1
末日聖徒イエス・キリスト教会は イエス・キリストの教会が キリストと十二使徒の死後 背教の道をたどり 頽廃、分派を繰り返し 神権という神の権能が失われたと信じています。この宗教は 憲法によって宗教・信条の自由が認められた草創期に設立され 西部への入植の歴史があり「開拓期を象徴する宗教」と言われています。[戒め]末日聖徒イエス・キリスト教会では 救われるためには「イエス・キリストへの信仰」「キリストの期待に応えた人生であったか」「戒めの尊守および神殿で授かる儀式」が必要であると信じており 末日聖徒イエス・キリスト教会の戒めは 「あるべき理想像」そのものではなく 救いにとって必要条件ですが 戒めを守っているだけでは 救われないと信じています。末日聖徒イエス・キリスト教会の「戒め」は 人が神の器としての水準を維持する安全基準として守るべきものとされ 伝統キリスト教の「戒め」の定義と異なっています。伝統キリスト教では 信じることによる神の罪の赦しがあり救いがあり こうした無償の神の愛に変えられた者が神の愛に応える手段としての善行の戒めがある と定義。●十戒古代イスラエルの預言者モーセにより与えられた。これは 現代でも有効であり 信仰生活の基本となる原則が含まれていると信じている。 ●知恵の言葉健康の維持が 人の神聖を保つという教えに基づいて定められた教義。教会は 物質名や商品名を列記して禁止し 強制する運用は 知恵の言葉の理念に反すると考えている。コーヒー、紅茶、茶(麦茶など茶葉を使わないものはかまわない)タバコ、アルコール飲料、麻薬類(医師の処方を除く)を禁じている。 過度の肉食を控えるように教えているが 菜食主義は奨励していない。カフェインの多量摂取が健康を害するという理由から 自主的に制限を呼掛ける会員もいる。ただし 風邪薬を含めてカフェインは 公式に禁じておらず コーラは指定を解除。 4.純潔の律法 せい欲は 罪ではなくコントロールするように教えている。生殖に関わる事柄は 子孫をもうけるための神聖なものとしてとらえている。夫婦間以外での せい行為、こん前交渉、じ慰行為などは重大な罪であるとする。 ●安息日 神に仕える日として定められ 個人の用事や楽しみは犠牲にするよう勧めている。安息日は 教会での礼拝行事(合計3時間)がある。第1安息日には断食を行い 信仰を述べ合う時間 「証会」が設けられる。帰宅後は可能な限り家族と共に家庭で過ごすように勧めている。 帰宅後の社会奉仕は推奨されている。日曜日の営業、買物、レジャー、対外試合をする事などは 良しとされない。 例外として停止すると社会的に混乱を招く活動(医療・警察・消防・交通・軍隊等)は 差し支えないし 利用することに支障はない。 また 事故や病気、救助等の緊急時に際して物品の購入は認められている。急な仕事、冠婚葬祭、町会の掃除、家族の病気などの教会の欠席は認められるが 常態化して安息日が形骸化しまう場合は 改善するように求められる。●献金の義務 十分の一献金(収入の10%の献金、主に教育、教会堂の建築、宗教法人としての運営等)生活困窮にある場合 教会より必要な援助を受けることができる。●法律の遵守 日本人にとって 戒律の厳しさは言語を絶しますね。ユタ州は 最大のモルモン教州。州都および最大都市は ソルトレイクシティ。モルモン教の末日聖徒イエス・キリスト教会が拓いた町。東部からやってきたモルモン開拓者がグレートソルト湖の南東に拠点を置いたのが ソルトレイクシティであり 周辺は山岳や荒野、塩湖に囲まれた苛酷な環境の町であったため 旅の休息地として駅馬車や大陸横断鉄道の要所として発展。モルモン教の博愛と慈愛の精神から 二次世界大戦中に太平洋岸の諸都市で強制収容キャンプに移住させられた日系人を戦後積極的に受け入れたので 日系人の比率が高い都市の一つとなっています。私は ここに訪れた事が有りますが上述のモルモン教=末日聖徒イエス・キリスト教会のイメージと違和感が有りましたね。(ソルトレイク寺院)現在 遺伝が原因であると考えられている病気は4,000ばかりあるといわれています。遺伝子が「間接的な」役割をするといわれている病気も含めると 無数と言っても過言ではないです。どの遺伝子がどの病気を引き起こすか 判れば 病気になるメカニズムが解明されるばかりでなく 遺伝子操作で その病気にならないようにもできます。そんな日がくるのは遠くないかもしれません。1988年に始まったヒト・ゲノム計画では これまで800近くの病気の原因遺伝予が発見され 97年だけでも100個の原因遺伝子が特定されています。こうした成果に支えられ 人間のすべての遼伝子を解明しようとするヒト・ゲノム計画は加速化しています。しかし ある病気の原因遺伝子を見つけることは 一朝一タというわけには いきません。ある特徴のある遺伝子を病気の原因だと特定するには 一つの例だけでは不可能で 同じ症例を示す同じ特徴の遺伝子がいくつもあって 特定が可能になり そのサンプルは多ければ多いほど特定しやすいのです。だから 何世紀にもわたって一カ所に定住し 代々その変異体遺伝子を次世代に伝えてきた親族のDNAをふるいにかけるのが ベストな方法なのです。そこで 遺伝子八ンターが世界を駆けめぐる事になります。例えば ヒューストンのベイラー大学医学部はprimary congenital glaucoma を引き起こす遺伝子を求めて サウジアラビアに足を運び ハワード大学は ナイジェリアとガーナに糖尿病の遺伝子を探しに研究者を送り ヴァージニア大学医学部は 希な形の聴覚障害の原因遺伝子を求めて モンゴリアに行く。さらに 国立衛生研究所は パーキンソン病の原因を探すべく ギリシアのパトラスヘ、ユタ州立大学ロン・マンガザ博士は 口唇裂が多いフィリピンのセブ島へ。そこには アメリカのオペレーション・スマイルという団体が200人の外科医を送り 1,000人以上の口唇裂を治療したそうですから 症例の豊富さには目を見張るものがあります。ある地域で 特定の病気が代々出てくると その原因遺伝子は 正常な遺伝子マップと比べる事で見つかる可能性が有りますが さらに幅広く 様々な病気の原因遺伝子を特定するには 外部からの侵入者がほとんどいない地域あるいは国に住んでいる人々の遺伝子を調べるのが もっとも近道なのです。そして 遺伝子ハンターが 力を入れているのが モルモン教徒が70%を占めるユタ州のソルト・レーク・シティとアイスランドなのです。(遺伝子研究とソルト・レーク・シティ)なぜ ソルト・レーク・シティなのか。もっとも重要な要素は ここには何世代にもわたって定住している家族が多く存在し しかも詳しい系図を記録しているからなのです。それが 1500年代にまで遡るというから驚異的です。さらに モルモン教徒は健康に強い関心があるので 病歴も詳しい記録が残されています。何世代も前に誰がどういう病気にかかったという事が簡単に判るのです。ある家族の集いでは250人の親戚が集まったというのですから その規模の大きさに勝るところは他にないでしょう。このプロジェクトは まず80年代初期に病気の遺伝子を見つける道具を開発し 特定の病気に代々擢っている家族を集めることから始まったのです。ユタ大学人間遺伝学部のマーク・アルパート準教授は ナショナル・パブリック・ラジオのトークシヨーで このプロジェクトの進む方向が いかに正しいかを 力説しています。「どの家族をみても 兄弟、祖父母、子供が生きている場合が多い。その上研究がしやすいのは ほとんどの人の教育レべルか高く 我々の使命と医学界に対する重要性をよく理解していることです。それにタバコを吸う人はほとんどいないので 喫煙によって被験者が汚染される可能性もほとんどない」。アルパート氏は この大がかりな遺伝子ハントを Genetic Adventure と呼び すでに10,000人余りの人から採血し その遺伝子は零下135度で凍結されています。また アメリカの大富豪ジョン・ハンツマンは両親をガンで亡くし 四年前に自分も前立腺ガンの宣告を受け これは遺伝に違いないと思ったハンツマンは ソルト・レーク・シティが遺伝子研究の宝庫であることを如っていたので 自分の財産のうち一億ドルを使って ハンツマン・ガン研究所を設立し「目指せ、不可能を追求し、夢をかけろ」とユタの研究者たちを激励したそうです。ちなみに ソルトレーク・シティは はキリスト教系新宗教の末日聖徒イエス・キリスト教会(通称モルモン教)が拓いた町です。町の中心 「テンプル・スクウェア」には モルモン教団の寺院やビジターセンター、図書館、博物館、教団運営の各施設が集まっています。寺院にはモルモン教徒でないと入れません。
2015.06.29
閲覧総数 67
2
「耳なし芳一」は盲の琵琶法師で、平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手だったという伝承が有ります。 ある夜、和尚の留守の時、一人の武士が現われ、芳一はその武士に請われて「高貴なお方」の屋敷に琵琶を弾きに行く。盲目の芳一にはよくわからなかったが、そこには多くの貴人が集っているようであった。壇ノ浦の戦いのくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると皆熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。が、語りが佳境になるにしたがって皆声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになる。和尚は目の悪い芳一が夜出かけていく事に気付いて不審に思い、寺男たちに後を付けさせた。すると芳一は一人、平家一門の墓地の中におり、平家が崇拝していた安徳天皇の墓前で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。寺の者たちは慌てて芳一を連れ帰り、和尚に問い詰められた芳一はとうとう事情を打ち明けた。これは危ない、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと和尚は案じたが、生憎夜は法事で芳一のそばについていてやることが出来ない。そこで法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を写し、芳一に今夜は武士が迎えに来ても返事をするな、と堅く言い含めた。その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士(平家の怨霊)が芳一を迎えに来た。しかし経文の書かれた芳一の体は怨霊である武士には見えない。芳一が呼ばれても返事をしないでいると、「声も聞こえない、姿も見えない。さて芳一はどこへ行ったのか......」という声が聞こえる。そして怨霊は、耳だけが闇に浮いているのを見つけ、「芳一がいないなら仕方がない。証拠に耳だけでも持って帰ろう」と、芳一の耳をもぎ取って去った。朝になって帰宅した和尚は芳一の様子に驚き、一部始終を聞いた後に芳一に詫びた。芳一の身体に般若心経を写経した際、小僧が耳にだけ書き漏らしてしまった事が原因であった。その後怪我は手厚く治療され、この不思議な事件が世間に広まって彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。琵琶の腕前も評判になり何不自由なく暮らしたという。[赤間神宮内 芳一堂。この左に平家一門の墓がある][平家ゆかりの地、神戸の須磨寺での『耳なし芳一』上演][「耳なし芳一」のクライマックス(神戸・須磨寺)]これが伝承の あらすじですが、芳一のモデルと言われる人が、明石検校です。彼は中年まで播州(兵庫県)書写山の僧であったが、急に失明し琵琶法師となった。彼は自分の屋敷に当道座を設立して、みずから惣検校となり、明石検校とも言われ、江戸時代まで続く検校制度を確立。彼は琵琶の名手で、耳なし芳一のモデルと言われている訳です。一方(いちかた)流の流祖如一の弟子、一方流中興の祖と呼ばれ、天皇・上皇・親王らのための御前演奏をおこなうことが多かったそうです。琵琶以外にも按摩(あんま)・鍼灸(しんきゅう)の達人でもあったと伝えられております。 そもそも、琵琶は、東アジアの有棹(リュート属)弦楽器の一つ。弓を使わず、もっぱら弦をはじいて音を出す撥弦楽器です。[五絃琵琶「螺鈿紫檀五絃琵琶」(正倉院宝物)][ピーパー]これは4本の金属弦を持ち、31個のフレットで半音階を演奏でき、ギターの奏法が取り入れられ、弾奏には右手の全部の指を使用し、爪か義爪によって音を出すそうです。[日本の琵琶]最近、古典楽器が流行り始め、近代楽器とのコラボ演奏も盛んなので、琵琶に挑戦されては如何でしょうか。「耳なし芳一」の話しと写真は逆効果だったかな。
2009.06.13
閲覧総数 551
3
「我」。これも教養豊かな友達のブログからのパクリです。我(が、われ、Skt:aatman 、Pl:attan)とは、バラモン教(のちヒンドゥー教)及び仏教上の概念。アートマン(梵我)。仏教ではその教義的立場から、我というものに関して、実我(じつが)、仮我(けが)、真我(しんが)という区別を説いている。このうち、「実我」(aatman)については、仏教はこれを否認して無我(anaatman)といい、非我(niraatman)という。この語が存在について、その本質とか自性とかを意味するようになり、後には万物の髄とか本体とかを示すようになり、ことに人間の生命現象の奥に潜んでいる本質存在と考えられるようになった。(ウパニシャッド)このような「実我」は仏教以前のウパニシャッド哲学で力説され、一方に「ブラフマン」(梵、braahman)との相即がいわれた。(梵我一如)(五蘊仮和合)仏教では、ここで説かれるような実我を常一主宰と規定付けた。すなわち、我は、常住であり、他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。釈迦はこのような実我観念を批判し、「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。これを色受想行識の五蘊について説き、人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。(補特伽羅)この点を強調した仏教徒たちは、かえって、この仮和合の仮有に執着し、要素への分析が我執の除去であることを忘れ、人間生存への真面目な努力を無視するようなことになり、人格を見失うようになった。これを回復しようとしたのが、犢子部(とくしぶ)の補特伽羅(ふとがら、pudgala)であった。すなわち、存在を精神や物質の諸要素に分析し、さらに両者の結合を要素的な力に分析した考えに対して、これらを統一し人格付与の働きを補特伽羅としたのである。しかし、このような立場が一種の我的なものへの執着となることもありうる。このような傾向に対して、この無我を救うものとして、縁起の施設我、仮我を主張する考えがあらわれた。(龍樹)龍樹(150年-250年)の大智度論 に「問うて曰く、若し仏法中に一切法は空にして一切に我あること無しといわば、いかんが仏の経に初頭に如是我聞というや」と問い、「無我は了解しているが、俗法(シキタリ、言い習わし)に随って我といったので、それは実我ではない」といっているのは、これを示している。(世親)一般的に「我」「私」とかいうのは仮我についていうので自他を区別するためである。しかし、それでは、その「我」とか「私」とかが自他を区別する為であるとしても、いったい、それは何についていわれるかという点で、世親(320年-400年)は「仮によって我法と説く、種々の相転ずることあり、彼は識が所変による」と説いて、唯識といい、阿頼耶識のうえに我を仮説することを示している。(大我)このように仏教の教えは、今日ここにいる「私」自身がとらえらるべき何ものかとしてあるのではなくして、縁起においてあることを、いろいろな形で追究してゆく。「空性」というのも、「如来蔵」というのも、「仏性」というのも、この「私」の追究のうえにもとめられた姿に名付けたものである。真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」 (parama-aatman) であり、最高の我の意味である。もちろん、この我は外道の我でなく、仏果の徳の上につけた名である。すなわち涅槃といわれるさとりは真実であるからと、その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認めるのである。(日常用語・慣用句)一人称日常会話で使われる範囲では、日本語の一人称の一つであるが、フィクションや成句以外で使われることは滅多にない。ただし関西地方など一人称を二人称に転用する時に、使われる場合がある。(ワレは)また、自己主張、我儘などを指して「我(が)の強い人間」という表現もある。天上天下唯我独尊 天の上にも下にも尊い者は自分一人である、という言葉。仏陀が生まれた時、両手の親指でそれぞれ天地をさしてこれを表していたという伝説がある。現代では、極端なナルシズムやエゴイズムを批判して使われることが多い。我思う、故に我ありデカルトの言葉。懐疑論によってあらゆる事象の根拠が揺らいだとしても、自分が思考しているという事実は思考によって否定されえず、ゆえに自分の存在も否定されえない確かな物である、という意味。和歌・俳句我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け - 後鳥羽天皇我のみやあはれと思はん蛬なくゆふかげのやまとなでしこ - 「寛平御時后宮歌合」(素性法師)吾はもや安見児得たりみな人の得がてにすとふ安見児得たり - 藤原鎌足われを思ふ人を思はぬむくいにやわが思ふ人の我を思はぬ - 「古今和歌集」(読み人知らず)我と来て遊べや親のない雀 - 小林一茶古語自称の代名詞のほか、対等または目下の者や、相手を卑しめて使用する。
2010.03.29
閲覧総数 574
4
1552年、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルはバルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して8月に上川島に到着。しかし 中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月に上川島で 46歳にして この世を去った訳です。遺骸は石灰をつめて納棺し海岸に埋葬。その後、マラッカに移送され棺を開いたところ、死後4ヶ月近くを経て なお 腐敗した様子がなかったそうです。さらにゴアに移され、1554年3月から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された時 参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走。2個の足の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されていますが、右腕は1614年ローマのイエズス会総長の命令で切断され、ローマ・ジェズ教会に移されて ジェズ教会本堂右側の祭壇には、ザビエルのミイラ化した右手が納められています。ボン・ジェズ教会(ローマ)ザビエルの遺体を収めた棺が置かれた聖壇(インド ゴア)ザビエル記念のセントポール教会(マレーシア マラッカ)↓2008年クアラルンプール・マラッカ・シンガポールの旅で お目にかかりましたね。ザビエル城(スペイン)そうなると●ザビエルの右手はボン・ジェズ教会●1個の右足指はザビエル城●残りはゴアの聖堂かボン・ジェズ教会分骨なのかな。それにしてもバラバラは気の毒ですね。
2012.07.14
閲覧総数 2801
5
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、フランス皇后でナポレオン・ボナパルトの妻。裕福な貴族の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったものの、大変な浪費家でもあったそうです。1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚、一男ウジェーヌ、一女オルタンスをなしたのですが、当初から2人は夫婦仲が悪く、1783年に離婚。後にボアルネ子爵は、フランス革命中にギロチンで処刑されてしまう。お気の毒なことです。離婚後マルティニーク島の実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島での暴動の多発に不安を感じ、フランスに戻りましたが、カルム監獄に投獄されてしまう。しかし、ロベスピエールの処刑により8月3日に釈放されたのです。 その後、総裁政府のポール・バラスの愛人となっていたところを、年下のナポレオンの求婚を受け結婚。この結婚について、ウジェーヌは反対、オルタンスは賛成だったと伝えられています。しかし、彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り 浮気を繰り返したこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かったそうです。 エジプト遠征中に、ジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉イポリット・シャルルとの浮気を知ったナポレオンは、フランスに帰国後さすがに離婚を考えたようです。そりゃそうでしょう。しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まったとのこと。●ジョゼフィーヌは、この頃から徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくのですが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていきます。男女の愛は、ままならないですね。その後、ナポレオンはジョゼフィーヌを離縁。それ以降、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送ったのですが、死ぬまで皇帝の妻として「皇后」の称号を保持し続けていたのです。 ●彼女は大変にバラが好きで、250種類のバラをマルメゾン城の庭に植えていたそうです。●夫が戦争をしている間も、敵国とバラに関する情報交換や原種の蒐集をしていたようで、ヨーロッパのみならず日本や中国など、世界中からバラを取り寄せマルメゾン城に植栽させる一方、ルドゥーテに「バラ図譜」を描かせたとのこと。 このころにはアンドレ・デュポンによる人為交配(人工授粉)による育種の技術が確立されたのです。●ナポレオン失脚後、またジョゼフィーヌ没後も彼女の造営したバラ園では原種の蒐集、品種改良が行われ、19世紀半ばにはバラの品種数は3,000を超え、これが観賞植物としての現在のバラの基礎となったのです。●ジョゼフィーヌのバラの蒐集はバラの品種改良の基礎となったということで~す。●「バラの母 ジョゼフィーヌ皇后」 と呼ばれる所以ですね。[マルメゾンの庭園に腰掛けるジョゼフィーヌ ピエール=ポール・プリュードン画]●彼女を悪妻と見なしたのは後世の人であり、中には悪妻であったという逸話が後世に作られたといわれるものもあるのです。しかし そうした逸話も含めて、彼女達を悪妻とする根拠として挙げられるのは、およそ以下の事柄からなのです。過度の浪費、賭博好き 浮気夫に対する暴力ただ、実際には 昔は女性の浮気に寛大だったようですね。
2012.01.29
閲覧総数 755