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2021年07月21日
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カテゴリ: 尊徳先生の世界
「近世の村と生活文化ー村落から生れた知恵と報徳仕法」(大藤修著)には、「谷田部藩の尊徳仕法の導入と経緯」の項目があり、非常に啓発されるところが多い。
報徳仕法は為政者に高度の倫理性を要求する。
分度を確立し、余剰を農村など被支配層に還元し再投資することを要求する。
困窮窮まった時には、なんとしても目前の困窮から逃れたいばかりに仕法実施を懇願する各藩は、尊徳の要求を受け入れるのだが、一服すると、上に薄く下に厚い報徳仕法のやり方に不満を生ずる。
また被支配層も支配層の倫理性のなさに異議申し立てをする。
被支配層の異議申し立てを嫌った支配層は分度を廃止し、農民の覚醒を促そうとする尊徳の考えと農民との関係を絶とうとする。
以前「報徳記を読む会」の有志で栃木の桜町陣屋の見学に行った折、「報徳仕法は多くは失敗しています」と隣接する二宮尊徳資料館の館員の方が言われたが、失敗したではなく、仕法を導入した支配層が仕法を中途で放棄したのである。
その意味で、報徳仕法は常に支配層、施行する側に高い倫理性を要求するのである。
花、自然の画像のようです

「近世の村と生活文化ー村落から生れた知恵と報徳仕法」抜粋131ページ


 谷田部藩が尊徳仕法を導入した発端は、野州芳賀郡中里村の出身で、江戸に医術の修行に出ていた中村元順が、親族の桜町領物井村の百姓岸右衛門から、尊徳の仕法のことを伝聞したことにある。
 元順は、自らが借財に苦しんでいたことから、岸右衛門に無利息金拝借を尊徳に頼んでくれるよう言った。すると岸右衛門は、あなたが借財に苦しんでいるのは、「財を施す事はさておき、草根木皮の類で薬代を貪り、その身を富ます」ことしか念頭にないから、世間の人々に人徳を慕われることがなく、だから医業も不振なのだと批判した。自分もかっては、自己の利益しか考えなかったが、二宮様から御教諭を受けて、他人の生活が成り立つよう献身してこそ自分の家業も安泰を保てるということを悟って、「ただただ大勢を助ける道であるから、自分の事は生活を取り縮めて、冥加(神仏の加護に対する報恩)のために無給で」二宮様の手足となって働いているのだ、と話してきかせた。
 後に元順は、谷田部藩の藩医中村周圭の養子となり、養父の死後家督を相続して細川候の侍医となった。細川家の財政の窮乏を知った元順は、若殿喜十郎に、尊徳の仕法が農村復興と財政再建の妙法であることを話した。
天保4年(1833)の凶作によって打撃を受けた細川家は、窮状を打開するため尊徳の仕法に期待し、天保5年(1834)1月、喜十郎は内々に元順に命じて、桜町陣屋の尊徳のもとに仕法の依頼に赴かせた。尊徳は「国の興廃、一家の執政・存亡にかかわることは容易ならざる根元」であり、喜十郎殿は養子に来られたばかりで、性急に家政改革を行って失敗したら、腹黒い臣は喜び、父子の間も疎遠になります。「自己を慎んで、天然の時を期し、まごころを尽されるならば、外患を除き行なわれることもあるでしょう」と諭して断った。
天保5年2月7日、江戸の大火で谷田部藩の柳原の藩邸が全焼し、細川藩はますます窮地に陥った。この非常事態を契機に「長門守父子、重役ども一同挙げて衆議一決して」元順に公式に尊徳への仕法依頼に当らせることになった。
6月1日、元順は尊徳のもとに赴き、藩の窮状を訴えて、仕法を懇願した。
これに対して、尊徳は「国家の興廃、民力の盛衰によって発すべきものであるから、国の元は民である事を、しっかりと理解したのであれば」お世話もしようと答えた。
つまり、仕法を引き受ける第一の条件は民を基本とする政治の基本方針であったのである。
尊徳の質問に対して、元順は、藩の借財の状況、貢租の収納状況、領内の生産条件、荒廃の状況など説明し、農村の荒廃の原因は「谷田部と茂木の両方の村々とも惰農ばかりで、年来の悪い風習が止まない」ことにあると述べた。
これに対して尊徳は「天に私無し。恐れるべきことだ。これによって自分の分限を引き去って、困窮した民を救い、子孫を相続させるよう行ない、水脈を整理し、荒地を開発し、その米と麦をもって、困窮した民を養って、領民を賞するならば、善い種を蒔いて善い草を生じ、天の自然に叶うようになう」」と説いてこの仕法の趣旨を両殿様が御承認されれば仕法を引き受けようと返答した。
 元順が尊徳の説いた内容を長門守父子、重役に報告し承諾された。

 元順が尊徳の説いた内容を長門守父子、重役に報告し承諾された。
9月14日、元順はその旨を尊徳に告げた。尊徳は、藩財政の分度を確立し、経常費及び家中の俸禄・役料はその内でまかない、「分度」外の収入で「窮民撫育。荒地再開発、難村取直しの手当て備えにいたすべきである」という具体的な条件を提示して、これが受け入れない限り「興国救民趣法取興」を引き受けるわけにはいかないと申し渡した。
谷田部藩側は、尊徳の提示した条件を受け入れ、元順と在所の藩士に命じて桜町陣屋に詰めさせ、尊徳の指導のもとで諸帳面類を調査させた。
その結果、貢租の収納量は延宝期に比べ近年は半分近くに減少し、累積の借金の返済額は13万両余に上っていることが判明した。
これは1年分の貢租をすべて借金の返済にあててもようやく元金だけ返済できる額である。このことを長門守、重臣に報告したところ、「上下あげて驚き入り、この上立て直す手段もあるべきものかとうち寄って評議」した。

 改めて事態が深刻なことを知った谷田部藩は、「いよいよ上下一和をもって、衆力精誠実あい凝らして」尊徳に仕法を懇願することを評決した。
天保5年10月17日、藩命を受けて仕法懇願に来た元順に対して、尊徳は具体的に藩財政の分度案を示し、10ヵ年の仕法期間中は絶対にこれを守るように命じた。
谷田部藩側もこれを承諾したが「救民興国趣法」の資金がないので尊徳に相談したところ、尊徳は桜町領の「分度」外の収入を積み立てた報徳金のうちから1000両ほどを融通することを約束した。





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最終更新日  2021年07月21日 20時10分54秒
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