この現実の中で、不幸を感じてしまいがちなのか?
人はなぜ真実を求めながら、真実に背を向けがちなのか?
そして、人はなぜ愛を求めながら、逆に(無意識に)愛を遠ざけようとするのか?
について、思いを巡らしていました。
なんとなくわかったことが、究極の愛や一体感を味わってしまうと、この(物質)世界での生が終わる、この宇宙で体験することが終わってしまう、無意識で自我の消滅を恐れてしまうからだ、と思いました。
だから、人は愛を恐れ、無意識に愛を遠ざけるようになる・・・
愛、幸せ、真実、それはきっと喜ばしい状態であり、本当はそれを心から求めているはずだと感じてはいても、まだこの世界で遊んでいたい、自我を体験していたい、と望んでいるのかもしれません。
肉体的な愛、特定な人に対する愛にしても、お互いに愛に近づくにつれ、離れることを選ぶことってありませんか?
そして、なぜ自分がそんなこと(自分の幸せから離れること)をしているのかがわからない体験ってありませんか?
そのような体験の無意識的な背景には、エゴがもっとも恐れている「幸せな状態を味わってしまったら終わりだ」という仕組みが、究極・最後の恐怖として残っているのかもしれません。
満足や幸せな心の状態は、エゴにとっては自分自身の存在を消滅させる性質があることを、エゴ自身が一番よく知っています。ですから、エゴは決して満足するな、満足してはいけない、永遠の満足なんて幻想だから、この世界にあるもので我慢し続け、それを追い続けることこそ幸せなんだよ、といかにも友人のように囁きかけることでしょう。
その言葉に耳を傾け信じることに慣れている私たちは、そうだよね、この世界にはまだ体験していないことがたくさんあるし、それを終わらせるなんてとんでもないよね、っと同意してしまいがちになります。
つまり、それ(究極の愛)を体験してしまったら、自分という存在が消滅してしまうのでは?という無意識の恐怖が、最後のところで、愛・幸福・神・真実を避けるということだと思います。
このような無意識が働くため、この世界に苦痛や不幸、恐れがある世界が正当化され、自らを幸せにしない狂気の言葉を愛と錯覚・勘違いし、本当の愛を遠ざけることになっているのかもしれません。
また、私たちが陥りがちな最大の誤解は、「苦痛を愛だ」と勘違いしていることによるのかもしれません。
ですから、愛に近づくたびに、一体感をそのまま継続することを避け、代わりにエゴが提供する終わりのない欲望、それに対する不平不満、犠牲に満ちた体験というような不幸のほうがよいと感じてしまう仕組みが働き続けるように思います。
でも私たちは、この決して人を幸せにしない仕組みを見る必要があるように思います。いきなり、究極の愛を体験してしまうとびっくりしてしまうので、自分がなぜ愛を求めながら、愛を恐れるのかという仕組みを理解し、愛は本当は誰よりも愛情深い存在であり、究極の幸せであり、究極の真実であることを、私たちの限られた意識が心を開く選択をするようにゆっくり準備していくプロセスがとても大切なのかもしれません。
みなさまも、一度、自分自身が本当は何を一番恐れているのかについて考えてみてください。そして、よかったらそれについてシェアしていただければ嬉しく思います♪
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