New Worid

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鉄腕と超新星

 ”鉄腕”の功罪

 長く続いたブルーノ・サンマルチノの時代に終止符を打ったのは同じパワーファイターの”スーパースター”ビリー・グラハムでした。同じといっても見た目はかなり違います。サンマルチノはどちらかというとナチュラルな感じの肉体に対し、グラハムはボディビルダータイプの肉体の持主です。王座が移動したのは1977年4月30日。レフェリーのスキを付いて両足をロープに掛けての”反則フォール”でグラハムがズルい勝利で獲得しました。さてこのあとすぐにグラハムが王座から転落したかとえいばそうはなりませんんでした。ヒールながらグラハムのカリスマ性はなかなかのものでファンの関心は”誰がグラハムを倒すのか?”で盛り上がることになりました。78年2月にグラハムは王座から転落しますが、約1年弱関心を集めたのだからグラハムの役割はWWWFにとって大きいものでした。
 ”スーパースター”ビリー・グラハムの本名はウェイン・コールマン。グラハムがプロレスと出逢ったきっかけはカルガリーのスチュ・ハート(ブレット・ハートの父)との出会いで、ボディビルダー並みの肉体に250キロ以上のベンチプレスをクリアーしてしまうほどの怪力にスチュはグラハムを気に入りました。グラハムもプロレスに興味をもっていたのでスチュからプロレスの手ほどきを受けました。カルガリーで本名のウェイン・コールマンの名でデビューしたのち、地元アリゾナ州フェニックスに戻り1950年代から1960年代前半にかけてニューヨークで活躍したジェリー&エディ&ルーク・グラハム3兄弟(実際は血は繋がっていない)の長男”ドクター”ジェリー・グラハムと知り合います。コールマンが「カルガリーでデビューした。」といったのでジェリーは「それならオレの弟にならないか?」コールマンは承知し、こうしてグラハム兄弟の末弟”スーパースター”ビリー・グラハムが誕生しました。その後ジェリーと別々で行動し、西海岸地区で修行したのちAWAで活動。そしてWWWFで王者になりました。
 1978年2月20日にボブ・バックランドに敗れ王座から転落しますが、グラハムの果たした役割は大きかったといえます。ヒールとはいえ観客を多く集めましたし、78年1月には当時のNWA世界王者ハーリー・レイスと初めてダブルタイトルマッチを実現させました。なによりもハルク・ホーガンをはじめとして多くのレスラーに影響を与えたのがグラハムの功績でしょう。
 その半面で見事な肉体を維持するためアナボリック・ステロイド(筋肉増強剤)を濫用したために腰骨が溶けてしまい歩行困難な状態に陥りました。80年代のWWEでは多くのレスラーがステロイドを濫用することになり、やがて裁判にまで発展することになります。

 ”若き超新星”

 ”スーパースター”ビリー・グラハムを破りWWWFの新しい主人公に君臨したのはキャリア4年のボブ・バックランドです。サンマルチノ、モラレスと過去の主人公はそれぞれイタリア、プエルトリコ移民のヒーローとして支持されました。バックランドは典型的なオールアメリカンタイプのレスラーです。ビンセントは新しいタイプのWWWFの主人公を求めていました。
 ボブ・バックランドはミネソタ州出身で、アマチュアレスリングで実績を挙げたのちプロレスに転向します。プロレスの修行をしたのはミネソタではなくテキサス州アマリロでした。アマリロはあのドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのザ・ファンクスの地元で、ファンクスの父ドリー・ファンク・シニアのもとで修行をしました。同期には全日本のジャンボ鶴田とスタン・ハンセンがいました。やがて1人立ちしたバックランドはセントルイスのサム・マソニックに見出され実績を挙げていきます。その後マソニックはビンセントにバックランドを紹介します。バックランドの才能に感心したビンセントはバックランドのWWWF入りをマソニックに依頼し、マソニックも了承。こうしてバックランドはWWWFと契約し、そして1978年2月20日グラハムを破りWWWF王座を獲得しました。このときバックランドは29歳。バックランド時代が始まりました。

 ”WWF改称と幻の王者”

 さてボブ・バックランド政権がスタートしましたが、1979年2月27日(私の誕生日です^^)WWWFからWWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)に改称しました。しかし10数年後この名称を巡り裁判ざたになるとは予想できなかったですが。
 バックランドは本拠地ニューヨークで防衛戦を果たす以外に新日本にもよく来日しました。ライバルはもちろんアントニオ猪木。猪木とは何度も戦い好勝負をつくりました。ビンセントの思惑は猪木と戦うことでバックランドに王者としての経験を積ませることでした。同じストロングスタイルの猪木ならばうってつけと考えたのです。そして1979年11月30日徳島で猪木はバックランドを破りWWE王座を獲得しました。もちろん日本人では初の快挙です。しかし12月6日の防衛戦で負けはしなかったものの内容を不服とした猪木が王座を返上。12月17日王座決定戦を制したバックランドが王座を再び獲得しました。ちなみにこの日ハルク・ホーガンがWWEの試合に初めて出場しました。なお猪木が王者になったという記録は現在WWEでは抹消されています。要は王座移動を認めていないということですが、猪木がバックランドに勝ったのは事実ですから第9代王者としてみてもいいと思います。

 ”ドラゴンとジュニアヘビー”

 WWEと新日本の提携は日本に1つのジャンルを誕生させました。1978年1月22日MSGで藤波辰巳(辰爾)がカルロス・ホセ・エストラーダを破りWWWFジュニアヘビー王座を獲得しました。決め技はドラゴンスープレックスです。藤波のジュニア王座獲得によって日本にジュニアヘビーというジャンルが確立しました。その後タイガーマスクや小林邦明、高田延彦に越中詩郎、そして獣神サンダーライガーらがジュニアを発展させました。もちろん現在のWWEでもクルーザー級としてスマックダウンで盛り上がっています。



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