New Worid

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終わりと始まり

 クロケット・プロは最大の危機を迎えました。本来スターケードはグリーンズボロで開催されていたものがシカゴで開催し、PPVもビンス・マクマホンが先手を打ってスターケードよりもサバイバーシリーズを選ばせたことで惨敗を喫してしまいました。そんな中1988年3月27日リック・フレアーは1人の男と対戦しました。名はスティング。フレアーにとってハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、リッキー・スティムボートと並ぶ最高のライバルの1人と初めての対戦となりました。スティングの本名はスティーブ・ボーデン。1985年11月にジム・ヘルウィッグ、のちのアルティメット・ウォリアーと組んでデビュー。フリーダム・フォース、ブレード・ランナーズなどのチーム名で活動し、やがてヘルウィッグと別れてビル・ワットが主宰していたUWF(MSWA。日本のUWFとは無関係)に所属。そして1987年クロケット・プロに活動を移しました。若くて金髪で派手なペイントをしているスティングにスター性を感じたクロケットは1988年3月27日奇しくもWWEがレッスルマニア4を開催していた同日にクロケット・プロは「クラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンズ」を開催し、メインにフレアーVSスティングをぶつけました。実はこの時点までフレアーとスティングは一度も絡んではいませんでした。あえてPPVまで寝かせていたあたりにこの試合に対する期待度が伺えます。
 結果は吉となりました。スティングが期待以上のポテンシャルを発揮しフレアーが試合をリードして45分フルタイムドローで終わりました。フレアーにとってスティングという新たなライバルの誕生には嬉しさを感じていたようで、ある意味後継者として考えていたかもしれません。しかしフレアーとスティングの試合が素晴らしくても会社の状況は悪化の一途でした。理由としては、まずはマッチメークに対する不満。ダスティ・ローデスがブッカーとして腕を振るっていましたが本拠地である南部では成功しても他の土地、例えば東海岸地区…要するにWWEの本拠地でもあるニューヨークでは全く通じないというパターンが多くありました。そしてローデスとフレアーの対立。この頃から2人の関係が悪化し始めた時期でもありました。なによりもアーン・アンダーソンとタリー・ブランチャードの待遇が明らかに悪いのがフレアーの怒りを呼びました。ウォリアーズやポール・エラリングに比べて給料が少ないこと、そして会社の方向性。もうすべてが狂いだしていました。そしてついにタリーとアーンは離脱しWWEへ移籍しました。ここで事実上ホースメンは消滅しました。
 そしてWWE、というよりビンス・マクマホンはフレアーの獲得も目論んでいました。事実ビンスからのアプローチがありました。しかしフレアーはビンスの好意は受け取ったもののNWAへの想いを捨てることはできず、結局残留しました。
 1988年11月クロケット・プロは幕を下ろしテッド・ターナーに売却。WCWが誕生しました。ターナーがフレアーがいることを条件に売却を受けたと知ったのはフレアーがターナーとの交渉のあとでした。こうして大きな不安を抱きながらフレアーはWCWで新たな活動をスタートしました。



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