ドラゴン山田の研究室

ドラゴン山田の研究室

2007.04.19
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カテゴリ: Life
説教じみた道徳論や、モラリズム的な正論に、人が耳を貸さなくなってから久しい。内容が正論であればあるほど、リアリティのない「きれいごと」にしか聞こえないのだろう。そういう「死せる精神論」には皆、飽き飽きしている。もっとも、飽き飽きしている理由は単純ではあるまい。少なくとも、「言ってることとやってることが違うじゃん」みたいに、「きれいごと」が「たてまえ」でしかなく、それを語っている人間自身が実はそれを心底信じてはいない、という「二枚舌」的な社会になっていることは、悲しい事実ではあるまいか。

しかし同時に、何の精神性もなければ、人間は生きられるものではない。いかに制度や組織を整えても、うまく機能しない。いくら行動しても、空転する。結果が出ない。そうした場合、往々にして、「何のため」という根本の理解が欠落しているか、あるいはそれを知っていても「言葉だけ聞いたことがある」というレベルで終わっているのではないか。現実に結果を出すためにこそ、精神論が必要になる。ここで言う精神論とは、「きれいごと」や「空理空論」のことではない。人々を内発的に「よし、やろう!」という気にさせる、リアルな根本精神のことだ。根っこの部分、ラディカルな部分を、「分かりきったことだ」と済ませてしまうのではなく、しつこいくらいに繰り返し想起し、常に再確認し、触発し合っていく。そういう作業を、言葉を、惜しんではならない。人々に「心からの」納得を与えることができる精神論は必須であり、それが出発点にあってこそ、行動も制度も価値的に活きる(「活の法門」という言葉さえあるのだから)。

気をつけなければならないのは、いまだに日本人のメンタリティのどこかにあるかもしれない、悪しき精神論であろう。やれ「根性」だ、やれ「気合い」だ、やれ「頑張れ」だ…等々。根性も、気合いも、頑張ることも、もちろん大事なのだが、それが一歩間違うと、良識を踏み外し、その場限りの勢いにまかせた「玉砕主義」につながりかねない。そういうのを、「桜のように潔くパッと散る」とは言わない。玉砕主義が「勇気」であるはずがない。ただ単に「野蛮」なだけだ(そういう輩に限って、何かにちょっとつまづくと、すぐに落ち込んで挫折を決め込む。軽薄な勢いは、救いがたいほどにもろいのだよ)。確かに、「常識」を打ち破る勇気は必要だが、しかし日常性から遊離して「良識」をなくすのは大いに問題だ。悪しき精神論を唱える人間がトップにいる世界は、ヒサンである。あたら有能な人材を殺してしまい、死屍累々たる屍の山を築くことになろうから。結果責任を取るということを知らない、底の浅い精神論は、それ自体が毒になる。「蛮勇」はいらないのだ。

声を惜しまず、言葉を惜しまず、常に「根本」を、「基本」を確認する――。あたかも、アディゴ隊の猛攻の中、死の間際までイデオン・ガンにエネルギーを送り続けたモエラのごとく、最後の最後まで「活きた精神論」を魂に送り続け、魂を活性化し、価値を生んでいかなければ。






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最終更新日  2007.04.20 00:10:42
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