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物事にはすべてプロセスがあります。まずきっかけがありそこから発展していって結果があります。終わりよければすべてよしということわざがありますが出来ることならばその課程、つまりプロセスも良いものであればと願うのは私たちの常であり、また時としてそうではない現実があることもあります。私は15歳の時にクリスチャンとなりました。ではそれまではどういう歩みだったかというと生まれた時から親に連れられて教会へ・・・というようなクリスチャンホームとはほど遠い仏教徒の家で生まれ親と共に本山に通いつめたこともあります。さらに新興宗教や念力といったところも通りました。しかし求めていたのは本当の神様だったのです。聖書に出会うというきっかけを通して本当の神様を知り、そして信じ24歳の時に神学校に入りました。そして今に至るわけです。その動機は神様のすばらしさをもっと伝えたいと強く思ったからです。そこに神様の召しを感じ受け止めた結果が今あります。クリスチャンになったらみんな牧師や宣教師になるわけではありませんが広い意味ですべてのクリスチャンは召されています。どういう形でも教会に集い、神様を礼拝している事自体が神様に喜ばれていることだからです。教会に暖かい雰囲気を醸し出しているかけがえのない一人なのです。誰かが欠けて良いという人は神様の前に一人もいません。また教会に招かれていない人も一人もいません。自分は神様に愛されている。そして自分はここにいていいという安心感を持って神様の前に留まりましょう。そして教会に共に集い、励まし合い素晴らしい神様を自分らしく伝えていける器になっていきましょう!
2013.03.18
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キリスト教の歴史の中で、特に初代教会の時代に宣教という観点から見た時にパウロは最も大きな働きをした人物の一人と言えるでしょう。しかしその生涯はもともと従順なクリスチャンというものとは正反対の歩みもありました。彼はクリスチャンとなる前、逆にクリスチャンを迫害する存在でした。ただ批判するとか反対の思想を持っていたというだけではなく、実際にクリスチャンを捕まえて投獄したりしていました。しかもそれを熱心にしていたのです。もちろん教会やクリスチャンから恐れられていました。そんな彼にイエス様ご自身が現れ彼は自分の弱さや間違いを痛感しクリスチャンとして歩むことを決意します。しかしそれまでの彼の行いから教会にすんなり受け入れられるわけもなく、ただひとりバルナバという人物が彼を受け入れ、そして共に歩み、そして信仰とはなにかとうことを教えてくれたのです。パウロ自身は旧約聖書に精通する博識な人物でしたがその知識が人を裁く剣から人を救うキリストの愛に満ちた知識のことばに変わる必要があったからです。それまでの生き方を変えることは非常に困難だったでしょう。しかしどんなマイナスからのスタートでも前進し続けることによって彼は歴史を変えるような大きな働きを担う事になりました。その源にはイエス様の赦しを受け入れ、そしてそこに生き、主と共に前進する素直な信仰がありました。教会にいっていてもどこか悲観的になってしまう方もおられます。しかしその姿勢をイエス様は悲しんでおられることでしょう。自分に自信を持てなくても、私たちを赦し救って下さる神様に自信を持つべきです。誇る者は主にあって誇れとあるように主にあって堂々と歩んでいきましょう。
2013.02.25
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どんな地域や民族であっても法律や戒律、律法という堅い表現やマナー、礼儀、時には常識という言葉を用いてある一定のルールが設けられています。文明の進んだ社会においても、まだ発展途上の地域においてもです。このルールは守っている限りはなんのデメリットも負債もありませんがそのルールを破った場合、そこには罰金や減点、また懲役などの刑罰が生じます。このルールは地域によって誤差はありますが基本的に安全にその地域共同体が運営出来、そこに住んでいる人が守られるために作られています。しかし時代の変化と共にその本来の意義から外れてしまってただ裁くためのものであったり、的外れになっている場合もあるでしょう。そういった時にまた新しくそのルールを作り替えていく必要もあるでしょう。大切な事はひとりひとりの人権がしっかりと守られるためだからです。ここで行き過ぎた人権と形骸化した規則の衝突も時として起こるでしょう。そういった時に何を基準にして線引きをしていくのかが非常に難しいと思います。クリスチャンは聖書に立ち返るというスタンスを持つことで人と人のつながりの前に神と自分というまず縦の繋がりをしっかりと保ったうえで自分と人という横の線をつないでいきます。そのどちらも大切な繋がりでそれは織物をする時に縦糸と横糸のどちらも大切なのと同じことです。ただ基準がはっきりしているということです。聖書のルールは聖書が教えていることに勝手な解釈で足したり引いたりしないことです。私たちの人生には分からない事や解決出来ない問題もあります。それは横の線の問題かも知れません。まず縦の線を、神様と自分の繋がりをしっかりと保ち、そして右にも左にも逸れないようにしていきましょう。
2013.02.18
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第一第二テモテへの手紙、テトスへの手紙は新約聖書で多くの手紙を記しているパウロが紀元64~67年に頃、つまり彼の晩年に記した書簡と言われています。牧会書簡とも呼ばれ教会においてどのように植えられ、また養われていくか。またイエス・キリストによる救い、選びなどキリスト教の基本となる神学やクリスチャンのあるべき姿など短い手紙の中に多くのものが凝縮された書簡になっています。自分の命が長くないことを感じつつ、自分の霊的息子達に向けて最後の最後まで励まし、道を示していく姿勢がありありと伝わってきます。その姿勢を見るときに自分はまだまだ足りないと思わざるをえません。しかしひとりのクリスチャンとしてパウロのような姿勢を持ち、霊的にも成熟した者となってくためにはどうしたらいいでしょうか?彼の人生はキリストに出会う前から非常に熱心でした。ただ熱心であればいいというのではないことを彼の人生を見ているとよく分かります。彼は主にある教会を熱心に迫害する者だったからです。しかしキリストに出会い、救われたパウロはその持ち前の熱心さを持ってローマにまで伝道に導かれていきました。彼は間違っていたらやり直せばいいということを知っていたのです。ふつうなら自分がやってきた悪い行いを悔い歴史の表舞台から消えてしまうのではないかと思います。しかし彼は以前にも増して熱心にキリストに仕え、教会に仕える存在になったのです。晩年になっても教会を愛し、祈り、仕えていった彼の姿勢から今の時代に生かされている私たちも多くの刺激を受け、熱心に主に仕えていきましょう!
2013.02.11
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平和を保つことはとても大切なことです。またそれを維持するためにルールを守り、時に戒めていくことも大切です。この平和を維持することと戒めることは相反するものではなく相互の働きによって保たれます。波風を立てたくないからとなんでも見て見ぬふりをして流されてしまうことと平和を保つために戒めることは後者の方が多大なエネルギーを消耗します。しかしそうやって少しづつ高めあっていくことによってみんなが望む平和に近づいていくと思うのです。聖書にはこの戒めることを兄弟として戒めるように記しています。これは初代教会での教会内での人間関係を建て上げていくうえでのこととしてどのように関わり、どのように戒めていくのかについての回答です。兄弟であれば許せる範囲も他人よりは広いですし、仲直りも簡単に出来たりするものです。またそれぞれの長所も短所も知っているので成長した兄弟はお互いに尊重しあうことも出来るでしょう。そのように戒めあっていくことで平和を求めていく方向性を持つことがまず必要です。現状がどうか以上に私たちが向かっている方向性が1年先2年先にどういう結果を得るのかを大きく左右するからです。私たちが平和を得ようとするならは今ちょっときついくらいの労力をかけてでも自分が知りうることを実践していくべきです。そして平和を神様に祈り求めるべきです。私たちは生涯完全にはなれないかも知れません。しかし向かっていく方向を決めるのは私たちです。そしてそれを完成へと近づけて下さるのは神様です。互いに平和のうちに戒め合い、高めあっていきましょう。
2013.02.04
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一般的に良いとされる行いは多くあります。すぐに思いつくものとしてはボランティア活動でしょう。それをするために時間やお金などの犠牲を払ってするという姿勢は素晴らしいことだと思います。事実そういった働きで復興支援や海外支援、またもっと身近な快適な生活など多くの働きが支えられています。しかしそういったボランティアをいくらしたくても自分の生活や仕事のすべてを投げうってするというのはよほどの資産家ではないと不可能でしょう。まず自分の生活が最低限成り立ってこその助ける働きだからです。聖書ではまず自分で働いて生活をして、そして教会として善い働きを続けていくことを記しています。それぞれ個人では出来ないことでも、チームとしてお金や時間を共有することで大きな働きをすることが出来るからです。事実世界中の教会が素晴らしい働きを展開しています。それらの働きは個人ですることは到底不可能なことに思えるような働きです。しかしそういった働きを教会として共有し進めていく時に達成可能になることもあるのです。教会はキリストの体として聖書で書かれています。頭だけではなにも出来ないし体だけでもなにをしていいのか分かりません。しっかりと体と頭はつながっていないと機能出来ないのと同じように教会につながるひとりひとりがキリストとしっかりとつながり、その心にイエス様の愛、そして想いを沸き上がらせ、共有し、祈り前進していく必要があります。主にあってつながり合い、ビジョンに燃やされて進んでいきましょう。
2013.01.28
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一般的に良いとされる行いは多くあります。すぐに思いつくものとしてはボランティア活動でしょう。それをするために時間やお金などの犠牲を払ってするという姿勢は素晴らしいことだと思います。事実そういった働きで復興支援や海外支援、またもっと身近な快適な生活など多くの働きが支えられています。しかしそういったボランティアをいくらしたくても自分の生活や仕事のすべてを投げうってするというのはよほどの資産家ではないと不可能でしょう。まず自分の生活が最低限成り立ってこその助ける働きだからです。聖書ではまず自分で働いて生活をして、そして教会として善い働きを続けていくことを記しています。それぞれ個人では出来ないことでも、チームとしてお金や時間を共有することで大きな働きをすることが出来るからです。事実世界中の教会が素晴らしい働きを展開しています。それらの働きは個人ですることは到底不可能なことに思えるような働きです。しかしそういった働きを教会として共有し進めていく時に達成可能になることもあるのです。教会はキリストの体として聖書で書かれています。頭だけではなにも出来ないし体だけでもなにをしていいのか分かりません。しっかりと体と頭はつながっていないと機能出来ないのと同じように教会につながるひとりひとりがキリストとしっかりとつながり、その心にイエス様の愛、そして想いを沸き上がらせ、共有し、祈り前進していく必要があります。主にあってつながり合い、ビジョンに燃やされて進んでいきましょう。
2013.01.28
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愛ということばについて私たちの持つ印象は様々あります。日本語で愛と書くとその幅はすごく広いのですがギリシャ語では愛という意味を表すために、3つの種類が分けて使われます。 性的愛を示すエロース、兄弟愛,両親への愛,友情,好みなどを示すフィレオー、そして神的,自己犠牲的,他者中心的な愛という意味を持つアガペーです。私たちが一般的に用いる愛は多くの場合はフィレオーが多いでしょう。好きだから~とか自分の家族だから~とかかわいいから~とか砕いていくと「だからの愛」とも言えるでしょう。それと比較してアガペーの愛は「それでもの愛」と表現出来ると思います。神様はエデンの園から始まって旧約を通し裁きよりも愛と赦しを優先されました。そこには資格がなくても、それでも赦し愛する神的な愛があり、イエス・キリストの誕生~十字架での購いは自己犠牲的かつ他者中心的な愛という表現がふさわしいでしょう。この愛と忍耐ゆえに私たちは自分の行いに関係なく、まず信じることによって赦しを得て、天国への切符を手にすることが出来ます。もし行いが必要なら行うために必要な体力や知識、また行動出来る健全な肉体がないと救いを達成することは不可能になるでしょう。施しが必要であれば裕福でなければ救われなくなってしまいます。すべての人に平等に救いへの道を示すために神様は神様にしかできない方法でその道筋を整えられました。 神様の愛の深さ広さ高さは私たちが生涯かかっても理解しきることは不可能かも知れません。しかし愛して下さる方の愛に自分に出来る精一杯の愛で応え、感謝に溢れて生かされていきましょう!
2013.01.21
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自分の力でどうにもならないと感じる壁や試練を体験したことは多くの方が体験していると思います。そういった時にはちょっとした励ましや支えがものすごくありがたく感じれたり、また解決のために力を貸してくれる存在が与えられた時は一生忘れないくらい感動したのではないでしょうか。ここで私たちが誰しも通る可能性のある。むしろ通るべき困難な道を考えていきたいと思います。努力が報われない時、また正当に評価されない時、さらにその努力を続けることは困難になる場合があると思います。また正直であるばっかりに損をすることもあるでしょう。どちらのケースもうわべを取り繕えばいいと思うかも知れません。しかし自分の心に嘘がつけない。また神様がすべてご存じだからといった思いからまっすぐ歩もうとする時に時に疲れ、挫折感を感じだり、虚しくなることもあるでしょう。しかし自分の道を神様の前に真っ直ぐ保とうとする時に主は慰めを与え、そして強めて下さるお方です。遅いと感じることがあっても忍耐の先に主の慰めがあることを体験することが出来るでしょう。パウロはテサロニケの教会の人々にあらゆるよいわざとことばに進むように勧め、そしてその心を主が慰め、強めて下さいますようにと祈っています。良いわざとことばに進むために慰めと力、つまりバイタリティが必要なことをパウロは知っていました。そこで周りと見比べれば損をしているように感じることもあるでしょう。しかし視点を上に変えるならば神様はそのわざとことばをよしとして下さいます。決してそれは忘れ去られることはありません。主の前に誠実に歩む時に私たちの人生は明るくすがすがしいものになるでしょう。主の慰めと力を受けてまっすぐな歩みをしていきましょう。
2013.01.15
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聖書には黙示録をはじめ世の終わりに関する記述が多くあります。IIテサロニケ2章にもそういったものがありますがそこには背教が起こること、また自分こそ神であるという者が現れ、すべての礼拝されるものに反抗し自分を高くあげるもあります。またそういったものに惑わされる者が多くいること、真理を信じないで悪を喜んでいたすべての者が裁かれるとあります。悪を喜ぶとはどういうことでしょうか?それは死んだらなにもない。なにもないならどんなことをしてでも自分が楽しければいいというような刹那的な考えや自己中心的な思いから来る良心の麻痺です。私たちの心が疲れ、諦め、硬直化してしまうと本当にすさんだ状態になってしまうでしょう。そこには境遇の問題、環境の問題など外部からの問題も少なからず影響していると思います。しかし最終的に決断するのは自分自身に他なりません。いくら責任を転嫁しようとしても自分の決断であることには変わりはありません。私たちはどのような時にも真理に立ち続ける者となるべきです。初代教会も折れそうな心を互いに励まし合い、支え合い多くの艱難を乗り越えていきました。問題以上に神様に注目していました。私たちもそういった素晴らしい信仰の偉人たちに学び、そして習うべきです。惑わされることなく、イエス様から目を離さないような堅実で真理を求めそして真理を喜び、真理に生かされる者とされていきましょう。
2013.01.07
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新年おめでとうございます。それぞれ新しい年に向かって様々な祈りや願い、希望や不安も持っておられると思います。ジョイフルプレイズの今年度聖句はルカ6章45節から「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」になりました。私たちは時として口で人を励まし建て上げ、また同じ口で失敗もします。口を制するというのは本当に大変なことです。しかし今年はひとりひとりが心から良いものが取り出せ、それが伝えられる口をもっともっと持っていくことが出来るように成長、成熟していきたいと願います。私たちはこの口を持って神様を賛美します。そしてその賛美の中に神様がいてくださいます。そんなに素晴らしいことに用いられる口をさらにきよく、そして良いものとするために心を神様によって整えて頂きましょう。まだまだ荒削りかもしれません。でもいいんです。私たちの目指すところ、信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストから目を離さずにいるならば私たちはゆっくりでも遠回りしているように感じても前進していけます。私たちが過去の失敗に囚われず、現状で諦めず、未来の自分、そう今よりももっと、少しでもイエス様に近づいている姿を思いめぐらしながら祈り前進しましょう!
2013.01.04
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今年は12月21日にマヤ歴で世界が終わるという騒ぎがあり、アメリカの一部では騒ぎを予防するため休校が相次いだり、中国では逮捕者が出たりするなど普段とは違う年末を迎えていました。日本を見ても衆議院総選挙で自民が政権を担うことになったりと変化がありましたが私たち個人にとっての一年はどういう一年だったでしょうか?うれしいことも悲しいこともあったと思います。でも私たちはまず生かされていることに感謝し、そして新しい一年に主にあって期待していくべきだと思います。自分の力には限界もあるでしょう。社会や政治に十分な期待ができるかと言えば難しいかもしれません。しかし神様は私たちの必要をご存じで、私たちの祈りに応えて下さるお方です。神様に期待していきましょう。そして従っていきましょう。祈りの応えというのは祈ってすぐということばかりではありません。旧約の預言者は何年、何十年、時には生涯を祈りのために捧げて祈りました。そしてその結果を私たちは聖書を通じて知ることができます。日本のことわざに「終わりよければすべてよし」ということばがあります。神様ははじめであり終わりである方。アルファでありオメガであるお方です。私たちの一年の歩みをオメガである方に向かって感謝し、祈り、思いめぐらしてみましょう。きっと多くの恵みの収穫があるはずです。主は私たちが気づかないような形でも様々な恵みを与え、私たちを支えて下さっています。一年の感謝を心から主に捧げましょう!
2012.12.31
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聖書の中に天使が登場する箇所は旧約新約共に数えるほどしかありません。聖書66巻に登場する天使はミカエル、ガブリエルの二人です。御使いの種類としてはケルビムも出てきますが外典、疑典とされる書物を除くとこのふたりとサタンが名前のある霊的存在として登場してきます。その数少ない天使が直接的に現れて神様からのことばを告げるという箇所は少なく特に受胎告知のあたりに集中しています。天使の存在自体は旧約聖書からも様々な箇所で書かれていますが明らかに対話出来るかたちで書かれている箇所は希です。それだけキリストの誕生を告げるということが聖書の核心に迫る出来事であり重要なことだったことを理解することが出来るでしょう。そのメッセージによってマリヤもヨセフも進むべき方向をしっかりと定め、信仰によって結婚し、みどりごイエスを育てるということを決めたのです。私たちは様々なことで思い悩み決断に苦しむこともあるでしょう。しかしそこに明確な神様からのことばやしるし、導きがあればどれほどの助けや支えになることでしょう。天使の訪問はマリヤとヨセフの人生の方向を定め、旧約と新約を分かつ歴史的な出来事を告げ知らせたのです。天使と聞くとみたこともないし信じられないという方も多いでしょう。しかし今年が西暦2012年でることは世界中どこにいっても通用する事実ですしみんな当たり前に思っていることです。この2012年の起源とはイエス・キリストの誕生です。この天使の訪問が起点となっていると言っても過言ではないと思います。神様が人間の歴史に救いの道を与えるために介入された素晴らしい記念となる出来事を基準として今の時代は動いているのです。私たちもその恵みを個人的に体験する者となりましょう
2012.12.17
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イエス・キリストの誕生までのことを聖書から読み解いていく時に、マリヤやヨセフ、またザカリヤやエリサベツといった人物達の心の動き、そして神様から与えられる様々なしるしと聖霊の助けがあります。ゼカリヤとエリサベツは夫婦でしたが高齢であり肉体的に子供を産むということを信じる事が困難でした。マリヤとヨセフはまだ結婚はしていなかったので、マリヤは神様によって身ごもることでヨセフや周囲にどのように思われるか、また扱われるかという問題に直面したことでしょう。当時未婚の状態で妊娠するということは現代とは比べものにならないくらい大問題だったからです。ヨセフもそのことによって疑心暗鬼にかられたことでしょう。そういった状況の中に神様から与えられる超自然的なしるしと不思議によって常識を超えたところに働かれる神様の御手がキリストの誕生、そしてその道を整えていく働きにあったことを覚えさせられます。マリヤが聖霊によって身ごもり、親戚のエリサベツを訪ねた時にエリサベツは聖霊に満たされ喜びと信仰の確信に満ちた預言の歌を語ります。それはまさに旧約と新約をつなぐ預言でした。預言とは成就した段階で完成します。この時すでにマリヤは懐妊しておりまさに旧約時代から続く預言の完成がありました。それを信仰によって受け止め体験していけることはどんなに幸せなことでしょうか。神様は今の時代においても聖書で語られてきた預言やビジョンを実現して下さる御方です。そしてなによりもイエス・キリストによる救いを今も変わらず信じる者に与えて下さる御方です。主の御業の完全さに信頼して喜びと平安と、そして自分達の人生において主がどんなビジョンを完成して下さるか期待しつつ歩んでいきましょう!
2012.12.10
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聖書を読んだことのある方、特に新約聖書を読んだことがある方は最初のページできっと挫折しそうになったと思います。マタイの福音書はアブラハムから始まるキリストの系図が延々と見慣れない名前が続きます。17節でアブラハムからダビデまでが14代ダビデからバビロン移住までが14代、バビロン移住からキリストまでが14代とあります。この系図はマタイの福音書とルカの福音書では若干違いがあります。特にダビデの次からが異なっていて疑問を持ったことがある人も多いのではないでしょうか?当時あった伝承やそれぞれが持ちうる資料をもとに書いたのでしょうが誤差があるのは戸惑いを与えるかも知れません。聖書は聖霊によって書かれているということを信じることが聖書信仰ですが一字一句を読んでいくとそういった誤差を発見することはあります。しかしそれぞれの系図でのキーとなる箇所は正確に一致しています。大いなる父として書かれているアブラハム、王ダビデ、神殿を再建したゾロバベルといったまず信仰の面、そして福音書が書かれた時代には珍しい女性を系図の中に明記するところ、またその背景にある罪や赦し、恵み、系図自体を見ると輝かしい側面と人間の弱さや罪といった側面を見いだします。そこに人間の弱さや愚かさとそれを超える神様の恵みを発見することが出来ます。日本においても血筋を重んじる文化がありますが血筋を誇るのではなく神様の恵みによって生かされみことばにあるように誇るものは主にあって誇ることが出来るように、自分の人生を神様と共に書き記していきましょう。闇は決して光に勝つことがないように主にあって明るく照らされて光のうちに歩みましょう。
2012.12.03
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初代教会は多くの迫害の中でも尚成長し続けました。その数的成長にはそれ以上に信徒ひとりひとりの霊的成長がありました。パウロは2テサロニケの冒頭でテサロニケの教会の人々の目に見える成長のためにいつも神に感謝しなければならないと語っています。霊的成長はなかなか目に見えて分かりにくいこともあります。もちろん話をしていくと分かるのですが成長が人づてに伝わってくる。また目に見えて分かるほどというのは本当に素晴らしい成長がそこにあったのだと思います。そこには成長の過程、また結果としてのライフスタイルの変化や言動の変化などその人の人格そのものが大きく成長を遂げていく様があったはずです。テサロニケの教会は迫害や艱難に耐える中でそのような成長をしていったのです。そこにはまさに目先の損得に左右されない一本筋の通った姿がありました。当時ローマ支配色の強い文化の中で信仰を持っていくことは多くのリスクがありました。時にはいのちの危険もあったことでしょう。しかしそういうリスクを乗り越えて余りある神様との関係を選択し彼らは成長していきました。彼らの視点は長くて80年~100年ほどの地上の生活でうまく立ち回ることよりも永遠に続く天国へ続く信仰を選択していたのです。そこには誠実で愛に満ちた人間関係があります。お互いに認め合い助け合う姿があります。現代の日本に住んでいる私たちにはそこまでの危機感はないでしょう。しかし成長においては全く同じです。私たちも神様の前に良い選択をし続けていき、そして成熟していきたいと願います。ひとりひとりが去年より、先月より、先週より、昨日よりも成長していける教会になっていきましょう。
2012.11.27
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法律は人を守るため、また時に裁くためにあります。その決まりを守っていくことで安全に生活し、そして混乱しないために、そして平等に義務と権利を持って生きていくために法律は存在します。旧約聖書を見ると律法という神様が作られた決まりがあります。有名な十戒をもととして多くの律法が記されています。この十戒は最初の4つは神様と人間の関係においての戒めであり、残りの6つは人間関係の中で起こりうる問題に関しての戒めになっています。この律法は現代に生きる私たちには結構ハードルが高いもので安息日(現代でいう日曜日)には仕事をしてはいけないので料理や火を起こすこともしてはいけません。なので前日に用意しておかないといけないなど事細かな決まりがありました。さすがにそこまで決められると不自由に感じますね?でも決まりがあっても全部守ることが出来ない私たちの弱さがあり、罪人であるということを自覚することがなければ赦しや救いに対する必要性も感じないことでしょう。何が善で何が悪かを知り、そして自分が完全な存在ではないことを知るところから神様の愛の深さを実感することが出来るようになります。法律的には裁かれないといけない存在であるものが赦されて自由にされる。法律的にはあり得ないことです。罪の結果を刈り取る責任があるからです。受けて当然のペナルティがあるのに赦されるのは理不尽だと思うでしょう。しかし私たち全員の心も見ておられる方には誰一人裁きを免れることが出来る人はいません。だからこそ完全な愛からくる赦しが必要なのです。ルールを作った方ご自身がそれを変えて下さるからそれが可能なのです。それほどまでに私たちを愛して下さる神様に感謝しつつこれからのクリスマスシーズンを歩んでいきましょう!
2012.11.19
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祈りには大きな力があります。聖書の中には祈りによって山をも動かすという記述もあります。祈りの応えが祈った直後に出ないからといって祈ることを辞めてしまったことはありませんか?祈りとは継続するものであり祈り抜くものです。また祈ったことの応えをすでに受け取ったと信じて祈ることもあるでしょう。聖書にはシンプルに祈り続けなさい。とあります。自分のために祈り、家族や友人のために祈り、教会のために祈り、地域や街、国、世界のために祈る。そうやって祈りを拡大させ祈り、思い巡らすことはとても素晴らしいものです。そういった様々な祈りの中で時として神様の思いにふと気がつくことがあります。祈りを自分の生活の一部として、自然体に思いの中でも神様とつながっていくことでそういった自分の視点ではないゆとりを持った神様の視点を発見していくことが出来ます。そういった積み重ねから祈りが自然体に、また深く、継続した祈りへと変化します。時として断食してでも祈り込む必要があるような状況もあるでしょう。でもいつもそれでは私たちの生活を維持することは難しいでしょう。祈りは短距離もありますが人生という長い期間継続していくマラソンです。そのマラソンを共に祈り合い、励まし合って走っていく仲間が教会の仲間であり、信仰でつながっている信友です。そういった素晴らしい人間関係をこれからも豊かに築き上げていくことが出来るように視野をしっかり広く持って主と共に歩んでいきましょう!
2012.11.12
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責任とか保証というのは本当に大変なことです。責任をとると一言で言ってもそのとり方にはいろいろあります。仕事で大きなミスを犯したら責任をとって辞職するとかありますが経営者であればそう簡単に辞めることも出来ません。ある意味辞めて済むならまだ楽でしょう。その責任を保証するというのは時として継続して多大な犠牲を払う必要があります。そういったリスクから多くの人は逃げたいと思うのではないでしょうか?聖書にはイエス・キリストを自分の救い主として信じるということから神様とのより親密な関係がスタートし、そしてその真実な神様が私たちを全きものとして下さり、守って下さるとあります。この信仰の完成と守りは霊的な領域での聖化の完成、信仰による救いの絶対性を指しています。今はどんな状況であってもキリストを信じることによって天国に行けることの確信と天においてきよめが完成していること、またいま歩んでいる生涯においてもそれに向かって進んでいること、そして助けて下さる聖霊がおられること。これだけの保証が信仰にはあるのです。保証というのは何かがあった時に初めてそのありがたさが分かるものですが、私たちは日々の生活の中で神様の恵みを体験し、守りを体験し、赦しを体験していくことが出来るのです。どんな時にも神様を信じて、そしてその守りのうちに励まされて歩んでいきましょう!
2012.11.05
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聖書を読んでいく時に一見矛盾しているような記述があります。注意深く読み解いていくとどういうことなのか分かってくるのですが両極端ととれるような記載が続くことがあります。第1テサロニケ5章には有名はいつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。という箇所があります。でもその数節先にはすべてのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。とあります。ここですべてに感謝ということとすべてを見分けること、ある意味疑ってかかることが衝突するわけです。悪すらも感謝すべきではないのかというのが前者を100%実践しようとしたときに起こりうる結果ですが後者は選り分ける必要があると言っています。最終的に最善を尽くそうとした結果、自分の目には悪く見えても目先の損得だけに心を奪われてしまうのではなく、そのことすら神様に感謝していく信仰が大切だということが答えとしては比較的正解だと思います。素直さと賢さを両立することが大切であるということです。私たちが自分で結果を決めつけて「もうだめだ」と言いたくなる状況があったとしてもそこに神様にある可能性や神様の視点からみたらどう映っているかと思い巡らしたりすることで私たちはもう少し視野を広げ、希望を見いだすことが出来ます。魚を食べる時に子供の時は骨が自分で取り分けることが出来なくても大人になって慣れてきたら簡単に肉と骨を分けおいしく食べることが出来るように、日常生活の中にある神様の恵みを的確に知りそしてそこから糧を得ていく時に私たちは成熟していくことが出来るのです。自分に与えられた状況、環境の中からもっと神様の恵みを見つけ感謝する者となりましょう。
2012.11.01
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私たちは認められるという潜在的欲求との戦いを生涯繰り返します。自分より上か下かとか考えたり、そういった自分だけの考えを元に感情が揺れ動いたりしたことはありませんか?自分より優れた能力やまた環境が与えられている方を見ると羨ましくなったり、寂しくなったり、その逆だと優越感を覚えたり、見下したり、神様の視点から見た時に本当にそれは悲しいことだと思います。それぞれ特別でかけがえのない存在として神様が愛してやまないひとりひとりがお互いに裁き合うことほど悲しいことはありません。その根底にあるアイデンティティをしっかりと神様にあって確立し、そういった視点や思考パターンのループから私たちは自由にされる必要があると思います。お互いの長所を認め合い、そして短所を補い合うことが出来たらどんなに素晴らしいことが出来るでしょうか?そしてお互いに教え合い受け入れ合えたらどれだけ成長出来るでしょうか?同じ事を言っていても偉い先生の言うことは聞くけど自分が見下している人が言ったのは小馬鹿にしてしまったり聞く耳を持たない姿勢は私たちから多くの成長の機会を奪っていきます。もし持つことが出来るのならば全ての人、全ての機会からひとつでも学んでいこうとする姿勢を持つことが出来たら素晴らしいと思います。イエス様の生涯を見ていく時にどんな人にもフラットな接し方をしておられることが分かります。私たちもそのような主にあってフラットな姿勢で対人関係をもう一度築き直す必要があると思います。そうした時に多くの宝を発見することが出来るでしょう。
2012.10.22
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旭川の源泉である塩釜の冷泉に行くと泉の底から水が湧き上がり、それが一つの川の流れとなっていく様が良く分かります。この冷泉は 東西12m、南北5m、面積約60m2のひょうたん池を形成し、最深部は1.9m、湧水量は毎秒300リットル、水温は年中11度前後と一定温度を保っています。ここでびっくりするのは毎秒300リットルというすごい水量です。少人数の家庭が一日に使う水の量がだいたい300リットルに相当する量ですから一秒毎に約一家族分の使う水を湧き上がらせるというのですから驚きです。泉と言われるとちょろちょろと湧き上がるイメージがありますがそれだけの膨大な量となると私たちのイメージは大きく変わります。この視点の転換(パラダイムシフト)を私たちはより聖書的にしていくことが大切です。今日の聖書箇所ヨハネ7章38節では私たちの心の奥底から生ける水の川が流れ出るとあります。山の湧き水のイメージではなく、川の源泉となるということです。毎秒300リットルもの恵みに満ちた生ける水を湧き上がらせ続けるとあるのです!イエス・キリストを自分の救い主として信じ、聖霊のバプテスマを受けるということは本当に大きな意味があり、意義があり、価値があるものです。水は私たちの生活になくてはならないものであり、その存在によって人々は村や町を建ててきました。水があるところに人が集まるのです。私たちを通しこの地を潤す多くの河川のようにこの街を生かし潤そうとされている神様の思いをしっかりと受け止めて人々と生かす愛のことばをしっかりと伝えていきましょう!
2012.10.15
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対人関係において人の長所を見つけることが出来る方はすばらしい方だと思います。多くの場合欠点にばかり目がいってしまったり、優れた人を見ても自分より劣ったところを探して「たいしたことない」と決めつけてしまったり、私たちの認められたいという潜在的欲求の裏返しでそういった否定的な見方を他人に対してしてしまうことが多いのではないでしょうか?自分に自信がないリーダーは自分より優れた人を生かすことが出来ません。それどころかその人の能力を発揮させる環境を整えたりするどころか抑圧してしまいます。しかし優れたリーダーは自分より優れた能力を持った人を的確に配置し、生かし、更に伸ばし、そして任せることが出来ます。その根底にあるのは自分のアイデンティティをどのように持っているか?ということがあります。自分が自分であってそのままで素晴らしい。なぜか?それは神様が作りそして愛して下さっているから。それが聖書の語っているあなたの価値です。何が出来るとかそういう能力は関係ありません。私たちは子供の時から良いことをしたら褒められる。ダメなことをしたら叱られる。また優秀な結果を出せば賞賛され、逆に結果を出すことが出来なければ活躍するチャンスすら消えていく。そういった社会で成長してきました。そういった価値観が私たちに刷り込まれ、頭で理解してもなかなか心に聖書的自己認識が入ってきにくいと思います。これは地上の生活をしていく上で長い期間を要するテーマだと思います。その助けとしてお互いに徳を高め合え、励まし合える人間関係を持っていることは大きな助けになるでしょう。まず自分から自分の身近な人に対してその方を認め、そして徳を立てあげるような言葉や態度を出していけるようになりましょう。
2012.10.08
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阪神大震災や東北を襲った津波など記憶に新しい災害が私たちの国にはあります。まだ復興途上にあるこうった経験から私たちは得るべき教訓を得ているでしょうか?災害の多い地域に暮らしていた方は岡山に来ると防災意識の違いをすごく感じるそうです。私も聞いて見てなるほど納得と勉強になりました。水が止まった時のためにお風呂の残り湯は次の日洗ってお湯をいれる前に抜くことや、非常食の完備、はぐれた時に家族とどこで合流するかなど日常生活からそういった備えの差があることを感じました。もちろん備えがあってもそれがすべて機能するかと言われるとそうではないかも知れません。しかし備えているといないとではいざというときに全然違う結果を生み出すことでしょう。聖書には再臨に備え目を覚まし、慎み深くしているようにとあります。これは日々の生活の中でイエス・キリストを自分の救い主として信じ、そしてそのように歩むことを目指すことが大切だと思います。明日が仕事と分かっていれば無理な夜更かしもしないでしょう。しかし再臨はいつか分かりません。ですから慎み深く誠実な歩みを積み重ねていくことが大切であると聖書は教えています。これは決して行き過ぎた禁欲主義とかではなく、日々の生活を主と共に歩むということです。時には失敗もあります。そしたらまた主と共に立ち上がり歩めばいいのです。なんでも最初から完璧な人はいません。でも主と共に歩んでいるかどうかが本当に大切です。偽善者ぶる必要も無能力者のように振る舞うこともいりません。主にあって誠実に、今の自分をしっかりと建て上げていきましょう!
2012.10.01
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将来的に様々な不安要素の多い時代。そんな時に新約聖書の黙示録を曲解した終末論などが巷で流行ったりします。確かに大変な事態が起こることは記されています。しかしそれ以上に再臨によって起こる不思議なことや素晴らしいことはあまり表に出てきません。簡単にいうとイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れていることでいつ死んだとしても天国に行けること。また再臨の時まで生きていたら空中で主と会うことが聖書の記しているシンプルな事柄です。シンプルなことをややこしく書いてしまったり、それを避けるためには~と思い巡らしてしまうのが私たちの弱さや理屈っぽいところです。ひとりひとりの誠実な歩みの延長線上にある終末は終わりというよりも永遠のいのちに向かう入り口のようなものかも知れません。大切なことはどこまで信じていたら救われるとか教会にどれくらい行ってたら大丈夫?とかこんな罪を犯したことがあるからダメだろうか?と聖書が語っているシンプルなところから脱線して悩むよりも信じたら信じたらしく歩み、そして失敗しても愛し赦して下さる神様に信頼して前に進むことです。主にあって愛し合い主にあって歩む時に私たちの価値観、人生観は大きく変わります。どういうことをするにしても主にあってすることが大切です。その意識ひとつで私たちがキリストに根ざし、そこから恵みと愛と赦しを受け成長していくことが出来るからです。体験以上に聖書の語っていることを理解できる方法はありません。どんな時にも主を信頼して歩んでいきたいですね!そして今できるベストを尽くしていきましょう!
2012.09.24
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宝くじや賭け事など一攫千金を夢見る人は多いと思います。お金自体はあればあったでそれは喜ばしいことだと思います。またお金があれば出来ることも多いのも確かです。しかし自分で働き、コツコツと生活していくことの大切さを聖書は教えています。それがベースとなるものであり、継続して生きていくためには大事なことだからです。自分で働いてということの中には当時の背景を考えれば自分で水を汲みに行き、自分で作物を育て、また加工調理するという側面も多く含まれていると思います。それはその人自身がお金を払えばなんでも思い通りになるという楽が出来るという面とは逆であり、自分の生活を自分で支えるライフスタイルです。今の時代はお金を払えば衣食住全て簡潔することが出来ます。しかしお金がない場合でも生きていけるバイタリティをどれだけの人が持っているかというとそれはまた別問題になります。いきなり明日からサバイバル生活を強いられることは早々ないと思いますが、自分の生活を堅実に設計し、与えられているものの中からやりくりすることも私たちには大切なことです。消費が拡大していく社会構造になっている現代において自分にとって必要か不必要か見分けることも大切な生活力になると思います。消費を恐れるあまり必要なものまで見えなくなっているケースもあるでしょう。神様に土台を据え、堅実にその人生という家を建てあげていきましょう。
2012.09.22
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クリスチャン生活の中で大事な要素として賛美というものがあります。この賛美ということばは聖書の中に93回用いられており、最初にこのことばが登場するのはアブラハムの息子イサクのために花嫁を捜す旅に出たひとりの僕が主の前にしるしを求めリベカと出会った時に初めて登場します。しかしそれ以前に,まず創世1章は,宇宙的広がりを持った創造の賛歌として書かれています(ヨブ38:4‐7,箴言8:30,31)そこからレビ記で一回、申命記で2回使用され、歴代誌、そして詩編でダビデなどによって多く用いられました。新約聖書では,マリヤ,ザカリヤ,御使いたちの賛歌で始まり(ルカ1,2章),王の王,主の主なる救い主への賛美で終結しています(黙示録19章)また賛美を通して奇跡的な御業が伴うなど賛美が非常に重要な位置を占めています。聖書の中で見ていくと出エジプト15章において戦のために戦勝歌を担当する部隊が編成されていたりダビデの治世においてI歴代6章では賛美専門のグループが形成されています。またイスラエルの賛美の中に住まわれる神様という臨在の溢れるところとして、またタンバリンと踊りでとあるように全身を用いて喜び踊る賛美などが記されています。この賛美は歌とは大きく異なるものです。歌は情景やある出来事に対する心情を表現したものですが、賛美は神様に対しての感謝や礼拝の心、そして喜びや魂からの叫びであり祈りとしての面を強く持ち合わせています。礼拝の心を持って日々の生活の中で賛美し、主の臨在の中を歩む者となりましょう。
2012.09.10
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なにか事件の真相が分かる時に明るみに出るという表現を用います。また逆に不正がそのまま隠されまう時には闇や夜ということばやそれにつながる表現が多様されます。この昼と夜という対照的な表現は昼はいい人だけど夜は悪い人とかそういう人間の二面性を著しています。夜は周りになにかあっても良く分かりませんが昼間はしっかりと見ることができます。私たちはしっかりと物事を見て、そして堅実に歩む必要があります。闇雲に突き進んで傷だらけになるのは非常に痛みを伴います。また闇は私たちを惑わします。自分の中にある苦いものや痛いものを一時的に見えなくしてくれるからです。まるで泥酔している人が分別をなくしているように一時的にすべての責任から解放されたかのような錯覚を与えてくれるかも知れません。そういった自己逃避的な生き方から最近では脱法ハーブ等の乱用でいのちを落とすケースまで出ています。いくら合法であっても間違った使い方をすればいのちを落とす危険は私たちの周りにはいくらでもあります。それを正しく認識し扱ったり、拒否したりする意志を私たちは持たなくてはいけません。自分の人生の責任をしっかりと持ち、昼間のような生き方を堂々とするべきです。後ろめたい生き方には恐れや自暴自棄が伴ってきます。しかし昼間のように堂々と生きる時にそこには自信や恵みが伴います。またそういった生き方から築き上げられる人間関係は本当に素晴らしいものです。目を覚まして主にあって堅く立っていきましょう!
2012.09.03
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世界の終わりが来るからという予言を用いて多くの人々を惑わしたり、商売にするような出来事が毎年数件はニュースになります。世の終わりとキリストの再臨については聖書に明確に記されている大切な箇所です。しかしそれと共にそれがいつ来るかは神にしか分からないこと、人には知らされないことも書かれています。黙示録等を読み解いていくとその前に起こることが記されているのでそれらを読み解き今の時代に当てはめていくときにそう遠くはないだろうというくらいの予想はつきますが、そこから先何年で実際起こることなのか、1年なのか100年なのか1000年なのかは私たちには分かりません。むしろ大切なことはそういったことを予想することよりも自分の仕事に身を入れ、落ち着いた生活をし、そして神様と共に生きていくことだと聖書は私たちに教えています。もちろんそれぞれに対しての召しの違いもあるので完全にすべての人に当てはめることは出来ませんが基本となるのは主と共に地に足のついた生活をすることです。今の時代は日本においても原子力の驚異や不安定な周辺諸国、政治に対する不信感、経済の行き詰まりと不安材料は多くあります。しかしどんな状況の中にあっても主が共におられるということはかけがえのない宝です。もし明日自分のいのちがとられるとしてもそこから永遠に天国で神様と共にいることが出来るという確信を持って歩むことが出来るのがクリスチャンの特権だからです。混乱する時代の中にあっても神様の前にまっすぐな生き方をしていきましょう!
2012.08.29
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鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。と箴言27章17節にあるように私達は様々な人間関係を通して磨き上げられていきます。しかし注意すべき点はどういった影響をお互いに出し合っているかです。一緒にいて悪い方向へと引っ張っていかれる関係は問題が大きいでしょう。しかしお互いにいい刺激となり、お互いの成長の助けになるような人間関係は本当にかけがえのないものです。そういった高めあえる関係であっても時としていつでも幸せばかりではないでしょう。どちらかが劣等感を持っていたり、また依存的な状態に陥ってしまったり、、、バランス感覚をしっかり養え、お互いが主にあってつながっていこうとする時にこのとがれるという表現の通りのことが起こってきます。刃物を実際研ごうとすると角度、水分、砥石の種類など様々なことに気を遣うことになるでしょう。研ぐという作業はこれらのことを考えつつ、継続して根気よく作業することが求められます。私たちの築こうとする人間関係も似たようなところがあります。よい意味での相互理解があり、高めようとするならば本音の意見交換もする必要があるでしょう。誰かがずば抜けて強いということはないからです。自分の弱さも認め、そしてそれをお互いに補いあっていくときに高めあっていける最高の人間関係をも得ることができます。
2012.08.20
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私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じ(信仰義認)そして神様の義、そしてきよさへと変えられていく過程を聖化といいます。そして聖化された状態に保たれることが聖潔です。聖化された人に内住された聖霊が聖潔を保ってくださるのです。そしてこの聖潔の人生を歩むためには、光の中を歩むことが求められます。「もし、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血 はすべての罪から私たちをきよめます。」(Iヨハネ1章7節)私たちは神様の赦しと自分の罪や失敗の繰り返しの中で少しづつ体験的に信仰が深くなり、また聖化されていきます。しかし私たちの本来持っている性質、怠けたいという性質がそれを保つことを邪魔します。のど元過ぎれば熱さ忘れると日本のことわざにもありますが、罪を犯して悔い改め、赦しを受けて、本当に感謝で溢れ、二度と同じ事は繰り返すまいと思ったことが守れないこともしばしばあります。しかしだからと言って諦めてしまってはいけません。光の中を歩むということは自分の弱さも失敗も罪も神様の前に明らかにして歩む生き方です。もし隠そうとしても神様の前には隠すことは出来ないのですが、それでもアダムとエバがエデンの園で隠れたように、私たちは神様の前にふさわしくないと思う自分を隠したいのです。本当に聖くなっていきたいと思うなら、神様の前に完全であろうとせず、弱さも失敗も罪も全部明らかにし、そして聖霊の助けを求める姿勢がとても大切です。そうすることによって私たちは信仰の鮮度を保つことが出来るのです。聖潔と書くと難しいですが、神様の前に幼子のように、嬉しいときも悲しいときも出ていける素直な信仰を築き上げていきましょう!
2012.08.06
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日々の生活の中に神様を意識し、誠実な歩みが出来る事は素晴らしいことです。私たちの人生には日陰はあるようで実は存在しないからです。すべての自分の人生の出来事には常に3人の証人がいるからです。一人目はまず自分自身、誰にも見られていないかと周りに注意をどれだけ払っても、自分がした良いことも悪いことも自分自身は知っているし真実な証言をすることが出来るでしょう。二人目はサタン(悪霊)です。聖書の中でサタンは訴える者としてモーセの罪を神様の前に訴えました。サタンはとても聖書や罪について熟知しており、合法的に私たちを責め、そして欺きます。3人目は神様です。どんな事も神様の前に隠すことは出来ません。私たちがしようと思う段階や、思いの中で犯す罪や失敗までご存じの御方です。そんな正確無比で絶対的な存在である神様が私たちを愛し、その愛ゆえに私たちを赦し、生かすために十字架と復活があります。そしてそんな偉大な御方が私たちの人生を開き共に歩んで下さるのです。パウロは自分が進むべき道を神様が開いて下さるように願い、祈り、テサロニケの人々に愛を神様が満ちあふれさせて下さるように祈り、永遠へと続く道に向かう自分自身が整えられるように祈りました。彼の地上での歩みは神様と共にあり、そしてそれが永遠へと続いていくものとなることを知っていたのです。生粋のユダヤ人であり、当時最高の師から旧約聖書、律法を学んでいたパウロが出した答えが神様と共に歩むこと、自分の人生に神様をお迎えすることだったのです。私たちも主と共に永遠に歩む者となっていきたいですね!
2012.07.30
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信仰はまず神様との縦の関係をしっかりするところから始まります。キリスト教は特にこの神様と自分の一対一の個人関係を土台として、そこから横の人間関係が始まっていく考えが強いと感じます。それはすべての人間関係の上に聖書的理解から始まるエッセンスを入れてより良いものとするためにまずそれぞれが整えられていくことからはいるのがベストだからかも知れません。ただだからといって行き過ぎた個人主義、自分だけよければほかはどうでもいいという自己中心とは違います。Iテサロニケ3章ではテサロニケの人々を励まし、信仰の不足を補うためにテモテが遣わされていくシーンがあります。私たちはひとりで完全なわけではありません。自分というカラーを神様によってしっかりと見いだしていき、そしてそれを人々とつながっていくことで、パズルのピースをつなげて大きな絵を完成させるようにそれぞれの時代に、また世代に置かれている神様の歴史を形作っていくのです。パズルのピースはひとつひとつ周囲と補い合うように作られています。どれが欠けてもその絵は完成しません。そういった考えを少しだけでも持つことで私たちは独りよがりではなく、自分らしくあること、調和すること、一致することを意識していくことが出来ます。主にあって自分らしく輝き、そしてお互い輝いていける人間関係、さらに神様にあって輝く人生を送っていきたいですね!
2012.07.23
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信仰ゆえの迫害は日本史の中にある天草の乱のような過去のものではなく、今の時代にあっても未だ多くの国々において日常的に根強く残っています。時として多くの犠牲者をも生じてしまっているのが残念ながら現状です。しかしそういった逆風の中にあっても全世界的な視点を持つときに確実に福音が前進していることを知ります。私たちは日本に住んでいると宣教の難しさは痛感しながらも、迫害を体験するというのは希です。しかし試練の中で信仰を落としそうになったり、またかつて持っていたような神様への情熱が薄れていったりすることは体験したことはあるでしょう。そういった逆風が吹いているような時にこそ信仰を見つめ直し、大きく成長出来るチャンスでもあります。また形式よりも本質を見つめることもそういった時にこそ出来るでしょう。信仰によって試練を回避する方法を身に付けようとするのではなく、試練を脱出する方法を見いだすことが出来るようになり、試練を糧に成熟していくことが出来るようにも成り得ます。生活の中であなたはどんな逆風を感じていますか?またその中にどんな可能性を見いだしますか?神様と共にその中を歩めているでしょうか?主はどんな時にも私たちを決して離れないと聖書の中で約束しておられます。それは逆にいうと見放されていると私たちが感じる瞬間があるということです。どんなどしゃ降りでも雲の上には青い空が広がっています。主を信頼して、忍耐し、約束の虹を見いだしていきましょう!
2012.07.16
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身体的成長や内的成長によって私たちの関心は大きく変わっていきます。子供の時に好きだったものでも大人になったら興味がなくなったり、またその逆もあります。そういった個人の移り変わりと時代の中での流行などで様々なものに興味を持ち、またその中でもまれてひとりひとりは成長してきたはずです。また興味を持つことがなくなり無関心になってしまっているケースもあるでしょう。イエス様を信じた時に私たちは永遠の命を与えられると聖書に約束されています。それはキリストと共に歩む命、永遠に続く命です。しかしそれは目に見えたり、常に実感出来るかというとそう感じることもあるし、とてもそう思えないこともあるでしょう。コロサイ3章2節には私たちのいのちがキリストと共に神様のうちに隠されていると書かれています。隠されているということは探し出す必要があるということです。キリストと共に神様のうちにとあるのですからキリストについて、また神様について私たちはもっともっと飢え乾きを持って知ろうとしていく必要があります。そこに私たちが本当に生きて輝くいのちがあるからです。神様を知る時にその愛の大きさを知ることが出来ます。宇宙よりも神様は壮大な御方だからです。キリストを知る時にその恵みと赦しの完全さを知ることが出来ます。そこに私たちの救いの道があり、私たちの生きるべき道があるからです。恵みによって生かされていること、そしてそこに素晴らしい価値があることを私たちはもっともっと知って、神様が愛して止まない自分をもっと好きになる必要があります。そうでなければ私たちは死んだも同然な生き方や否定的な生き方に走ってしまうからです。あなたには素晴らしい価値があると神様は言って下さいます。主の愛の内に、いのちの輝きを求め、そして見いだし続けていきましょう!
2012.07.09
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人生においてなにかやりたいことがあっても様々な事情で出来ていないことが多くあります。実際やりたいことだけをして生きている人というのはほんの一握りかも知れません。しかし私たちの想いというところを見ていくとその人が大切にしていることなどが多くあること発見します。実現不可能に思えるような夢も抱いていること自体がとても素晴らしいことですし、それに向かって今できることをしていたとしたらその人生は本当に輝いていると思います。私たちは日々こうした理想と現実とのギャップの狭間で葛藤したり、時には諦めてしまったりしながら時を過ごしています。そうした時の流れの中で自分の希望や夢が現実になる瞬間を物事の大きさは別として私たちは体験したことがあるはずです。先週のメッセージで愛の反対は無関心であると分かち合いましたが、私たちは自分の夢、希望に対して関心を持ち、そしてそれに注意深く自分の身の回りで起こる事象を結びつけて考え、思い巡らしているでしょうか?この夢と現実のギャップを埋める最高の素材は祈りです。信仰がそこに働く時に多くの可能性をそこに導くことが出来ます。神様から与えられる知恵や人間関係において不可能が可能になる瞬間があります。そして神様は私たちがしたいと願っていることを私たち以上にご存じです。信仰に立って、自分の夢、希望を神様に日々祈り求めましょう。私たちの想像を遙かに超えた形で応えて下さることに期待しましょう。また神様にある自由の中で自然体に歩みましょう。一つの物事に捕らわれ過ぎず主と共に歩む時に見つける過去の夢の実もあります。神様を信頼して、自分に正直にのびのびと歩んでいきましょう!
2012.07.02
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地震雷火事親父と怖いものの例えで昔から言われていたことばがあります。現代においては怖い父親は減っているかも知れません。にしても人それぞれ怖いものというのは差はあってもなにかしらあると思います。しかし一番怖いことは自分の自由意志の選択の積み重ねの結果神様から遠く離れ、断絶されてしまった状態だと思います。1テサロニケ2章16節に頑なな姿勢の結果神様の御怒りを引き起こすユダヤ人について書かれています。もちろん悔い改める時に赦しはあります。しかし悔い改めない姿勢を貫き通す時に、結果として永遠の滅びを選択してしまっている現実を知ることが出来たなら幸いでしょう。そのまま突き進むならば罪から来る報酬は死であると聖書にあるそのままの結果を刈り取ることになってしまいます。私たちは人生において多くの種を蒔きます。人にやさしくするという種を蒔けば素晴らしい人間関係という結果を時として刈り取ることになるでしょう。逆に人に辛く当たるという種を蒔けば孤独という結果を刈り取るかも知れません。私たちは神様を知ることで自分が正しい方向へ向かうためのナビゲーションを得ることが出来ます。しかし目的地にいくためにはまず現在地を知ることも大切です。それと同じように私たちは神様は知り、そして共に歩もうとする時に多くの変化を体験します。しかし逆に逆らって生きる歩みをしていくならそういったチャンスを自分から摘み取ってしまうことになります。神様を正しく畏れ、そして知り、共に生きていくことの喜びを体験していきましょう。
2012.06.25
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私たちの好きなことば、また好きな文字などは時としてその人の生き様そのものをよく表現していたり、なるほどと納得させられることもあります。しかし好きではあっても現実とはほど遠い希望であったり夢であったりすることもあります。私たちはどんな人であってもいろんなところから発せられることばによって成長し、人格が形成され、また習慣が生まれています。時としてはだれかのことばを素直に受け止め実践してきた歩み、またある時は傷ついたことばを反面教師としてそうならないようにがんばってきたかも知れません。どういう受け止め方、また過程を辿ったとしても自分の今を見る時に様々な人々や本などからのことばによって多くの影響を受けていることが分かります。このことばというキーワードを歴史の紐を解いていくならば聖書の創世記のはじめにたどり着きます。神様はことばを持ってこの天地を創造されたのです。そのことばによってアダムも創造され命を得ました。神様のことばには息=命があります。神様のことばを受けそして生かされていく時に私たちの人生はいのちに満ちあふれた意義のあるものとなります。人生の目的、価値を見失うことほど辛いものはありません。信仰の父アブラハムも多くの挫折や失敗をしながらも神様のことばを信じ、そのことばに従って生きていたからこそ多くの民の父となりました。主のことばを聞き、そして主のことばに生かされる者となりましょう!
2012.06.23
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人生には時として燃えさかる火のような試練が訪れます。人によってなにが困難かは違いますから他の人から見たら何でもないことででも、当事者としてはものすごく辛いと感じていることもあると思います。しかしその困難をどのように乗り越えるかによって私たちは世の光、地の塩と聖書にある「塩」としての要素を自分の中に蓄えることが出来ます。塩とは取りすぎると高血圧や心臓病、肝臓病を引き起こしますが、それが逆に不足し過ぎると昏睡状態になったりひどい場合は命を落とすこともあります。日本人の食事摂取基準で成年男性で10g成人女性で8gとされています。そして塩とは調味料として、保存料としての食品として使う場合融氷雪用としての役割、また文化によってはきよめのために用いたりします。つまり私たちが世の塩となっていこうとするときに、大切なことはその直面している物事を料理に例えるならばどの程度その塩気を加えていくかというさじ加減が大切なことが分かります。そして塩は塩としてあるべき姿を保つことが大切です。塩とは今の時代に生きている私たちにはその大切さが良く理解出来ないかも知れませんが古代ローマ帝国では兵士の給料として塩が支給されていました。ラテン語で塩はsalと書きますがここから英語のSalary、つまり給与ということばが生まれています。つまり世の塩となるということは世の存続のために必要不可欠な要素に自分自身がなっていることを信仰によって受け止める必要があります。、私たちの中に神様の愛のことば、とりなしの祈り、誠実な歩みによって塩気のある人生を力強く歩んでいきましょう!
2012.06.12
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教会は神様が創造されているものの中で特筆するに値する共同体です。聖書の中にはこの教会についていろいろな角度から記されている事柄があります。そして教会というものを把握していくうえで大きくふたつの側面を見ることが出来ます。ひとつは軍隊、もうひとつは家族です。テサロニケ人への手紙では特に家族的な教会としての面からアプローチされている記述が多くあります。この家族的教会というものを理解しようとする時に、まず家族というものを正しく聖書的に理解していく必要があります。家族とひとことで言っても国や文化、またその人が育った家庭環境において家族ということばの意味合いが違ってくるからです。Iテサロニケの2章を見ると親は子供を1.母がその子供を育てるように優しく振る舞い、2.その人を思う心からいのちまで喜んで与えたいとさえ思い3.自らの手で働き働きを進めたことが記されています。パウロの家族観とは優しく、愛に満ちあふれ、そして堅実であったことを伺い知ることが出来ます。私たちはそういった家庭、またそういった教会を祈りと努力によって建て上げていく必要があります。目標やモデルがなければその時その時で行き当たりばったりの歩みになってしまうでしょう。そして神様が教会に何を期待しておられるのかをしっかりと認識して祈り、備え、行動していくことが大切です。もちろん家族ですから疲れていたら休息することが出来る場所であり、また多くのことを身に付けることが出来る場所であるべきです。神様にある家族=教会として神様の愛によってつながりあっていきたいですね!
2012.06.04
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今日は増えてきたパソコン等のデバイスをさらに使いやすくするためにプリンタの入れ替えをしようと相談していたのを実行に移しました。感謝なことにキャノンの現行機種が備えられていてびっくりです。早速入れ替えようと思ったら前のプリンタ用のインクがまだ結構あるということで場所を無理矢理つくってPCデスクの上にプリンタを2台並べることにしました。前のプリンタのインクがなくなってきたら1台にする予定その時点でどこか必要な教会や個人の方おられたらキャノンのMP980差し上げます。(近くの方か取りに来られる方、遠方の方は着払い等相談で)ようやくデスクトップ、ノートPC、macノート、ipad、私のスマホの設定が終わりすべてのデバイスからワイヤレス印刷が出来るシステムが完成しました。感謝!特にアイパッドからのPDFにしている楽譜の印刷が簡単にできるようになったのはすばらしい。感動ものです。アイパッドでさくっと選曲して、それを印刷して奏楽者に回すことも出来ます。去年がんばってある程度の曲をコード別にPDF化してブック化していたのが更なる利便性をもたらしてくれそうです。今年はシステム面や古くなっている聖書ソフトの入れ替えをしていきたいと思っているのでまず1つ終わったかなって感じです(^_^)
2012.06.03
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自分の言動や心の位置を常にニュートラルにしておくことは本当に大切です。自分がお客だからといって不遜な態度でもいけないし、その逆だからといってへつらう必要にありません。無理にいばる必要もなければ自信なさそうに振る舞う必要もありません。しかし、私たちは成長していく過程において様々な経験をし、それによって時にねじ曲がった心を持ってしまうことがあります。またその時の経験のせいにしてふさわしくない対応をしてしまう言い訳にしてしまったり、変えられない自分の基礎のようなものという認識を持って容認してしまったり、共依存してしまっていることがあります。人間関係でもそうですがそういった経緯に関係なく今の「あなた」を周りの人は見ていろんなことを判断します。話を聞くと同情できることや共感できることがあったとしてもです。しかし神様はまず受け入れ続けて下さり、さらにその苦い根になっている問題を取り扱いたいと願っておられます。私たちは神様の前にありのままの自分で、そして本来あるべき自分、神様を信じ、神様とともに歩むものとしてふさわしく整えられていくことが大切です。この整えられるというのは画一化されたものではありません。それぞれ持っている個性がさらに輝き、素晴らしく整えられた姿です。可能性に満ちあふれた、そして希望に満ちた姿です。そこには人と自分を比べて一喜一憂するような心はありません。神様が愛して下さっている自分に自信を持ち確信に満たされた姿であり心です。そんな素晴らしい自分に日々近づいていきたいですね!神様の前に心を開いて、静まり整えられ、そして輝いていきましょう!
2012.05.28
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人はそれぞれ得手不得手があります。自分が好きな分野は放っておいても成長しやすいものですし、それをすることは苦痛ではなく喜びです。喜びを持って行えることは上達する上で本当に大切な要素です。いくら素晴らしい素質を持っていても嫌々するのと楽しくやるのとでは同じ時間を費やしたとしても全く違う結果が出ることでしょう。テサロニケ人への手紙の中でパウロは彼らが多くの苦難の中で聖霊による喜びを持ってみとこばを受け入れ信仰に進み、その結果すべての信者の模範となったとあります。状況が悪いと私たちの心は折れやすく、また曇りやすいものです。しかしそういった状況に左右されない聖霊による喜び、すなわち救いの確信や天国への希望、また神様が本当に愛して下さっていることをしっかりと見据える時に目の前の問題は彼らにとって絶望するほどのものではなくなりました。同じ山でも下から見上げるのと飛行機で飛びながら見下ろすのでは全く違います。自分の視点でだけ見てしまうのではなく、聖霊の助けにより神様からの視点を持とうとしていく時に私たちは自分の置かれている状況を信仰を持って見、また受け止め、そしてまず一歩踏み出すことが出来るようになります。試練の先にも大きな恵みがあると分かっていれば喜んで進んでいくことが出来るでしょう。我らの助けは天から来ると聖書にあるように神様に信頼して道を模索し、祈り求める姿勢が私たちを成熟へと導き、テサロニケの人々のように模範となるような信仰へと成長していくことが出来るのです。人生は決して平坦な楽な道ばかりではありません。しかし山や谷や壁にぶつかることを信仰持って乗り越えていく時に私たちは多くのことを学び、また神様の恵みを体験し、さらに喜ぶことが出来るようになります。今どのような道を歩んでいるでしょうか?どんな道であっても、その中にみことばを置き、しっかりと信仰に立って歩んで行きましょう。
2012.05.14
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協力するとそれぞれがばらばらに働くよりも大きな力を発揮することが出来ますね。スポーツでも仕事でもそれぞれが個々にやるよりも大きな結果が出すことが出来るのがチームとして働く醍醐味だと思います。お互いの長所と短所をどう合わせるかがここで大事になってきます。もし短所を組み合わせるなら本当に悲惨な結果が待っているでしょう。しかし逆に長所を組み合わせていけたら、それは素晴らしい結果を生み出すことが可能になるでしょう。かつてチャールズ・フィニーというアメリカで活躍したリバイバリストがいました。彼は神の側には不足がないから自分たちの側でしっかり準備し、信仰の受け皿をしっかりとしていく時にリバイバルは起こるという極論的な神学と信念を持ちそれを実現していた人物です。彼の純粋な信仰と確信に満ちた行動に神様は応えてくださり、多くの奇跡的な結果を歴史の中に刻むこととなりました。大切なのは自分と共に働いて下さる御方、またチームのメンバーをしっかりと知り、信頼し合いつつ働きを進めることです。第一テサロニケには力と聖霊と強い確信によって福音を伝えてくことが出来たことが記されています。神様の側100%人間の側100%の力が合わさる時にそれが可能になります。50%づつではありません。それは確信という表現は50%の状態ではあり得ない表現だからです。まだ見ていないものごとを信じ、確信することが出来るのは信仰のなせる業です。信じて疑わず進んでいくために様々な備えをし、実行に移していったからこそ初代教会はリバイバルしリバイバルを多くの地域に巻き起こしていくことができました。今の時代も世界の多くの場所がリバイバルされています。そしてその波を私たちの地域でも体験することができるように確信に満ちて進んで行きましょう!
2012.05.07
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私たちはそれぞれ大切にしていたり、思っているものや事柄、人がいると思います。そのもの自体がいつからそういった存在であったかと言われるとその経緯は様々だと思います。時として失って初めて分かる大切さもあります。それは家族であったり健康であったりするでしょう。また逆に失ってみて実は大して大切なものではなかったと気がつくこともあります。そういった環境の変化に関わらずずっと大切にしているものはいったいどんなものでしょうか?使徒パウロの手紙を読んで行くときに最後の章はほぼ挨拶が延々と続きます。ひとりひとりを聖書辞典などで調べるのも面白いですが、シンプルにパウロが信仰の同労者を本当に大切にしていたことが分かります。晩年に書かれている幽囚書簡でさえ多くの働き人を気遣い、またその関係を大切にしている姿が見てとられます。どんなに地域が離れていても心は多くの人々の事を思い、祈りに覚えていたのでしょう。こういった祈りの連携が初代教会を堅く結び合わせ、そして強固なものにしていく原動力となっていたのです。お互いの事を思い祈り合うことは大きな力です。神様に委ねる心も必要ですが無関心と委ねることは違いますし、気にかけ祈りに覚えることと、気にしすぎて干渉し過ぎる事も違います。聖書に立ち、的確な心の距離を保っていくことが大切なのです。エペソ4章には一致について熱心に一致することを求めるようにと書かれています。この熱心とは盲目的になったり一方的に押しつけることではなく、みことばに立ち、祈り励まし支え合う関係です。主にある素晴らしい人間関係を築き上げていくことが出来るよう祈り励みましょう!
2012.05.04
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私たちは本来罪のある存在でしょうか?それとも元々は罪のない真っ白な存在でしょうか?赤ちゃんは罪もなくきよい存在でそれがだんだんと汚れていくと多くの方が思っていると思います。しかし聖書は私たちが罪人であると明確に記しています。難しいことばで言うと原罪ということばになりますが、エデンの園でアダムとエバが神様のいいつけを破ったことに始まる私たち人類が負っている生まれながらの性質です。利己的で腐敗しやすい体質がそこにはあります。利己的であるからこそおなかが空いたら泣くし、愛を求めてだだをこねて私たちは成長してきました。しかしその性質が原罪であることをみことばから受け止める必要があります。神様の赦しは完全であり、すでに用意されているからです。私たちが自分の罪を神様の前に言い表す時にそこには裁きではなく赦しがあります。そして赦すだけではなく罪からきよめて下さいます。頭では分かっていても、私たちの日常生活で起こってくる様々な問題に対してどこかで自分は悪くないと言い張る自分を発見したことはありませんか?そういった時にこそ自分の弱さ、罪の性質を発見し、神様の前に出ていくべきです。そこに真理があります。赦しを受け、きよめられていく中で私たちは少しづつ成長していくことが出来るのです。昨日の自分を超えることが出来るのです。一度出来たからといって怠慢な心になってはいけません。日めくりカレンダーのように日々私たちはこの罪と悔い改め、赦しときよめを信仰のサイクルとしてこなしていく必要があるからです。そこに信仰の戦いがあります。主にあって罪に打ち勝ち、主の前に日々遜る者となりましょう!
2012.04.23
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本当の信頼とはどういったものでしょうか?自分がそばにいるときに信頼出来るというのはまだ足りないものがあります。それはある意味監視されている状態だからです。監督者の前でいいように振る舞うのはどちらかというと当たり前という部類に入るでしょう。物事を安心して託すことが出来る。自分の代わりに単独で行動を任せれられるようになるとそれは信頼の印だと思います。新約聖書の歴史はこの「信頼」から成り立っています。イエス様はペテロをはじめ弟子達を信頼しました。そして弟子から使徒へと呼び方自体も変化していきました。習う人から指導できる人へと変わっているのです。弟子は師匠以上にはなれないかも知れません。しかし使徒として働くペテロ達の姿を見るとイエス様が公生涯にしていなかったことを多く成し遂げて教会を確立していく姿があります。そしてそれはイエス様が彼らに期待し委ねた働きでした。そしてこのイエス様の信頼は、それに値すると誰しもが認めるだけの成長を遂げてから与えられたものではありませんでした。ペテロが挫折し、葛藤し、回復する過程を通る以前にイエス様は彼にその信頼を伝えています。神様の信頼は見合うだけの能力を身に付けて、また目標を達成した人にだけ与えるものではなく、未来完了形で与えられます。そしてそれを成し遂げるのは信仰です。私たちも未来完了形で教会を建て上げていきたいと願います。そしてそれを期待し、励まし合い、成熟から成熟へと進んでいける群れでありたいと願います。主によって愛し合い、主によって歩みましょう
2012.04.16
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イースターおめでとうございます。イエス様の復活を祝うイースターですが、今年はディズニーランドもイースターイベントを取り入れるなど様々なかたちでイースターが日本にも浸透しつつあります。ただきれいな卵を飾って喜ぶ日ではなく、本質的に私たちはイエス様の復活と共に自分の死んだ生き方から主にある命に生かされる生き方を見直し、そして実行していく時として受け止めていきたいと願います。イエス様が復活された時に天使がマリア達に弟子達とペテロに伝えるようにとあえてペテロに伝えることを強調して語る場面があります。ペテロはマタイ26章69節以降において自分の信仰生活のどん底を体験します。その箇所において3回イエス様を知らないと言ってしまうのです。そんなペテロに対してイエス様は立ち直るように祈っていること、また後に私を愛するかと3回問われるなど特別にペテロを扱われました。その結果彼は今までとは違う逞しい信仰の人となりました。ペテロと同じように私たちも恐れや不安などで信仰がぐらついたり否定的になることがあるかも知れません。しかしイエス様の愛はそんな不安定な私たちをも包み込んで下さる大きな愛です。決してペテロだけが特別なのではありません。私たちも同じようにイエス様は期待し、祈り、支えて下さるお方です。主と共に日々新しくされる人生を歩んで行きましょう!
2012.04.14
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しゃべることは時と場合によって楽しかったり辛かったり様々な感情を私たちに与え、また多くの人を時として励まし、また傷つける諸刃の剣のようなものです。聖書に舌を完全に制御できるならその人は体全体を制御できると書いてあるくらい私たちの口から出ることばはまだまだ不完全であり発展途上と言ってもよいかも知れません。しかし言葉において失敗することを経験し同じことを繰り返さないようにと意識する方はそういった勉強をしたり、また上手に語る人を観察して確実に成長していると思います。聖書はさらに深く掘り下げてうわべのトークテクニック以上にしゃべる時の心構えに関してから多くのことを私たちに示唆しています。コロサイ4章6節には外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさいとあります。これは伝道においてのことに重点がおかれて書かれているという前提がありますが、前半の外部の人に対して賢明にふるまうことはとても大切なことです。自分が客として店にいっていても、また逆においてもへんに偉そうにしたりせずにいつでも賢明に振る舞うことは私たちの品性を高めてくれるだけではなく、すべての人を自分よりすぐれた者だと思いなさいとあるようにみことばを実践する行為に他なりません。そういったベースとなる心構えや考え方を整えていく時に口から出ることばも愛のあることばになったり塩気の効いたものとなるでしょう。答えはそういった経験の積み重ねから自ずと出てくるものです。聖書に根ざし、みことばを土台として考え方を整えて、口から出ることばがその心からすっと出てくるように、祈り整えられていきたいですね!
2012.04.06
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天の父なる神様がどのような御方であるかを私たちが知る時に、私たちはより寛容であり、忍耐強くならなければいけないと思えるようになるでしょう。私たちがまだ神様を知らなかった時、知っていつつ背を向けていたとき、また背いていた時でさえ変わらず愛を注ぎ、期待し忍耐しておられる神様、その想いと比べると私たちは短気で自分勝手な振る舞いが多いと反省せざるおえません。しかしだからといってそこで諦めてしまうのでしょうか?私たちは高い目標を知るからこそそれに向かって前進し続けることが出来ます。もし極めたと思ってしまったらその瞬間から前進はありません。登り切った山はあとは下るしかないからです。そうして見ると信仰生活は頂上の見えない登山のようなものかも知れません。しかしその登山は神様と共に歩む楽しいものです。どんな時であっても主と共にいることが出来ることは最高の経験を私たちに与えてくれることでしょう。最高の父であり最高の指導者であり最高のパートナーである御方が傍にいてくれるのです。そしてそんな神様は私たちに仕えるためにイエスキリストとして地上に来て下さり私たちの罪のために十字架にかかって下さいました。そんな神様を私たちはこれからのイースター(復活祭)までの期間どういう想いを持って見上げ、受け止め、共にいることを望むでしょうか?主を少しでも知る者として、神様の思いに応える者でありましょう。
2012.03.29
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