ドラゴン山田の研究室

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2006.10.25
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テーマ: ニュース(96820)
カテゴリ: Ideas
早朝のNHKニュースで、いじめ問題の小特集を見る。

いじめている方は「遊びのつもり」「軽い気持ち」「ただのふざけ」でやっている。いじめられている側がどんなに苦痛を感じ、屈辱的な仕打ちに甘んじているか、という想像力が働かない。当然、自分たちの行為が「いじめ」であるという認識もない。教師の目からも、「友だち同士遊んでいる」としか見えない(あるいは、「いじめは存在していない」という思い込みから、真実を見抜けない? 真実を直視したくない?)。本人や親や、あるいは隣近所の人々が、学校や警察に訴えても、とりあってもらえない――。1980年代が「校内暴力」「家庭内暴力」の時代であったとすれば、それ以降、現代に至るまでは、可視化されない「いじめ」の時代か。可視化されるのが、自殺者が出てからだとしたら、あまりにむごすぎる。

もっとも、確信犯で、殴る・蹴るの「いじめ」をしている場合もある。夕べのニュースでは、やりきれない証言を聞いた。いじめで逮捕・補導された加害者が、「相手が抵抗しないので、やった」という。もはや子どもの世界もまた、大人社会と同じで、弱肉強食の世界と化しているのか。確かに、ある面からすれば、子ども社会の方が残酷だ。いい意味での大人と違い、他者への配慮とか遠慮というものが働かず、むきだしの暴力がはびこる面があるからだ。しかし、だからと言って短絡的に「子どもが本来的に残酷である」ということにはなるまい。子どもは、大人の「言うこと」は聞かなくても、「やること」は鋭敏に感じ取ってしっかり真似している。「子どものいじめは、歪んだ大人社会の反映だ」というのは、単なる抽象論ではないのだ。

また、「いじめなんて、昔からあった」という声も聞く。しかし、それはどういう意味で言っているのだろうか? 「昔からあったいじめ問題が、人権が普遍化した現代でもなくなっていない。問題だ」という意味だろうか? それとも、「昔からあったことなのだから、騒ぐこともない。放っとけばいいんだ」という意味か? 昔からあったとされることに、「いじめ」という名称が与えられることによって、初めて可視化されるようになった、というのは事実だろう。それによって、「そこに『問題』があるのだ」ということに気づかされるようになったのだから。「悪気はなかった」にせよ、「単なるからかいのつもりだった」にせよ、被害者が苦痛を感じるならば、それは「いじめ」なのだ。にもかかわらず、「大人になったらイヤでもいじめられるのだから、子供のうちから『訓練』しておいた方がいい」などという認識の教員もいるやに聞く。また、逆手にとって、自分が不快に思うことをすべて「いじめだ!」と受け止め、気に食わない友人を陥れるために「いじめを受けた!」と訴え出る悪知恵の働く人間も出てくるだろう。客観的に、「ここからここまでは『いじめ』ではない」「ここから先は『いじめ』だ」という線引きができないところに、この問題の厄介さがある。しかしいずれにせよ、いじめに耐えて強くなることが「訓練だ」などというのは、かつての軍国主義にもつながる悪魔的・暴力的発想としか思えない。

私は、教育の専門家でも、心理学者でもセラピストでもない、一介の政治学徒に過ぎない。その私に、何ができる…?? 今朝は、この問いから1日が始まった。





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最終更新日  2006.10.25 08:27:25
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