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外側の世界が問題なのではなくて自分の心がどこに向いているか、が最大の問題。理想は、いつどんな時でも愛の光を静かに放って存在していること。しかし、この世界にいる限り、様々な波動が自分の中に起こってくる。何かを見たり聞いたり、思い出したりすると、それに誘発されて不安や怖れや、不快感が出てきたりする。それらは、みな愛なる根源と分離しているという錯覚から来る感覚。分離幻想は、自我が自分を守るために創りだしたもの。その自分で作り出した感覚を再浮上させて、浄化することができる時代になっている。自我が生み出した枝葉のように広がった恐れの意識を光と水に向けることによって、虹色模様のエネルギーに変換する。人間として体験する一つ一つのことが新たな光を創造する営みとなる。過去が今に浮上して浄化され、今ここに永遠の命が輝き出る。人間として、今ここにいるかけがえのなさを感じながら、浮かんでくるひとつひとつの感情に、感謝をこめて光を当てる。
2008.05.18
宇宙には愛の波動が鳴り響いているこれは直感的真実であり、魂のどこかで知っている人間もその波動のとひとつなのだけれど自らも波動を発して遊ぶことができる様々な波動を出して、宇宙の壮大な波動芸術を3次元世界にも再現しようと遊んでいるしかし、いつの間にか自分の作り出した作品に捉われて自分は宇宙の中の愛の波動であることを忘れてしまったしっかりと目を覚ませば、壮大な「愛の波動」が自分自身の中にいつも流れていることを思い出す何もかも手放せば、自分の中の本来の輝きが甦る軽やかな心が軽やかな言葉になり軽やかな行動となって、愛の波動を表現し始めるその愛の波動は、周りに伝播し、眠っていた波動を目覚めさせる理屈ではなく、心の奥底で知っている波動それを、この次元に表現するために、今、ここにいる みんなで思い出せたらいいな
2008.05.11
家にいると、のどかで軽やかな時間感覚があって、仕事をしている時の時間感覚とは明らかに違う。仕事をしているときは、目標を目指して進む情熱のようなものが多少はあるのだが場所が変ると、そんな情熱はさっぱりと消えてしまう。もっと若い頃は、家でも仕事感覚を持ち越していたようにも思うが切り替えがうまくなったのか、執着が薄れたのか、仕事のことは消えてしまう。社会の中で何かを変えていくためには、24時間そのことを考えて突き進むような真摯さが必要なのであろうが、外を変えることにそれほど興味が湧かなくなってしまった。政治に無関心なわけではないが、それ以上に面白いことが一杯あるからだろう。面白いことというのは、自分の内面。そして人間という存在。地球。宇宙。それらの関係。のぞましい自分の状態を知っているのだが、その内面の光をいつも曇らせないように生きていくことが面白い。現実的価値観で、結果が重視される社会の中にいるから、そんな中でも、自分を維持して生きていくことに面白さを感じるのだろう。人間は、皆冒険家のなだ。地球という神秘の惑星で、探検しながら生きている。そろそろ、探検し尽し、めぐり巡って我が家についたから、もう冒険はいらない。我が家でのんびりと呼吸に意識を向けながら、自然のリズムを感じるのもいい。そんな人たちが増えると、いつの間にか社会の時間もゆったりと進んでいくことだろう。
2008.05.06
今日は55(ゴーゴー)の日だからだろうか、また、こうして書こうとしている。人間の本質は光(愛)なんだと直感的に思う。その本質を現われにくくしているのが、「自我」という先入観であり価値判断。それは3次元で生きる中で身に付けた鎧のようなもの。皆と同じ姿になるように武装しないと生きていけないと思い込んでしまったから。鎧をすてても大丈夫だよって、ささやく声がする。その声に従って少しずつ鎧を脱いでみると、さわやかな空気に触れて驚くでも空気は、慣れてしまうとその存在を感じられなくなるのでまた、何となく寂しくなって鎧を着てしまう。でもその鎧は、自分の心が創り上げただけの仮のものいくらピカピカに磨いたって、本当の自分じゃないんだ。鎧の下の本当の自分を出して生きてみよう。光のままでいても、そのままで大丈夫だよ。ただ、そのままで生きること・・・そんな、人としての悦びを味わうために、今ここにいる。ありがとうありがとう・・・ただ、有難いだけ・・・そんなことを感じる55の日、新月のひととき。
2008.05.05
人は皆、自分の先入観で価値判断している。どんな先入観を持っているかは、その人の生い立ちや教育によって異なってくるけれど、生まれてから学んだ価値観で、ものごとの善悪を判断する。しかし、何かのきっかけで潜在意識の奥に持っている価値観を思い出したり、新たな価値観に目覚めたりすることもある。価値観の転換は、多くは世間的には不幸と思われていることによって起きることが多い。病気であったり、思い通りにいかない出来事だったり、思いがけないことがきっかけになって起きることがある。ものごとが順調に行っている時は、自分の価値観に疑いを持たないものだ。順調に行っている感覚というのは、社会の価値観で認められている時に感じることが多い。しかし、社会の価値観に合わせて生きていると、自分の外に価値基準を持つことになるので本来の自分の感覚を無視して、外に合わせてしまうことが多くなる。そんな生活を続けていると、いつの間にかストレスが溜まってくる。そんなストレス生活は人間にとって不自然なので、病気やうまく行かなくなる出来事という形で「自然な(本来の自分の)生活に戻って」というメッセージを受け取ることになる。そこから「自己探求」というものが始まる人も多い。だから病気や不幸と見える出来事は「本来の自分や本来の幸せに気づくチャンス」であり、貴重な学びの機会であるといえる。色々な道を通っても、頂上はひとつなのだろう。「いま」の中に全部があって、そのままで完全なのだってこと。過去や未来は自分の思考の中にだけある。自分を苦しめているのは自分の思考が作り出す「過去」や「未来」・・・思考が時間を創っている。そんな思考から離れて「いま」にいれば不安も恐怖も幻想だとわかる。難しいアセンションの理論は知らなくても無邪気で純粋な子供たちは、いまに生きて平和な世界を創っている。大切なことは、みんなシンプル。思考は幻想だとわかれば、思考という枝葉に捉われずに「今」という幹を大切にできる。枝葉にこだわらずに幹を守って、どんな嵐も楽しもう。
2008.05.05
こんな方がいたのか・・・と驚いたが、作者のブログはスピ系の群を抜いた1番人気。霊能力のある作者は、他者の力や目に見えないものに依存することなく、自分の内在の神に目を向けるよう、様々な角度から述べている。「生かして頂いて ありがとう御座います」という言葉や想念の力が自らの内なる神を育てることになることを分かりやすく説明してくれている。更に「伊勢神宮外宮と先祖供養の重要性」というシンプルな真実をメッセージとして伝えている。他にも人物評や神社評が色々と述べられ厚い本となっているが、私としては雑音のように感じられる。これらのコメントは単なる「人寄せのための手段」なのだろう。 作者の伝えたいメッセージのみの精選された本がまた発刊されて、多くの人が「感謝」のみの人生を送るようになり、地球のすみやかな変容が為されることを願う。相手がどんな風であろうと「感謝」するという姿勢は「相手をゆるす」ということと同義である。「ゆるし」と「感謝」がこの幻想世界を幻想と認識して、根源の世界を観る手段となるのだと改めて納得した。作者のブログ「伊勢ー白山 道」http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou
2008.03.16
春が確実に来ているけれど、寒さはまだまだ続いている。 太陽は、少しずつ高くなり、地球に近づいてきている。地球の核のクリスタルが、根源の存在の核と整列しつつあるという。この根源との整列が起きた時、とてつもないエネルギーが地球に流れ込んでくる。このエネルギーというのは、「純粋な無条件の愛」のエネルギー。冬の中に春が既にやってきているように、既に「純粋な無条件の愛」のエネルギーはこの地上にもたらされつつある。無条件の愛のエネルギーは、陰と陽との統合によって起きる。地球の2元性の世界を織り成す、陰と陽。男と女。この対極にある2つのものが「純粋な愛」によって向き合った時お互いの中にあるピュアーさを見つめ受け入れたとき、ひとつの光として、大きなエネルギーを発しはじめる。愛をみればいいんだよ。愛を受け入れていいんだよ。それを自分にゆるすこと。神を見ればいいんだよ。神を受け入れていいんだよ。それを自分にゆるすこと。すでに赦されている自分を認めること。愛されているから、愛さずにいられない。純粋な愛の行為が自然に花開く地球。夢ではない、そんな地球が準備されている。それを認めて、受け入れる。それが根源からの光を受け入れる準備。そうすれば、既にいつも純粋な愛によって生かされていた自分に目覚めるだろう。 春が近づいている。 地球の春も近づいている。 春を見ながら、この寒い冬を楽しんで過ごそう。
2008.02.17
ともかく、何でも書いてみよう。とりあえず、書いてみよう。この「現実という本」を読む楽しさを表現したいから・・・。書いて、更に読みを深めたいから・・・。最近は、「次元を超えたものを読み解く」ような本にしか、わくわくしなくなってしまった。そのような本なら「現実という本」を読み解くヒントになるから・・・。この現実が一番おもしろいとつくづくと思う。特に今という時代だから、なおさらおもしろいのかもしれない。そして、日本だから更に更におもしろい。この「おもしろさ」を少しずつ具体的に書きたいなと思っている。
2008.02.12
二月という極寒の日中ではあるが、太陽が顔をのぞかせると春の空気が漂う。今日、外で洗濯物を干しながら「もう春だ」と今年初めて実感した。どんなに寒い冬でも必ず春を迎える。だから春が来ないことを心配する人はいない。世の中のどんな出来事でも、必ず変化していく。目の前の状況に捉われる必要がないことを自然は教えてくれている。あまりにも寒くて動けない時には、冬眠することもまたよし。寒い寒いと言いながら動くのもまたよし。心の中に温かいものが流れていれば、いつかは外も暖かくなってくる。どのような人間模様の中にも「愛」が隠れているから、おもしろい。この現象の奥にある「大きな大きな手のひら」の温かさ。自分の中の温かさは、その「手のひら」の温かさと繋がっているのだということを意識すると大きなパワーが湧いてくる。自分と「手のひら」の距離は、一見遠いようではあるが、実は無距離。人間の肉体の感覚では、離れているように感じてしまうけれど五感は幻想を解釈する機能。幻想は幻想として理解した上で誠実に扱い五感を超えた感覚で五感を超えたものも、この次元に取り込んで生きていく。「手のひら」と「自分」が一体となって生きるおもしろさがあるから人間として生きることは楽しいのだと思う。
2008.02.11
2008年に入って、既に1ヶ月と10日が過ぎた。1日1日、「自分の意識」を意識しながら生活している。政治状況や社会の動き、またスピリチュアルな情報も興味を持って見ているがやはり、「そんな中で自分の意識がどう動くのか」を見ることが一番面白い。前回書いた内容がもう4ヶ月近く前のものになってしまったが、「愛では地球を救えない」という一見ネガティブなイメージを感じさせるテーマであった。このテーマの責任ではないと思うが、慌しい生活のためもあってか、その後ずっとブログに書き込もうという気がしなくなってしまってた。地球を救えない「愛」は「無条件の愛」ではなく「求める愛」のことだと誰でもわかることなのだけれど、否定的な言葉の持つ波動の重さがストップをかけてしまっていたのかもしれない。真意は「本物の愛しか地球を人間を救えない」ということ。この世の中で「愛しか本物ではない」し、「本物は愛だけ」自分の本体も愛だし、「愛をどのように表現するか」だけが重要だと本当は誰だって知っている。世の中の事件も「愛を表現したいのに」表現できない苦しみや愛がストレートに出せなかったために歪んだ形で出てしまったことが原因の出来事がとても多いのではなかろうか。無条件の愛が動けば、知恵が湧く。的確な情報や知識が引き寄せられてきて、必要なところへ渡すことに悦びを感じる。本物の愛は愛の循環を引き起こす。その循環を止めてしまうのは、何らかの「恐れ」自分の中にある「恐れ」と向き合うことが、人間として生きる学び。「恐れ」という幻想をひとつひとつ見抜いて自由になって行く。「自分は本来自由なんだ」という正しい知識が、自分を自由にする。キリストという「人間の本来の自由を体現して生きた存在」のおかげで「神の子という人間を生きることができる」という愛の情報を得ることができている。これまでに人間として生きてくださったすべての存在に感謝しながら人間として愛を生きる生活を現実の中で表現したいと思う。そして、「人間が地球を救う」のではなくて愛を体現してくださっている地球に、愛と感謝で応えて「みんなひとつの命」であることに目覚めたい。
2008.02.10
ある女医さんが真剣に語った言葉・・「愛では地球は救えない」もちろん、この言葉は、24時間テレビのテーマをもじった言葉だけれど・・・。相手を愛しているから・・・と相手の言うままになり、どんな悲惨なことになっているか!その現状を具体例を挙げて、みんなの前で説明してくれた。若い人も、年配の人も・・その愛の行為の結果として、感染症などで病んだり傷ついたりしている人たちが多くいることを知って、驚いていた。そして、女医さんの結びのことば・・・「正しい知識が地球を救う」「正しい知識が人間を守る」のです。この話を聞いて思ったこと・・・正しい知識こそが「愛」なのだ・・ということ。女医さんが「愛では地球は救えない」と言った時の「愛」というのは、性愛のこと。どんな愛であろうとも、正しい知識がまず必要だから、人は「学ぶ」ことを尊ぶのだろう。でも「正しい知識」と、世間での常識とは、必ずしも一致していないかもしれない。やっと最近になって、「正しい知識」が公開され出しているような気がする。正しい知識の基本は、「存在しているものは、みんな繋がっていて、ひとつの命」ということかな。そして、その「ひとつの命」とは、「自分」であり「神」であるということ。この正しい知識は、既に自分の中にあって、各自が思い出し、眠りから目覚めようとしている時なのかもしれない。目をさまして、自分を救い、その反映として、地球がパラダイスと化す。そのことが可能な時代なのかもしれないと思うこのごろ。
2007.10.21
どうも最近、「現在」は「未来」が創っている・・・ということを感じる。表現するのは難しいのだけれど、「未来」がどうなるかを想像するところから「現在」が創造されてくるという言い方もできる。人間は神の子だから、神である未来を想像して、現在を生きると、現在にも「神である自分」を創造できる。『コース』の教えは、「自我は幻想だから本来ないもの、そんな[ないもの]に拠らないで、真実に拠りなさい」と繰り返し繰り返し語りかけてくれる。キリストが神の子として生きたように、あなたも生きることができる。それが本来のあなただ・・・・真実のあなたで生きなさい、と呼びかける。キリストと自分と神とは、一体である・・・それが真実であり、時間は幻想。だから、幻想である現実に惑わされずに、真実を見なさい、生きなさい・・・と。未来と今は同時にあるのだから、今神を生きることができる。それが「奇跡」だというなら、奇跡と見ることもできる。本来の生を生きることが、難しいはずがない難しくしているのは、自我の思考。神はシンプル・・・愛だけが真実であり、永遠なのだから永遠の今を生きること・・・それは未来を今生きること人間の未来は「神」・・・それが信じられなかったら、信じた「人間像」を生きていくだけだろう。信じるものが、展開していくこの世界だから・・・・。そんなことを考えながら生きていると人生がおもしろい。
2007.10.17
人類の歴史は、繁栄を外に求めてきた歴史ともいえる。豊かさを外に求めると、利害相反する存在がいるため、競争や戦いが生じる。競争や戦いの結果、巡り巡って自分たちの住むところまで、壊してしまった。しかし、繁栄を外に求めて、よかったことがひとつだけある。外に発信するため発達した情報網によって、真実の情報も広がったこと。真実の情報とは、「この世界は、人間の意識が創り上げたものだ」ということ。「時間や空間は幻想にすぎない。時空を超えたところに真実がある」ということ。更に「真実は自分の内にあり、自らの内にこそ神はいる」ということ。人間が、外に働きかける必要に応じて創った「言葉」や「機械」によって「大切なものは、自分の内にある」ということに目覚める・・というパラドックス。探していた青い鳥は、自分の家にいたという人類の物語は完結しようとしている。情報として得た真実を実感として思い出すためには、「神が考えるように、考え」「神が思うように、思い」「神がするように、する」こと。これを続けていくと、いつの間にか、神としての自分で生きるようになる。「ア・コース・イン・ミラクル」のワークは、徹底的に神の思考を訓練させる。日常で嫌なことがあっても、すぐに相手と、その現実を創造した自分を「ゆるし」神とともにいる自分を思い出すように、導いてくれる。この「コース」の本は、キリスト意識が語った言葉によってできているが、人間の怠け心も全部知った上で、それでもなお「神の御子」としての自分に目覚めるよう、繰り返し繰り返し語ってくれる。しかし「幻想世界」を選ぶのか「神の世界」を選ぶのかに関しては厳しく迫る。日々の生活の中で、神とともにある選択をし続けることは、まさにレッスン。家族の言葉、テレビで報道される事件、政治家の言葉・・・感情を動かされることは多々あるが、それでもこの世は自分の自我が創り上げた幻想世界だと見抜いて、すべてを赦そう、自分を赦そう。そうすれば、私の心の平安が維持できる。世界平和の鍵は、自分の内側にあるという真実を生きること・・・・・・キリスト意識からの情報に触れることができる現代に生きる幸いを思う。
2007.09.23
2012年アセンション説があるが、時間を特定する考え方にはなじめないでいた。真実は時間空間を越えたものであり、人の意識で未来も変化すると思っているから。そして予言などは人が強く意識するからか、逆に外れることが多いということもある。しかし、最近読んだ坂本政道著『死後体験4 2012人類大転換』の本に書かれている2012年の捉え方は、とても納得できる。この本には、ヘミシングによる死後世界の探求によって明らかになった「今人類が向かおうとしている方向」が書かれている。2012年の前後10年間は、スーパーラブ(無条件の愛)の光のパワーが最も強くなる時。そのパワーを心に受け入れると、 1、自分を地球生命系へ縛る「信念」や「欲」「感情」などが明らかになる。 2、それらの「信念」や「欲」「感情」などをひとつひとつ消し去ることもできる。その結果、地球生命系の輪廻転生から卒業することができる。地球を卒業した魂をその出身星の存在たちが迎えに来ているという。自分のグループに溶け込み、自分のすべての分身がひとつになった時、存在の本源に戻る・・・(これがアセンションということになるのだろう)このことを理論ではなく、体外離脱の旅で出会った存在たちの活動によって知って徐々に分かってきたという流れが興味深い。ヘミシングの普及も、人類の意識の解放のための一環活動だということだ。『コース』によって、自我の思考体系から自由になり、愛の実在を生きるようになることも「スーパーラブ」を受け入れることと同じことだ。今、様々な方法で「無条件の愛」に心を開く機会が与えられている。とても、有難い時代の中にいることを感じている。
2007.09.17
この世界を「赦す」のが私の仕事赦すために人間として生きている心が曇ったら、赦す箇所を見つけたサイン教えてくれた相手に感謝して、赦すそして、そんな相手を創りだした自分を赦す毎日ひとつひとつ自分の世界を赦していく悦び「平安」と「喜び」だけが真実で、それ以外のことは、自我が創りだした幻想このことを心の底から知っている本当の自分自分は神から離れてはいないことを教えてくれるキリスト意識毎朝、毎晩、この幻想から自由になるための叡智を思い出し日々を生きていく楽しさ生きていくことが自分の救いとなる悦び・・・自分の中に神がいることを、もっともっと感じるために人間として生活していると思うと不要な欲は消えてしまう自分の中にある「平安」に感謝します
2007.09.08
怖れは自我の思考怖れは、愛の世界を見えなくさせるもの真実の世界に怖れるものなど何ももない愛のみが真実愛以外のものは、幻想幻想から抜け出して本当の世界を見れば、不平不満は消える不平不満のない心は、平安に満たされる平安は光・・・自分の心が平安である時自由と平和が自分の中にあるそして、今ここに神が感じられるこんなに単純な真実なのに、自我は疑い、怖れる怖れ疑う自我をも、赦そうみんなみんな、ゆるそう愛だけが真実であることの悦びは無上の喜び、何よりも強いもの愛は与えても与えても減らないもの無限にあるもの、神の本体自分の本体嬉しきかなこの道
2007.07.29
この七月は、私にとって人生最大の山場であったのではないかと思う。生と死のはざまにいる家族に接する体験を通してこの世界をどう見るのかが試された日々。死と向かい合っている人を前にして、どうすることが愛なのか、これでもか、これでもか・・というほど試された。しかし、どんな時も私を支えてくれたのは、「コース」の言葉。この世界は幻想、「ゆるし」が私の仕事、私はこの世の光、不平不満は一切ない、私は神から与えられた役目だけを果たす・・・どんな現実の前でも、どんな言葉を浴びせられても真実を見ることができる自分に立脚できるか・・・何度も自分の思考を修正し、心の平安を維持することを学び続けた。その「平安」を持って、7・17の8時11分を迎えることができたことは、私にとって、かけがえのない体験であった。結果的に、この日に向けて、私の潜在意識を清め続けることになった。そして、次の日の朝、家族の一人が光に戻った。まるで、17日が終わるのを待っていてくれたかのように・・・。ミラクルは、まだまだ起きた。(ここに書けないけれど、確かに起きた)ちょうどいいタイミングで、「スターピープル」(ナチュラルスピリット社刊)の最新号に、「ア・コース・イン・ミラクルズ」の特集が載っている。コースの内容は、神の世界からの目覚ましメッセージ。このメッセージに耳を傾けていけば、自分の真実に急激に目覚めていく予感が確かにする。もっともっと学ぶ必要があるが、人間として、生きている限り、このコースを進んで行きたいと思っている。この道を歩みながら、人間を一杯一杯楽しみたいと思う。
2007.07.28
外では、暴風雨の音が段々と激しくなっている。この台風も通り過ぎれば、浄化された青空が見られるし、清浄な太陽の輝きも見られる。過ぎ去る時が待ち遠しいが、台風のさ中にいる時にしか味わえない薄暗さも自己の内面を見つめるには最適なのかもしれない。最近自分に起きていることも、台風のような浄化の嵐。客観的に見れば、私の今置かれている状況は「とんでもない」だろう。危機的な症状を抱えた病人を家族に何人も抱え、いつどうなるかわからない中で、現実的価値観の仕事をフルで行わねばならない毎日。そして家事に子育て。問題が何度も何度も押し寄せて来る生活ではあるが、それでも心に平安が生まれているのは、嬉しい。どんなことがあったって、「神の計画は成功する」ということが分かったから・・・問題と感じられるのは、自我の視点だからと見抜ける自分がいるから・・・まるで、日々の生活は何があっても動揺しない自分を発見するためのレッスン。この(自我を超えた)自分が意識できれば、怖いものは何もないと感じられる。「何もかも手放せばいいのだ」とストンと理解させてもらった本がある。それは、『癒しへの旅』という本だ。ヒーラーである著者が体験したストーリーが中心の内容だけれど、自分のお腹にできたバスケットボール大の腫瘍を、自分の内面に取り組むことによって癒してしまうというお話。自分の思い込みや怒り、恐怖など、内側に潜ってしまった感情に向かい合い、それに関係した人を赦すことによって、自分が解放され癒されていく過程が書かれている。何がなくても大いなる神が自分とともにいることを知っている人はどんな状況の中でも幸せなのだ。そして、遠慮なく「自分に平安を許可していい」のだとわかる。人間の仕事は、自分を赦し、自分を癒すこと・・・神から離れてしまったという自我の思い込みを赦し、解放し神のもとにいる自分を感じることを許可しよう。この台風が日本を縦断して過去を浄化し、清められた地球を光で包み込む儀式を行う。「本来の愛に満ちた地球が現れていいのだ」と人間が自分の心に許可する時神に愛され存在している地球が姿を現す。7月17日20時11分 魂の光で、地球のグリッドに点火しようFire the Grid世界中の仲間とともに・・・
2007.07.14
最近、私の頭の中は『奇跡のコース』のことばかり・・・このコースは、「自分が神であること」を思い出すひとつの道であり、大切なのは、自分が「ゆるし」を実践できているかということ。現状の世界情勢や日本の状況としては、日々分離幻想が拡大されてゆき、人間の力ではどうにもならないのではないかと思われるような問題が山積している。環境問題。経済問題。参議院選挙。年金問題。事件や裁判。教育問題・・・。ニュースや新聞に触れると、希望よりも絶望が感じられることが多い。そのような中で、やっぱり『コース』の情報は「救い」であり「希望」である。【この世界は、自我(エゴ)が自分を守ろうとする恐怖から創り上げた幻想である】という聖霊の視点を選択すれば、この世界の現状を「ゆるす」ことができる。「ゆるす」ということは、このエゴの世界の幻想を作り上げているのは自分(の自我)だと認めることであり、決して現状を容認することではない。幻想をゆるし、幻想を創り上げている自我をゆるすことによって、自分が本来光であることに目覚め、光の世界を広げることができる。「ゆるす」ということは「心の中の変化」=「意識の変化」であり、それは「心や意識」という「原因の世界」を変えること。この世界の現状を変える、最も早い方法が「ゆるし」であるということが言える。 今日たまたま「ホ・オポノポノ」というハワイの癒しを使ったセラピスト、レン博士のお話を目にした。この話は前にも何度も目にし感動していたのだけれど、改めて読み治し「この癒しの原理は奇跡のコースと同じだ」と感じた。(以下に少し抜粋)レムリアの贈り物コミュより~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~その人は触法精神障害者(注釈:刑法罰に問われる犯罪を侵したものの、 精神障害を理由に不起訴、減刑、あるいは無罪となった人のこと) の病棟に収容されていた人たち全員を、 誰一人直接診察することなく癒したそうだ。 そのセラピストは患者のカルテを読み、 「自分が」どのようにして その人の病気を創りだしたのかを理解するために、 自分の内側を見たのだそうだ。そして、彼が自分自身を癒すにつれて、患者も改善したという。・・・中略 これはつまり、テロリストの活動、大統領の決断、経済活動など、あなたが経験していて好きではないことを癒すのは、あなた次第だということである。言ってみれば、それらは存在してはいないのだ。あなたの内面からの投影である以外には。問題は彼らに関するものではなく、あなたに関するものであり、それを変えるには、あなたはあなたを変えなくてはいけないのだ。 このことは把握するのも難しく、ましてやそれを受け入れて実際に生きることはもっと難しいとわかっている。非難のほうが、完全な責任よりもはるかに簡単である。しかし、レン博士と話すにつれて私は気づき始めた。 彼にとっての癒し、そしてホ・オポノポノにおける癒しとは、あなた自身を愛することなのだと。あなたが自分の人生を改善したければ、あなたは自分の人生を癒さなければならない。もしあなたが誰かを癒したければたとえそれが精神障害を持った犯罪者であっても? あなたはそれを、自分自身を癒すことによって行うのだ。 どのようにして自分自身を癒すことに取り組んでいたのかと私はレン博士にたずねた。患者のカルテを見ていたときに、彼は具体的には何をしていたのだろう? 「私はただ『ごめんなさい(I'm sorry)』と 愛しています(I love you)』を何度も何度も言い続けていただけです」と彼は話した。 That's it? それだけ? That's it. それだけです。 つまり、あなた自身を愛することが、あなた自身を好転させる最も素晴らしい方法であり、あなた自身を好転させるにつれて、あなたはあなたの世界をも好転させるということだ。 (キリスト教では、これと同じ事を「何よりもまず私を愛しなさい」という神様の言葉として説明している)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「自分が神である」ということは、「すべては自分の責任である」ということ。それは、大袈裟なことではなくて、自分の心は自分の責任、自分が「世界をどう見るかの責任がある」ということなのだと改めて思う。聖霊(神の一側面)の視点と一体化するのか、自我の視点と一体化するのかの選択が『コース』の日々のレッスンでは行われている。『この世の光たるものは、自分の赦しによって、どの心にもみな平安をもたらす』(63課)すべてを「ゆるす」ことによって自分の心に平安をもたらし自らを癒し、この世の光となること・・それが本当にスピリチュアルな生き方と言えるのだろう。そのよう生き方ができるようになる手助けとして、ヒーリングや様々なセッションを使えばいいのだ。ともかく「自分がゆるしを実践して生きること」が自分のそして世界の「癒し」に繋がるのだ。これはとても嬉しいことだと思う。
2007.07.07
自我の世界に住んでいる自分を度々発見する。そのつど、本当の世界を見ることを決意し、自我を降参させる。スピリチュアル(霊的)な知識は、社会生活の中で意識するとかえって他者をジャッジ(判断)することになてしまったりする。スピリチュアルな知識が「自我」の武器になってしまう・・・。「奇跡のコース」に出会うまでの自分は、きっとスピリッチュアルを知らず知らずの内に「自我」の栄養にしてしまったのだろうなと最近思う。霊的真実を知ることは一時的な癒しになるし、「安らぎの世界」を垣間見ることにもなる。例えれば、精神の安定剤の役目をしてきたと言えるのかもしれない。多くの人間が、自分の住む世界は何かおかしいと感じそれは自分の心の反映なのだと知り始めた。だから精神の次元を高めたり、浄化して、自分の世界を安らかなものにしようと努力している。それは好ましいことだろうが自我の努力で解決しようとすれば、無限の時間が必要となる。自我を降参させ、自我の世界を本来の無に化し、実在の世界を見ることが本当の癒しだろう。本当の癒しは永遠不変のもの・・・。最近、あまりにも自我の目で物事を見ている自分を自覚し、愕然としたことがあった。たまらずに祈った「どうしたら、自我のお喋りをせずにすみますか?」と。ふと「体の目で見ずに、心の目でみる」という思いが浮かんだ。「そうか、体は自我の産物。体を通してではなく、心(神の出口)でものを見ればいいんだ」と思った途端に、前方の空の虹が目に入った。現実でどんなものが目に見えようと、耳に聞こえようと、本当のもの(神)を見よう聞こう!日々そのレッスンをしているのが自分。自我はそのための道具。神の家に戻ろう。そして、神の家に住んでいる自分を確認しよう。これが、この世界での真の「学び」なのだと感じるこの頃。
2007.06.30
今「赦しの奇跡」を体験している。大袈裟な表現のようだが、私の家族にとっては奇跡的なことが起きている。10日ほど前、主人の父が緊急入院した。父はもともと肺に病を持って生活していたが、今回は息をするのも苦しくなり、本人自ら「もう、だめだろう」と言って入院した。そして、検査してみると、肺はほとんど機能できなくなっており、心臓も腫れていてお医者さんも「あと数日・・・」と言われた。私たち家族は、覚悟し、交代で付き添い、その日まで悔いなく尽くそうとした。しかし、ちょうどお医者さんが予告した数日前から、今度は私たち家族に別の問題が起きてきて、もう二進も三進も行かなくなってしまった。それでも家族は精神的にぎりぎりのところで、仕事と看病と家庭生活を維持しようとした。このような窮地の中で、様々なトラブルが起きてきたが、私はともかく「赦す」ことを選択した。世間体を重んじる家族の言葉を聞いた時、以前の私であれば反論したり、心の中で反発したりしていたかもしれないが、コースのレッスンを積んできたおかげか、すぐに「赦す」ことに切り替えて、穏やかに日々を過ごした。父が入院してから、これまで毎日読んできた『生命の贈り物』の中の「生命の祈り」をさらに真剣に読んだ。仏前で読んだり、お墓の前で祈ったりして家族、先祖まるごと赦し、そうすることによって自分を赦そうと思った。主人の父とは、仲が悪かったわけではないが、古くて堅い人であり私の価値観とは違うと感じている部分があった。そのような思いは、相手を判断して裁くことと同じだろう。そのようにはっきりと思ったわけではないが、ともかく深く「赦す」ことしか私にできることはないと思ったのだ。予告された日の前日の夜、夜中に目が覚めた。そして、家族に降りかかった問題について様々な思いが浮かび、同時に不安が襲って来た。しかし、その思いは「自我」の思考だと冷静に捉える自分も同時に存在した。そして、そのような不安の思いをひとつひとつ「赦そう」と思った。不安が現実になったとしても、それは現実ではない。このように思考する自我を私は赦します・・・後は聖霊にゆだねます・・・ところで病院の父は、医者と主人の話し合いによって、効果的ではあるが苦しがる治療法をやめ、効果は減るけれど苦しみの軽い酸素吸入法に変えていた。最後は安らかであってもらいたいと思い、欲しがっていた水や食べ物(流動食ではあるが)を口に含ませた。もうしゃべれなくなっていた父の口元が緩んだ。そして、当日を迎えたのであるが・・・なんと以前よりも状態が良くなっていた。ほとんど機能していなかった肺が復活してきたのだ。お医者さんは、これまで「あと○日ぐらい」と言われていたのだが、この日から「ちょっと分からなくなってきました」という言葉。文字盤でしか話せなかった父が、この日から聞こえる声で時々話すようになった。歩けるように回復できるのかどうかはわからないし、家族に覚悟もできているのだが、それでも再び父と会話ができる日が来たことは、嬉しい奇跡だ。そして、家族に降りかかっていたもう一つの問題も、同じ日に解決の方向に向かった。とはいえ人間である私には、まだまだ赦しのレッスンがいるようで、夢の中で色々な場面が出てきては試される。自分の自我が納得できないような場面が出てきては、別の自分が「私は赦します」と言っている。日々の中でも、それは同じ。きっと赦すために私は生きているのだろう^^。ーーー赦しこそ愛。私は愛するために生きている。そう表現するとぴったりする^^。今日読んだ『奇跡に道』に次の言葉があり心に響いた。 神の国は完全に1つに結ばれており、また完全に護られており、 自我がそれに勝るようなことはない。(「奇跡の道」第四章より)
2007.06.17
「愛には不平不満がいっさいない」このことは、体験として実感としてわかる。自分の心が愛で満たされている時は、どんなネガティブな現象が目の前に現れていても心は平和だ。本来の自分が曇らされていないから、回りに惑わされることもないのだろう。しかし、人間として生きていると、現実生活の中で不平不満を抱くこともある。「前の車、もう少し早く走ってくれないかなあ」「あの人、あんなこと言わなければいいのに」ほんの些細なことで、エゴの思考が顔を出す。このような気持ちになっている時でも、「これはエゴの思考だ」と思い出せば、視点がさっと変る。『神の使者』の言葉で言えば、「聖霊の無条件の愛の目」で見ることができ、相手を赦すことができる。ただ、真実を思い出すだけで・・・。それでも赦せない時には、聖霊に赦してもらうという「自我」の放棄を行えばいい。現実社会は複雑で、自我の欲望を刺激する社会。経済至上主義の社会の仕組みをすぐに変えることはできないだろう。自分の納得のいかないことも多々ある社会だけれど、この世界そのものがエゴの創りだしたものだと思い出せば、簡単に赦せて、自分が自由になり、本来の自分(愛)で生きることができる。これは、心の底で「エゴが創りだしたものには価値はない」と知っているから可能なのだ。「価値があるのは、神の創ったものだけだ」と知っている自分が確かにいる。神(愛)の創ったものを観る自分を思い出すだけで、この世界は変化する。目の前の現象は同じなのだけれども、世界への私の見方が変り、感じ方が変る。その時の私の心には、不平も不満も消えている、一切ない。感謝の気持ちや温かい思いだけが静かにある。心は平和だ。毎日毎日、自分がエゴによって見ていることを思い出すことによって、豊かな世界が本物であることを徐々に信じられるようになるのだろう。心の底では、神の至福の世界だけが本物の世界だと知っているけれど顕在意識でも、複雑な現実を前にしながらでも、至福の世界を観ることができる自分となるために生きている。日々の現実世界に感謝。エゴの自分に感謝。比較の世界の苦しみは、「本当の世界ではないよ」というエゴからのサイン。辛かったね。もういいよ。私はすべてを赦します。エゴの自分がこの世界を創ったのだと知ることによって、救われる魂。エゴの幻想を消し去って輝き出した魂が地上に溢れるとき・・・もはや時間も空間もなく神の平和という本当の現実がある・・・夢から覚める準備を着々として行きたい。
2007.06.09
毎日いろいろなドラマが展開される。ドラマにどう反応するかが、幻想を手放すレッスンだ。出来事そのものには、意味はなく、意味を与えるのは自分の自我・・・そのことはわかっているのだが、相手の口から出された言葉に傷つき、心が動きそうになることも多々ある。家族というソウルメイトが、絶対に逃げられない場面を作って、何度も私を試してくれる。時には、現実を超えたものを見る力を持った人の助けを得ながら、自分を励ますこともある。人と人との関係が、こんな時は大きな支えになり、本当に有難いと思う。しかし、自分の思考を変えることでしか根本の解決にはならないことも分かる。「コース」の毎日のレッスンは、現実世界を観るのではなく、幻想の世界の奥にある実相を観る思考に徐々に変化するよう導いてくれる。「思考を変える機会を自分で自分に与えている」ことを確かに信じられるほど、毎日のその日のレッスンにちょうどいい出来事が起きる。そういえば前にも、読んだ本(スピリチュアルな本)にシンクロして現実が展開していく体験を数回したことがある。それらはソウルメイトと思える人との出会いの中で起きた。そして今回の「コース」もそうだ。今度は、家族というソウルメイトとの関わりの中で起きている。他人なら逃げられるけれど、家族は逃げられない。だから自分の心と真剣に向き合える。今生で幻想から目覚めるためのレッスンを仕組んで、生まれてきたのかもしれない。どう考えても、幻想から目覚めなければ、生きられないようにセッティングしているようだ。魂レベルでは、そのような展開を約束して、お互いに家族となったのだろうなとつくづく思う。自分の心に「ゆるし」がある時、基本的には何も「恐れるべきこと」というのはない・・・このことも同時に学んでいる。『生命の贈り物』の本が私の潜在意識にあるものを解きほぐし、恐れから解放してくれているように感じる。様々な高次の意識(愛)から出てきた本が、言葉が、私を根源への道に導いてくれている。スターシード・・・愛の種に感謝しつつ、自らも種になって行こうと思う。
2007.06.03
ここ数日、パソコンの接続をバージョンアップする工事に手間がかかり、インターネットが使えなかった。ネットがなくても「コース」のレッスンがあれば十分と感じるだけの深遠な情報量が『ア・コース・イン・ミラクルズ』(田中さん訳)にはある。翻訳本は読みにくいけれど、慣れると段々楽に読め出すから不思議だ。レッスンの合間合間にテキスト部分を少しずつ読み進めている。 毎日、毎日コースのレッスンをしていると「自我の自分は、何も分かっていない」ことが分かってくる。最初の方のレッスンは、これまでの見方、考え方を手放し、手放し・・・自我の自分がみんな否定されていくので、自我が持っていた自信は無くなっていく。例えて言えば、「大切な物を失くすまいと強く握っていた手の指であったが、一本一本緩めてゆくと、手の平の中には何もないことが明らかになっていった」かのようだ。 しかし、指を緩めたおかげで、「指はこんなに自由に使えるのだ。何でも掴めるのだ」と気が付くことができる。自我の自分が勝手に価値判断して、失くすことを恐れていただけだったことに気がつく。まさに「無知の知」・・・まず「汝自信を知れ!」ということなのだろう。レッスンが進めば進むほど、自分の思考の歪みに気づき、自我を手放すしかなくなる。自分が謙虚になり、聖霊にゆだねて生きるしかなくなる。そうすると、これまで自分が持っていた固定観念が消えてゆき、色々な面で円滑になっていく。そのような小さな奇跡が日々起きている。コースの主眼は、自我が創り出したこの世界を赦すこと。そして、この世界を創り出した自分の自我を赦すこと。「ゆるし」が「癒し」であり、「奇跡」となるわけであるが、自我の心は、そう簡単に「自分の間違いを認めないし、他者を赦せない」分離の幻想から目覚めることは容易ではない。(もしすぐに目覚めれば、この世界から消えてしまうだろう)日常生活をしていると、やはり分離の世界を生きる自我の自分が出てしまう。本当に他者を赦せたかどうかもはっきりしない。(表面で赦すのは簡単であるが・・・)そこで、「コース」に基づくワークを主催なさっている大内先生が翻訳してくださった『生命の贈り物』の祈りが役立つ。この祈りもキリスト意識が降りてきて(コースの筆者とは別の人ではあるが)書き取らせたものだそうだ。これはコースの教えを徹底させるための強力な有難いツールだと感じる。 「完全に完璧に他者を赦し、自分を赦す」というような祈りの言葉を繰り返し唱えることにより、「ゆるした」こと「ゆるしてもらった」ことに対する安心感が生まれてくる気がする。更にコースのテキスト部分を読みながら学ぶことによって、体や怖れが幻想であることが徐々に意識の中に入ってくる。また同時に奇跡の絶対性や真実のみが実在であることも理解しやすくなってくる。 コースの学習ができる1日1日が宝物だ。まだ1ヶ月も経っていないが、とりあえず、自分のために今感じていることををまとめてみた。
2007.05.29
『神の使者』を読んでから、「ア・コース・イン・ミラクルズ」の中のワークを始めたが、この世界について、はっと気づくことが多い。毎日、一つずつのレッスンを朝と夜読んで行い、日中も思い出しては、行っている。レッスンの最初の方は、この現実が意味のない幻想であることを「これでもか、これでもか!」というくらい繰り返し、自分の意識を修正するレッスンのようだ。全部、自分のエゴが見せている世界だと深いところで知っているのだけれど、まだまだそれに振り回されている自分がいる。「現実が幻想だと見抜くことができるのか」を確かめるために作り出しているのかと思えるほど、嫌な出来事がかつてないほどに起きてきたりする。現実の出来事に捉われるエゴの自分と、「幻想を見ているにすぎない。出来事そのものは意味のないことであり、意味を与えているのは自分」と認識できる大きな視野の自分。自分が創りだした出来事だと理解できれば、相手も自分も赦すことができる。このように自分を日々修正している気がする。遅々として進まないようだが、しかし「コース」は道。奇跡の道。着実に幻想のベールを一枚一枚剥がしているのだろう。後は、聖霊にゆだねつつ進んでいこう。ところで、日本語訳が待望されている「ア・コース・イン・ミラクルズ」であるが、出版予定は来年秋だそうだ。英語版でも内容が難しいと言われているものなので日本語にするに当たって、何度も推敲し校正を重ねているのだろう。とはいえ、来年の秋までは待てない!!・・そう思っていたら、ネットで翻訳本を配信されている方がいることを知った。アメリカに長く住んでおられた田中さんという方が翻訳し、配信してくださっている。(手数料が2千円かかるが、随分廉価で翻訳本を手に入れることになる。興味のある方は田中さんにメールしてみてください)私も時間を見つけては、テキスト部分も読んでいるが、読みにくい文が一杯^^。読みやすいところから、読み進めようと思っている。原本を読んだことのある方が「コースの本より、『神の使者』の本の方がコースの教えを分かりやすく、かつ重要なところを網羅している」とどこかで書いていたが・・・なるほどと思う。ということで、また『神の使者』を読み返しているが、何度読んでも「光り輝く叡智がちりばめられている」と感じる。
2007.05.20
「神の使者」という本を1・2ヶ月前に本屋で目にしたことがあったけれど、その時は買わなかった。「神との対話」と同じような表紙であり、同じような題、内容も対話形式で同じように見え「また、この手の本がでたのか」と感じただけだった。 ところで、私は4月の終わり頃からヘミシングを聞き始めたり、ヒーリングを受けたりして、自分の意識が異次元につながりやすくなっているような日々が続いていた。そして、何年か前に戻ったような意識になった。夜寝る前には瞑想状態になって光の炎や光る形が見える。昔?も一時期、深い瞑想を続けていたころには、現実生活をしながらも異次元感覚が出てきて、現実が消えてしまいそうだったことがある。しかし、最近は現実的に生きたいと思っていたのだが、私の心は根源への回帰を切望し、いつも光に祈っていた。そんな私の願いに応えてくれたのか(今から思えばのことであるが)、4月の終わりごろ、アマゾンで他の本を購入しようとした時に、お勧め本のような形で前述の「神の使者」が出ていた。何気なく出版社の説明やレビューなどを読むと、興味が湧いたので購入した。そして、読み始めて、ぐいぐいとその内容の面白さに惹かれてしまった。著者のところにアセンデッドマスターである2人の人物(?)が訪ねてきて、会話する。人類が神から分離したという幻想からできたこの世界、エゴが創造したこの世界の「からくり」について、少しずつ少しずつ説明していく。この世界は夢のようなものであり、目を覚ませば神と離れ離れになったこともない真実の世界が存在するという。そして、夢(幻想の世界)から目を覚ますのは、「赦し」であると言う。「赦し」によって幻想から自由になる方法をキリストが人間に教え、それを「ア・コース・イン・ミラクルズ」の本として書かせたのだと言う。私の魂のどこかで、「この本には真実が書かれている」とささやく声がする。「光の使者」や「神との対話」のように、人類の真の姿を教えてくれる本だと感じる。私(の現在意識)も幻想から目覚めるために「ア・コース・イン・ミラクルズ」のワークをしたい、本を読みたいと強く思い、メモ帳に『「ア・コース・イン・ミラクルズ」を手に入れます』と書いた。しかし、この本の日本語訳はまだ出版されていない。(予定はあるようだが)でも、なんとか読みたいと思った。そして、ふと思いついてMIXIのコミュで検索してみると、あった!!micaワークなんと、日本語訳をして下さっていた。管理人のsoflite さんが1日一つずつするためのレッスンを次々に翻訳してくださっている。早速レッスン1からはじめたが、もう1から素晴らしい内容だ。楽しいレッスンだ。キリスト意識が人類の目覚めのためにもたらしてくれた叡智を自分のものとしてすべてがひとつである真実に目覚めたいと思っている。
2007.05.06
先日、北朝鮮の取材番組があった。北朝鮮の番組は珍しいことではないが色々と気付かせてくれることが多い。北朝鮮の人々は、自国が素晴らしい国だと信じている。「兵器に費やすお金があれば、食糧を国民に振舞った方がいいと思いませんか」という日本人の質問に「国がなかったら、食糧どころではないですから、兵器が第一です」と答えた。自国の価値観を信じて疑わない自信のある答え方。若い女性にインタビューしても、自国の価値観以外は危険だと見る姿勢がある。もっと多様な考え方が許されている国の人から見れば、この北朝鮮の人たちの反応は「洗脳されていて、かわいそうだ」とか「危険だ」ということになるだろう。私もそのような感想を持ったが、同時に「私たち地球人の考え方だって、もっと広いところから見たら、なんて狭い偏った考え方でいきていることかと見るだろう。」と思った。価値観の違う他国の人々は、この現実の価値観は、人間が作り上げた幻想であることを実感として教えてくれる。日々の社会生活の中でも、それぞれの団体の持つ価値観にどぷりと浸かって成果を出していくことが求められている。その団体の発展がが他者を幸福にするものであれば、問題はないが、おおむね何らかの犠牲の上に発展はある。現実の国や社会は、矛盾だらけであり、弱肉強食である。神からの分離の果ての創造では、何処まで行っても天国はできない。幻想を幻想として見破る自分を見失わずにいることが神のもとに戻る一歩だ。
2007.05.05
最近どんな状況にいても、本来の自分でいられるかということを試されているような気がする。仕事の仲間の中にエゴが見える時、それが自分の中にもあるから見えてしまうことを認め、相手をゆるせるか。家族との価値観の違いが気になる時批判的にみるのか、受け入れて理解しあおうとするのか。霊的な観点抜きでものを見れない自分を隠さずに生きていけるか。これまでのように、周りに合わせるために自分をごまかし曖昧にして生きていくということが出来なくなってきている。曖昧にしていると、すぐに「それではいけない」ということを思い知らされる体験をしてしまう。地球の変化にふさわしく、自分も変化していくことが要求されているのだろう。地球は大きく脱皮するための動きが始まっており人間も本来の姿への脱皮を促されている。地球上では絶望的な出来事が多く起き、暗いニュースばかりが報道されているが、その陰で、目には見えなくても光の集結が行われている。例え、闇が多く集結してどれほど強くなろうとも光が集結すれば闇は一瞬にして消える。自分の精神の中でもこれと同じことが起きている。その体験をするために、人間として生きている。闇も光も体験するために幻想なる世界を生きてきた。闇の部分も持つ人間、愛しい人間・・・もう光が出てもいいよね。もう十分苦しんだよ。人間として味わえる悲しみも辛さも知った。そろそろ、静かな喜びの中にも自分を開放していいよ。自分に合う周波数の場所にいくと、自分が開放され本来の自分が出て来やすくなる。しっかりと本来の自分を確認し、その光の周波数を確認して、現実の中でもそれを維持できる自分を築こう。どんな時でも、どんな場所でも、根源の愛に繋がる自分を出す。それは、とても楽しい挑戦・・崇高な営み・・そこには体験への感謝があるだけ。今日は「Fire the Grid」のことを考えたからか、またまた哲学的になってしまった(汗)。
2007.04.22
モンロー研究所が開発したヘミシンクを使ってから、様々な体験に導かれた著者が綴った体験記『驚愕の前世体験』久しぶりに一気に読み上げてしまった。著者の体験はまだ昨年のこと・・・わずか2ヶ月の間に様々な次元を垣間見て、チャネリングができたりハイアーセルフと一体となったりするところまで行ってしまう。本人も半信半疑のままに、色々なことが起きてしまうのだが、超常的体験まで、加速化してきている時代なのだと感じさせる。安易には非常識なことを受け入れようとしない堅実な著者の人柄がにじみ出た文章で書かれているためか安心して読める。スピリチュアルな世界では簡単に使われてしまう用語を敢えて避けどのような人にも理解できるような言葉で書かれているためかもしれない。最近、見えない次元で、各自の目覚めを促す動きが始まっていることを知らせるような出来事や情報を多く目にする。そして、目覚まし時計のベルが鳴っているかのようなこの本。もう本当の感覚を隠す必要はないもっともっと羽を自由に伸ばして、羽ばたいていいんだよ。自分と宇宙とが繋がっていることを隠す必要はない。今私が見ているのは、宇宙が人間の体験をして見ているのだよ。宇宙の最先端の意識が今ここに息づいていること・・・。ただ、そのことを思い出して、自分である世界を再創造していこう。本の感想を書こうと思って書き始めたら、何故か、こんな言葉を書きたくなった^^。
2007.04.15
春うららかな休日のんびりと小鳥のさえずりを聞きながら過ごす幸せ気分転換にHPの背景を変えてみた背景が変るとこんなにもイメージが変ってくる日常のちょっとしたことで、人の気分も変化する互いに影響を与え合って変化している現実変化を楽しむのは、人間の本質かもしれない何かにこだわるより、手放してしまう方が自由を味わえる神の芸術は常に変化し、次元を超えてまで変化していくこだわるのは人間の自我・・・しかし、こだわりがあるからこの人間世界も存在しているのだろう不易流行を楽しみたい
2007.04.15
随分、日記を書かなかったなあ。1,2,3月と目まぐるしく色々なことがあった。かつて縁があった人と一旦離れていたのに再び巡り合って縁ができるということもよく起きた。何だか人生の総決算をしなさいと言われているかのようだ。感情においても、かつては自分も持っていたが、すでに克服して自分からは去っていったと思っていた感情が再び戻ってきたかのような体験を多々して驚いた。地球や宇宙も大きな転機で総決算の時期と感じるが、それは、外にあるのではなくて自分自身の問題なのだと大袈裟ではなく思う。人間の自我や欲が断末魔の叫びを上げている時代私の中にも、他者と競う心や保身に向かう心が潜んでいたことを思い知らされる体験が次々と起きて驚いた。更に、何かに依存したい心や自分を認めてもらいたいと思う心・・こうした俗っぽい思いが自分の中に潜んでいたことを思い知らされた。人間の嫌な部分と思っていたものが、こんなにも自分の中にあったなんて・・私もこの地球に生きる皆と同じ人間なのだと、こんなところで地球に住む人間としてのアイデンテティを感じている自分がある。自分の中の「見たくない部分」を見る体験をして、自分を丸ごと受け入れることが自分に必要であったのかもしれないと、今感じている。光に照らされて微細な塵埃が見えてくるのと同じように、光が強くなると同時に、自我から生み出された塵埃が照らし出されたのだろう。お蔭で、外を論じるよりも自分の中を清浄にすることが根本的な解決に繋がるという原点を思い出させてもらった。外界は、自分の心の鏡・・・心を清浄にして、輝く世界を見て楽しもう。それが人間として生きる醍醐味なのだから・・・。
2007.04.07
昨日、親族のお見舞いに病院へ行った。久しぶりに足を踏み入れた病院。入院患者さんと看護婦さんの会話が聞こえる。若い看護婦さんが、方言で年寄りの患者さんに語りかける様子は微笑ましい。車椅子のおばあさんの手足となって付き添っている看護婦さん。手術前の患者さんに何かを説明している看護婦さん。一人ひとりの人間の健康を取り戻すために、心を尽くして働いている人間があちこちに・・ありがたいことだなあとしみじみ思う。神の手足となって、現実に現れている肉体そのものから癒しを与える仕事。外科病棟の中で、患者に向かう医者の口調は、誠実で自信に溢れている。この自信は多くの患者を治してきた経験から来ているのだろう。その語る姿に、内容に、患者は全幅の信頼をよせ、自分の肉体を任せる。誠実さや信頼も愛の表れだろう。見ず知らずの他人に命を預ける。人と人との間に流れている絆や愛を信じることなしに、できることではない。当たり前のことではあるが、人と人とがひとつであることを潜在的に知っているから信頼や誠実さが生まれるのだと再確認した。道徳心がなくなっている時代と言われるが、人と人とのつながりを見失っているだけなのだろう。人間は皆、同じ構造の肉体を持つ共通の生き物だという原点から医療は成立している。同じ人間だから同じように感じる。人の苦しみは自分の苦しみでもあるから真剣になれる。病院の中には、信頼でつながる人間関係があり愛があると感じた。医療に携わる人たちへの敬意を強く感じたお見舞いだった。
2007.03.11
先日、私が会合の時間に間に合いそうなくて、焦っていた時他の部屋に置いてあった私の書類を持ってきてくれた人がいた。私が自分で、その書類を取りに行ってから会場に向かったら、きっと時間に遅れてしまったにちがいない・・・彼のおかげでぎりぎり間に合った。彼の行動に、変な意味ではなく愛を感じた。よく色々な場面で「協力してください」と人は言葉にするけれど、協力って、愛の行為なのだなあと改めて思った。1人よりも2人でする方が分担が半分になる。人数が多ければ多いほど1人にかかる負担が軽くなる。そして心の負担も軽くなる。そして愛の行為は、仕事の能率を何倍も上げる・・・「自己責任」という言葉が最近よく使われるようになった。自分で責任をとることは、人間の基本ではあるが、その上でなお、はた(傍)をらく(楽)にする行為それが本当に「はたらく(働)」ということなのだと思う。利害関係を考えずに、すっと働ける人は人間としても魅力的だ。自分の仕事に精一杯の人が多い中で、本当に協力し合える仲間がどれだけいるか・・・それが、いい仕事に繋がり、いい結果を生み出すのだと改めて思った。
2007.02.18
真に価値あるものは、目には見えない・・・本当だなあと思うこの頃。真に価値あるものは、表現さえできない。言葉を超えている・・・それは次元の奥にあるものだからそれは、感じることしかできないもの・・・それでも、この次元のものに置き換え、表現して、感じ取って楽しんでいるのが人間皆、誰でもこうやってブログで、自分の感じたことを表現でき、発信できるようになった時代空間と時間が縮まり、次元の壁もやわらかくなった。この次元の奥にあるものを、自然に表現できる時代になった。目には見えないけれど、感じあって、交流しあえる時代・・・共鳴しあって、一人の響きが何十倍何万倍と広がっていく。魂に響く音が、あちこちで響きあっていく。すべての存在の奥にある響き、それはたったひとつの根源のひびき・・・
2007.02.12
「闇は叡智」というのが最近の嬉しい気づき。このことは、色々な面からそう感じるのだけれど、発端は、些細なことから・・・久しぶりの仕事休みで、「家事を一杯しよう」と張り切って迎えた休日のこと。朝、窓のカーテンを開けてみると、なんと曇り空。私は、お日様に感謝し、お顔を出して下さいと祈った。そして、雲にも消えてくださいと祈った。これまでの体験では、この程度の曇り空なら、祈ってお願いすればだいたい晴れ間が出てきてくれた。ところが、今回は、雲は厚みを変えずに時間ばかりが過ぎて行く。張り切って行った洗濯物も寒いばかりの外には干せずに恨めしそうに、空を見上げていた。そして、ふと気づいた。私は、最近太陽ばかりが気になり、晴れの日が嬉しくて感謝していた。そして心のどこかで、雲さえなければ、いつも日が照っていて嬉しいのに・・と、まるで雲は邪魔な存在であるかのように見ていたのではないだろうか。雲は水の大もと。水の循環を作り出してくれている存在。水がなければ、家事だって何にもできない。勿論生きても行けない。光との協働によって、地球の豊かな自然を創り出し運行させてせてくれている存在雲さんなくして、地上の現実はないのだった。なんてけな気で有難い存在なんだろう。そう強く思った。その事実を忘れてしまい雲を恨むような心を持ってごめんなさい、と。そう祈った。すると・・・なんと、陽光が差し込み始め、空が晴れて来たではないか。このことがあって、色々と気づくことがあった。一方のみに視点が行って、偏った感覚で生活していることが多いこと・・。明るいニュースは好きだが、暗いニュースや情報は避けようとする傾向。明るいことは良いこと、光は良いこと、そこから無意識の内に、暗いことや闇は悪と見ている面がある。暗いことや闇と見えることが現実を成り立たせてくれているのに。闇と見えることから、沢山の学びがあるのがこの地上・・・。闇も光も一体で、森羅万象を、愛と叡智の芸術を、生み出しているのに。偏りなくその事実を感じることができるのは、私が心の中心にいる時。私が偏れば、自分の世界も偏って見えてしまう。偏った展開に感じてしまう。私は宇宙・・・謙虚になって闇の叡智に教えを請う時、それを実感できる。
2007.02.10
ふと、愛は「無」に象徴されるのではないかと思った。無は、何も所有しないがゆえに「無限」であり「無尽蔵」、「自由自在」。現代人は、物質的にも精神的にも、所有物が多すぎて「執着」や「不安」が生まれ、「不自由」な生活となっている。過去(への思い)も未来(への思い)も捨てて「今」を生きるその今は「無」であり、過去も未来も含み持っている。「自己の中心に居る」とは、自己の核である「無」に立ち返ること。その無において、「すべて」と繋がることができる。「すべて」は根源であり「大愛」であり、万物を生かしているエネルギー。ああ、我が内にある、このシンプルな一点よ、無よ。ただただ謙虚になり、感謝の思い湧くのみ・・・・
2007.01.20
久しぶりの晴天の休日朝、雲間から太陽がちらちらと覗いて来たので、日光が差す間にと、急いで洗濯や蒲団干しをした。結局、雲が消えてしまって、真っ青な空の中で太陽は輝き続けてくれた。家事に明け暮れた1日だったが、いつものことながら太陽の偉大さ、有難さを痛感する。太陽のおかげで、寒さも和らぎ、家中に風を入れながら掃除もできた。普段はエアコンで居間を暖めてから食事をするが、日が照れば自然の暖房。洗濯物も太陽のいい香りがして、ふっくらと乾く。これらのエネルギー代は無償である。自然とともに生きれば、エネルギーを奪い合うことはいらない・・・そして、自然の恵みは本来誰にでも平等に提供されているはず・・・目に見える「無償の愛」の存在。太陽への感謝を伝えながら、写真を撮ってみた。ローズクオーツさんのオーラ写真には全く及ばないけれど、いつも太陽が応えてくれるように感じる。自然に感謝しながら生きる生活・・・それは静かな幸せ
2007.01.14
今日の出勤の途中に朝日が見えていたので、携帯カメラで撮ってみた。水は体を浄めてくれ、太陽は心を浄めてくれる。だから、いつも太陽に向かって「どうぞ、あなたが全ての存在に光を惜しみなく注いでおられるように、私の心も無私にならせて下さい、自我を消してください」と祈る。最近の太陽は透明なキラメキとでもいうような清らかな光を放っている。カメラを通してみると、光は豊かな色彩を示してくれる。肉眼では見えないけれど、全ての色彩を含みもつ光・・・全ての生命を含みもつ光・・・時間のことを「光陰」や「日月」と表現した古代人の鋭さを思う地上の出来事は、月日の織り成す芸術、光と陰の芸術・・・その間に水と火が動いて、全てを循環させている世界。そんな中に地球の一部として存在できている有難さを思う。
2007.01.10
初詣は、年明けと共に近所の神社に行ったけれど、今日は突然、護国神社に初詣に行くことになった。実家の両親が行きたいと言うので、実家に用事があった私が、車で連れて行ったのだ。護国神社は高台にあり、空気も清澄で神々しい。7日と言えども、まだまだ参拝客は多い。神社に来ている人の顔は、みな爽やかな顔に見えた。3人で参拝をすませて石畳を歩くすがすがしさ・・・今日は、護国神社に参拝したからではないと思うが、思わぬ人からの連絡があったりして、予想外の展開が続いた日だった。そういえば、私が護国神社に来た時は人生の転換期であることが多かった。自分の気持ちを固めるために、敢えてここに参拝に来たこともあった。意図せずして来た護国神社、そして意図せずしての昔の友達から連絡・・・昨年から、過去に縁があった人たちと思いがけない再会が続いているが、目に見えないところの意図を感じてしまう。再会によって、過去より成長した自分を確認でき、はっきりと、これまで何を学んで来たのかが問われるように感じる。どんな中でも揺るがぬ自分があるのか・・・自己の中心に存在できる自分ができているのか・・本来の目的を見失うことがない自分であるのか・・等等を確かめる機会が与えられているようだ。しかし、大切なことを見失うことなく、なすべきをなしていれば、自然に流れに乗って、目指す方向へと進んでいる自分を発見できるから何も心配することはない、私が私であればいい・・・「両親とともに初詣」という思わぬプレゼントを頂いた日に感じたこと。新年明けて7日目に、こんな一日を過ごせた幸せを感じる。
2007.01.07
今年が明けてから、早くも2日が経過しようとしている。今年は、事情があって比較的静かなお正月。1日1日様々な人との交流の中で、自分の心の動きを見ることができる。仕事で追われる日々よりも自分を見つめる機会が多い。外の世界は完全に自分の世界であると見る時自分の世界を見ることがまた楽しい。学ぶことが多い。自分は何ができるのか・・・静かに考える・・・人を判断する分離癖は自我が行う仕業光を送ろう・・・自分の中にある側面を癒すため自分を癒すことによって、地球を癒す。私にできることは、ささやかだけれど・・・それだけ。そうして、宇宙の愛を少しでも流す存在であること・・・。深く深く内に向かう・・・扉が開かれる・・・そうして1日1日扉を開いていこう・・・
2007.01.02
あけましておめでとうございます。新しい年、新しい心、再生の日・・・世界中の人々と「リフレッシュ」感を共有できる素晴らしい日・・・今年になって浮かんできた言葉・・すべては循環している放ったものが還ってくる、私はその主体者・・愛に生きる意識の選択は自然の流れに乗って宇宙は愛を循環させて動いている・・宇宙の中心は自分の中にある現実の事象も私の中に起きたこと、光の次元で見て愛を送ること一切の責任は自分にあることを受け入れる次元で生きることこの肉体も家族も仕事も社会も国も地球も宇宙も人として、光の次元で捉え、循環の中でシンプルにいきることその人間としての最高の軽やかさで生きることに挑戦する悦びを味わうために「今」がある・・「今・ここ」をシンプルに楽しんで・・・私の生きる原点を確認する日だったような気がする。 本当に今年の一瞬一瞬が宝のように感じられる。 大宇宙の中心にいる自覚を持って生きれば すべての存在と愛で繋がっていることが感じられる。 みんなみんな大宇宙の中心からエネルギーを放っている存在。 ただ思い出して生きればいい・・・ すべての存在に感謝しつつ・・・ <新年の心の記録として>
2007.01.01
葉ばかりの植物なのに、花のように美しい。玄関先にあった鉢植を映した写真1枚。視覚的に入ってくる清澄さもありがたいなあ・・・目から入れるビタミンみたいで☆
2006.12.26
夕食後の時間に流れたTVニュース・・・「今年のクリスマスイブは日曜日のため、商店街はクリスマスプレゼントを買う子供や大人で賑わいました」というアナウンス・・・そして、おもちゃ売り場でゲームソフトを買う男の子や着せ替え人形を見る女の子が映し出された。私「私たちの子供もウン年前まではあんなものを欲しがっていたよね」夫「もう成長したからオモチャは買わなくて良くなったなあ」私「きっと、人類は人間種のまだ子供なのよね、だから戦争とか争いのゲームをしたくって仕方がなくて欲しがって・・・神様は親だから、『まだオモチャが欲しいんだね。よしよし十分遊んで戦争ゲームがいらなくなるほど成長しなさいよ』と待っている。本当の大人の人間は、戦争ゲームには全く興味がなくって、お互いを尊重し合う天国の中に生きているのにね。」夫「それは、おもしろい!!」私の宇宙人話を素直にほめてくれたのは、久々*^^*クリスマスイブの夫婦の会話でした。本日取った写真をもう一枚
2006.12.24
メリークリスマス☆この言葉の響き・・・それだけで何だか楽しいリズムが・・・世界中に響き渡れ、と祈りつつ・・・日中晴れ間が広がり、年末の片付けを少しずつ実施家中を開け放ち、イブの空気を巡らせる。イブの日の光を記録に・・・と携帯で写真を何枚か・・・主人を映したら、虹色の光が一杯映った(彼はサンタさん生まれ)主人の写真は載せられないので他の写真を記念に載せようっと・・・☆
2006.12.24
「アハ体験」なるものが『ひらめき脳』(茂木健一郎著)という本の中で紹介されていた。何枚かの「正体不明の白黒の絵?写真?」が紹介されていて、それが何なのか答えるというものだ。TVでも紹介されたそうだが、私はその4枚の絵(写真?)の中で、どうしても何だかわからないものがあった。他の絵は、じっと見ていると「なるほど・・・だ!」と納得する答えがでてくるのだが、1枚だけは・・・。悔しいけれど、その本の最後に書かれている「答え」を見た。が、それでも、その答えの人物には見えてこない。職場の周りの人にも見てもらったが、すぐには誰も答えが出てこなかった。答えを教えてもやはり・・「う~ん、分からない」という状態。(みんな悔しそう~)ところが、1時間ほど席を外して戻ってきた女性が「あっ、見えた!!」と、突然声をあげた。ふと斜め下から見たら、その答えの人物が見えたそうだ。それで、私もその絵に執着するのを止めて、時々チラリと見てみようと・・・絵のページを開いて、遠くに置いて、目を細めてみたら・・・見えた!!。これが「アハ体験」だそうだ。見えるまでは、脳は必死で答えを探すが、問題が解けてわかった時の脳は、快感を感じた時と同じ反応を示しているらしい。単なる白黒の縞模様だけれど、一旦それが「何だ」と決めてしまうと脳はそのように見せてくれる・・・一人が見てしまうと他者も見えやすくなる。いざ見えるようになると、まだ見えない人の感覚がもどかしくなる・・何とも脳って、勝手で単純なものだ・・・。お月様の中の縞模様も日本では幼い時に「兎が餅をついているよ」と教えられるから大人になって見ても「兎の餅つき」が見える。他の国では、また違ったもの(忘れてしまったが・・)を月の中に見ると何かで読んだことがある。これが文化の違いなのだろうな・・と納得。世界平和のキーは「日本文化」だとよく言われるが、きっと日本古来からのものの見方の中に、「自己のルーツを神聖なものと見、すべてが同じ命によって生かされている」という視点があるからだろう。それを感じられる脳がすでに備わっている。いや、そのように見ることを伝えてきた文化だと言えるだろう。その見方を自信を持って子供達に伝えていくこと・・・日本中の人々が、そのような視点で現実を見、感謝や愛の気持ちを持てばその波動が伝播し、世界中の人々が兄弟であることが見えてくる。スピリチュアルなものは、欧米が進んでいて欧米から入ってきたものが多いようだけれど、実は、古来日本の日常生活の中に静かに存在していたものと同じ視点なのだ。そのことを日本人は思い出し、意識して取り戻していく必要がある。様々なスピリチュアルな動きは「思い出す」ためだとも言える。「教育基本法」改正は、ドタバタの中で行われ、決して好ましいものとは思えないが日本人の集合意識の中に「日本文化の誇りを復権させたい、復権させる必要がある」という意識が潜在的にあるのではないかと思う。日本人の「愛国心」は「愛地球心」であり「愛宇宙心」であることを読み解き、世界平和への自覚を深めていく契機にしたいものだと思う。
2006.12.17
昨日から、久しぶりにひどい偏頭痛がして、今日はゆっくり寝ていた。毎月のこの時期には、兆候として時々軽い頭痛がすることがあるのだが、薬も効かないほど痛むことなどめったになかった。夕方から徐徐に復活してきて、お風呂でゆっくり湯船に浸かったらかなり普通の調子にもどってきた。こうして、パソコンの前に来てキーボードを打てるのは、有難いなあ・・・と思いながら書いている。なにしろ携帯のメールを打つことも、辛く感じる経験だった。日常の普通のことをする気力もエネルギーもなく、ただ寝ていた。何が効いて、ここまで復活できたのか分からないけれど、ただただ普通に動けることが嬉しい・・・・。月並みな表現だけれど、病気の経験をすると健康の有難さを痛感する健康なだけで「ありがたい」ということがよく分かる・・・。最近思うのだけれど、「こうして意識を持って、人間として日々を生き様々な体験をしている」・・・それは、とてもとても貴重な宝もの。魂が肉体という乗り物を借りて己の光を表現しようと生きている。試行錯誤しながら、ひかりを一杯出そうとしている。でも、そのままで、それぞれが、既に、「最高の光」を放っている他者と比べる・・という自我のメガネを外せば、そのことが解る。病気もありがとう、自我も有り難う、何もかも魂の栄光の現れんがため
2006.12.02
最近感じたことを、ちょっと整理。「心配しないこと」を学んでいる・・・という気がする人間は「愛を生きること」を学んでいるけれど、それは「心配しないこと」を学ぶのと同じなのだと最近思う愛しているから心配しているのだけれど心配は元をたどれば恐怖心恐怖心は自我の属性、だから幻想愛は根源に属するもの、決して消えないもの心配ではなく、感謝しかない愛の世界に生かされていることに気づくこと・・それが目を覚まして生きること目を覚まして今を感じれば、静かな喜びを感じる何かを心配するという幻想の世界から目を覚ますためには「言霊の力を借りればいい」と斉藤一人さんは言う「ついてる」「ありがとう」「うれしい」「たのしい」という愛の言霊斎藤さんのお名前は、ネットではよく拝見していたがお金儲けのコツを書いている方だろうと興味を持たずにいた。ところが、最近たまたま待ち時間に、本屋に置いてあった斎藤さんの本を開き気軽に読めるのでびっくり・・・そして内容がとてもシンプル。人間の不幸の原因を非常に分かりやすく説明している。スピリチュアルな用語はほとんど使っていないけれど、目に見えない世界を深く理解している方だなあと感じる。誰にもわかる言葉で、「劣等感」や「恐怖心」が幻想にすぎないものであることを解き明かしている。斎藤さんの本や江原さんの本が本屋にひら積みにされているのを見て日本人の心の目覚めが始まっていることを感じた。
2006.11.26
3ヶ月以上も日記の更新をしていませんでした。理由は色々あるのですが、一番大きな理由は・・・いつの間にか「ログイン」を押してもログインできなくなっていたこと。この間、メッセージを下さっていた方、更新リクエストを下さった方・・・本当にありがとうございました。リクエストメールに励まされ、ログイン情報を探し出すエネルギーをいただき、とりあえず復活。まずは、再び模様替えをして気分を一新し、再スタートです。人様に読んでもらえるようなことは書けないのですが、自分の心の整理のためには、有用だと思うので気楽に書きます。自分の思いが(波動)がすぐに反映される現実社会の出来事も自分の思いの反映現実が自分の心の鏡を磨くことを教えてくれている・・という原点に立ち戻りながら、生きることに挑戦する日々一杯いっぱい磨いて、光り輝く地球を人間として感じたい
2006.11.18
久しぶりに、(いや、初めてなのかなあ)模様替えをしてみた。最近、肉体的に疲れが出ているようで、夜PCを開くとすぐに眠くなり日記の更新ができないままだった。でも、こうして模様替えをして気分を変えるのもHPの楽しさなのかもしれないな。部屋の模様替えも、お盆掃除のついでにできると楽しいだろうがそこまで、余裕がないなあ・・何事も、リフレッショは楽しいものなのだろう。「万物は流転している」という本質に基づいているからかもしれない・・とついつい哲学してしまう^^。
2006.08.12
最近、飯田史彦氏の本『ツインソウル』を氏自身が朗読したCDを聞いている。氏が臨死体験の中で出会った「光の存在」との対話部分だけを、臨場感溢れる読み方で朗読なさっている。精神世界の神髄が詰まっていて、この世界で生きる意味をシンプルに伝えている。『ツインソウル』を読んだ後にも、同じようなことを書いた記憶があるが、もう一度自分のために書いてみよう。 <生きる上で大切なことは、次の3つのみ> *どれくらい学んだか *どれくらい愛したか *どれくらい使命を果たしたかーーーー人間社会での成功は一切関係ないーーーー
2006.07.30
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