人は誕生したときに すでに両親とのHR を持ち、その後、兄弟、友人、恋人、配偶者などとの関係を通じて 様々なHR を営んでいきます。
人の人生はHR の歴史そのものです。
その中には 良好な関係もあれば、険悪な関係もあります。
また HR は 長期間継続される事ありますが、せっかく築き上げた関係が短期間で崩壊してしまうこともあります。
HR は 悩みごとの筆頭に挙げられるもので、HR という問題の歴史の長さは人類の歴史の長さと同じほどだと考えられますね。
大昔の人、例えば古代ギリシャ人によるHR の描写の中には 現代人が読んでも、今日のHR の事のように思われるものが多々あります。
つまり HR の問題が ある意味で進歩が無い いわば「永遠の問題」だという事を示しています。
ただし HR は 時代とともに変化している面もあり、かつての農業社会での地縁・血縁による関係から地縁・血縁によらない関係へと移行してきています。
人間には共感する能力があり 共感が積み重ねられていけばいくほどHR は深くなっていきます。
HR はコミュニケーションの累積であり、互いに記号 すなわち非言語的記号や言語的記号(言葉)を交換する事で成立しています。
HR が歪むと さまざまな症状が現れることがあり、家庭内で夫婦関係や親子関係が歪むと離婚や家庭内暴力となって現れる事があり、学校で HR が歪むと 校内暴力、いじめ、登校拒否などとなって現れる事があります。
健全なHR につながる健康なパーソナリティの規準として オルポートは
(1 )自己意識の拡大
(2 )他人との暖かい人間関係の確立
(3 )情緒的安定
(4 )現実的知覚、技能および課題
(5 )自己客観化、洞察とユーモア
(6 )人生を統一する人生哲学
を挙げています。
HR は 大抵の人にとって悩みのタネです。
現代人は しばしば、自分と他の人間との関係の調整に神経をすり減らしており、各人それぞれ体験的にHR の面倒くささを知っています。
近年 人が かかえる悩みの内容についてアンケート調査が行われる事が有りますが、「HR: 人間関係」は ほとんどの場合その最上位に位置します。
HR は 人にとって最大の悩みとも言えるのです。
(HR の問題がいつから存在していたのか)
恐らく人類社会の歴史と同じほどに長い歴史を持っていると考えられ、そして HR の問題には あまり進歩がない。
例えば水が無いといったような問題ならば 井戸を掘る、貯水池を作るといったことで ある世代で解決し、次の世代はあらためて直面することは少なくなります。
ところが HR という問題では問題解決の積み重ねが効かず、古代の人々と現代人はほとんど類似した事態の中に生きています。
昔からHR には 憎しみ、ねたみ、そねみ、疑心暗鬼、へつらいなどが見られます。
そういった点でHR は古代から変化していないと言えます。
HR とは いわば「永遠の問題」なのです。
例えば 古代ギリシャ社会に生き、HR をシニカルに眺め その愚かしさを風刺文学風に書いたテオフラストスの文章は現在まで伝わっていますが、そこに描かれている人間関係の観察・描写(有力者へのへつらい、お世辞 等々)は そのまま現代のHR の風刺として通用してしまう。
また 権力を持ちたがっている人間が政略結婚によってある種のHR を作ってしまう などというのは 菅原道長の時代から現代にいたるまで連綿と続いている方法であり変化が無く 進歩が無いですね。
もっとも 時代とともに変化している面もあります。
ひとりの人間の内部に発生している状態ときわめてよく似た状態がもうひとりの人間の内部に生ずる過程、それが共感です。
例えば 誰かが「痛い」と言う。その「痛い」という言葉を聞いた時、聞いた人の内部ではひとつの過程が発生するのです。
「痛い」という言葉によって表現された からだの状態に似た状態を聞き手は みずからの体験に即して想像します。
聞き手はべつだんその部分に痛みを感じるわけではないが「痛い」という言葉によって表現しようとしている身体の状態がどのような性質であるかを知っているのです。
また 共感はしばしば 生理的な次元でも起きます。
例えば 母親と子供といったこまやかな関係では 痛みはたんに想像上経験されるだけでなく 実際の生理的な痛みとして体験されることもあり、子供が「痛い」と言うたびに母親もその箇所が実際に痛くなったりするのです。
共感は「同一化」(identification )と表現されるプロセスと重なりあっている部分も多く、例えば人は映画を見ている時など 登場人物が危機的な場面に陥るとハラハラしたり胸がドキドキしたり(つまり心拍数が上がったり)手に汗をにぎったりする。
人間は 映画のなかの登場人物に自分自身を置き換えると言えます。人間は「相手の身になる能力を持っている」のです。
ところで 言葉を用いた共感は日常的に行われている平凡な事ですが よくよく考えると奇妙なものなのです。
例えば 小説を読んでいるときの人間の心のうごきを分析してみると 読者は作品のなかの登場人物の「身になって」物語を追う。
これは平凡な現象ですが、しかし よく分析すると、この物語とは何かというと 紙の上に点々と黒くしみついているインクのシミの集まりにすぎません。
人間はそれを文字という名で呼びますが、物質的に言えば、ただの紙とインクを見つめているだけなのです。
例えば、仮に文字を知らない宇宙生物でもいて人間のやっていることを見たら 人間を珍奇な生物と思う可能性があります。
なにしろ 紙の上のインクのシミを見て ニヤニヤと笑ったり、シクシクと泣いたりしているのだから。
つまり人間というのは 実在的世界の速記法として記号の世界を泳ぐ能力を持っているのです。
人間は記号によって動き 人間と人間は記号を用いて互いに共感しあうことができます。
この共感の過程がコミュニケーションだと言えます。
共感が積み重ねられていけばいくほどHR は深くなります。HR はコミュニケーションの累積だと言ってさしつかえないのであり、お互いに記号を交換する事なしに成立するHR は 想定できません。
何度も往復する手紙・メール、繰り返されるデート、おしゃべり、会議など、友人関係・恋愛関係であれ、師弟関係であれ、取引関係であれ、HR は記号、言葉の交換を通じて成立し、「言葉をかける」という事はHR の基本的な条件です。
人間はコミュニケーションを行う時 言葉を使い互いの感情や意思を伝えあっていますが、「目は口ほどにものをいう」といった諺に示されるように 言葉よりも顔の表情、視線、身振りなどが より重要な役割を荷っている事があります。
日常的に人間は複数の非言語的手がかりを使いメッセージを伝達しあっており これを非言語的コミュニケーションと言います。
この非言語的なコミュニケーションは意識して用いる事もあれば 無意識に用いる事もあります。
顔の表情、顔色、視線、身振り、手振り、体の姿勢、相手との物理的な距離の置き方などによって 人間は非言語的コミュニケーションを行っています。
人間は いくら言葉を沢山 使っても理解し合う事が難しい。
対話は人間の内部で起きているからです。
人間の内部には「もうひとりの自分」がいます。
別の表現でいえば、「とりこまれた他人」という事でもあります。
二人の人間のあいだで進行しているコミュニケーションは、実は一人の人間の内部でのコミュニケーションでもあります。学者は、この人間内部のコミュニケーションを「個体内コミュニケーション」と呼んで、「対人的コミュニケーション」と区別しています。
個体内コミュニケーションがうまくいっていない例を挙げると ワンマン的な社会関係、社会学者が言うところの「権威主義」的な社会では ワンマンは「もうひとりの自分」を持っていないので「理解」能力のない人と呼ばれます。
多数の人は 「もうひとりの自分」に おしひしがれています。
わからずやの方には なんらかの自己満足があるものの、ハイハイと言っている側の人間には何の喜びもありません。
見知らぬ人間同士が初対面の気づまりの乗り越えて 打ちとけてゆくプロセスでは、お互いの共通項をさがし出そうとする努力が見られます。
人間の人生経験は多様です。
家庭環境が違い、学校が違い、職業が違う。職業などは かつて職業の分化が比較的単純な時代では たいていの職業は常識的に理解できました。
「大工です」と聞けば 家を作る人だと見当がつきました。しかし現代では 名刺の肩書きを読んでも さてこの人は何をしているのか その分野の人間でないと全く判らない職業が出現しています。
このようにして人間は 互いの接点がどこにあるのかさっぱり見当がつかなくなり、戸惑う状況になりました。
そのどうしていいかわからない状態が いわゆる「社交術」を発展させたのです。
ひとつの古典とも見なされるデイル・カーネギーの書「友を得、ひとに影響をあたえる方法」には「相手の趣味や嗜好を知れ」という項があります。
人と会うときには あらかじめ相手が関心を持ちそ うな話題を探しておき、その話題をきっかけにHR を作れ というものです。現代の都市中産階級、サラリーマン社会などでは、「話題のゆたかさ」に あこがれる人が多いですね。
この「話題がゆたか」という事は たいていの事を共通の話題にする能力をもっている という事です。
相手が釣りの趣味を持っていると判れば、釣りを共通項にする。サッカーなら、即サッカーで話をあわせられ、映画、絵画、演劇と何でも合わせられること。
それは家族が血縁から社縁へと大きく転換した事を示しています。
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elsa.さん
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曲まめ子さん