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「ぜんちゃんの歩き方」http://blog.goo.ne.jp/citypraise2007相変わらず長文ですが暇つぶしにね。ボクは何とか元気に生きてます。じゃ。寒いので。
2010年12月05日
日曜日仕事の打合せのあと昼自宅に戻りカップ麺を啜ったら何故か疲れがドドッとでた。 やることは沢山あるけれどやっぱりメリハリも必要なんだと午後はゆっくり休むことに決めた。 しばしFMから流れる知らない曲をぼんやり聴いていたら繁華街を歩きたくなった。 ボクはそのままの格好でマンションからナメクジのように這い出し車に乗り込んだ。 ずっと昔から贔屓にしているCDショップが今月いっぱいで閉店する。 マスターのMさんはボクと同じニール・ヤングのフリークでずいぶんお互いの音源を貸し借りしたり情報交換してきた。 しかしボクはこの数年余程じゃないとCDの新譜を買わなくなった。 とにかく新譜は高すぎる。だからほとんど旧譜の廉価版かリサイクルショップでまかなってしまう。 どうしても欲しいCDはほとんどマイナーレーベルなのでその時はのんびり注文することにしている。 Mさんの店は全品閉店3割引きだった。 しかしその小さな店内をゆっくり回ると改めてCDの種類の少なさに驚いた。 やっぱりこれじゃ郊外の大型CDショップに敵わないな…。 それでなくてもネットでダウンロード出来る世の中だ。CDの需要は完全に落ちているに違いない。 ボクは去年暮れに出たニールのアーカイヴシリーズの「クローム・ドリームス2」を買った。 ボクはまた立ち寄ることを約束し店を出た。 そのあとハルオちゃんたちがやってる天体写真展に寄った。 これがちょっと自分のイメージを超えてとてもいい写真展だった。 あいにくハルオちゃんがいなかったのでメッセージをノートに残してきた。 …ボクも早く自分の星を見つけますよ… いま思うとかなり恥ずかしいメッセージだったな。トホホ。 その後ボクは知り合いのコーヒーショップに寄った。 実はこの店の壁面のプロデュースをボクがやっていて去年10月あたりから一ヶ月交代でボクが選んだ作家の作品を無料展示しているのだ。 来月予定している版画の展示について打合せした後、何となく今見てきたばかりの天体写真展の話をしたらマスターも見てきたと言う。 「よかったですよねえ。ああいう写真もいいですね」 しきりにマスターが言うのでボクはうっかり口を滑らした。 「天体写真もありですね。友達が絡んでいるのでお話ししてみますよ」 「え?ほんとですか?ぜひここに飾って欲しいですね」 またボクは安請け合いをしてしまった。 めっきり人通りが少なくなったとマスターが嘆く。 みんな郊外の大型店や○○タウンに流れてしまうのだ。 市街地に魅力的な店がないといえばそれで済んでしまうがその店の店員やマスターとココロを通わすことができる商店街の暖かさや温もりを無くさないで欲しい願う。 つまりコミュニケーションであり絆なのだと思う。 大型チェーン店の自動ドアが開き一歩店内に入ると何処からか一斉にスタッフの声がする。 「いらっしゃいませ!こんにちは!」 しかし誰一人としてボクの姿を見てないしボクにもスタッフの姿が見えない。 そういうマニュアルなのだろうが何ともココロのない無機質なシステムじゃないか…。
2008年08月30日
いつも突然おふくろはボクのところにやってくる。 「夕方そっちに寄るから」と電話で勝手に時間を設定すると父親と二人でドカドカとボクのマンションに上がり込んでくるのだ。 おふくろ手製の弁当と少々の果物を差し入れてくれるのだが決まってお菓子を少しばかり持ってきてくれる。 「これ美味いから食ってみ」何年経ってもおふくろはボクを子供のように扱うのだ。 定番はもっぱら「でん六豆」なのだが時折り「ひとくち羊羹」や「大福餅」抱えてくるとものすごく嬉しかったりする。 「野菜を摂らないと」「それから中国産の食べ物は絶対に買ってはダメだから」いつものおせっかいなおふくろのセリフにうんざりするけれど最近のボクはその言葉に何故か安心したりする。 先日、おふくろは「でん六豆」でも「大福餅」でも「プリン」でもなく何故か「森永ビスケット・マンナ」を持ってきた。 「なんだよこれは?」 するとおふくろは森永マンナの講釈が始まった。 マンナの語源…旧約聖書にある“神が荒野をさまよえる民に与え給うた愛の食べ物”manna<マナ>にちなんでいるらしい。 マンナの歴史…マンナは1930年6月5日生まれ。今年で78周年になる安心ブランドらしい。 ボクのおふくろは信仰歴65年のクリスチャンだ。 目を輝かせて森永マンナの栄養の素晴らしさを語るおふくろは無敵だ。 確かにボクは何度もおふくろに反発したし世の荒波や思い煩いに挫けた。 しかしこうして生き続けられたことには少なからずおふくろの背後の祈りに助けられたと確信している。 「これって赤ちゃんのビスケットだべ?」 「いいから美味いから食ってみ」 一粒食べたがちっとも甘くない。不味くはないけど やっぱり幼児の食べ物だな。こりゃ
2008年07月16日
先月ボクの仲間の間で話題になったことがある。 6月14日に発生した岩手・宮城内陸地震のことが数十年前に描かれた手塚治虫の「ブラック・ジャック」のなかで予知されていたというミステリーだ。 早速、ボクはブックオフでそのコミックを探した。 秋田書店発行のコミック文庫本ブラック・ジャック第五巻に収録されている「もらい水」に描かれていた。 「6月14日午前8時頃 東北一帯にマグニチュード7.5の地震発生…」 実際に起きた地震の発生日時は6月14日午前8時43分頃、規模マグニチュード7.2(推定)と記録されている。 偶然だとしてもほとんど合致しているので改めて驚いた。 いままで東北各地で大きな地震は起きているが福島は意外と被害が少ない。 ボクには変な感覚があって山は火事を除けば絶対的に安全な場所だと思っていた。 しかし中国の地震や今回の岩手・宮城内陸地震で自分の思いは完全にひっくり返った。 山が無くなっちゃうのだ。 ひとつの山の形状が団地造成でもなくリゾート開発でもなく、一瞬にして形状が変わってしまうのだ。 イノシシも猿もキジや鳥たちも当然人間たちも土砂に呑み込まれてしまうのだ。 旧約聖書の世界じゃないけれど荒れ果てたソドムとゴモラは硫黄と火によって一瞬にして滅び、善良なノアは箱舟で逃れたが大洪水で地上に増えた邪悪な人間たちは大洪水で滅びた。 火でもなく水でもなく崩れてゆく土で破壊されるのは怖い。 そんなこともあってまたボクのブックオフ巡りが始まった。 とあるショップに90年代のレコードコレクターズが大量に入荷していたので「フィル・スペクター」「CCR」「カントリーロック」「ジャクソン・ブラウン」の特集を買った。 個人的にCCRを見直してみたい。 シンプルで汗臭くてとにかく圧倒的に曲がいいからだ。「雨をみたかい?」にしたって3分にも満たないが濃厚な凝縮感だ。 ポール・マッカートニーの97年のアルバム「Flaming Pie」とクラウデッド・ハウスの「Don't Dream It's Over」をそれぞれ105円で買った。 ずっと探していたソフィー・セルマーニのファーストは250円でゲットした。 しかし文庫本はほとんど105円だね。 確実に活字離れしているんだろうなあ。きっと。 若い人たちはほとんど100%コミックコーナーで立ち読みしている。 文庫本コーナーなんかオジサン3人くらいしかいないものな。
2008年07月12日
木曜の夜、久しぶりにゴスペルの練習に行った。 今月5日、レイ・シドニーさんのワークショップも無事に終えて新旧7曲セレクトし新たな練習が始まった。 「When I think about the Lord」を二年ぶりに歌った。 なかなかテナーの音が取れなくて苦戦したが少しづつ想いだす。 この曲は二年前コンサートで熱いものが込み上げてきて声を詰まらせながら歌ったんだよね。 そんな記憶が蘇ってきてまたサビの部分で思わず言葉に詰まってしまった。 ヤバイなと思いながらも自分のなかでまだそんな熱い感情が残っていたことにちょっぴり感動してみた。 ボクらの世代は吉田拓郎と井上陽水は特別な存在だったと思う。 特に拓郎はボクらの最高の代弁者であった。 そんな若い学生の頃、ボクらがアパートで飲み会になると決まって誰かがヘタなギターを弾きだし、他の誰かが拓郎や陽水の唄を口ずさみはじめた。 陽水さんの「能古島の片思い」は定番だった。 …僕の声が君に届いたら素敵なのに…必ずこの歌詞の部分で感極まるヤツがいた。 で、拓郎さんの唄に繋がってゆくのだがもう誰も仲間たちを止められない。 「どうしてこんなに悲しいのだろう」「たどりついたらいつも雨降り」「明日に向かって走れ」など。 服を脱ぎ出しパンツ一丁で「だからあ~したに~むかあ~て走~れ~こぶし~をにぎりしめええて~」なんてコブシを握り締めてわめき出せば隣の住人から苦情がきたっけ。 先週、仙台から友達のA君が来たのでブログ仲間の店に飲みに行った。 BSから美空ひばりの特集番組が流れた。 A君は「美空ひばりは最高だな」と目を潤ませひとり悦に入った。 ボクは「確かに美空ひばりはすごい歌手だと思うよ、だけど演歌が苦手なんだよ」と言うとA君は「なぬ?演歌が嫌いだ?演歌は日本のこころだべ!」みたいなことを言い出した。 例えば「塩谷岬」とかボクは絶対に名曲だと思っているけれどあの頃からの友達からそんなセリフを聞くとちょっぴり寂しくなったりするのだ。 だけど今更「能古島の片思い」を聴きたいとは思わない。 ただボクはあの頃から思っていることがある。 オレは将来、居酒屋でふと流れてくる演歌に口ずさみ「やっぱ…演歌はいいねえ。ニホンのこころだない…」なんて目をトロンとさせる酔いどれオヤジにだけはなりたくないと。 例えばふと流れてくるTHE BANDの「I Shall Be ReLeased」に目頭熱くしZeppelinの「Whole Lotta Love」のリフに狂気するそんな感性の人間であり続けたいと思ったのだ。 決してカッコつけて言ってるんじゃなくて良い意味での不良中年でいたいと思ったのである。 ヨレヨレの酔いどれサラリーマンにだけはなりたくないんだよな。
2008年06月29日
先日夕方、田んぼの脇に建っている賃貸アパートにこれから結婚する若いカップルを案内した。とても気に入ってくれたけれど、その若いカップルの男性がぽつりと言った。「しかし…蛙の声がうるさくね?」でもつれの女性がすぐにこう言った。「平気平気、あたしが育ったとこも田んぼの側だったし」その言葉になんとなくボクらは声を潜め耳を済ませると思わず誰かがクスッと笑い出した。「 春のうた 」 草野心平ほっ まぶしいなほっ うれしいなみずは つるつるがぜは そよそよケルルン クックああいいにおいだケルルン クックほっ いぬのふぐりがさいている。ほっ おおきなくもがうごいてくる。ケルルン クックケルルン クック以前、田舎暮らしがしたいお客さんに郊外の中古物件をお世話した事がある。しかし一年後、お客さんはせっかく購入したその物件を手放したいと言った。蛙の声がうるさ過ぎてノイローゼになりそうだというのだ。その人たちには「 ほっ まぶしいいな ほっ うれしいな ケルルン クック 」とはならなかったらしい。とにかくボクにはケルルン クックだ。たまらなく蛙の声が好きなのである。ボクには永遠の音楽の愛聴盤が何枚か存在する。その一枚にカヌーイストでエッセイストの野田知佑さんの「ハーモニカの夏」というCDがある。これはまさしく究極の聴くアウトドアなのだ。四万十川の河原、焚き火の音、蛙の声、川のせせらぎが野田さんの優しいハーモニカが共鳴するのだ。焚き火の音といえば、ニール・ヤングのアメリカン・スターズン・バースのB面に焚き木がパチパチ燃えるトロケルほどロマンチックな歌も大好きだ。しかし蛙といえばやっぱり少年時代の残酷な遊びを思い出してしまう。厚紙で作った紙飛行機に蛙を括りつけてジャングルジムの上から何度も飛ばしたっけ。空中でケルルン クックは紙飛行機から外れてまっさか様に地面に落下していくんだよね。仲間たちを代表してこの場を借りて謝罪するよ。ごめんね。ケルルン クック…。
2008年06月08日
今日、仕事仲間のKさんと海の見える別荘分譲地の調査に行った。ボクの住んでいる福島市内から車で約一時間、徐々に海に(浜の方に)近づいていったら気温がグングン上がった。途中でKさんとコンビニに停まり飲物を買いながらトイレタイム。「やっぱ、こっちは暑いわ」たまらずボクはスーツを脱いでYシャツの袖を捲し上げたらMさんはTシャツ姿になった。ボクたちはナビと地図を頼りに現地に向かう。「この道でえんだべが…」「いいんでないすかね」眩く光る湖水のような田んぼの真ん中を真っ直ぐな一本道が空まで伸びているように思えた。まさしく初夏只中…。気付いたら、やばいくらいの初夏であった。単純に海がどーんと目の前に広がる感じがしたのでその別荘地物件は個人的な思いとは少しばかり違ってた。海は何処だ?でも初夏の日差しが演出する。「う~ん、でもここ悪くないんじゃないすか」しかし海は何処だ?< ここから浪音きこえぬほどの海の青さの > 尾崎放哉ボクは西斜面の物件のてっぺんに駆け上った。おお、海だ、海だ、海が見えっぞ、そこは小高い丘の上、徐々に断崖になっていて波しぶき岩肌に遙か水平線は真っ青な空に繋がっていた。< 海が少し見える小さい窓一つもつ > 尾崎放哉なんかすっかり忘れていた風景がそこにあったような気がした。この頃の何となく塞ぎがちな自分の心の窓が開放された思いがした。帰り際、ボクらはふと車を停めたら後ろに広大な海が広がっていた。「あれ、Kさん、海じゃないすか?」「あらあ?ほんとだあ」ボクらは分譲地の後ろ東側の小高い丘や南側の遠方の山ばっかり気をとられて小高い丘の下から北側に広がる広大な海が見えなかったのだ。ドブン・ダ・ダバダ・ダッパドブン・ダ・ダバダ・ダッパ懐かしいエンケンさんの「寝図美よこれが太平洋だ」の歌が湧いて出た。…いつかこんな海が見える 丘の上に家を建てて 遊んで笑ってくらしたいものはあ はあ夢かな ドブン・ダ・ダバダ・ダッパ… 作詞・作曲 遠藤賢司やっぱ余裕を持たないとあかんな。ぜってー。そんな初夏の日であった。
2008年05月17日
郵便局の中央テーブルで郵便番号を調べていたら対面にとても小柄でチャーミングな女性がやってきた。 あれ?誰だっけな? ボクは絶対にどこかで会っていると思った。でも思い出せない。 彼女は小包を出し終えると一瞬ボクの顔を見ると直ぐに局から出て行った。 ボクは車に戻ってまた考えた。 絶対にどこかで会っている。でもやっぱり思い出せない。 しかし車を動かし始めたとき突然思い出した。 それは某総合大病院の医師だったのだ。 以前ボクは過度のストレスで神経症を患った事がある。 そして不動産の仕事から一時期リタイアして清掃関係の仕事に身を置いていた。 その現場がその某総合大病院だったのだ。 聴診器を首からぶら下げたそのちっちゃな先生と初めて病棟の廊下ですれ違ったときボクは眼を疑い振り返ってしまった。 患者のコスプレ?失礼な話、中高生ぐらいに見えたのだ。 程よくしてその先生を病棟以外でも度々見かけた。 眼が合えば軽く会釈もした。 病棟清掃のオバチャンと話題にもなった。 「子供みたいにちっちゃくて可愛い先生ですよねえ」 ボクが嬉しそうにそういうとオバチャンがボクの肩を小突きながら小声で言った。 「うんにゃ、それがなかなかしっかりした怖い先生なんだぞい。人は見かけに寄らないもんだで」 6年ぶりに郵便局で見たその人は背丈は変わらなかったが素敵な大人の顔をしていた。 この6年ボクはいろんな道を通ってきたようにその人もまたいろんな道を歩いてきたんだろうな。 あのとき言葉を交わす機会がなかったものかと今更ながら悔しがった。 先月、地元のライヴハウスで加川良さんのコンサートがあった。 会場に入ると知り合いがたくさん来ていた。 とある文化団体の仲間や高校時代の演劇部の先輩も来ていた。 休憩時間、トイレで用を足していると隣りの人がボクの顔をじっと覗くと声を掛けてきた。 「○○町出身ですよね?」「は?そうですけど何か?」 「あたしも○○町なんですよ」「あ、そうですか。で何か?」 「十数年前、微温湯温泉に行く途中の別荘地で焼肉パーティーやったことがあるんですけど来てましたよね?」 ドキッとした。確かにボクは行った覚えがあった。 そのオジサンは続けて言った。 「なんか歌ってましたよね。わたしも歌いたかったけれど酔っ払ってダウンしてしまいましてね…」 なんだ?この人は酔っ払ってダウンしながらボクを見ていて憶えていたというのか。 どこかで誰かが見ている。 あの日、ちっちゃくて可愛い大病院の先生を見つめているボクをまた誰かが見つめていたのだろう…。 ほんとにどこかで誰かが見ているんだよね。
2008年05月12日
市外に住んでいる友達のU君は市内で飲み会があると必ずボクのマンションに泊まる。自宅が遠いため車の代行代が高いからだ。「いつも申し訳ない。あさってまた飲み会なんだ。大丈夫かな?」U君は電話越し、小さな声で済まなそうに言う。だけどボクはたとえ体調が優れなくても「いいよ。いいよ。予定ないから」と返事してしまう。高校時代から、幾多の思い煩いの半生の中で多分に一番このボクを励ましてくれた友達だからだ。彼はいつものようにボクの住むマンションの下に車を停めると済まなそうにボクを携帯で呼び出す。「どうもね。いま、下に着いたんだけど…」そしてボクはいつものように彼を飲み会の場所まで車で送って行くのだ。「ぜんちゃん、後で世話になる。じゃ、いつもの買っておいてよ」と彼はボクにお金を手渡すのだ。「わかった。わかった。いつものやつね」いつものやつ。冷酒、そしてカップ麺。そして絶対に欠かせないボクらの好物。そうなのだ。サバ缶なのだ。それもサバの水煮。思えばサバ缶はずいぶん学生時代に食べた。食べた種類の割合は味噌煮が50%、醤油煮が30%、そして水煮が20%だ。そのあとゴマ味というものも出た。そして究極(?)のサバカレーというものも出現した。でもやっぱりサバ缶は水煮に止めを刺す。刺身醤油を数的垂らしてガシガシ惜しみなく一缶、一気に食べるのだ。勿体ないなんて半分、冷蔵庫に残したらヤバイのだ。サバ缶は時間が経つとモノスゴク生臭いのである。ああ、サバ缶…。お腹が空いたのだ…。
2008年05月09日
楽天ブログから約一年四ヶ月離れた。当然にmixiに溺れた。で、別なサイトで新しいブログを立ち上げのんびり書いていたけどちょっとつまずいた。エロサイトの書き込みが多いのだ。そして何より不思議なのはその新しいブログのアクセス数より引退したはずのこの楽天ブログのアクセス数の方が平均的に多いんだよね。(苦笑)んな訳で。ていう訳でもないが。まだここに戻ってこようかなと。(悲笑)つう感じで…こそっと日記を更新しておきます。んじゃ。「ガセネタ」二月半ば知合いのMさんからこんなメールがきた。 こんにちは。 突然ですがお願いです。 血液型「RHマイナスB」の人知りませんか? 東京の友人の友人が探しています。 3才の男児が『急性リンパ性白血病』で昭和医大に入院中。 血液が足りず治療を進められない状態。 もし同じ血液型の方がいた場合は献血所や血液を管理する中央部に集まり、 検査後、2、3日くらいで使えるようになるということです。 心当たりあったら私まで連絡下さい。 早速ボクは仲間の看護師に協力を仰いだ。 もちろんMさんもボクを含め十数名(海外の友人も含め)に協力を仰いだらしい。 しかしその日の夕方、Mさんから謝罪のメールが入った。 どうやらガセネタだったらしい。 人の善意を踏みにじるトンデモナイ悪質なチェーンメールだったのだ。 どういう経路でMさんにメールが回ってきたか不明だが冷静に考えると「友人の友人」というのがどうも怪しすぎる。 しかし状況がマジっぽいし、急性リンパ性白血病という病名にすんなり信じてしまったのだ。 別パターンではこの3才の男の子晴君という名前付きのメールも発信され実際、昭和医大に問合せが数百件あったらしい。 またこういう話に騙されたとMさんが半分嘆いた。 「善良な普通の人間である証拠」とボクは精一杯の慰めの言葉を掛けた。 どうやらこういった類いのガセネタ話は何年かの周期でやってくるようだな。 そういえば20年も前に「邪馬台国は本当は福島にあった」なんて話しがあった。 その決定的な証拠を掴んだので本を出版したいとある自称古代史研究家が言ったのだ。 そして古代史が大好きなボクら仲間はカンパを集め援助金を渡した記憶がある。 ご多分に漏れず、その自称古代史研究家は忽然と姿を消したけどさ。
2008年05月07日
皆さん、明けましておめでとうございます! 良い年明けでしたか? 個人的に去年は苦しいこと沢山あって立ち止まりもしたけれど今年のボクは再生の年です。 ようやく去年後半になっていろんな新しい出会いもあってとても嬉しかったな。 そうそう、12月28日のTBS特番「小田和正クリスマスの約束コンサート」観ましたか? もう、大感動でした! えっ?小田さんに?違いますよ。じゃなくって…。 ゲストで登場した「斉藤哲夫」さんにです。 もう、哲夫さんの唄が素晴らしくて涙がでました。 久しぶりにあんなに泣けてまだまだ自分の中に感動する気持ちがあることに正直に嬉しかったです。 で、今年初めてのブログは斉藤哲夫さんの永遠の名曲「悩み多き者よ」の歌詞を紹介したい。 時どきこの曲を聴きながらボクは自分を励ますのです。 去年辛い事いっぱいあったけれど「自分の暗い歴史の影に」埋もれないぞって。 「悩み多き者よ」 作詞・作曲 斉藤哲夫 悩み多き者よ 時代は変わっている 全てのことが あらゆるものが 悲しみの朝に 苦しみの夜に 絶えず時はめぐり繰り返されている ああ人生は一片の木の葉のように ああ風が吹けば何もかもが終わりなのさ 流れゆく時に遅れてはいけない 移りゆく社会に遅れてはいけない 悩み多き者よ 時代は変わっている 全てのことが あらゆるものが すさんだ日々に ゆがんだ日々に 休みなく時は通り過ぎてゆく ああ人生は吹きすさぶ荒野のように ああ生きる道を誰でもが忘れているのさ 暗い歴史の影に 埋もれてはいけない 飾り気の世の中に 埋もれてはいけない 哲夫さんが「悩み多き者よ」と「グットタイム・ミュージック」を一万人を超える大観衆を前に歌い終えたとき小田さんに溢した言葉が胸に響いた。「歌い続けてきて本当に良かったです…」なぜかボクはこの哲夫さんの言葉に勇気付けられた。信じてやり続けていく情熱は人に感動を与えるのものなのだって。暮れにもうひとつ印象に残った言葉があった。地元の小さなライヴハウスにシンガーソングライターの大塚まさじさんが来てくれたのだ。オープニングの挨拶に大塚さんはこんなことを言った。「ボク、56になりました…いろいろありましたねえ…もう何が起きてもちょっとやそっとじゃ驚かない。これから何が起きるのか逆に楽しみですわ…」 そんな風に人懐こく微笑む大塚さんの柔らかい大阪弁が妙に心に沁みた。そういえば大塚さん今月の半ばぐらいから朝ドラの「芋たこなんきん」に出演するって言ってました。しかも、牧師役だって!そんな訳で、また今年もヨロシクです。去年、楽友の皆さんに約束した事、忘れていませんからね。CDゆっくり待ってて下さいませ。
2007年01月03日
国道沿いの単品のおかずを選べて食べられる大衆食堂で遅い昼食を摂った。煙草を吸わないボクは禁煙席に座るけれど最近は通りを眺められる広めの喫煙席の方のテーブルに腰掛ける。ぼんやり信号待ち国道を眺めながら食事をしていると店内に耳障りの良いポップ・ロックが流れてくると妙にそれが店の厨房の食器を洗う音とが柔らかく重なりあい少し脱力感を覚えた。会社を辞めてからひとりで昼食を摂るのが多くなったけれどやっぱりこんな冷たい風が吹き荒ぶ晩秋の昼下がりの表通りに意味もなく寂しい気持ちになったりする。しかしなんて耳障りの良いバック・ミュージックなのだろう。お昼のテレビ番組がついている食堂は気にもならないけれど、ユーセンとか音楽を流している店であるなら音楽大好き人間のボクは少しこだわってしまう。基本的には演歌と民謡とラップ以外はOKだがやっぱりそれなりに耳障りの良い音楽であって欲しいのだ。最近お気に入りのラーメン屋では珍しくヒップホップやガレージバンドみたいな音楽を流している。これがちょっとうるさくて熱いラーメンをふうふうしながら口に運ぶとき何か急きたてられているようで時どきむせてしまうのである。仙台で友達と飲みに行って気付いたのだがジャズを流している店がやたら多くなった事だ。定禅寺ジャズフェスティバルが定着したせいもあるけれど上品でしかも美味しい料理を食べながらゆっくり飲めるちょっと洒落た店にはきっと耳障りの良い音楽になるのかも知れない。しかし、いくら耳障りが良くても結局自分の好きな音楽を無性に聴きたくなるものだ。彼は当然に70年代のフォークが聴きたいと我が儘を言い出した。ボクも負けじとプログレッシブ・ロック、何故かピンクフロイドが聴きたいと言った。「原始心母」が良いというと彼は絶対に「エコーズ」だと言い合っているうちに少し酔いが回ってきた彼はどうしてそういう音楽が流れる飲み屋がないのだとふくれっ面になったので「だったらお前がそういう店を作れよ!」とすかさずボクもふくれて見せた。聴きたい時の一曲。たしかに携帯電話の進化やipodの普及で容易になったけれど、不意に突然に流れてくる感じが良いのだ。「おおっ、この曲は!!」って感じが実にたまらないのである。そういうふうに突然に流れてくる音楽が心の琴線にふれることがある。つい最近、郊外の田舎道をぼんやり車で走っていたらカーラジオからボズ・スキャッグスのアコースティック・ライヴ・バージョンの「We are all alone」が流れてきてボクは不覚にも涙が止まらなくなったことがあった。そして、やっぱり名曲中の名曲ってあるんだなとひとり感心したのである。
2006年12月13日
「mixi止めますか?それとも人間止めますか?」いまそんな警告が本当にあるらしい。でも実に言い得て妙な言葉だ…。ボクは今年の初めあたりからずうっとMixiの事が気になっていたけれど実際に覗けないのでその実態がよく分からずにいた。それがようやく先月の20日ボクにもついに招待状が回ってきた。で、当然ボクの性格上、すぐにハマル…。内部にどんどん入ってゆくと何とも奇妙な現象が起きた。「あら?あなたもでしたか!あれ?もしかするとアレってあなた?」みたいに何人かの知合いに遭遇したのだ。そしてそのうち「大きい声では言えませんが…私もあくまで仲間内で…嗜んでいるのよ、オホホホ…」と身近にいる知り合いもこんな事を言い出す始末。そのうちボクの(現実の)友達は「友達全員mixi化計画」なるものを画策しだした。事実ボクも調子付いて友達を引きずり込んでしまった。チョット待てよ。ジレンマに襲われる…。「世界に広げよう!友達の輪!」がどんどん閉鎖的に閉じられていくような錯覚を覚えたのだ。それも得体の知れない例えば秘密結社みたいな…。大袈裟だけど…。ああっ違うな!そうか分かったぞ。mixiって「仮想のゲームの世界」なんだ。それも24時間体制で「相手と関わらなくてはいけない」一種のゲームなのだ。ボクは今日、mixiから這い出してちょっと深呼吸をしてみた。「ふうっ、シャバの空気はうまいぜ~!」正直そういう感覚になった。「mixi止めますか?それとも人間止めますか?」本当に実に言い得て妙な言葉だと思う。しかし、明日またきっとボクはmixiに戻ってゆくだろう…。やっぱり面白いからね。でもまた深呼吸をしにココに戻ってくるつもりでいるよ。大丈夫さ。
2006年12月11日
月曜日、NHKでキャンディーズのドキュメンタリー番組「我が愛しのキャンディーズ」が放映されていた。 ボクはそれをまるで作られた映画のように何故か淡々と観続けた。 当時の歌謡番組やバラエティ番組に出演している彼女たちが映されていた。 それらはまるで先週あたりに放送された番組のように鮮明に覚えていた。 コンサートの模様も解散に向けてひた走る彼女たちの当時のインタビューやラジオ番組の様子も良く出来たフィクションドラマのようにじっとボクは観続けた。 ボクはかつてキャンディーズの追っかけをしていた。 だからかつてその現場にいたのだ。 しかしもうボクはそこにいなかった。 もうとうにそこにあったはずの自分の影は剥がれ落ちてしまったらしい…。 きっとその番組を観ていたかつての多くのファンたちは歓喜し懐かしんだことだろう。 「お父さんの青春だったんだぞ」ってビールでも飲みながら奥さんや子供たちに熱く目を潤ませながら語った人たちもいたに違いない。 でも懐かしむってどういうことなんだろう…。 青春っていったいなんだろう…。 ボクは吉田拓郎の唄のようにまだ人生を語りたくない。 清算する必要もなく捨てる必要もなく、そしてそれらの記憶を置き去りにするつもりもない。 かってボクはそこにいた。 それだけのこと。 それはたましいのひとつの在りかかもしれない。 そこは真実の意味を見出せる場所なのかもしれない。 だけどボクはそこで懐かしんだり歯噛みしたり戻りたいなんて思わない。 いつでも現在進行形でありたいからだ。 淀み漂い生きるのではなく選び取って生きたいのだ。 そして何かと闘い続けて生きてゆくだろう。 ただしボクはこれだけは言える。 楽曲のクオリティの高さ、コーラスの絶妙さ、その個性。 キャンディーズは素晴らしいエンターテイナーであり稀有なグループであったこと。 今日はそんなキャンディーズのなかで「春一番」や「微笑返し」よりも絶対に傑作だと感じている「暑中お見舞い申し上げます」のシングルジャケットを掲載しておこう。 う~ん、でもやっぱり、ランちゃんって可愛いわ…。
2006年12月08日
ついにボクもmixiにはまってしまった。おまけに向こうでもブログを始めたものだから楽天ブログと折合いがつかなくなってしまった。だからといってこの本家のブログを閉鎖する訳にもいかないな…。だからまた頑張って更新してみることにするのだ。そんな訳でちょっと切れが悪いけど、この頃の話題でも書きます。福島もめっきり冷えてきてエアコンやハロゲンヒーターではやっぱり足元が寒い。ひと月の電気代が通常の二倍に跳ね上がってしまったのでちょっとボクも考えた。ストーブの方が絶対に暖かいし、最近18リットル灯油価格税込み1260円の看板を見たので灯油に切り替えようかと検討してみた。そんな貧乏臭い思いでボクはベランダの隅に置いたままの石油ストーブを引きずり出してきて灯油を買いにホームセンターに出かけた。そこで税込み1260円灯油を一缶買い、18リットルポリタンクを車のトランクに詰めたあと近くのBOOK OFFを覗きに出かけた。その間、たかだか約20分…。トランクに灯油ポリタンクはたしかに存在していた…と思う。そしてボクは帰路についた。裏通りを走っている途中、道の悪いところがあった。アスファルトの段差を乗り越えた時、そのショックのせいか後ろのトランクが空いてしまったのをバックミラー越しに気付いた。その間、たかだか約50メートルぐらいだった…直ぐにボクは車を道路の左端に寄せて停めた。そしてそのときボクは灯油ポリタンクが無くなっていることに気付いた。ええ?灯油ポリタンクが消えた?まさか、さっきの段差のショックで落としてきたのだろうか?その間、たかだか2、3分、ボクは直ぐに引きかえしてみた。しかし、しかしなのだ。灯油ポリタンクは何処にも見当たらないのである。ボクは冷静に心を落ち着かせて、もう一度、車を左端に寄せ停車した場所に戻り、Uターンさせて、始めのホームセンターに戻ってみることにした。冷静にボクが走ってきた道をなぞってみた。やっぱり、灯油ポリタンクは落ちていない…。ボクは一瞬、最悪の状況に思いを巡らす。灯油ポリタンクが地面に落ちて割れ灯油が流れ出し、そこを通ったマナーの悪い運転手が窓から火がついたままの煙草を車外に投げ捨て引火…。そういう危険性だって有り得るじゃないか。しかし、しかしなのだ。道路にはその痕跡、灯油がこぼれた様子はまったくないのだ。…謎だ。ホームセンターに車を置いたままの20分間、トランクから誰かが灯油を盗み出したのか?いや、キーは確かに?掛けてあった気がする。ボクが裏通りを走ってトランクが空いたのに気付いたときに、はたして後続の車がいたのだろうか?記憶が実に曖昧だ。来ていたようないなかったような…その車が道路に落ちたボクの灯油ポリタンクを拾って立ち去ったとしか想像がつかないのである。結局、謎のままボクは家に戻り、別なポリタンクを持ち出してきてまた同じホームセンターで灯油を買った。本当に、トホホの夕べだったのである。
2006年11月27日
「ぜんちゃん、今度ラーメン食べにいくべ!最高に美味い店があっから」いつもポジティブ・モード全開のまちこねえさんが言った。自他共に認める麺食いでしかも面食いでもあるボクは頬っぺたをピクリと痙攣させた。「ほんとに?でも個人的にラーメンの味が合わないと凄く不機嫌になるんだけど」そんな経過で先週のある日、まちこねえさんやシャチョーに誘われて市郊外のラーメン店に行った。「オレは味噌だな。これがちょっと酸味があるんだな…それがまたいいんだよ」シャチョーも案外食い物にこだわるので少し期待した。まちこねえさんとOさんは塩ラーメンを注文したのでボクは醤油にしようかと考えたがシャチョーが「味噌味噌絶対に味噌大盛!」とおっしゃるのでボクも味噌大盛でリーチを賭けてみた。「う~ん!まさに味覚の字一色、大三元ダブル役満って感じですわ」とふざけている場合ではなく本当にボクにとっては今まで食べたラーメンのベスト3にランクインしてしまったのだ。とにかく味噌ラーメンに関してはベストワンなのである。スープのバランスも麺もチャーシューも完璧だ。ボクは思わず感動して笑ってしまった。まちこねえさんの話しによれば以前まで市内の繁華街で長く営業していたいわゆる老舗のラーメン屋だったらしい。その味を息子さんが引継ぎアレンジして郊外にその新しい店オープンしたのだ。確かに根本的には「札幌みそラーメン」そのものだがツルツルの上品な卵麺が絶妙に酸味のあるくどさの一歩手前の濃厚な味噌スープに絡み、上品な作品に生まれ変わったのだ。まさに一子相伝、守られてゆく味にボクはひとり感動の余韻に浸ったのである。伝えられてゆくべき美味しいもの。味はまさに遺産であり継承されるべき文化だ。飲み屋帰りの客の御用達、中華食堂Dはもうない。あの絶品のスタミナラーメンも冷し中華も餃子ももう食べられない。腹を空かした若いサラリーマンの為にあったようなM食堂のヴォリューム満点のカツ丼もニラレバ定食ももう食べられない…。こうして考えてみると絶滅危惧動物と同様に絶滅危惧食堂の味があるのに気付くのだ。はたして街の食堂は存続して行くのだろうか。いつ食べても同じ味のラーメン店、そのチェーン店、林立するファミレス、画一化するドリンクバーを嘆かざるをえない。でもそんな警鐘を鳴らすいい加減なボクは度々ファミレスを利用するんだけどね。しかしだいたいその店の味って、「あんかけ」か「野菜炒め」を食べると分かっちゃう感じってあるみたいだ。
2006年11月18日
まちこねえさんちに生後五ヶ月のミニダックスフンド犬がいる。ボクが遊びに行くとその「ちゃっぴい」は疾風のように何処からか現れて足元に絡みつき膝まで飛び跳ねてくる。そしてそのまま決まってボクは「あちょ~!」と奇声を発して広い駐車場と庭に連れ出し一緒に駆け回るのだ。その生後五ヶ月の「ちゃっぴい」はもう自分が「ちゃっぴい」という名前である事を認識しているので遠くから名前を呼ぶと弾丸の如く駆けて来るのだ。名前を呼ばれ反応する事、それは生後一ヶ月足らずで母親から引き離されて来た「ちゃっぴい」にとってアイデンティティの認識、まさに身元の確信作業であろう。数日前ボクはいつものクリーニング店にYシャツを出しに行った。Yシャツをカウンターに出したときボクはクリーニングカードを忘れてきたことに気付き店員にそのことを話したら「大丈夫ですよ。○○さん…でしたよね?」と答えた。いつも利用しているからといって自分の名前まで憶えていてくれた事に少し感動を覚えてしまった。クリーニングカードを忘れてきたボクは、まちこねえさんちの「ちゃっぴい」と同じように自分が何処の誰かを認識するのだ。ボクは姓名判断なんか信じない。名前に命が宿り、それぞれの環境の中で魂と個性が確立すると考えるからだ。同じ名前の知り合いが数人要るけれど皆な人格も魂も違うし、もしもいまボクが名前を変えたとしても人生が変わるとは思わない。いま立ち上げようとしている仕事の屋号名を決められずに少しつまずいていた。友だちが姓名判断で見てもらったらどうかと言ってくれたけれどボクは笑ってそれには従わなかった。まず自分自身が何をしたいか、その屋号になにを託したいのか考えてみたのだ。そうしてみると自分の湧き上がる思いの中でひとつの単語しか出てこなかった。だからボクはその単語を膨らませながら屋号名を作ってみた。「人と街に仕える」そんな風にイメージしてみるとどうだろう。ゆっくりと命が宿った気がしたのだ。ボクには本名といわゆる愛称が三つある。普段は本名の○○さん、仕事関係は愛称で「まっちゃん」、親しい関係間柄では「ぜんちゃん」(なかには「ぜんさん」と呼ぶ人もいるが)で、音楽関係の仲間からは「まつぜん」と呼ばれている。当然全部ボクなのだがそれぞれの呼び名でボク自身、若干個性の出し方が違うような気がしている。「まっちゃん」は「まっちゃん」で自分を制御しながらもユニークに仕事をこなし、「ぜんちゃん」はガンガン自分をさらけ出す永遠少年的。で、「ぜんさん」は少しばかり「ぜんちゃん」を青年にした感じだし「まつぜん」はもう勝手にアーティストしているのだ。あえてまた言うけど全部ボクであることは変わりはないが、自分がとてもうれしくて落ち着くのはやっぱり親しい関係での呼び名「ぜんちゃん」がいいかな…。それはまた一番古くからの愛称なのでアイデンティティの拠り所でもあるのだ。
2006年11月10日
その食堂の壁に掛かっている時計は1時6分で止まっている。昼飯を食べに足しげく通うようになってから、この一ヵ月半その時計はずうっと1時6分のままなのだ。店のおやじさんに「時計が止まってますよ」なんて野暮な忠告だし、絶対に店のおやじさんはその事はとっくに気付いていると思うのだ。充分に分かっているのだ。乾電池を交換すればすぐ澄むことなのだ。「めんどくさいんだよな。気が向いたらそのうち交換するさ…」最近のボクのブログは寂しすぎてツマラナイ…。読み返してみると実に自虐的で病んでいる…。ボクはバカ正直というより子供なのでその時どきの感情に溺れてしまうことがある。でも本当に今年の一連の出来事は大事件だった。たぶんボクの残りの人生において、それ以上の大事件はないと思う。失ったものはあまりにも大きいし深い傷も負った。だけど引き換えにたくさんのことに気付かされ得たものも確かにあった。その一番は自分にとって大切な関係や人がはっきりと見えたことだ。断言してしまうがつくづく人はいい加減なモノだし当てにならないモノだと思った。偉そうなことを言うがボクの生き方の理念は「人に仕える」ことだ。言葉を換えれば「人を愛する」ことでもある。何故そうするかというとボクは人に愛されたいからだ。だから不思議と人にメチャクチャ嫌われた記憶がないし、良いのか悪いのか人畜無害で(良い人)に思われたから大体の人は好意を持ってくれた。しかし今回の事件を通して自分の方程式ではあてはまらない数式があることを知った。その人に嫌われたというより半分呪われた気さえするのだ。事実、家の電話にワンギリが続いたことを報告しよう。だけどボクはもう振り返らないし前進して行くだけだ。新しい方向へいま進もうとしている。しかし、しかしなのだ。どうもうまく進んでいかないのだ。そうなのです。ボクの時計も、たぶん朝方、9時31分あたりで止まっているのです。「もしもし、ぜんちゃん?起きてる?」「ン?起きてるよ」「もう昼だよ。メシどうすんのよ…。」「ン?昼?ああっもう昼なのか?」「何だよ。時計止まっているんじゃないの?」本当に頭が回らないのだ。自分ではよく分かっているのだ。やらなくてはならないことが山ほどあるのだ。新しい仕事を興す準備に不安が募り前に進んでいかない。まさに生みの苦しみのなかにある。とにかくこれから何でも一人でやらなくてはならないのだ。それが強烈に寂しいのだ。マンションの階段を重い荷物を持ちながら上ってゆくときにメチャクチャ悲しくなってしまうのだ。ああ、また、つまらない日記になってしもうた…。なんか、常連さんもさっぱり寄り付かなくなったみたいだなあ…。そうそう、いまボクのブログの訪問者は四分の三が楽天以外のゲストさんなのです。いちばん面白かったのは「今日までそして明日から」のタイトルで日記を書いたときだ。ちょうどNHKで拓郎さんのつま恋ドキュメンタリーが放送され、それが11時半に終わった直後、ボクのブログは30分間で約60件のアクセスがあったのだ。ボクのブログのアクセス件数はだいたい毎日30から40件なのでこれには驚いた。NHKの放送を見た人が一斉に検索してボクの自虐的な切ないブログを通り過ぎていった訳だ。なんともはや。トホホだな。「もしもし、ぜんちゃん?起きてる?」「ン?起きてるよ」「もう昼だよ。メシどうすんのよ…。」「ン?昼?ああっもう昼なのか」「何だよ。時計止まっているんじゃないの?」早く時計を動かさなくっちゃ…。
2006年11月05日
先週月曜日、NHKテレビで31年ぶりの拓郎&かぐや姫inつま恋2006のドキュメントを観た。現在進行形の拓郎さんの生き様が浮き彫りにされて、ちょっとぐっときてしまった。やっっぱり拓郎さんはかっこいいな。確かに今年、還暦を迎え、さすがに顔には張りがなくなり目の辺りがショボショボになったけれどまだまだ若い。楽友の悠々さんがブログで少し書いていたけれど、かぐや姫はやっぱり懐メロ的な感じがする。だからといって、かぐや姫の唄を否定している訳でない。ボクだって、かぐや姫のLP持ってたし仲間たちと大いに歌ったりもした。確かに良い歌もあるけれど、どうしてもあの時代において完結しているような気がしてならない。嫁ぐ妹に向けた「妹」の唄の情景、/ふすま一枚隔てていま…/あの味噌汁の作り方を書いてゆけ…/なんて歌詞はあの時代だからこそ成立したものだと思う。「神田川」にいたってはまさに四畳半フォークの代名詞であり、もはや伝説的名曲であろう。横丁の風呂屋の情景、小さな石鹸がカタカタなったり、洗い髪がしんまで冷えたり、何よりボクはその詞の世界の切なさに身悶え通り越して、いまではもう歌えない部分がある。/若かったあの頃何も怖くなかった/ただあなたのやさしさが怖かった…/そういう叙情性というか観念的というか、すっかり煤(すす)けてしまったボクにはそういう言い回しが信じられなくなってしまったのである。あなたのやさしさが怖かったってどういう意味なのか。そんな言葉を平然と言える文学的な女性はいま存在しないだろうと思ってしまうのだ。やっぱりあの時代とあのシチュエーションでしか成立しないフレーズに違いない。で、やっぱりいまのボクは拓郎さんがお気に入りだしなぜか泣ける。かと言ってボクはずうっと拓郎さんを追いかけて聞き続けた訳でもない。せいぜい「ローリング30」あたりまでだった。/ローリングサーティン動かぬ花になるな…/その表題曲の歌詞がきっかけでボクは拓郎の唄から離れた。もう必要ないと思ったからだ。確かに拓郎さんはボクらの代弁者でありリーダー的存在であった。そしてボクらは誰だって拓郎になれると信じた。誰でも思いのままにギターをかき鳴らし叫ぶことが出来た。事実、拓郎さんのフォロワーはたくさん出現した。拓郎さんの唄の歌詞には必ずしびれるフレーズがあった。でもその「動かぬ花になるな」にボクは思いっきり反発してしまったのだ。「動かない花」だって良いと思ったのだ。加川良の唄じゃないけれど、野辺にひっそりと咲くコスモスだっていいと思ったのだ。そんな花がたまらなく素敵だと思えるのだ。何となく唄が声が邪魔になってきた。言い換えると「言葉に不自由」を感じてしまったのだ。始めにリズムありき…そんな風に考えてみた。だからジャズやフュージョン、クラシックにむさぼり付いた。そして民俗音楽に回帰したところで、いわゆるワールド・ミュージックに流れていったのである。そこで出会ったのが、ユッスー、カルトーラ、ユパンキでありヌスラット・ファテ・アリ・ハーンだった。やっぱり人間の声というのは素晴らしかったのだ。「始めに唄ありき」なのだって、また唄に戻っていった。そして、より純粋な言葉や唄に飢えたのである。当然に懐かしのフォークソングを思い出してCDで聞き返したけれど、正直、最後まで聴き通せるものが少なかった。先に書いたように、どうしてもあの時代だからこそ成立していたものが多い。で、やっぱり拓郎さんが残ってしまう。現在進行形で第一線で活動しているからだ。一番魅力的なのはその歌声が歌い方が変わらないことだ。でも拓郎さんにはずいぶん騙されたな。明石家さんまとの対談番組で「ペニーレーンでバーボンを」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」は嘘の唄だと洩らした。さんまさんやボクらは同世代だからとにかくこの二曲は思い入れがあるのだ。ボクは友達と原宿にペニーレーンを探しに行ったことがある。やっと見つけて店に入ったときはメチャクチャ感動したことを憶えている。ああ、あのカウンターで拓郎や小室さんやムッシュかまやつがバーボン飲んで語り合っているんだなって…。「どうしてこんなに悲しいんだろう」はボクらの青春のテーマソングみたいだったしね。拓郎さんは対談番組でこういった。「バーボンなんて強い酒、飲むわけないよ。ペニーレーンだってほとんど行ったことない」「どうしてこんなに…の唄?あれは嘘です。本気でそんな事考えたわけじゃない」でもボクはある意味、拓郎さんの照れなんだと思っているけれどもね。古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう古い船をいま 動かせるのは古い水夫じゃないだろうなぜなら古い船も 新しい船のように 新しい海へ出る古い水夫は知っているのさ新しい海のこわさを…拓郎さんのデビュー曲「イメージの詩」を紐解いてみた。やっぱり、この歌詞の部分に普遍的な輝きを感じてしまう。「オレは新しい水夫になるんだ…」ってボクは真顔で鏡に呟いてみた。本気でね。大人の顔で。
2006年10月31日
良かれ悪かれ言いたいことを全部言う気持ちいい風を魂にふかす今はどのあたりだろうどの辺まで来ただろう僕の人生の今は何章目ぐらいだろうあほな冗談で涙流して笑う屁みたいな歌を大きく歌う今はどのあたりだろうどの辺まで来ただろう僕の人生の今は何章目ぐらいだろう朝が昼が夜が毎日がそれぞれにいとおしい君が 彼が あいつが 誰かが それぞれにいとおしい何気ないその笑顔を 頼もしい奴の声を変わらないこの心を とめどないあの涙を忘れたい昔の 譲れない初恋の事わからないあの出来事 しょうもない昨日のこと叫びたいでかい声で つかみたい力ずくで遊びたい一晩中 眠りたい君の横でいつまでも図々しく 何処までも明日は続く… 「僕の人生の今は何章目ぐらいだろう」 作詞・作曲 トータス松本前回紹介した拓郎さんのCD「豊かなる一日」の八曲目にこのウルフルズの歌がカヴァーされている。ボクは活きの下がった虚ろな目で、まちこねえさんにしばちゃんから「ホルモンパーティー」のメールがあったことをポツリと洩らした。するとねえさんはボクの背中をばんばん叩きながら機関車の汽笛のような声で言った。「面白いじゃん!!で行くことにしたんだべ?」「いや…まだ何にも…どうしようかなって…」ボクはますます活きが下がって答えると「ぜんちゃん!だめだべさ!ぱあ~といがねえど!」ねえさんのマシンガントークがさく裂する。で結局ボクはしばちゃんに連絡する羽目になり気がつけばすっかり段取りが出来てしまった。かくしてボク繋がりの関係で初取り組みのメンバーを含め総勢八人がホルモン屋に集結した。当然に交わされる会話はバラバラだが不思議とコミュニケーションは保てていた。しろモツ鉄板焼き、餃子、漬物、おにぎり、ラーメン、飲物、食べるほどに飲むほどにそれぞれの個性が表出されてきて実に面白い。二十年来のこの仲間たちに言える事は充分に個性が確立した大人でありしかも優しすぎるほど他人を気遣い庇える人たちだ。自分のスタンスも他人のスタンスもわきまえているから人を落とし得る事なんてありえないとボクは少なくともそう信じている。二人が戦線離脱するとボクら六人は別な店に流れた。のんびり話したいというのでボクの音楽仲間がライヴで利用させてもらっている某クラブHに押しかけた。初めのうちのんびり会話を楽しんでいたけれど若い女性の団体が店に押しかけカラオケが始まったら俄然状況が変わった。まちこねえさんの「みんなも負けないで歌ったらええべ!」の言葉に火がついたのだ。Oさんは昭和30年代の歌謡曲しか認めていないし、しばちゃんとひいちゃんは「朝までダラダラしゃべる会」のメンバーだし皆な芸術家なのでカラオケはやらないものだと思っていたがやっぱり皆な歌うのが好きなのだ。それも一筋縄ではいかない選曲ばかりだ。バーブ佐竹、フランソワーズ・アルディ、椎名林檎、みうらじゅん、クレージーケン・バンド、ムーンライダース、はちみつぱい…まちこねえさんときたら「ベサ・メ・ムーチョ」だもんな。止まらないカラオケ大会の騒音のなかボクとしばちゃんは何故かしみじみと語り合った。「本当にわたしもね、周りの話しを全部受け入れてしまうんだよね…」しばちゃんもそうなのか。人に対して壁がないんだ。周りの悪口雑言も愚痴もみんな受け止めてしまうんだ。そして彼女はお姉さんのような口調でボクに言った。「金銭的援助はできないけど、出来る事はなんでも応援するからね。言ってよ」冷酷な人たちと接触し哀しい日々を通ってきたけれど、やっぱり人のこころは温かいものだと感じた。もう一度、人を信じてみようと思った。 君が 彼が あいつが 誰かが それぞれにいとおしい 何気ないその笑顔を 頼もしい奴の声を 変わらないこの心を とめどないあの涙を 忘れたい昔の 譲れない初恋の事 わからないあの出来事 しょうもない昨日のこと 叫びたいでかい声で つかみたい力ずくで 遊びたい一晩中 眠りたい君の横で いつまでも図々しく 何処までも明日は続く… 「わからないあの出来事 しょうもない昨日のこと」 絶対にボクは乗り越えて見せる。そしてもうあの出来事について語らないよ…。
2006年10月23日
ゴスペル・クワイヤーの練習のあとメンバーのSちゃんが先日出演したビックパレットでのステージ写真をメンバーに配っていた。その写真のなかに会場の駐車場から撮ったものであろう空の写真が二枚ほど混じっていた。確かにあの日の澄んだ空加減が素晴らしくてボクも会場に入るとき数枚デジカメのシャッターを切っていたのだ。Sちゃんにそんな柔らかな眼差しの感性が存在したことにボクは正直意外な気がした。でもそんな写真を嫌らしくも盗み見しながらボクはとても嬉しかった。同じクワイヤーのメンバーでそういう単純な共通の眼差しがきっとボクたちのハーモニーを増幅してゆくに違いないと思ったからだ。たまらなく空を見るのが好きだ。ちぎれゆく雲波や夕焼け空は数秒単位で変化してゆく。その空の構図も色彩もまさに一瞬、同じものなどあるものか。そしてそれらは表現しえるすべての言葉を拒む。ボクはこの国で水を張った田んぼに映し出される空の田園風景ほど美しい風景はないと思っている。今日昼過ぎ、くぅちゃんの店に復活牛丼を食べに行った。混んでいる店の中で少しだけ言葉を交わし会計を済ますと無言で彼女に手を振り店を出た。ボクは車に戻り人と会うために四号バイパスを横切りK街道に向かうと偶然にMちゃんの車とすれ違った。(人のいい)ボクが唯一自慢できることはたくさんの仲間や知り合いがいることだ。でも正直、会いたくない、会えない人の二人や三人は存在する。先月、相変わらず青いボクは失恋をした。ほんの数ヶ月、その人と同じ空を見、同じ草花を見、美しいと確かにこころを通わせたと信じている。しかしそんな共通の風景の中で突然にボクらは背中合わせになった…。だからまた会いたくない、会えない人の中に彼女を加えてしまった。空は紛れもなく秋晴れ、山間の一本道をのんびり走っているとそんな澄んだ空の中に車が呑み込まれてゆく錯覚を覚えた。「 白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも 染まずただよふ 」なんとなく若山牧水の歌が付いて出た。ボクはボクのスタイルでいいのかなと思ってみる。されどボクはボクの何者でもなく、ありのままのボクでしかない。彼女は突然、ボクに背を向けたけれどボクはあのときのように空を見上げ美しいと思っている。「 白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも 染まずただよふ 」車のハンドルを握りながら一人、牧水のその歌をもう一度諳んじてみたら涙がこぼれた…。ボクのマンションのトイレに空がある…。それは動かない風景だけれど確かに空がある…。彼女はそれに気付いていただろうか…。
2006年10月04日
金曜日の夜、私し不肖ぜんちゃんこと「まつぜん」の五日遅れ「第三回まつぜん生誕記念音楽祭」があった。仰々しいタイトルだけれど単なるボクの誕生日にかこつけてのライヴコンサートだ。主賓がいない生誕祭もないだろうと少しばかりふさぎ込んでいたボクをダンキチくんが引っ張り出してくれた。久しぶりにギターを抱えて繁華街を歩いた。通りの向こうからやって来る若い人たちの集団にあの人の影を見たような気がしてボクは怯えた。もう関係ないしもう二度と会えないさ…。そう思い込んでいてもあの人の匂いを嗅いだような気がしたのだ。とにかく今回のライヴパーティーでは仲間たちの気遣いとやさしさに本当に気持ちが癒された思いがした。この界隈では天下無敵のT氏がボクのためにケーキとシャンパンを用意していてくれた事には驚きだった。そしてボクが会場のスナックに着くとハッピーバースディーの合唱が始まりT氏がそのフルーツケーキのローソクに火を灯すと店内が暗くなった。ボクは感謝を通り越して嬉しいやら恥ずかしいやらでちょっと首筋辺りがくすぐったい気がした。くぅちゃんは先日の牛丼復活祭のオレンジの手拭いをプレゼントしてくれた。ボクたちのこの小さな音楽会がまさに草の根運動的に良質で新しい歌声喫茶ムーブメントになっていったら素晴らしいと真剣に思った。みんなを祝福する立場になろうとも思った。ボクは境界線をもたない人間だった。でも今回の経験を通して自分が関わるべき人とそうでない人があることを学習したのだ。あえてそれをこちら側とあちら側という具合に表現するけれど自分を惑わし壊してゆく人が必ず存在するのを改めて知った。自分が用いられてゆくところ、使わされてゆくところを見極めて行動して行こうと考えるのである。みんなさんざん楽しく演奏した後、結局ボクもステージに立ち(一応マイギターを持って要ったものだから…)数曲歌った。ずっと歌い続けているオリジナルの2曲目、あの人の事をつい想い出し感極まって声を詰まらせてしまった。つくづくボクは青いなと思う。子供だなと思う。巣立つことも出来ずにまだ君を待っている飛べない鳥のようだと思う…。「あたし、ぜんさんの味方だよ」くぅちゃんが言った。ボクが歌い終わるとカウンターにいたCDショップのMさんがいきなりハグをしてきた。すべてを見透かされているようで照れくさかった。「なんでここにいるのよ」そう聞くと仲間のNさんから聞いてきたのだと言う。Mさんとはお互い「ニール・ヤング」フリークで数十年来の知り合いだ。久しぶりの再会にまたボクらは(篤い!)ハグをした。ボクはこういう人たちのために絶対に頑張ろうと思った。そして自分のなかにある何か大切なものを伝えていこうと決心をする。ライヴがはねてボクは帰る方向が同じジョージ・Kと一緒に帰路についた。途中裏道の暗がりでつぶれた十円玉を拾った。ジョージ・Kが言った。「まつぜんさん絶対に良いことありますよ、絶対に」ダンキチくん、くぅちゃん、ジョージ・K、そして天下無敵のTさん、マスター、金曜日の夜は本当にありがとうございました!さてほったらかしのCD制作再開だあ。
2006年10月01日
カレー屋を営むMとはずいぶん長い付き合いになった。たしか彼は小学校3年のとき突然ボクの家にボクが飼育していたムササビを見せて欲しいとドカドカやってきたのがきっかけだったように思う。それ以来、べったりでもなくそれでいて離れる事もなく、いつだって一定の距離を保ちながら細々と付き合ってきた。ボクと彼はまったく違う場所でまったく違う歩み方をしていたけれど何故かお互いに辛い時があると急接近した。 万有引力とは ひき合う孤独の力である 宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う 谷川俊太郎さんの有名な詩「二十億光年の孤独」の一文だ。孤独というものは本当に人がひき合い求め合うものなんだと思う。紆余曲折の半生、ヤンキーにもなった彼も今ではカレー屋で釣りキチのいいオヤジだ。今回の一連の騒動、まさに波乱の六ヶ月をMは誰よりも心配してくれた。「仕事が決まり落ち着くまで夕飯ただで食わせてやるから」そういう彼にボクは素直に甘えることにした。だからといって頻繁にヤツの店に行く訳にもいかないとマジに考えていたけれど、思ったようにうまく行かない日々に寂しすぎてつい不安定になった。だから最近はほとんど一日おきにお世話になっている。「とにかくゆっくりしていけよ」時折り店は混むのでボクはカウンターの端っこで小さくなっておとなしく新聞を読む。「今日どうする?」「忙しそうだし食わせて貰うんだから何でもいいよ」「あ、分かった…スペシャルカレー作るからよ」しばらくしてMはボクのカウンターにカレーを運んできた。「これ食って精をつけてくれ」生卵入りチーズポークカレー…。「生卵はいいから」そういうボクに「いいからいいから精をつけろ」とヤツは最近このスペシャルをよく作ってくれるのだ。まだ出口も突破口も見えず、正直、まだこころの傷が癒えてないけれど何となく不甲斐ない自分にヒリヒリと切なくなることがある。そして仲間たちのやさしさに惨めなくらいにヒリヒリと恥ずかしくなる。でも少しばかり方向性は見えてきているのだ。自分で会社を興そうと思うのだ。そんなとき昔からの仲間のしばちゃんがメールをくれた。「資金援助はできないけど、その他何でも応援するよ…夕方ウチに寄ればご飯ぐらい食べ させたるよ…」泣けた。彼女もまた辛いところを通ってきた人だからヒリヒリと泣けた。自分が泣いた涙の量だけ人にやさしさを与えられるのだと思う。裏切られ、捨てられ、否定され、つくづく人間なんてみんな身勝手で信じられない生き物なのだと思った。でもそれでもボクは人間を信じている。いろんな意味で切り落とされたボクは確かにいま寂しいけれど決して一人ぼっちじゃないからだ。明らかにこんな自分に期待している人たちがいるからだ。ボクははっきりと境界線を引こうと思うのだ。愛のないあちら側の人たちに最後のことばを言わせてくれよ。「あなたたちは何者?誰ですか?こっちをなめんじゃねえぞ!!」
2006年09月29日
市郊外にあるM食堂は広い通りに接しているわりには何故か地味な佇まいをしている。年季がはいった暖簾をくぐりガラガラ戸を開けるとすぐにセンサーが感知して「イラッシャイマセ!」と女性の声のテープが流れてくる。店内は四つのテーブル席にカウンター席、それに三畳ほどの上がり座敷がある。おびたたしい数の手書きのメニューがカウンターの上部にびっしりと貼られ調理場はよく見えない。テーブルに着くとすぐに無表情の娘さんがやって来てコップの水をボクに無造作に差し出す。そしてこちらが注文するまでしばらくボクの前で黙って立ち尽くすのだ。そのしばしの緊張感に注文を聞くとまたそそくさと娘さんは調理場に消えてゆく。三畳の座敷には定番の布袋像や千客万来、真実一路の彫物と布製の訳の分からない掛け軸が並びテレビもない店内には感度の良くないモノラルAMラジオが静かに鳴っている。だから客の誰もが不思議と声をひそめるのだ。とにかくメニューがすごい。一般大衆食堂の定番メニューに加えラーメンと御飯のセットメニューが数十種類に分かれている。しかもそのセットメニュー価格はほとんど五百円と安い。ボクのお気に入りは「ざるラーメン定食」、ごまだれのつけめんが何とも健気に美味くて日替わりのおかずと御飯も家庭的な味わいだ。ワンコインを支払い店内を出るとまたセンサーが感知して今度は「アリガトウゴザイマシタ!」とテープが流れる。何となく無味乾燥で人の温もりを感じないけれど、所詮、昼飯なんて空腹を満たすための作業であるとすれば割り切る事も出来る。再び、昼飯の問題…。しかし最近のボクはワンコイン(五百円)で食べれれば何でも良いみたいだ。もうこだわりなんか何処かに捨ててしまったようだ。でもやっぱりときどき軟弱に少しばかり人の温もりが欲しかったりする。音楽仲間のクウチャンが吉○家に勤めていることを想い出しその店までちょっと遠出してみた。豚丼、たまご、味噌汁。四百三十円也。彼女はすぐにボクに気付いたようで勘定のときにわざわざ調理場から駆けつけてくれた。「まつぜんさん、明日来ますう?」えっ?明日?あっ、そうか。明日9月18日は牛丼復活祭だったんだ。もちろん次の日ボクは牛丼復活祭に出かけた。2年7ヶ月ぶりの牛丼つゆだく、たまごかけ…。味だって?そりゃあ、美味かったよ。本当さ。そして応用の利かないボクはまた今日の昼、いそいそ吉○家に出掛けたのである。でもやっぱり寂しい今日この頃だな…。まいったな。もう、秋だよ。
2006年09月20日
前回のブログ「公開ラヴレター」は実はいま作ろうとしているラヴソングのイメージなのです。そしていささか恥ずかしいけれど対象がいてノンフィクションである。すべては「愛している」で完結してしまうのだ。それを説明しだすとああだこうだウダウダガダガダいくらでも言葉を並べられるし、なるべくいやいっその事「愛している」とか「好き」とか一切使わないでしかも簡素にどれだけ言い尽くせるのか試みたいのだけれどやっぱり難しい。しかもどれだけ情感を込められるかが問題だ。ボクはどうしてもいまのJポップに情感を見出せない。確かに良い歌もある。しかし、言葉の使い方が安直すぎる気がしてならないのだ。だから二昔前のいわゆる昭和歌謡曲が大好きだ。ファンだったから言うんじゃないけれどキャンディーズや沢田研二にしてもたった一曲も駄作がなかったと断言する。もちろんJポップで評価している人も歌もある。山下達郎さんの歌やサウンドは素晴らしいけれど案外歌詞が好きだったりする。「フォーエバー・マイン」は単純にグッときてしまった。最近では「青春アミーゴ」が抜群に良く出来た歌だと感じる。曲のイントロや~このあたりじゃ負け知らず~の歌詞にやられたなと思った。だけどボクはカラオケに誘われても絶対にうたわないけれどね…。ボクのカラオケの十八番は何を隠そう…「夜空のムコウ」なのだ。 あのころの未来に僕らは立っているのかな 全てが思うほど うまくはいかないみたいだ このままどこまでも 日々は続いていくのかな 雲のない星空が マドのむこうに続いている あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかな 夜空の向こうには 明日がもう待っている… 曲も良いがとにかくこのスガシカオさんの歌詞は傑作だと思う。しかし数日前、スガシカオさんが何かの音楽番組で新曲を歌っていたががっかりしてしまった。とにかく歌詞が多いし難しすぎる。詰め込みすぎている感じがするのだ。だから前に戻るのだがどれだけありきたりな言葉で簡素に表現できないものだろうかと考えるのである。ボクはときどき思い出したように川端康成の「伊豆の踊子」を読み返す。誰もが良く知っている物語だろうけれど時間があったら絶対に読み返して欲しいのだ。これこそ芸術的美文の極致なのだ。とにかく文章が表現が美しい…。ラヴレターといえばボクが二十歳過ぎの頃、中学校時代の同級会で憧れだったカズコちゃんと再会して恋が再燃したことがある。居たたまれずにボクは彼女にラヴレターを書いた。そして約二週間過ぎ、ボクのところに彼女の手紙が届いた。真っ白い便箋に丁寧できれいな文字が綴られていた。再会できた喜びや中学時代の他愛無い想い出が綴られたあと、その手紙の最後にこう記されていた。 …本当にお手紙ありがとう。 …キャンディーズは解散したけれどまた誰かが復活しますよ。 …今年の秋、私の姓が変わります。あまりにも素晴らしい文章で悲しくても涙が出なかったことを想い出す…。もちろん、いまでもその手紙は大事に保管しているけれどね。
2006年09月14日
夏の暑い日の出来事。ボクはシャワーを浴びようと風呂場のドアを開けたら湯船の端っこに得体の知れないコブシほどの黒い物体があった。たわしのようにも見え、丸めた雑巾にも見え、考えようにはボクの大好物の「おはぎ」にも見えないこともない。しかし、何ゆえ風呂場に「おはぎ」なのだという最大の疑問が残る。正直気味が悪いので、ボクは見てみぬふりをしながらシャワーをひねり、時々その黒い物体にお湯を掛けてみた。するとどうだ。その物体はややカタチを変えて動き出したのである。「お、おはぎが生きてる!?」やがてその「おはぎ」から爪が伸び出してくると羽まで広がりだしたのだ。果してその正体は「蝙蝠(コウモリ)」だった。ボクは素手で掴むには危険を感じたので雑巾で包み風呂場の窓から放すことにした。しかしコウモリは鋭いその爪で雑巾にしがみつきギシギシギシと鳴き喚きながら抵抗しだした。なおも鋭い爪で雑巾にぶら下がるコウモリを激しく振り払う。(ギシギシギシ、いやだよう、いやだよう…)んなこと言ったってボクはキミをこの風呂場に住まわせるつもりは毛頭ないのだよ。ようやくコウモリは観念し夜空に飛んでいった。数日後、そいつはまた風呂場の隅っこでうずくまっていた。「おい、おまえ、何か勘違いしてんじゃないのか?」またボクは同じように雑巾でそいつを包み窓から放してやった。福島の夏はとにかく暑いので風呂場の窓を開け放して外出する。だけどまたそいつが窓から飛んできて「ここはおらの住処だもんね」なんて居座れては甚だ困るのでそれ以来、風呂場の窓は完全に閉めることにした。まだ日中はきびしい残暑が続いているけれど夜はすっかり秋の気配だ。そんな夜半ボクは最近変な(調べ)を聞く…。どうやらその場所は台所の換気扇の裏あたり、つまり外の壁面辺りらしいのだ。(ギシギシギシ…)その調べはまさしくあのコウモリではないか。その日夜半過ぎ、シャワーを浴びていたら風呂場の窓越しに何かが飛ぶ(影)をはっきり見た。キミはそんなにボクの生き血が欲しいのかい。もしもキミが魔女の魔法でコウモリに変えられた何処かの美しいセレブのお嬢様ならボクの生き血を分けてあげよう。それで元の姿に戻るのならね。んなワケナイか…。しっ、ほらまた(ギシギシ…)あの誘惑の調べが聞える。
2006年09月03日
夜10時過ぎ頃ふと妙な殺気を感じ何気なく天井を見上げたら三センチほどのゴキブリが天井を這っていた。(き、きさま、ど、何処から入ってきたのだ…)そのままゴキブリは天井を悠然と歩き端っこまで行くと今度はそのまま直下した。きりりとボクが立ち上がるとゴキ野郎は気配を察したのか、ぴたりと静止した。その瞬間ボクはターミネーターの赤外線スコープの如く集中し床にあった雑誌を静かに手に取ると(おまえはすでに死んでいる)そう呟き電光石火ヤツをぶったたいた。確かにヤツはグシャリとつぶれまっさか様にフィギュアケースとDVDのボックスの後ろに落ちた。すかさずボクは懐中電灯を持ってきて落ちた隙間を確かめた。しかし…両手と触覚を時折り動かしながらヤツはまだ生きていたのだ。だけど明らかに体半分がつぶれ臓物がとびだしていたので死ぬのは時間の問題だと思いそのまま放置することにした。しばしインターネットに夢中になってそれを完全に忘れた頃、しかも夜中12時過ぎふと妙な殺気を感じ右側の床に目をおいた時、横腹から臓物を出したまま走るヤツの姿をはっきり見た。げっ!寝室の方に走って行くではないか!そして本棚の陰にヤツは完全に消えた。戦慄が走る…。(ヤツはターミーネーターだ!)次の日、ボクは(ゴキブリホイホイ)を買いに行った。マンションの4階、いったいヤツは何処からやってくるのだろうか。開けっ放しの風呂場の窓あたりから侵入してくるのだろうか、それとも、排水溝当たりから侵入してくるのだろうか…。その日の夜、(ゴキブリホイホイ)を流し台の上と下にそれぞれ一個づつ仕掛けてみた。そして翌朝それらを恐る恐る覗いてみて驚いた。三匹も掛かっているではないか!粘着テープの上で必死にもがくヤツらを見てボクは思った。(ざまあみさらせ!)そして次の日、またボクはその(ゴキブリホイホイ)を覗く。昨日ほどもがいてはいないけれど時折りその触覚をゆっくり動かしていた。(苦しいか…動けねえだろう…へへへ…)また次の日、ボクは(ゴキブリホイホイ)を覗いた。ヤツはまったく動かなかった。(ざまあみさらせ…やっとくたばったか人類の敵め…)そのときヤツの触覚が激しく動いた!(ぐえ!ホントにターミネーターだあ!)ボクは戦慄を覚え、発作的にその(ゴキブリホイホイ)を床に置き足でつぶした。ぐじゃ!しかし安堵感とともに嫌な罪悪感を感じた。だからといってヤツらと共同生活したいとは思わないんだよな…。だけど確かにボクはヤツらを殺したんだよな…。
2006年09月01日
珍しく早く仕事が終わったので、ユウちゃん、マキちゃんたちと一緒に晩メシでも食おうかと電話を入れた。しかしあいにく、マキちゃんは晩メシを食べ終えヘタレていたので次回に持ち越しにした。とにかくボクはお喋りしながら会食するのが大好きだ。互いに心を開きもてなし合う行為でありそれはとても意義のある重要なコミュニケーションだと信じている。心を許さない人とは絶対に食事なんか出来る訳がないし会話のない会食はありえない。第一、受け入れがたい人に自分が食べているその姿を見せたくない。たまに早く終わったのに至極残念だな。でも先日、とても久しぶりにお馴染みのムナちゃんと仕事の合間を縫ってお茶を飲むことが出来たので嬉しかった。職場が変わってから一ヶ月ほとんど会えなかったし話せなかったのだ。来月11日、福島県フォークソング協会の支部コンサートがある。世話人のムナちゃんには言い難いけれど、仕事の予定から見るとボクの出演はちょっと難しいみたいだ。時間のやり繰りや休日の取り方が確実に難しくなってしまった。確かに仕事が忙しいのは良い事なのかもしれないがそれと引き換えに中途半端なものが山積みになってゆく。もしかすると多忙は罪だ。ある意味そんな気がしている…。自作曲CDの音源が完成した。ディレクターをしてくれたSさんには本当に頭が下がる。実に深みのある浮遊感漂う音を出して頂いた。しかし、しかし、なのである。やっぱりボクのヴォーカルが問題なのだ。ヘタレなのだ。だからSさん、もう少しボクに時間を下さい。しばらく気持ちを昂揚させてもう一度ヴォーカルを録音し直したいのですよ。仕事の合間を利用し素晴らしい演奏を録音してくれたSさんに報いたいのです。それに比べてボクはSさんの十分の一も犠牲を払っていないのだ。そんな状況のなか、来る日曜14日はボクが参加しているゴスペル・クワイヤの初の野外コンサート出演なのだ。こりゃあ本当に困ったな。ボクは一ヶ月近く練習に参加していないのである。もはや気持ちだけではどうにもならない。「仕事が忙しくて練習できませんでした」なんて言い訳は通用しないのだ。そういう甘さは今年完璧に捨てることにしたのだ。きっと優しいメンバーたちは許してくれるに違いない。上手く音が取れなくても居てくれるだけいいからと言ってくれるに違いない。やっぱりそれではいけないのだ。自分たちだけで慰めあってはいけないのだ。不特定多数の人たちに感動を与えるにはそんな甘い友情も愛情もいらないのだ。だから練習不足のボクが他のメンバーのハーモニーを乱してしまうなら外れた方が絶対に良いに決まっている。人に感動を与えるのはなんと難しいことなのだろう。こちら側は絶対に本物でなくてはならないし、その表現手段としてテクニックは必要だし要求される。プロフェッショナルとしての自覚もまた必要であろう…。「そんなことないよ」「やっぱりハートなのよ」なんて言ってみても、そのハートを具現化するにはそれなりの努力が必要なわけで。つまり犠牲も必要な訳だ。
2006年05月08日
数日、咳込みがひどくて水曜日に病院に行った。熱もなく血圧も正常だったし食欲もあるので、もともと気管支が弱いから環境が変って疲れもピークだったのでストレス的に喘息気味になったのかも知れない。取り合えず、咳止めの薬、痰を出やすくする薬、そして抗生物質を出してもらった。幾分咳も和らいだような気がしたが昨日の朝がた咳込みがひどくて目が覚めた。ベッドから這い出すと消したはずのストーブの火種がぼんやり燃えているのに気付いた。どうやら不完全消化していたらしい。まだ暗い部屋の中で咳込みながらレバーを戻したり緊急消化ボタンを押していたら、なんとなく寂しくなってきた。医師から水分を充分補給するようにと言われたのでミネラルウォーターのペットボトルをがぶ飲みしてみる。こころ持ち咳が楽になったがやっぱり何となく寂しくてしょうがない。何気なくボクが職場で体調不良で弱音を吐くと同僚が言った。「あれ?○○ちゃん、前からそんなに弱かったっけ?」うん…確かにそうだよな。ボクはいつからこんなに弱くなったのかな。鏡を覗いたら眉毛から左右それぞれ二本ばかり異常に長い毛が伸びていた。こういう現象が最近多々あって、もしかしたら老化現象の表れであるまいかとまた弱音を吐いた。しかし世の中はそれでも勝手に動いてゆくのだから気を緩める事も出来ないのだ。満開の市内の桜は散り始めているが周辺の町や村の桜はこれからだ。連日、山林物件の調査に出かけている。とにかく需要があるのだ。団塊の世代が定年退職を控えて余生をのんびり山で遊んだり畑を耕したりしたいのだ。そしてそれと同時に高齢になって農地や山林を維持できなくなり手放したい人たちが存在するのだ。「20年前に山を成り行きで引き取ったんだがもうこの年じゃ山の手入れもでぎねがらない。だれが引き取ってくれねがし…」「境界は分かりますか?」「うんにゃ、場所はわがっけど20年のうち3回しか入ったことねんだず。調べでやってくんにがい」作業着に長靴履いてボクらは会社の若い子に図面を持たせ山の藪の中に入ってゆく。「お~い!早く来いよ!」若い子は後ろの方で声だけがする。「…はあい!今行きますう!」なあんだ。まだまだボクはフットワークいいじゃねえか。今日、山桜があんまり綺麗だったので枝をひとつ切り取って会社に持ってきた。しかし、これって実際やってはいけないことなのかな。山のものはいいんでしょ?山はボクの弱音を解消してしてくれたりする…。
2006年04月21日
くしゃみ鼻水でたちまちゴミ箱はティッシュの山になる。ついに花粉の襲来が始まったらしい…。しかし、それだけでもなさそうだ。連日のお疲れモードに体調が崩れたようで少々咳がでて風邪っぽい。とにかく夜はあんまり吉野家で済ませないように帰宅時はなるべくスーパーでバランスよい買い物をして家で食事をしよう思う。昨晩、九時半ごろスーパーに寄ったら厚手のブルゾンに深く帽子を被り大きなマスクをがっちりかけた男性を見つけた。なんとなくその背格好、とりわけ太り気味の下半身が知合いの某くんに似ていた。ボクはわざと近くに寄り様子をうかがった。ははあん、やっぱり某くんだな。でも、ぜんぜん彼はボクに気付かないのでボクはわざと斜め下から見上げるように「やあ」と小声で言うと彼はたいそう驚いて「うあ、ぜんちゃん!よ、よくボクって分かりましたね?」と言った。大きなマスクにボクは「花粉症?」と訊ねると彼は「そうなんですよ。それとねえ…鼻毛を切っていたら鼻の中を傷付けちゃって…」と大きなそのマスクをはずした瞬間、鼻の中に詰め込んでいた脱脂綿が鼻息と共にピューと吹き飛んだ。お互い「あ!?」「お!?」と言う間に彼はそのピューと弾丸の如くに飛んで床に落ちた脱脂綿をあわてて拾った。と、ボクはここまでその状況を書いてはたと考える…。このニュアンス…弾丸の如くに吹き飛んだ脱脂綿に「あ!?」「お!?」はたして賢明な読者に伝わるのだろうかと。やっぱり文章化するのは難しいのだ。あのときに発した言葉は言葉になってない訳で、つまり、けっして「あ」でもなく「お」でもなく「ん」とも「へ」でもない例えば「うんにゃ、はれ、ぱ、ぷ」みたいなニュアンスなのだ。いまボクの仕事のアシスタントをしている若い女性がいる。頭の回転が機敏だしよく気が付く。とにかく実に良く仕事をこなしてくれるのでとても助かっている。数日前、お客さんから自宅売却査定の依頼の電話がありアシスタントの彼女を伴い調査に出かけた。近道の公園前の道路に入り込んだら車は渋滞に巻き込まれてしまった。ボクは横丁の道に逃れて回避しようと促したが進入禁止だったので仕方がなく渋滞が緩和されるのを待った。車の頭上すれすれに満開の桜の枝が垂れていた。「満開だね」とボクが言うと彼女ははしゃいだ口調で「そうですよ。満開ですう」とチャーミングに答えた。すると彼女は制服のポケットからカメラ付き携帯を取り出しその満開の桜に向けた。ボクは「写真?」と聞くと「はい、キレイだから」と一枚シャッターを切った。しかし彼女はその画像を覗き「ああ、ダメだ。うまく写らないです」と残念そうに言った。少しずつ桜並木の下を車が流れてゆくと彼女は小さな声でこう言った。「きょう早く仕事終わるといいな…」なんと健気な子なのだろう。ボクはそのとき生まれて初めて不思議な思いを抱いた。妹以上、いや親と子に近いほど離れた彼女に「大事に育ててあげたい」と思ったのだ。そして先輩として上司としてきちんと彼女の仕事を把握し組立ててやらなければと思ったのだ。これはある意味、親心というものなのだろうか。とにかく初めてボクのなかに芽生えた「人を育てる」感情なのだ。「きょう早く仕事終わるといいな…」この健気な一言をこのニュアンスをボクはどう表現したらいいのだろう…。そして「とてもいい子だな」この感覚をどう表現したらいいのだろうか。
2006年04月16日
毎日メチャクチャ忙しい…。よほど疲れていたのかベットに横になったらそのまんま朝まで眠ってしまった。蛍光灯は点けっぱなしパソコンもCDプレーヤーもそのまま、しかも石油ストーブも点いたままでヤカンの水はからからになっていた。四月一日から業種は変わらないけれど勤め先が変わった。ボクは若い子たちが仕事を終えて退社するのを見届け点検し帰るので遅いときは10時ぐらいになる。だから頭を悩ますのは晩飯の問題…。その時間になると近くのスーパーは閉まってしまうのでこのところずいぶん吉野家にお世話になっている。吉野家カード4枚集めてもらえる「春の新作ストラッププレゼント」はすぐにゲットしてしまった。以前の同僚の会社に挨拶に行ったらこんな話になった。「しかし、なんでまたこの仕事なの?」カッコつけるつもりはないがやっぱりボクは人が好きなんだよな。当然、煩わしいことも沢山あるけれど、とにかくいろんな人と出会えるのが楽しいのだ。いつもの様に疲れた先週の土曜日、不定期の「朝までダラダラしゃべる会(朝ダラ会)」が突然あった。前回、元気がなかったヒーチャンを励ますために集る事になったのだ。いいだしっぺのシバチャンに土曜日当日の夕方連絡したら、まだメンバーも場所も決まってないと言う。仕事の途中、お世話になっている看板会社に回って「朝ダラ会」の事を奥さんのマチコねえさんに話したら「それならウチでやりな。料理作ってやるから。いいべ?」と言ってくれた。正直ボクは疲れているので奥さんのところだったらボクの家から近いし帰りも楽なので個人的には喜び一応シバチャンに連絡してみた。7時過ぎ、ヒーチャンから「おおい、何処にいるのだ?○○のドトールコーヒーで待ち合わせだったよね?」と突然、携帯にメールがきた。ボクはまだ職場にいたのだが、どうやら連絡が噛み合っていないらしかった…。だけど一応「まだ仕事中なので場所が決まったら連絡をくれ」とメールを送信した。土曜日に限って会社の若い連中も早く退社したので8時には完全にボクの仕事が跳ねた。家に帰り着替えてまったりとしていたが何の連絡もない。ボクは少し億劫になり(どうか神様、このまま何もありませんように!)と願った。しかし、その思いは甘かった。9時過ぎ、メチャクチャ、ハイになったシバチャンから携帯に連絡が入る。「はいはい!○○にいるよお!餃子食べてるよ!早く来て」なんだよそりゃ?ところでメンツは誰よ?「うんとね。ヒーチャンの仲間の○○くんにハンチャンも来てるよ」ところでマチコねえさんに連絡したの?「うんにゃ…してないよ…うんにゃ」まっいいか。ハンチャンも来ているし、餃子たらふく食って精力でもつけてみるか。ボクは突然しゃきとなって根性出して街の餃子屋まですたこら25分も歩いた。着物姿のヒーチャンはとても元気そうだった。たぶん気持ちが吹っ切れたというより何かに委ねたのだろう。やっぱりオープニングは映画の話題になり、相変わらずハンチャンとボクは固有名詞が出てこない。サム・ライミ監督の名前がなかなか出てこなくてボクは絶対にハンチャンより早く思い出して優越感に浸ってやるぞと自分の脳みそを必死に検索していたがハンチャンが偉そうに「サム・ライミ!」と叫んだのは甚だ悔しかった。マチコねえさんから携帯に電話が入る。「何してんだい?何処に居るんだよ!うりゃ!」と荒い口調で言われたが別に怒っているわけではなかった。そして宴もたけなわ、マチコねえさんとダンナの社長が合流、話題は尽きず狂い咲きモードになった。考えてみるとそのメンバーは全部、ボクつながりで成り立っているのはちょっと不思議だ。マチコねえさんが何気に言った…。「ぜんちゃんの仲間はみんな面白いね」ボクは単純にボクの存在を通してみんなが楽しいならそれで良いと思っているのだ。そして話は尽きずに朝の3時も過ぎたので仕事があったその日のボクはグジャグジャ眠かった。で、冒頭に戻るが日曜日の夜、風呂に入って、そのまんまベットに朝を迎えた訳なのである。
2006年04月13日
Yちゃんとの変な出会いからもう20年ちかくになる。彼がボクの勤めていた会社に賃貸アパートの問合せの電話を掛けてきたのがそもそもの出会いだった。「○○あたりに○万円の良いアパートがありますよ」とボクが言うとYちゃんは「そこに決めます」といとも簡単にぶっきら棒に言った。「見なくて良いのですか?」と言うと彼は「見なくていい」と言う。不審人物だと危ないので「とにかくこれからご案内致しますからまず見てから結論だして下さい」とボクは強引にそう言った。アパート契約の保証人に星一徹みたいな父親を連れてきた。やけっぱちでややふてくされていたが時折り子供みたいにケラケラ笑った。まだ二十歳そこそこの彼はつかみどころがなかったけれど何となくそんな彼に興味を抱きボクは気にかけた。そんなYちゃんはアパートの入居のときボクにこんな事を言った。「オレ、あんまり友達いないんですよ。良かったら友達になってください」男性からそんな言葉を言われたのは初めてだし正直くすぐったくて躊躇したけれど単純に受け入れてみた。それからボクは時折り仕事帰りに彼のアパートに寄った。そして次第にボクの帰宅時間がどんどん遅くなった。お互い取り止めもない夢を語りだしたら朝になることもあった。そしてボクはしばしそのまま寝ずに職場に出勤した。そうしてボクはボクらの仲間に仲良くなった彼を引込み麻雀したり飲みに行ったりと時どき遊んだ。ハウンド・ドッグのコピーバンドに参加していたYちゃんにフォークソング(アコースティック・サウンド)の洗礼を施したのはボクだ。そうしてYちゃんとダンキチくんとボクは「ひまわりトラベリン・バンド」を発足させた。思えばボクがずっとひとりで創作してきたオリジナル曲を初めて人前で歌うきっかけになった伝説的な(?)記念碑ユニット・バンドだった。やがてボクの音楽的な表現の未熟さやエゴでユニットは発展的解消しボクはひたすら個人的創作活動に埋没していったがYちゃんとダンキチくんはスリーピースバンド「ばってんボーイズ」でロックしたりした。とにかく彼はボクに対し生意気な口を利くのでWBCのイチローじゃないけれど「こらあ、おまえ少しは先輩を敬え!」などと時折りキレた。そんないつものやり取りについにボクはブチ切れ完全決裂したのは7年前だった。Yちゃんがボクのお気に入りの彼女を「ブスじゃん…」と何気なく言ったのがそもそもの原因で今にして思えば愚かな子供の喧嘩みたいだったな。。そして3年前ひょんなことでボクらは寄りを戻す。確かにその頃Yちゃんの口から両親の病気について語られた事があった。そんなYちゃんのお父さんは去年の夏に亡くなった。そして先週、今度はお母さんが亡くなった。彼の身内はたったひとりの妹さんだけになった。数日前、ボクはYちゃんの自宅を訪ねた。「両親を看取ったし…もう、いいかな。ボロボロになるくらい頑張って来た様な気がする。もう自分を休ませてあげたい…」そしてYちゃんは静かに言った。「ここから出ようと思うんだ。南の島が良いなあ…本気で沖縄の離島あたりで暮らそうかな…」Yちゃんは三線を爪弾きながらポツリと言った…。ボクは何も言えなかった。そしてボクはたまらなくさみしくなった。人が人の人生を決める事なんか出きるものか…。でもボクは思うんだよ。自分だけが解放されて自分だけが休まればそれでいいのだろうかって…。人はそれぞれその人でなくてはならない役割があるはずだ。辛くたって、悲しくたって…ぼろぼろになっても…Yちゃんを必要としている人がいるんだよ…。いつか「はちみつぱい」の「煙草路地」やろうと言ってたじゃないか…。ボクらの好きな「ムーンライダース」の前身「はちみつぱい」の傑作アルバム「センチメンタル通り」を添付しておこうか。
2006年04月01日
ダンキチくんは夜に電話を寄こすと決まってこう質問する。「晩飯、美味いですか?」確かにそう切り出されると返答に困ってしまう。毎日そういうことを振り返って考えたことがなかったからだ。思い返せば誰かと食事を一緒に摂るとき以外は何となく自分の胃にメシを詰め込んでいるだけだったりする。どこか病んでいるのかなと思ってみた。精神的にそして肉体的のも不健康なのかも知れないと思った。だからそんな言葉は自分の弱いところを突かれるものだからちょっと苛ついたりする。でもいつからかそんなダンキチくんの言葉がとても優しい気遣いの言葉に思えるようになった。最近、本当にこころの底から「晩飯が美味い」と言えるようになりたいと願うのだ。NHKFM木曜日「洋楽 HIT GRAFFITI」パーソナリティの 矢口清治さんが番組の終わりにいう言葉がある。「それでは皆さん、必ず、お元気で」この「必ず」という言葉がちょっと沁みたりする。最近、なぜか、ちょっとした言葉がこころに沁みる事が多い。スーパーグリンピーさんのブログには久々に感動してしまった。とても端的でいい文章なので原文のまま勝手に引用することにする。「昔は、人生わずか50年と言ってたよね。でも昔だから数え年だったはずだから、49歳までしか生きてなかったのかもなぁ。」と言ったら、娘が「それじゃあパパは幽霊なんだね・・。」と言った。そういわれてみると、そうか、もう死んじゃってるのかと気付いた。だから細かい事、気にしなくても良いような、自由にのびのびしても良いのかと思うのでした。大好きな作家、深沢七郎のエッセイに「余禄の人生」という作品があった。深沢さんはいつ死んでもおかしくない体だったらしい。いま生きているのはまさに余禄の人生だ、そんな語り口のエッセイだったように思う…。「そうか、もう死んでいるなら細かい事を気にしないでのびのび生きていこう」というグリンピーさんの前向きで肯定的な思いも頼もしいが「(いま生きている)パパは幽霊だね…」という娘さんの突っ込みがとても微笑ましい。今週もいろいろありましたよ。21日、仕事の合間にちょっと気掛かりだったUちゃんのところに行ったらWBCの決勝戦をテレビ観戦中だった。ついついそのままボクはUちゃんとUちゃんのおとうさんとメチャクチャ盛り上がってしまった。とにかく今回は終始イチロー語録にやられっ放しだった。優勝の興奮冷めやらずにUちゃんとボクはドトール・コーヒーに行った。最高に美味しいからとUちゃんはメロンパンをおごってくれた。実は黙っていたけれどそれがその日のボクの昼食になった。「まっちゃん(ボクの別称)、来てくれてありがとうね」Uちゃんは何度も何度もそう言った。やっぱりUちゃんは少し気持ちを塞いでいたらしい…。「ねえ、Uちゃん、オレたちは戦士だよ。この世で戦ってゆくんだよ。でも大勇士だぜ!」ボクは平気でそんな事が言えた。
2006年03月26日
あんまり天気が良いので昼飯に少し郊外のA食堂に行ってみた。山肌の木々が少しばかり芽吹き始めているように思えた。何かが命を吹き返してゆく気配を感じていたらカーラジオからキャンディーズの「春一番」が流れてきた。実はボクはこの曲を聴くと置き去りにしたままの切ない青春の蹉跌と解決できなかった焦燥とセンチメンタルが蘇えってくるから大嫌いなのだ。だけどやっぱり名曲だと思うし本当はたまらなく大好きな歌なんだけどね…。食堂でタマネギと豚肉の炒め定食(豚タマ定)を頼んだ。斜め向かいのオジサンが真っ昼間から熱燗徳利を呑んでいて、それを呑みほすとラーメンを注文した。そしてラーメンが運ばれてくるとオジサンはスープが見えなくなるほどラーメンにコショウと七味唐辛子を振りかけてむせながら食べ始めた。そのうちに今度はけたたましいクシャミを何度も繰り返した。はっきり言ってちょっと迷惑だった。それよりもこういうラーメンの食べ方を観ているとつくづくラーメンは低俗的で大嫌いだと思った。不味いラーメンほど嫌なものはない。不味いラーメンを食べると一日中つまらない気分になる。最近、なんの変哲もないドライブインで何となく食べたラ-メンがとても美味しかった。甚だ気分が良かった。自分の中で新たなラーメンマップが出来た。数日後、仕事仲間のWさんとWさんお気に入りのN店にラーメンを食べに行った。満席で少し入口で待っているときメニューにワンタン入り塩ラーメンがあるのに気付いた。それを注文したら実に美味しかった。Wさんが「塩はどうだ?」と聞くので味見をさせると「何ともいえんな。オレはやっぱり醤油だな」と言った。火曜日、夜遅くに地元のラーメンチェーン店に入った。妹が絶対に味噌ラーメンだと言っていたのを思い出したのでネギ入り味噌ラーメンにバターをトッピングして注文した。これが予想以上に美味しくて笑ってしまった。こうして書いているとボクはとてつもなくラーメンが大好きらしい…。見過ごした市川準監督の映画「トニー滝谷」を借りてきた。村上春樹の短編集『レキシントンの幽霊』に収められた同名小説をイッセー尾形、宮沢りえ主演で映画化した切ない愛の物語だ。一人の女性の出現によって初めて愛を知り、彼女を失うことで初めて孤独というものを実感する男の姿を描いている。単調な坂本龍一の音楽に単調なナレーション…。演劇的な手法の映像にほとんど変わらない画面設定に微妙なアングル、主人公のイッセー尾形と宮沢りえがそれぞれ二役を演じている登場人物の少なさ。なんて表情のない無機質な語り口の映画なんだ。市川準監督は好きだけどこの映画は嫌いだな。少し耐えられなくなって苛立ちながら観ているうちに不思議な感触にのめり込んでしまった。どうやらイッセー尾形にやられたようだ。もちろん宮沢りえもよかったけれど感情を伴わないひんやりとした孤独感が実にうまいなと思った。でもやっぱり村上春樹を描くなんて無謀だし安易なんだ。だから日本映画は嫌いなんだよ…って言いながらやっぱり日本映画を応援しているそんなボクがいる。寒々とした孤独を背負いひとり淡々とラーメンをすすっている自分の姿を垣間見た思いがする…。トニー滝谷のひんやりとした喪失感と孤独感が身に沁みた。ボクにもかってとても大嫌いで大好きな人がいたんだよな。ちょっと会ってみたくなったな。
2006年03月09日
少しばかり気持ちがふさいでいたとき友達からいきなりコンサートの誘いがきた。チケットを二枚貰ったというが詳しくその話を聞いてみると何となくそのコンサートをプロデュースしている人が想像できたのでボクはあまり乗り気じゃないなと言った。けれどUちゃんは食事付きドリンク飲み放題なので夕食を食うつもりで行こうと明るくシツコク言うのだった。結局ボクはUちゃんの誘いに負けて付き合うことにした。会場には50人足らずの人たちが集っていた。ボクらは会場に着くと直ぐにドリンクコーナーでアイスコーヒーを注いできた。テーブルに着きそれをまったり飲んでいるとチャイニーズ風真紅の制服しかもミニスカートの女性たちがドカドカと食事を運んできた。運ばれてきたのはなんと好物の「生姜焼き定食」だった。食事が済んだ頃合い、おもむろにコンサートが始まった。7人編成の若い女の子だけのオールディーズバンドだった。けっして上手じゃなかったけれど、その二十歳前後だと思える少女たちは楽しそうに演奏していた。当然ボクにはこのバンドを地元で売り出そうとする俄かプロデューサーたちの思惑や面白がって関わっている嫌な大人たちの思いを感じていたが、裏腹に少女たちは何とのびのび楽しんでいた事だろう。ドラムを叩いていた少女の母親がボクの友達に挨拶にやって来た。「とにかく娘がドラムを叩きたくてしょうがないんですよ。先日ようやくドラムを買ってあげたんですがね…」ボクたちは娘さんのドラミングを誉めてあげたらそのお母さんは嬉しそうに笑った。コンサートが終わり会場をでると少女たちは全員で入口に並んでいた。そして入場者全員に御礼の言葉を掛けた。次の日、今度はボクの知り合いが関わっている地元の私立S高校と障害者施設のふれあいコンサートにその友達が来てくれた。目くるめくたくさんの出し物があって、やっぱりこのコンサートにも指導者側の統一感のないエゴを感じてしまった。障害者たちにスーツやドレスを着せて「お嫁サンバ」を躍らせたり、馴染めない難解な曲をハンドベルで演奏させたり、どこか表現させる側と表現する側、そして観客側に大きなズレを感じてしまった。しかし、これも裏腹に演じる障害者たちや女子高校生たちはなんとのびのびと演じていた事だろう。途中でS高校の校長先生が障害を持った人たちと少しでも多くの人たちがふれあえるようにと在り来たりの挨拶があった。それに引き換えコンサート終了後、S高校生徒会長のコンサート御礼の舞台挨拶がなんと瑞々しかったことだろう。感極まり声を詰まらせる光景がなんとも新鮮でボクは少しぐっときてしまった。その日、その日、与えられた時を精一杯生きることなんだと今更ながら考えてみた。そして「ありのままの自分をどう生きるか」その意味を考えてみた。7人の女の子バンドや障害者たちや女子高生たちがなんと楽しんでいた事だろう。正直、ボクは最近ずっと塞ぎこんでいたのだ。仕事や個人的な出来事につまずいて、生きるのが面倒くさいと嘆いたりもしたのだ。木曜日、Sさんとの自作CD制作の二回目のヴォーカル録音をした。Sさんから近いうちにまた録音しましょうと電話があったときボクはちょっと躊躇した。気持ちがへこんでいたし、たぶん歌えないと思ったからだ。「この前の歌より今日の歌の方がずっと良いですよ」とSさんは言った。不思議なものだな…。こんなに最近仕事が辛いのにね。「ありのままを生きること」…ねえSさん前回に録音した歌をやり直しさせてくれませんか。いまこのとき好きなように歌ってみようと思うのですよ。ヴォーカルを録り終えてバックの音をもう一度検討した。Sさんはもう一度、ギターもベースも録り直すという。でも全体像は見えてきた感じがする。この感じだと4月半ばには常連さんに改めて名刺代わりにCDを贈れそうだな。たぶん笑っちゃうかもしれないよ。でも明らかに「ありのままの自分」がそこにいるのです。あの荒川静香選手が得点にならない大好きなイナバウワーをやった。なんと楽しそうに生き生きと演じていた事か…。
2006年02月25日
テレビドラマをそんなに観てる訳じゃないが、いまオダギリ・ジョーが主演しているテレビ朝日系で放映されている「時効警察」が抜群に面白い。先日ドラマの場面でオダギリの上司(なんと岩松了!)がこんなセリフを言った。「子供の頃、病気で寝込むと母親が缶詰をあけてくれたっけ」たしかにボクの母親もよく桃の缶詰や蜜柑の缶詰を開けてくれたように思う。それよりも生のリンゴを摩り下ろしてスプーンで食べさせてくれたのが嬉しかった。しかし記憶は曖昧だ。いまにして思うとあのとき母親は何所からリンゴを調達してきたのだろうか?そして鮮明に覚えているのは片栗粉と砂糖を溶いて葛湯もどきを作ってくれたこと。どこかの新聞のコラムに書いてあったが著名な料理人の根底にあるものはみんな「おふくろの味」なのだそうだ。ボクが卵料理が好きなのは母親がいろんな卵料理を作って食べさせてくれたからに違いない…。夕べの残りの天ぷらを天つゆで煮込んで卵でとじてくれるのが好きだった。朝なにも食べないで学校に行こうとすると、おせっかいな母は「体に悪い」と決まってボクの味噌汁に半熟卵をひとつ落としてくれた。なかでも母親が作る高野豆腐の卵とじとニラ玉の味噌汁が大好きだ。ときに想いだした様にそれが食べたくて実家に駆け込むけれど母親はめんどくさがってもう作ってくれない。だからボクは絶対に天丼よりカツ丼が好きだ。大学生のころこんな体験をしたことがある。群馬県高崎市に友だちがいて遊びに行った時のこと、さてメシでも食おうかとボクらは街の食堂に入った。迷わずにボクらはカツ丼を注文したが運ばれてきたそのどんぶりのふたを開けて驚いた。ご飯の上に包丁で切ってもいない揚げたカツが、ただ、ど~んと乗っていただけのものだったのだ。思わず友だちは「これって何ですか?」と聞いた。店のオヤジはヒョウヒョウとして答えた。「カツ丼ですよ。なにか?」「あのう、卵でとじてないのですが…」店のオヤジはまたヒョウヒョウと答えた。「メニューよく見てくださいよ、学生さん。うちはソースカツ丼、カツ丼の卵とじ、そしてただのカツ丼の三種類があるんですわ」ええ?そういうのってありなのですか。ボクの中にもまぼろしの味というものがある。以前に勤めていた会社の近くに「マスター」という名の食堂があった。どんぶりからカツがはみ出しているヴォリューム満点のカツ丼とニラレバ定食が絶妙だった。その会社を辞めた後、懐かしくて二、三度わざわざ食べに行ったけれど、そのあと想いだして行ってみたらもう店はなくなっていた。そして自分の中で勝手に追い求めている最高のまぼろしの味がある。それはボクが幼稚園で食べた煮込みうどんの味だ。数十年の時を経てたぶん、おのれの中でその味はきっと変化し美化されているように思うけれど、ボクのこの舌と脳は今でもあの味覚をはっきり記憶しているのだ。ヒラタ先生というとっても優しいオバサン先生がいてときどきそのまぼろしの煮込みうどんをアルマイトみたいな小さな器に盛りボクたち園児に食べさせてくれた。それがとにかく美味しくていつもいつも楽しみにしていたように微かに思う。あのうどんは誰がつくったのだろうか…。とうに亡くなったであろうヒラタ先生のオリジナルだったのだろうか…。でもこうしてブログを書きながら舌をそっと転がしてみると、ヒラタ先生の煮込みうどんの味と母親が作ってくれた煮込みうどんの味が脳の中で交差して、もしかするとおふくろの味と勘違いしているのではないかとふと思った。
2006年02月13日
土曜日の夕方、お世話になっている知合いの社長の奥さんから餅をついてみんなで食べるから食べにおいでと電話があった。なんとか仕事を切り終えて社長宅に着くと従業員の人たちはもう食べ終えて誰もいなかった。キッチンで待っていてくれた奥さんはOさんがまた戻ってくるからゆっくり食べなと雑煮を作ってくれた。すごく美味しいねというと奥さんはたいそう喜んで雑煮の残り汁にすぐに新しい餅を二個入れてくれた。餡子餅も美味しいからとつぶあんの餡子に餅を一個絡めてくれた。仕事の手伝いにきていたOさんが入ってくると餅談義に華が咲いた。「雑煮も好きだけど、ちからうどんが美味しいね」とボクが言うと奥さんはうどんよりラーメンの方が美味しいと言った。確かにラーメンも美味しいと思う。市内M食堂の「餅入り味噌ラーメン」は大のお気に入りだ。でも奥さんは味噌ラーメンは納得出来ないという。そして「餅を入れるなら絶対に塩ラーメンだよ」と豪語した。今度はラーメン談義に華が咲く。そこに社長さんが入ってきてボクら四人は小市民的美味い物の話題になった。とにかく中華丼は美味しいねとボクが言うと突然火がついた社長さんは「天津丼!天津丼!」と狂喜乱舞しだした。確かに天津丼という食べ物は異常に美味しい。というかそもそもボクは卵料理いうのは全部好きなのだが…。コンデンスミルクが好物の社長さんは餅に付けて食べたらどうだろうと言い出した。砂糖を付けて餅を食べたりするのだからそれも許せる。いっそのこと餅を丸めて内部にコンデンスミルクを注入したらどうだろうとボクが言うと社長さんはそりゃいい!今度やってみようと狂喜乱舞した。奥さんはそれは気持ち悪いから止めなさいと声を荒げたが、ふとボクたちは考えた。「それって、もしかすると凍らせたら雪見大福じゃない?」ということになった。そうなのだよ。雪見大福なのだよ。とっくに商品化されているじゃないか、みんな考える事は同じなんだな。帰りにボクはつき立ての餅と干し柿、それに節分で余った豆菓子一袋をお土産に貰った。夜半過ぎに小腹が空いたボクは干し柿をひとつ食べた。いつだったか「とんねるずの食わず嫌い」で食感が気持ち悪いなどと芸能人の誰かが騒いでいた事を想い出す。この地域では俗称「あんぽんたん」あるいは「あんぽ柿」というがなぜこんな美味しい食べ物を嫌いだなんて贅沢なことをいうのだろう…。月曜日の昼、ボクは異常なほど天津丼が食べたくて中華料理店に入った。そしてボクは久しぶりの天津丼を「でへへへっ」とだらしなくひとり笑いながら狂喜乱舞しながら「はふはふ」食べた…。
2006年02月09日
鬼束ちひろさんがいま事実上引退状況にあるらしい。長期休養、レコード会社契約終了、移籍問題などが続いてようやく2004年10月に新曲「育つ雑草」が発売されたがその後完全に活動が停止しているようだ。とにかく鬼束さんの「月光」をテレビの歌番組で初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。言葉が立ち上がる音楽を久方ぶりに聴いた気がしたのだ。 I am Gods child この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field? (こんなところでどうやって生きていけばいいの?) こんなもののために生まれたんじゃない…程よくしてボクは鬼束にハマッタ。R&B系(?)女性ヴォーカルだらけの日本の音楽界の中で実に生々しく地を這いながら立ちのぼる言葉と叫びに惹かれたのだ。まるで深い森のなかを滑るように漂泊するその孤独なる魂、それは純粋にも病的ですらある。ボクはどうしてもあの孤高の詩人、萩原朔太郎を垣間見たりする。自分の感情を無造作に晒してゆく感覚やその放たれた言葉の世界に普遍的な愛の渇望を感じるのだ。鬼束さんと周囲の方向性の違いも露呈されていたようだ。「月光」「眩暈」「流星群」的な売れる路線に対して鬼束さんは「Beautiful Fighter」とか「シャイン」的なロックっぽい曲をやりたかったらしい。しかし実際、いまの鬼束さんの引退状況の詳しい情報は皆無だ。真相はまさに藪の中であるけれどファンとしては実に残念だな…。ミュージシャンやアーティストはつくづく大変だなと思う。才能や実力のある人たちにはかならずビジネスが介在してくるからだ。最近、ボクはイーグルスの初期のアルバムを再評価している。やっぱり「ならず者 Desperado」と「呪われた夜」に収束するのだ。とにかく西部劇を意識して作られたコンセプト・アルバム「ならず者」には良い曲がいっぱい詰まっている。何といっても平井堅がカヴァーした「ならず者Desperado」、そして「テキーラ・サンライズ」「サタデイ・ナイト」も「ビター・クリーク」もみんな素晴らしいな。そしてイーグルスは1976年「ホテル・カリフォルニア」で世界的大ヒットし世界的人気バンドになる。しかしこのアルバムがメンバーに大きなプレッシャーを与えることになる。当然にこのビック・アルバムを越えるかその質を保たねばならないわけだ。そして79年のアルバム「ロング・ラン」がイーグルスの最後のオリジナル・アルバムになってしまうのだ。ミュージシャンやアーティストはつくづく大変だなと思う。やり続けることの難しさ。創作し表現し続けることの難しさ。鬼束さんの周りは「月光」のクオリティと方向性を求めたのだろう…。鬼束さんもまたその「月光」を越えようとしたのだろう…。もしもイーグルスが「ホテル・カリフォルニア」を作らなかったらもっと長くバンドを活動していたに違いない。しかも「ならず者」や「呪われた夜」を土台とする世界最高峰のカントリーロックバンドとしていまも活動していたかも知れない。ボクはイーグルスの方向性に反対し途中で脱退していったオリジナル・メンバーのバーニー・リードンやランディ・マイズナー、そして鬼束さんに強烈な孤独を感じるのだ…。 「ならず者 Desperado」 …(略) デスペラード 正気に戻ったらどうだい 塀から降りてくるんだ 明け方には雨が降るかもしれない けれど頭上には虹がかかるさ 誰かに愛されるんだ 誰かに愛してもらうんだ 手遅れになる前に 対訳 加納一美
2006年02月04日
いま交渉中の国道に面した小高い丘陵地の山林物件の境界確認に行った。久しぶりに林の中を歩いたら軽いめまいを覚えたが少しずつ身体にフィトンチットが吸収され細胞が活性されてゆく感じがした。ボクは森が好きだ。とくに雑木林が大好きなのだ。小さい頃、ボクが育った家は町外れにあったのでよく友達と野原や山に行って遊んだ記憶がある。夢中で野山で遊んでいると、あっという間に日が暮れた。そんなときボクらは遠くで灯り始める家々の明かりや揺らぐ煙突の煙をしばし眺めては一番星を探した。それでも調子付いて遊んでいると急激に日が落ちた。そんなボクらの遊び場から帰宅するには小さな森を通らなければならない。森の中はもう真っ暗闇でみんな怖いものだからで体をしっかり寄せ合ってはわざと大声上げて駆け抜けた。すっかり昇った白い月の明かりを頼りに田んぼの畦道を駆けて往来の道路に出るのだが一度だけ友だちが転んで田んぼに全身落ちた事があったっけ…。見過ごしてしまったナイト・シャマラン監督の映画「ヴィレッジ」をレンタルした。当然に封切時はサスペンス・ホラーに括られていたけれど、この作品は無垢なる愛の映画の何ものでもなかった。とにかく映像と演出が素晴らしい!!観ていない人たちの為にネタばらしはしないけれど、冒頭のシーンからもう伏線が敷かれているのだ。ヒロインの盲目の少女役にロン・ハワードの娘!ブライス・ダラス・ハワード、無口な好青年に「グラディエーター」のホアキン・フェニックス、そして無垢な狂人役にはなんと!あの「戦場のピアニスト」のエイドリアン・ブロディ。インターネットで拾ってきたストーリーをネタばれしないように記すとこうである。「深い森に囲まれたその村では、人々が家族のような絆で結ばれながら、幸福な暮らしを営んでいる。地上の楽園のような村には、決して破ってはならない三つの掟があった。森に入ってはならない、不吉な赤い色を封印せよ、警告の鐘に注意せよ-。誰が何のために掟を作ったのか、確かなことは誰一人知らないが、村人は森に棲むと噂される未知の怪物を恐れ、自分たちの世界の中だけで慎ましく生活していたのだった…。がしかし…」もう一度言うが映像と演出が素晴らしい!!とくにヒロインが森を駆け抜けて行くシーンは印象的だ。何よりもこの映画を引き立たせたのは盲目の少女役のブライス・ダラス・ハワードの魅力に他ならない。でもこの映画が実際、作品的に興行的にも成功したのかどうかはよく分からない…。ネット上で調べてみるとかなり賛否両論に分かれているようだ。ファンがサスペンス・ホラーの傑作「シックス・センス」の衝撃を期待すると肩透かしを喰らうに違いない。だからボクは言いたいのだ。この「ヴィレッジ」に限らずに映画をテレビのCMで流されている予告編に決して惑わされないで観て欲しいのだ。しかし本当に久しぶりに面白い映画を観た。確かによく考えると疑問点はたくさんあるけれど単純にボクは好きな映画だな。ラストシーンでどうして盲目の少女が森を通り抜ける役目に成りえたのか分かるんだよ…。愛する者の為に少女が森を越えてゆくのだけれど、なぜこの物語のヒロインが「盲目の少女」に設定した意味が分かるのです。ねえ…。誰か機会があったら観てみない?感想を聞かせてよ。
2006年01月28日
休日の朝、ボクはけたたましい電話の音で目覚めた。だけど時計を見たらまだ8時前だったので無視して布団を被った。数分後、今度は携帯に電話が入った。これは間違いなくMちゃんからのコールだと思ったので仕方なく出ることにした。「今日、何時に行くの?」Sさんとの自作曲CD制作の打ち合せにボクはボクのマネージャーとしてMちゃんを勝手に指名したのだ。「Sさんとこ11時ぐらい…ああ…むにゃむにゃ…」夢心地のままそういうとMちゃんが言った。「場所わかんないから乗せていってよ」「ああ…了解…むにゃむにゃ…」ボクはまだ半分眠っていた。その後、ボクはまた布団に潜り込んでだらしなく約40分間寝た。タカミネのエレアコを持って行こうか迷ったがやっぱりアリアのアコギに決めた。Mちゃんちに着いてチャイムを鳴らすと彼は直ぐに愛器のギルドのアコギを抱えさっそうと現れた。そしてボクらは途中でコンビニに寄りおにぎりと飲物を買ってSさんの作業施設に向かった。作業施設に着くと鶏舎の鳥が一斉に「ケッコウ、ケッコウ、オオイニケッコウダベ」と鳴いた。Sさんはニワトリの卵を点検していた。ボクはMちゃんを簡単に紹介すると早速選んできた自作の三曲の歌詞とコード譜を二人に配った。「まあ、気軽にセッションしながら組み立てていきましょうか」Sさんはそう言うと拾ってきたというモーリスのアコギを持ち出してきた。しかしいまリサイクルショップが流行っているなか、平気でその辺に楽器を捨てるアホがいるのは許せないが、そんなゴミの中で泣いている楽器を保護してあげる優しい人もいるので救われる思いがする。セッションはまずボクが普段一人で演奏しているそのままのカタチで歌った。それにMちゃんが少しずつコードストロークで合わせ時折りコーラスを執り、それを聴きながらゆっくりSさんはいろんなフレーズを試しながらリードギターを重ねてゆく。「良い曲ですねえ。こういう感じ好きですよ」Sさんの言葉にボクはほっとした。イントロ、間奏、エンディングの長さを決めてゆき、それぞれ曲のイメージと音の構成を話し合ってゆく。Sさんは箸を持ってきてテーブルを叩きながら打ち込みのリズムを考えてゆく。みんな真面目にしかも遊び心を忘れず、とても良い感じなのだ。年齢的にほとんど同じなので音楽的な感性と触れてきた音楽の土壌が似かよっているのだろうか…。でもそれだけじゃないようだ。Sさんはやっぱり良い人なのだ。そして俄かマネージャーのMちゃんも適切なアドバイスをしてくれるので実にありがたいのだ。ボクのいまの演奏スタイルは完全にひとり弾き語りなので「どんな感じにしたいか」と言われても答えられない。しかしそういう風に三人でなんどもセッションをしているといろんな事が見えてくる。ボクはトイレに行きたくて外に出た。しかしどうしてもトイレの場所を探せなかったので敷地から少し離れた崖の上から遠くの美しい景色を見ながらオシッコをした。夕方が迫り気温が下がってきたのでボクは思わず、ぶるると身震いをした。高台のがけの上から遠くを見ながらウタを口ずさみ「ぶるる!」は実に男冥利に尽きる。ボクはSさんがいままでどんな人生を歩んできたのか分からない。Sさんの名前がちょっと珍しいので聞いてみると両親がクリスチャンだった。「小さい頃は自分の名前が嫌いでね…。でもいまはとても気に入ってますよ」この3、4年急激に仲良くなったけれど実際、Mちゃんの過去もよく分かってない。でもそんなものは関係ないのだ。結局は「いま」なのだ。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」イエス・キリストは言った…。MちゃんもSさんもボクにとってその大事な「隣り人」なのだ。
2006年01月25日
久しぶり正月にEさんと会ったら不動産のことで相談を持ちかけられた。約束どおり一週間後Eさんが所長を勤める障害者作業所施設を訪ね、一通り話し終え入れてくれたコーヒーを飲んでいたらこんなことを言い出した。「いつもひと段落するとみんなでギター弾きながら歌っているのよ」Eさんはずいぶん年季の入ったヤマハのガットギターと歌本を差し出した。ボクは「やっぱりこのあたりの歌ですか?」と陽水の「夢の中へ」をギターで弾き出すとスタッフのWさんが微笑みながら側に寄ってきた。いま障害者たちに講師を呼んで尺八を教えていると言う。「スゴイのよ、音が出るとね、みんなが輝きだすのよ」Eさんがそういうと自前の尺八を取り出し子供のように笑った。「だからこれ、いま最高のマイブーム…ちょっと聴いてよ」Eさんはアメイジング・グレイスを吹いた。和やかなひとときが流れだす…。「この施設の仲間でオリジナルCD作ったんだけどもう聴いた?」知らないというとそのCDを早速ラジカセで聴かせてくれた。微笑ましくて優しいその歌に素直に感動するとCDを一枚プレゼントしてくれた。ボクはそのCDを手に取ってクレジットを読んでいたら気になる名前を見つけた。「このCDをプロデュースしたSさんってD町に住んでいませんか?」確かにそうだというEさんからSさんの仕事内容を聞くとボクが思っているSさんとは微妙に違う感じがした。ボクが知っているSさんは十数年前にシンガー豊田勇造さんのコンサートを自宅で開いたりしていた人だ。その後も二、三回あちこちで勇造さんのライヴを企画して自らギターのサポートをしたりしていた。ボクはそんなライヴを見に行っては勇造さんにサインを貰ったりSさんと歓談したりした記憶がある。その夜そのCDで弾いているSさんのギター伴奏を聴きながら思った。もしこのギターが本当にボクが知っているSさんならいま頓挫しているオリジナルCD制作を手伝って欲しい。次の日、直ぐにボクはEさんに連絡してSさんを紹介してもらうことにした。いまなら職場にいるからとEさんが言うので早速Sさんに電話をしてみた。見事にヒットしたのだ。とっくにSさんの容姿も当時の記憶も薄れてしまったけれどボクとSさんは電話で打ち解けてしまった。SさんはボクのCD制作の協力を快く引き受けてくれた。数日後、ボクはSさんが勤めている授産施設を訪れた。障害者の人たちは楽しそうに笑い合いながら働いていた。Sさんは突然の訪問にも関わらずボクを笑顔で歓迎してくれた。少しずつ記憶が蘇えるけれど、あの頃のSさんは今より細身でクリエーターっぽくて、ちょっといい男だったように思える…。だからいまのSさんは不恰好になったということではない。確かに白髪が目立つボサボサ頭に汚れた上着とズボン、おまけに塗料で手が汚れていたけれど内に秘めた静かな音を奏でていたような気がした。「あのCDの一曲目、ニール・ヤングのカントリーをイメージしてみたんですよ…」ぐっとくる切り出しを恥ずかしそうに言い放つ。そして音楽談義になるとSさんは封印してた宝箱を開けたようにジャクソン・ブラウンやライ・クーダーやデイヴィッド・リンドリーや豊田勇造さんやマリア・マルダーなどの名前が噴出してきた。Sさんもまたいろんな道を歩んできたようだ。そしていまその授産施設で鶏や豚の世話をし障害者と共生している…。なるほどあのCDのリードギターの素晴らしい音色はこんな環境の中で構築されたわけか…。「本当に楽しみですね…」Sさんは目を細めて言った。「いやいやSさん、おれ…そんな大したウタ作ってないっす」ボクは恐縮して恥ずかしくなった。
2006年01月20日
小さな教会で小さなゴスペルグループを指導している夫婦がいる。以前同じグループで活動していた仲間だが二年近く疎遠になっていた。しかし去年12月急速にまた接近した。いま関わっているゴスペルクワイアに対しての自分の思いと彼らがその自分のグループへ馳せる思いに少なからず共通のヴィジョンを見出せたからだ。先週ボクはそんなKさんたちの練習を初めて見学する事ができた。その教会のドアをゆっくり開けるとMさんの小学生のお嬢さんが玄関口で少しはにかんでボクに微笑んだ。小声で「おとうさんとおかあさんはどこにいるの?」と聞くと小さく目配せした。ボクは直ぐに奥の方を見ると誰かが何度も手招きしているのを感じた。ようやく近視眼差し、それが奥さんだと分かり恐縮しながら練習場に入っていった。ちょうど牧師のW先生がバイブルスタディをしておられた。ボクはW先生も以前からよく知っていて子供たちを集めての幾つかの市内でのイベントで大変お世話になっていた。グループメンバーはKさん夫婦を入れて七人ほどだという。その日はKさんたちを入れて四人ほどだったけれどとても和やかで温かい雰囲気だった。奥さんのピアノに合わせKさんは小さいお子さんを背負いながらドラムを叩いていた。ボクはいま運営しているゴスペルクワイアのなんと恵まれている事か…。PAもパソコンも会堂に完備している。ゴスペルの歌詞はパワーポイントでプロジェクターを通して投影される。「では最後に一曲歌って終わりましょうか…」奏楽をしながらリードする奥さんと二人のメンバーの素朴で純粋な歌声に何か熱いものが込み上げてきた。設備じゃない、人数じゃない、そして決してテクニックじゃない、その何か…歌える感動、喜びと平安、その一番根底にある震えるもの…。終わった後、W先生がみんなにお茶を入れてくれて、しばし交わりの楽しいときを過ごせた。二人の女性メンバーと再会を約束して玄関で見送ると少しKさんたちと話す。上のお嬢さんのMちゃんは少し疲れた様子で眠そうだった。「なあんだ。まだ夕食たべてないのか」Kさんたちは二人の女の子と戯れながら戻っていった…。「一年半…やっとだね。やっと見えてきた感じだよ…」そんなKさんたちの言葉に二人の地道な歩みを垣間見る。発足してたかだか四ヶ月、ボクらは守られながらクリスマスにコンサートも開けた。多くの人に支えられてきたその過程と環境を思うとき、なにか大切な事を思い出す。「上を見たら限がない、下を見ても限がないのに気がもめる。そして横を見てはただ比較する…」そういう生き方はしたくないと日頃思っていても、つい自分の状況を憂いながら周りが気にかかる。いまボクは自分の仕事、住環境、年齢、体力…少しばかり憂いてる。でもいったい何がしたいのだろう。でもいったい何をもとめているのだろうな。満足なPAも整っていない環境でたった二人のメンバー相手に一生懸命やっている仲間たちに心が動いた。ボクはそういう仲間たちを励ます者になろう。そんな変な決心をしてみた。ほんとに本気でね…。
2006年01月16日
道路わきに掃き盛られた雪を、なぜ福島の人々は車道に投げ捨てるのかと青森出身の友達が怒ったことがある。車道に投げ捨てられた雪は踏み固められ、凍結し、車を運転しているとハンドルを取られて確かに危ない。「青森にはそんな人種いないよ、たくぅ…」ときにゼロハンライダーマンの友達はまた怒った。正月のテレビの特番で県民性を考察する番組があった。それによると一番人がいいのは岩手県民らしい。おばあちゃんを盛岡市街地に立たせ道に迷ったふりをさせる。それでどのくらいの通行人がどんな対応をするか隠しカメラで監視するというものだ。ほとんどの通行人がそんなおばあちゃんに自ら声を掛けた。茶髪のにいちゃんでさえも優しい労わりの言葉を掛けたのだ。道路で青年がわざと転び紙袋に入ったリンゴをぶちまけるというのもやっていた。十数個のリンゴは数十秒で通行人によって拾われ、あっという間に回収された。しかしそれで岩手県民が優しくて人が良いとは限らないのだが何処かの大学の学者が「岩手県の風土、その寒さに培われた強さと思いやり…その連帯感というか…云々」いつのまにやらそう定義されみごと全国一いい人が多い県に選ばれた。ボクはなぜか小さい頃、叔父さんたちに青森の人には気をつけなさいと言われた。とても人が悪いからと顔をゆがめていうのだ。しかし前出の青森出身のだんきちくんとはもう20年近い付き合いだ。どんな県を背負っていても結局はその人と付き合うわけだし、人と人の関係と評価なのだ。岩手県盛岡市の成人式で騒ぎがあった。来賓の覆面プロレスラーのグレート・サスケ県議が壇上から諭したところ、もみ合いになったらしい。なあんだ。岩手の若者はアホやんか!ってその数日前に全国一いい人が多い県に選ばれた番組を観た人は言うのだろう。所詮、そんなものさ。だけどその県民的気質みたいなものはあると思うけれどね。ボクのこの県にしても優柔不断の福島、ざっくばらんの郡山、頑固な会津若松みたいな気質がある。だからそれがどうしたと言われると困るのだが…。だけどそういう上っ面な部分で簡単に人間関係が壊れたりこじれたりするのだ。「しょせん、やっぱり会津人さ」みたいに。人間の心の中には「差別意識」というものが絶対に存在するのだと思う。ボクが生まれ育った小さな町にだって偏見と差別があった。商店街のつまらない中流階級意識と農業従事者の下流階級意識。よそから引っ越してきた人たちへの排他的意識…。いまボクの町は市町村合併で揺れているけれど何の気持ちも湧かない。結局、根本的な気質は変わらないと思うからだ。自分の利益にならないものは排除してゆく独特(毒溶)の商工会の皆様方よ、市に吸収してもらい甘い汁を吸うより大共和国を独立させたらどうだろうか?なにせ町はUFOが飛来することで有名(?)なのだ。だから宇宙生命体と大宇宙共和国を作るのだ。そしてボクたちはそれらと「フォース」を使って戦うのです!どうだろう?ん?
2006年01月11日
仕事始めの昨日は雪模様で甚だ寒かった。午前中、雪掃きのあとひとりストーブの前でスケジュールをたてていたら仲間のKちゃんが新年の挨拶にやってきた。「いい休み過せたかい?」とKちゃんに聞くと彼は休み中に新曲を作ろうと奮起したらしい。だけどさっぱり良いメロディが浮ばなくて止めてしまったと苦笑した。「どこかで聴いた事があるようなメロディしか出てこないんだよね…」でもそういうもの、つまり盗作か、引用か、どこまでが許されるんだろうねとKちゃんは真面目に言った。それにしても焼酎「いいちこ」…あのテレビCMで流れる曲が「サウンド・オブ・サイレンス」の出だしにあまりにも似てないかとボクらは少し口角泡を飛ばした。昼過ぎに出かけたボクは途中で好きなおかずを選んで食べられる食堂に入ろうとした。イカと大根の煮付けが無性に食べたかったのだ。しかしタイミング悪く来社するとお客さんから携帯に電話が入ったのでやむなく事務所にいったん引き返すことにした。でもやっぱりお腹が空いていたから、吉野家で簡単にメシを詰め込もうかと思ったが味気ないので事務所の近くのT店で昼食を摂ることにした。T店といえばやっぱり中華丼かバラ肉定食が定番、だがイマイチ胃が求めなかった。そのとき客の誰かが以前にカレー丼とラーメンのセットを頼んだのをふと思い出した。豊富なメニューを丁寧になぞってみたら確かにそのメニューがあった。食堂のカレーか、ボクはちょっとうるさいぞ、どれ唸らせて見なさいといっぱしのことを呟いて注文したらこれが実に美味かった。ボクは朝食を摂らないので昼食はあまり妥協したくない。だけどそれも安くて美味しいものが食いたいのだ。だから美味しい昼食に当たると実に得した気分でうれしくなる。正月休みに友達がもう着ないからとカラーワイシャツ四枚もくれた。そのあと一緒にリサイクルショップに行ったら買い物をした友達が正月キャンペーンで何かの応募券を二枚もらった。またそれを友達はあげるよというのでボクは素直に受け取った。帰宅してその応募券を良く見たらiPodが当たる応募券だった。だから昨日ボクは応募先の住所を聞くためにリサイクルショップに廻った。しかし何も買わないと悪いので小澤征爾のエッセイ文庫本「ボクの音楽武者修行」とジャンプコミック編集版「銀牙・第七章・八犬士伝説編」を買った。せっかくもらった応募券だし出さなければという変な使命感に燃えたのだ。ボクはきっと貧乏性に違いない。とにかくあまり物が捨てられないし、去年のカレンダーの1、2月部分がまだ部屋に掛かったままだ。ただそのカレンダーの風景写真がなんとなく破れないのだ。何かに役立つような気がして押入れの中に色んな空箱が眠っているし、領収書もなかなか捨てられないで財布の中に眠っている。以前ある仲間がこんなことをいったことがあった。「たとえばさ。一枚の絵があるじゃない。その絵を観てさ。うわあ、この絵の額、高そうだねえ、いくら位するわけ…なんてツマラナイことを聞くそういう貧乏性の人は嫌いだね…」今でも何となく分かるような気がする。ボクは貧乏性だけど、そういう野暮な貧乏性ではないと思っているけれどもね。ほんとうだよ…。
2006年01月06日
みなさん、明けましておめでとうございます!今年もまたこのウダウダガダガダのブログ(個人的日常)をよろしくお願い致します。年が明けてもう三日、休みもあっという間に過ぎてしまった。それにしてもこの福島は毎日雪混じりの寒い天気で夕方はパキパキに路面凍結だ。そんなコンディションにもかかわらず暮れから今日まで普段あんまり会えない友だちとの食事が続いている。しかし昨日と今日の夜は、しばしのんびりテレビ三昧した。TBSテレビ50周年新春ドラマスペシャル「里見八犬伝」を観た。小さい頃からいろんなもので見ていたはずの物語だがすっかり忘れていて改めて実に面白くてはまって観てしまった。だいぶ原作を脚色しているけれど、そもそも前編後編で描ききれる物語でもないし最後にやや強引に「愛は世界を救う」みたいな終わり方だったが素直に楽しめた。滝沢馬琴って凄いんだな。ちょっと原作に触れてみたいと思った。主人公タッキーほか豪華メンバーの八犬士が売りなんだろうけれど脇をがっちり固めた佐野史郎と武田鉄矢の演技は抜群だった。玉梓役の菅野美穂も良かったけれどもっと狂気を演じて欲しかったな。しかし同じ使命を託されている者たちが呼び合い引き合い集ってゆくというのはよく漫画のネタになるけれど、ボクは単純に興奮し感動する。今年ボクは絶対に実現させたいヴィジョンがある。でもひとりの思いでは無理なので理解し協力してくれる人が欲しいのだ。八犬士みたいにどこからか導かれて引き寄せられて集って来ないかなと思う。そんな風にポジティブに考えてみたら少し楽しくなった。暮れの12月30日に友だちに会いに仙台に行った。夕方からみぞれ、そして雪になった。光りのページェントの点火式帰りの人で通りはごったがえしになったので、飲み会を少しずらしCDショップ巡りをすることにした。タワーレコードでエンケンさんのファーストアルバム「niyago」の紙ジャケ仕様CDを買った。友だちは暮れについに復刻したエレックレコードの「唄の市」のCDを買った。十数年ぶりに聞くその音にピュアな原石の輝きと純粋な唄の呼吸を感じた…。さあ、唄い始めるぞ。ボクが無人島に持ってゆく一枚のCDこそこのエンケンさんのファースト「niyago」なのだ。ボクが表現したい音と映像のすべてがこのアルバムに詰まっているのです。良い映画観た後のように久しぶりにすごくワクワクしてきたのだ。
2006年01月03日
ある一時期、相談事などの話し相手になっていた女性の仲間がいた。彼女は人付き合いがちょっと不器用でその生き方もある意味、至極律法的であった。だけどそんな彼女と話していると自分自身気付かされる事もあり、ときに自己確認することもあった。やがて彼女は数々の問題をクリアしながら彼氏との愛を進めていったとき、ボクはボクの領域から彼女が外れた事を感じた。それでも時折り、話し相手にボクに電話をくれたが一切会うことを止めた。数日前、彼女は久しぶりに電話をくれた。ボクは彼女の祝福を祈り、ボク自身の祝福も祈ってくれよと携帯を切った。そんな風に今年のボクもいろんな人と関わってきた。自分が表現している弾き語りの音楽に自信を無くし友達連中に「もう活動休止だ」なんてぼやいた事もあった。「上手ヘタを越えたところにあるあなたの魂の叫びには本当に感動するよ」などと先輩に励まされもした。たくさんの音楽を今年も聞いた。今年後半、部屋のCDプレーヤーの上にいつも置かれていたアルバムはこんなCDだ。 モーツァルト:レクイエムニ短調K.626 平均律クラヴィーア曲集 / キース・ジャレット キング・クリムゾンの宮殿 / キング・クリムゾン This Armor / 鬼束ちひろ 偉大なる復活 / ボブ・ディラン、ザ・バンド a night in san francisco / ヴァン・モリスン Hillsong LiveWorship : BLESSED プレーリー・ウインド / ニール・ヤング ソロ・アコースティック第一集 / ジャクソン・ブラウン新旧ごちゃ混ぜのセレクトは明らかにいまのボクの領域にある音と言葉なのだと思う。鬼束ちひろの「infection」にこころの襞が震えなぜか自分を奮い立たせた。 爆破して飛び散った/心の破片が/そこら中できらきら光っているけど いつの間に私は/こんなに弱くなったのだろうベットタイムミュージックはモーツァルトとバッハで決まりだった。この一週間は真っ直ぐなジャクソン・ブラウンの弾き語りの新譜ばかり流していた。しかし、昨晩からまた敬愛するニール・ヤング兄さんの新譜に戻った。ニール兄さんはいつも両足をぐっと地に付けしばし後ろを振り返っても前を見続け力強く歩き続ける。「錆びるより燃え尽きたい」ニール兄さんの有名な座右の銘だ。思えばボクは何度燃え尽きた事か。今回のゴスペルクワイヤ・コンサートだってそうなのだ。でもまたこころの奥底で新しい何かの火が灯り始める。以前関わっていたゴスペルグループの元メンバーと食事をした。彼らもまた教会を土台とした本当のゴスペルクワイヤを立ち上げたいと二年近く前グループを活動させた。互いの近況を報告しながら互いのヴィジョンを語り合った。「今度、ジョイントしようよ」自分のなかで灯り始めた微かな炎が少し揺らぎ大きくなってゆく。まいったな…。神様は当分ゴスペルクワイヤの活動から手を引かせないってか…。「県内のゴスペルクワイヤのネットワーク作りましょうよ」やれやれ、ボクはとんでもない事を言ってしまった。しかしボクの新しい領域が始まる予感がする。決断しなくてはならない事がある。選択しなくてはならない事がある。捨てるもの、また拾い集めるもの…無くした夢の欠片…。来年は素晴らしい年でありますように…ただ祈ろう。すっかり暮れ行く晦日の夕方、ウダウダグダグダとブログを書きなぐってみる。でも本当にみんなに感謝でした。今年も一年、このブログに付き合って下さりありがとうございました!楽友のみなさん、常連さん、良いお年をお迎えくださいね!来年もヨロシクです!
2005年12月31日
ゴスペルクワイヤ・クリスマス・コンサート当日、六時集合だったけれど、さすがにイブの夕方は道路が混んでいた。教会まで二時間と10分、着いた時はもうリハーサルは終わる掛けていた。小休止、メンバーが差し入れてくれたバナナやラスクを摘まんで少しだけお腹を満たす。ほどよくして全員メンバーが集り最終チェックする。テナー四名、上下黒で衣装を統一した。やっぱり黒に決めて良かったな。天然ボケのKも馬子にも衣装じゃないけれど充分に決まっていたよ。本番前、それぞれ舞い上がっていたけれど、なかなかどうしてツワモノぞろいだ。今までで一番声が出ていたし、なにより少し走りすぎていたけれどリズムの切れが良かった。初舞台一曲め、「Lift the Savior up」は少しばらついたけれど二曲めからバランスが取れてきた。何よりもみんな良い顔していたな。それが一番大切なのだ。少し音をはずしても歌詞を誤魔化しても満ち溢れてる喜びはきっと見に来てくれた人たちにも伝わるのだから。自分たちがハッピーにならなければ人をハッピーにできない。クワイヤ結成、たったの四ヶ月で、いまボクらのハーモニーが「One Voice」になる瞬間を確かに感じた。コンサートを終えてボクはメンバーに最高にいかしてたよって言いたかった。そしてひとときの感動を共有できた事にもちろん神様とメンバー全員に感謝したかった。次の日、教会のクリスマス特別礼拝で教会のメンバーだけでゴスペルを三曲歌った。何かがひとつ終わった気がした。ちょっと燃え尽きた感覚が頭の後ろの方に崩れるのを感じたのだ。撮影していた昨晩のゴスペル・クワイヤの演奏が早くもDVDになっていた。ボクはその映像を見ていてひとり苦笑した。自分を見てめっきり老けたなと最近思うようになった。数日前、朝起きて鏡を見てとにかく驚いた。顔面の皮膚がたるんでいたのだ。目じりが下がり、口元が下がり鼻の両脇に皺が刻まれていたのだ。ボクは顔面をこすりながら上の方に必死で伸ばしてみた。あれ?戻らないぞ。かなり、やばい。実にやばい。しかし、その顔面は二時間後ようやく引き締まって元の顔の状態に戻った。クワイヤ立ち上げ四ヶ月、ボクは出来る範囲でそれなりに頑張ってきたと思う…。でもさ、やっぱり演奏している画像を見ていて思うのだよ。年齢、性別、職業、問わないというけれど、やっぱりバランスも必要なのだ。メンバー最年長のボクはどうも個人的に違和感があるのは否めない。これから新しいメンバーが加入してくるに違いない。みんな素晴らしいスタートを切ったことだし、これから若い連中で大いに盛り上げて欲しいと願うのである。ボクの領域は変化したようだ。でもこれからずっとみんなを応援してゆくし見守ってゆくよ。やっぱり、燃えつきたのかな。
2005年12月28日
今年8月に立ち上げたゴスペル・クワイヤが明日いよいよ教会のクリスマス・コンサートでデビュー(?)する。その前夜、いま不思議なくらいに落ち着いている。一ヶ月近く引きずっていた風邪がようやく癒えて声の状態は90%回復した。公私共にせわしく消耗していた身体を今日は久しぶりに休めることが出来た。昼過ぎ、壁に掛けてある明日のコンサート衣装の黒のカジュアル・シャツが気になった。ああ、やっぱりちょっと皺くちゃだな。明日の午後三時頃までに仕上げられるクリーニング店を探す事にした。四店舗ほど行ってみたけれど今からでは早くても明日の夕方6時だと言う。それでは間に合わないのだ。家でアイロン掛けるのも非常に面倒くさいのでもう少し探してみることにした。そうしたら意外なところにクリーニング工場があった。それも住んでいる場所から歩いて5分のところにだ。なあんだよ。考えてみりゃ、街に歩いて出るときの近道のところじゃないか。いつも工場の中をその開きっぱなしの窓から覗いては何かとんでもなくメカニックな作業と洗剤というより薬品のような臭いに秘密基地の内部を見ているような感覚を覚えていた。工場なので明日の午後三時に仕上がると言う。頼んだついでに会員カードを作ると割引券を九枚くれた。若い店員は念を押すようにもう一度言った。「お急ぎですよね」「遅くても4時までに仕上げて欲しいんですよ…」分かりましたと言う若い店員はおそらくボクがクリスマスのパーティか、デートで着用すると思っているのだろう。お姉さん、ちと違うのだな。ステージ衣装なんだよね。上下黒で統一してちょっとアクセントに銀のネックレスでもしてみるつもりさ。その前夜、いま眠れずにぼんやりとしている。ボクは明日、上手く歌えなくてもいいと思っている。そういうことじゃないような気がしている。今年に入って突然、ボクの描いていた思いが具現化した。牧師先生からのゴーサインをもとに素晴らしいスタッフが組まれた。まだ10人ほどのメンバーだけれど驚くほどみんなの集中力は長けていて一体感と技術は日を追うごとに成長している。ボクは上手くいえないけれどこのクリスマス・コンサートをやることに大きな意味があるような気がしてならない…。上手く歌えなくても、音をはずして失敗しても、そのステージでボクらが本当に喜んで歌い切れたら引き換えに大きなプレゼントが貰えるような気がするのだ。たかだか始まって四ヶ月…個人的にいろんな葛藤もあった。なんの気負いもなくボクは、たぶんにボクたち10人は明日のコンサートに立つのだ。まともにテナーの音が取れない曲もある。まだ歌詞が覚えられていない。しかも六曲、身体に喉にインパクトが強すぎるのだ。ペットボトルの水は絶対に欠かせないのだ。その前夜…。
2005年12月23日
朝のカーラジオで時節柄、永六輔さんが忠臣蔵について語っていた。生きることと死ぬこと、いのちについてまたちょっぴり考えてみたりした。本田美奈子さんは生きたいと願いながらも死んでいった。赤穂浪士の大石内蔵助の長男、大石主税良金は自らの意思で志願し武士道を貫き、若干16歳で切腹した。ボクはかってまことに情けないことを考えたことがある。大失恋の痛手に自殺をしようとしたのだ。実のところ自殺というより自殺に見せかけた仮想自殺「死んだふり」をしようと考えたのだ。それは彼女に自分の存在を認めて欲しいと思ったからだ。結局、そんな自分の情けない考えに計画は実行しなかったが、いまでもそんな自分の「命」を弄んだ思いが甚だ恥ずかしい。その後、落ち込んだままのボクは友だちに「この地を離れて一からやり直す」と投げやりに言った。それもまたひとつの方法かも知れないと答えた友だちは側にいたその奥さんと共にしばらくしてこう言った。「やっぱり、おまえがいなくなるとやっぱり寂しいよ。もう少しここで頑張れよ…」その言葉に家に戻りボクはしみじみと考えた。彼女には必要のされなかったけれど、そんな風に自分の存在を認めてくれる人たちが間違いなく自分の周りにいることを改めて知ったのだ。そしてそんな人たちの為に頑張って生きてあげるのもいいのかも知れないと思った。生きるということは案外そんな風に単純なものなのかもしれない。どんな人間であれ必要としてくれる人たちが必ず存在するのだ。そんな人たちの為に生きてあげることもまた正解なのだ。以前、このブログで書いたけれど、ボクが行っている教会の日曜礼拝のウィークリー・レポートの裏面にこんな文章が印刷されている。 < 最も偉大な祈り > 私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。 私は、あなたの期待に答えるために、この世にいるのではない。 あなたも、私の期待に答えるために、この世にいるのではない。 あなたはあなた。私は私。 もしもわれわれが、たがいに願いに答えることができたら それは素晴らしい。 しかし、たとえたがいの願いどおりの行動ができなくても われわれが良き友であることは変わりはない。 フリッツ・パールズいっけん冷たいと思える文章だけど実に愛に満ちた思いがその裏側に読み取れる。愛の反対にあるものはなんだろう。愛の反対にあるものは「無関心」であるとマザー・テレサは言った。なんと深い表現なのだろう…。互いに相手を思いながら「互いに」「生き合う」ことができたらなんと素敵なことだろう。だからボクの仮想自殺はなんと子供じみた発想だったことだろう。そしてボクはこれから一生懸命に生きてみようかなって真面目に考えるのだ。明日は所属している福島県フォークソング協会の忘年会コンサートだ。そして来る24日は教会の(キャンドルサービス)クリスマス・コンサートがある。8月に立ち上げたゴスペル・クワイヤがデビューするのだ。しかし、それにしても年末になって遣り残したことが多いなあ。なんてったってオリジナルの自作CD作成出来なかった…。でも絶対に来年は作ってこのブログの楽友たちに送信するから。約束したんだものね。でもさ、前出したフリッツ・パールズの「最も偉大な祈り」ではないけど(良き友)であることは変わりないよね。みんな、どうかな?
2005年12月17日
交差点前、前方左側の横道で一台の車が渋滞のメイン通りに入れずにいた。渋滞が少しずつ解れボクの車も動き、横道で立ち止まっているその車を見たら最近知合った某メーカーの美人営業ウーマンだった。すぐにボクは道を譲ると彼女は丁寧に頭を下げてボクの前に進み出た。そしてハザードランプを二度ほど点滅させ感謝の意を示した。でも彼女はボクだと感じていないようだった。道を譲る時に手でも振れば良かったかな。それとも前の彼女の車のバックミラーに向かってピースサインでも送ろうか…などと一瞬思ったが別にチョイもてオヤジを気取るつもりもなくミーハーでもないので止めた。スカラベは何故に聖なる昆虫でフンコロガシなのか?正式な学名はスカラベ・サクレといい、日本では聖玉押し黄金虫と呼ぶ。体長は26ミリぐらいから大きいモノは40ミリぐらいで、大きいカテゴリーだとカブトムシと同じコガネムシ科の甲虫であり、馬、牛、羊の糞を食べて育つ糞虫の一種である。動物が糞を落としたと思ったら直ぐに何処からか飛んできてノコギリのような前足で糞を切り取りコロコロと糞を転がして巣穴に持ち帰り、糞を食べるという何ともユニークな特性を持つ虫だ。子供を作る時も、転がしてきた糞の中に卵を産み付け、孵化した幼虫は、その糞を食べ成虫になる。スカラベが何故、古代エジプトで聖なる昆虫とされたのか?それは玉を転がす姿から、太陽の運行を司るとされ、また洪水後の荒地から最初に姿を現すことから再生の象徴とされたらしい。この数日、こんなユニークな虫たちの特性を思いながら実にくだらない事を考えていた。それはスカラベやすりばち状の巣を作り蟻などの虫が落ち込むのを待って捕らえるウスバカゲロウの幼虫(アリジゴク)にヒントを得て、格闘技やプロレスのワザを考えてみたのだ。プロレスの純粋なファンから非難されるかも知れないが、ボクはプロレスの80%はショーだと思っている。ただボクは決して批判しているわけではないし紛れもなく格闘技ファンだ。それぞれ悪役だのヒーローだの役割分担があり、まさにキャラクターの演出なのだ。また各々、得意技があって子供の頃は実に興奮したものだ。初めてジャーマン・スープレックス(原爆固め)をプロレス中継で見たときの感動は忘れられない。なかでもやっぱり記憶に残っているのはドリー・ファンク・ジュニアの「スピニング・トー・ホールド」だ。伝家の宝刀、伝説の大技がいつ出るか、ボクは手に汗握りながらテレビにかじり付いた。しかしヒール(悪役)が倒れ、いざ大技を掛けようとするともう片方のヒールがリングに入り込んできてドリーを蹴り倒してしまう。そうしてヒーローのドリーはヒールのあくどい反則についに額を割られ流血するのだ。意識朦朧のドリーに会場は悲鳴に変わる。ハラハラドキドキのボクは時計を見ながら「ドリーがんばれ!もう時間が無いぞ!テレビの放映が終わっちまう。早くスピニング・トー・ホールドで悪い奴らを失神させてくれえ!」そうすると決まってテレビ放映終了ギリギリ、ヒールがロープに投げられリングのマットに倒れたとき、ついにドリーは相手の片足を取るのだ。アナウンサーは絶叫する。「おっと、ついにスピニング・トー・ホールドの体制に入った!さあ、出るか!伝家の宝刀!」流血のドリーは相手の足首を両手で固め、その相手の足を軸に回転する。ギャー、ギョエー、ヒールはたまらずギブアップ!決してドリーはカッコイイ男でもなかった。体型も素晴らしい筋肉質でもなかった。優しい顔に頭髪は少し禿げ上がっていた。だけどそのワザを掛けた時のドリーはものすごくカッコよかった。その人なりの個性、キャラクターをどう見せるかなのだと思う。あのワザはドリーでなくては成立しないワザであり最大の特性になっている訳だ。きっと神様はスカラベにフンコロガシのユニークな習性を与えたのだろう。きっと神様はウスバカゲロウにアリジゴクのユニークな生態を与えたのだろう。ボクはちょっと苦笑してみる。だから、あの綺麗で素敵な某メーカーの女性に別にカッコつけたってしようがないのだ。ねえ、実はさあ…。ボクにはあのドリー・ファンク・ジュニアのようになかなか掛けられない、掛からない伝説の大技(?)があるのだよ…。でも正直ボクにもよく分からないワザなのだよ…。
2005年12月10日
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