New Worid

New Worid

1984

 ”新会社タイタンスポーツ社設立”

 1982年、67歳になったビンセントは自分の後継者に息子ビンスに委ねることを検討し始めました。しかしビンセントはただ単に会社をビンスに譲ろうとしたわけではなく、ビンセントの興行会社”キャピタル・レスリング・コーポレーション”を買い取らせました。話し合いの結果ビンスは35万ドルで買い取ることになりました。1982年6月のことでした。そして3人の株主(アーノルド・スコーラン、ゴリラ・モンスーン、フィル・ザッコー)の株を買い上げ、オフィスをニューヨークからコネチカット州グリニッチに移し、新会社”タイタンスポーツ社”を設立しました。それはビンスが思い描いていた野望の第一歩でした。

 ”野望に相応しい主人公”

 ビンスが胸に描く野望、それは全米制圧してすべてのテリトリーをWWEが独占すること。当時は各地のプロモーターが寄り合って運営していくシステムでした。80年代前半は少なくともビンスの目から見て業界内が低迷していました。ビンスはそれを打破するためにはWWEが全米を支配することが望ましいと思っていたようです。ビンスがまず考えたのはWWEの主人公となるべきレスラーでした。この時点での王者はボブ・バックランドでした。ビンスはバックランドにはそれなりに評価していました。NWAやAWAの王者と互角に戦いWWEの価値を高めた功績を認めていました。しかしビンスが求めていたのは大衆の感性に訴えるヒーローでした。既にビンスは新しいWWEの主人公を発掘していました。”超人”ハルク・ホーガンです。
 ハルク・ホーガン、本名テリー・ジーン・ボレアは1953年フロリダ州タンバで生まれました。レスラーになる前はロックバンドのベースを弾いていました。1977年プロレス入り。ヒロ・マツダのコーチを受けてデビュー。マスクマンのスーパーデストロイヤー、テリー・ボウダー、スターリング・ゴールデンと名を変えて活動しましたが、なかなか芽が出ず活動を諦めようとしました。それをとめたのはテリー・ファンクでした。やる気を取り戻したホーガンは1979年ニューヨークに行きました。そこでビンスの父ビンセントから”ハルク・ホーガン”というリングネームを与えられました。ビンセントは不器用ながらもホーガンのなかにあるスター性を見抜き新日本のアントニオ猪木にホーガンを紹介しました。猪木もホーガンの素質を高く評価し1980年からホーガンは新日本の常連選手になりました。そして1983年6月2日蔵前国技館での第一回IWGP優勝戦でホーガンは猪木を破り初代IWGP王者となりました。また映画「ロッキー3」でレスラー役で出演して全米での知名度が上昇しました。1982年から83年まではAWAで活動していました。しかしAWAのオーナーであるバーン・ガニアはホーガンを王者に相応しくないと判断していました。何度となく王座戦で勝っていたにもかかわらず。
 しかしそのホーガンに目をつけていたいのがビンスでした。83年末ビンスはホーガンにWWEとの契約交渉をしました。ビンスはホーガンにWWE世界王座を獲得させることを告げました。ホーガンは同意しWWEと契約しました。そして今後のWWEの運命のプロローグとなった1983年12月26日を迎えました。

 ”正真正銘のイラン人”

 約6年にわたるバックランド政権に終止符を打ったのは”イランの怪人”アイアン・シークでした。本名はコシロ・バジリ。俗にいう時事ネタ系のヒール、にせソ連レスラーやら、にせドイツ人レスラーなどがいますが、バジリは正真正銘のイラン人です。1939年イランの首都テヘラン出身。1970年に亡命してアメリカに移住しました。そして1972年AWAのバーン・ガニアにスカウトされてプロレス入り。コーチは”人間風車”ビル・ロビンソンで、同期には”ネイチャーボーイ”リック・フレアー、ミュンヘン・オリンピック重量上げに出場したケン・パテラ、バーン・ガニアの息子グレッグ・ガニア、”ジャンピング”ジム・ブランゼルなどがいました。バジリは元々アマレスで名声を馳せていたのですぐにデビューすることができました。バジリのレスリング技術に感心したバーン・ガニアはバジリを道場のコーチ役に抜擢します。その中の1人にのちのリック・フレアーのライバル、リッキー”ザ・ドラゴン”スティンボートがいました。
 その後バジリはリングネームをアイアン・シークと名乗ります。1976年のことです。1979年にWWE入りしてボブ・バックランドのライバルとして活躍します。それから4年後の1983年12月26日バックランドを破りWWF世界王座を獲得しました。そして1984年1月23日、WWEの運命を決めた試合が行われました。王者アイアン・シークVS挑戦者ハルク・ホーガンの世界王座戦です。

 ”全米侵略開始”

 1984年1月23日ハルク・ホーガンはアイアン・シークを破り見事WWE世界王座を獲得しました。それは同時にビンス・マクマホンの全米侵略の始まりでもありました。ビンスの父ビンセントはニューヨークを中心にアメリカ東海岸のみで活動していましたが、息子のビンスはすべてのテリトリーを自分のものにしようと考えていました。それは同時にそれまで共存していたNWAとAWAとの敵対を意味していました。そのためにビンスはホーガンを主人公にしましたが、ホーガンだけでは野望を遂げることはできません。ビンスはそれぞれのテリトリーからレスラーを引き抜きました。ジョージア地区からはホーガンの最初のライバルになる”ミスター・ワンダフル”ポール・オーンドーフ、ノースカロライナ地区からは”ラウディ”ロディ・パイパーと”カウボーイ”ボブ・オートン、特に被害が大きかったのはAWAで、アドリアン・アドニス、ジェシー”ザ・ボディ”ベンチェラ、マネジャーのボビー”ザ・ブレイン”ヒーナン、アナウンサーの”ミーン”ジーン・オークランドなどで、のちにAWA世界王者になったカート・ヘニングやザ・ロッカーズ(ショーン・マイケルズ、マーティ・ジャネッティ)なども数年後WWEに引き抜かれました。
 そしてNWAにとって大きな痛手となったのが、1984年7月元NWA世界王者ジャック・ブリスコと弟ジェラルド”ジェリー”ブリスコの2人がWWEにジョージア・チャンピオンシップ・レスリングの株を売却したことです。それによってWWEはTBS(アメリカの放送局)の番組枠を得て全国ネットでWWEが見られるようになりました。これはほんの一例でビンスはWWEを全米にアピールするもっとも手っ取り早い方法としてメディアをフルに利用したのです。地上波はもちろん、当時普及し始めたケーブルテレビ、のちにレッスルマニアなどのビッグイベントなどに導入するPPV(ペイ・パー・ビュー=契約式有料放送)などを活用しました。こうして中小テリトリーは次々とWWEによって崩壊、吸収されます。無論NWA、AWAは黙ってWWEに屈したわけではなく連合してWWEに対抗します。
 しかしビンスはすでに先を見据えた計画を立てていました。それはWWEの社運を賭けた一大イベント”レッスルマニア”の開催です。

”ビンセントの死”

 ビンスによる全米侵略が始まった頃父ビンセントは病床についていました。すでにすい臓ガンが全身に転移していました。1984年5月27日ビンセント・ジェームス・マクマホン死去。享年69歳でした。ビンセントは息子ビンスの世界征服を見ることなくこの世を去りました。

 ”殴打事件”

 1985年2月21日ある事件が発生しました。それは全米ネットワーク局ABCの人気番組”20/20”がプロレス特集を放送しました。しかしその内容は日本のプロレスファンなら間違いなくひんしゅくを買うもので、早い話プロレスは本物か?インチキか?という内容です。もっとも比率的にはインチキと決め付けたものですが。ここで登場するのはエディ・マンスフィートという元レスラーです。はっきりいって大したレスラーではありませんでした。なのにコイツはインタビューが始まると「プロレスはインチキだ。レスラーもプロモーターもインチキ野郎の集まりさ」などと叫びます。さらにセットされたマットの上でバンプをとったり技を披露します。挙句に自ら額を切ってみせるなど徹底的にプロレスを侮辱しまくります。
 しかし事件はここからです。ABC局の人気アナウンサー、ジョン・スタッセルというヤツがWWEの本拠地MSG(マジソン・スクウェア・ガーデン)に出向き、当時のハルク・ホーガンのライバルの1人”ドクターD”デビッド・シュルツにインタビューを試みました。なぜシュルツにインタビューをしたかというと過去にシュルツとマンスフィートの2人がタッグを組んでいたからでした。シュルツを通路でつかまえたスタッセルがここで愚かな質問をしました。
「プロレスはフェイク(インチキ)ですね?」
 するとシュルツは「じゃ、これもフェイクか!?」と怒鳴りながらスタッセルを平手打ちを喰らわせました。当然素人のスタッセルはこの一撃で伸びてしまいます。この事件によってシュルツは3ヶ月の停職を受ける破目になりました。確かにプロレスラーが素人に暴行するのは言語道断ですが、無神経にレスラーに向かって”プロレスはインチキだろ?”と言われたらキレるのは当たり前のことです。ロード・ウォリアーズの故ホーク・ウォリアーはシュルツの行動を肯定しています。おそらく他のレスラーもそうでしょう。この事件とは関係ありませんがシュルツはのちにWWEを解雇されます。そして元プロレスラーのマンスフィートは番組でプロレスを侮辱したために袋叩きに遭い病院送りになりました。まあ今となってはプロレスの裏側についてカミングアウトしてますからこういう誹謗に対して免疫はできましたが。でも不愉快な話に違いありません。
 1985年3月31日ニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデンでの運命のレッスルマニア開催が迫ってきました。



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