New Worid

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マクマホン帝国とWWWF誕生

 ”マクマホン一族のルーツ”

 WWWF(ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション)つまり現在のWWE(ワールド・レスリング・エンターテイメント)が発足したのは1963年5月。WWWFを設立したのは東海岸地区に勢力を誇っていたビンセント・ジェームス・マクマホン(以下、ビンセント)で現在のWWEオーナー、ビンス・マクマホンことビンセント・ケネディ・マクマホン(以下、ビンス)の父親です。ビンセントの父、ビンスの祖父にあたるロドリック・ジェス・マクマホンもプロレス、ボクシングのプロモートを東海岸地区で辣腕をふるっていた人物です。ジェスが生まれたのは1878年。初代統一世界王者ジョージ・ハッケンシュミットと同じ年に生まれ、1925年マジソン・スクエア・ガーデン(MSG)でプロボクシングの興行を行ないました。これがプロモーターとしての初仕事であり、マクマホン一族隆盛の第一歩となりました。世界大恐慌や第二次世界大戦といった激動の時代を乗り越え1954年72歳で亡くなりました。後を継いだのが息子であるビンセント。1956年ビンセントは初めてMSGでのプロモートを行い成功します。そして1958年MSGの興行権を独占することに成功しました。
 さて時を1948年に戻します。同年7月14日、ナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)が発足します。発足人はセントルイスのプロモーターであるサム・マソニック。このとき参加したのはマソニックを入れた6人のプロモーターで、設立の動機は大物スターの共有、世界王者による加盟テリトリーへのブッキング、レスラーへのギャランティの取り決め、参加を拒否したレスラーに対するブラックリスト作成など。ちなみにこういった行為は独占禁止法に違反するもので、事実1956年司法省から告発されたこともありました。そういった揉め事があったにもかかわらずNWAがアメリカ最大のプロレス組織として成功していきます。
 NWAが成功したのには2つの理由があります。1つはNWAの会長となったサム・マソニックの手腕。最盛期で40人以上ものプロモーターを結束させた手腕は並大抵じゃない統率力の持主といえます。もう1つはNWA世界王者となった”鉄人”ルー・テーズの実力。1932年、16歳でデビューし5年後の1937年に史上最年少21歳で世界王者になりました。第二次世界大戦中は兵役のため王座戦線からははずれてましたが(レスラー活動は続けていた)大戦後の1947年に旧NWA世界王座を獲得しました。ちなみに旧NWAはマソニックらのNWAとは別組織です。1948年のNWA発足のときにテーズと創立メンバーの1人で世界王者に認定されたオービル・ブラウンと統一王座戦が行なわれる予定でしたが、ブラウンが交通事故で現役活動が絶望となったので自動的にテーズがNWA世界王者となりました。その天下は1956年に王座を明け渡すまで続きました。その間936連勝という途轍もない記録を残すなど鉄人と呼ぶに相応しい活躍をしていました。
 テーズ全盛時代にジェスとビンセントのマクマホン親子はどうしていたかというと、ビジネスパートナーであるトゥーツ・モントと共にニューヨーク地区を盛り上げていました。当時のニューヨークのスターレスラーはアルゼンチン出身(本当はイタリア出身)のアントニオ・ロッカ。リングシューズを履かず素足でリングを駆け上がるロッカにニューヨークのファンは熱烈に支持しました。強いて言えば60年前のエディ・ゲレロみたいなものですか。もっともテーズはニューヨークのプロレスとはソリが合わず、ロッカ、後にWWWFの王者となるブルーノ・サンマルチノに対する評価も低いようで、まあ相性の問題なのかも。それでもロッカがニューヨークのヒーローであることに変わりはなく1962年、つまりWWWF設立前年までニューヨークで活躍していました。やがて1人の男がNWA世界王座を獲得したとき歴史が動き出しました。

 WWWF誕生とネイチャーボーイ”

 1961年6月30日”ネイチャーボーイ”バディ・ロジャースは時のNWA世界王者パット・オコーナーを破りNWA新世界王者に君臨しました。元々の本名はハーマン・ロイドでしたがのちにリングネームであるバディ・ロジャースに改名しました。1921年生まれで1939年18歳でデビュー。40歳でNWA世界王者となったわけで、かなり遅咲きです。それ以前はロサンゼルス、シカゴ、ボストン、オハイオといった地区で世界王者として活躍していました。ネイチャーボーイというニックネームは今ではリック・フレアーの代名詞ですが元祖はロジャースで、ロジャース=ニック・ボックウインクル=フレアーといった系譜で受け継がれました。NWA世界王者となったロジャースの試合のブッキングは主にビンセントが管理し、そして世界タイトルの運営権はシカゴのフレッド・コーラーが掌握しました。
 シカゴ地区のプロモーターであるフレッド・コーラーは1948年ドゥモン・ネットワークにて”レスリング・フロム・マリゴールド・ガーデン”というプロレス番組に携わり、一躍プロレスブームに火をつけました。この番組に登場した主なレスラーは、バーン・ガニア、ザ・シーク、ディック・ザ・ブルーザー、キラー・コワルスキー、ジョニー・バレンタインなどいずれものちに超一流のレスラーとして名声を馳せたレスラーが活躍しました。それ以前にもドリー・ファンク・シニア(ドリー&テリーのザ・ファンクスの父)がコーラーのテリトリーでデビューしました。そしてロジャースがNWA世界王座を獲得した2ヵ月後にNWA会長に就任しました。就任時コーラーは各プロモーターにロジャースを満遍無く各テリトリーに回すから稼いでくれと言いながら実際は主にシカゴーニューヨークのラインでNWA世界王座を独占しました。
 この事態を重く見たマソニックは秩序回復のために会長再就任すると同時にルー・テーズに王座奪回を指令します。しかしロジャース陣営は巧みに回避しようとします。そこでマソニックは切り札として王座規約である25000ドルの上納金を没収するとロジャースに通達します。これはもし王者がプロモーターが指定した試合を拒否したら保証金としてNWAに預けていた25000ドルを没収されることになっています。こうしてロジャースはやむなくテーズと試合をすることになりました。結果はロジャースの敗北によって王座転落。
 しかしこの結果を不服としたビンセントは王座戦の無効を主張しNWAを離脱。WWWFを発足します。バディ・ロジャースを初代世界王者に認定します。5月17日MSGで王者ロジャースVS”人間発電所”ブルーノ・サンマルチノの王座戦が行われました。
 余談ですが実はビンセントはWWWF発足の以前にWWWAという団体を作りました。要はWWWFのプロトタイプという表現が妥当でしょうか。僅か2ヶ月でなくなりましたが。

 ”パワーハウス=人間発電所ブルーノ・サンマルチノ登場”

 1963年5月17日MSGでのバディ・ロジャースVSブルーノ・サンマルチノの王座戦はその後のWWWFの運命を決める一戦となりました。結果は僅か48秒でサンマルチノの完勝。ビンセントがWWWFの主役に指名したのはサンマルチノでした。
 ブルーノ・サンマルチノは1935年生まれで、このとき28歳。イタリア出身で1950年に家族と共にアメリカへ移住。59年にプロレスデビュー。キャリア4年のサンマルチノがWWWFの主役になった理由はニューヨークを中心に東海岸にイタリア移民が多く在住していたからで、彼らに目をつけたビンセントが絶対的ヒーローとしてサンマルチノを指名したのです。  ロジャースはいわばサンマルチノの”噛ませ犬”として初代王者に指名されたといっていいかもしれません。もっともこのときロジャースは心臓を患っていて王者を務まる状態ではなかったのも確かで、サンマルチノ擁立は必然的だったといっていいでしょう。この試合後ロジャースは引退しますが、78年ノースカロライナ州シャーロットで復帰します。対戦相手はリック・フレアー。このとき29歳。ロジャースを破ったフレアーはロジャースから”ネイチャーボーイ”の称号を受け継ぎました。

 ビンセントの狙い通りサンマルチノはイタリア移民の熱烈な支持を得て一躍スーパースターに君臨しました。ファイトスタイルはパワーで相手を押しまくる単純なスタイルでした。例えばルー・テーズやジャック・ブリスコ、ダニー・ホッジ、バーン・ガニアのようなテクニック主体の器用なタイプではなく、不器用なタイプのレスラーでした。しかしニューヨークのファンはむしろそういう分かり易いサンマルチノのスタイルを好んでいました。これはハルク・ホーガンの時代まで受け継がれました。サンマルチノの主なライバルはゴリラ・モンスーン、ビル・ミラー、キラー・コワルスキー、フレッド・ブラッシーなど。
 ゴリラ・モンスーンは1963年にデビュー。63年10月にサンマルチノに挑戦します。両者の対戦は毎回MSGをソールドアウト(超満員)になったほどの人気カードでした。のちに2人はタッグを組むことになります。1979年に引退します。その後ビンセントの後を継いだビンスはモンスーンをTVアナウンサーにしてジェシー“ザ・ボディ”ベンチェラ、ボビー”ザ・ブレイン”ヒーナンらと組ませて実況を担当することになります。今でいえばジム”JR”ロスとジェリー”ザ・キング”ローラー、マイケル・コールとタズのような存在になりました。
 ビル・ミラーは世代的にはバディ・ロジャースと同年代のレスラーで、この頃は下降気味だったのかな。それでも実力的にはサンマルチノといい勝負だったようですが。ミラーの場合はマスクマンのドクターX、ミスターMのほうが有名で、ドクターX(ミスターXだったかな?)として日本に来日したこともあります。あのカール・ゴッチも認めていた実力者でもありました。
 キラー・コワルスキーは1926年生まれで、1947年デビュー。1954年プロレス史上に残る大惨事の加害者となりました。いわゆる”耳削ぎ事件”の加害者として。被害者はユーコン・エリックで試合の最中コワルスキーはトップロープから得意のニードロップを狙いましたが、目測を誤ったのか、エリックが避けようとしたのかコワルスキーのヒザがエリックの耳を直撃しエリックの耳が削がれるという大惨事になりました。正確には事件というより事故ですが。無論コワルスキーはエリックに謝罪しましたし、エリックも恨んだりしませんでしたが。引退後道場を開設。あのトリプルHはコワルスキーの弟子の1人です。
 フレッド・ブラッシーは日本でも超有名なレスラーの1人でヤスリで歯を研いだり、相手をその歯で噛み付いて大流血させテレビで見ていた老人がショック死したというエピソードはあまりにも有名です。その後マネジャーに転向してスタン・ハンセンやハルク・ホーガンのマネジャーを務めました。ビンスはブラッシーを終身雇用して2003年6月2日に死去するまでブラッシーの面倒をみてきました。
 サンマルチノはこのような個性あふれるライバルと戦い1971年まで約7年半タイトルを守りました。これは未だに記録をして残っています。おそらく破られることはないでしょう。



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