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親父とまともに会話した記憶がほとんどない。何かを教えてもらった記憶も無いに等しい。生き方、考え方はいつも母から教わった。親父はむしろ、教育を放棄しているようにもみえた。とにかく親父は寡黙だ。趣味もあまり無い。人付き合いもすくない。酒もタバコも女もギャンブルもしない。しかも未だに九州弁が抜けてない。どこかのお笑い芸人のネタみたいになってきたが、とにかく正直なところ、親父のどこをどう尊敬すればいいのか分からなかった。自分の中に眠っている親父の部分を拒否しつつ、時には無理して、虚勢を張って生きてきた。しかし親父を拒否する行為は、自分自身の存在をも拒否するようで、それは嫌だった。親父が生きている間に、どうしてもこの問題は解決したかった。そんなある日、ふとあることに気がついた。セミナーの原稿を書いていたある晩、自己開示する為、自分の過去を遡る作業をしている時に、両親の過去の軌跡まで遡ってみた。親父は九州の田舎で中学を卒業後、直ぐに集団就職で大阪に来ている。その後、アパレルの縫製職人の家で七年間、住み込みで修業。初任給は千円。生活用品を買ったら残りは殆ど無かったそうだ。兄弟子とともに六畳一間で雑魚寝。プライベートな時間も空間も皆無・・・・・。気がついた・・・・・親父、もの凄い苦労してる・・・貧乏に耐え、孤独に耐え、不当な扱いに耐えて風呂無しの長屋で独立し、僕を育ててくれてた。それにやっと気がつきました。正月休みの帰省中に、一言だけ伝えました。「親父、苦労してたんやな。感謝してるで」親父も一言だけ帰してきました。「やっとわかったんかいな」もうこれからは自分の中の、親父の部分も否定しません。バカ正直に、不器用に、真面目に生きていこうと思います。今後の課題は、両親が生きている間にどれだけの恩返しができるか?また、自分の子供達に自分の生き様から何を伝えることができるか?親父は息子には、自分がしてきたような苦労はさせたくなかったらしい・・・でも僕は見事にそれを裏切って、安定した会社を辞めてリスクのある人生を選びました。結局は親父と似たような選択をしている自分がここに居ます。とりあえずは独立一年目、親父の苦労を思いつつ、不慣れな土地で選んだ道を踏み出してみます。
2005.01.22
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忙しい!ゲロ吐きそうなくらい忙しかった。だからネタは沢山あったけど、全く日記を書く気になれなかった。しかし今日は別です。今日だけは何としてでも書きたかったんです。震災の記憶を・・・・・あの日の前日の晩は、月が赤くて大きかったのをよく憶えてます。バロムワンのヤゴゲルゲを彷彿とさせるような月でした。何故かあの晩は眠れなくて、ずっと布団の中で目を開けていたのですが、突然、「ドーン」という衝撃音が鳴り響きました。最初はトラックが家に激突でもしたんかいなと思うやいなや、突然の縦揺れが・・・・・「ごごごごどどどどど」一端止んだかと思ったら今度は強烈な横揺れが「がたがたがたがたがたがたがた」経験したことが無い、長時間の猛烈な横揺れの最中頭の中では「こりゃ家がもたないな。屋根が落ちてくるかも・・・」と、布団の中で金縛り状態になりながら考えてました。何故か冷静でした。幸い家は、外壁にヒビが入ってガラスが割れた程度で済みました。翌朝、一応会社に行ったものの誰も出社してませんでした。道路もガラガラで都市機能は完全にストップ状態です。三日後、テレビで救援物資不足を報じるニュースを見ました。以前、従兄弟が住んでたアメリカに遊びに行ったとき、ボランティア活動が、市民の生活に溶け込んでいるのを見て衝撃を受けたことがあったのですが、今こそ、ボランティアに参加する時だ!と思いました。今しなくていつすんの?と思うくらい、居ても立ってもいられませんでした。献血や募金だけでは自分に納得できませんでした。と、その瞬間友人から電話が・・・・・彼も僕と同じ事を考えていたようで、二日後、自転車に積めれるだけの救援物資を持って神戸に向かいました。用意した物は、カイロ、生理用品、トイレットペーパー、食料等です。自転車にしたのは、車だと渋滞を引き起こして被災者の方に迷惑になります。電車も同じ理由です。目的地は一番被害の大きかった長田地区。直線距離でも相当遠いのですが、その間を海の手、山の手をジグザグに避難所巡りです。横倒しになった阪神高速道路や、壁が落ちて各フロアーが剥き出しになった三宮駅前の惨状を見たときは泣きそうになりましたが、「避難所の子供にお菓子あげたら、 お兄ちゃんありがとうと笑ってくれた」と泣きながら喜んでいた友人の姿が一番印象に残ってます。被災地で一番不足していたのは水でした。それも飲み水では無く、風呂やトイレの水。派出所のお巡りさんも無精ひげボウボウで疲労困憊気味でした。また全国から警察官や自衛隊の人が集結していてあちこちの方言が飛び交っていました。学校の体育館では、ずらりと棺桶の列が・・・・・道中、遺体発見の声を聞くこともありました。街はパニック状態でした。あの経験は絶対忘れることはできません。平穏な現代社会において、一夜にして全てが崩壊するという現実を受け入れるのに、少し時間がかかりました。またボランティアの難しさも学びました。その後も何度か通って、屋根修理や炊き出し等、いろいろ経験したのですが、ボランティアは・・・●自分が出来る範囲でしなければならない。●途中で辞めることはできない。●しかし終わりを自分で決めることもできない。●ボランティアを目的にしてはいけない。 被災者の方の手助けが目的。●手助けのつもりが大迷惑ということもあり得る。 気遣いに関しては超念入りにする必要あり。●被災者を助けすぎてもいけない。 依存され過ぎると後々、責任取ることは不可能。 あくまで自立までの手助け。等、いろいろ考えさせられました。当時、「がんばろう!」は、被災地では禁句になっていましたが、今はどうされているのだろうか?「がんばってるがな!」と笑って話せる過去になったのだろうか・・・?そうはいかんでしょうね。気になります。新潟の被災者の方や世界中の津波の被害者の方も気になります。明日は、震災で学んだ「普通にに生活できることの幸せ」を感じながら、感謝の気持ちで過ごしてみようと思います。
2005.01.17
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場の空気を読むって重要です。これを怠ると悲惨な目に遭うこともあります。先日、関西にて挨拶回りで電車に乗った時の事です。席が空いていたので座ってくつろいでました。外の景色をボーッと眺めてみたり、社内の様子を観察してみたり・・・・・本当にくつろいでいました。でも何か違う!何かが違う!空気が、雰囲気が・・・・・微妙に居心地が悪い!もしかしてここは!「女性専用車両!!!」微妙な違和感を感じながらも、思いっきりリラックスしてしまった。しかも堂々とシートに鎮座しながら・・・さらに昼飯がわりのスニッカーズまで喰いながら・・・たしかに書いてある!この車両は終日女性専用のようだ。初めて乗ったよ女性車両。いつも乗ってたら怖いけど・・・。とにかく席に座ってるのはまずい!とりあえず、せめて誰かに席を譲ろう!と、思ったけど・・・・・「立ってる人、誰もいない!!!」譲りようが無い!この車両に乗っている僕同様に間抜けな男は他に居ないのか?目玉だけキョロキョロ。居た!爺さんが一人だけ居た!でも爺さんには同情票が入るだろう。この車両で歓迎されてないのは俺だけだ!間違いない!(パクリじゃないです)次の行動はどうしよう!どうするべきか?突然立ち上がって、隣の車両に移るべきか?「いや~どうもどうも」と、頭ポリポリかきながらフェードアウトすべきか?と、思ったけど・・・・・「間抜けすぎる!!!」というか、既に手遅れ!ここは一つ、次の駅でさりげなく降りて別車両に移る事にしよう。と、思ったけど・・・・・「この電車、特急だった!!!」よって暫く停まりません。数分後・・・なにくわぬ顔でホームに降り立つ僕の横にはあのお爺さんの姿が!同じ事考えてたんだね。その瞬間、初対面のお爺さんが、古くから付き合いのある同志に見えた・・・。※妙に空いてる車両には注意しましょう。※女性客の皆さん、場の空気を乱して申し訳ない!
2005.01.09
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ちょっと遅いですけど、明けましておめでとうございます。正月は大阪に帰ってたのですが、今日戻りました。帰省の目的は下記の通りです。●いきなり会社辞めたので挨拶回り●暫く会えないのでお世話になった人へのお礼参り●父親にある事を伝える為。●東京では食えなさそうな大阪旨いもん食べ歩き。●成長した子供のお披露目てなところでしょうか。残念ながら会えなかった人、食えなかったものもありますが、とにかく今年から生活の基盤が完全に東京に移るので、ある意味、区切りをつけたかったのです。大阪での顛末記は少しずつ日記で書きます。とにかく本年もどうぞ宜しくお願いいたします。※帰省中にメールや年賀状をくださった方、 ありがとうございます。 明日からぼちぼち返事を書きます! 暫しお待ちを!
2005.01.08
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