困るのです。それから、机を棒でトントンするのが好きなんだけど、歌の時間だとか体操の時間とかにずっとトントンしてると困るからその棒、ちょうだいってことになっちゃうんだけど、この時間は気持ちの伝えあいだったので、じゃまはしなくても大丈夫だったのです)一緒にごろんと寝転ぶと、そんなこと今までなかったんだけど、私の顔ににこにこ笑いながら触ってくれるようになったり、遠くからでもとんできてくれて、ああ仲良しでうれしいなあって感じられるようになってきました。 同僚に、私、つーちゃんの耳掃除してみたいと思うと話をしました。みんなとてもびっくりして、どうやってするつもり?と尋ねるのです。「お願いしてみる」と私が言うと、誰にお願いするって?とみんなが聞いたから、「つーちゃんにお願いしてみる」と言いました。「つーちゃんにお願いしてできるのならもうとっくにできてるよ」私もそうだなあと思いました。「男の大人4人がかりでも無理なんだぞ。できるはずがないじゃないか」私もそうかもしれないって思いました。「でも、お願いしてみる」みんなはちょっとあきれ顔でした。 その日、つーちゃんがわたしのひざで膝枕をしてごろんとしてくれるようになったので今日こそ耳掃除のことをお願いしてみようと思ったのでした。 つーちゃんと一緒に保健室で耳かきを借りてきた時から、つーちゃんは少し不安そうでした。「つーちゃん、私お願いがあるんだけど、耳掃除させてくれない」そうして耳掃除をはじめると、つーちゃんはあわてて私の膝から飛び起き、少し離れたところでこちらを見ていました。耳掃除をしようとしている私を見て、私たちの周りにいた先生が、「手伝おうか(押さえていようか)」と声をかけてくれました。でも、それは私の気持ちとは違っていました。力の限り押さえられて、もし、つーちゃんの力の方が弱くて、それで、もしたとえ耳の掃除ができたとしても、それはつーちゃんが耳掃除ができるようになったわけではけっしてないし、それに、嫌なのに、力で何人もの大人に押さえこまれるって、きっとすごく怖いだろうなって思うのです。私がつーちゃんだったら、押さえた人も耳掃除をした人も「きらいだぁあ」って思っちゃうかもしれない。「もう信じてやらない」って思っちゃうかもしれない。そんなのとっても困ります。だから、「私とつーちゃんとで耳掃除したいな」って言いました。みんなが、もう一度「そんなことできるの?」って言いました。私もできるかな?できるといいなあって考えていて、不安でした。だって「4人がかりでもむつかしかったんだから」ってみんなそう思ったのです。 「つーちゃん、こっちに来て」って一所懸命頼むとつーちゃんは、やさしいんです、とっても。だから、また私の膝に頭をのせてくれました。「そっとするからさせて」そう言うと。私の顔をじっと見て、それから目をつぶりました。でも、また耳かきをもっていくとすっと逃げてしまうのです。そんなこと何回も何回も繰り返しました。そのうちつーちゃんは、私が無理にはしないということをわかってくれたようでした。もう、立つことはしなくなって、でもいざ耳かきを近付けるとやっぱり頭を動かしてしまうのです。それからまた、何度も何度もつーちゃんに、「怖くないからさせてね」と頼みました。(やっぱりつーちゃん、させてくれないのかな)って私、泣きそうになっちゃった時、つーちゃんは(ああ、この先生は、耳かきをさせるまで、どんなに嫌っていっても何度もさせろって言うんだろうな)って半分呆れて半分あきらめたみたいでした。それから、私が悲しそうなのがつーちゃんのやさしい気持ちにつらかったのでしょうか。顔を見て、うなづいて、私の小指を自分の耳の穴の中に入れさせたのです。そっとつーちゃんの耳の中を指でさわると、今度は、耳かきをつーちゃん自身が手をそえながら、耳の中に入れさせてくれました。「ありがとう、本当にありがとう」私、うれしくてありがたくって、また泣きそうになりました。耳かきをただ入れたり出したりを繰り返したあと、少しづつ奥へ耳かきを持っていきました。つーちゃんはやっぱり嫌は嫌なんだと思うのです。目をしっかり閉じて、でももう頭を動かすことはしませんでした。じっと我慢してくれていたのだと思います。奥のほうの大きなながーい耳あかが取れました。終わってから、すごいすごいと私本当にうれしくてはしゃいでいたら、つーちゃんもいっぱい笑ってうれしそうでした。耳あかは連絡帳に貼ってもらいました。だって、あんまり長くて大きくて見事だったので、お母さんにみせたくなったのでした。 おなじようにして、体温をはかることもできたんです。そしてつーちゃんは家でも、耳そうじや体温をはかるのをさせてくれるようになったそうです。 ああ、よかった。あの時、(やっぱり無理なのかな)って思って、それで押さえ付けて耳掃除しなくてよかったな、つーちゃんはきっと押さえ付けられることで、耳掃除や体温をはかるのがとっても怖いことだって思ってしまっていたんだなって思いました。でも、(案外、耳掃除って大丈夫だな、怖くないな)って、もしかしたら、(なあんだ、気持ちいいじゃない)なんて思ってくれたのかもしれません。 それにしても、きちんと気持ちを伝えるのって大切だなあって思いました。それから、どんなことだって、無理にさせられてできたことは実力じゃないんだな、自分である時は我慢して、ある時はやろうって思ってできたことが本当の力なんだって思いました。私はそんなに我慢してでもしてくれる子供たちの気持ちをいつも少しも考えることができずに、押しつけてしまったり、無理にさせてしまうことがなんて多いのだろうと思いました。子供たちはこんなにやさしく大きな力を持っているのにです。ごめんねと思いました。
2006/07/05
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今日は運動会の代休で学校はおやすみでした。朝からとてもいいお天気。こんなにぽっかりあいた一日、何をしようかな。 朝いつも、ばたばたしてて、どうしたっていそがしいから、毎日できないことをしようと思いました。おふとんを丸裸にして、外の大きなものほしによいしょと干して、それからシーツを4枚バスタオルも3枚洗濯しました。それを物干しや、木にロープをつないでほしていたら、近所のおばあちゃんが「おめら」と声をかけてくださいました。「おめら」っていったいなんだろうって思うでしょう。私もこっちへ来たばかりのときは「おまえなあ」とか「きさま」とかいう恐い言葉を連想してしまってどうお返事していいかわからなかったのです。でもこれはどうやらあいさつのことばなのです。だって、公民館の前にたってる看板で「あいさつをしましょう」の字の横に「こんにちは」とか「ありがとう」の言葉にまざって「おめら」って書いてあったんだもの。それで意味はよくはわかっていないんだけど、私が思うに「お前さんたち、精が出ますね(がんばってるね)」っていう感じじゃないかなって思うのです。それでそのお返事はやっぱり「ありがとう」とか「はーーい」とかかなって思うのです。で、今日は朝だったので「あ、おはようございます。いいお天気」って言いました。 それにしても、お洗濯したシーツとかがぱたぱたしてるのを見るのって本当にいい気持ち。私の心がこのところ少し元気がなかったのをかえってちょっとだけ思い出すくらいうれしい気持ちになりました。 お洗濯していい気持ちになったら思いついたのです。「そうだ。郵便局にもいかなきゃね」 普段は学校があってなかなかいけないのです。書留や、書籍やエアーメイルを今日はおくれるな。 出かけたのは小さな、町の郵便局です。いろいろ教わりながらたくさんの郵便物を出していたら、郵便局の方が、声をかけてくださいました。「詩、読みましたよ。本も読みましたよ」 すごくうれしくて「ありがとうございます」って話をしていたのです。そして、順番を待つために、後のソファーに腰かけていました。 お隣に座っておられたおばあちゃんは私と郵便局の方との話を聞いておられたのでしょう。「ああ、あなたですか。私も詩の本読みましたよ」もうなんだかとてもうれしくてうれしくて、おばあちゃんに抱きつきたくなるくらいです。おばあちゃんはとてもゆったりと笑われました。「私もね、詩を作るんですよ」「そうだ、私の詩をみてくれませんか。それからなおしてくださいな」 私はすっかり困ってしまいました。あれは大ちゃんの詩画集で私が詩を作ったわけでも、それからもちろんなおしたり、指導なんかをしたわけでもないんですもの。そう考えたけど、もしかしたら、おばあちゃんはただご自分がつくられた詩を、誰かにみてほしいって思われただけかもしれないなって思いなおして言いました。「私、なおしたりなんかできないけど、おばあちゃんが作られた詩、ぜひみたいです。みせてください」 お手製だと思うんですけど、ちくちく縫ったパッチワーク布製のバッグからおばあちゃんは大切そうに小さな手帳を取り出されました。そして少し恥ずかしそうに笑いました。「下手ながやけど、みてやってね」 見せていただいた手帳にかかれたものは、詩というよりたぶん短歌なのだと思います。きれいな字でていねいにかかれたいくつもの短歌の中に、みつけた文字に私はとてもとまどいました。「死期迫り」「再発の告知」「苦しみを忘れる」……そんな字がたくさん並んでいたからです。 こんなにお元気そうなのに、こんなに穏やかにしておられるのに……急に、悲しくてなんだか恐くて、それからせつない思いが胸にこみあがってきて泣きそうになりました。どんな顔していたらいいのかわからず、大きく息をすって、下をむきました。 「あら、そんな悲しそうな顔しないで、ばあちゃんは今、おかげさまで幸せなんやから」「泣かせるつもりはないんよ。ごめんねぇ。ばあちゃんはばあちゃんの生き方をこうして詩にのこしておきたいの」「ばあちゃんは詩に書いてあるとおり、なんにも恐くないよ。生かしていただいて、その時期がきたらみんな死ぬんやから。どんなにえらい人も普通の人もそれだけはみんないっしょやて」 人はいつか亡くなるのだけど、確かにそれは間違いのないことなのだけど、私はまだ、死を悲しいもの、恐いものとしてしか受けとめられていないのだなあと思いました。 家へ帰ってからもぼんやりと、生きること、死ぬこと、そして死が近いときのことなどを考えていました。 急に玲子ちゃんにあいたくなりました。玲子ちゃんは看護婦さん。もしかしたら、夜勤あけとか準夜前とかで家にいるかもしれません。玲子ちゃんは私の中学のときの同級生です。不思議なことに、気が付いたときは、隣の隣に住んでいました。金沢の中学で同級生だった二人が今、近くに住んでいるというとみんなみんなすごく驚きます。私たちだってびっくりです。しょっちゅういろんなことを話したり、またいっしょに遊んだり、きのこがたくさんとれたからといっていただいたり、お互いがとても必要な仲なのです。お互いがお互いの事情で、偶然、こうして隣の隣に住んでいるのだけど、きっとなにか大きな力のもとでお互いが必要だからそうなったんだという気がするのです。 電話をかけたら玲子ちゃんはうれしいことに家にいました。「もしもし」も言わないでいきなり「私、運動会の代休で今日お休みなの」というだけで玲子ちゃんはなにもかもおみとおしのように「何時にくる?」と聞いてくれました。 玲子ちゃんは大きな病院の主任看護婦さんです。「昨日は大変だったんだ。危ない患者さんが4人もいたの。もうどんな治療をしてもだめ、もうあと何日かで亡くなってしまう患者さんや家族のかたに私たちができることといったら、強心剤をうつことでも、むやみに命をながらわせることでもないの。痛みのために体をえびのようにそって苦しんでいる患者さんに少しでも痛みを少なくするように、やすらかに家族や友人と最後の時間をすごせるようにすることなの」「若い看護婦さんにも、『病室へ入ったら、ただ脈をとって血圧をはかって帰ってくるようなことをしてはだめ。本人にも家族のかたにもかならず声をかけてこないといけないよ。最後の最後まで、みんないろいろなことを感じているんだから、脳が働いていないようでも、そんなことはけっしてないんだから』って言ってるの」 玲子ちゃんはまるで私の今の心がわかっているように、私の顔をじっとみつめました。 なんだかいろんなことがあった午前中でした。家に帰って、おふとんを取り入れたらあんまりほかほかだからうれしくなって、ほっぺを押しあてているうちに眠ってしまっていたみたい。ふっくら、本当に幸せな気持ちでした。 こんなふうな幸せな日常の中で、私は生きるということについて、まだ何も考えることはできずにいるけれど、今日のお日さまのように、おばあちゃんがにっこり「恐いことなんかないんだよ」って笑って話されたみたいに、むやみにこわがらなくてもいいのかもしれないなあとうすぼんやりと思いました。
2006/06/29
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井崎さんが教えて下さった拍手 夏休みになると、東京のミューズカンパニーというところの主催でサマーアートスクールが開かれます。3年前の夏、私はスクールの中のサマーアートシンポジウムのディスカッションに参加させていただきました。このスクールはあとでいただいたこのときの報告の本によると「このスクールは一人一人が創造的に人生を生きるために、”学ぶ場”としても各種アート・ワークショップ(体験工房)を提供すると共に、障害の有無を超えて創造するプロセスの中でそれぞれ異なる感性や創造性を分かち合い、学び合うことによって、新しい可能性を探ります」という会なのです。 それでもしかしたら、ご存じの方もおられるかもしれないのですけど、学校にいると、よくお名前を拝見したり、テレビや本などでもお目にかかることができる方がたくさん講師として来ておられました。 ちょっとお名前をあげさせていただくと、ダンスとかワークショップのヴォルフガング・シュタンゲさん、「ことばが劈かれるとき」の竹内敏晴さん、ことばあそびの波瀬 満子さん、保育研究者の津守 真さん、東京ろう演劇サークルの井崎 哲也さん・・・ たくさんの方と出会うことが出来て、本当にいろいろなことを感じたり、気がついたりできた、スクールだったのですけど、今日は井崎さんのお話がしたいです。 井崎さんはNHKの手話ワンポイントアドバイスなどで、テレビに出演しておられたり、何年か前に酒井法子さんが主演されて話題になった「星の銀貨」の手話指導をされたり、それからろう演劇サークルを設立されて、劇の指導をしたりしておられる方です。 井崎さんご自身も耳がきこえないという障害をもっておられるので、会話は手話通訳などを通してされていました。 その日、私は、提案をすることになっていました。シンポジウムに参加して下さった方は、みなさん、主催者が分けてくださった「たんぽぽの仲間たち」を読んで、この会にのぞんでくださってました。 井崎さんは私の顔を見るなり、突然「ありがとう」の手話をしてくださいました。私がそのときわかる手話と言ったら、それこそ「こんにちは」と「ありがとう」だけでした。井崎さんはどうして私にありがとうと言って下さってるのだろう。私はなんてお返事したらいいのだろう・・わからなくて、とまどって、私も「ありがとう」の手話でお返事しただけでした。 それから井崎さんは手話でいろいろと話しかけてくださいました。でも私は井崎さんのとてもやさしい、そして、表情豊かに話しかけて下さってるお顔を見ながら、困った顔をしてながらほほえむことしかできませんでした。井崎さんはどうやら、私の「たんぽぽの仲間たち」を昨日、眠らないで読んだよと言って下さってるようでした。それから指をひらいた手を心臓の前でぐるぐるまわしておられたので、子どもたちのお話や、大ちゃんやみんなの詩や絵で、心がゆさぶられたよと、そんなうれしいことを言って下さってるようでした。それなのに、私は、どうやってもどうやっても井崎さんに、何も伝えられずにいるのです。とてもはがゆかったし、そのとき、今の自分がとても残念だなあと思いました。そしてきっと私、井崎さんに今度お会いするまでに手話を絶対に覚える!って思いました。そう思ったときに、私ははっと気がついたことがあったのです。 学校の子どもたちが、ある日、なんとか気持ちを伝えようと切なそうに私を見つめてくれることがある・・今自分がしているだろう、切なそうな目は、きっと、あういうときの子どもたちの目なのではないだろうか・・ 伝えたいという気持ちが起こり始めると、それまでは少しも分かり合えなかった者同志が、だんだんとよりそうようにお互いが分かり合えていくのです。大事なのはこんなふうに切実に伝えたいんだと、心から願う気持ちなのですね。 その日のシンポジウムのテーマは「人が表現するとき」でした。私はこの瞬間が「人が(気持ちを)表現するとき(しようとするとき)」だと確信したのでした。 井崎さんはお話の中で、「拍手は手を頭の上に高くあげて、ひらひらします。なぜって、顔の前で手をたたくと、あなたの表情や口元が僕たちには見えないから、わかりづらいよ」とおっしゃいました。手話を覚えるというのは、ただ覚えれば使えるというのではないのですね。相手の気持ちを知りたい、こちらの気持ちを伝えたいという切実な思いが、やさしさを生んで、お互いがわかりあえるようになっていく早道なのだと思いました。 それなのに、私は、ときどき手話の本を開いたり、NHKの手話教室を見ているけれど、「井崎さんあいかわらず素敵だなあ・・」なんて眺めているばかりで、手話は上達しないままです。 その日は六本木で打ち上げ会がありました。青山のシンポジウムの会場から六本木まで最短距離だと10分くらいのところなのですけど、知らない人どうしで、あっちかな?こっちかな?と歩いて行ったら、なんと40分以上もかかってしまいました。ところが、私ときたら、出版社の方にお渡しする作品を少し持っていっていたので大きなかばんがとても重くて、途中に足がもつれてどーんと又、ころんで頭を打ってしまったのです。井崎さんはさっと私のかばんをもたれて、リュックのようにかつがれて、「大丈夫、大丈夫」と星の銀貨のドラマの中の方のように、踊るように、それをずっと持って下さったのでした。でもね、本当に重い重い荷物だったのです。 こうして、井崎さんと、ときどきお葉書をいただいたり、出したり、年賀状をやりとりさせていただいたり、演劇のお知らせをいただいたりという関係が続いています。わたしにとって、忘れられない日でした。
2006/06/25
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朝起きて 毎日のように、中学生の男の子が手紙をくれました。お手紙はいつも「朝おきて」で始まります。たとえばこんなふうでした。 「朝おきて、顔を洗って、学校に行きました。学校にいくのは嫌だけど、行かないと親が心配するので、行きます。学校で、数学と英語と国語と社会をして、それから給食を食べました。今日の給食は別においしくありませんでした。お昼からの授業は美術でした。美術はなにかをいれる箱を作っています。絵はじょうずではないけれど、美術の時間はましです。別にしゃべらなくていいからです。書くのが疲れたので、やめます。また手紙かきます。また、お返事ください」 行事や、修学旅行の手紙をくれることもありました。 「朝おきて、顔を洗って、学校に行きました。今日は映画を見ました。別におもしろくありませんでした。でも、しゃべらなくていいので、よかったです。それから部活に行きました。部活には友達がいるので、ときどきしゃべります。今日は、ユニフォ-ムを青にするか白にするか友達にききました。青にするといったので、僕は白にしようと思います。理由はまねをしたとおもわれたくないからです。書くのが疲れたので、また今度続きを書きます」 私はどんなふうなお返事を出したらいいのかわからず、私もまた、今日あったことを書いています。 「今日は生活単元学習で、ごへい餅を作りました。ごへい餅って知ってる?もち米じゃなくてご飯でできるんだね。竹を切って棒を作ってその周りにご飯をつぶしたものを小判型にまるめてくっつけて、焼いたの。すごくおもしろかったよ。それにおいしかった。高山に行きたくなっちゃった」 こんなふうに手紙をだしながら、私はお互いがなんだか気持ちが通じあってないようなさびしい気持ちがしていたのです。私がお返事を出すから、また書かなくちゃと思って書いてくれているだけなんじゃないかしら、本当は負担に思っているのではないかしら、と心配になったりもしていました。でも、いただいたお手紙のお返事を書かないでおくという勇気が私にはありませんでした。お手紙を毎日くださるということ、書くのは疲れると書いてあるけれど、それでも書いて下さるということはもしかしたら私のことをお友達のように思って下さるからじゃないのかしら、私になにかメッセージを伝えようとしているのではないかしらと思いなおしたりしていたのです。 お手紙をいただくようになって、一年半がたっていました。ところがある日からお手紙がぷっつりこなくなったのです。病気か何かあったのではないかと気にはしていたものの、学校や家がいそがしくなって、お手紙を書く時間がなくなったのかなって軽く考えていたのです。そうして三週間になりました。 ときどき、どうしているかなあと気にはしていたものの、手紙も出さずにいたのです。ちょうど三週間目の日、男の子のお父さんからお手紙をいただいて、びっくりしました。「息子が学校に行かなくなって、もうすぐひと月になろうとしています。息子は前からあまりたくさん食べるほうではありませんでした。学校に行かなくなって、息子はほとんどといっていいほど、ものを食べなくなりました。学校に行かなくなったのは私のせいだと思います。先日学校に呼ばれたのです。息子が学校でほとんどしゃべらないということ、覇気がなく一所懸命ものをするという姿がみられないということ、歩く、書く、食べる、どんなことをさせても、ゆっくりで、ただ時間がすぎるのを待っているだけのようだということ、先生が「しっかりしろ」と何度叱っても、平気で、下をむいていて、薄ら笑いをうかべていることすらあるということ、それで先日先生がきつく叱ったのだということなどを先生は話されました。私は恥ずかしくて、ただ、すみませんとあやまるだけでした。自分の若い頃は息子とは反対の生活でした。勉強もそこそこできたし、部活動、生徒会活動なんでも、ばりばりやりました。私の好きな言葉は昔から「全力投球」です。息子がなぜそんなふうに育ってしまったのかとなさけなくてなさけなくてしょうがなかったのです。なにか苦しいことがあるのかもしれないけれど、もっともっと苦しい人だってたくさんいるのにみんな頑張っているのにと腹ただしくてなりませんでした。帰ってから息子を怒鳴りつけました。「そんなふうにしかできないのなら学校なんてやめてしまえ」息子は言い訳もせず、ただうつむいているだけでした。聞いているのか聞いていないのかそれさえもわからない息子の様子に憤りを覚え、初めて息子を殴り付けました。息子はその次の日から学校へ行かなくなったのです。「やめてしまえ」というのは、もちろん本心ではなかったのです。それを息子に伝えても、息子は部屋から出てはきません。食事もとらず、ただコ-ラやコーヒー牛乳を飲むだけです。母親が言うには、毎日一日一度、外に郵便配達のバイクの音がすると、かならず部屋から出てきてポストをのぞくのだそうです。母親はきっとあなたからのはがきを待っているのだと言うのです。そして、あなた様からのはがきをポストの中に見付けられず、がっくり首をうなだれるようにして部屋へ戻っていくそうです。私は恥ずかしながら、あなた様から一年半もの長い間、毎日はがきをいただいていたということなど少しもしりませんでした。いいえ、それどころか、忙しい仕事にかまけて、息子のことを母親にまかせっきりで、息子のことは何一つしらないということに気が付きました。参観日や行事にいってやったこともなく、この間、学校から呼び出されて、何事かと初めて息子の学校へでかけたのです。あなた様のことを母親に何者だと聞きました。母親はどうも学校の先生らしい、はがきをぬすみ見て知ったのだということでした。息子の学校の先生なのだと思って喜びました。もしそうであれば、息子と学校をつなげるものがあるということになるからです。そしてむすこは学校へ行くようになるかもしれないと考えました。学校に問い合わせましたが、そういう方はおられないということでした。息子とあなた様のつながりはどういうものなのかということもわからずにいます。けれど、あなた様がたよりです。 息子はどんどんやせていきます。死ぬつもりなのだと思います。息子は飛び降りたり、薬を飲んだりするような積極的な死に方は選ばず、息子の生き方どおりにゆっくりと命をたとうと決めているような気がして恐いのです。あなた様のお忙しいお体を思うと、どうしてお願いしたものやらと思案しましたが、息子はあなた様に一筋の光を求めているのです。どうぞ、息子に手紙を出してやっていただけませんか。失礼とは充分ぞんじておりますが、切手を同封させていただきます。どうぞ息子と私達を助けてやってください。お願いいたします。 私と彼の手紙の交換は、お互いが一方通行のようなやりとりでした。私は彼の気持ちを彼の手紙からはあまり汲み取ることができなかった気がしていたし、私もとりとめのない日常を書き送っていただけなのでした。彼が毎日待っているのは本当に私からのはがきなのでしょうか。彼はどうして、一年半もつづいた手紙を私にくれなくなったのでしょうか。いつも学校のことばかり書いて送ってくれていたので、学校をお休みするようになって、手紙がかけなくなったのでしょうか。学校を休んでいることをどういうふうに書いていいかわからなかったからなのでしょうか。家から一歩も出ずにいるということだから、ポストに手紙を出しにいけなくなったからなのでしょうか。それとも、人とのつながりを積極的に持つという気持ちになるのが、今はむつかしくなっているのでしょうか。 私は彼から今までもらった手紙をもう一度最初から読み返しました。彼の淡々とした手紙を読みなおしてみて、とても驚きました。彼は自分の思いをこんなにもこんなにも書いてくれていたのに、なぜ私はそのことに少しも気がつかなかったのでしょうか。「学校は嫌だけど、親が心配するから行きます」「授業はわからなくてつまらないけれど、先生が一生懸命教えてくれるのに悪いから座っています」「給食の時間は好きだけれど、たべるのが遅いので、はやく噛むようにしています」「しゃべるのはにがてです」「席が後になったのでうれしいです。前の席だと後から見られているのが嫌なのです」「かっこうをつけていると思われたくないので」「まねをしたと思われるのが嫌なので」「わざとゆっくりしていると言われてしまうのが嫌だから」彼はきっとふりしぼるようにして自分の気持ちを手紙に書いてくれていたのです。だから書くのが疲れてしまうのかもしれなかったのです。それなのに、私はそのことにきがつきませんでした。疲れるのにお手紙こんなに毎日書いてくださるのはどうしてなのかしらなんて思っていたのです。きっと彼は、自分の気持ちを本当は学校の先生やご両親に話したかったのだと思います。でも、そうすることがむつかしくて、一度も会ったことのない私に手紙で話してくれていたのかもしれません。彼はつらくても、つまらなくても、「学校に行かないと両親が心配するから行きます」と書いていました。「先生が一生懸命教えてくれるのに悪いから座っています」と書いていました。そんな彼の思いを彼のやさしさは彼の周りのかたがたには伝わらなかったのですね。精一杯の彼なりの彼の生き方を攻められ、きつく叱られたり、殴られたりした彼の苦しみを思うと、やりばのないいきどおりを感じます。お父さんや学校の先生が悪いと言いたいのではないのです。それは一年半もの長い間、手紙を毎日いただきながら、少しも彼の心の痛みを知ろうとしなかった自分にたいしてのいきどおりかもしれません。「本当のことは目には見えない」のに自分の思い込みだけで、人を判断してしまいがちな社会全体にたいしてのいきどおりかもしれません。一生懸命さは人によって違うと思うのです。苦しみだってみんないろいろです。「あの人はあんなに苦しんでいるのだから、あなたはまだまし」なんてことは言えないと思うのです。苦しみはひとりひとりがかかえているものなのですもの。 それなのに、私はどうしていいのかわからず、今まで出していたと変わらない手紙を毎日出しているだけです。 でも、うれしいことがありました。一週間くらいして、彼からひさしぶりに手紙がきたのです。「朝おきて、テレビを見ました。いじめのニュースだったので、消しました。いじめのニュースは聞いていると頭が痛くなるので、見ません」と書いてありました。
2006/06/24
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心って不思議 ちょっと怒ったり、自分のこと悲しくなったり、なさけないと思ったり、うれしくなったり、好きになったり、安心したり・・そんなふうにめまぐるしい心になっていました。 このあいだのお休みの日、お人形さんの椅子を作ろうと、公園へ落ちている枝を拾いにいったのです。駐車場で車を停めて、降りようとしたら、ちょうど目にはいった車のドアが少しあいて、その車に乗っておられた方が、灰皿をざっと地面にあけてしまわれたのです。そしてその紺色の車は出ていってしまいました。「ひどいことをするなあ」と思いました。「自分の家の前でもあんなことするんだろうか」と男の子がいうコマーシャルを思い出しました。それで、私はその人のことを怒っていました。(コマーシャルの通りだよね。みんなの地球なのに・・)ため息をついて、車からおりて、枝を拾いに行こうとしました。何歩も歩く間、地面の上のたばこの吸い殻の景色ばかり頭に浮かんできました。そのときにはっとしました。私、あの紺色の車の人のこと怒っていたのに、私はそのたばこをそのままにしてきてしまった・・あの人のことを怒っていたのに、同じだった・・って思いました。私って、いつもこんなことばかりなのかもしれません。誰かのこと、悪く思ってしまったとき、そんな自分はどうなのかって思うことができないのです。やさしくないし、自分勝手なのです。そう思ったら、とても悲しかったです。ゆっくりと車のところへ戻りました。枝を拾うために袋を持っていました。そこにたばこの吸い殻をいれようと思ったのです。それなのになぜか勇気がでません。恥ずかしいような気がしました。それで、周りを見て、歩いている人があっちの方へいってしまってから、走っていって、さっと袋の中に入れました。すごく悪いことをしているみたいにおどおどしました。入れ終えて、少し歩き出すと、なんだかほっとしました。それから公園へ枝を拾いに行きました。 台風で強い風が吹いたので、枝は太いものも細いものもたくさん落ちていました。拾って、ベンチにすわっていたら、男の人が声をかけてこられました。「あの、さっき、拾っていましたよね。吸い殻。僕が捨てたんです」びっくりしました。「だって、車はもう・・」と言いかけると、「違うところに停まっていたんです」と言われました。見ておられたんだと思うと、どうしようと思うくらい恥ずかしい気持ちになりました。そこにいられない気がして「ごめんなさい」とだけ言って走って逃げてきてしまいました。 その日から私は何度もそのことを思い出しました。私は自分が悪いときでもほかの人をすぐに責めてしまったんだということ、むこうから話かけてくださったのに、逃げるように帰ってきてしまったということをとても悲しくなさけないような気がしていました。 それで、もう何日もたって、私は本やさんで本を見ていました。突然頭の上の方で声がしました。「よく会いますね」それはあのたばこの人でした。そのときも逃げてしまったことを思い出して、逃げていきたくなったけど、そのときは逃げたりしませんでした。「あのとき、びっくりしました。どうして逃げていったんですか?」私は、最初、たばこを捨てられたことを怒っていたのに、そのままにしていた私は、捨てられたあなたと同じなのに、あなたのことを心で責めていたので恥ずかしかったのと、拾うこともなぜか恥ずかしい気持ちでいたからと話をしました。その方は少し黙って、それから「変わってるね」って言いました。変わってると言われても、なれているので、そんなに悲しくはないのですけど、なんてお返事していいかわからないので、「それでは・・」って言って、失礼しようとしたら、その方は私の後ろ姿に向かって、「あれから、捨ててないんだ」って言われました。私、うれしくなって、笑っておじぎができました。 本を買って外に出て、車に乗ったら、またあの男の人が本屋さんから出てこられるのが見えました。本当に不思議なほどよく会います。それから私見たのです。その方は道路で、何か拾われました。私、目がとても利くので、わかったのです。それはどなたかが落とされた吸い殻でした。 いい人だったんだって思ったら、私も自分のこと、ちょっと嫌いって思ったけど、あとで拾いに行ったんだし、好きでいても大丈夫と思いました。そしたら、安心して、とてもうれしくなりました。こころってころころかわるから、こころっていうのかしら?おかしいよね。
2006/06/22
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青山先生青山先生は音楽の先生でした。水泳部の顧問の先生でもありました。 私は先生にとても惹かれていました。それは中学生頃の抱く淡い憧れとはまた違う不思議な感情でした。 雨の日、先生はピアノの前に座り、黙って流れるような、そしてしみじみ心に染みわたる哀しげな旋律を奏でました。先生は単に上手という言葉では表しきれないくらいピアノが達者でした。私には先生の横顔がときどき驚くほど哀しげに見え、その哀しさが自分の心と体にものりうつって、気を遠くなってしまうのではないかと感じたりしました。ときには即興でジャズを弾かれることがありました。心の底に響く音楽はあまりに素敵で、魔法のようでした。中学生だった当時、ジャズなどほとんど耳にすることはなく、それなのに今までしょっちゅう聞いていた同じピアノからその音楽が流れているのは信じられないようでさえありました。 ある日先生は、ピアノを弾いていた手をふと休め、顔をあげて驚くような話をされました。「僕の手を見てごらん」 先生の片方の手はくるぶしのところが不自然に大きくて、手が内側に曲がっているように見えた気がしました。気がしたというのは、私は先生の手をはっきりと覚えてはいないのです。いったいどうしてなのでしょうか。私はその時、先生の手をしっかり見つめることができませんでした。おそらくはそのことを心の奥でいつからか知っていて、先生の触れてはならない部分のように感じていたのかもしれません。そうでなければ、先生の言いたいことの真意がわかりかねていたからかもしれません。ただ言えることは、こころの中で(どうして、先生は手をかくしておかないのだろうか、)という気持ちが広がっていたということでした。先生に惹かれていた私は先生の、あの素敵な音楽をひく手を、不自然な形に見えたとしてもそうでなくてもいとおしく感じていたはずなのに……いいえ、そのことを知ってからかなぜか、不自然な形に見えたからこそ美しく、そしてその先生の手に憧れたような気がするのです。けれど先生の手を覚えていないもっと大きな理由は、先生と一緒にいるうちに先生の手のことが全然気にならなくなっていたということだと思います。 先生はこうおっしゃいました。「僕の父さんという人はピアノをやる人なんだよ。僕が小さい時に怪我をして、手がこんなふうになった時、父さんは、手がよく動くように、それから、僕が僕のこの手をきらいにならないように、僕自身の手に愛情をもてるように、きびしくピアノを教えこんだんだよ。手は最初からこんなふうに動いたのではもちろんなかったんだが、それからピアノの練習もそんなに楽しいとは小さい頃は思っていなかったんだよ。けれど、父さんの気持ちが通じたんだろう。僕は今こうして音楽大学を出てピアノをやってるんだからね。だから僕はこの手がとても好きなんだよ」先生はそこでお話を切られました。 「だからみんなも努力しなさい」というようなことを先生は言われる人ではありませんでした。先生の話は単なる先生の身の上話のように話されたけれど、わたしたちの心にずんと響きました。(先生は自分の手が好きなんだ。だからもちろん隠したりしないんだ) その当時、「中学校はとても荒れている」と言われていました。県内でも一、二を争うマンモス中学だった私の中学校もまた例外ではありませんでした。あなたたちはだめ、だめ、といわれ続けていた私たちは先生が「僕はこの手が好きなんだ」という言葉を「僕はきみたちが好きなんだ」と言われたと同じような気がしていたのです。 先生はいつも私たちを愛してくれていました。部活動で、みんなが一日六千メートルを泳ぐようなメニューをコーチや監督のもとで必死にこなしているとき、そして、そのことが時につらく感じられているときに、先生がひょいとプールサイドに水着であらわれて、泳ぐのではなく、シャワーのところで頭を泡だらけにしてシャンプーし、「ああ気持ちいいね」とにっこり言われるのを見ると、なんだかこみあげてくるくらいおかしくて楽しくて、肩の力がすっと抜けるのでした。 音楽の時間は授業の多くの時間をかけて「学生時代恐怖の体験」-大きなウジ虫と死体の話-、「三センチ四方の紙でウンチをした後、おしりを拭く方法」などというお話をしてくださるのでした。わたしたちはそんなお話をどの授業よりも熱心に耳を傾けてきいたと思います。もううんと時がたっているのに、お話の内容をしっかりと覚えているのですもの。 それから、授業中、だれも発言しなかったという理由で、クラスのみんなが、きっと何かとんでもない悪さでもしたのでしょうか?放課後廊下に正座させられたという時も、青山先生があらわれれて、「もういいから教室へ入りなさい」と言われました。正座を命じた先生がもういいと言われたわけではないので、ためらっていると、「もう十分だよ、こんなことは」とどこかきびしく、けれど私たちにはやさしい顔できっぱりとおっしゃいました。私たちはその後、青山先生が正座を命じた先生に叱られるのではないかと心配しました。私たちは正座を命じた先生からその後、そのことで叱られるようことはありませんでした。 先生が時折哀しそうにしておられた理由をあとになって噂でききました。先生はわたしたち子供をいつもとても大切にしてくださいました。わたしたちを規則や不平等から守るために学校の中でひとりたたかってくださっていたということでした。わたしたちにはお説教じみたことのひとつもおっしゃったことのない先生でしたのに…… ある時 先生の車に女の人の裸の略図のような傷がつけられていました。一度、車屋さんに出されてなおされたのに、また一週間たって同じ絵が鋭い刃物の先か釘のようなものでひっかいて描かれていました。その話を私たちは青山先生ではない別の先生から聞きました。いったいそんなひどいことを誰がしたのでしょうか。いつもわたしたちのことをこんなにも考えてくださった先生がどんな思いでおられたかと思うととてもつらいです。けれどその時も先生は何も言われませんでした。わたしたちは先生が人気があるから、他の先生がくやしがって、そんな傷をつけたのだと今から考えると、本当に罪ななんの根拠もない噂をしあいました。そして、他の先生方は「こんなこと今度見つけたら、警察にも通報するかもしれない」と冗談とも本気ともとれる口調で言いました。 青山先生はあごひげをはやしていました。わたしたちは自由を大切にしてくださる先生らしいと思いました。その先生の顔がやさしくて好きでした。けれど、そのひげが教員としてふさわしくないと職員会議で非難のまとになっている噂がまた流れてきました。その噂を聞いてまた、先生は私たちとそれからご自分自身を大切になさるためにひげをことさらはやしておられるように思いました。 私はそういったいろいろなことが先生の気持ちを哀しくさせておられるのではないかと感じていました。 先生はその後しばらくして先生をやめられました。石川県のMROラジオの「日本列島ここが真ん中」という長寿の番組の中で、それからもうずっとの間ピアノを演奏したり、おしゃべりしたり、それからジャズのコンサートを開かれたりしておられます。 私は青山先生のお声とピアノをラジオで聞くたびに、いまでも心の中で、自分が自分自身を探していたころのことを思い出すのです。
2006/06/17
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あきちゃんのお話あきちゃんと私はインターネットで知り合いました。 あきちゃんからの最初のメールをあけたとき、真剣な思いが、とても少ない文字に、少ないからこそ、なお心に深く沈むように私の心に届いたのでした。「歩けないのに、あきの足がふたつに分かれ、その先に指のあるのがにくらしい」 たった二行、それだけのメールでした。 いったいどんなお返事が私にかけるのでしょうか?すぐにでもお返事を書かなければと思いながらも、ただ、あきちゃんの言葉を繰り返し繰り返し、心の中でつぶやいて一日がすぎてしまいました。次の日、「使えないのに、あきの手がふたつもあって、その先が5つに分かれ指のあるのがにくらしい」そんなメールが届きました。 あきちゃんはきっとインターネットで「たんぽぽの仲間たち」のホームページをみてくれているのじゃないかしら、そしてメールをくれたのじゃないかしら、そんな推測をしてみても、やっぱり私はなんてお返事を書いたらいいのかわかりませんでした。 手や足が大事なのは、手や足が動いて、自分にとって便利なことをしてくれるからだけなのだろか?そうではない気がする・・・・だけどその理由をはっきりと言葉で書くことができずにいました。たったふたつのメールであきちゃんが男の方なのか、女の方なのか、大人の方なのか、子供さんなのか、そんなことすらわからないのです。どんなふうに書き出したらいいのかそれさえもわかりませんでした。 同僚の山田先生はとても物知りです。それだけでなくて、困ったとき、いつも何か必ず教えてくれるのです。「あのね、お友達が、歩けないのに、足があるのが悲しいって言ってるの、私ね、歩いていても、歩けてなくても自分の足ってきっととっても大切だと思うの。でもどうしてかってよく言えないの。どうしてなんだろう」「父親の遺伝子と母親の遺伝子から手や足ができているからでしょう」 山田先生が教えて下さったことを聞いて、私とってもうれしくなりました。本当にそうです。私がぼんやりと思っていたのはそのことだったような気がしました。 私の手、大好きな母の手によく似ています。それから関節のところ、大好きな父によく似ています。それから会ったことはなかったり、小さいときになくなってしまってよくは覚えていない祖父や祖母の手や足に、きっとこの手や足はどこか似ているに違いないのです。それから私が小さいときに、きっと父や母は私のこの手や足を、きっととっても愛してくれたと思うのです。走るのもすごくおそかったし、ころんでばかりで傷だらけだった小さいときのこの足を、きっと可愛いと思ってくれたと思うのです。そんな足を私はとっても好きだと思いました。 生命って、やっぱり生命の力で生きてるんだって、そんなことが急にわかったような気持ちになりました。 こんないいことに気が付けてよかったと思ったら、すぐにあきちゃんにもお話したくなりました。「あきちゃん、メールありがとう。私の手は大好きな母によく似ています。父の大きな手は似ていないようだけど、関節のところが似ていると小さいときによく言われました。とても小さい頃、私の足はぽちゃぽちゃしていて可愛いと、父と母がよくなでてくれました。だから大好きな手です。大好きな足です。あきちゃんの手や足は素敵な思い出を持っていますか?またね」 どきどきして待っていたら、とてもうれしいメールが届きました。「ありがとうございました。私は大切なことを忘れていました。私の手と足は使わないから、ほそくてやわらかで、働き者の父の手にも母の手にも似ていないようだけれど、爪の形が母によく似ています。毛深くないのが、父、母りょうほうゆずりです。小さいとき、今はもういない祖母が、私の足が歩けるようになりますようにと毎日のように何度もさすってくれました。私は一生歩けないのに、そんなことを言われるのが嫌でした。祖母に足をさわられないようにしたくて「嫌、やめて」と冷たいことを何度も言ったことがありました。こんな足、いっそなければいいといつも思っていたけれど、足があったからこそ、おばあちゃんの手がさする場所があったのです。おばちゃんが、私の足をいとおしく思ってくれたということを、しみじみ気がついて、涙があふれて止まりませんでした。父も母もどうにかして歩けるようにならないか、手がつかえるようにならないかと、たくさんの病院や寺院、神社までまわってくれたと聞いています。私のこの手足があったからこそ、父と母はそんなにも愛情をかけてくれたのだと、今になってやっと気がつきました。遅すぎます。いいえ遅すぎることはないのかもしれません。私はずっと冷たい娘でした。歩けない、動かせない・・そんなことばかり思って、手や足を憎んできましたから。でも間違っていました。私の手と足は、父や母は祖父は祖母からうけついだ大事なものでした。父や母や祖母が可愛い可愛いとさすり続けてくれたものでした。ありがとうございました。今日はとにかくお礼だけ書かせてもらいます。これからもたんぽぽの仲間たちで頑張って下さい。 あき」 大切なことを教えて下さった、あきちゃんと山田先生に今、私ありがとうの気持ちでいっぱいです。私は今自分の身体のすべてが抱きしめたいほどとてもとてもいとおしいです。大好きな人が小さい頃から愛してくれた、私の身体のすべての部分。父や母や祖父や祖母にどこか似ている大切な部分。とてもとても幸せな気持ちです。あきちゃんにホームページに載せてもいい?と聞きました。今は少し恥ずかしいから、「あき」という名前だけを出してお話してねということでした。いつかたんぽぽの仲間たち、みなさんとお話できるような気持ちになったら、掲示板にも顔を出すよと言ってくれたこともうれしかったです。あきちゃんありがとう。
2006/06/14
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特別に好き。隣の隣のクラスのなっちゃんが教室にやってきて、私に効いてくれました。「かっこちゃん、なーこのこと、特別に好き?」「特別?」「そうや。なーこのこと、スペシャルに好きか?」「もちろんやよ。なーちゃんのこと、特別に好き」「じゃあ、クラスのゆきちゃんやかずくんやりっちゃんは、普通なんやね」「ううん、なーちゃん、そうじゃないよ。ゆきちゃんはゆきちゃんで特別に好きだよ。りっちゃんがまた特別にすきやし、かずくんも特別に好きやよ」なーちゃんは、ちょっと困った顔をしました。「だから、なーちゃんのことどれくらい好きなんやって」「特別に特別に大好きだよ」だってそうなのです。なーちゃんのこと、特別に大好き。だけど、ゆきちゃんのこと、特別に好きだし、かずくんのことも特別に好き。そしてりっちゃんも特別に好きなんですもの。「それやったらよくわからんわ。なーこだけ特別に好きなんじゃないんか」「そうだよ、なーちゃんは特別に好き」「なら、みんなは普通に好きなんやね」「違うよ。みんなも一人一人特別に好きだよ」またなーちゃんはちょっと困った顔をしました。「もし、みんながおまんじゅう10コあげるんやったら、なーこには何個くれる?どれだけでもいっぱいあって、それで食べても太らんとしたら、なーこに何個くれる?」「なーちゃんは何個ほしいの?」「なーこは、20個ほしいわ」「なあんだ、たった20個でいいの?ほんなら、20個なーちゃんにあげるよ」だって、太らなくて、どれだけでもあるのなら、私、特別に大好きななーちゃんに、ほしいだけあげたいです。そして、もしりっちゃんがひとつしかいらないって言ったら、りっちゃんには特別に一個だけあげたいし、ゆきちゃんが5個ほしいっていってくれたら、ゆきちゃんには特別に5個あげたいです。だって、ほら、特別に好きだもの。なーちゃんは、「ほっか、20個くれるんか・・ほんなら、うれしいわ」ニコニコしてなーちゃんは自分の教室に帰りかけてもう一度、私の方を向いてききました。「かっこちゃん、なーちゃんのこと特別に好きなんか」「そうだよ。特別だよ。なーちゃんは私のこと、特別に好き?」「なーこ、かっこちゃんのこと、スペシャルに特別に好きや」私はうれしくて、にんまりしました。なーちゃんはまた一言、「ほおか、特別なんか」と言いました。そして、鼻歌を歌いながら、教室へ帰って行きました。そうですよね。誰だって特別に好きでいてほしい。私もそう。好きってとてもうれしいことだから。
2006/06/13
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町に出るということ今高校3年生の友達たちと一緒に毎日をすごしています。 4月に、今年が卒業年だということもあって、社会とつながり持つということ、町に出るということを目標に一年をすごそうという目標を立てました。そういうことで、いろいろな場面で町に出ているのですけど、いろいろな場面で、ああ、町に出ることって、子どもたちにとっても、町に住んでおられる人にとっても大切なことなんだなあって思うのです。 近くにあるお酒やさんは、お酒だけでなく、お菓子やおかずやたくさんの食料品がおいてあります。そこへ出かけたときのことです。 道路を歩いていて、歩行器や車椅子だととても困ることがあります。そのひとつが道路の下水のふたがの粗い目の鉄の格子です。車椅子の前輪がはまったり、歩行器の車がはまってしまうと、もう前へ進めなくなってしまうのです。それどころか突然はまると怪我をしかねないのです。 学校の前からずっとのびる道路の端っこには、そんなふたがところどころずっと続いています。 気をつけて通っているのですけど、その日もお酒やさんの前でちょうど、その格子に歩行器のタイヤがはまってしまいました。そばに教員がいて、ささえなかったら、ようちゃんは怪我をしてしまっていたかもしれません。 その様子をみておられたお酒やさんのご主人が、「おお、あぶないなあ。僕ら、なかなか気がつかなかったけど、養護学校がこんなに近くにある道路が、こんな危ないんじゃ大変や。今すぐ、おっちゃんが電話してやるわ」とびっくりしたことにその場で、市の土木課に電話してくださったのです。「今ひとり、養護学校の子が、前で怪我して大変なことになったがや。すぐになおしてもらわんと困るがね」そのときに怪我はしていなかったけれど、危なかったことは本当です。お酒やさんのやさしいお心使いがとってもうれしかったです。そのあと、そのお酒やさんでお買いものをしたのですけど、車椅子が通るにはけして広くはない店内ですが、ご主人が「どれほしいんや?これか?これはおまけやしあげるわ」って言ってくださって、本当に楽しくてうれしいお買い物でした。 もし子どもたちが町に出なかったら、粗い目の鉄格子のふたがあぶないんだということだって、どなたも気がつかれないかもしれません。そのことをご主人さんが気がついてくださって、そして、市の土木課に連絡してくださったことが、また瀬領の町にかぎらず、たくさんの人が暮らしやすい町作りにつながるんだなあって思ったのです。だから町に出ることってとっても大切って思いました。 それから町のとこやさんに行ったときのことです。3人とも、ひとりで、髪型をとこやさんにお話して、自分でお金をはらってきたことはありません。ひさしくんはいつもおうちにとこやさんに来ていただいていて、家で散髪をしていただくのだし、洋ちゃんは、学園にとこやさんが来てくださるので、町のとこやさんで散髪していただくのは初めてなのです。それからのりくんは町のとこやさんでいつもしていただいているけれど、いつもお家の方と一緒にしか出かけたことがなかったのでした。 とこやさんに行く前に、みんなが髪型をお話したころに私たちも行くけど、でもお金は自分たちではらってかえってきてねとお話してありました。とこやさんの前までみんなで行って、そこでみんなとバイバイしました。 ところで、みんながお店に行く前に、今日は子どもたちが来るのでお願いしますと前もってお話しに行ったときに、心配なことがひとつありました。車椅子に乗っていたり、歩行器を使って移動している3人は、さっと動物をさけることがむつかしいからか、みんな猫や犬が嫌いです。それなのに、イスの上に黒い猫が長くなって寝そべっていたのです。どうしようと思ったけれど、猫と会うということもあるかもしれないんだから、とお店やさんには何も言わないで、みんなに「あのね、黒い猫がいたよ。恐いからどかしてくださいってお願いしてみてね」と話ました。のりくんも洋ちゃんもぎょっとしたようでしたが、今日は自分たちでとこやさんにいくんだとずっと決めて、決意してきているので、「やめる」とは言いませんでした。そんなふうにしてとこやさんが始まったのだけれど、私たちがあとで入っていって、とこやさんにまたありがたいなあと感謝したことがいくつもありました。ご夫婦のとこやさんの奥さんが、「のりくんは猫がきらいなんやって。なんもせんのやけど恐いといかんから奥にやったわ」と言ってくださったのです。それからのりくんは何かしようとすると、手や足や身体が震えてしまうということがあるのですけど、緊張するとふるえが大きくなってしまうのです。それで髪をスポーツ刈りにするときに、身体が何度も揺れて、私たちは頭が切れてしまわないかしら?と何度も不安になりました。ご主人も最初は「動かんのや。動くとかっこよくならんよ」と言っておられたのですが、何度も動いてしまっているうちに、私たちに「この子は動こうと思って動いているのとは違うんや。緊張して動いてしまうんやな。でもときどき緊張がとけて、じっとできるときがあるから、その合間に切ればいいんやね。わかったぞ」って言ってくださったのです。それから、いつもはおじいちゃんでないと髪を洗うこともできないと思われていた、ひさし君も、とこやさんの髪を洗う台でちゃんとシャンプーできて、3人とってもかっこよく仕上がったのでした。3人が3人ともこうして、初めてとこやさんで自分でお願いして、散髪していただけたということは、3人にとって、とてもうれしいことだったようでした。のりくんはお家の方に「毎週ひとりで行こうかな?今度はメッシュを入れてみようかな」ってお話したそうです。私たちにも「緊張したけど、出来てよかった。出来るってわかったことがよかったし、かっこよくなってよかった」と話してくれました。それから、とこやさんが、「緊張が解けたとき、あいだをぬってバリカンを入れればいいんだ」ってのりくんのことを分かって下さったり、洋ちゃんのこともひさしくんのことも同じようにわかってくださったことがとてもうれしくてよかったなあと思いました。こんなことだって、どんどん町へ出ていくことで分かっていただけるのですよね。 それから買い物学習で、デパートへも行きました。前もって、「今日はひとりでご飯を選んで食べて、それからお買い物もできるだけひとりでするんだよね」と話をしてあったのです。 ごはんのとき、私たちには熱いお茶が運ばれてきて、それから、お店の方が、私たちに「お茶は熱いので、お水にしますか?」って聞いてくださったのですけど、私たちが、子どもたちのほうをどうするのかなあっていう具合に見たら、きっとお店やさんも「そうだ、お茶かお水かどちらかを飲むのは子どもたちだから、選ぶのは子どもたちのはずだし、子どもたちに聞けばいいんだ」って思ってくださったようでした。それで今度は子どもたちに「お水にしますか?」って聞いてくださったのがとてもうれしかったです。そうですよね。たとえば靴や鞄を選ぶときだって、もし私たちがそばにいると、「どういうものをお求めですか?」って私たちに聞いて下さるけど、本当に使うのは、子どもたちなんだから、それっておかしなことですよね。 だから子どもたちに聞いて下さったことはとてもうれしいことでした。そんなときも、町に出ることで分かり合えることってたくさんあるんだって思いました。それからもちろん子どもたちも、自分たちで選んで、自分たちでお買い物ができるってとてもとても楽しいことなのです。 それからお買い物に行きました。洋ちゃんはお話があまり得意ではありません。それから、計算もむつかしいです。それからお金をおさいふから出したり入れたりするのもあんまり得意ではないのです。だから、洋ちゃんにお買い物ってむつかしいかなって本当はみんな少し不安だったのです。でも、そんなことは少しも問題にはならないことでした。洋ちゃんと、私と他の二人の女の先生と4人でくっついてプリクラをとったあと、ようちゃんはそれを入れる、キーホルダーを買おうということになりました。洋ちゃんはそれを買いに、ひとりで車椅子を進めました。(その日は歩行器ではなく、車椅子でした)それを遠くでそっと見ていたのですけど、その光景はとても素敵でした。 ようちゃんは 品物をデパートのレジのところにおられる女の人に、「あー」と言って出しました。お店の人は洋ちゃんの品物を見られて「お買い求めですか?」とおっしゃいました。洋ちゃんは「はー(はい)」と手をあげて返事をしました。それでお金を洋ちゃんが出さないので、どうしようと見ていると、「代金は、そのお財布からとらせていただいていいでしょうか?」とお店の方が洋ちゃんが首からさげているお財布をみて言われました。洋ちゃんはまた「はー」って手を挙げました。「おつりをお入れしますね」「はー」そして商品を入れた袋を最初渡して下さったのですけど、洋ちゃんがそれでは車椅子がこぎにくいということを見られて、「車椅子の後ろにおかけしましょうか?」と言って下さいました。「はー」「ありがとうございました」そして洋ちゃんはとてもうれしそうに私たちの方へ戻ってきてくれました。はじめてこんなにりっぱにお買い物ができたことがとてもうれしかったのだと思います。私たちも店員さんに感謝すると同時に、ようちゃんの持つ大きな力に感激したのでした。 町に出て、強く感じたのは、たとえば、計算ができなくても、お話がむつかしくても、おさいふからお金を取り出すことがむつかしくても、だからといって、何もできないなんていうことはないんだということです。お店の人と、町も人とかかわりあいながら、歩いたり、お買い物をしたりすれば、人と人がかかわることで、子どもたちが{ひとりで}できることはいっぱいあるのだということです。 何もかもできることが自立ではないのだと思います。誰だって助け合って生きているのです。子どもたちも、たくさんの方のあたたかい力を借りることで、いろいろなことが{ひとりで}できる・・それはもうひとつの自立なのだと思います。そしてそうすることで、またいろいろな人が街の中で楽しくくらしていけるようになるのだと思いました。
2006/06/11
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雪の日今日はちょっと大変でした。大雪でした。短い間にたくさんたくさんの雪がふったのです。窓の外はただひらひらひらひらたえまなく降る雪が見えるだけで、窓のななめすぐ近くにあるはずの柿の木も、屋根の向こうにあるはずの森も、雪のカーテンにさえぎられて少しもみえません。 こんな日に峠を越えて、市街地までいったい無事にたどりつけるのかしら・・・不安な気持ちでいっぱいだけど、でも出掛けなければならない大切な用事がありました。 どこまでも真っ白な世界は、いつもの景色をまったく別のところのように変えます。ここはいったいどこかしら。どこで曲がったらいいのかしら。そんなことにも自信がなくなるくらいです。間違えて道から外れてしまって、車が雪にはまって動けなくまりでもしたら大変です。迷わなくても、雪道の運転はとても気を使います。どんなときでも車を止めるときは、ブレーキを極力踏まないようにしないといけないのです。ギアを落としてスピードを落としていかないと、すぐに車は蛇行をはじめ、もう自分の意志ではどうにもならなくなって、川に落ちてしまったり、他の車にぶつけてしまったりということになりかねないからです。(毎年、二回くらいはそういう目にあいます。今年はなんとか、そんなふうにならないといいなあ、いいえ、絶対に気をつけて、そんなことにならないようにするぞと決意しているのです) やっと目的地について、運転でずっと緊張していたから、まるで息をするのを忘れていたみたいに、ふうと大きな大きなため息をついて、駐車場に車を止めました。雪はまだふりつづいていました。建物の中で二時間の用事をすませ、外に出てびっくりしました。あれからたった二時間しかたっていないのに、またなんてたくさんの雪がふったのでしょう。私はしょっちゅうころぶのですけど、こんな日はもっところびやすいからととても気をつけていたのです。だけどね、ころばなかったのです。でも、ちょっと大変でした。道の幅がいったいどこまでかということがこの大雪で全然わからなくて、きっとここまでは道だから大丈夫と思ったところはもう溝で、すぽっとはまってしまったのです。溝はずいぶん深くて、腰あたりまで、雪の下に流れている冷たい水に埋まってしまいました。 なさけなくて、泣きたくて、でもうっとがまんして、やっとはい上がって道まであがって駐車場にきたら、たくさんの車の上にはこんもりふわふわの雪の山ができていて、どの車が誰の車かなんて少しもわかりはしないのです。自慢じゃないけど、(自慢にならないけど、)いつもどこに止めたかわすれてしまって、間違えてしまう私です。それでも、いつもは車の色でこれかな?あれかな?なんて見当をつけることはできるのです。でもこんなにたくさんの雪だらけの山の下のどの車が私の車かなんて、わかりっこないのです。(なんていばってる場合じゃないのです)コートやスカート、ブーツはもちろん、下にはいているものまですっかり水浸しで、体はがたがた震えがとまりません。右側だったか左側だったか、真ん中の列だったか思い出しそうなものなのに、いそいでいたこともあって、少しも思い出せないのです。今度こそ、本当になさけなくてなけてきました。 でも泣いていてもしかたがないので、何十台も止まっている車の雪を少しだけよけて、一台、一台車の色を確かめることにしました。指でさっと車の雪をほるとその車は赤でした。がっかり、つぎの車は黒でした。その次の車は?あっ、白。私の車も白なのです。もう少し雪をはらってみたら、黒い線が出てきました。私の車はこんな黒い線は入ってないのです。隣の車、隣の車、そうして二〇台ちかくの車を調べていたころでしょうか。「何してるの?」と男の人に声をかけられました。「車、どこに止めたかわすれちゃったんです」「えーーー。全然覚えてないの?」うなずくとその男の方はあきれた顔をなさらずにすぐに「で、どんな車?」って聞いてくださいました。「白のランサーです」「それで、車のナンバーはいくつ?」やだ、私、車のナンバー、いつも覚えようと思うのに、どうしても覚えられないのです。数学好きだったんだけどな、関係ないのか、数字は覚えられないみたいで、電話番号なんかもすぐに忘れちゃう・・ううんって首をふると「えーーー。知らないの?忘れちゃったの?本当にここに止めたの?」って今度は少し呆れてたみたいだったな。だけど、ご自分の車から雪をよけるT字型のもの持ってきて、つぎつぎと雪をはらって下さったんです。それでまた近くに来て「なにか特徴は?」って聞いてくださったときに「震えてるじゃない、僕の車にのってればいいよ」って言ってくださったけど、「私、川に落ちてしまってずぶぬれだから、車のシート濡れてしまうし、それに探していただいていて、私車に座っていられない。ばちがあっっちゃう」って言ったら、その人すごく大きな声で笑って、また「えーーーー、川、ばっかじゃないの?」って言いました。「ばっかじゃないの」って言われて、少し傷つきそうになったけど、自分でも「ばっかじゃないの私」って思ってたので、しょうがないなと思いました。 それでね、探してくださったのはその方だけではなかったんです。ふたりで探していたら、次にこられた人も「どうしたんですか」って聞いてくださって、それからまた次の人も「どうしたんですか」って聞いてくださって。「川までおちたんだったら災難でしたね」って何人も何人もで探してくださったのです。私、本当に恥ずかしくて、人騒がせで、なさけないって思ったけど、みんな「気にしなくていいよ」「お互い様」って言って下さってどうもありがとう。雪がまだいっぱい降ってて、とても寒かったのに、てぶくろしてない人もいたのに、本当にごめんなさい。一人の人が「あ、これランサーのライトだよ」ってついに私の車を掘りあててくださってのです。それでね、「ちゃんと無事にうちに帰れよーー」って。「どうしてお礼をしたらいいかわからない」って思って、「あのどうしてお礼をしたらいいでしょう」って言っても、みんな笑ってお互い様お互い様って言ってくれました。私いつも助けていただくばかりでちっともお互いさまじゃないんだけど、でも、きっとお互い様になれるように、できることはなんでもしようって思います。 それで、みんなの車はまだ雪だらけなのに、私の車の雪をみんなではらって、道に出るまでみててあげるって、私の車を手を降って見送って下さったのでした。みんなみんな大好き。みんなみんなありがとう。本当にごめんなさい。私、迷惑かけないように、ちゃんとする(できるだけ・・・だっていつもちゃんとしたいって思ってはいるのです。でも自信があんまりない)でもちゃんとする。
2006/06/08
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下の記事の続きです。・・・・・・・・・・・・・・その学校はその当時まだ新しくて、とてもきれいな学校でした。職員朝礼で「お客さんがきれいな学校ですねと誉めてくれました。このきれいさをずっと保つために、壁にはきめられたところ以外、押しピンは押さない、セロテープも貼らないということなどを守ってください」とそんなお話が教頭先生からあったその日のことでした。 その日は図工で油粘土遊びをしました。大きな恐竜や蛇をつくる男の子、こまかなぶどうやクッキーを楽しそうにつくる女の子、油粘土は乾いてひびが入るわけでもないし、とても使いやすくて、みんな大喜びでした。 いつもはお昼休みもみんなと一緒に遊んでいるのに、(子供たちとおんなじで、私も休み時間が大好きなのです)その日に限って職員室に用事があって、みんなと一緒に入られず、雨が降ってるから教室か体育館で遊んでいるかなあって思っていたのです。 そしたら、いつも元気な健太くんが職員室へ私を呼びにきてくれました。「今、すっごくおもしろいことみんなでやってるんだ。先生もやろう。僕なんかもう一〇個も成功したんだよ。はやくはやく」ってとってもうれしそうな顔でした。ちょうど仕事も一段落ついていたので、私もうれしくなって「どこ?」って健太くんの後をついていったのです。 そこには私にとってとてもショックな出来事が待っていたのです。職員室は一階で、教室は二階にありました。階段の途中の踊り場のところに、子供たちはいました。下にはたくさん油粘土の固まりがころがっています。ところどころ踏まれて床にしみができていて(あらーー)って思ったけど、それから何気なく踊り場の高い天井を見て驚きました。そこにはもっとたくさんの粘土の玉が投げ付けられて天井にくっついたり、それが落ちて油染みになったりしていたのです。それは目を覆いたくなるくらい汚い感じの汚れようでした。「先生もやってごらん。粘土あげるから。力を入れてえいって投げてごらん」子供たちはおそらく私が来たことでもっと活気づいてわいわい粘土投げをしていたのだけど、私がもうあの天井どうしたらいいんだろうっていう困った顔で立っているのを見て、なんだか変だぞって思ったようでした。 「先生、どうしたの」そうきかれて、私はなんて答えたらよかったのでしょうか。「あのね、学校の壁とか汚さないようにしましょうって先生の朝のお集まりのときにお話があった」やっとのことでそう言うと、子供たちはしーーんと静まりかえってしまいました。「ねえ、天井も汚しちゃいけないって言った?天井は廊下や教室じゃないからいいよね」恵子ちゃんが聞きました。「言ってないけど、たぶんだめだと思う」どうしようばかり思ってまた少し泣きそうにため息をつくと「すぐばれないように掃除をしよう」って健太くんがほうきを持ってきてくれたけど、踊り場の天井って本当にすごく高いのです。とてもととかなくて、机を運んで、椅子にのって、それから長いT字型のほうきをもってきて、やっとやっととといたのです。でもね、油粘土はなんとか下に落ちても、天井にはたくさんの丸い油染みがまるで全体の模様のように残ってしまいました。「先生、叱られる?」「大丈夫、みんなは叱られないと思うな私、ちゃんとあやまってくるから心配しないでね」ってそう言った私に「でも、先生は一回も投げてないよ。僕たちいっぱい投げたけど……」「そうだよ。先生は悪くないよ。あやまらなくていいよ」ってみんなは私の心配ばかりしてくれました。私も子供たちをこれ以上つらい気持ちにさせたくないなって思ったので、「さ、お帰りの準備しててね、もう少しここかたづけて教室にいくね」そして、床を拭きながら、私は子供たちが大好きだし、子供たちと一緒にいたいけど、やっぱり私みたいなおっちょこちょいで泣き虫は先生になんてなれないんじゃないかな、今日みたいに子供たちに心配かけたり、悲しい気持ちにさせてしまうし、それに昨日だって……ってすごく落ち込みながらいろいろ考えました。 そうなのです。その前の日にもたいへんなことがあったのです。その日はアブラナの観察で、子供たちが初めてピンセットを使ったのです。ピンセットは先が尖ってるからとても気を使います。「お約束よ。ピンセットの先をお友達の方へ向けないでね。目にでもささると大変でしょう?」と考えただけでも恐くなるような注意事項をして、それからアブラナの花びらを一枚ずつはずしていたのです。そのとき、「ギャアーー」というすさまじい悲鳴がしました。いったい何事が起こったのだろうといそいで子供たちを見渡すと、頭を抱えるようにして、座り込んでいる子がいます。広ちゃんです。そばにいって、体を見るけれど、どこも血がでているわけでもないし、でも広ちゃんはワアワア泣いています。「どうしたの?」とたずねると「ピンセットが……」っていうのです。ただ抱き締めて、頭をなぜて、落ち着くのを待ってもう一度尋ねたら、ようやくかえってきた答えはなんと「ピンセットのふたつの先コンセントの穴にひとつずつ突っ込んだら、ビリビリになった」でした。なんてことでしょう。感電したのです。「どうして、そんなことしちゃったの?」というわたしの問いに「だってちょうどふたつ穴があいていたから」と広ちゃんは答えました。きっとなんにも考えず、穴がふたつあって、ピンセットの先っぽがふたつあったからなにげなく入れちゃったのですね。広ちゃんにたいしたことがなくてよかった。それで、昨日広ちゃんのおうちへ「本当にすみませんでした」って電話をしたところだったのです。帰りの会のとき、洋二くんが「先生、コンセントに突っ込んだらいけませんっていうのも注意しとけばよかったね」って言ってたけど、本当だ、そこまで全然考えられなかったけど、考えられてお約束に入れられたら、広ちゃんもそんな失敗なかったのにね。 とにかくそういう事件が起きたところだったのです。私みたいな大事なところがおろそかになってしまったり、なぜかいろんなことがしょっちゅう起きちゃう人は教員にはなれないのかもしれない。教員というものは子供の命をある意味で預かっているのだから…… 大きなため息をひとつついて教室に入ると、子供たちはみんな待っていてくれて、「先生、元気だせぇ」とか「「だいじょうぶだいじょうぶ、ぼくたちがついてるって」とか言ってくれました。 子供たちとさよならしたあと、重い足をひきづりながら校長室へ行きました。こんなときどこへ行ったらいいのか、私にはわかっていませんでした。きっと校長先生のとこかな?ってそのときに私は思ったのです。 校長室の扉をノックして入っていったら、校長先生は「待っていたよ」っておっしゃいました。どうして待っていたよなんておっしゃるのでしょう。もう天井のことが知れていたのでしょうか、それとも感電事件のことでしょうか、そうじゃなかったらいつも散歩ばかし行ってるのが散歩に行きすぎということで叱られちゃうのでしょうか、それじゃなかったら、教室がしじゅう元気がよすぎてうるさすぎるのでしょうか。思い当ることはたくさんありました。 校長先生はいつもと少しも変わらない穏やかな声で「まあ、かけなさい」とおっしゃいました。そしてね、「今日は君のおかげで、すごくうれしい気持ちなんだよ」っておっしゃるのです。私は叱られることはいっぱいあっても誉められることなんてただのひとつもないはずなのです。だからすごく不安でビクビクしていたらのです。 校長先生は愉快でたまらないというふうに話しだされました。「さっき、君のクラスの生徒たち、一年生が全員ここへ来たよ。いろいろ口々に言うんだ、『せんせいを叱らないでね』『一回もせんせいはしてないんだよ』とかね。『だって、すっごくおもしろかったから』とか、なんのことだかさっぱりわからなかったんだ。『最初きみたちは何をしたの?』『先生はなんて言ったの?』という一問一答形式でようやくわかったんだ。みんなで粘土で天井をぐちゃぐちゃにしてしまったけれど、でも先生のせいじゃないし、ぼくたちがやったんだから叱るならぼくたちを叱ってほしい、どうやらそういうことらしい。健太くんっているだろう?あの子がね、『校長先生がせんせいを叱ったら、僕らは校長先生のことただじゃおかないぞ。一発おみまいしてやるから』って言うんだ。それからそうそう麻友ちゃんっていったかな、ひとり泣いてる子がいるからどうしたって聞いたら、小さな声で『せんせいは、泣き虫だから叱っちゃだめ。また泣いちゃうよ』ってこれまた泣きながら言うんだ。いいねえ、校長室にあんなに一度に子供たちが話にきたのは初めてだよ。うれしいよね。みんな本当に一所懸命でね。ね、君、絶対に頑張って本当の先生になりなさい。キャリアのある教師は技術だっていろいろ持ってる。けれどね、若い先生の熱心な心や、子供が好きだという気持ちはね。それとは全然別の物なんだよ。わかるかい?君は大丈夫だよ。君は子供たちにすばらしいプレゼントをもらったし、また君も子供たちにすばらしいプレゼントをしたじゃないか」 私が掃除をしている間に、いつか麻友ちゃんを玄関にまで迎えにいってはげましていたときのように、子供たちは私のためにまたみんなで校長室に「叱らないで」と話にいってくれたんだ、そして校長先生はそのことをこんなに喜んでくださってる、私は泣き虫で駄目先生だけど、校長先生はそれでもだいじょうぶだよって言ってくださってるんだとただうれしく、やっぱり泣いてしまった私でした。 「ところで、あの天井の汚れ具合はすごいね。子供たちが言ってるほどじゃないだろうと思ったんだけど」とそれから校長先生はおっしゃいました。 校長先生は道端孫三ェ門というりっぱな名前の先生でした。その方はずうっとあとでわかったのですけど、金沢の歴史や物語にくわしいことや、子供たちの教育に関してもとてもすばらしい考えをおもちで、本をいくつも出しておられる、金沢で有名な先生だったのです。本はそれまで読んでいなかったけれど、校長先生があのとき、あんなふうに言ってくださったから私は教員に絶対になりたいと思えたのかもしれないし、私にとって、有名な方だあろうとそうでなかろうと、なくてはならない方だったのだと今しみじみ思います。
2006/06/07
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油粘土事件保育園や小学校の低学年のときによく使って遊んだ油粘土を見ると、心がちょっぴりうずきます。油粘土に特別な思い出があるのです。その思い出では今となっては、嫌なものではなくて、むしろ心が温かくなるようなそんな思い出なのです。 私は正式に教員として採用していただく前に一年講師の教員として、小学校や高校で勤務させていただいたことがあります。 最初は一学年に三クラスも四クラスもあるようなマンモス校、そのあとはへき地校(いただいたお給料の説明でへき地手当てが含まれるということで、へき地校なんだって思ったのですが、金沢市からそれほど離れたところにはありません)で一、二学年の統合クラス、それから母校である高校へも行きました。そのどこでもたくさんの思い出があるのですが、油粘土事件は、最初のマンモス校でおきました。 この間まで大学生だった私は、すごくドキドキして教室に入っていったのですが、クラスには可愛い一年生がたくさん私を待っていてくれました。一年生になったばかりで担任の先生が病気で入院ということで、お家の方はどれほど心配に思っておられただろうと思うのですが、子供たちは不安そうな様子は少しも見せずにすぐに私のまわりに集まってきてくれて「先生、恐い人?たたく?」「先生、何才や」「せんせい、せんせい私ね、猫飼っとるんやよ」と仲良しになることができたのでした。 私は毎日、可愛くてそれから生き生きしてて、きらきらしてる一年生といてすごく楽しかったけれど、でも新米教師の私には「どうしたらいいんだろう」ということがしょちゅうおきました。 ある日、朝教室へ行くと、だあれもいないのです。たった一人だっていないのです。びっくりして学校中を探してもいないから、途方にくれて外へ飛び出したら、玄関の脇のところにみんな一固まりになってるのです。輪の中をのぞきこんだらね、麻友ちゃんって女の子が泣いてるの。そばで恵子ちゃんが「麻友ちゃん国語の本忘れたから学校入らないんだって」って。それから「僕だって、昨日も今日もずうっと持ってきてないから、だいじょうぶだよって教えてあげてたんだよ」「見せてあげるって言ってたの」ってみんな口々に私に言いました。 みんながみつかってほっとして、それからクラス一人ひとりのことをこんなに心配して今ここにいるんだっていうことがすごくうれしくてじんわり涙がこみあげてきました。「私も今日、筆箱忘れたんだよ。だから、前に座ってるお友達に借りるんだ」って私が麻友ちゃんにお話したら、麻友ちゃんはびっくりしたみたいに私を見て、「先生も忘れ物?ええっ、おんなじ?」ってうれしそうに顔をあげてにっこり笑いました。その日、英くんという男の子の日記に「ぼくのせんせいはわすれんぼでなきむしです。でもみんなはおこりませんでした」って書いてありました。 給食にね。プッチンプリンが出たのです。健太くんが「僕、プッチンってしよう」って立ち上がって、コマーシャルみたいに高いところからお皿めがけてプッチンってしたら、大成功でお皿の上にプッチンときれいにのったのです。「着地成功」って健太くんはすごくうれしそうでした。私も思わず「すっごおい」って拍手しちゃったからかもしれないのですけど、「僕もする」って二番目に立ってプッチンした勇くんがね、やっぱり立ち上がってお皿の上にプッチンってしたら、あーーあ、床にプリンがくちゃくちゃになっちゃっておっこちてしまったのです。「うわああーーん、僕のプリン」って大きな声で泣きだしちゃったので、(私があんなに拍手したせいかなって思ったて)あわてて「私のプリン食べてね」ってプリンあげたのです。でも、「そしたら先生のプリンなくなっちゃうじゃない」ってみんなが心配してくれたのです。それでも「いいのよ」って言ったら「せんせいプリン嫌いなの?」ってとても心配そうに聞いてくれました。「好きだけど今日はいいんだ」って言ったらね、「我慢してるんだ、先生かわいそうだよ。勇くんが失敗したから、勇くんが我慢したほうがいい」と今度は他の女の子が言いました。だけど勇くんは半べそで「ぼくプリン食べたいもん」って……そうだよね。そしたらさっきの女の子がね「じゃあ、私の一口、先生にあげるよ」って私のお皿の上にプリンをスプーンで一匙すくってのせてくれました。そしたら、みんなやさしいよね、私も僕もって、それからプリン落とした勇くんまで、僕もってプリンのせてくれて、私のお皿の上はちょっと見た目は悪くてぐちゃぐちゃだけど、でもやさしさがいっぱいつまったプリンの山ができたのでした。ところがね、また麻友ちゃんがあーんって泣いているのです。今度はどうしたんだろうって思ったら、「私も一口あげたかったのに、全部食べちゃったあ。あげられない」って…… そんなやさしい子供たちのクラスでした。
2006/06/07
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つーちゃんの耳掃除 つーちゃんのお母さんがその年の年度の始め、「学校に希望することはなんですか?」という問いがのった書類に書かれたことは、「耳掃除をしてください」ということでした。つーちゃんは小さい小さい時から耳掃除が嫌いでした。お母さんのお話では、嫌いというより、絶対にさせてくれない、逃げていくし、捕まえて押さえこんでも抵抗して暴れるからものすごく危ないしできない状態だということでした。それでも、小さいうちはつーちゃんも力がないし、大人4人がかりで押さえて耳鼻科の先生がなんとか巨大な耳あかをとることができたこともあったけれど、中学生になって、背も170センチになった今は、とてもむつかしいということでした。それからもうひとつ、つーちゃんがさせてくれないことは体温をはかること。耳掃除と同じくらい嫌がってけっしてさせてくれないということでした。 その年、私は、毎週、一週間に一時間だけつーちゃんと二人きりでお勉強することができることになったのでず。 つーちゃんは、お話ことばとしてのことばは持っていないけれど、もちろんたくさんの気持ちをもっています。でも、つーちゃんはお話ことばがないし身振りサインなどもあまり使わないからつーちゃんの気持ちはなかなか伝わりにくいのです。嫌だったら嫌な表情をするし、怒ったりもするし、うれしかったり楽しかったりするときはとてもうれしそうだけど、つーちゃんの気持ちはそれだけじゃあないはずです。たとえば教室にいて、今からどこどこへ行きたいんだということや、お腹がすいたけど、ごはんよりも今はあんぱんが欲しいなあとか、もっというと、缶コーヒーの温かいのじゃなくて、今日は冷たいのがいいけど、明治のかUCCの、なんとかっていうのがいいなあとか、そんなふうにも思ってるんだと思うのです。でもつーちゃんの気持ちはなかなか相手に伝わりにくいのです。それからつーちゃん自身も相手の気持ちを知ろうとするのが苦手の方だなあと思うことがあります。「そのごみ箱取ってほしいな」とお願いすると、お願いしながら指差しをしている方向にセロテープが置いてあると、指差しの方に気をとられて、セロテープを取ってくれたりすることがあります。 つーちゃんと一緒にいて、私たちの大事な時間では、気持ちをきちんと伝えあうことを大切にしようと考えました。そのことで、私が耳掃除や体温をはかるのをどうしてもつーちゃんとしたいんだということをきいてもらえるかもしれないとも思いました。耳掃除や体温をはかるのをもちろんお母さんが望んでおいでるということもあるけど、私はやっぱり耳掃除も体温をはかるのも日常でとっても大切なことだし、それが簡単にできるようになったら、(できないことができるようになるということは)生きていく社会が広がることになるなあと思ったのです。 でも、いろんなこと考えてたけど、私はなによりつーちゃんと一緒にいることが楽しかったです。つーちゃんって本当にそれはそれは素敵に笑うんだよ。今つーちゃんのしていることが楽しいという時だけじゃなく、ああこの人は僕のしたいこと、あんまりじゃましないなあとかと思うと、すごく素敵な笑顔を私にもむけてくれるようになったのです。(つーちゃんは、細い棒や薄い紙をオルガンと壁の隙間とか、机と壁の隙間とかに捨てるのが大好きなので、大事なものだとそれがいつのまにかなくなってとても困るのです。それから、机を棒でトントンするのが好きなんだけど、歌の時間だとか体操の時間とかにずっとトントンしてると困るからその棒、ちょうだいってことになっちゃうんだけど、この時間は気持ちの伝えあいだったので、じゃまはしなくても大丈夫だったのです)一緒にごろんと寝転ぶと、そんなこと今までなかったんだけど、私の顔ににこにこ笑いながら触ってくれるようになったり、遠くからでもとんできてくれて、ああ仲良しでうれしいなあって感じられるようになってきました。 同僚に、私、つーちゃんの耳掃除してみたいと思うと話をしました。みんなとてもびっくりして、どうやってするつもり?と尋ねるのです。「お願いしてみる」と私が言うと、誰にお願いするって?とみんなが聞いたから、「つーちゃんにお願いしてみる」と言いました。「つーちゃんにお願いしてできるのならもうとっくにできてるよ」私もそうだなあと思いました。「男の大人4人がかりでも無理なんだぞ。できるはずがないじゃないか」私もそうかもしれないって思いました。「でも、お願いしてみる」みんなはちょっとあきれ顔でした。 その日、つーちゃんがわたしのひざで膝枕をしてごろんとしてくれるようになったので今日こそ耳掃除のことをお願いしてみようと思ったのでした。 つーちゃんと一緒に保健室で耳かきを借りてきた時から、つーちゃんは少し不安そうでした。「つーちゃん、私お願いがあるんだけど、耳掃除させてくれない」そうして耳掃除をはじめると、つーちゃんはあわてて私の膝から飛び起き、少し離れたところでこちらを見ていました。耳掃除をしようとしている私を見て、私たちの周りにいた先生が、「手伝おうか(押さえていようか)」と声をかけてくれました。でも、それは私の気持ちとは違っていました。力の限り押さえられて、もし、つーちゃんの力の方が弱くて、それで、もしたとえ耳の掃除ができたとしても、それはつーちゃんが耳掃除ができるようになったわけではけっしてないし、それに、嫌なのに、力で何人もの大人に押さえこまれるって、きっとすごく怖いだろうなって思うのです。私がつーちゃんだったら、押さえた人も耳掃除をした人も「きらいだぁあ」って思っちゃうかもしれない。「もう信じてやらない」って思っちゃうかもしれない。そんなのとっても困ります。だから、「私とつーちゃんとで耳掃除したいな」って言いました。みんなが、もう一度「そんなことできるの?」って言いました。私もできるかな?できるといいなあって考えていて、不安でした。だって「4人がかりでもむつかしかったんだから」ってみんなそう思ったのです。 「つーちゃん、こっちに来て」って一所懸命頼むとつーちゃんは、やさしいんです、とっても。だから、また私の膝に頭をのせてくれました。「そっとするからさせて」そう言うと。私の顔をじっと見て、それから目をつぶりました。でも、また耳かきをもっていくとすっと逃げてしまうのです。そんなこと何回も何回も繰り返しました。そのうちつーちゃんは、私が無理にはしないということをわかってくれたようでした。もう、立つことはしなくなって、でもいざ耳かきを近付けるとやっぱり頭を動かしてしまうのです。それからまた、何度も何度もつーちゃんに、「怖くないからさせてね」と頼みました。(やっぱりつーちゃん、させてくれないのかな)って私、泣きそうになっちゃった時、つーちゃんは(ああ、この先生は、耳かきをさせるまで、どんなに嫌っていっても何度もさせろって言うんだろうな)って半分呆れて半分あきらめたみたいでした。それから、私が悲しそうなのがつーちゃんのやさしい気持ちにつらかったのでしょうか。顔を見て、うなづいて、私の小指を自分の耳の穴の中に入れさせたのです。そっとつーちゃんの耳の中を指でさわると、今度は、耳かきをつーちゃん自身が手をそえながら、耳の中に入れさせてくれました。「ありがとう、本当にありがとう」私、うれしくてありがたくって、また泣きそうになりました。耳かきをただ入れたり出したりを繰り返したあと、少しづつ奥へ耳かきを持っていきました。つーちゃんはやっぱり嫌は嫌なんだと思うのです。目をしっかり閉じて、でももう頭を動かすことはしませんでした。じっと我慢してくれていたのだと思います。奥のほうの大きなながーい耳あかが取れました。終わってから、すごいすごいと私本当にうれしくてはしゃいでいたら、つーちゃんもいっぱい笑ってうれしそうでした。耳あかは連絡帳に貼ってもらいました。だって、あんまり長くて大きくて見事だったので、お母さんにみせたくなったのでした。 おなじようにして、体温をはかることもできたんです。そしてつーちゃんは家でも、耳そうじや体温をはかるのをさせてくれるようになったそうです。 ああ、よかった。あの時、(やっぱり無理なのかな)って思って、それで押さえ付けて耳掃除しなくてよかったな、つーちゃんはきっと押さえ付けられることで、耳掃除や体温をはかるのがとっても怖いことだって思ってしまっていたんだなって思いました。でも、(案外、耳掃除って大丈夫だな、怖くないな)って、もしかしたら、(なあんだ、気持ちいいじゃない)なんて思ってくれたのかもしれません。 それにしても、きちんと気持ちを伝えるのって大切だなあって思いました。それから、どんなことだって、無理にさせられてできたことは実力じゃないんだな、自分である時は我慢して、ある時はやろうって思ってできたことが本当の力なんだって思いました。私はそんなに我慢してでもしてくれる子供たちの気持ちをいつも少しも考えることができずに、押しつけてしまったり、無理にさせてしまうことがなんて多いのだろうと思いました。子供たちはこんなにやさしく大きな力を持っているのにです。ごめんねと思いました。
2006/06/05
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下の記事の続きです。もう学校が終わる頃です。道行く誰かに何かをことづけようと思い立つけれど、ゆうきくんを見失わないようにすることが精一杯で、それもできないままです。ああ、お母さんはこんなふうにして毎日すごしていたのだ・とまた繰り返し思いました。もう足も痛くてたまらず、いるはずのない学校の同僚がさがしにきてくれてはしまいかと、あたりを見渡しました。いつのまにか繁華街はとうに通り過ぎ、狭い路地に入ってきていました。ゆうきくんは知っている道なのか、変わらずどんどん歩いて行きます。そして角を曲がって行きました。見失わないようにと急いだとたん、足がもつれて、そのまま溝に落ちました。もう私の足は限界に来ていたのだと思います。あわててたちあがって、歩き出し、角を曲がったとき、もうゆうきくんの姿はそこにはありませんでした。 身体がかっとあつくなるのがわかりました。そしてきゅうにがくがくと身体がふるえました。お母さんが守ったゆうきくんを私がどうにかしてしまうのではないかと思いました。 「ゆうきくん、ゆうきくん」大声で呼びながら、路地の反対の路地を曲がったとき、そこに広がった景色に息をのみました。 ただ追いかけるだけで、どこをどう歩いたのかも知らずにいたけれど、そこには大きな海がありました。狭い路地から急に広がった大きな海は思いもしなかった景色でした。そして港のコンクリートの端っこにゆうきくんは立ち止まっていました。(ああ、ゆうきくんがいた)ゆうきくんのそばにいったとき、わたしの心臓がまた早鐘のように鳴り出しました。信じられないゆうきくんの姿をそこに見たのです。いつもいつも動いているか、ただぶつぶつつぶやくだけで、表情を変えることがなかったゆうきくんが涙を流して泣いていたのです。「海に来ようとしてたんだね。お母さんに会いにきたんだね。お母さんを探していたんだね」泣いているゆうきくんを私も泣きながら抱きしめました。 お父さんに今日あった話をしたときに、お父さんがやっぱり泣きながら、私の目の前にノートを差し出されました。それはお母さんの日記でした。お父さんの差ししめられたところにはこんなふうなことが書いてありました。 「私は今、やっとゆうきの探していた物がわかった気がします。ゆうきは学校バスを降りて、私の車を探すために歩きだしていたのです。回り道のように見えてもゆうきは夕方、日が沈む頃の私の車を探し出すために歩いていたのです。ゆうきが小さかったときもきっとそうだったのだと思います。眠っている私のそばを抜け出して、ゆうきが会いたい時間の私を探すために歩いていたのです。こんなこと言っても誰もわかってくれないかもしれない。でも何年も何年もゆうきのあとを追って歩き続けてきた私にはわかるのです。ゆうきは私のことなど少しも気にしていないと思っていたのに、違っていたのです。あの子がいつも探し続けているのは母親であるこの私だったのです。それがわかったことで、私はなおゆうきを愛せると思いました」 「この日記を読んで決心がつきました。仕事をもう少しゆうきの時間にあわせられるものに変えようと思います。ゆうきはこれからも母親を探し続けるために歩き続けるでしょう。それとも母親がいなくなったのに気がついて、歩き続けることをやめるでしょうか?それとも今度は私を探してくれるようになるでしょうか?どちらにしても私はゆうきと弟のことを考えたいと思います。あの子たちは私たちのところに私たちの子供としてきてくれたのですから」お父さんが何度も自分で自分に相づちをうちながら話されました。
2006/06/02
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ゆうきくんの足取りは前にもまして、しっかりして、速度を速めているようでした。私はいったいここがどこなのか、学校を出てから何時間たったのか、時計を見る余裕も、街の名前を確かめる余裕もなくしていました。前を駆けるようにして歩いていくゆうきくんの姿をただ見失わないようにとそれだけを思っていました。ゆうきくんの軽やかな足取りに比べて、私の足取りは重く、他の誰と比べても足が遅くマラソンも苦手な私にとって、今の状態はもう限界をはるかに越えているような気もしました。(学校のみんなが心配しているに違いないに・・)わかってはいても、公衆電話に駆け込む間にゆうきくんを見失ってしまうに違いないという思いから、まだ電話もかけれずにいました。 (ゆうきくんはどこに向かって歩き続けているのだろうか?あてもなく歩いているのだろうか?それとも何かを探しているのだろうか?)前だけを見て歩き続けているゆうきくんはもう行き先を決めているようにも見えました。けれど、ゆうきくんの気持ちを知る方法を知らない私は、もう何時間も歩き続けているゆうきくんはただ歩きたくて歩いているだけのようにも感じました。 ゆうきくんのお母さんの言葉がさっきから頭の中に何度も何度も浮かび上がってきていました。 今年の4月のはじめのことでした。スクールバスの発車の時間に遅れてしまったり、電話がなく、お母さんがご自分の車でつれてこられることがたびたびあるということで、主事の先生から、ゆうきのお母さんに「他のお母さんが待っているのだから、気をつけてほしい」というお話があったのです。おかあさんは少しためらわれて、やるせなさそうに、ためいきをつかれた後、怒りを抑えきれないようなはげしい口調で話し始められました。 「私たちの苦しみなんて誰もわからないのです。学校の先生にはとてもお世話になっています。でも学校の先生は学校にいるあいだだけ、それも仕事じゃないですか?私たちはずっとなんです。ほっと安心していられるのはこの子が眠っているときだけです。それだからといって、眠っているからと安心して眠れるわけじゃないのです。もし私がこの子より後に起きたら、この子はもう家にはいないかもしれないのです。いつの頃からかこの子はすぐに外へ走り出すようになりました。私はそんなとき寝ている赤ん坊の弟をただひっつかむように抱きあげて、あの子の後を追いました。追いかけて追いかけて、捕まえようとしても、するりと抜け出してしまいます。そうなったら、私の追いつかない早さで走っていってしまいます。だから私はただあの子のあとを追うだけでした。赤ん坊がおなかをすかせて泣いても、おむつをずっとかえないままもう、おしっこもうんちも中でしていると分かっていても、それでおむつかぶれがひどくなっていっていることが分かっていても、おむつを替えたりミルクをあげることなんてできないのです。泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていると周りの人が私のことを鬼とでもいうように見ます。そんなことなんて気になんてしてられないのです。下の子は運命なんだからしかたがないのよと思わせてきたのです。下の子が一歳半になったとき、荒れ狂う海にゆうきが入っていったことがありました。下の子は1歳半、言い聞かせても分かるはずがないのに、ここにいなさい、すぐ戻るから追いかけてきてはだめといいきかせて弟を浜辺に置き、ゆうきを追いました。ご存じでしょうけどまだ1歳半と言えば、親といつもくっついていなければ安心できない年頃です。かといって、下の子をつれて海にくことなどできるはずもなく、けれど追いかけなければゆうきが死んでしまうから、私を追おうとする下の子を、たった1歳と半のその子のほおをひっぱたいてついてくるなと叱りつけ、泣き叫ぶ子を岸においてゆうきを追いました。それまでだって、いっそ死んでくれたらとゆうきのことを何度も思ってしまったことはあったけど、今荒れ狂う海にむかって歩いている子の後を追わないでなぞいられないのです。ですが、毎日毎日の繰り返しの生活の中で、今日はもう追うことをやめようと思ったことも一度や二度ではありませんでした。追いかけている途中、もうやめたと座り込んでもあの子は決して振り返らないのです。私が後を追っていようと追っていまいとそんなことは気持ちの中にないのです。あの子の心に私などどこにもないのかもしれません。朝、あの子をバスにのせようとすることがどんなに大変なことなのか、察してはいただけませんか?連絡する余裕が私にあったら、私だってもちろんします。それができないのです。私の気持ちが先生にわかりますか?」 お母さんのお話に主事先生も私たちも言葉を失っていました。自分たちのただひとりとしてお母さんのされていることの何分の一もできないと思いました。 こんなこともありました。参観日にこられたお母さんが話して下さったのです。「下校の学校のバスから降りると、ゆうきはまたいつも歩き出します。今では保育園の下の子は家で待つようになって助かっています。それでもまだ保育園の他の友達がお母さん、お母さんと甘えているのをみると下の子が不憫になるんです。あきらめてもらうしかないと思っています。でもゆうきはこのごろ、どうして道がわかるのか不思議なのですけど、夕方、日の沈むころになるときまって、私の車がとめてある駐車場へ帰ってくるようになりました。初めての道でも決してまよわずにいつのまにかもどってこれるのです。どこへ行ってもそうです。そして私の車に乗りたがります。私たちは決まって海に行くんです。夕日が沈むのを二人で見ていると、こんな静かな時間をふたりでもてるようになる日がくるなんて考えもしなかったなあと幸せな気がします。今でも歩きまわることは変わってはいないけど、いつかもっと静かでゆっくりした時間があの子ともてるかも知れないという希望のようなものを感じるのです」 学校では入学当初をのぞいて、ひとりでどこかへ出かけるということはほとんどありませんでした。たまにどこかへ行こうとしても、大きな声で「ゆうきくーん」と呼ぶと少しいらいらして、頭を自分の手でごんごんたたきながらも帰ってきてくれていたのです。 けれど、4日前、悲しいことが起きてしまったのです。朝、ゆうきくんを送られたお母さんは、そのまま車でどこかへ出かけられる途中だったのだそうです。一旦停止の場所で、どうしてだかお母さんは一旦停止をされずに直進したのです。そしてとてもとても悲しいのですけど、ゆうきくんのお母さんは、大きな車とぶつかって、亡くなられてしまったのです。 私たちも朝お会いしたところだったので、その電話が信じられませんでした。下校時までゆうきくんは学校にいて、それから私がゆうきくんの家まで送りました。お父さんは悲しみの中でお通夜とお葬式の間のゆうきくんのことを心配しておられました。「私の家に来ていただいてもかまわないのですが」とお話してもお父さんは首を縦にはふられませんでした。「ゆうきは亡くなった母親が、自分の身体の一部のようにして、守って大きくしてきたのです。父親として僕は何ひとつできなかった。これからは僕がゆうきを守っていかなければなりません。しかし仕事もあります。あまりにも大きい母親の苦しみを今になって思います。しかし、母親は自死ではないと信じています。ゆうきが戻る前に夕飯の買い物をするためにいつものあの道を通ったのです。苦労は人一倍しているけれど、あれはゆうきがいい方へ向かっているとこのごろうれしそうだったのです。夜は母親でなければだめなのです。先生に迷惑はかけられません。施設に2,3日入所を電話で申し込みましたが、今すぐでは職員の都合がつかないということでした。しかたがないので、三日間病院に入れることにしました。あの子を鍵で閉じこめることは忍びないし、それは母親があれほど苦労しながらも、けっしてしなかったことだけれど、ゆうきの命を守るためなので、三日間だけゆうきにも母親にも目をつぶってもらおうと思います」 それが昨日までの三日間でした。ゆうきくんの同級生のお母さんが昨日の晩ゆうきくんを見かけられ、「母親が亡くなったことも知らないでいる様子のゆうきくんが哀れに思いました。うちの子だって、私が亡くなっても悲しむということはないでしょう。これが障害者を子供に持ったものの親の悲しみです」と連絡帳に書いておられました。 ゆうきくんは今日、朝から落ち着かない様子でした。あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてイスに座っている時間がとても短かったのです。私はできるだけゆうきくんのそばにいようと思いました。同僚にも今日はゆうきくんのそばにいたいので、他の子供たちへの補助をお願いしますと頼んであったのです。それなのに、ゆうきくんの前にいて、振り返ったときに、もうゆうきくんの姿がそこにありませんでした。外を見るとグラウンドのポプラの木の下をゆうきくんが駆けていくのが見えました。大声で同僚にお願いねーと言い残して、うちばきのまま外へ飛び出しました。 ゆうきくんは少しも後ろを見ずに歩き続けています。つかれるということをまるで知らないみたいに、速度をゆるめず歩いています。こんなふうにしてお母さんはいつもいつもゆうきくんの後を歩いておられたのです。ゆうきくんは何を、そしてお母さんは毎日何を考えて歩いておられたのでしょうか?そんなことを考えて、ぼっとしてしまっていたのだと思います。車の急ブレーキの音に心臓がドキっと大きな音をたてました。ゆうきくんは赤信号で道路をわたっていきました。身体の力がへなへなと抜けていくようでした。けれど私だって信号が青に変わるのをまってなんかいられません。クラクションが幾度も大きくなったけど、そしてとても恐かったけど、謝るように頭を下げながらあとを追い続けました。もう昼もとうに過ぎた頃です。お母さんがおっしゃるとおり、どこを通っていてもゆうきくんが道を知っているのならおなかがすけば学校に帰るのではないかと期待していたことももうとうにあきらめていました。 病院の鍵のかかる三日間もいて、今ゆうきくんは歩きたくてしょうがなくなっているのでしょうか?
2006/06/02
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泣くということ「もし泣けたらどんなに楽かと思います」といただいたお手紙に書かれてありました。「泣くことは逃げることだと思う」高校生の男の子が言いました。「教師は子供に対して弱みをみせてはいけないのではないか?泣くということで子供たちを不安にさせたり、泣けばすむという気持ちをゆるすことにつながるのではないか、どんなにつらくても大人は泣いてはいけないのだと思う」ホームページを読まれた方が、メールを下さいました。講演会で涙を流しながら「僕は泣くことなんてこれまで一度もなかったのです。男が泣くなんて恥ずかしいことですが・・」って年輩の男の方がおっしゃいました。 私は「泣いたって大丈夫なのに、」「泣くことってきっと大事なこと」っていつも思うのです。いろいろなときにそう思います。 世の中にあることのひとつだって無駄なことはないはずと思うのです。人間の身体だって同じはず。きっと人間の涙だって何か大切な役割があるはずだと思うのです。 中学2年のときに交通事故にあって、片足を切断された女の子が学校に入ってきました。ゆうきちゃんという名前の女の子でした。 ゆうきちゃんはほとんど笑うということをしませんでした。周りにいるものが話しかけても、そっけなかったり、険しい答えしか帰ってはきませんでした。 教員がゆうきちゃんの授業に出て、職員室に帰ってきたときも「私、あの子苦手やわ。何言っても受け付けてくれんし、しゃべってもくれんから」「いくら交通事故にあったことが悲しくても、あんなわがまま許されるわけないわ」「つっぱってて、どうあつかったらいいかわからない、扱いづらい子やわ」という感想が多かったように思います。 こんなこともありました。「確かにあなたは足がなくなって、つらいだろうけど、みんなに可哀想って思ってほしいと思ったら大間違いよ」と教員をしている同僚が、堪忍袋の緒がきれたからとそんなふうに言ってしまったときのことです。ゆうきちゃんは、その言葉を聞いたとたん「誰が可愛そうって思ってほしいっていった?」「おまえなんか出て行け」と同僚の服をひっぱってはさみで切ってしまったというのです。 ゆうきちゃんと初めてお話をしたときのことは私もよく覚えています。教室に入っていくとゆうきちゃんは、背筋をまっすぐにして、クラスに置いてある、たったひとつの学生机に座って、まるで、すべての人とこれから闘うつもりだとでもいうように、口をきっと結んで前をにらんでいました。「今日の給食のメニュー何かなあ、ゆうきちゃんは何が好き?」ゆうきちゃんはこちらをちらっと見て、「関係ないでしょ」「どうしてそんなこと答えんといかんの?」と投げつけるように言いました。私が黙って、次になんと言ったらいいかわからずにいると、ゆうきちゃんは「それともあんた私に答えなさいって命令するの?」と言いました。 ゆうきちゃんの答えに私はとても驚きました。「命令だなんてとんでもない、これは雑談だし、そうじゃないとしてもゆうきちゃんにいつだってどんな命令だって私はしないのよ。」 ゆうきちゃんは驚いたほうに私のほうを見ました。ゆうきちゃんは自分の周りに固いつめたい殻を作っているようでした。それでなければ、心という羽を傷つけて震えている飛べない小鳥のようでもありました。「私がゆうきちゃんとすごせるのは国語の時間だけだけど、その時間はゆうきちゃんの好きなことをしようよ」「できることはどんなことでも大丈夫」 ゆうきちゃんは私の顔をじっとみつめていて、どう考えたらいいのか警戒しているようでした。「お料理でもいいし、音楽でもいいし、どこかへ散歩に行ってもいい・・」そういいかけたときにゆうきちゃんは突然「嫌、散歩は嫌よ」と険しい顔で言いました。「嫌なことはしなくていいの。私、無理をしないのが好き。ゆっくりするのが好き」私はできるだけゆっくりしたお話の仕方で答えました。 ゆうきちゃんの顔がだんだん柔らかくなっていくのが私にも分かりました。そして、うつむきながら言いました。「がんばらなくてもいいの?」 私はゆうきちゃんの「がんばらなくてもいいの?」という言葉が、足を片方失ってからこれまでのゆうきちゃんの苦しみの大きさを教えてくれている気がしました。 足を失ったことを誰からも「可哀想」なんて言われたくないという思いから、つらくても痛くてもがんばって義足で歩く練習を毎日してきたゆうきちゃんが、その苦しみを自分で守ろうとして、心の壁を作っているのだと思いました。 「したいことをする時間にしたいな。ゆうきちゃんと私の楽しい時間にしたい」私の言葉を聞いたとたん、どうしたことでしょう。ゆうきちゃんの目が見る見る涙でいっぱいになったのです。今まで、叱られても、つらい訓練があっても、一度も泣かなかったゆうきちゃんなのに・・ ゆうきちゃんの涙から3秒もたたないうちに私だって泣きたくなってしまいました。私は泣き虫だから、えーんえーーんとすぐに声をあげて泣いてしまいます。私の声を聞いたゆうきちゃんは、私よりももっと大きな声をあげて、私と抱き合うようにして泣き出しました。「泣いてもいいの?」「泣いてもいいの?」「つらいときは泣いたほうがいいよ、悲しいときも泣けばいいし、泣きたくなったら泣いていいんだよね」ふたりとも泣きながらも話をしました。 うんと泣いた後、ゆうきちゃんはにっこり笑ってくれました。やさしい、うれしい笑顔でした。 ゆうきちゃんはそれから、私とだけでなく、少しずつ、友達とも仲良しになっていきました。涙には、自分というものを守るために作ったはずではあるけれどそれでもそれを持つことで苦しくてたまらない心の壁を溶かすエネルギーがあるのだと思います。そんなに肩に力を入れなくてもいいんだ、片意地はらなくても大丈夫なんだ、バリケードなんていらないんだということを心に教えてくれるすごい力が涙にはあるのだと思います。 ゆうきちゃんとはそれからいろいろな話をしました。一緒にセーターを作ったりもしました。それから、ゆうきちゃんはエッセイも書きました。ゆうきちゃんのやわらかな気持ちがあふれているエッセイでした。お母さんが「昔のゆうきに戻ってくれた」と喜んで下さいました。国語の教科書はすすまなかったけれど、それでもちろんよかったのだと私は思いました。 泣きたかったら泣けばいい。苦しいことは軽くなるし、悲しいこともかるくなる。もし誰かを少し恨んでいるようなことがあったとしても、その気持ちを薄く軽く、涙はしてくれると思います。だからね、泣いても大丈夫。きっと涙は私たちの味方だと思います。
2006/05/31
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浩介くんの家 浩介くんは地域の学校へ通っています。障害を持っていても地域の中で生きていって欲しいというのがおうちの方の強い希望だったのです。 「このごろ浩介くん、教室からすぐ出て行くんで困ってるんだ。去年なんてわりといてくれたんだけどね。みんなで『だめー』って言うとはじめは帰ってくるんだけど、もうがまんできなくなって最後には、誰がとめても手を振りきって飛び出して行くんだよ」と担任の先生から電話をいただきました。 きっと浩介くんが勉強したいと思っていることと、学級でみんなが学んでいることとの間に違いがあって、浩介君はみんなと一緒にいたいけど、長い時間は嫌だな、って思ってるのかもしれないなあと思いました。でも、浩介君が教室から外へ出ることは先生は少し困るのだとおっしゃいました。浩介君が好きな理科の道具が割れるということや着たまま寒い中プールへ入ってしまうことはやはり困るので、(ああ、出ていったなあ)じゃあすまないからだそうです。飛び出していくといつも追いかけて、クラスの子供たちをそのままにしてしまうこともたびたびだということでした。 これまでも浩介君はいつも立ち止まることがほとんどないくらい教室の中であちこちへ動いていたので、おうちではお母さんはご飯の用意もむつかしいのではないかなあと思ったことがありました。でもそうではありませんでした。お母さんともお友達なのですけど、前に浩介君のおうちへ遊びに行ったとき、浩介君はおもちゃが入ってる段ボールの箱や、机や家具をあつめて空間をつくり、帰るとそこへ自分から入って、穏やかな顔で、そこにいました。その空間が大好きみたいで、たまに出てくるけれど、ご飯を食べたりトイレに行った後また自分からそこへ入っていくのだとお母さんが教えて下さいました。私はそんな浩介君を見たとき、小さいときに、学校の中に置いてあった大きな太鼓の台の下にもぐっているのが好きだったことを思い出しました。太鼓の下の囲いの中からみた学校はとてもやさしくて、自分から少し遠いところのようでした。私はその囲いに何か悲しいことがあると入っていたかったのです。 それで私ちょっと思いました。浩介君が自分の力で、いたくないときに出ていけたり、いたいときにいられるということはとても大事なことだとは思うけど、もしそれがかなわないなら教室に浩介君が安心していられる空間があったらいいのじゃないかなあと思ったのです。 その次の日先生から電話をいただきました。先生は「工作はにがてなんだけど」と言いながら、大きな段ボールでおうちを作られたのだそうです。「浩介がさ、僕の作った段ボールの家をみつけて自分から入ってきてさ、それから一日中そこにいてくれたんだ。教室の勉強の様子なんか、聞いたり感じたりしてくれてると思うんだ。」と嬉しそうな声でした。しばらくたって「浩介がちょっと薄汚れた毛布を自分で家からもってきて、それを浩介の家(段ボールのおうちをクラスのみんなはそう呼んでいるようです)にもって入ったの。あれ、家で大事にしている毛布のひとつなんだってさ。浩介が学校で使おうと思って、毛布を持ってこようとしたなんてすごい驚きで、僕とてもうれしかったんだ。あいかわらずそこにいて、うれしそうなんだ。クラスの子が入ってもひとりずつだと入れてくれてね、友達だと思ってるんだなってうれしかったよ」とその日も先生はとてもとてもうれしそうなのです。 でもある日、ちょっと怒っているような悲しんでいるような、沈んだ声で電話があったのです。「浩介の家、取り壊すことになったんだ。今日、視察があってね、浩介の家を見た偉いさんがさ、『こんな犬小屋に子供を入れてけしからん。人権無視だ』なんて言うんだ。校長もさ、すぐにどかせって言うしさ。わかっちゃねえよな。クラスの子供たちにどう言ったらいいんだ。僕の作った段ボールの箱の家じゃ、きれいじゃないっていってさ。みんなで学校に残って色を塗ってくれて、浩介君教室にいてくれてうれしいねなんてみんな喜んでくれてたのにさ。校長だって、あの偉いさんだって、浩介が教室から出たときにつきあってくれるわけじゃないのにさ、本当にわかっちゃないよな」私もね、「本当にわかっちゃいないよね」って思いました。クラスの子供たちの思い、先生の一所懸命な思い、浩介君が今教室が大好きになれかけているということ・・教室は、学校は楽しいところじゃないといけないのに、ちっともわかっちゃいないわって思いました。そのあとお母さんから電話がありました。お母さんもとても悲しそうでした。「浩介が好きなところにいて、浩介がおちつく姿を見て、それを<犬小屋に入れられている>と言った人を私は許せなかったから、私はその人に電話をしました。その人は『お子さんは小学校には向いてないように思いますね。手足が不自由なお子さんは、まだ普通小学校で学びやすいんですよ。勝手にあちこち行かない分、先生にも他も子供たちにも迷惑がかからないですしね。おこさんにとっても、他のクラスの友達にとってもお子さんが養護学校へいかれることは望ましいんじゃないんですか?それにしてもあの先生にもびっくりしましたね。お子さんはあんなところに入れられてしまって気の毒しました。教師は子供を大切にするというのが当たり前のことだのにわかってない若い先生が多くて困ります』って言うのです。どう思われますか?校長先生にあの家は大事なのだと話したら、あの段ボールは見栄えが悪いので、掲示板とか移動黒板で囲ったらどうでしょう?なんて言うのですよ。でもクラスの友達や先生はきっと分かってくれると思うので、あの浩介の家はそのままにしておいてもらおうと思います」お母さんのお電話を聞いて、やっぱり、校長先生と視察にこられたお二人の言われたことはわかっちゃいないみたいと思いました。浩介君は掲示板とか移動黒板で囲ったところはきっと好きじゃないと思います。浩介君はみんなと離れていたいのじゃないのです。心が落ち着く浩介君の家にいながら、みんなと一緒の空間にいたいのだと思います。だからもし浩介君の家と、掲示板や黒板で囲まれた空間があったら、浩介君はみんなの作った段ボールの家を選ぶと思います。それから私、手足が不自由なお子さんならいいっておっしゃったことも違うって思いました。行きたいところへいけず、いたくない場所にいなくてはならない、それを強制させられることこそ人権侵害だと私は思います。手足が不自由なお子さんがもし教室にいたとしても、そういう思いがあったとしたら、それはもうそのお子さんにとって、とてもつらいことだと思うのです。毎日通う学校はつらいところではなくて楽しいところであってほしいです。そして親御さんや子供たちがもし地域の学校で学びたい、学ばせたいと思われたら、地域の学校で子供たちが楽しく通えるようになってたらいいなあと思います。もし浩介君のところにもう一人先生がいてくださったら、浩介君の先生は、浩介君とゆっくりいれたり、またクラスの子供たちとも気にせずすごせると思うのです。それから浩介君がおちついた環境で教室にいられるみんなで作った浩介君の家は、みんなの気持ちがたくさん集まったものなのです。だからね、犬小屋にもし見えたとしても、大事な大事な浩介君の家で、それを黒板なんかでおきかえるのは、私それこそ、子供たちのことちっとも大事にしてないって思います。
2006/05/29
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かおりちゃん なかなか目があわないけれど、いつも何気なくしていてくれるけど、いつもじっとこちらを見ている、わたしの心を知ろうとしてくれている・・・かおりちゃんの最初の印象でした。 肢体不自由の養護学校とよばれている学校から、精神薄弱の養護学校とよばれている学校(どの名前もいつも首をかたげてしまう呼び名です。)に移ってきたばかりの私には、口の機能のためじゃなくてお話を言葉でしないということはどういうことなのかわからずにいました。(前の養護学校ではいつも口の機能などが十分でなくても、どうにかして気持ちを表現することを探そうと、タイプや文字盤、サインなどでいっしょにお話をすることにいつも一生懸命でした。)じっとかおりちゃんのそばにいると、かおりちゃんのたくさんの気持ちがあふれてきて、どうしてその言葉を口にだして言わないのだろう。口に出して言わないとどうしても細かなところまで伝わりにくいし、やっぱり言葉でお話してほしいなぁと今から思えば本当に私ってなんにもわかってないなぁと言う感じなのですが、そんなことを思っていました。(私はその時たぶん、前の養護学校にいたとき、不自由な口で、自分の気持ちを精一杯お話をしている子供たちといっしょにいたので、口が不自由でもないのになんてもったいないことって思っていたのだと思います。 それで「ねぇ、あーっていって。」「いーっていって。」とかおりちゃんにたのむと、かおりちゃんは今までそんなことはさんざんしてきたよという風に困った顔をしながら、口を開けてくれていました。言葉を使ってお話をしないということと、心の中の気持ちを思う時に、言葉を使っていないということはまったく別のことなのに、私はつい、歌の時間など、繰り返し歌をうたうことはかおりちゃんにとって、本当に楽しいことなのかしら?などと思ったり、国語の時間に物の名前のカードをとる練習ばかりしていたりと本当に今から思えばかおりちゃんに申し訳ないことばかりでした。 かおりちゃんといっしょに毎日をすごしているうちに、私はもうかおりちゃんが好きで好きでしかたがなくなりました。お互いに言葉はなくても、いっしょにいると長い楽しいいおしゃべりをしたなぁと感じられるようになってきました。2年目ころからかおりちゃんはいつもいつもいい笑顔で私を見てくれるようになりました。いつもいつも、私の目をみつめ、私が自分の髪を触る仕草や、笑う仕草、パンを食べる仕草を同じようにかおりちゃんもするようになりました。かおりちゃんが物を手にとる仕草、顔をみつめる仕草をいつのまにか私もするようになりました。私が二階にいても、かおりちゃんは運動場からでも私を見付け、私が手を振ると、体育の時間なのに職員室までかけてきてくれたことがありました。どんなにたくさんの人の中でもかおりちゃんは私の声を聞き分けて、遠くからでも必ず返事をしてくれました。かおりちゃんと私はお互いに、とても必要な存在でした。私がかおりちゃんを好きで好きでたまらなかったと同じだけきっとかおりちゃんも私のことを好いてくれていたと思います。そのうちかおりちゃんは私の口元や、そして声までもまねをするようになってきました。私が失敗してなにかを下に落とした時、私が「ああーぁ」と言ったのをまねしてくれたのが最初でした。そしてそのことを私がとても喜んで「すごいすごい・・」と笑ったのがかおりちゃんにとってもとてもうれしいことだったのだと思います。それは自分で私の真似をして声を出せたという喜びではなくて、私がそのことをものすごくよろこんだということに対する喜びだったのだと思います。 それからかおりちゃんは「あ」も「い」も「う」もそして「まま」も「ほん」も言うようになりました。たくさんの言葉を使うようになりました。 かおりちゃんのお母さんもまた私は大好きです。かおりちゃんのお母さんはとても素晴らしい方で、毎日の連絡帳で私にたくさんの事を教えてくれました。いつも勇気と元気をくださいました。二年間の連絡帳は、十冊を簡単にこえました。ある日の連絡帳・・・・「この日をどんなに待ったことでしょう。かおりからままとよんでもらえる日がくるなんて・・・かおりが小さいときからずっとこの日を待ち望んできました。ままと一言呼んでさえもらえたら・・・と。かおりは小さいとき私のことを本当に必要としているのだろうかといつも思っていました。まいごになっても泣くでもなく、私の姿をさがすでもなく・・・ひとりで立っていたかおり。かおりも中学生になり、いつのころからか私は、ままと呼んでもらうということはもうすっかり諦めていました。先生、私は今日{好き}ということが、こんなにも大切だということを知りました。小学校の時の担任の先生にもかおりがしゃべったのだと電話してよろこんでもらいました。・・・・・」 あぁ、そうなんだ。一番大切なのは好きという気持ちだったのだということを私はかおりちゃんのお母さんの連絡帳を読んであらためてそう思いました。私はかおりちゃん以前はお話できなかったのに、どうして今お話できるようになったのだろうということが少しもわからずにいるままだったのです。人が気持ちを伝えるということは本当になんてむずかしいことなのでしょうか。言葉というものは相手を好きと思って、自分の気持ちを受けとめてもらえるということがわかって、そしてお互いが平等で、いっしょにいることがうれしいと思って初めて、出てくるものなのに、私は最初にそんな関係が少しもないのに、無理に「あーって言って」「いーって言って。」と頼んだのでした。自分はなんて勝手だったのだろうとお母さんの優しい言葉のなかで恥じ入る思いでした。 かおりちゃんが言葉を使うようになって、私は自分のしてきたことが、なんてかおりちゃんの気持ちを考えてなかったのだろうともっともっと知ることとなりました。例えばかおりちゃんは習った歌は殆ど覚えて知っていたということがわかりました。かおりちゃんがカラオケ大会ではじめて「さいた さいた」を歌った時の感激とそれからその時、言葉はなくても歌うということ以外で合唱に参加して合唱を楽しんでいる子供たちがたくさんいて、そしてその参加の仕方はそれでいいのだということに気付かずにいた自分を思いました。絵を描くとき、かおりちゃんはペンにしたいとか、絵の具で描きたいとかそういう思いは当然あって、なにかの方法でそれを表現していたのに、こちらで勝手に選んで渡していた自分を思いました。 かおりちゃんとかおりちゃんのお母さんと私と、今でも、本当に時々しか会えないけれど、ずっと仲良しです。今でもかおりちゃんに会いに行くと、かおりちゃんは遠くで私をみつけて、作業中、作業はやめないけれど私を見つめて微笑んでくれます。「私は作業中だから今すぐとんでいけないけど、ほらここだよ。」と言ってくれているのだと、思います。
2006/05/28
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かおるちゃん 「人を愛するのってせつないね」とかおるちゃんが言いました。 卒業生のかおるちゃんは、学校の隣に併設されている養護施設にずっと入所していたので、時折、学校の休み時間にあわせて、散歩がてら遊びにきてくれました。絵が好きで、卒業前、養護学校にいた日本画の先生に習って描いたその前の年の絵が、アマチュア美術展に入賞したくらいにたいした腕前なのでした。たいした腕前なのは、絵を描くことだけではありませんでした。かおるちゃんは自然の美しさに気がつく天才かもしれません。何でもない雑草と思っていた草花がかおるちゃんの手によって摘まれると、そして、コップにさされると、その花が(ああなんて素敵な草花なんだろう。どんなにいい絵になるだろう)というような草花に変わりました。「可愛い。描きたいなってそう思っただけ」とかおるちゃんはそういうけれど、大きく咲いている山ユリや、きんぽうげにばかり目を奪われてしまう私には、いったいそんなに清楚で美しい小さな花がどこに咲いていたのだろうと思い出すことすらできず、自然が大好きで、いつも風や空気や木や花を身近に感じていたかおるちゃんだからこそとなんだかうらやましい気持ちにもなるのでした。 私はかおるちゃんと話をするのが好きでした。ゆっくり考えながら話すいろいろなかおるちゃんの言葉は、私にたくさんのことを考えさせてくれました。かおるちゃんは、筋ジストロフィという病気を持っていました。発病してから少しずつ手足の力が弱くなってきていて、その頃は歩行器を使って歩いていました。 「あまり動かないと病気が進むようだし、かといって無理をして動くともっといけないようだし……」「今日はなんだか右手が動きにくいんだよね」かおるちゃんはゆっくりと歩行器を押しながら、さりげなくそう言いました。自分の体の話をする時はいつもさりげなかった。けれどかおるちゃんはいつも、いつか動けなくなる日がきて、それからそう遠くない日に自分の命の灯も消えてしまうのだということを考えているようでした。 ある日「ねえどうして神様は私のこと、『あの子は二十年ちょっとくらい生きたらそれで十分』って思ったんだろうね」と言いました。かおるちゃんは私の返事を待っているようでもあったし、待っていないようでもありました。困ってうつむいてしまった私に、「ごめん、ごめん。困らせるつもりじゃなかったんだけど」そう言って、かおるちゃんはまた話出しました。 「この世に生まれたからには、神様は私を必要だと思ったんだよね。だったら、人よりずっと早めに必要でなくなるのかなあ。それとも短い時間で、大切な役目をはたせたということかなあ。あんまり何にもしてないけどね。それとも、病気を持って、早く亡くなるということが、大切な役目をはたすことになるのかなあ」 かおるちゃんは自分の命の意味を、自分の生きている意味を知りたいと言いました。 そんな時、私はきまって黙ってしまうのでした。けれどかおるちゃんは私にどんな答えを求めていたのかしらと、とても気になって、ある日「さっきの話だけど、人の命の長さの……」と切り出したことがありました。かおるちゃんは笑って「なあんだ、まだ気にしていたの。あのね、人の命の長さなんて、他の人と比較してもなんにもならないよね。私はどれだけ一所懸命生きたか。どれだけ、命に対して誠実であったかということだと思うよ」と言いました。かおるちゃんは、時には迷いながら、時には疑いながらも、命に対しての答えを持っていてそれを自分に言聞かせているんだと思いました。 かおるちゃんは、病気を持っているから、体が動きにくいからって言い訳するのは嫌いなんだとも言っていました。だから、絵を描くことも人と関わることもとても積極的でした。 そんなかおるちゃんがある日、「ねえ、人を愛するってせつないね」と言いました。中庭に一人いたかおるちゃんを見つけて、かおるちゃんのそばに言った時、その声があんまり静かだったのと、その言葉がとても唐突だったので、私は聞き違いだったかなと思ったくらいでした。枯葉が風で私のあとをついてくるように舞っていました。私はその時の情景を今でも時々夢にみます。 その何ヵ月か後、かおるちゃんは筋ジストロフィの患者さんがたくさんおいでる病院に転院しました。そして、その後、かおるちゃんに会うことができないまま、かおるちゃんが亡くなったという報せをもらいました。「人を愛するってせつないね」私は今でもふとこの言葉をつぶやいてしまうのです。
2006/05/26
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フランス料理やさん錦城養護学校にいたときのお話です。 作業で作った製品の売り上げの一部で一年に一度、打ち上げ会をします。今年はボーリングの後、片山津のラウィーブというフランス料理やさんへ出かけました。一年の作業の売り上げと言っても、それほど多い額ではありません。まして、その一部となると本当にわずかな額ですが、それでも、その額でなんとか子どもたちにコースのお料理を用意していただけないかというあつかましいお願いを、前もっておそるおそるしてあったのです。店長さんはすぐに、「いいですよ。お待ちしています」とお返事をしてくださいました。私たちはそれから、「もう一週間でフランス料理だね」「いよいよあと三日だね」とそれはそれは今日の日が来るのを心待ちにしていました。 お店の前には、とてもおしゃれな雪だるまが私たちを出迎えてくれました。目はワインのコルクの栓でできていました。頭には、エーゲ海のお日さまを思わせるような(フランスはエーゲ海に近いのかどうか、地理が驚異的ににがてな私にはわかりませんが)大きなメダルのようなものが取り付けてありました。もうそれだけで、まりちゃんや私はうれしくてなりません。ドアには、「ランチタイムは貸切になっています」という札がかけられてありました。 どきどきしてドアをあけるとそこには、とてもやさしそうな男の方が二人と、女の方が一人、私たちを待っていて下さいました。「貸切にしましたので、遠慮なさらずにごゆっくりどうぞ」という声に、十五人という大人数で押し掛けて申し訳ないような、それでいて、こんなふうに私たちがゆっくりできるようにと考えてくださったことがとてもうれしかったです。 テーブルはもうすてきなセッティングがされていました。そして、驚いたことに一人ひとりのところに、お店の方からのとてもおしゃれなお手紙がおかれてあったのです。 「錦城養護学校のみなさん。今日は来てくださってありがとうございます。私たちはこの日がくるのを楽しみにまだかまだかと待っていました。一所懸命用意をして待っていました。フランス料理といっても、かたくるしくしないで、楽しく食べてください。みんなで楽しく食べるととてもおいしいですものね。楽しく食べてくれると、おにいさんもおねえさんもとてもうれしいです。みんなもいつか働いてお金がもらえるようになったら、おお友達や家族の方をつれて来てください。それまで、私たちはがんばってもっとおいしいお料理を作れるように勉強します」それから、今日のメニューが英語で書かれてあって、その次に、それらひとつひとつが絵で描かれてありました。コースのお料理は私たちが考えていた額ではとうてい食べられそうにないような気がして、金額を伝え間違えていたんだったらどうしようと心配になるくらいのものでした。 横の席にいたみきちゃんやまりちゃんに「私、お手紙読むね」と言いながらそのお手紙を読みだしたのですが、途中で胸がつまって困りました。電話で予約させていただいた私たちのために、こんなに丁寧で、心のこもったお手紙を一人ひとりの席に用意してくださったこと、おそらくはドアの前の雪だるまもそのひとつだったのだとわかりました。お手紙の中の「まだかまだかと待っていました」ということは、手紙だけでなくて、本当にそうなのだわと思いました。 それから、私たちがフランス料理だからとかたくなって楽しく食べられないといけないと配慮してくださったこともうれしかったです。だってもし、(「あつ、あんな食べ方してる」って思われたらどうしよう)って考えたら、緊張して本当においしく楽しく食べられないものね。 それから、前に電話で店長さんに、「働いて給料をもらうということの意味を知りたいということもあって、毎年、楽しい会を持っているのです」とお話したことも大事に思ってくださったのだと思います。それで「お金をもらえるようになったら……」ということを書いてくださったのかもしれないなあと思うのです。子どもたちは私たちが「働くということはね」なんて話すより、ずっと自然にそのことを感じとったようでした。松崎くんは「これはお母さんが好きそうだし、これはお父さんがうまいって言うだろうな。いつか、二人をつれてきてあげよう」と言っていました。こんなうれしいことばを松崎くんが言ってくれたのも、お店の方が、私たちはいつも押しつけて話してしまうけれどそうではなく、やさしく教えてくださったおかげだなあと感じました。それから、私たち(子どもたち)は普段よく「がんばってね」って言っていただくのですけど、いつもがんばっている子どもたちにはそのことばが少し「重いな」って感じられることがあるのです。今日のようにお店の方が「私たち、もっとがんばって勉強します」と言っていただいたことは初めてのことでした。がんばってねという言葉はおそらくたいていの時、自分より、目下の人に(つらいこともあるだろうけど)がんばってねと言うことが多いのじゃないかなって思うのです。でも、きっとお店の方々が私たちを自分と同じ場所いると考えてくださったから言ってくださったんだ、だからこんなに温かく感じられるんだと思いました。 そのことはお料理が出していただいたあともずっと感じたことでした。お料理の説明をして下さる時にも、「これは、さけというお魚をすりつぶして、生クリームを加え、ムース状にしたものです」「パンはバターだけでなく、お料理のソースをつけて召し上がっていただいてもいいですよ」というふうに、私たちだけではなく、子どもたちに対しても(子どもだからとか、養護学校の子だからなんて少しも思わずに)一人の人間として、大人に対する時と同じように大切に誠実に向き合って言ってくださってることをしみじみと感じたのです。それはきっと今日だけではなく、いつもそういう姿勢でいらっしゃるのだなあと思いました。 先日、他の所へ校外学習へ出かけたときのことでした。とても親切な方でしたが、子どもたちと私たちが話をしているのを聞かれて、「養護学校の子か、見ただけやったら、なあーーんわからん。どこがおかしいのか、わからんわ。そこの男の子なんか、りっぱやがいね。普通に見えるわ。ね、僕?」と私たちに話かけてくださったたのです。私たちはそんな時、とっさにどう返事をしていいのかわからなくなります。子どもたちは黙って下をむいたり、逃げるようにして、他の部屋に行こうとしているのがわかりました。(僕たちは普通じゃないのか。養護学校に行く子はおかしい子なのか)と自分たちが分けられた言い方をされたのを感じたのでしょう。悲しい顔をしていました。短い関わりの時間にどれほどのことを言ったらいいのか、まして、子どもたちが聞いている中、どう話したらよいのかわからず、やっとのことで、「みんな明るくて元気な子たちです。いつもいろいろなことを一所懸命勉強しています」とそんな返事でいいのか悪いのか、答えました。でも、子どもたちは私の答えを聞いてほっとした顔をしてくれました。 ラウィーブの方は子どもたちに積極的に質問したり話かけることはなさらなかったけど、今日はそのことがまた、私たちを大切に考えてくださっているように感じられたのでした。 帰りにはきれいに包装したチューリップの花を一輪ずつ下さって、「またお越しください」とドアの外まで送ってくださいました。子どもたちが地域で生きていくときに、今日のような温かい関係が子どもたちをどんなに温かくほっとした気持ちにさせてくれるかということを、きっとお店に方のご好意で、オードブルから、スープ、お魚のお料理、お肉のお料理、サラダ、お口直しのデザード、手作りのケーキ、コーヒまで、経費いじょうのお料理をいただきながらしみじみと思いました。
2006/05/25
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みっちゃんの話みっちゃんからの年賀状が今年も届きました。みっちゃんのことを思い出すだけで、わたしの心の中はいつも温かくなります。みっちゃんが私の心の中のどこかにいつも住んでいるというだけで、私は心に宝物を持っているという気持ちになります。みっちゃんには素敵な力があると思います。魔法の力かもしれない。みっちゃんを思い出すたびに、いったい何度明るい、そしてやさしい気持ちになれたことでしょう。悲しいことがあったとき、つらいことがあったとき、こっそりみっちゃんの口癖を口にするだけで、わたしの心がもしどんなに暗くて重い暗闇の中にあったとしても、小さな温かいあかりが灯るのがわかりました。 みっちゃんは地域の小学校から中学一年生のときに転校してきました。とても手が器用で、編み物や縫い物をさっと覚えてしまい、浴衣を塗ったり、毛糸で編み込み模様のみごとなカーディガンやセーターをたくさん編んでくれました。 みっちゃんは最初に会ったときから、とてもおしゃべりの楽しい女の子でした。「先生美容院どこで髪切った?」そのときみっちゃんは美容院にすごく興味があったのだと思います。わたしたちの誰かが、ちょっと前髪を切りそろえただけで、他の誰も気がつかないくらいであったとしても、みっちゃんは朝玄関で待っている私たちのことをさっと見て、すぐそのことに気がつくのです。そして一度美容院の名前を言ったら、絶対に忘れないでいてくれて、今度紙を切ったときには「モアB2か?」(私が行っていた美容院の名前)って聞くのです。「今日は違うの」というと「金沢か?」ってもうとても興味津々なのです。でも「みっちゃんはどこで髪を切るの?」「どんな髪型が好き?」なんてこちらから質問すると、みっちゃんはふーーと離れていってしまいます。みっちゃんは聞きたいことはたくさんあるんだけど、質問されるのはあんまり好きではないのかもしれません。でもみっちゃんにとって大切な質問のときは様子が違います。みっちゃんはたいていお母さんに髪を切ってもらっていたのですが、すっかりそのことを忘れていました。私が美容院に行った次の日、みっちゃんが「みっちゃんの髪長いか?」と私に聞くので、「みっちゃんもとこやさんに行きたいの?」と尋ねると、みっちゃんは私の顔のすぐ前まで近づいてきて、「違う、び、よ、う、い、ん」とゆっくりひとつひとつ区切ってさとすようにお話してくれました。床屋さんじゃなくて美容院へ行きたいというのは女の子らしくてすごく可愛いです。みっちゃんが美容院のことをものすごく気にするのは、お母さんはすごく髪を切るのが上手なんですけど、みっちゃんはたまには美容院に行きたかったのかもしれません。私も小さい頃、りかちゃん人形の洋服をいつもいつも母が作ってくれていたのが、今はこんなにうれしいのに、そのときは寂しくて、たまにはお店で買ったりかちゃんの服がいいなあ、とか、私とりかちゃん人形の洋服がおそろいなんてつまらないって思っていたことがありましたもの。 みっちゃんはとても知りたいという気持ちが強いので、たくさん質問してときに叱られてしまうことがありました。 みっちゃんは自転車が大好きです。でもぴゅーっと遠くまで出かけてしまって、なかなか帰ってこないことがあるので、お母さんもお父さんもそのことをとても心配しておられました。車がたくさんたくさん通る道でも、みっちゃんは平気で通っていってしまうし、夜遅くても帰らないこともあるので、お家の方の心配は本当に大きかったのです。 ある日、自転車がパンクしたのです。お家の方はこれを機会に、みっちゃんの自転車のりを少しお休みさせたいなと思われました。それで「みっちゃんが太ってる間は、自転車にのれないよ。自転車が可哀想。なおってもまたパンクしちゃうからね。やせたらね」ってお話されたのでした。それからはみっちゃんは自転車のことがとても知りたくなりました。「何キロ(グラム)になったらみっちゃん自転車乗れる?」「太っとると、自転車だめなんか?」「先生のおうちの自転車何色や?」「先生のおうちの自転車、ナショナルか?」・・私が自転車に乗れないのを知ると「先生、やせとるのに、自転車だめなんか?」って何度も尋ねてくれました。 ある日、学校に視察に来られた男の人はでっぷりとした体格の方でした。みっちゃんはすぐにその方のところへ飛んでいって、「おうちに自転車あるか?」と聞いていました。「ある」というお返事をもらうとみっちゃんはすかさず「おっちゃん、デブじゃないか?」と聞きました。その方は急に自分のことを「デブじゃないか」と聞かれて、そして現実に太っておられたので、どうしていいかわからなかったと思います。みっちゃんは担任の先生に「みちよぉー」って大きな声で叱られていました。私はみっちゃんの自転車にたいする思いを知っていたので、そんなときもみっちゃんがすごくいとおしいです。きっと担任の先生も本当は同じ気持ちだと思います。 みっちゃんの同級生のみかちゃんが学校に来ていたのに、そのひの夜に急に亡くなりました。みっちゃんは、人の死というものや、お葬式やお墓のことで知りたいことがいっぱいできたようでした。「先生どこのお墓はいるんや?」「お葬式の写真、みっちゃんいいの撮る(前に飾る写真)」・・・そんなふうにたくさんの質問をしていました。みかちゃんのお母さんが、お葬式のあと、初めて学校に挨拶に来られたとき、みっちゃんはみかちゃんのおかあさんに「みかちゃんのお墓、星山石材か?」と聞いていました。そのときもみっちゃんは担任の先生にあわてて「みちよぉー」と叱られていたようでした。私も、すごく興味があるもののときはなんでも聞きたくて聞きたくてしかたがなくなります。この間も、私の家に住んでいる人の調査に来られたおまわりさんの腰にさげたピストルがすごく気になって、帰り際「あの、おまわりさん、そのピストル本物ですか?」って聞いて、すごくお巡りさんに笑われたところです。だからおんなじですよね。 こんなこともありました。みっちゃんは食べるのが大好きです。お菓子が大好きで、たくさんあるときはびっくりするほどのスピードで食べることができるのですけど、給食などで決まった量しかないときの好きなものは、とても大事だから超ゆっくりスピードでそれを食べるのです。ケーキが出たとき、なめるくらいゆっくり食べていたら、あまりの遅さに、担任の先生に「みちよ、そんなにゆっくり食べていたら、口の中でうんこになるぞ」って言われてしまったのです。みっちゃんのうしろっかわで給食を食べていた私の方を振り返って、みっちゃんはべーと下を出して「うんこになったか?」って心配そうに聞きました。私は、そんなふうにみっちゃんのそばにいるのが本当にうれしかったです。 みっちゃんはそんなふうにして時々叱られていました。でも、何について叱られているのかわからなくなることがありました。みっちゃんはなんだっていつも一所懸命です。謝るときだって一所懸命あやまります。「もうしません」「ごめんなさい」「もうしたらだめなんやって」「もうだめだからしません」とずうっと何度も謝ります。叱られたとき、みっちゃんはそのことをたぶん悪いって思わないことも多いから(だってみっちゃんにとってすごく知りたいこととかしたいことっていうだけのことだったりもするのですもの)何について叱られてるんだっけて思うのだと思うのです。そのまま「ごめんなさい」で終わったらいいんだろうけど、だけどいったい何について謝ってるのかみっちゃんも心配になるのでしょう。「もうしません」「もうしたらだめなんやって」のすぐあとに「なんや?」って言ってしまうのです。「もうしません」「なんや」って言われると、叱ってる先生も拍子抜けしてしまって、でも先生はわかってほしいと思われるから、またもう一回すごく叱られてしまうのです。わたしはそんなみっちゃんが大好きでした。家へ帰ってからも、みっちゃんの口癖の「もうしません」「もう悪いことしません」「なんや」っていうのを一人でつぶやいて、みっちゃん大好きって言葉を抱きしめたりします。 みっちゃんのことが大好きなのは、私一人ではありません。みっちゃんのふっくらした腕や、みっちゃんの物言いが可愛くて、つい他の先生もからかってしまうのです。「みっちゃんの手、ちょっと噛んでいい?」みっちゃんはもちろんすぐに走って逃げて行きます。みっちゃんは熱いの大嫌いだから、火のそばもきらいです。痛いの大嫌いだから、歯医者さんはいきません。恐いの大嫌いだから、犬のそばにもいきません。一度ベルトのバシンという音を聞いてからは、ベルトをしてるだけで、みっちゃんに嫌われてしまうくらいなのです。「痛いの嫌なんやって」「痛いの恐いからだめなんやって」って言いながら、すぐにいなくなってしまいます。 みかちゃんが亡くなったとき、私は自分で悲しい気持ちをどうしたらいいのかわからなくなりました。子供たちの前なのに、立っていられないくらい悲しくて、その悲しみをなかなか受け止めることができずにいました。そんなとき、私のそばにずっと立っていて気がつくとどこへもいかずにいてくれたみっちゃんは私にそっと言いました。「山元先生、みっちゃんの手、ちょっと噛むか?」みっちゃんはもしかしたら噛まれて恐くなったとしても、痛くなったとしても、私を元気にしてあげたいと思ってくれたのだと思います。私は今度はみっちゃんのやさしさに胸がいっぱいになって、みっちゃんを抱きしめました。それから痛くないほどみっちゃんの手をちょっとだけ噛みました。そしたら、悲しい気持ちがなおっていったようでした。
2006/05/24
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いじめられていたよ 安井くんが、ある日、「僕、ずっといじめられていたよ」と私に言いました。「どうして安井くんはいじめられなくてはならなかったの?」と、私達はもう、なんでも話し合えるようになっていたので、尋ねました。 安井くんは「僕、勉強できなかったからね」と言いました。安井くんは、ひらかなのちいさい《っ》の字の使い方や、《を》の字がにがてだったり、計算がにがてだったりということはあります。でもこんなに作業も上手だし、なによりとてもやさしいし、とても頼りになるなあと助けられてばかりの私はそう思います。「だのに、いったいどうして?」と、もう一度たずねると、安井くんは「テストの点がよくないといじめられるんだよ」と言いました。 どうして、そんなことでいじめられちゃうんだろうと、私はその日ずっと考えていました。 そして、自分が小学校の教員をしていた時のことを思い出しました。私はたくさん日記を書いてきてくれるということが、うれしかったのです。ドリルをいっぱいしてきてくれる子をすごいなあと思っていたのです。だから、そんな時はみんなの前で、「がんばったねぇ」とうーんと誉めたような気がします。でもそれって、もしかしたら間違ってたかもしれないなって思います。 字を書くのがにがてで、どうしても日記が進まない子はどんな思いでいたでしょうか。どうしても問題を解くのがにがてで、一枚ドリルをするのにとても時間がかかって、それでも一所懸命にドリルをしてきた子はどんな気持ちでいたでしょう。 日記やドリルをたくさん書いた子だけを取り上げることで、日記をたくさん書く子がいい子、ドリルをたくさんできる子はすごい子、反対にドリルや日記があまり書けない子は駄目な子、という意識をいつのまにか子供たちに植えつけることにはならなかったでしょうか。 そしてそういうことが続けば、それが子供たちのいじめにつながらないとだれが言えるでしょう。それなのに私はその時に特別のご褒美シールまであげてしまっていたのです。 誉めることが駄目なことだとは決して思いません。日記やドリルをたくさんしてきた子には「頑張ったね」と私のうれしい気持ちを告げればよかったのです。でも、私は、どうして笑顔のとても素敵な子、元気に遊べる子、釣りのうまい子、虫の名前をたくさん知っている子、足の小指の形がすてきな子を、テストでいい点をとれた子と同じように「すてきなことだよ」と、みんなの前で認めることをしなかったのでしょうか。 みんな、いろいろすてきなところがあって、いろんな所で同じように「素敵だよ」と言ってもらえたら、きっと子供たちは(勉強できる子がいい子、できない子が駄目な子)という思いを持たずにすんだと思うのです。クラスの一人一人が、お互いにすごいなと、認めあうことができたと思うのです。 学校は、勉強だけでなくて思いやりのある豊かな心を育てるところであるべきなのに、実は私たちこそが、子供たちにわける心や偏見を植えつけてしまっているのではないでしょうか。 いじめをした子に「どうしていじめたの」と責めてばかりいる私たち。でも本当に間違っていたのは、子供たち一人ひとりの存在を認めず、大事にしてこなかった自分たちなのじゃないかな、と思います。
2006/05/23
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僕「植物人間」と言われていた以前、お名前は忘れてしまったのですが、医王養護学校の重心に勤務しておられた先生のお話で、病院におられる「植物人間」と思われているお子さんに医療機器をつけて、病院内をストレッチャーで散歩したり、外を散歩していると、あきらかに子供さんの心拍数や呼吸の様子が違うことがわかるということがありました。それでその先生はどんなに障害が重くても、外の風や外の雰囲気は子供さんに影響を与えていると思うと言っておられました。私もきっとそうに違いないと思うのです。「息をしているだけ」などと言われている方だってみんあ同じように気持ちをもっておられて、ただそれを伝える方法がご本人や、周りの人にみつけられないだけなのではないだろうかと思うのです。昔知り合った友達がこんなふうに教えてくれました。「僕は暴走族やってて、バイクでけがをして、下半身不随になってしまったのだけど、事故の後、長い間、植物人間やったんや。でも本当は植物人間じゃなくて、栄養も鼻からいれとったけど、いろいろわかっとったんや。あれが食べたいとかも思ったし、寝ているときも多かったけど、目をつぶっていてもおきていることも多かった。『何もわからんようになってしもうて』とか言われて、中には高校の教師でお見舞いにきて『こんな体になってしまって、分からんことが幸せかもしれん』て言うたやつがおって、本当に傷ついた。前の暴走族のときの仲間が来て『俺なあ、族をやめるわ。妹さんや母さんや、父さんが事故のことでこんなに悲しんで泣いとるのを見たら、俺もいつ事故るかわからんし、親孝行はできんけど、悲しませんようにならできると思ったんや。おまえのおかげでそう思えたんや。もう無茶やっとられんしな』って僕の枕元でしみじみ言うてくれたとき、僕が聞いてるってわかって話してくれてるんや、そうや、やめたほうがいいと本当にうれしかった。僕の親友はこいつやと思ったよ。な、先生。寝てるだけど言われている人もみんないろんなこと考えているんやわ。先生、絶対にそのことを忘れんといてな」そして「暴走族って呼ばれている連中もいいやつばっかりなんやから、高校の先生にもしなることがあったら、そのことも忘れたらいかんよ」と言いました。それからこんなこともありました。病院の付属の学校にいたとき、肺炎でかつぎこまれた小さな女の子が意識不明になり、それを乗り越えたとき、「眠ったまま息をしているだけ」の状態になり、個室からようやく大部屋へうつってこられたときも、そばについておられたお母さんは毎日ただ泣いてばかりでした。学校へ通っている子供たちと同じ病室だったので、しょっちゅうその部屋に出入りしていた私は、何も言ってあげられず、つらい気持ちでしたが、毎日いると女の子の様子で気がついたことがあったのです。女の子の目はいつも遠いところを見ているようでしたが、それでもお母さんがそばについておられる時と、そこからお母さんが離れていこうとされるときの女の子の目の様子が、どうお話ししたらいいのかわからないのだけど、違うように思えたのです。お母さんにお話するとそんなはずはないとおっしゃいましたが、毎日のことでしたので、それは間違いのないことのように思われました。食事はチューブで鼻から入れていたのですが、看護婦さんにお願いして、口にちょっと味見だけと言って、コンソメのスープを入れると、女の子の目はあきらかにうれしそうでした。お母さんはとてもよろこばれたし、女の子もきっととても嬉しかったと思います。お母さんは私に、「泣いてばかりいて、この子に話しかけることを、この子を見つめることを忘れていました。この子が死んでしまったほうが幸せだったのかも・・・などと、この子のこと、そしてある日は、自分の将来のことを考えて、そう思ってしまっていました、でも、もう泣くのは少しだけにします」とおっしゃいました。女の子は3ヶ月くらいでどんどん表情が出てくるようになりました。もしお母さんが「女の子に話しかけるのを忘れてたけど、今日からは一緒に気持ちをお互い伝え合っていきます」と決心なさらなかったら、今の女の子の状態はなかっただろうなと、本当に素晴らしいお母さんの力を思いました。私たちはすぐに目に見えるだけで判断してしまったり、思いこんでしまったりするけれど、その多くはまちがいだと気がつきます。目に見えないところに、心の言葉があり、それを伝えたいという気持ちと、それを聞き取りたいという気持ちが重なって、お互いが大好きどうしになれた時にこそ、心の言葉は伝えられるのだと思います。
2006/05/22
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剛くんのこと剛くんと一緒にいて、自分の中でどう考えたらいいのだろうかと思うことがひとつありました。それは、車椅子のブレーキのことです。車椅子は坂道などでころげていかないように、どれにもブレーキがついています。そのブレーキもさまざまな作りになっているのですが、剛くんのブレーキは剛くん自身はブレーキをかけたりはずしたりすることができないタイプものでした。このタイプは介護者が後ろからペダルを上げ下げすることのみで操作するようになっています。この車椅子は、乗っている人の気持ちで、ブレーキをかけたりはずしたりということができにくいので、実際に、動きたいという気持ちがあっても、またそこにはいたくないんだという強い気持ちがあったとしても、自分ではどうにもならない状態で、その場所に拘束されてしまうということがあると思います。剛くんはとても元気です。それから少々無鉄砲な面もあります。それゆえに今まで何度も大きな怪我をしてきました。たとえば十分に手が足りない状況では、剛くんの安全を守るために、後ろブレーキをかけておくということはとても大切なことでもあるのだと思います。それでも私はこの後ろブレーキをすんなりと心に受け止めることができませんでした。なにかものを考えるとき、どうしても自分に置き換えてしか物事を考えられないのですが、私が、どこかへ行きたくても行けない状況、そこにいたくなくてもいさせられる状況というのは、私にとってそれはひもでほどけないようにしばられていたり、鍵を外からかけられていたり、もっといえば足に足かせをかけられている状況とほとんど変わらないのではないかという迷いが私の中にはあったからです。もうひとつの思いは、この後ろブレーキは本当に安全のためだけかということでした。剛くんは動くのが大好きです。けれど、この授業のときは、どうしても教室にいてほしいとか、集会はもし嫌だとしても参加してほしいというときに、私はこの後ろブレーキを何も考えずに使っていました。そこにいて欲しいなら、まず「この時間はそこにいてね」と頼むべきなのに、それもせずに、まるで、車椅子を止めたらまずブレーキをかけておくのが規則なのだとでもいうように、この後ろブレーキをかけてしまっていたのです。そこには剛くんと気持ちを通わせたいという思いがあるといいながら片方では、こんなふうにこちらの気持ちをきちんと伝えることすらせずに後ろブレーキをかけてしまっているとても勝手な自分がありました。学校では教員と生徒はほとんど一対一の関係でいることができます。後ろブレーキは、剛くんの命を守るために、とても必要なものだとしても、学校ではそばにいる自分が十分に気をつけていられたら、ブレーキはそれほど必要ではないかもしれないのです。学校では自分でかけはずしのできる前ブレーキの車椅子に乗り換えるということは実際的でないので、できるだけ後ろブレーキは使わないでいてみようと考えました。後ろブレーキをやめた最初の日、「剛くん、今日はブレーキはかけないけれど、できたら集会にはいてほしいの」そう言ってからそばにいてとても驚くことがありました。剛くんは集会の間、何度か、車椅子を動かそうと手を車椅子のガイドのところへもっていくのですが、自分からすぐにやめてまたひざの上に手をもどすのです。それは集会の時はここにいるんだ、みんなといるし、集会にも出るんだという剛くん自身の気持ちのように私には感じられました。集会のときに、今月の月予定を貼る仕事をしてから席にもどるときのことでした。「剛くん、そのまま後ろ向きに下がってね」と手で合図をしたとき、(剛くんは難聴でほとんど聞こえていないと言われていますが、実際はそうじゃないように思います。)剛くんはガイドをもって、車椅子をゆっくりさげて、もとの場所で、ぴったりと止まったのです。私はそれをみて、自分をとても恥ずかしく思いました。剛くんのことを何も知らず、剛くんはいろいろなことがむつかしいんだと勝手に決めつけていたのだということがわかったからです。剛くんは、自分の気持ちで、ここにいて、私の気持ちをくんで、後ろに下がって、自分のもといたところで止まっているのです。今こんなに驚いているのは私が剛くんにはできないだろうと思いながら頼んだのだからなのだと思いました。きっと剛くんにとってはうんと前から持っていた力で、当たり前のことなのでしょう。それなのに、いつも車椅子を押して、決められたところで、止め、後ろブレーキをかけて動かないようにしている私に何も文句も言わないで剛くんは私といてくれるのだなあと思いました。剛くんは本当はこんなに大きな力を持っているのです。何度、剛くんの大きな力を知っていっても、私は繰り返し間違いばかりしてしまいます。学習発表会で、剛くんはチビぎつねの役ををしていました。お母さんぎつねの私はいつも剛くんと一緒に出ていたのですが、私はそのとき、剛くんはストーリーを理解することはむずかしいから、今できることを観客の方々に見ていただければいいと思っていました。それで、それまでよく練習をしていた、洋服を着ること、ボール(雪玉)をなげること、お金をおにいちゃんぎつねに手渡すこと、おにいちゃんを見送るときに手をふることを見ていただこうと思っていたのです。そしてその動作は、ストーリーを追っておこなわれるのではなく、その場面場面で、雪玉やセーターやお金を渡すことが合図になっておこなわれればいいと思っていました。そして手をふるときも私の手を振るのよという合図でおこなわれればいいと思っていたのです。剛くんはステージの上でも後ろブレーキをかけないでも、動いてねと行ったところだけ動いて、あとは待っていてくれました。後ろブレーキをかけておかないとステージから落ちてしまうのじゃないかという心配はぜんぜんいりませんでした。けれど、剛くんがストーリーを追ったり、劇中の人物になって演じるということは考えもしていなかったのです。でも剛くんは本当は、いつも劇中の人物の心になって、劇を演じていたのでした。本番になって、お金を渡した後、剛くんが手を振るシーンです。振り返って剛くんに手を振るんだよとつげようとしたときに、そこにはおにいちゃんぎつねに向かって一所懸命手を振る剛くんの姿があったのです。私は剛くんがストーリーを追うことなんてできっこないと思いこんでいたので、とても驚きました。その後、お兄ちゃんぎつねが無事に戻ってきた感動的な場面で、不安げな役を演じている私をやさしくなぜてくれている剛くんがまた涙を流していたのです。総練習の時にも同じ場面で剛くんは泣いていました。私はステージの上が暑かったのかしらと考えていたのです。練習の時にも一度同じ場面で泣いていました。私はそのときも、練習が嫌なのかしらと考えていたのです。でも本番の涙を見たときに、剛くんはチビぎつねの気持ちになって泣いているんだとはっきりと分かった気がしました。それからも剛くんはたくさんの力を私にみせてくれました。学習発表会のパイプいすを運ぶという仕事が高等部にはありました。私は今まで剛くんは重いものはぽんと車椅子から放りなげてしまうと思いこんでいたのです。けれど、これをこうやってもって運んでねと剛くんにたのむと何度もうれしそうに運んでくれました。ここでも自分の気持ちをきちんと伝えることをせずに、剛くんはできないんだと決めつけている自分を見ることになりました。今、剛くんと私はとても楽しくてうれしい関係にあるなと感じています。それは後ろブレーキをかけないで剛くんといようとしている私の気持ちをくもうとしている剛くんの大きなやさしさの力なのだと思います。毎日の生活で、私が、本当のことを見ずに、決めつけて、押しつけてしまっていることのなんと多いことでしょう。剛くんと私の関係において、後ろブレーキのことを考えることがとても大きなことだったのだと思うのです。
2006/05/21
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みかちゃんの話みかちゃんが亡くなりました。亡くなったその日も、みかちゃんは変わらず登校していたので、知らせを受けても、すぐには、亡くなったという事実をうけとめることができませんでした。思えば、愛をいつもいっぱいいっぱい感じていたいという思いであふれていて、それから心の中が、何かの原因で、(もしかしたら、原因さえもみかちゃん自身はっきりしないのかもしれませんが・・)不安になり、自分の頬を何度も繰り返し強く殴ったり、大きな机をひっくりかえしたり、時にはそばにいる人の髪を引っ張ってしまってでも、どうにかしてその不安から抜け出ようと、いつも戦っていたみかちゃんでした。みかちゃんのその行動は、自分の不安を打ち消すためのみかちゃんの持つ大きな力であると共に不安との戦いだったと思います。そして又、それは、私達まわりにいるものに対しての「助けて」という叫びだったようにも私は思えるのです。みかちゃんの行動はどうしても、誤解を生みやすかったと思います。「もっともっと愛して、私を不安から救い出して。」という気持ちから起こる行動なのに、私達は、すぐに《どうしたら、みかちゃんの不安を打ち消すことができるか。》ということを考えずに、《どうしたら、みかちゃんは髪を引っ張らなくなるだろう。机をひっくりかえさなくなるだろう。》と考えてしまうのです。それで、「みかちゃん、だめでしょ。」ときつく言ったり、時には、髪を引っ張られないようにと、みかちゃんから逃げてしまったりということになってしまったのではないかと思います。いつも愛をいっぱい感じていたい、みかちゃんにとって、それはどんなにつらいことだったでしょうか。かえって不安を大きくしていたに違いありません。みかちゃんが、あんなに一生懸命生きて、戦って、助けを求めていたのに・・みかちゃんは昨年の冬、体調が長い間すぐれませんでした。高い熱が続き、みかちゃんの心の不安がとても大きくなっていました。みかちゃんは不安をなんとかしたくて、顔をたたくので、顔が紫色に腫れ、皮膚がやぶれて、大きな血の固まりで顔半分がおおわれました。目もふさがりそうに腫れていました。このままでは失明してしまうのではないかと思ったくらいでした。直接みかちゃんを担当していなかった私は、みかちゃんが大好きだったからなおさらみかちゃんのつらそうな様子に出会うと涙が出てしまって、同僚から、「そんなに泣いてしまうのなら、そばに行かないほうがいいよ。」と言われてしまうほどでした。高い熱があまり続いたので、みかちゃんはお母さんの付き添いで病院に入院しました。みかちゃんの不安との戦いがあまりに大きかったので、入院した部屋は、外から鍵がかけられ、窓もとても小さい部屋でした。トイレも中にあって、一日中その部屋から出ることができない状態でした。入院と聞いてお見舞いに出かけ、職員の方に鍵を開けていただいて、中に入ると、又すぐに外から鍵がかけられました。テレビも何もないその中で、お母さんは、髪をタオルでしっかりとおおい、みかちゃんをおふとんの中でしっかりと抱き締めておいでたのです。お母さんは「こんな姿でごめんなさい。みかが髪をひっぱりたがるので・・」とおっしゃいました。私は、みかちゃんが私たちに求めていたのはこういうことだったのだと思いました。みかちゃんを叱るのではなく、みかちゃんから逃げるのでもなく、みかちゃんとしっかり向き合い、髪にタオルをまいて、みかちゃんをしっかりと抱き締めて「大丈夫だから、お母さんがそばにいるからね。」ときっとお母さんは言い続けておいでたのだと思います。私はお母さんがしておいでることに感動しました。そして(私にお母さんのようなことができるだろうか。)と考えていました。閉じられた中でテレビもない空間で、時間がこんなにもゆっくりすぎる空間で、朝を迎え、夜を迎え、また朝を迎え・・お母さんはもう十日もこうしておいでたのです。でもお母さんはおっしゃいました。「いつも淋しい思いをさせているけれど、病院に入っている間は、みかのことだけを考えて、相手ができるし、こんなにたくさん抱き締めてもやれるから、何も大変なことはないですよ。これは神様が私に与えて下さった時間だと思います。」そして、お母さんはみかちゃんのつらい思いを考えては涙されておいでました。私はみかちゃんのお母さんは、みかちゃんの体を抱き締めながら、本当はみかちゃんの心をしっかりと抱き締めておいでたのだと思いました。お通夜の席で、「いつもいつも心にかけて下さって、みかを可愛がってくださってありがとうございました。」とみかちゃんのお母さんはおっしゃいました。私は、悔やまれて悔やまれてなりません。みかちゃんは、あんなに手をのばして、私を呼んでくれたのに、私はみかちゃんの苦しみを知りながら、何も、何もできませんでした。みかちゃんは高校二年生で亡くなるというあまりに短い一生だったけれど、みかちゃんの教えてくれたことは何て大きかったのだろうと思います。人間のもつ力はなんと素晴らしいのでしょう。自分の心の不安をなんとか自分でたてなおそうとするのです。そして、それをまわりにいる人たちが理解してさえいれば、きっといつかその不安に打ち勝ってたちあがることができるのです。みかちゃんは、そんな時、天使を思わせるような可愛い優しい顔で、にっこり笑ってくれました。人間と人間は、お母さんがなさったように、きちんと向き合って、そして、お互いを大事に思いながら、誠実な気持ちでお互いがいるべきなのです。なんだか変なことを言うようですが、もし、もし、受け持ちの子供が明日、亡くなってしまうことがあっても、自分はいつもできるかぎりその子供と誠実に向き合っていたと思えるようにしたいと強く思いました。みかちゃんのお父さん、お母さんは、みかちゃんの手足がだんだん紫色になって、お医者さまがもう心臓マッサージをしても無駄だからとおっしゃっても、「生きて、生きて」とマッサージを続けられたそうです。どんなにみかちゃんを可愛く大事に思っておいでたかということを、いまさらながらに感じました。緑のきれいな、みかちゃんの亡くなった五月を、これからむかえる度に、私はかならずみかちゃんのことを思うに違いないと思います。「スキスキして・・」「大事、大事して・・・」というみかちゃんの言葉の大切さを忘れないと思います。
2006/05/19
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あっちゃんの話 入学式の日、教室へ入っていくと、あっちゃんがいました。「僕が今日から、この養護学校の中学部一学年に入学したものです。以後、よろしくお願いします。」という、あっちゃんの丁寧な挨拶に、思わず、「わたしの方こそ、よろしくお願いいたします。」とこちらも丁寧な挨拶を返しました。でもね、私たち、いつも、そんなに紳士、淑女みたいな丁寧な関係だったかというと、時には、そうではありませんでした。 あっちゃんは、いつも身体全体で、いろんな事を感じていました。それは、あっちゃんのとても素敵な力です。、しかし、またそれが、あっちゃんの住む社会や、生活を狭くもしていました。そして、私たちはいつもそのことで、よく言えば気持ちの伝え合いを、悪く言えば、対決をしていまっていたのです。あっちゃんは、たとえば、今、耳にしている音は、全て心にも入ってくるようでした。私は、あっちゃんと違っていっつもぼぉっとしているので、友達と話しているときは、その時、そばでチクタクいっている時計の音も、隣の部屋の声も、みんな全然心には届かずに、友達の声だけを耳にしているように思うのに、あっちゃんは、そうではないようでした。遠くを走る電車の音も、飛行機の音も、遠いところで泣いている、赤ちゃんの泣き声も、水道の音も、私の話し声も、みんなみんな、選ばれずに入ってくるみたいなのです。たから、あっちゃんは、集会が嫌いでした。映画館が嫌いでした。旅行が嫌いでした。 あっちゃんは、今、皮膚に触っているものは、全ていつも感じているようでした。椅子に座っているお尻の感じ、長袖の袖口や、学生服の詰め襟、衿についたタグ、・・いつも感じているようでした。だから、あっちゃんは、袖を折り曲げて着るのを嫌だと言いました。Tシャツのタグはみんな引きちぎってしまいました。 あっちゃんは、味覚においても同じでした。今、味のするものは全て心に届いているようでした。あっちゃんは、自分の舌の味がするから、それを消したいと言って水をしょっちゅう飲みました。水の他は、少しの味の違いを感じて、明治のコーヒー牛乳だけしか最初は飲んでいませんでした。食べるものも、カルビーのポテトチップスだけでした。お母さんが作ってくださるお弁当も、給食もみんな、「不確実な味がする。」と言って食べようとはしませんでした。あっちゃんは、今、目に入っている音がみんな心に届いているようでした。そして、記憶においても、もしかしたら、同じようなことがあるのかもしれません。あっちゃんは、散歩に出掛けて見た一瞬のバスの時刻表を、思い出しながら、正確に書くことができました。新しい部屋の天井に穴がたくさん並んでいる素材が使われていると、その穴がいくつあったかをあとで数えることができました。本当に、あっちゃんの才能は素敵なのです。でも、一度にそんなにたくさんの刺激が入ってくることは、あっちゃんにとって、苦しいことだったんじゃないかとよく思いました。だから、あっちゃんは、決まったものを食べたかったし、決まった道を通りたかったし、そして、静かな場所にいたかったのだと思います。あっちゃんのそんな苦しみがだんだんわかってきていたのに、でも私は、あっちゃんにもっとたくさんのものを食べて欲しかったし、集会でも一緒にいたかった・・映画もいっしょに見たかった、修学旅行も行きたかった・・。 そのことは私の本当に自分勝手な思いで、あっちゃんの苦しみを思うと、そんな勝手なことを思っていいのかどうなのか、わからないのに、私はあっちゃんとしょっちゅう対決をしました。「ねぇ、今日の飲み物は明治のコーヒー牛乳でもいいから、ポテトチップスはカルビーでなくコイケヤにしてくれないかしら。」そんな風な気持ちのぶつけ合いをたくさんしました。私の武器は“こちょこちょ地獄”です。「5・4・3・2・1・0・こちょこちょ」と言葉では、「ねえ一緒に集会でようよ。でないとこちょこちょ地獄しようっと。」と優しいけれど、「いくよ。」というまでされるこちょこちょは拷問のひとつかもしれません。こちょこちょはたたいたりするんじゃないから・・とか、自分から「する。」って言ってからしてくれるんだから、ひきずって無理にさせるより、ずっといい・・とか、お互いに折り合えるように譲り合っているのだから(私は本当は、コーヒー牛乳だってモリナガも飲んで欲しいけど、今回はあきらめる。)と私なりに、自分の正当をなんとか心の中で思いたくて、いろいろ考えていましたが、あんなに嫌がったあっちゃんに本当にしてよかったのかどうかは今でもわかりません。 あっちゃんは、なかなか、こちょこちょ地獄で「まいった」とは言ってくれませんでした。顔を真っ赤にして怒ったり、泣いたりして「嫌だーー。」と言い続けました。そして私の髪をひっぱってたくさん抜いてしまったり、手をブルンブルン振り回したりして、自分の気持ちを伝えていました。私は絶対にたたいたり、怒ったりしないのに、いつまでもあきらめが悪いのです。「どうしてもしてほしいの」と譲れないのです。どんなときでも優しいのはあっちゃんの方でした。そんなに嫌がっていたのに、その内、突然、真っ赤な顔から、すうっと白い顔にもどって平然と「では、そろそろ集会室に行くとしましょうか。」と言いだしてくれるのはあっちゃんでした。そして、その後は、にこにこしながら、私と仲良しになって、腕なんか組みながら、歩いて行って、耳を押さえながらも、ずっと集会室にいるのでした。一度、集会室に行った後は、私といるときは、すんなり集会室に入っていってくれるようになりました。(でもね、不思議なのですけど違う人とだったら、また、怒って顔を赤くするのです。)きっとね、あっちゃんは、私との話し合いがついたと思ってくれていたのかもしれません。だってあっちゃんも私も、一生懸命気持ちを伝え合ったんだもの。 そんな対決を繰り返していくうちに、あっちゃんは、いろいろなものを食べてくれるようになりました。それから、映画も行ってくれるようになりました。あっちゃんはきっとお互いの気持ちを測りあいながら、僕の気持ちもきいてね、あなたの気持ちも聞くからねと考えてくれていったのだと思います。そんな繰り返しが何度もあったことが、私たちにとっては今考えるととても大切だったと思います。そしてそのことがあっちゃん自身の大きな苦しみがあるのにもかかわらず、私のわがままをすべて大きくつつんで、気持ちの伝え合いをしてれたあっちゃんの力なんだと思います。 私が転勤になって他の学校に変わってから、私たちは、県内の養護学校の合同の体育大会で、出会いました。体育館の玄関で、あっちゃんは、顔を真っ赤にさせて、担任の先生に、「僕は出ないことにしています。」と泣きながら怒っていました。私が「あっちゃん。」と小さな声でつぶやいたのがあっちゃんの耳に届きました。そしたらね、あっちゃんは、白い顔になって「山元先生が来てしまったからにはしょうがありませんね。」と言って体育館に入っていったのです。担任の先生が「どんな魔法を使ったのですか。」と言われたけど、私はきっとあっちゃんが今でも、私とかわした約束だから(言葉では約束なんてしていないけど)守らなくっちゃ・・と思ってくれたんだなとうれしくてそして涙が出そうになりました。あっちゃんはよく「なんてわがままで自分勝手なやつだろう」と思われてしまいがちです。でも違うと思います。あっちゃんはあいかわらず聞こえてくるたくさんの音や、刺激にとてもつらくなりまがら、いつも精一杯自分を守ろうとしているのです。そして時には自分の気持ちをコントロールしながら、その日、私にしてくれたように、昔の約束を忘れずに、誠実で、やさしく、相手の気持ちをきちんと思ってくれる人なのです。このことをみんなにお話したいなあと思いました。 それからね、あっちゃんはあっちゃんだから、あっちゃんがたとえば自閉症かそうでないかということはたいして大事なことではないと思うんですけど、「自閉症とは」なんていう本に、「自閉症の子はコマーシャルを好む、耳を押さえることがある、パニックをおこす・・」という風によく書かれているけれど、その本のそこの部分だけを読んで、それが全てのように思い込んでいたとしたら、耳をおさえることも、コマーシャルを好むことも否定的な行動にとして、とらえてしまったり、自閉症だから、耳を押さえるんだなと思ってしまって、それで終わってしまうのではないかしらと思います。もし、一生懸命気持ちを伝えている行動をパニックをおこしたという言葉で片付けていたら、その行動を無視したり、その行動を叱ったりして、気持ちの伝え合いはできないんじゃないかと、あっちゃんに教えてもらって、そう思いました。だって、誰だって、どんなことだって、行動には必ず理由があるのですよね。
2006/05/18
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みつるさんのタイプアート「子供たちの作品展を、私達の住む町でも開きたいのです」とお父さん、お母さんがたが運動をして下さって、実現することが多くなってきました。先週は、小学校の学区の文化祭の一区画で、地域の子供たちと並んで、私達の学校の子供たちの作品展をしていただきました。私は、その作品展を見て、昔のことを思い出しました。短い間に、時代が変わってきているんだとそう思いました。私が教員になる数年前、養護学校が義務制になりました。それまで、学校へ通いたくても通えず、就学猶予になっていた子供たちが学校へ通うようになりました。けれど、地域の学校への受け入れは難しく、子供たちは、遠くの養護学校へ、親元を離れて生活しながら通わなければならないことが多くなりました。みつるさんも長い就学猶予の後、義務制で、福井県から、石川県へ来ていました。その時、高校2年生でしたが、就学猶予が長かったので、年令は私より上でした。みつるさんとは、タイプの時間で一緒でした。タイプについても、何も知らない私は、みつるさんにひとつひとつ教えてもらって、授業をすすめている状態でした。みつるさんがその時に取り組んでいたのは、タイプアートでした。タイプアートとは、和文タイプを打つことで絵を描くもので、繰り返し打ったところは濃い影になり、一度だけ打ったところは光があったったようになります。それはちょうど、細かいクロスステッチ刺繍で描かれた絵のように美しいものでした。みつるさんは「僕は首がまだ座っていないので ……」とよく言いました。生まれるときに仮死で生まれたみつるさんは、首に力を入れることが難しく、いつもお辞儀をしているようにも見えました。手足に麻痺があり、車椅子に乗っていました。みつるさんがタイプを打つことは、優しいことではありませんでした。首がなかなかあがらないので、絵を見ながら打つことができません。えいっと力を入れて、頭をあげた瞬間に絵をさっと見るのです。手の麻痺によって、思ったところへ指を持っていくのも、たいへんな努力が必要でした。そして、タイプアートは失敗が許されないのです。一度間違えて修正液で消すと、絵が汚れますし、修正するために紙を巻き上げてまた下ろすと、場所がずれてしまうのです。だから、とても神経を使います。みつるさんのタイプ打ちは、手が好き勝手に動いてしまうのを、自分の力でどうにか押さえようとしながらタイプを打つので、とても疲れるのだと思います。「少し、休んだらいいのに」とすすめても、みつるさんは汗をかきながら、仕事を続けました。そしてできあがったタイプアートはとても細かく、美しく、私はいつもその作品を、まるで自分が描いたかのように、誇らしく(私はそばにいて、練習していただけなのに)周りの人に「見て、見て」と自慢して歩くのでした。みつるさんは、恥ずかしそうに、でもうれしそうにそんな私を見ていました。ある日、雑誌の中で、タイプアートコンテストの文字をみつけた私は、大急ぎで居室へ行って、「ねえ、これに応募しよう」とみつるさんに言いました。最初は消極的だったみつるさんでしたが、応募の広告に載せられたタイプアートに自分の作品が決して見劣りしないのを知って、「みんなに見てもらうんだから、新しいのを打とうと思う」と言いました。コンクールの締切まで、一ヵ月しかなかったので、みつるさんは、学校から毎日、和文タイプの機械をひざにのせて持ち帰りました。いつもは、遠慮深くて、人になかなかものを頼まないみつるさんが「タイプをひざにのせてほしい」「タイプをおろしてほしい」と介護人さんや、教員にたのんでいるのを見て、私は(みつるさんも、きっと自分の作品をたくさんの人にみてもらいたいんだ)と思いました。もう締切も間近になり、タイプアートはできあがりました。みつるさんは、「自信あるよ」と嬉しそうでした。参観日があって、お父さんとお母さんがいらっしゃってたので、たくさんのタイプアートの作品をお見せしました。数々の作品の中でも、今仕上げたのはとてもいいできだとお父さんがおっしゃたので、「これは、コンテストに出すんです」とお話しました。ところが、私のその言葉を聞いて、お父さんとお母さんは、表情を固くされました。そして、「先生、わしたちは、この子をさらしものにしたくないんです。本当に申し訳ないのだけど、コンクールには出品しないように願います。」と言われました。どうして、コンクールに出すことが《さらしもの》になるのかしら、あんなにみつるさんは一所懸命だったのに、と思わず涙がこぼれ、お父さんやお母さんのお顔をみることができず「ごめんなさい」とその場を逃げるように部屋からでてしまいました。その後、泣いてしまったことを謝らなくてはとみつるさんの居室に出掛けると、もうお父さんとお母さんは帰られたあとでした。みつるさんは「おやじが、『すまんかった、むすめさんに悪いことした、でもわかってほしいと伝えてくれと言ってたよ』」と言いました。(あんなに一所懸命打った、タイプアートを簡単にあきらめてしまうの?)そう思っていた私にみつるさんは、「僕は、おやじを悲しませたくないんだ。だから、あきらめるよ」とそう言って静かに話しだしました。「信じられないかもしれんけど、車椅子なんて、ここにくるまで、ほとんど乗ったことがなかったんだ。いつも畳の上で、ごろごろしとった。外にはほとんど出んかった。僕はかなり大きくなるまで、自分が他の人と違うということに、はっきりとは気がつかなかった。何かしてほしいことがあれば、おふくろに言えば、ちゃんと用が足りた。何も困らなかった。外には出られないものだと思ってた。四つ離れた弟が小学校へあがるときだった。弟が小学校へ楽しそうに通うから「とうちゃん、俺も学校へ行く」と俺はとうちゃんに言ったんだ。いつものように、おふくろがなんとかしてくれると思っていた。そしたらそれまで人前で泣いたことのないおやじが「かわいそうに、あわれやな。お前がまともやったらな」とそう言ったんだ。俺は、「かわいそう」で、「あわれ」で「まともではない」んかとその時、思った。それから、おやじは時々、俺の前で酒を飲みながら泣くようになった。「お前が心配で死んでも死にきれん」といつも言っていた。おやじは昔気質な男だから、「かわいそう」とか「気の毒」と他の人に言われるのが嫌だったんだと思う。だから、僕を外に出そうとしなかったんだと思う。珍しく縁側の外の垣根で、たくさんの子供の声がしたから、僕は、畳の上をころがって縁側の方へ出ていった。垣根からたくさんの子供がこっちをのぞいて、ひそひそ話をしていたんだ。僕も子供が珍しく、じっと垣根を見ていた。おふくろがそれに気がついて、とんできて「なんしとるんや」と大声を出した。子供たちは「ひゃー」と言って、みんな逃げていってしまった。その子供たちは弟の学校の同級生だったことが、後でわかったんだ。弟は、家に泣きながら帰ってきて言った。「兄ちゃん嫌いや。兄ちゃんなんかおらんかったらよかったわ」その途端おふくろが、弟の尻を何度も打った。「兄ちゃんが悪いんやない。兄ちゃんが哀れなことになったんは、お母ちゃんの業のせいや」とおふくろはそう言ってやっぱり大声で泣いとった。俺だけ何でこんな体に生まれたんやろう、だあれも悪くないのにとずっと考えていた。ここに来たことで、親元を離れたのはいいことか悪いことかまだわからない。でも、おやじやおふくろの心は少し軽くなったと思う。俺には仲間がいると思った。俺は、もうおやじやおふくろを悲しませたくない。おやじやおふくろや弟は、俺のことでずっと悲しんできたんだ。先生、泣くな。あんなによろこんでくれて俺はそれで、もういいよ。ごめんな」みつるさんのタイプアートは、学校の中に飾られました。名前もつけずに額に入れて、飾られました。みつるさんとお父さんとお母さんと弟さんが、これまで感じてこられた痛みを思うと私は胸が張り裂けそうでした。こんなことは間違っている。なぜ、その人が存在することを、隠さなければいけないのだ。その人の生きざまを、なぜ否定しなければならないのだ。お家の人が間違っているというより、そういう生き方をせざるを得ないようにしている社会が間違っているのだと、私はくやしくてくやしくてなりませんでした。みつるさんは「しょうがないんだよ」と言いました。私も何もできなかった。そして、そのことはみつるさんだけでは、ありませんでした。作品を外で飾る時は、イニシャルが使われました。テレビの映像には、顔が移らないようにと後ろ姿ばかり取られました。新聞の写真でも同じでした。少し前だけど、そういう時代だったのです。みんなの作品を胸をはって見てもらえる日がいつかくるだろうか。そんな思いを抱いた最初でした。今新聞には、毎日のように、人が共に生きる共生についての記事がのっています。テレビでも、ドラマや、ドキュメンタリーで、共に生きるということについて触れられた番組が多くなってきました。そして、私達の学校のお家の方が、熱心にいろんな所で作品展を開こうとしてくださっています。時々、今一緒にいる子供さんが外で、「あの子は何にもわからんのやから」と言われた話を耳にすることがあります。そんな時とても心が痛むけど、少しの間にこんなに変わってきたのだもの。一人の力は小さいけれど、何もしなければ何も変わらないんじゃないかしら。お父さんお母さんがたが、子供たちのためにしていらっしゃることが、いつかまた、時代を変える大きな力になるに違いないと思います。
2006/05/17
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ウンチ記念日ホームページを見て下さった方からメールをいただいたのを見て、私とゆーちゃんにとってとても大切だったウンチ記念日のことを思いだしました。ゆーちゃんとは3年間一緒にいることができました。そのころゆーちゃんは壁にウンチを塗ることや、髪の毛にウンチをつけるのが気にいっていたようでした。ウンチは汚くて臭いという思いからどうしても抜け出せずにいる私は、いったいどうしてゆーちゃんがこんなことを好きなのかなあと不思議でした。だからゆーちゃんの気持ちがどうしてもわかりたかったです。ゆーちゃんが好きなのはウンチをつかんだ感じなのかしら、それともウンチのにおいなのかしら?もし感じなら、粘土で代わりができないのかしら?ゆーちゃんはマジックも好きでいつも匂いをかいで鼻の頭にマジックをつけてしまうくらいだから、ウンチと違うにおいで代わりにはならないのかしら?私はきっとゆーちゃんの気持ちをすこしも考えていずに、ただウンチは汚くて臭いもの・・・という自分の気持ちだけをそのときに押しつけていたのだと思います。でも一緒にいてウンチのことやおしっこのことを感じられるのはうれしいことですよね。あーーこのごろウンチ出ていないけどどうしたのかなあとか、おしっこの匂いがちがうみたいけど体調子が悪いのかなあとか、なお、ゆーちゃんのことが気になって、お尻をのぞいてしまうなんて失礼かもしれないのだけど、のぞいて「あ、もうウンチそこまで来てる」ってウサギのウンチみたいなころころウンチをそっと手でマッサージしてほじくってみたり、すごく大きなウンチが出てきたら、なんて大きくてりっぱなんだろうって、自分一人で見てるのはもったいなくなって、同僚を大声で呼んで「ねえ、すごくりっぱなウンチが出たのよ。すごーいでしょう?」なんて誇らしげに言ったりして、気がついたらゆーちゃんのことが好きで好きでいられなくなっている自分に気がつくことができるのはウンチやおしっこのおかげだったのかもしれません。あるとき、ゆーちゃんがウンチを出せない日が続きました。ウンチがおなかにたまってどんどんおなかがふくれていきました。ゆーちゃんはウンチをしたくてたまらないみたいなのです。でも一度ウンチをしたときにお尻が痛くなって、それがゆーちゃんの心の中にとても恐いものとして残ってしまったのだと思うのです。それでゆーちゃんはウンチができなくなってしまったみたいでした。朝、施設で下剤の処置をしていただいていても、ゆーちゃんはウンチをすることができませんでした。したくなっているのを怖いという気持ちが無理に押さえてるのです。ずっと声をあげてかなしそうに泣いていました。もう叫び声に近いような声で泣いていました。すわっていることもできずにごろごろ床の上で動いて、なんとかウンチをせずにしようとしているようでした。大丈夫よ、恐くないのよとそばにいて、おなかをさすったり、頭をなぜたりしてもゆーちゃんは苦しむばかりでした。もう体をさわられることすら痛みにつながるようなのでした。ゆーちゃんの苦しむ姿を見ていて、私はゆーちゃんがウンチを今しないでいる理由が、ウンチをしたときの痛みだけではない気がしていました。いつもそばにいる私の「ウンチは汚くて臭いもの」だという思いがゆーちゃんに知らず知らずに伝わってしまって、ゆーちゃんがウンチをすると私が悲しむんじゃないかと思ったからではないかと思いました。ゆーちゃんを苦しめているのは私自身なのだと感じました。ゆーちゃんも不安でたまらないのでしょう。なんとか苦しみからのがれたくて自分の顔を左手でうちつけていました。左のほおは紫色にはれてしまって、目がみえなくなってしまうのじゃないかと思うほどでした。そしてそのゆーちゃんの苦しみは3日も続いたのです。もう学校中の壁にウンチを塗ってもいいから、どんなにウンチをさわっていてもいいから「どうかお願いだからウンチさん出てください」といったい何度願ったことでしょうか?少しでも気を抜いてしまうとウンチが出てしまうとゆーちゃんは思ったのでしょうか?夜もねむることができずにいるゆーちゃんのそばにいることが自分でもつらくてつらくてしょうがなくて、ただゆーちゃんをだきしめていた4日目に、おーーという不安げなそして悲しい叫びとともにウンチは出てくれました。まるで爆発のように吹き出すたくさんのウンチをこんなにいとおしくうれしく思ったのは初めてでした。ウンチはお部屋いっぱいに流れ出すのではないかと思うくらいいつまでもいつまでも流れていました。いつも出ることが当たり前のように思っていたウンチ。汚い、臭いと思っていたウンチは、本当はこんなにありがたく、うれしいものだったのですね。ウンチをしたあと疲れ切って、でもとても優しい安心した笑顔で、私の腕の中で眠っているゆーちゃんを見ていて、私は自分の中でウンチへの思いがすこしづつかわってきているように思いました。ウンチはやっぱり臭いけど、洗えばとれる、出てくれることがすごくうれしいのだと思えるようになったのです。けれど、こんなふうに言えるのは、学校にゆーちゃんとふたりでいつでも入れるシャワーと湯船があるからだと思います。そしてゆーちゃんと二人ゆっくりとすごすことをゆるしてくれる同僚や子供たちの温かい気持ちとゆとりがあったうえでのことだと思います。もしたくさんの子供たちと自分が同時に向かい合わなければならない状態であったなら、おふろなんかにのんきに入っているゆとりなどなかったならそんなことは思いもよらないことだったかもしれません。ゆーちゃんがウンチを壁にぬったり、髪につけたりする理由は今もわからないままですが、私はそのウンチのことがあっていらい、ウンチを塗ることも髪につけることも、ゆーちゃんが生きるという上でとても意味のあることなのだと思うようになりました。自分を確かめるためであったり、気持ちをおちつけるためであったり、自分を確かめるためであったり、きっととても大切なことなのだと思いました。けっして自分の気持ちだけでこれはいけないことだと決めつけることはやめようと思ったのでした。
2006/05/15
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みんな気持ちを持っている自分の気持ちを「ビビビビー」とか「ブブブブー」というような言葉で伝えている中学生の男の子がいました。ご両親にお伺いすると生まれてから一度も話し言葉を使ったことはないということでした。私たちはその男の子がたくさんの気持ちを持っているということを頭でわかってはいながら、けれどたくさんのことがむつかしいのではないだろうかと思いこんでいたのです。それはたとえば勉強に取り組むときでも、トランポリンで揺れたり跳んだりするのがうれしそうだとか、犬が嫌いなようだとかいうように、彼が好きとか嫌いとかだけで、物事を判断していました。彼はサラダが嫌いで、特にトマトはけっして口にしようとはしませんでした。その日はおそらく担任の先生が彼に少しがんばってもらってトマトを一口でも食べて欲しいと思っていたのだと思います。私は少し離れたところで、クラスの子供たちと食事をとっていました。彼と先生とのトマトを食べることでの奮闘というか、格闘というか、そういう時間が15分くらい続いた頃だったでしょうか。びっくりすることがおきたのです。ご両親も私たちも一度だって聞いたことのなかった話し言葉で彼は吐き出すようにはっきりと言ったのです。「嫌いっていうとるやろう。さっきからトマトが嫌って言うとるのがわからんのか」その瞬間食堂はシーンと静まり返りました。誰もが今聞いた声のことが信じられなかったのだと思います。でも言ったのは確かに彼でした。何十人もいた教員や子供たちが確かに彼の心からしぼりだすような声を聞いたのです。ご両親はその場におられなかったので、「信じられません」と繰り返すばかりだったそうです。それから私たちは何度も「なぜ、彼は今まで一度も話し言葉を使わなかったのに、その時使ったのだろう」と話し合いました。でも誰もどうしてかということはわかりませんでした。ただはっきりとしているのは、彼はいつでもたくさんの思いを持ち、それを伝えたかったに違いないのに、それができずにつらい思いをしてきたのに違いないということでした。そして、私たちはこれまでこれほどの彼の思いを少しもわかろうとしてこなかったということでした。彼はそのあとも話し言葉は使ってはいません。もしかしたら、彼は彼の心の中の思いを、どうして口から出したらいいのか方法をみつけられずにいるのかもしれません。けれど確かなことは彼は好きとか嫌いとかではなくて、「トマトをさっきからずっと嫌いだと言い続けてるのに、どうして解ってくれないのか」というふうにあふれるような気持ちを持っていることは確かなのです。私たちはいつも思いこみでこの人はこんな人だと決めてしまうと思います。でも本当のことはけっして目に見えないのだと思うのです。そのことをけっして忘れてはならないと思います。それなのに大ちゃんと私、少しも分かり合えずにいたときにも、私はまた同じように間違いを繰り返していました。大ちゃんが今こんなに沢山の素晴らしい思いを伝えてくれているのに、私は大ちゃんがいろんなことを考えるのはむつかしくて「できない」のじゃないかと思いこんでいたのです。自分の思いこみを押しつけて、小さな子が使う絵本や一年生の教科書ばかりを使ったり、それどころか、大ちゃんが自分で選ぶべきだった、自分できめるべきだったたくさんのことを勝手に選んで押しつけてばかりいたのです。私はいったいどれだけ大ちゃんをつらい気持ちにさせていたのだろうと思うと、今も悲しくてたまらなくなるくらいです。でもこのときだけではないのです。私はいつもいつも間違いをおこしてきたのです。ずっと前、まだワープロやパソコンがこれほど広く使われなかった頃、一緒にお勉強した強君にこの間会いました。強君がそのときに渡してくれた日記を見て、私は胸がどきどきして、涙がとまらなくなりました。強君は今も当時も首に力を入れることがむつかしくて頭を持ち上げられず、いつもうつむいて車椅子に乗っていました。私たちは強君が話している言葉を聞き取ることはむつかしく、ただ強君がクビを縦に振るか横に振るかで気持ちの伝え合いをしていたのです。わたしには忘れられないできごとがあります。「強はいつも顔をあげんのやから、映画なんか見に行っても一緒やろう。顔ををあげんのやったらつれていかんぞ」男の先生はからかい半分、冗談半分で、それから頭ををなんとかあげて欲しいという思いもあったのかもしれません。そんなふうに言いました。強君はそれを聞いて涙を流しながら、頭を必死に持ち上げていました。周りの先生がそれを見て笑っていました。私はそのときに何も言うことができませんでした。なぜ何も言わなかったのだろうと強君の涙を何度も思い出しながら悔やんでいました。何も言えなかった私は、その男の先生と同じで、強君の深い思いを少しもわからずにいたからだと思います。もしかしたら私は強君の涙を見るまで、強君がどれほど悔しい思いをしているかということに気がつかず、(強君もみんなと一緒にお出かけしたいのかな。バスに乗るのがうれしいのかな)というように軽く考えていただけなのかもしれません。強君は最近使うようになったワープロでルパン三世のことを書いていました。「ルパン三世の映画を今日テレビで見た。山田さんの声がルパンのイメージにぴったりだ。僕は映画が好きで好きでたまらない。ルパンと、加山雄三さんの映画が好きだ。山田さんがなくなってしまって、本当にがっかりした。ルパンの声ややっぱり山田さん以外考えられない」車椅子に乗っていることや、施設にいることで映画を見にいくことがとてもむつかしい強君はあのとき、あんなふうに言われてどんなつらい思いをしただろうかと思います。そして私は強君のワープロの文章を見るまで、強君がこんなに映画が好きだということも、それから文章に書かれているようなこんなに深い思いを持っているということにも少しも気がつかずにいたのです。それは大好きな子供たちを自分とは違うとでもいうように分けて考えていたからではないかと恐いのです。当たり前のことなのに、私はすぐに忘れます。子供たちはいつもたくさんの気持ちを持っていてそれを伝えようとしているのです。それは大ちゃんだけではないことを今度こそしっかりと心に刻み込みたいと思います。
2006/05/14
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みんな気持ちを持っている自分の気持ちを「ビビビビー」とか「ブブブブー」というような言葉で伝えている中学生の男の子がいました。ご両親にお伺いすると生まれてから一度も話し言葉を使ったことはないということでした。私たちはその男の子がたくさんの気持ちを持っているということを頭でわかってはいながら、けれどたくさんのことがむつかしいのではないだろうかと思いこんでいたのです。それはたとえば勉強に取り組むときでも、トランポリンで揺れたり跳んだりするのがうれしそうだとか、犬が嫌いなようだとかいうように、彼が好きとか嫌いとかだけで、物事を判断していました。彼はサラダが嫌いで、特にトマトはけっして口にしようとはしませんでした。その日はおそらく担任の先生が彼に少しがんばってもらってトマトを一口でも食べて欲しいと思っていたのだと思います。私は少し離れたところで、クラスの子供たちと食事をとっていました。彼と先生とのトマトを食べることでの奮闘というか、格闘というか、そういう時間が15分くらい続いた頃だったでしょうか。びっくりすることがおきたのです。ご両親も私たちも一度だって聞いたことのなかった話し言葉で彼は吐き出すようにはっきりと言ったのです。「嫌いっていうとるやろう。さっきからトマトが嫌って言うとるのがわからんのか」その瞬間食堂はシーンと静まり返りました。誰もが今聞いた声のことが信じられなかったのだと思います。でも言ったのは確かに彼でした。何十人もいた教員や子供たちが確かに彼の心からしぼりだすような声を聞いたのです。ご両親はその場におられなかったので、「信じられません」と繰り返すばかりだったそうです。それから私たちは何度も「なぜ、彼は今まで一度も話し言葉を使わなかったのに、その時使ったのだろう」と話し合いました。でも誰もどうしてかということはわかりませんでした。ただはっきりとしているのは、彼はいつでもたくさんの思いを持ち、それを伝えたかったに違いないのに、それができずにつらい思いをしてきたのに違いないということでした。そして、私たちはこれまでこれほどの彼の思いを少しもわかろうとしてこなかったということでした。彼はそのあとも話し言葉は使ってはいません。もしかしたら、彼は彼の心の中の思いを、どうして口から出したらいいのか方法をみつけられずにいるのかもしれません。けれど確かなことは彼は好きとか嫌いとかではなくて、「トマトをさっきからずっと嫌いだと言い続けてるのに、どうして解ってくれないのか」というふうにあふれるような気持ちを持っていることは確かなのです。私たちはいつも思いこみでこの人はこんな人だと決めてしまうと思います。でも本当のことはけっして目に見えないのだと思うのです。そのことをけっして忘れてはならないと思います。それなのに大ちゃんと私、少しも分かり合えずにいたときにも、私はまた同じように間違いを繰り返していました。大ちゃんが今こんなに沢山の素晴らしい思いを伝えてくれているのに、私は大ちゃんがいろんなことを考えるのはむつかしくて「できない」のじゃないかと思いこんでいたのです。自分の思いこみを押しつけて、小さな子が使う絵本や一年生の教科書ばかりを使ったり、それどころか、大ちゃんが自分で選ぶべきだった、自分できめるべきだったたくさんのことを勝手に選んで押しつけてばかりいたのです。私はいったいどれだけ大ちゃんをつらい気持ちにさせていたのだろうと思うと、今も悲しくてたまらなくなるくらいです。でもこのときだけではないのです。私はいつもいつも間違いをおこしてきたのです。ずっと前、まだワープロやパソコンがこれほど広く使われなかった頃、一緒にお勉強した強君にこの間会いました。強君がそのときに渡してくれた日記を見て、私は胸がどきどきして、涙がとまらなくなりました。強君は今も当時も首に力を入れることがむつかしくて頭を持ち上げられず、いつもうつむいて車椅子に乗っていました。私たちは強君が話している言葉を聞き取ることはむつかしく、ただ強君がクビを縦に振るか横に振るかで気持ちの伝え合いをしていたのです。わたしには忘れられないできごとがあります。「強はいつも顔をあげんのやから、映画なんか見に行っても一緒やろう。顔ををあげんのやったらつれていかんぞ」男の先生はからかい半分、冗談半分で、それから頭ををなんとかあげて欲しいという思いもあったのかもしれません。そんなふうに言いました。強君はそれを聞いて涙を流しながら、頭を必死に持ち上げていました。周りの先生がそれを見て笑っていました。私はそのときに何も言うことができませんでした。なぜ何も言わなかったのだろうと強君の涙を何度も思い出しながら悔やんでいました。何も言えなかった私は、その男の先生と同じで、強君の深い思いを少しもわからずにいたからだと思います。もしかしたら私は強君の涙を見るまで、強君がどれほど悔しい思いをしているかということに気がつかず、(強君もみんなと一緒にお出かけしたいのかな。バスに乗るのがうれしいのかな)というように軽く考えていただけなのかもしれません。強君は最近使うようになったワープロでルパン三世のことを書いていました。「ルパン三世の映画を今日テレビで見た。山田さんの声がルパンのイメージにぴったりだ。僕は映画が好きで好きでたまらない。ルパンと、加山雄三さんの映画が好きだ。山田さんがなくなってしまって、本当にがっかりした。ルパンの声ややっぱり山田さん以外考えられない」車椅子に乗っていることや、施設にいることで映画を見にいくことがとてもむつかしい強君はあのとき、あんなふうに言われてどんなつらい思いをしただろうかと思います。そして私は強君のワープロの文章を見るまで、強君がこんなに映画が好きだということも、それから文章に書かれているようなこんなに深い思いを持っているということにも少しも気がつかずにいたのです。それは大好きな子供たちを自分とは違うとでもいうように分けて考えていたからではないかと恐いのです。当たり前のことなのに、私はすぐに忘れます。子供たちはいつもたくさんの気持ちを持っていてそれを伝えようとしているのです。それは大ちゃんだけではないことを今度こそしっかりと心に刻み込みたいと思います。
2006/05/14
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いい人世の中にいい人ってどうしてこんなにたくさんいるんだろうってしみじみ思った日のことを書きます。 その日は京都のお寺にお勤めの方のグループに呼んでいただいていました。2時間くらいお話させていただいたのですが、私の下手なお話をみなさん本当に一所懸命聞いて下さって、私は自分の心が講演会の会場のお部屋いっぱいに広がっているようでとてもうれしかったのです。 お話が終わった後、聞いて下さった方とのお食事会の後、その日の会のお世話をしてくださった方が駅まで送ってくださいました。駅の前までで「もう大丈夫です」と言う私に、その方は「駅までおくるだけでは、違う列車に乗って、とんでもないところへ行くということもあり得るから、電車にちゃんと乗るまで見届けますよ」とホームまでついてきて下さいました。私はとんでもないくらいおっちょこちょいなので、そんなときにまで迷惑をかけてしまうのでした。 ホームにたって列車を待っている間に、その方は急にまじめな顔をして「実は・・」とお話を始められました。 「僕は本当は坊主にはなりたくなかったんですよ。親父が坊主ということだけで、小さい頃から自分の人生が決められてしまうということがどうにも嫌でした。それなのに、高校も大学も自分の気持ちとは反対に、坊主になるために敷かれた路線通りのところに入学しなければならなかったのです。大学を卒業して6年になりますが、そういう心で今、坊主の仕事をしていても、いつもいつも自分に嘘をついているような気持ちから抜けだすことができないんですよ。偉そうに人前で講話なんかをして、自分はなんなんだと思うと、もう坊主仲間全部が嫌でたまらなくなる」私はその方のお話を聞いて、あ、私だってそうだと思いました。「私だって、私みたいなものが、みなさんの前でお話をしてる。今日だって私のお話で2時間も聞いて下さって、それもあんなに熱心に聞いて下さってそれでよかったのでしょうか」あわてて私が言うと、その方は「違うんですよ。山元さんは違う。立っている位置が違う。僕らは高いところにたって話をする。だから説教って言うでしょう」と言われました。そしてとうとうその方は泣き出されてしまったのです。私はふたりでホームでたっていて、その方が突然涙をいっぱいいっぱい流されて話を続けられたので、どうしたらいいのかわからなくなりました。(子供たちが教えてくれたことはすごく素敵でも、私みたいなもののお話をみなさんあんなに一所懸命聞いてくださったんだ。でも私、全然、そんなことしていいのかなんて考えていなかった。位置のお話をしてくださったけど、私はどんなふうなのかしら)と気がついたら、私もすごく悲しくなりました。そしてその方はとてもいい人だから、ずっとこんなに真剣に悩んで、今も涙をこんなに流してるんだって思いました。それからあんな下手なお話を一所懸命聞いてくださったたくさんの方もみなさんなんていい人なのかしらと思って、ホームでふたりでわんわん泣いてしまっていたのでした。そのとき、発車のベルがなりました。あわてて電車に乗って、ずっとその方が手を振ってくださるので、私も座ってからも泣きながらずっと振っていたのです。完全に駅から離れて、はっと気がつくと、通路をはさんだ向こう側の人もその後ろの人も私のことを見ておられるのに気がつきました。もしかしたら、私たち、何かすごく悲劇的な別れを今したみたいに思われてしまったのかなってそのとき初めて思ったのです。ずっとずっと仲良しの友達とか、兄弟とか、恋人とかの別れのシーンみたいだったんじゃないかなって・・・・私たち5時間くらい前に初めてあったばかりで、そんなふうな別れではなくて・・・・なんてそこで説明できるわけでもないので、なんだかばつが悪かったのでした。お寺のお坊さんもホームで今の私と同じかなと心配になったけど、電車が出てしまったら、そこにはもうその光景を見ていた人はあんまりいないから大丈夫かなと思いました。ぼんやりそんなことを考えていたら、アイスクリームや駅弁やコーヒーを売っておられる人が通っていかれて、隣の座席の人が何か買われたようでした。そして本当にびっくりしたことに、隣のその方が「あの、アイスクリームとサンドイッチでも、食べて元気を出して」って私に言われて、さっき買われたアイスクリームとサンドイッチを私の方へ差し出されたのです。(ああ、やっぱりさっきの光景が、大好きで大好きでたまらない人ともう一生会えなくなるときのように見えたんだ)って思いました。ぜんぜんそうじゃないのに、いただいてしまったらまるでその方をだましているみたいって思ったのに、言えなくて「でもいただいていいのでしょうか?」とやっと言いました。そしたらその方が「ちょっと買いすぎちゃったから」って言われたのです。そんなはずがないと思いました。今すぐ食べるようなアイスクリームとサンドイッチを二つずつ買って、すぐ下さったのに買いすぎたはずがない、きっと隣で泣いてる人をなんとかなぐさめたいってそう思って買って下さったのに違いないのです。もしかしたら、それほどその方はアイスクリームやサンドイッチを欲しいと思っておられなかったかもしれないのに、本当にみんなみんななんて優しくて、いい人ばかりなんだろうって思ったら、もうすっかり引っ込んでいた涙がまた出てきそうになりました。でもね、ここで泣いたら、そんなに悲しい別れってまた思われちゃうとがまんしたのでした。 その方は福井の方で、大学のお休みで帰省するのだと教えて下さいました。そして降り際に「悲しいことはあるだろうけど、本当に元気を出してがんばって下さいよ」って言われて、私は素直に「ありがとうございます」って言えました。(あれは悲しい別れってわけじゃなかったけど、どちらかというと素敵な出会いだったのだけど、でも言ってくださったように、私、元気で、これからもがんばろう。いい人いっぱいの素敵なこの世の中で私は元気でがんばって生きていくのだ)って思えたからなのです。 それで、みーーんなにありがとうって思っています。
2006/05/13
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敏君の話敏君と出会ったのは敏くんが小学校4年生のころでした。敏くんは、いつも大きな目でまっすぐに私の顔を見て、お話をしてくれる男の子でした。ある日のことでした。敏くんのその日の言葉を私は今でもはっきりと覚えています。その日、敏くんはいつもほどの元気はないように見えました。何かいいたげで、でも「ん?」と何かいいたいことがあるのかなと首を傾げて敏くんを見つめても最初敏くんはなにも言いませんでした。けれど、そのうちになにげないように敏くんは話し出しました。「表の通りにさ、目玉が三つある人があるいていたらいいのにね」それからこんなふうにもいいました。「おなかに顔がある人がさ、手が十本生えている子供の手をひいてあるいていたらいいのにね。ぼくそんなことしょちゅう考えるよ」「えーーどうして敏くんそんなこと考えるの?」敏くんはいつになくうつむいて、なかなか答えようとはしませんでした。そして決心をしたように、唇をかみしめて「だってさー。だってさー」口ごもって、それから少しいいにくそうに言いました。「僕のこと一本足の傘次郎って友達が言ったんだ。僕すごくくやしかったよ。だけど友達のことを怒ってないよ。友達が悪いんじゃないんだ」私は胸がつまりそうになりました。敏くんの片足の膝から下は、小さいときの事故で失われていました。おうちの方も敏くん自身もそのことについて、足がほかの人とたとえ違っていても、できるかぎりのことはするんだと言っていたのです。こんなにがんばりやの敏くんに対して、友達はなんてひどいことを言うのでしょう。それなのに、敏くんは友達が悪いんじゃないと言うのです。怒ってないって言うのです。いったい誰が悪いというのでしょう。小さい子のたわいのないけんかなのかもしれないけれど、それでも人を傷つけるそんな言葉は使ってほしくないと思いました。敏くんはいつもとても明るくて、今までもいろいろなお話を私にしてくれていたのですが、足のことでこんなふうなことを言ったことはその日が初めてでした。お友達もたくさんいて、週に一回の病院通いと当時私がつとめていた学級へもたくさんの友達と一緒によく顔を出してくれていたのです。だからどうして敏くんのお友達が敏くんのことを「一本足の傘次郎」なんていわなければならなかったのか、とても不思議に思いました。そして敏くんは今、いったいどんな思いで、目玉が三つある人が歩いていたらいいっていったのかということがよくわかりませんでした。だけどね、敏くんはこんなふうに考えていたのです。「だってさ、目玉が3つの人とか、頭が二つの人とか手が10本の人とか、いろんな人がたくさんふつうに歩いていたら、僕が片足でもじろじろ僕のこと見る人なんかいなくなると思うんだ。誰も僕のこと特別扱いしなくなると思う」最後には泣き声になってしまった敏くんをただ抱きしめて、私も一緒に泣いていました。敏くんはいつもとっても明るいけれど、「やあ、山元ー」ってお部屋に飛び込んできてくれるけど、こんなに小さな胸をいつも痛めていたんだなあ、でもそんな様子を少しも見せないでいて、私も少しもそのことを知らないでいたのです。少しずつ敏くんは、その日にあったことを話してくれました。父さんは片足だからってできないって思っちゃだめだって言うの。僕もそう思うよ。僕は片方の足が短いけれど、杖があればなんだってできる。山元も知ってるよね。鉄棒なんかは大得意なんだ。昨日の鉄棒で僕逆上がりすごく上手にできたんだよ。そしたら先生が「みんな敏を見てみろ」って言ったの。「おまえたち足が片方しかない敏がこんなにがんばってるのに、だらだらとして、逆上がりできなくて恥ずかしくないのか」それから僕の友達にむかって「おまえはマラソン大会でも敏に負けていたじゃないか。どう思うんだ」って言ったんだ。僕ね。すごく嫌だったよ。友達のこともすごく気にかかったの。友達は先生にそんなこと言われて、顔を真っ赤にしてうつむいてた。僕が鉄棒できたこと、僕がマラソン大会で走れたことは、片足が短いこととは別だよ。鉄棒得意だし、杖は足のかわりをしてくれるから、そんなに早くはないけど、長く走っても平気なのに、先生はどうしてあんなことを言うんだろう。僕、ぜんぜんうれしくないのに、すごく嫌なのに。先生はいつも言うんだ。敏は足が悪いのにがんばってるって・・・そのたびにいやあな気持ちで体がいっぱいになるんだ。そのたびに僕、友達が離れて行く気がするんだ。帰り道、いつも一緒に帰るのに、友達が僕をおいて先に帰っていったから、追いかけて「一緒に帰ろう」って言ったら、友達が僕のこと「一本足の傘次郎」って言って走って行ったの。ね、山元。僕片足が短いのは本当だから友達が僕の足のこと片足短いねって言っても平気だけど、でも今日はすごく悲しかったの。友達は先生に足が片方短いやつより駄目だって言われたことになるのかなあ。だから怒ったんだよ。それで、僕も本当は片足が短いから駄目なんだって言われたような気持ちがしたの。もっといろんな人がいっぱいいたら、僕のこと誰も特別だと思わないと思ったんだ。山元、父さんがいつも言うんだ。「足が片方短いから敏は優しい気持ちをもらったんだって。片足が短いことをいいことだと思え」って。それから病院で訓練の先生と会えるし、山元にも会えるし他の人より得もいっぱいしてるって言うんだ」まだ4年生の子供がこんなふうに 涙ぐみながらも話せることにとても驚きました。たった4年生の敏くんのが・・という私の思いはもうそれだけで、子供たちにたいしてとても思い上がったものなんだと思います。でもこんなに小さい敏くんがどうしてこんなに大切なことを自分のものにしているのだろうと私は思わずにはいられませんでした。そしてそれは敏くんの強い気持ちの表れのように思いました。敏くんやお父さんが言われたように、片足が短いという現実が敏くんをとても思いやりのある、考えぶかくそして、明るい少年にしてくれたということがあるのでしょうか。しばらくして、私は、敏くんは僕の足が片方短くなかったらよかったとは言ってないのだと気がつきました。片足が短いのが僕で、そのことは別に悪いことじゃない。だけどどうして、みんなと少し違うだけでじろじろみられたり、特別扱いされるんだ。それは間違っているよときっと敏くんは言いたかったのかもしれません。敏くんの担任の先生の姿は私の姿だと気がつきました。先生がなんとか敏くんを励ましたくて、クラスのみんなを励ましたくて、使われた言葉がその両方を深く傷つけてしまうということに気がつかなかれなかったように、私も敏くんの本当の思いを知らずに、ただ友達の言葉だけを憎んでしまったなあと思うのです。敏くんの前で、私は本当になにも考えていなし、気がついていないんだということがとてもショックでした。大人たちはいつもまるで自分が子供たちを教えるものだ、指導するものだ、導くものだなんていばってそっくりかえってて、なんにも大事なことに気がついてないのです。こんなに柔らかい子供たちのそばにいて、そんなことでいいはずないのにです。それでも私は明日もあさっても子供たちのそばにいるんだ。いったいそんなこと許されることなのでしょうか?しばらくなにも手がつかないくらい、それはわたしにとってとても大きなことでした。敏くんは今大学生です。夏休みになったよとたずねてきてくれたのです。敏くんは大学で人権について勉強をしているんだそうです。敏くんはすごくたくましくちょっとSMAP の香取慎吾くんに似ているすてきな青年になっていました。あいかわらず私の顔をまっすぐに見て、「山元、社会には本当にすごくたくさんの差別があるんだよ。なぜこんなことで差別になるんだろうって思うようなことばかりでさ、大学の先生は、人間は生きている限り、人を分けたがるものなんだ。人間の宿命みたいなものだけど、でもだからまかり通るというものじゃなく、いけないことだ、間違ったことだと気がついていけるのが人間だっていうんだよね。ね、山元。差別ってなくなっていくと思う?」うーーんどうだろうと首を傾げた私に敏くんは「捨てたもんじゃないんだよ」と言いました。「中学校の公民の教科書みたことある?あれの一番最初に人権のことが出てるんだけど、そこにね、わざと人を傷つけたり、差別をすることはもちろん許されることではない。でも我々は知らない間に多くの差別をしている。たとえば駅の階段をのぼりおりしていて不便を感じない。けれど車椅子に乗った人はとても不便だ。だけどそのことに気がつかない。気がつかないということはそれだけでもう差別で、ゆるされることではないということを我々はしらなければならないってね書いてあるんだよ。公民の教科書の一等最初にね、書いてあるんだよ。それみつけたときうれしかったなあ。家庭教師のアルバイトしてて、みつけたんだけどね」敏くんはすごくうれしそうでした。
2006/05/12
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きいちゃんは私が教員になったばかりのときに出会いました。きいちゃんは教室の中でいつもさびしそうでした。たいていのとき、うつむいてひとりぼっちですわっていました。 だから、ある日、きいちゃんが職員室の私のところへ「せんせいーー」って大きな声でとびこんできてくれたときは本当にびっくりしたのです。こんなにうれしそうなきいちゃんを私ははじめてみたのです。「どうしたの?」そうたずねると、きいちゃんは「おねえさんが結婚するの。私、結婚式に出るのよ」ってにこにこしながら教えてくれました。ああ、よかったって私もすごくうれしかったのです。 それなのに、それから一週間くらいたったころ、教室で机に顔を押しつけるようにして、ひとりで泣いているきいちゃんをみつけたました。 涙でぬれた顔をあげてきいちゃんが言いました。「おかあさんがわたしに、結婚式に出ないでほしいって言ったの。おかあさんは私のことが恥ずかしいのよ。おねえさんのことばかり考えているのよ。私なんてうまなければよかったのに」きいちゃんはやっとのことでそういうと、またはげしく泣いていたのです。 でも、きいちゃんのおかあさんはいつもいつもきいちゃんのことばかり考えているような人でした。 きいちゃんは小さいときに高い熱が出て、それがもとで手や足が思うように動かなくなって車椅子にのっています。そして訓練を受けるためにおうちを遠く離れて、この学校へきていたのでした。 お母さんは面会日のたびに、きいちゃんに会うために、まだ暗いうちに家を出て、電車やバスをいくつものりついで4時間もかけて、きいちゃんに会いにこられていたのです。毎日のお仕事がどんなに大変でも、きいちゃんに会いに来られるのを一度もお休みしたことはないくらいでした。そしてね、私にも、きいちゃんの喜ぶことはなんでもしたいのだと話しておられたのです。 だからおかあさんはけっしてきいちゃんが言うように、おねえさんのことばかり考えていたわけではないと思うのです。ただ、もしかしたら、結婚式にきいちゃんが出ることで、おねえさんが肩身の狭い思いをするのではないか、あるいは、きいちゃん自身がつらい思いをするのじゃないかとお母さんが心配されたからではないかと私は思いました。 きいちゃんはとても悲しそうだったけれど、「うまなければよかったのに・・」ときいちゃんに言われたおかあさんもどんなに悲しい思いをしておられるだろうと私は心配でした。 けれど、きいちゃんの悲しい気持ちにもおかあさんの悲しい気持ちにも、私はなにをすることもできませんでした。ただ、きいちゃんに「おねえさんに結婚のお祝いのプレゼントをつくろうよ」と言いました。 石川県の金沢の山の方に和紙をつくっている二俣というところがあります。そこで、布を染める方法をならってきました。さらしという真っ白な布を買ってきて、きいちゃんといっしょにそれを夕日の色に染めました。 そしてその布で、ゆかたをぬってプレゼントすることにしたのです。 でも、本当を言うと、私はきいちゃんにゆかたをぬうことはとてもむずかしいことだろうと思っていたのです。きいちゃんは、手や足が思ったところへなかなかもっていけないので、ごはんを食べたり、字を書いたりするときも誰か他の人といっしょにすることが多かったのです。ミシンもあるし、いっしょに針をもってぬってもいいのだからと私は考えていました。 でも、きいちゃんは「ぜったいにひとりでぬう」と言いはりました。まちがって指を針でさして、練習用の布が血で真っ赤になっても、「おねえちゃんの結婚のプレゼントなのだもの」ってひとりでぬうことをやめようとはしませんでした。 私、びっくりしたのだけど、きいちゃんは縫うのがどんどん、どんどんじょうずになっていきました。 学校の休み時間も、学園へ帰ってからもきいちゃんはずっとゆかたをぬっていました。体をこわしてしまうのではないかと思うくらい一所懸命、きいちゃんはゆかたをぬい続けました。 そしてとうとう結婚式の10日前にゆかたはできあがったのです。 宅急便でおねえさんのところへゆかたを送ってから二日ほどたっていたころだったと思います。きいちゃんのおねえさんから私のところに電話がかかってきたのです。 おどろいたことに、きいちゃんのおねえさんは、きいちゃんだけではなくて私にまで結婚式に出てほしいと言うのです。けれどきいちゃんのおかあさんの気持ちを考えると、どうしたらいいのかわかりませんでした。 おかあさんに電話をしたら、お母さんは「あのこの姉が、どうしてもそうしたいと言うのです。出てあげてください」と言って下さったので結婚式に出ることにしました。 結婚式のおねえさんはとてもきれいでした。そして幸せそうでした。それを見て、とてもうれしかったけれど、でも気になることがありました。 結婚式に出ておられた人たちがきいちゃんをじろじろ見ていたり、なにかひそひそ話しているのです。きいちゃんはすっかり元気をなくしてしまい、おいしそうな御馳走も食べたくないと言いました。(きいちゃんはどう思っているかしら、やっぱり出ないほうがよかったのではないかしら)とそんなことをちょうど考えていたときでした。 お色直しをして扉から出てきたおねえさんは、きいちゃんが縫ったあの浴衣をきていたのです。 浴衣はおねえさんにとてもよく似合っていました。きいちゃんも私もうれしくて、おねえさんばかりをみつめていました。 おねえさんはお相手の方とマイクの前にたたれて、私たちを前に呼んでくださいました。そしてこんなふうに話し出されました。「みなさんこのゆかたを見てください。このゆかたは私の妹がぬってくれたのです。妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由になりました。そのために家から離れて生活しなくてはなりませんでした。家で父や母とくらしている私のことを恨んでいるのではないかと思ったこともありました。それなのに、こんなりっぱなゆかたをぬってくれたのです。高校生でゆかたをぬうことのできるひとがどれだけいるでしょうか?妹は私のほこりです」 そのとき、式場のどこからともなく拍手が起こり、式場中が、大きな拍手でいっぱいになりました。そのときのはずかしそうだけれど、誇らしげでうれしそうなきいちゃんの顔を私はいまもはっきりと覚えています。 私はそのとき、とても感激しました。おねえさんはなんてすばらしい人なのでしょう。そして、おねえさんの気持ちを動かした、きいちゃんのがんばりはなんて素敵なのでしょう。 きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきました。そしてこれからもきいちゃんとして生きていくのです。もし、名前を隠したり、かくれたりして生きていったら、それからのきいちゃんの生活はどんなにさびしいものになったでしょうか? お母さんは、結婚式のあと、私にありがとうと言ってくださいました。でも私はなんにもしていませんと言うと、お母さんは、「あの子が、お母さん、生んでくれてありがとう。私幸せです」と話してくれたと泣きながらおっしゃいました。お母さんは、きいちゃんが、障害を持ったときから、きいちゃんの障害は自分のせいだと思ってずっとご自分を責め続けてこられたのだそうです。もし、もう一時間でも早く大きな病院に連れて行っていたら、あの子に障害が残ることはなかったのじゃないか、あの子の障害は自分のせいだと思ってずっと自分を責めていたと話しておられました。 きいちゃんは結婚式の後、とても明るい女の子になりました。これが本当のきいちゃんの姿だったのだろうと思います。あの後、きいちゃんは、和裁を習いたいといいました。そしてそれを一生のお仕事に選んだのです。
2006/05/11
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吉川くんの話 私が教師になりたての4月のことでした。 加賀の中央公園へ遠足に行ったときのことです。車椅子にのっている吉川君と一緒にいると、やはり遠足に来ていた小学校一年生くらいの男の子が「お兄ちゃん、足とか手、どうしたんや。なんで歩けんの?」と吉川君に聞いたのです。男の子は自分の気持ちを素直に表しただけだし、吉川君も自分が小さいときに高い熱が出て、その後あるけなくなったのだと、やはりその熱のために、まわりにくい口でお話しようとしていたとき、その男の子の先生でしょうか、そばにきて、「どこ行っとったんや。養護学校の子のそばに寄ったらいかんって言ったでしょう」と言いました。そしてもう一度その男の子は、今度はその女の先生に、「どうしてあのお兄ちゃんの足、あんなふうになったの?」ってたずねたところ、その先生は「あんたも人を蹴ったり、悪いことしたら、あんなになるんやよ」って言ったのです。 わたしはくやしくて腹が立ってしょうがありませんでした。がまんできずにその先生を追いかけようとしたら、吉川君は「いいよ、僕は人をけることのできる足も持っとらんし、なれとるし大丈夫だから、泣かなくていいよ」と静かに言ったのです。 私は吉川君のことばを聞いてひざががくがくして立っていられないような気がしました。吉川君や、学校の子供たちはいったい何度こんなくやしい思いをしてきたのでしょうか。あんなに小さな男に、信頼されている先生があんなに間違ったことを言ってもいいのでしょうか。でもこのときの先生がけっして特別な人ではないということがわかってきました。考えたら私だって同じでした。大人はわりと簡単に、「こんなもんわからんかったらあの養護学校いかんならんよ」とか「ごはんを粗末にしたら目がつぶれるよ」とか「なにされるかわからんから養護学校の子に近づかんようにしまっし」なんていいます。 この言葉は間違っているし、人を傷つけることばなのにどうして使う人がいるのでしょうか。私はこう思います。きっとこんなふうに言ってしまった人は悪い人でも特別な人でもなんでもなく、ただ、小さいときに障害のある人と出会う機会にめぐまれずに、障害を持った人も持たない人も同じように一所懸命生きているということに気がつけなかったからじゃないかと思うのです。だから私はできるだけ小さくて心のやわらかなときに、社会には男の人がいて、女の人がいて、髪の長い人や短い人、肌の色の違う人、違う言葉を話す人、障害のある人、ない人、いろいろな人がいて、みんな同じように苦しんだり、悲しんだり、よろこんだりしながらお互い様で生きているということを知ってほしいと思います。 社会の中には、障害をもった人たちにたいして、「うつるんじゃないか」と考えて接したり、お金がなくなったら「盗ったんじゃないか」などと考える人も大勢います。「障害を持った人をみかけて何かできないかと思うけれど、どうしたらいいかわからない」という話もよく聞きます。でも構える必要なんて全然ないんですよね。車が雪にはまって動けなくなっていたら、みんな手を貸してくれるでしょう?お財布を落としたのを見ていたら「落ちましたよ」って教えてくれるでしょう?足が思うようにうごかなくて買い物をしていて高いところにある品物がとれない人がいたら「取りましょうか?」「なにかお手伝いしましょうか?」って聞いたらいいんですよね。同じですよね。みんないろいろな人がいてあたりまえ、いろいろな個性の人が助け合ってお互い様で生きているということを私一番言いたかったのです。
2006/05/11
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