New Worid

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最高の男になるには

 リック・フレアーにとって最初のNWA世界王座を獲得してからの期間は王者としての心得を身につけるための大切な期間だったといえます。1983年11月24日”スターケード83”にてハーリー・レイスから王座を奪還してからが本当の意味での王者としての始まりだったといえます。世界王者は相手のレベルが高かろうが低かろうが世界王座戦として相応しい内容の試合を見せなければなりません。
 「NWA世界王者たるもの、いつ何時誰の挑戦でも受けられることが第一条件だ。そして、いざ試合となれば必ず好試合を見せなければならない使命を背負うんだ。リッキー・スティムボートが相手だろうが、テネシーのプロモーターであるニック・グラスの息子というだけでたいした実力もないのにプッシュされたジョージ・グラスが相手だろうが、いい仕事ができなければその資格はない。その点フレアーは地球上の誰が相手であろうといい試合ができた。」-ハーリー・レイス。
 実際レイスやスティムボートといった超一流から三流クラスまでの(といったら言い過ぎか)挑戦を受け入れ、そして防衛を果たしていきました。ただ1980年代となってから、正確には1975年NWAの創始者であるサム・マソニックが会長職を退いてからNWAの権威に翳りが見え始めていました。つまり各テリトリーのプロモーターが自分たちの子飼いのレスラーの待遇を良くする様要求していき、NWAもそれを気安く受け入れていったのが衰退の原因の一端となりました。
 ところで1984年3月にフレアーとレイスの間でNWA世界王座の移動劇が起こりました。場所はニュージーランドとシンガポールの二ヶ所で。ニュージーランドでレイスが王座を獲得し、シンガポールでフレアーが奪還するというという内容でした。但し、NWAはこの移動劇を非公式のものとして認めませんでしたが。
 それでも5月6日テキサス州ダラスにてケリー・フォン・エリックがフレアーを破ってNWA世界王座を獲得しました。元々はケリーの兄であるデビッド・フォン・エリックが獲得する予定でした。ところが2月10日、日本遠征中にデビッドが急死するという悲劇が起こりました。表立っての原因としては試合でのアクシデントとなってましたが、実際は試合はまだやってませんでした。ドラッグの多用が原因というのが真相らしいです。デビッドの関してフレアー、そしてテリー・ファンクはNWA世界王者としての資質があるレスラーとして高く評価していました。
 しかしデビッドが急死したことでフリッツは三男であるケリーを推しました。ケリーもデビッドに劣らぬ才能がありました。しかし常にドラッグ中毒という問題を抱えていました。これは他の兄弟にも同様の問題でもありましたが。そんなケリーと対戦したフレアーは試合を組み立てるのに相当苦労したそうです。フレアーを破って王者となったケリーですが、そういった問題を抱えているレスラーが長期間保持できるはずもなく、18日後フレアーが王座を奪還しました。しかも日本で実現しました。確かケリー、フレアー、レイスの3人が全日本に来日して、ケリーがジャンボ鶴田と防衛戦をやっていた日にフレアーとレイスが対戦していた記憶があります。ケリーの試合よりもレイスとフレアーの対戦のほうが面白かったという印象でした。
 もっとも1984年という年はハルク・ホーガンがWWE世界王座を初めて獲得し、WWEの全米侵略がスタートした年でもありました。とはいえこの時点ではまだフレアーやNWAにとって脅威とまでには至りませんでした。それが覆ったのは1985年3月31日レッスルマニアが開催されて大成功を収めてからでした。WWEの脅威にNWAとAWAは共闘することでWWEに対抗しました。10月には日本でフレアーとAWA世界王者リック・マーテルとの王座統一戦が実現しました。しかし共闘路線は足並みが揃わずあっけなく終わってしまいました。そこでジム・クロケットは世界王者であるフレアーを自身のプロモーションと専属契約を交わし、WWE同様他のテリトリーから優秀なレスラーを引き抜いてWWEと対抗するようになりました。そして伝説のユニットが誕生しました。フォーホースメンという最高のチームが。



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