[ 島原]
島原市は 長崎県南東部の島原半島にある市。
島原城や武家屋敷など旧城下町の街並みが残り 市内に湧水群のある観光都市です。
島原城 は江戸時代初期の1618 年から7 年の歳月をかけ松倉重政が島原城を築城し 以後は島原藩の城下町として栄えましたが 松倉家はキリシタン弾圧をはじめ悪政を続け1637 年に島原の乱が起こり 住民はほとんど死亡し 代わって藩を統治した高力忠房の移住政策により復興。
[ 中村八大]
中村 八大(1931 年- 1992 年)は 青島(現在の中華人民共和国)出身。
御存知の通り。永六輔とのコンビで「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「明日があるさ」など1950 年代末から1960 年代にかけて数々のヒット曲を作曲。
( 遠くへ行きたい)
http://www.youtube.com/watch?v=RWvZsIay7Ww
中村八大さんは 糖尿病を患って 昭和55 年に3 か月半ほど 天草の病院に入院療養されていたそうです。退院後に 主治医の先生に捧ぐ として「天草に」という曲まで作ってプレゼントされているそうです。八大さんが いかに天草に心を残しながら東京に戻って行ったのか。八大さんにとって 天草で過ごした3 か月半が よほど心に残る時間だったのかということが偲ばれます。
[ 原城]
元和の一国一城令で廃城となった原城は1637 年に全国の耳目を集めることとなった。
世に言う「島原の乱」が勃発。島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き また 過酷なキリシタン弾圧を行ったため 農民一揆を引き起こし この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し 島原城・富岡城までが襲撃されたのです。
しかし 一揆の攻城はうまく行かず 一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3 万7 千人が廃城となっていた原城に立て籠もり 小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし 組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げたのです。
一揆側は3 か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく 弾薬・兵糧が尽き果て 幕府軍は1 千人の戦死者を出しながらも新手を投入し1638 年4 月の総攻撃で一揆軍を壊滅させ 一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。
幕府軍は戦後 原城を徹底的に破壊。その一方で 島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から 大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。
[ 天草四郎]
天草四郎はキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として出生。その生涯は不明の点が多いのですが 生まれながらにしてカリスマ性があり 聡明で 慈悲深く 容姿端麗で女性が見たら一目惚れするとまで言われたほどだったそうです。
経済的に恵まれていたため 幼少期から学問に親しみ 優れた教養があったとのこと。
小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として神格化された人物であると考えられておりさまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こした伝説もあります。
島原の乱勃発時は16 才程度の少年で 十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり 徳川幕府の軍隊による原城への総攻撃を受けて 炎の中で自害したとされていますが 少年であった四郎が大規模な反乱を組織したり 戦いを指導したとは考えられず 実質的な首謀者は庄屋や浪人たちなどなのです。
死後に首を切断されて幕府へ送られたという話もあり 首は長崎の原城大手門前に晒されたとも伝わっています。そのとき幕府側には天草四郎の姿や素性の情報が全く伝わっておらず 原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者の山田右衛門作を除く)にされているため 旗印の近くにあった立派な服装をした少年の死体を天草四郎と断定したのだそうです。
四郎の秀頼落胤説は 馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから 大坂夏の陣で死去したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠によるもので 豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられています。
このように歴史は悲惨ですが 島原も天草も のどかな佇まいの町です。
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alisa.さん
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曲まめ子さん