「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
000000
HOME
|
DIARY
|
PROFILE
【フォローする】
【ログイン】
沖縄自治研究会
第6回定例研究会 上
1.前文(ファシリテータ:屋嘉比 収)
2.沖縄の沖縄自治基本法の法的位置付け(ファシリテータ:翁長 健治)
日時 2005年1月22日(土)
場所 文系総合研究棟703
【前文】
○屋嘉比収氏 ご紹介をいただきました屋嘉比です。今日は風邪をひいてしまいましてだいぶ声が潰れて聞こえない点があると思いますが、どうぞご了承ください。
私に与えられた部分は、「前文」の箇所でございます。ほぼ2カ月前に一度前文についてご報告をいたしました。前文だけ2回の報告の機会をいただいて非常にありがたいですが、前回いろいろご意見をいただいた点は付け加えましたが、どれほど文章に生かされているかは、ちょっと心もとなく感じます。
今日お配りしましたのは、前回にお渡ししましたレジュメと、そして今回用意した「前文」の案文の、2枚の資料です。今日は、前回のレジュメを踏まえて、「前文」の案文を読んで、皆さんからいろいろとご意見を賜りたいというふうに思っています。
その前に、前回配りましたレジュメの中で、前の照屋寛之先生が書かれた自治州基本法の前文に対して、私の方ではちょっと構成内容を組みかえたいという話をいたしました。また、前回の文章が長いので、もうちょっと縮めたらどうかというご意見もございました。それらの意見を勘案しまして、やや抽象的になりましたが、前回配った資料の下のほうから10行目あたりに、前文の構成内容という箇所がありますが、次のような構成内容に基づいて、前の文章を組みかえてみたということになります。
まず、前文の最初で、この沖縄自治州基本法の基本姿勢の表明をすべきではないかという点です。2番目に歴史的経緯に関する記述。そして3番目に経済的自立と政治的自立について言及し、最後に日本の外の沖縄/東アジアの中の沖縄について言及するという、そういう文章の構成内容になっています。
では、前文案を読みます。声がはっきりしませんが、私が読んでいいですか。
○佐藤学氏(代読) かわって読みます。
憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法前文案。
「沖縄に関する様々な事項について、この沖縄に生きる私たち住民が最終的に決定する権利を有する。沖縄の自治と自立を目指した私たち住民の営為は、沖縄のことは沖縄で決めるという沖縄住民による自決権を最大の基盤にしている。
私たちは、沖縄の住民の命を守ることを何よりも最優先することを宣言し、非暴力と反軍事力を基本にした平和な国際社会の構築を目指す方策に積極的に参画する。
平和への希求は、これまでの琉球沖縄の歴史に深く根ざしている。小国寡民として平和的な地域交流を重ねた琉球の歴史や地上戦としての軍民混在による沖縄戦の体験は、沖縄に生きる住民に対し、平和の尊さをより具体的で現実的な課題として教えている。
また、人間としての基本的権利と自由を制限された戦後の米軍占領下の経験と、戦後60年を経て今もなお占有する巨大な米軍基地の存在は、沖縄における平和的生存権の獲得を切実な課題としている。その意味で戦後沖縄の運動は、沖縄に生きる住民の平和と生存を希求し、獲得する営為だと言える。このような琉球沖縄の歴史を踏まえて、この沖縄自治州基本法では、日本国における画一的な道州制の導入ではなく一国多制度としての沖縄の自治、分権構想の枠組みを提示する。
その一国多制度としての沖縄の自治分権構想は、特有の自然環境と生態系に根ざし、独自の地勢学的位置を生かした沖縄自治州の政治的自立と経済的自立を目指している。その際、日本の中の沖縄という視点だけでなく、東アジアの中の沖縄という視点を重要視したい。日本の中で例外であった地上戦としての沖縄戦は、アジアに座標軸を広げると地上戦であった地域のほうがより一般的であり、むしろ地上戦を経験してない日本本土のほうがアジアでは例外な地域である。
今後のアジアとの信頼関係を築いていく際に、アジアに共通する歴史認識として、日本本土にはない沖縄の歴史的視点を大事にすることに基盤を置きたい。安全保障上の問題についても、東アジアの平和の構築のために沖縄の歴史的・地勢学的位置を生かして、非軍事的観点から沖縄の主導権を発揮する。」
○佐藤学氏 今読み上げている間に、この間の議論をやったときのことがいろいろ思い出されて、大変気配りされたまとめをされたというふうに思いました。特に現在、米軍再編の問題があって、沖縄の役割ということで様々な構想が出てくる中で、ここでこの屋嘉比先生がまとめてくださった形で、自分たちの自治州構想は平和の問題に重点を置いているということは、私はこれはいいんじゃないかなと思いました。
○島袋純氏 7段落あるんですが、最初の1段落目について。全体の構成と順番とか、そういった全体的な問題に関して後でまた話したいと思います。
「自決権」という言葉についてなんですけれども、この前上村英明さんを呼んだときに、琉球民族というのは先住民族であるという定義をされる方ですが、彼は「自己決定権」という言葉に変えたほうがいいじゃないですかという。もともとはセルフデタミネーション(Self-determination)なんですけど、「自決権」と言ったら一般の人は自殺してしまう権利、自決してもいいよとみたいな権利にとってしまうということが経験上非常に多かったということだったので、自己決定権……。最近のはやり言葉になってしまうので、こっちもまた新自由主義的な言葉のニュアンスになりかねないので、どっちもどっちかなと思うんですけれども、これはどんなですか。僕もやっぱり「自己決定権」のほうがいいかなというイメージなんですが。
○佐藤学氏 自決権というのは、一定年齢以上の人間というのは、自分を含めた上の人間には民族自決権という言葉でひとくくりになっていて、そうすると直接に独立につながるという政治的なこれまでの使い方があって、それを想起することになる。方向性としては間違っていないにしろ、ここではそれが目的ではないということを考えると、自己決定権の方が余分な懸念を引き起こさないかなという気がします。
ただ、その自己責任、自己決定というのは、今、島袋さん言ったように新自由主義的なスローガンではあるので、それもまた政治的な色合いを今帯びているので、どうかなというのはわかるんですけど、どんなものでしょうね。
○曽根淳氏 感覚的な違いが今一つわからないですけど。
沖縄住民による自己決定権ということと、沖縄人民による自決権。何か言いかえても一緒のような気もするけど、響きが違うから柔らかいほうがいいのかな。
○島仲徳子氏 先ほど佐藤先生もおっしゃっていましたけれども、「自決権」という言葉だけを取り出したときに、最初に想起するのが自決という言葉からはやはり「集団自決」という言葉がぱっと出てくるという。ちょっと年齢の高い層はそういうふうなイメージをいたします。
○島袋純氏 上村さんなんかが市民外交センターでやっている国連のやりとりを見ていると、ピープルという言葉、ピープルズ・セルフ・デタミネーション(People’s Self-determination)にしたがって主権を持ち得る単位という意味があるので、国連での会議のやりとりの際は国連の経済社会理事会の委員会の委員なんかは、「オキナワン・ピープル」と言わずに「オキナワン・ポピュレーション(Okinawan Population)」とかいう形で、彼らの意思は何だとか、そういう言い回しで、わざとピープルという言葉を使っていないんですよ。
ところが、スコットランドで、憲法制定会議みたいなものをつくったときは、明白にピープルという言葉を使うんですよ。これは完全に「ピープル・セルフ・デタミネーション」のあの「ピープル」と同じなんですよね。
そしてイギリスの場合は、主権は、形式的には国王主権ですが、キングズ・イン・パーラメント(Kings in Parliament)、これが主権を持つという発想があって、それが実質的なには議会主権になるわけです。その発想があるので、それに対抗する論理として、要するにスコットランドの分権には、英国の国家構成の基本原理を、スコットランドから少し再編する、人民主権論で再編するという意味があるんですよ。一種の革命なんですけれども、そういった意味合いをも含めてその「ピープル」というのを使っている。
それが、例えばスコットランド議会の最初の審議で議員が登場するときに国王に対する忠誠の宣誓をするんですよ。イギリスの国会と同じことをコットランド議会にも導入されたわけです。イギリスの国会では、主権者国王に対して忠誠を誓う。国王を通した国民、国家全体に忠誠を誓うというイメージなんでしょうけれども、忠誠を誓う儀式があるんですよ。このときも主権はスコットランドのピープルに属するということで拒否した人もいたわけですよね。スコットランド議会では、そうすると、アイルランドのシン・フェイン党みたいにして登場を認めないということになってしまいかねないので、反対派の議員も、ああだこうだと言ってごまかしながらやっていたんですけれども。
それを英語でやると結構明白なんですけど、日本語でやると「沖縄住民による自決権」と言ったときに、そういったスコットランド的な発想のもとにこれを置くのか。それとも、そこまでは明白に明記しないで、考えないでおくのか。実を言うと大きな分かれ目なんですけれども、今のところやっぱり沖縄の人々をもって人民というあの概念にもってして、しかも主権の単位、独立国家の構成の単位になるという。そこまでの合意は、さすがに我々の沖縄自治研究会の中でも得られていない。私がしょっちゅう主張しているだけであって、それで、そんなことを明白に主張したら自治研で、逆ににっちもさっちもいかなくなる可能性が高いだろうということで、今のところ合意を得ていない点です。
そういうことは将来的に念頭に置いて、意味を含ませながらももうちょっと緩やかな解釈の仕方ができるような言葉のほうがいいなというのは思うんですよね。
そうなったときに、例えば沖縄の問題。沖縄とか琉球どっちがいいかという言葉。それから人々を指す言葉として「住民」という言葉でいいのかどうか。こういったところは非常に悩まし問題で、沖縄というのは、琉球にとってかわるときに日本本土の国家の側が無理矢理つけた名称ですよね。これから「沖縄」を使えと、「琉球」を使うなと。琉球のすべてを払拭するために、歴史的な経緯とか文化とかいろいろなものを払拭するために沖縄という強制的に押しつけたわけです。
復帰のときは、今度は戦後米軍に「琉球」を強制的に押しつけられて復活させられた。沖縄というのを使うのを禁止に近いような形で、沖縄を使ったら政治的意図を持っているんだろうみたいな形でありました。今度は逆に復帰したら「琉球」を使ったら何か独立する気があるのかみたいな形で、全く歴史によって琉球と沖縄という言語も逆転してくるし、それから住民という言葉も、実を言うと権利の主体としてとらえる場合、住民という言葉、それでいいのかどうか。
本当は日本国憲法も、実を言うとピープルというのが日本国憲法の主体なんですよね。それをわざわざ「国民」と翻訳して、意図的な誤訳をすることによって在日朝鮮人とかそれを全部排斥していって、結局ナショナリズムの再強化に使っていったという戦後の苦い歴史がありますよね。
そういった問題も含めれば、実を言うと自治権の主体の言葉というのは、ある程度明白に政治的な主体として、どこまでどういうことを指すのかということを理解しておかないと、本当は述べると後でいろいろな問題を起こしてしまうという点が気になった点ですね。答えはないんですけれど。
○屋嘉比収氏 幾つか問題が出されましたが、分けると二つの点が指摘されたと思います。一つは「自決権」という名称についてです。僕は、「集団自決」よりはどちらかというと佐藤さんがおっしゃったような「民族自決権」の世代ですので、そういうイメージを持っています。でも、「自決」に関する意味が同じであるということを前提にしますと、「自己決定権」でも何ら問題はありません。それが1点です。
もう一つの点は、「住民」という語句についてですが、実はこれについてはだいぶ悩みました。「ピープル」をどう訳すかという問題ですね。「人民」と訳すと、どうしてもマルクス主義的なイメージがあって、それでは誤解を与えかねないと考えてちょっと嫌ったんです。それで、じゃどうするか。「沖縄人(オキナワジン)」と訳すと、非常に実体的な、人種・民族的な意味においてとられ、他方で排他的にとらえられる危険性があります。本土から移り住んで、基地問題でがんばっている人たちも多いわけですから、そのような人々が「沖縄人」から排除される危険性があります。したがって、その「沖縄人」の語をあてることについても、留保したい。それでいくつかの語句を検討しながら、消去法によって考えていくと、結果的に消極的な決定ですが「住民」という語句にしたということです。
理念からすれば、島袋さんが言うように、「人民主権」としての「ピープル」の概念に大賛成で、むしろ国家という枠組みと重なるネーションや「国民」という概念を相対化したい。そういう意味で「人民主権」としてのピープルに大賛成ですが、そのピープルの訳語にどのような語句を選択するか、となるとなかなか大変です。仮にピープルに「人々」という訳語をあててみると、やっぱりそれでは日本語の語感として弱い感じがしますよね。だから、理念の共通認識とともに、どういう訳語を選択するかが、これから皆さんと議論を積み重ねて決めることができればと思っています。
○佐藤学氏 住民は、市町村のモデル条例をつくったときに、あえて「住民」という言葉を使うという話になって、それはあのときには地方自治法上の規定としては住民。要するに、住民と市民というと市民のほうが言葉として上等という感覚がずっとあったんだけど、これは仲地博先生がおっしゃったと思うんだけど、ここは住民でいくんだよという話で住民を使ったんだよね。
その認識はあって、後のピープルの話で平恒次先生の独立論になると、カタカナの「ピープル」とされたのですよね。だから多分本当に訳語はないんだろうと思います。これは住民とここで言ったときに仲地先生がおっしゃっていたような形での、要するに地域に限定された人々という意味での住民ということ。場所のみを構成要件とする意味での住民ということなのだと読めば、住民という言葉は悪い言葉ではないはずです。
多分こういう発想をそもそも日本でしないのでいい訳語が出てこないのだろうと今思ったのです。ですから、住民とはどういう意味かという説明を後でつけたらどうでしょうか。 説明に、要するに、概念としてはいろいろな考え方があるという話ぐらいは書けるでしょう。不用意に使ったんではない、様々な選択肢を考えた上で使ったんだということを、何かの形で説明すればいいのではないかと思います。
○屋嘉比収氏 あと「沖縄」と「琉球」の名称についてですが、まさしく島袋さんが言うように、当時の統治側との関係性によってこのシマを示す名称がくるくる変わっていったわけです。中国との関係では「琉球」であり、近代日本との関係では「沖縄」となり、戦後アメリカとの関係ではまた「琉球」というように変わっていきます。ただ、歴史学では、単純に近世紀までは琉球史、近代以降を沖縄史というふうに分けていますので、ここではそれを踏襲しました。でも、逆に、その名称を使うことで何かを意味したいと思うわけですから、むしろその語句を選択した考えや意思が問われるわけで、その意思や考えが文面の中にも出てくれば、いいかなという印象も持っています。
○曽根淳氏 それは大変大事な視点ですね。ちょっと前に島袋さんと一般的なこういう活動というか、報告にしていく際に、沖縄という名称を使うのか、琉球という名称を使うのかというのをちょっと議論して、自分はより広範囲な理解を得るためには、今は沖縄という語感のほうがいいのではないかということを言ったんですけれども、島袋さんのお話を聞くと、全然そういうことではないということもよくわかったんですね。
今、話題が出てきた、要するに自分たちが何を選ぶか。語感ではなくて、自分たちがその言葉自体に意味はないのかもしれないけど、琉球を選ぶのか、沖縄を選ぶのか。あるいは新しい何か名前をつけるのか。それによって全然この精神というのが違ってきてしまうのか、しまわないのか。そこまで行くときりがないので、ここでは仮に沖縄でも琉球でも決めたとしたら、それについてさっきの住民と同じように、ここでの使い方を定義すべきなのかというのは決めておかないといけないのかなと。
積極的に言えば、新たな琉球と定義するとかというのを決めたらかっこいいとは思うんですけど、なかなか。
「独立するのか、お前らは」みたいに、最初の話ではないですけどなるかもしれないですよね。
○宮里大八氏 沖縄か琉球かの話で一つ思い出したのがあって。前に県庁にいたときに、ある事業でデジタルアーカイブという沖縄の歴史とか、風土をデジタルでコンテンツを全部整理しようという事業があって、それは当初「琉球デジタルアーカイブス」だったんですけれども、琉球の歴史とか、自然とか、そういうものを残していこうというときに、最初の構想段階では、琉球を使っていたんですが、それは国と県のお金を入れているので、最終的には「沖縄デジタルアーカイブス」になったんですね。
ですから、現状としては、世界なり日本が今理解している沖縄という名称が一般的に使われていて、琉球というふうになると、以前の国と言いますか、使われていたという意味づけで、沖縄県の事業として使う分には、琉球という名前は現状としては望ましいものではないんじゃないかということで、沖縄という名前に統合された事業がありました。
私の考えでは、琉球にすると、多分その広域的なもっと奄美まで含めた形でいろいろな可能性としても広がってくるのかなというのは思うんですけれども、やはり現状その琉球と使うと奄美はどうするんだとか、どこどこまで見るのかとか、その話は出てくるともう収集がつかなくなってしまうので、ここでは1回沖縄というのに集約をして、その後話をどんどん広げていくのも一つの手かなと思っています。
○屋嘉比収氏 今ご指摘のように、歴史的な側面とともに、地理的な概念もありますよね。やはり奄美の問題、あるいは宮古・八重山の問題が出たときに、沖縄島という言い方が今一般的になりつつありますけど、やっぱり沖縄と琉球というときには両者の間には空間的な違いが指摘できますね。沖縄は沖縄島を指す場合がほとんどですが、琉球は奄美、宮古、八重山まで含んでいますね。それと関連しますが、前回渡したレジュメの中で、非常に重要だと考えているのは、個々の島の個性を大事にしたゆるやかな連合という視点です。それは、いまの沖縄なのか、琉球なのかという議論も含めて、島々のネットワークなりとか、そのゆるやかにつながりや広がりを表現するような記述を、ぜひ「前文」の中に書き入れたいと考えています。
○曽根淳氏 それはとてもいい考えですね。結局「沖縄」って自分たちが言う場合に、漠然として沖縄と思っている場合と、今自分が住んでいる沖縄本島というのがなかなか区分けがつかないので、この中でやっぱり沖縄と言うにしても、地域、さっき宮里さんが言っていた範囲ですけど、これは別に広げておいてもいいかもしれないですけど、琉球列島を構成する様々な島々、それぞれのその個性の集大としての沖縄というような形で何か定義できて、その沖縄に住む人々の自己決定権というふうにできたらすごくいいんだけど、難しいですね。
○島袋純氏 しょっちゅうスコットランドのことばかり言うんですが。
スコットランドの例を思い出したら、最初の1979年の国民投票のときは「スコットランドアッセンブリー」という、これ「地域議会」と訳したりする人もいるんですがアッセンブリーだったんですよ。それで分権運動する人たちも、実を言うとキャンペーン・フォー・スコティシュ・アッセンブリー(Campaign for Scottish Assembly)という名目のもとに議会の復活を目指したんですが、これが憲政会議が設立すると同時に、憲政会議というのは国会議員の80%を含めた憲法制定会議のようなものですけど、パーラメント(Parliament)にかわるんですよ。パーラメントというのは「国会」という意味なんですよ。スコッティシュ・パーラメントの復活に、まさしく300年ぶりに復活で国家の復活に近いイメージに変わっていくんですよね。それはやっぱり国会議員の80%を含めた憲法制定会議みたいなのができた段階で、がらっと変えるわけですよね。
ですから最初に、多分ですけど戦略的にいろいろな本当に実現することを目指すんであれば、沖縄という言葉で初めてそれに意味を含ませて広がらせていって、ある時点でまさしくピープルズ・セルフデタミネーション的な発想で、より強力な権限を自治権が獲得したいという発想で、合意が得られるんであれば琉球に運動が広がった時点で変えるとか。そういうのが望ましい方向かなというイメージはありますね。
それで僕のイメージとしては、「琉球」というのは、中国の皇帝がつけた名前ですよね。だけど、中国の皇帝が単に琉球という名前、名称を与えたというよりも、沖縄の側から「琉球」というのを中国の皇帝に持っていってこれでどうですかというのを訊いて獲得したようなものではないかと思います。それで「琉球」と決めたときに、単に中国との関係で中国からもらった名前ということではなくて、あのころの中国を中心とする国際社会の中で正式な国名として琉球列島全体を含む地域が琉球として認められたというようなイメージを僕は持っているんですね。
だから、国際的な公式的な名称として何かしらを訴えるんだったら、対中国との関係ではなくて日本との関係、中国との関係あるいは国際的な中で何かしら主体的な働きを琉球列島全体でやるという場合は、やっぱり琉球というのを使ったほうがいいんじゃないかなという考え方は、基本的には僕の中には気持ちの分としてはあります。
○佐藤学氏 これは、よそ者の私には全然判断のつけようがないことで。
幾つかこの間、曽根さんと純さんのやりとりを、別なメーリングリストのやりとり以来考えていることで、思い出したことで言いますと。
一つは、琉大の宗前さんは、お父さんのほうが奄美の人で、琉球あるいは沖縄支配に対する反感があるということを、何度か自治研で発言していたわけです。そういう奄美の人たちは、必ずしもみんなが奄美まで含めるということに賛成ではないんだなというのが宗前さんの発言で思ったというのが一つあります。それであと宮古・八重山の人たちが沖縄島に由来する沖縄という名称にどういう感情を持つかを、私は全然知らないのでこれはわかりません。学生に「沖縄というのと琉球というのと、みんなどんな感じですか」と聞いたことある。積極的に意思表示した中では、「いやいや、全然違いは感じません」と言うんですよね。若い人たちには、言葉にくっついている様々な色合いというのはもう全然伝わってない感じがあるみたいですね。だから普通は「沖縄」と言うし、何かちょっと気取った時には、気取ったというのか、かっこつけるときは「琉球」と言う、ぐらいの感じみたいです。
自分のクラスにいた学生たちだけだから、一般化できないですけれども、少なくとも彼らには、その二つは全然変わりはないものだと認識されているみたいでした。別に他に言うことないです。
○屋嘉比収氏 今の佐藤さんの話、例えば琉球と沖縄の違いを、若い世代がほとんど違いとして感じなくなっているという指摘は、復帰して30年間の日本への同化の影響かなと個人的には思いました。もう一つは、それに対して、わたしたちが、それに代わりうる「新しい言葉」を獲得していないという点があるものと思います。その背景には、私たち自身がそこまで詰めた議論ができていないということがあるのではないでしょうか。したがって、「沖縄」と記述しつつも、それで満足するのではなく、したたかな戦略を持って、ある言葉を獲得するために何度も内側から考え直して行く姿勢をもちたいと考えています。
できれば、そういう言葉に対するセンシティブな感覚を常に世代でも違うし、どの立場に立つかによっても全然違いますので、そのような議論もぜひやりたいと思っています。
実は、高良勉さんをはじめとして沖縄の独立を主張する彼らの雑誌は「ウルマ」という名称をつけているんですね。ウルマというのは、琉球や沖縄の別称とも言われていますが、この別称も書誌的にはだいぶ怪しいとも聞いています。しかし、彼らはあえて琉球や沖縄ではなく、ウルマという名称を選択したのだと思います。これはたぶん、手垢の付いた沖縄や琉球のイメージから離れて、新たなものを獲得したいという一つの選択の結果だと思いますね。僕はその意義は非常に買いたいと思っています。でも、「ウルマ」という名称が的確かどうかとなると、それはちょっと考えざるを得ないという……。
一方、先に少しでていた島々という問題。例えば、国家を相対化したいときに、戦後日本の思想的な水脈の中に日本列島という島々の意義を再確認するネシアという問題があるんですね。つまり、近世紀までは日本というのは常に中国大陸から学んで国家形成を行なってきた。近代以降は、ヨーロッパ大陸における国家から学んできた。しかし、日本列島をそのくびきから離れて、太平洋の方から見ると、国家には縛られない島々というネシアの連なりによる緩やかな連合としてとらえられる。だから、そのネシアという意味を生かしたいという意味での、さっきの琉球列島の各島々の個性を大切にしてそのゆるやかな連合というものを考えてみたい。そういう視点をゆくゆくは盛り込みたいと考えている。したがって、議論を重ねていって、従来の沖縄のイメージそのものも内部から突き破ってみたいという、そのような思いもあります。
○曽根淳氏 曽根ですけれども、まさに言われるとおりかなと。
現実的には、やはり「沖縄」としたほうがいいと思います。たださっきの、今言われた島々の視点ですね。自分も道州制を考えるときに、対日本に対しては、沖縄は連邦的な位置づけがないというのはおかしいだろうというのを思うんですけれども、それを、じゃ自分がその沖縄全体を考えるときに、同じ考え方をその中に持たないで、沖縄全部でオール沖縄みたいに思ってしまうのはおかしくて、本当は例えば奄美群島政府とか宮古群島地方政府、八重山群島地方政府、本島群島地方政府みたいなのがあって、それらの緩やかな連邦として琉球諸島政府とかというのがあるというのが、理念的にはやっぱり自分が対日本に対してそういうふうに思うんだったら、沖縄を構成する島々に対しても、そういう理念を持って決めないといけないというのが基本だと思うんですけれども、やっぱりそれは次のステップなのかな。
○屋嘉比収氏 今の話で思い出したのですが、今福竜太という「クレオール主義」という本を書いた人類学者がいますが、例えば、われわれが「ネシア」と言ったときに、「島々」と理科しつつも、奄美から与那国までの琉球列島という枠組みが何となくあるんですね。しかし彼に言わせれば、与那国から続く、台湾や香港やマカオなども群島なんだと。つまり、大陸とは違う、この南の東アジアにつながる香港から台湾・琉球・奄美までも群島として考えたら、もっと違う国家の縛りのない、そういうイメージが喚起できるんだという指摘をしています。
だから、トカラ列島から香港までずっとつながっていく。さらにそれは、さっきの島のネシアという南太平洋にもつながっていく広がりを持つわけですね。そういうイメージをできれば喚起するような議論を重ねてみたいという思いがあります。
○宮里大八氏 申しわけありません。ちょっと帰らないといけないので、関連してその地域の定義みたいなことで、一番最後のほうで「日本本土」という使い方をしてますよね。これは、ほかの言い方はないのかもしれないんですけど、「本土」、「内地」とかいう言い方を、ついしちゃうんですけど、やっぱりさっき言うような地域を総体化するためには、あまり使わないほうがいいのかなと。だから、本来は沖縄以外の日本の他地域ということにはなるんだと思うんですけど、この本土という言葉を使わないで言えるといいなというのをちょっと最後に申し添えます。
○屋嘉比収氏 何か、袖の下から鎧が見えたようで。僕もそう言いながらやはりまだ「沖縄」と「大和」という、対「日本」というような、そういう枠組みがまだ根強くあるのかもしれません。しかし、一方ではその二項対立の枠組みは簡単に手放してはいけないのではないかという思いも少なからずあって、これはずっと議論をできれば続けましょう。
(発言する者あり)
そうなんですよね。沖縄のイメージでは、本土と言ったら東京しかイメージしてない場合が多いと思います。だから、一つ一つ言葉の意味するものを「検討」しながら考えていると、さまざまな議論が必要になりますよね。
○比嘉俊雄氏 今、沖縄という場合、八重山とか宮古の方々は「沖縄に行く」というような表現をするようなんですよね。だからそういった面では、沖縄ということだけでいいのかなという思いもあるんですが。
ただ、沖縄とか、琉球とかいうのは、そこに住んでいる人たちから出てきた名称というよりは、やはり統治者の意向によって沖縄になったり琉球になったりみたいな印象を持っているんですね。そのへんちょっとはっきりしたことがわからないんですが、私は印象としてそうなんですね。
それで今回、現在の世の中に生きているわけですから、やっぱり広くそこに住んでいる人、そして対外的にも周知していくという意味では、何か沖縄がいいのかなと。ただし、沖縄と言った場合に離島の皆さんはどう考えるかというのは、なかなか難しい面もあるかと思うんですが、それと奄美大島等も含めてという、そういう地域的なことも出てきたんですが、それも2、3日前に奄美と沖縄は一体化だというような、緩やかに一体化すればいいみたいな論文が新聞に載ってたような感じがしたんですけどね。
ただしかし、そういう場合に、沖縄側からそういうふうに規定していった場合に、じゃ鹿児島県とのつながりというのはどうなるのかなということもちょっと。ただ沖縄の歴史的な流れだけでそういうふうな提案をしていいのかなというふうな思いもちょっとありました。以上です。
○屋嘉比収氏 平仮名にしたり片仮名にしたり、いろいろ考えてみたのですが、やっぱり手垢が付いているものですから、イメージがなかなか合いませんね。
○佐藤学氏 これも結局、結論が出るわけではないので、また何かこういう言葉の背景にはこういう議論があるという。みんな知っていることではあると思うんですけれども、それをこれまた解説文に書くという形がいいんじゃないかなと。
○屋嘉比収氏 注釈で。
○佐藤学氏 はい。言葉の話でいうと、「うるま」の話で少し前に「うるま」という言葉はそもそもサンゴの島という意味はないという、そういうことを主張している新聞の論壇投稿があったじゃないですか。昨日、たまたま沖縄琉球方言専攻の同僚に聞いたところ、そういう説はずっとあるのだそうです。要するに、新羅の領地であるというのがもともとの意味で、後から、たまたま「うる」というのが「サンゴ」という意味もあるので、「うるま」というのが「サンゴの島」という解釈になったんだけれども、もともとは新羅の領地というのが本当らしいというような話でした。
そうすると、言葉というのは、何にしろ自分がどう規定するかによってしか決められない。元々の意味といったら、沖縄というのは、あんまり崇高な名前ではないので使わないという意見も読んだことがあるのですが、元の話を始めたらきりがない。だけども全然無視するわけにもいかない。アメリカでは、1960年代以降、言葉をどう使うかという問題に、非常に敏感になっていたのです。ところが現在、揺り戻しがきてしまっていて、敏感になりすぎて何も言えなくなっちゃったじゃないか、言葉狩りになっちゃったじゃないかという批判が人気を集めていたりします。
そういう批判を言っている人たちは保守的な人たちが多くて、支持できない部分があるのだけど、ただ、言葉の話では恐らくは「正しい」答えは無いのだろうとは思います。だから、どこかで決めて、これに関しては、こういうつもりで使うんだということを明らかにするしかないんじゃないかと自分は思うんですが。
○島袋純氏 前回の市町村条例のときは1年半かかっているんですよ。それで同じことを2回やって解説文書まで議論し合って、解説文書の個々の一字一句まで議論し合ったんですよ。それで話し合って決めて、こういう解説文を出して世の中に出そうという話をしていたんですよ。だけど今回は半年だけで終わってしまって、あと予算が続かない部分と、解説文書をつくる次のステップまでいけるかどうかというのにちょっと問題があって。
今後、終わった段階で来週、この自治研究会を今後どのようにして続けていくのか、続けていく気があるのか、続けていこうと思っている人は何名いるのか。それとちょっとかかわってきて、もう1回新規まき直しやらないといきないんじゃないかなという、そういう状況です。
○屋嘉比収氏 1段落はよろしいですか。2番目のパラグラム。
○島袋純氏 2段目はあんまり問題とかなくて、3段落の小国寡民という言葉は、何かしら意図的に使っているように思うんですが、これはどういう意図で?
○屋嘉比収氏 これは、基本的には中野好夫の文章を背景にしていますが、例えば、近代日本の思想には、軍国主義や国家主義を旨とする「大日本主義」と、軍事力に訴えるあり方を極力避けて商工業の発展によって個人の自由な活動によって国民の福利を進展させる「小日本主義」の系譜があります。つまり、国家観を考えるときに、軍事力を背景に他国を侵略していく大国のあり方ではなく、小国ではあっても国民の個々の自由な活動を重視する方向性を志向したい。たぶん日本国の中で、「沖縄自治州」といった場合には、そういう小国としてのイメージではないか。中野は、復帰後の沖縄の将来のあり方を「小国寡民」としてとらえたわけですが、沖縄という地域にアイデンティファイしながらも、軍事力によって他国を抑圧する志向性とは違った、それはまた国民国家のあり方とも違う道筋として、自然と人々との共生を重視するあり方として「小国寡民」という語句を使いました。
これは、例えば近世史においては、中国という大帝国を中心とした東アジアの中で、小国で資源のない琉球が交易を盛んにすることで平和を構築していた歴史があるわけですね。ですから、そういう知恵を生かす意味でも、この小国寡民という思想はこれからの沖縄州を考える上で非常に有益だと思います。石橋湛山も「小日本主義」ですが、今の日本の状況はまったく逆を志向している。むしろ、沖縄からそのような「小国寡民」という問題を提起することが重要ではないかと思います。
○佐藤学氏 恐らくは今の島袋さんの問題提起は、この言葉がどれだけわかるのか、流通しているのかということでしょう。だから、地域的に言ったら小さくはないんでしょうけど、別に人口が大きくない国という意味ですが、沖縄は、また国なんだか何だか、困ったですね。それで括弧して「小国寡民」にする、あるいはその小国寡民という言葉がどういう概念なのかをまた注につける必要があるかもしれない。多分この言葉は初めて見ると人が多いはずだと思うので、説明が必要ではないかという議論です。
○屋嘉比収氏 他の章の条文というのは、法律の用語で、ある意味できちっとわかる。しかし前文の場合には、他の章と違って、基本法の考え方の基本方針や歴史認識をふくめていろいろなことが言えるのではないかと思います。
そういう意味では、やはり今佐藤先生がおっしゃった部分で、こちらとしては、言葉一つ一つの背景にある文脈とか、それに込めた思想などを含めて、できれば「注釈」で書きたいと思っています。
権力を持たないといいましょうか、相手に対する関係のあり方とか、小国というスケールであれば、そこに住んでいる人々はもちろん少ないわけですね。お互い顔が見える。そういう直接民主制的な関係における相互関係のあり方、そういうイメージをもっています。権力を持たない少数の人々がお互い助け合っていくと言いましょうか、相互に信頼し共生していく関係を築いていく。この言葉はむろん漢語からきているわけですが、中野さんはそのような意味を込めて、沖縄の将来像として「小国寡民」の像を提起している。
○___よりはちょっと落ちるという。
○屋嘉比収氏 落ちるというよりも、むしろ従来の上下関係とは違った関係を逆にこちらが提起するという姿勢。寡民ということは、多数より少ないということではなくて、そういうイメージや従来の枠組みを組みかえていくという、むしろ積極的な意味を込めて使われている。中野好夫さんは、そのような意味において使用しているように記憶しています。沖縄がこれから目指す道は、例えば平和の志向とか、あるいは非暴力の伝統とかという思想があるわけですが、まさしくそれは小国寡民の思想と言えるように思います。軍事力で他国を圧倒しようとするどこかの国の国民とは違うあり方を、沖縄州では模索しそれを目指したいとの思いを込めたものといえます。
○島仲徳子氏 質問だったんですけれども、今もう答えをおっしゃったような気がしますけれど。文章的にはこの「小国寡民として」という部分を削除しても、文章としてはおかしくないという気がしたんですね。小国寡民という理解をするためには、いろいろ説明が必要であればこれを抜いたらどうかなと思ったんですが、でも、今おっしゃいました「寡民」という言葉に込められた意味の深さを考えると、その小国寡民は削除できないのでしょうか。
○屋嘉比収氏 その言葉の持つ思想を削除したくないんです。しかし、この言葉だけに変にもたれかかるとまずいので、何とか語句を検討しくだきながら、文章を書き直していきたいと思います。基本法が目指す姿勢というか、そういう基本方針をこの言葉に込めているものですから。確かに、漢語ですからわかりにくいですね。これは注釈にするか、あるいはもっと違う言葉にかえて意味をつないでいくか。それは後で検討させてください。
○佐藤学氏 本当は日本が戦後、小国寡民でやっていこうという話だったので、今だってそれは沖縄だけでなくて日本全体に対しての問いかけとして、これをここに出すというのは意味がある。注釈をつけてこれを出すと。あるいはこれを注釈にする形が、私はいいんじゃないかと思います。
○島袋純氏 今のお話を聞くと、やっぱり強大な軍事力を持った国民国家、画一的な文化、一体性の、それで軍事的にも強固で戦っていくという、それがぶつかり合った第二次世界大戦とか。そういったものを反省してできてきたような概念の言葉、ニュアンスだとすれば、やっぱり「小国寡民として平和な…」、「地域交流」って、今実際使うのは市町村姉妹都市とか、そういう都市との交流とかそういう言葉。どちらかというと「国際交流」とやったほうがいいかなというイメージですね。だから、そういった国際的な何か主体になり得るというイメージと、それから地上戦としての軍民混在による沖縄戦の体験というのは、軍と民がたまたま偶然一緒になったんですよというようなイメージにどうしても見てしまうので、これはやっぱり国家が人間の盾として住民を意図的に軍の前に出して用いたという、人間の盾として住民を用いた地上戦としての沖縄体験とか、何かそういった軍事対抗が住民を地上戦にさえ使うんだという部分を出したほうが、小国寡民という発想とつながるかなという気がしました。
○屋嘉比収氏 実は前回、島袋さんから、その沖縄戦というのは、住民を盾にして国家、国体を守った戦争とも言えるんじゃないかという指摘があって、僕はちょっと目を開かれたんですが、例えば沖縄戦の研究の中でそこまで踏み込んだ形で、実証的に言えるかとなると、ちょっと僕自身が曖昧でまだ不安であるという点もあります。でも、考え方とすれば現在のイラク戦争の問題を含めて、それに引きつけながら考えてみると、ああなるほどなという感じはしたんですが…。そこまで言い切れる自信がまだないような気がします。
例えば今の教科書問題でも、住民虐殺さえ削除するような日本の文科省の歴史認識に対して、例えば住民を盾にとった沖縄戦という認識が、どの程度に議論の相手側に届くのか。いや、そうではなくて、こちらはこちらの主張を明確に押し出せばいいんだという趣旨なのか。そのへんが、僕自身もちょっとあいまいな点もあるものですから…。
○島袋純氏 もちろん、ここの中南部の地上戦において、いろいろ具体的、個別的な場面で人間の盾として住民を使うというのもあったと思うんですけれども、それと同時に、大本営の方針として、要するに本土防衛の最後の防波堤、捨て石ということなんですけれども、これはそのまま沖縄を盾にするという意味なんで、もう使っても別に問題ないと。この大方針があるからこそ、現地において、住民だって盾にしてしまうということですよね。
○屋嘉比氏 本土防衛の捨石という点ではもちろんそうですが…。自分の専門領域だと急に消極的になっちゃって恥ずかしい限りですが。わかりました。それはちょっと考えさせてください。
○佐藤学氏 大学生の間では小林よしのりが広く読まれていて、小林よしのりがここのところ沖縄のことをずっと書いていて、何を言っているかというと、要するに沖縄県民は第二次大戦、沖縄戦に主体的にかかわったんだと。主体的に日本軍と共に戦った、というようなことを主張して、それを真に受ける沖縄県出身の大学生とよく議論をするのです。
だから、今、屋嘉比先生がおっしゃった懸念というか、どう届くかというのはよくわかるところで、もしかすると、これまで自明のものとして考えてきた、例えば沖縄戦、地上戦云々ということを、もう一度本当は理論武装し直す必要があるということなのかもしれないなと。本当に小林よしのりの浸透力というものはすごいもので、ほかのことでは全然おかしなことを言わない学生がまるっきり信じてしまうのです。漫画の浸透力は凄いものがあります。
○屋嘉比収氏 僕も4月の授業の最初あたりでは、学生が時々小林よしのりの本を持ってきて、「先生の言うのと違う」というふうに問いつめられている方ですから、それはよくわかります。授業を半年間行なう過程で、彼らも変わっていきますので、そういう意味で、やはりこちらがもっと理論武装すべきだと思います。
小林の議論というのは、もう既に何度も否定されたことを漫画というような非常に浸透しやすいメディアで新しい若い世代に語りかけていくものですから、非常にやっかいですね。それは1960年代に防衛庁資料室が出した「沖縄県民の崇高なる犠牲的精神の発露だった」という、その考えを今また漫画でわかりやすく繰り返すものですから。
この部分、全体のトーンともまた重なってますね。つまり、日本国民という大多数の保守的な人間との間に対話が成り立つような記述にするのか。そうではなしに、こちらはこちらとして、彼らを気にせずに自分たちの考えを主張すべきであるのか。それについては、他の章の権利の問題を含めて、できれば皆さんの議論を聞きたいと思います。そのへんが僕の中でも書きながら少しずつブレていくんですよね。
○島袋純氏 さっき県の曽根さんが言ったんですけど、道州制の研究会の中では、基本的にまさしく小泉の骨太の方針まで利用しながら現状の日本の中枢でも認めてくれそうな道州制というのを検討しているんですよ。「県庁の職員だからそれしかできないよ」とかいうことを言っていた場面もありましたけれども。
ただし、自治研究会の場合は完全に民間の自主的な研究グループなので、何かしらそういった現在の体制中枢、そういったもの等を意識して、そこに必ず組み入れられるよということを必ずしも考えなくてもいいんじゃないか。もっと自由に考えていいんじゃないかという出発点はあったわけですよね。
ただし、全く実現できない夢物語ばかりで言って自己満足で終わってしまって、いつまで言い合ってお互いに仲間同士で留飲を下げて「はい、終わり」ということでは、それでもしょうがないという問題があるわけですね。だから、自由な発想でいながらも、それなりに説得的な何かしらの起爆剤になりたいという点があって、その両立が非常に難しいところではあるんですよ。だから、常に恐らく新しいこちらからの概念、こちらからの自分の自己イメージ像の転換とか、それからそれを持ってまた今度は本土の中枢に語りかけて、向うのほうのイメージを変えていってもらうという働きかけが恐らく必要になると思います。
この前自治学会のときに、地域制度調査会の委員の方が何人か来ていて結構話しして、自治学会の中枢的なメンバーと話をやったんですけれども。自治学会イコール政府の中枢というわけではないですけれども、地方制度調査会の重要メンバーがいるものですから、どういう意向かとちょっと探ったんですけれども。
中央では考えられないような斬新的なアイデアを沖縄から出してほしいと。どちらかというと、そっちを期待して揺さぶってほしいと。それで地域制度調査会のメンバー、これ今の自治法を改正したような非常に権威ある調査会なんですよね。今までの調査会と違って。メンバーは、逆に今まで沖縄から意見が少なかったから、中央制度調査会の中でも意見は言い出しにくかったんだと。かえって、より沖縄側が明白なこういう意思を持っているんだということを言ってほしいということを、逆に強く要望された次第なんですよね。
ですから、本土の保守の中枢とか、あるいは権力の中枢だとか、あるいは地方制度調査会、経済諮問会議の中枢が、すぐ受け入れて、理解してくれて、すぐわかりやすいような沖縄イメージ像をまたこちらで再生産して提示するよりも、でき得る限り微妙に沖縄側が発案したイメージでずらしていってこちらに引き込んでいくという戦略をとったほうが、自治研究会の役割としてはいいんじゃないかなという気がしています。
○屋嘉比収氏 それは、おもしろいですね。トラブルや攪乱を、ぜひこの基本法から提起していきたい。ノーマ・フィールドが、今の閉塞した時代にはむしろファンタジーが必要であるという指摘をしています。そのファンタジーというのは、けして荒唐無稽な非現実的な出来事をいっているのではなくて、むしろファンタジーをもつことで、閉塞した現実に対して新たな発想を生み出していくから重要だといっています。
いまの話を踏まえた上で、文章をもう一度見直したいと思います。次の段落についてはどうでしょうか。僕はちょっと気になるのは、欠落している項目があるのではないかという点ですが、どうでしょうか。前の照屋先生の文章と比べて抽象的で、逆に具体性がないのではないかと気にしていますが。
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
普通の日記
6日の日記(2)
(2026-05-07 14:16:32)
気になるニュース&話題(Infoseekニ…
ぱーてぃーちゃん・信子が大幅な体重…
(2026-05-07 19:00:05)
あなたのアバター自慢して!♪
韓国での食事(11月 12日)
(2025-11-15 02:35:31)
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Design
a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: