New Worid

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サンマルチノ時代の終わり

 ”仮面貴族登場”

 再びブルーノ・サンマルチノが王座を獲得しましたが、ここで少し話を1972年に戻します。というのもこの年の12月18日1人のマスクマンがニューヨークのMSG(マジソン・スクウェア・ガーデン)に登場しました。メキシコのミル・マスカラス。日本でも有名な仮面貴族マスカラスが初めてニューヨークに登場しました。このことはニューヨーク・マットにおいて画期的な出来事でした。というのも当時ニューヨーク州の体育協会の規則でマスクマンの試合を禁じられていたからなのです。今となっては信じられない規則ですが。マスカラスが出場を許されたのはニューヨークのファンがマスカラスの試合を見たいという願望が強かったため、ファンの熱意によってマスカラスは出場することができました。結果禁止令も無くなりました。もしマスカラスが来なかったら82年に初代タイガーマスクがMSGに登場することはできなかっただろうし、レイ・ミステリオもニューヨークで試合ができなかったかもしれません。そんなことはないか(^^)余談ですがマスカラスは75年WWWFと同じニューヨークに誕生したIWAという団体に参加し初代IWA世界王者になりました。団体は崩壊しましたが王座は今もマスカラスが保持しています。この団体はテレビ・ネットワークを駆使した手法で全米進出を目論んで、実際行ないました。そう、1984年ビンス・マクマホンが全米侵略を行なった手法と全く同じです。しかしIWAは失敗してWWEは成功しました。大まかに2つ。1つはファンを引き付けるカリスマ性のあるレスラーがいるか?WWEは言うまでもなくハルク・ホーガンがいました。ほかにもアンドレ・ザ・ジャイアントやロディ・パイパー、ポール・オンドーフなどホーガンに対抗できるレスラーが多くいました。IWAはマスカラスは確かに人気のあるレスラーでしたが全米レベルかというとそれほどでもなく、また対抗できるレスラーも少なかったようです。もう1つは団体運営者の能力。IWAのオーナーであるエディ・アイホーンはプロレスに関しては知識に乏しい人だったようで。そしてビンスはというと、もう言うまでもないですね現在のWWEの繁栄を見たら。なによりもこれはテリー・ファンクの発言ですが、ビンスは大金を惜しみなく投資する度胸があったことも成功の要因ではないかと。結局団体は崩壊してIWAのベルトはマスカラスの個人所有物となってメキシコや日本でも防衛戦をやっていました。

 始まりはアナウンサー

 更に話を1969年まで戻します。1人の青年がインタビュアーとしてデビューしました。青年の名はビンセント・ケネディ・マクマホン。後にWWEオーナーとなるビンス・マクマホンのことです。ビンス・マクマホンことビンセント・ケネディ・マクマホンは1945年8月24日ノースカロライナ州パインハーストで生まれました。父はビンセント・ジェームス・マクマホン、母はヴィッキー・アスキュー。しかしビンスが生まれたとき父ビンセントはヴィッキーと離婚していました。その後ヴィッキーはリオ・ラプトンという人物と再婚します。無論ビンスもラプトン家に連れられ養子となりました。このときの名はビンス・ラプトン。ちなみにビンスには2歳上の兄がいます。名はロドニー・ラプトン。2人はノースカロライナ州ヘイブロックで生活することになりました。しかし生活は楽なものではなかったようです。なによりも養父の暴力に脅かされていました。1957年、12歳になったビンス少年は兄と共に初めて実父ビンセントと出会いました。初めて実父を一目見てビンスは実父を好きになったようです。
 やがてイーストカロライナ大学に入学し経営学を学び卒業後1人の女性と結婚しました。のちのWWE社長CEOリンダ・エドワーズ(リンダ・マクマホン)です。2人の出会いはビンス16歳、リンダ13歳のときでした。少年時代のビンスのお気に入りのレスラーは”ドクター”ジェリー・グラハム、”ネイチャーボーイ”バディ・ロジャース、”クラッシー”フレッド・ブラッシーの3人でした。特にグラハムがお気に入りで、葉巻を100ドル紙幣に付いた火で付けて吸うという行為が印象的だったようです。1969年、この年息子シェインが誕生。ビンセントの下でアナウンサーをしていた人物が金銭問題で解雇。かわりに指名されたのがビンスでした。1971年父ビンセントの興行会社キャピタルコーポレーション営業チーフに就任しました。ビンス26歳でした。

 ”不沈艦と超獣”

 再びサンマルチノの話に戻ります。2度目のWWWF王者に君臨したサンマルチノは前回の王者時代と同様にファンの支持を集めました。ただ年齢的な衰えを意識していましたからそれほど長く王座を保持することはないと思っていたようですが、それでも3年4ヶ月の長期政権になりました。1976年4月26日思わぬアクシデントが発生します。対戦相手はテキサスから来たスタン”ザ・ラリアット”ハンセン。のち日本で大活躍するスタン・ハンセンが初めてその名を轟かせた試合でもあります。ハンセンの本名はジョン・スタンリー・ハンセン。1949年テキサス州出身。1973年にザ・ファンクス(ドリー&テリー)のコーチを受けてデビュー。1976年WWWFへ転戦します。このときハンセンはプロレス入りして3年目。初のビッグチャンスでした。サンマルチノの新しいライバルになれるか試された試合でしたが、途中ボディスラムを仕掛けようとしたところ汗ですべってしまい頭から落としてしまいました。それによってサンマルチノは首を骨折する重傷を負ってしまいました。ただ当時はハンセンの必殺技”ウエスタン・ラリアット”で首をへし折ったという話になりました。結果この試合でハンセンは”サンマルチノの首をへし折った男”として有名になり新日本に来日してアントニオ猪木との抗争で大ブレイク。以後全日本に移籍して日本マットに定着することになりました。無論サンマルチノとハンセンの戦いはこれで終わりません。6月26日ニューヨーク・シェアスタジアムで再戦が行われました。同時にアンドレ・ザ・ジャイアントVSチャック・ウエップナーのプロレスVSボクシングの”異種格闘技戦”と東京の日本武道館でアントニオ猪木VSモハメッド・アリの”世紀の一戦”が行われました。75年からWWWFと新日本が業務提携を開始されたためこのようなスーパーイベントが行うことができました。さてサンマルチノVSハンセンですが結果はサンマルチノの勝ち。見事リベンジを果たしました。
 ハンセンとの抗争を終えたあと入れ替わりで登場したのがフランク・グディッシュ。ビンセントはグディッシュにブルーザー・ブロディという名を与えました。”キングコング”ブルーザー・ブロディの誕生が実はWWWFだったという意外な事実ではありますが。フランク・グディッシュは1946年ペンシルベニア州で誕生。1973年デビュー。1974年オクラホマ・ルイジアナ地区でスタン・ハンセンと再会。ブロディはハンセンの大学の先輩であり、後に苦楽を共にしたことで親友の間柄になりました。のち全日本にハンセンが移籍したときはタッグを組みましたが間違いなく80年代の日本マットでの最強チームでした。76年9月から10月にかけてサンマルチノと抗争しました。ところでサンマルチノとの抗争の前にビンセントはブロディに「君はサンマルチノの抗争相手になるのだから絶対にセール(業界用語で攻撃を受ける)をするな」と。実際ブロディはビンセントの指示通り行動しました。そのなかにホセ・ゴンザレスがいました。ただその後WWWFともめたブロディは解雇されます。のちにブロディは各地のプロモーターと衝突を繰り返すことになり88年7月17日プエルトリコでホセ・ゴンザレスに刺殺されるという悲劇につながりました。これはブロディが若い頃プロモーターに不信感をもってしまったのが原因ともいわれています。
 ハンセンとブロディの挑戦を乗り切ったサンマルチノですが体力的にも精神的にも限界になってきたようで、ビンセントは新しい主役を探すことにしました。その前に1人強力なつなぎ役が必要になりました。ビンセントが選んだのは人間離れした筋肉の持ち主”スーパースター”ビリー・グラハムでした。



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