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4月にこの又助池にカキツバタを見に来たが、まだ咲いてなかった。久しぶりにと言っても、まだ3週間くらいしか経っていないが訪れる。ところが、考えていたよりも盛りは過ぎていて、どこか瑞々しさが感じられない。一部萎れるように、枯れつつあった花も。数年前に来たときのあの美しさはどこに行ったのだ。どうやら連休の頃が一番見頃だったようだ。花びらの下には、すでに次の世代を残す種を宿した小さな袋を実らせていた。あの麗しき和服姿が頭に残っているだけに、哀れに感じてしまう。まさに花の命は短くてである。
2024.05.16
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ももとせの ねむりさませば たけのはな まだゆめみかも しるひとぞなき 【百年ぶりに目覚めた竹の花 まだ夢を見ているのか だれも知らぬ人ばかり 人もここに花が咲いているなんて だれも知らないんだろうな】 竹の花は、だいたい60年から70年くらい経たないと咲かないとか聞いていたが、まだ実際に見たことなかった。ところがいつもの公園で咲いていると新聞に紹介されていた。さっそく一生に1回から2回ぐらいしか見る事ができない竹の花を見なければと、カメラ片手に公園に行く。一斉にツツジの花が咲き始めた中、地味で目立たないが確かに咲いていた、それも群生して。竹の花というよりは笹の花が正解であろう、何でもこの笹はまだ、30年前に公園に整備する以前より自然に群生していて、それ以前の事は記録がないとか。ただ別の公園で記録が残っていて、それは120年前のことらしい。群生していても、中の一本か二本が咲くことがあっても、群生が一斉に咲き始めるとは、全国的にも極めて珍しい現象とか。最近では他の数県で3件の記録があるくらいらしい。もしかすれば一生に一回も見られない現象を見たことになる、よい目の保養ができたものだと思う。花が散ると、この笹は枯れてしまい朽ち果ててしまうとか、だから枯れる前に種を落とし次の世代に種族保存を委ねるとか。ただ成長するのに30年もかかり、そのまたそれから30年から40年後には花を咲かせ枯れる運命に、そうして世代を繰り返しながら生きらえているのだ。厄介な雑草という人もいるが、これを知ると健気なものだと思わずにいられない。
2024.04.29
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冷蔵庫を開けて気が付いた、桜餅を買って置いていたこと忘れてた。賞味期限がすでに切れて三日過ぎている。食べるべきか迷ったが、賞味期限と消費期限では意味が違っていること思い出した。たしか賞味期限は美味しく頂ける期限であり、食べれないわけではない、ただし味は落ちるが。消費期限は期限が過ぎると消費できない、つまり食べるなという意味。どうも農林水産省と厚生労働省の縄張り争いと考え方により、こんな紛らわしい表現になっているらしい。どちらも直接口に入るもの、統一してくれたら有り難いが。結局、捨てるのももったいないので、撮影して食べてしまった。食感は、表面は硬くて少しごわごわしている、中のあんこはまだ柔らかい。味は、さすがに少し物濃きさが感じるが食べるには問題なさそう。身体に異常はない。それでも頬張るたびに、子供の頃を思い出した。育ったのが小さな漁村だったが、新鮮な海の幸はいつでも食べれたが、山の幸は時々であった。子供の頃は甘いものが食べたい盛り、特にこんな桜餅は滅多に食べれないしろもの。最高のお八つであった事を思い出す。少々硬かろうが不味かろうが関係無く、喜んで食べたものだ。現在は、スーパーに行けば年中手に入る、不味ければ食べる気がしない。やっぱり飽食の時代なのか。
2024.04.22
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今日は四月一日、、四月朔の日、そしてエイプリルフールであるが、私にはなんの関係もない。ただいつもの一日の時間が過ぎるだけである。といっても人間社会は会計年度が令和5年度がから6年度へと移ろう大事な節目の日であり。市民生活の諸事が今日を起点に大きく変化する艶めかしい日でもある。たしか三月二九日に桜が開花したと新聞で報じられていたが、まだ桜を見に行ってない。ちょうどテレビでは大リーグの野球中継にプロ野球の開幕戦に高校野球選抜に大相撲と見たい番組が一日中続き、桜のことすっかり失念していた。正に連日、スポーツ観戦三昧であった。選抜は群馬が優勝して終了。今日は午前中で大リーグ中継が終わり、プロ野球は移動日で試合がないので午後は久しぶりに所用で外出。ついでに城跡大手門入り口にある、気象庁指定の桜の標準木を撮影に行く。鳥取はこの桜で開花予想をしているらしい。ここ数日春らしいぽかぽか陽気で、ソメイヨシノはすでに満開で見頃になっていた。やはりこのあたりでは一番の古木で咲くのも早い、たしか樹齢は二百年以上らしいが、幹には苔で覆われている。他の若い桜はまだ蕾が開きかけくらいである。これだと次の嵐がくれば花散らしになるかも。ただ私はこの季節になると、クシャミがよく出る。花粉症ではないが。どうも黄砂に反応しているようでゆううつになる。新聞でも大陸より黄砂が到達して空が少し黄色に見えるとか。ついでにPM2.5まで、まねかねざる客に翻弄されそうだ。そこで久しぶりに短歌風に一首詠んでみた。さてもう一つ、この投稿している画像であるが、今まではかなり古いフォトショップエレメンツで編集していたが、今日からはGINPに変更して編集している。従って少し画像が今までより趣が変わって見えるかも。何しろ無料で最新のソフトが使えるので助かる。フォトショップEが悪くなったせいではなく、そろそろフォトショップEを最新のものに替えようかと、PCコーナーのソフトを見に行くと値段が急に値上がりしていて、手を出すのがちょっとはばかれる。そこでGINPをインストールして使うことにした。もう半年くらい前のことである。最初使い勝手が異なり死苦八句していたが、少しづつ慣れてきて、なんとか使えるようになったので、初めて投稿に使ってみたのだ。
2024.04.01
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今日は東日本大震災発生から13年。各地で追悼式が行われていることだろう。あのとき私はどうしていたのだろうか。思い出してみると 京都にいたのであるが。我が家の菩提寺の本山が京都であり その本山で三泊四日かけて ささやかな修行を遂行していたが その最後の日の終了式が終わり車で帰路に就いて30分も経ってない頃だと思う。たしか地震発生したのが3月11日午後2時46分だから そうだと思う。だから午後9時に我が家に帰宅するまで地震の事はまったく知らず驚いた事を覚えている。それからはテレビに釘付け 絶えず放映されていく惨劇とその甚大な被害の有様に 声も出せずただ呆然とテレビを見ていた。自分ではどうすることもできないが せめてと画面に向かって手をあわせ本山で修行の通り【何阿弥陀仏】 と唱えていた。それから数日間はその繰り返しである。そうかあれから13年かと 改めて思い出せば まだ避難生活をされている人たちのこと また 二万人近くの犠牲になられた方 まだ2500名余の行方不明者の事を考えるに心がいたたまれない。それに今年の元旦の能登半島地震の発生により多数の犠牲者も出ており まさしく日本は地震大国であると有り難くない名をいただいている。これらの地震で不幸にも犠牲になられた方々には 心より哀悼の意を述べたいと思う。合掌念仏を 唱えて思う 弥生月 忘れ得ずして また手を合わせ 淨至 写真は省略 久しぶりに短歌にして投稿した。ちなみに 淨至 は修行のさい本山から授かった法名である。以来 様々なところで 号として使わせていただいている。
2024.03.11
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いにしえのひとのありしとかくれでら もえつかれつつもみじぞしのぶ久しぶりに山間部の清徳寺を訪れる。この小さな鄙びた山寺は和同2年(709)行基により開山の古刹。ご本尊は百済より伝わった阿弥陀如来の仏像らしいが 当時は廃仏政策で壊されそうになり それを知った善光が信濃のお寺に移し難を免れたとか。それが今の『長野市の善光寺』である。現在もそこに安置されているらしいが。のちに源氏に敗れた平家の武将 小松氏が隠れ住んだとか(写真の五輪塔がその一族の墓) また幕府から逃れた 後醍醐天皇も一時隠れていたとか その時にお手植えされた銀杏の大木は天然記念樹木となっている。以後幾度かの火事で焼失 廃寺同然だったが 明治になり小松氏と善光の子孫により現在のお堂が再建され現在にいたる。またこのお寺は紅葉寺として有名であり 毎年多くの人が訪れるが いつも混雑していて出入りが大変である。週末はよく混むので平日に訪れたのであるが。境内には当番の管理人と携帯のエレクトーンを奏でていた御婦人と私の3人だけ。周囲を囲むような紅葉の中 静かにメロディーを聴きながら カメラのシャッターを押す。管理人によると紅葉の盛は過ぎて もう2週間早ければ最高だったとか。もっとも混雑を避けて今日になったのだから仕方はないが。おまけにてんきは曇ではどうも紅葉が映えないからもう一つである。直ぐに帰ったのである。帰ってから数日たち一首ヒネって今日投稿してみた。できはそれなりに。この鄙びたお寺の紅葉よ遙か昔の住人を覚えているのか もし覚えているなら教えてくれ。ちょっと気取って詠ってみた
2023.11.18
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うさのかずさけばしるらむさざんかのちってはらせばまたさきちりぬ 淨至24節季の大雪に山茶花の花が咲いていた(上の画像)。下の画像はその二日前であるから寒い日が続いていたので、さすがに冬の花だ、このくらいでは関係無いのかな。山茶花は同じ木からいくつも蕾が出て来て咲けば散り、また咲けば散って行き、長く花期が楽しめる花として知られている。この人間の憂い、争い、煩悩の数、その荒(うさ)を捨てるかのように散ってゆくのかも。なんとも悲壮感というか淋しさを感じさせる花ではないか。
2022.12.08
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画像は無料素材サイトよりダウンロードさせていただきました今日より12月、師走柵の日。新聞の折り込みチラシで見つけた、どっかのスーパーの野菜の売り込み宣伝。その中に画像なしのセロリが紹介されていた。今でこそ珍しくはない野菜ではあるが、何でも普通に出回り始めたのは昭和30年頃らしい。私がまだ幼い頃に初めてセロリを食べた、その味と食感に、美味しいとは思えずはき出ししまった記憶がある。他にもこんな味は好きになれず野菜嫌いになってしまった子供もいる、たとえばピーマンとか人参とか。ところがある一定の年齢になると逆に好きになる者もいる。私もその一人になるだろう、大好きとは言えないが。軽く茹でて食べると最高である。また他の野菜と一緒にサラダとして生で食べても美味しい。子供の頃とは様変わりしてしまった私である。
2022.12.01
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浮き寝鳥はのんびりと羽根を休めて水面に浮かんでる。それにひきかえ人間は足ばやに行き交い対照的である。そう言えばもうすぐ師走だな。
2022.11.27
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下手なら下手なりに短歌・俳句など、心赴くままにうららかに色はもえぎに街路樹の 春の愁いはコロナの影よ 淨至ついに新型コロナウイルス渦による非常事態宣言が47都道府県に発令されました世界中が大混乱してますから 日本だけ蚊帳の外ではすまされない事態ですこの事態いつ終息されるのでしょうか まいにち巣籠もり状態で気もめいります季節は春から初夏に確実に移ろっているようです桐島の真紅の色が目に眩しく感じられてしまいますせめて花でも愛でながら一首少しは気分を紛らわせましょうか
2020.04.18
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下手なら下手なりに短歌・俳句など、心赴くままにおずおずとマスク友とし風のなか 桜と椿微笑みかけて 淨至春らしい陽気の日 所用にて外出することにした現在 新型肺炎コロナウィルス渦にて 日本全国不要不急の外出自粛要望が発令中幸い鳥取県はまだ感染者が出ていないので 少しは安堵しているものの油断禁物外出するのもはばかれるが 今日の食材調達のため近くのスーパーへおずおずとマスクを着用して久しぶりに外の風にあたる今年は花見はしてない というか人への接触を避けているだけであるが遠くの公園の桜は満開のようだ 庭の椿も満開であるなんでもこの椿は乙女椿というのだそうだまるで私に微笑みかけているようで 早くこの非常事態が収束して欲しいと願うばかりである久しぶりに一首詠んでみた
2020.04.05
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下手なら下手なりに短歌・俳句など、心赴くままうす日透けただ一輪のろう梅よ 寂しき庭の春をことほぎ 淨至今年はまれにない暖冬だ といえど庭には花がなくば寂しい暖地では様々な春を告げる花の便りが聞かれるが 我が庭にはまだないしかし 5年前に植えていた蠟梅の小枝に やっとただ一輪だが花を付けているのを見つけた苗を移植すると 何年かは花を付けないこともあるようだと聞いていたので安堵できた次第我が庭にやっと春が来て ことほぎのように思えた蠟梅は晩冬の季語なので立春では使えない 久しぶりに短歌にして詠んでみた
2020.02.16
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震災の涙かくすな春の雨 ひつぎか浄土か海は白波 淨至 浄土(くに)と読む3月11日の今日は東日本大震災の日、あれからもう8年も経っているのだ。当日、私は菩提寺の本山でささやかな修行を終え夜に帰宅したばかりであった。帰宅するまで地震のことなど知らなかった。ニュースで繰り返し放映されている、その惨劇を声を出せぬまま見入っていた。それらの事をいまだに鮮鋭に記憶している。死者二万五千・いまだに二千五百の行方不明者がいるとか。それに原発の破壊により、我が家に帰れない避難民も五万二千名とか。東北の海は棺に化して、悲しみを誘う。今日の日本海は少し荒れ気味。太平洋と繋がっていること思えば手を合わせずにいられない。亡くなられた方々へ、改めて哀悼の意を表したいと思います。 合掌
2019.03.11
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土を打つ雨もやさしき啓蟄の 虫よめ覚めよ春の音ぞよ 淨至今日は啓蟄、あににくの朝から小雨。優しく降ってるような、そんな暖かい雨である。新聞で土筆が顔を出したと報じていたので、撮影に行こうと準備するも。しかし、この雨ではどうも迷うが、少し小止みになったので出発する。しかし、また雨が強くなったので途中で引き返す。それでも近くの公園で馬酔木を見つけたので、小止みの間に撮影する。この雨では虫も出にくくなっているのではと、一首詠んでみた。なにしろ、啓蟄に馬酔木の俳句では、そぐわないのではと感じた次第。タイトルの画像を変更してみる。以前撮影していた写真をペイントソフトで少し加工した。中に啓蟄の文字を挿入して見た、これからは節季ごとに変更してみたい。風景は、白兎海岸の淤岐島(おきのしま)。神話・因幡の白うさぎの舞台になった島である。
2019.03.06
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雛の日の花はちがえどまんさくの 心は桃の花園にたち 淨至今日は桃の節句 と言ってもなにかお祝いをするわけでもないが遠い昔に 近所の女の子のから おすそ分けに雛アラレをもらって食べた記憶があるだけあまり美味いとも思えないが まあおやつ代わりにはなった最近の雛アラレはどんな味であろうか 子供のいない我が家では 縁のない行事である公園を訪れてみると 早春の花である満作に気が付いたどうやら志那満作であろうか ひな祭りの日であるから桃の花を期待していたがここ山陰では 桃の花が咲くのは 早くても彼岸の頃である 暖冬といえどまだのはずだ 店頭で見かける桃の花は どっかの暖かい地域から入ったものであろう旧暦の三月三日のひな祭りは 今年は新暦の四月七日であるやはり俳句も古来より続く行事も旧暦にはめると季節感がよくあうせっかくだから 気分だけでも桃園に立っていることにして 一首詠んだのだが旧暦のひな祭りの日には【流し雛】の行事が行われる鳥取市用瀬町は有名である
2019.03.03
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春装もまといし風の召すがまま 行雲流水花も移ろい 淨至郊外の田園地帯で菜の花を見つける 春はそこまで来ているのかと思わずにいられないこれは誠に嬉しいことではある 同時に花の命は短くてで始まるの詩があるが時節の移ろいとともに 菜の花も散り次の花が咲き出すことは自然の理であるまさに春の装いも夏への装いの始まりであり 自然の摂理では これに逆らうことはできない仏法の教えに紹介されている 行雲流水 という漢詩がある直訳すれば 雲は行き水は流れる と読む何でも古代中国の偉い哲学者の唱えた漢詩で これを仏法に取りいれたらしいこれを深読みすると 雲は風の吹かれるままに行き 水も高い所から低い所へ流れるこれに逆らうことはない 人間も自分の欲望・不満等の煩悩を捨て素直に生きれば幸福な人生を送れるではないか という問いかけであるそして花も素直に移ろっているから 美しいのであるちょっと気取った短歌なってしまった 恥ずかしや
2019.02.22
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ゆらゆらと雨水の風の榛の木のまさか花とは思わざるなり 淨至公園の隅に変な木を見つける 写真の通りなんかの実に見える撮影して帰って図鑑で調べると 榛の木(はんのき)という名と分かるところがウコギの仲間らしいが これが花と知り ビックリである風になびきながらゆれている 細長い房のようなものが雄花であり隣に見える焦げ茶色の丸い実が雌花と知りまたビックリそれも 多くの花が集まって一つの穂を形成しているとかまことに奇妙な花である池とか河とか 水辺の近くに2月から3月にかけて咲くらしい 和歌では【ハリの木】と詠まれていて 昔から親しまれていたようだ
2019.02.20
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雪は舞い春は名ばかり山寺の 虚しさばかり南天の実は 淨至今日も寒い雨が一日中降り もう3日も続いている 山間部は粉雪が舞っている山寺は積雪もあり 春とは名ばかりであるみな早春の草花を待ち望んでいるのだが 南天の実だけが存在感を出しているせっかくの 赤い色も虚しさばかり やはり南天の実は冬のものなのだ
2019.02.16
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愛の日の椿の花の春浅し 希望のかおりかすかに放ち 淨至今日は聖バレンタインデーとかいうチョコレートの日日本の年間のチョコレートの3割は この聖バレンタインデーに消費されるとか関係業者は売り上げを伸ばそうと 工夫こらして販売しているらしい私はチョコレートはあまり食べれない 食べるとすぐに胃から熱い物がこみ上げてくるいわゆる胃酸過多の症状で胸焼けがするからだ若いときは平気であったのだが 年はとりたくないものだもっとも 後のホワイトデーで高く付くから 受け取るのも考え物だ今日の新聞に有楽椿が見頃になったと紹介されていたので 撮影に行くたしか1月25日にも見学してブログに掲載させていた その続きになるほぼ8割が咲いていて 満開に近かった ちょうど寒波のあとで雪をいただいていた山間部に近いお寺である 気温2度とちょっと寒い 寒気がしたのですぐ帰るがそれにどうも腰痛がでて やけに身体が動かし辛いので整体に行かなければ
2019.02.14
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建国日いつもの通り時流る 想わざる事何に印せば 淨至今日は建国記念日 昔は紀元節とか言ってたようだがなんでも神武天皇(初代天皇)が即位した日が2月11日なのだそうだそれから数えて 皇紀2679年となる今年の5月1日より改元されるから 平成31年はあと2ヶ月と17日残すのみ新元号はなんとなるか 大いに気になる日である建国記念日といっても 個人的に何をするわけではないが いつもと変わらないまま一日が終わろうとしている建国日は古事記に記されているから これが根拠になっているでは個人的な出来事はどう記録し残せばいいのか昔なら 日記や日誌などが 古文書として残されているからこれを読めばよい現代なら日記とはさしずめブログになろうか拡大解釈すれば 手紙とか葉書による便りなんかも日記または日誌と考えられる年賀状とか寒中見舞い それに時節柄の余寒見舞いなども良い例であろう私事ではあるが 自作の俳句を一句挿入させて今年の年賀状とした毎年の同じような賀詞と存問言葉ではマンネリ感があったのでそして 号である淨至の落款印を署名捺印して気取ってみたが画像の落款印は石に彫っている ちょっと高く付いた小さい方の9ミリ角は主に葉書に 大きい方の12ミリ角は手紙用であるついでに封緘印も作ったが これが押したいがため何かと便りを出そうかと機会を伺っている落款印には朱印と白印があるが 説名は次の機会としよう
2019.02.11
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豆の数ただ食わぬとも春は立つ 淋しさばかり齢のままに 淨至今日は立春 暦の上とはいえ待ちに待った春である旧暦ではこの日が元旦となっていた 旧正月である中国では春節として お祭り騒ぎをするらしいが昨夜の節分の豆まきでは 年の数の豆を食えぬままであった食えないのではなく 食う気になれないのが本音ではあるが年々豆の数が増えていくのは 気にならないがこれを食べると自分自身がそれ相応の老人であると認めたことになり年以上に老いぼれていくようで これにはちょっと抵抗があるそれでも立春は来てしまった 淋しさばかりが募るだけであるそんな心情を短歌にしたが これも齢(よわい)のせいかも 河川敷の日当たりいい場所に 早々とタンポポを見つけるこんなに早く咲くのは関西タンポポくらいだろうやはり 寒さの中でも春の鼓動は確実に強くなっているようだ
2019.02.04
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りんとして かもほのかに うめのはなおぼろのままに はるきたるらし 淨至寒中お見舞い申し上げます平年より三週間以上早く梅が開花したと 新聞で知り早速撮影してきた大寒に入ったばかりだというのに なんと早咲きなのだ暖かい地方ではわかるが山陰ではちと早すぎる これも暖冬の故か和歌の世界では梅の花を詠んだ歌が数多くあり 早春の花として人気があったようだそこでちょっと気取って 和歌風に短歌を詠んでみたどうも文法が間違っているようで 自信がないがこれも愛嬌歌の意味は 寒さの中 凜と咲いた梅の花より ほのかに香りがする 春とは言い難いが それでも春が来たことにしよう
2019.01.23
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秋の空移ろいやすし人ごころ色あせ消えてなにも覚えず 浄至なんとか心と秋の空 などは秋の天気の変わりやすさと変わりやすい人心を重ねた詩だが今日は朝は曇り 昼前になると晴れ 15時頃になるとまた曇り風弱く凌ぎやすいのだが これが秋の空なのかも足下を見れば 露草がかろうじて 踏まれず咲いていた古来より露草は染色のために使われていたらしい 古名は月草 万葉集で歌われている露草で衣を染めても 水で洗うとすぐに色あせて消えてしまうらしいその現象から 恋心が冷めて お相手がなびいてくれなくなり失恋の切なさを 露草で染めた衣に重ねた和歌ばかりだ現在社会でマスコミで騒がれた人々も いつのまにか忘れられ消えてしまう現象も同じようなことかも
2018.10.04
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便りくる心はずます嬉しさよ 我が悪筆の返書もあぐむ 浄至友人より便りが来る 残暑見舞いであるがやはり便りが来ると どことなく嬉しくはなるところが従来の悪筆で 返書となると一大決心がいる結局 PCソフトを使って作ってしまうまあこれが とどのつまりであるが最近は便りといえば電話とかメールとかで連絡してしまうこれが悪いとは言わないが やはり便りとは 手紙とか葉書でいただくと嬉しさ倍増であるあるサークルの案内状を毎月出している これも便りになるのかもところが 月により情報量が異なるほぼ葉書だけで事足りるのであるが 時には封筒でなければ収まらない場合もあるA4サイズで2から4枚くらいなら長型3号の封筒で82円であるこれはこれでいいのであるが1枚の場合 これでも82円とはと考え込んでしまうことがある最近 郵便書簡という葉書と同じ62円で送れる官製封筒の存在を知るさっそくこの夏使ってみたが初めてのことで 要領が分からず手っ取り早くタックシールを貼り付けて 宛先も送り先も済ませてしまったこの秋は 送り先は いつも写真俳句で使っているフォトショップエレメンツで作って封筒に直接印刷して上手くいった今度は宛名の印刷で困り 検索で調べたがそんな情報は見つけることができなかった 結局またタックシールで済ましてしまったがどうやら 封筒のサイズは横92ミリ縦165ミリだが 自分でのり代の部分を折り込んで貼り付けるため 複雑な形状になり困難のようだしかし あれこれ考えてやっと気が付いた 最初からのり付けをして封筒にしてから印刷すれば可能であることが もっとも郵便番号枠に合わせるためには 位置の微調整が必要であるし プリンターとソフトによっては不可能な場合も ただまだ試していないので・・・?郵便書簡には 内側に罫線が印刷してあり 直接便せんとして使えるなんでも 葉書の4倍の情報量が書けるとか まことに切手も便せんも準備の必要なく 官製葉書ような感覚で送れる格安の封書であるこんな優れものがあるとは もっと早く気が付けばよかった
2018.10.03
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月影の淡く雲間にただよえし かぐやのなみだ隠せしもがな 浄至昨夜は中秋の名月、あいにくと曇り空では月見も期待できず。それでも午後9時頃に、なんとか雲間から薄雲越しに撮影したが。名月といえば、古典文学の名作【竹取物語】を思い出す。かぐや姫は月を見るたびに、悲しみ涙してとなっている。今日の月なら、かぐやの涙が少しは隠せただろうナー、と私の願望。ちょっと気取って、和歌風に短歌で詠んだが、どうもうまくいかない。
2017.10.05
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八上姫かの地集いしまつ虫の 和きぶことなし売沼の社 浄至(やかみひめかのちつどいしまつむしのにきぶことなしめぬまのやしろ)和きぶ(にきぶ)= 古語で安らぎ・ゆっくりする・くつろぐの意味売沼神社の主、八上姫は会議のため出雲に行って留守、まつ虫(待つと松を兼ねてみた)が帰りを待っているかのように鳴いているだけ、帰るまでくつろいで暮らせないな。十月に入り旧呼び名で神無月、全国の神様が出雲に集まりサミットを開くのでこんな呼び名になったとか、出雲の国はさぞかし賑やかであろうことか。画像は大国の尊とは縁のある神社、売沼神社(めぬまじんじゃ)である。神話【因幡の白うさぎ】にも登場するのであるが、童謡【大黒様の唄】でも知られている。大黒様【大国の尊】に助けられた白うさぎは、お礼に因幡の国一番の絶世の美女【八上姫 やかみひめ】を紹介する。二人は恋に落ち結婚の約束をするも、尊の兄神様、八百神々に邪魔されて逃避行するのである。鳥取市にはその逃避行にゆかりの地名が何カ所か残って居る。八百神が因幡に来たのは、八上姫に求婚するためであるから、兄神様は尊を憎んだに違いない。逃避行の末、最後には結ばれ、一緒に出雲に帰るのであるが。公式文書に残る、日本で最古・最初のラブストーリーとなっている。この物語は、まだ続く。出雲で暮らし始めるも、尊には6~7人の妻がいて、お互いに尊の心を捕まえようと争っていた。特に焼き餅焼きの激しい一人が、八上姫をいびり、激しくいじめたので、ついに尊との間にできた男子を置いて、因幡に帰ってしまう悲壮な結末になるのである。美しく聡明な姫は、帰ると因幡の指導者的存在となり、民のため尽くしたので皆から尊敬され、没したあとも、祭神を八上姫とする売沼神社を建立し崇められている。この神社の近くに、岳山という低山があるが、この山に全長50mくらいの前方後円墳がある。八上姫の墓の可能性はあるが、はっきりと判っていない。全て神代の昔のことばかり、長い時間の霧の中のこと、おとぎ話として聞けば面白い。
2017.10.02
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霧雨のどこか怪しき式部の実 遠き想い出霞むばかり 浄至今日も雨、昨夜からの断続的な横殴りの雨に動きとれず。それでも午前10時の頃には霧雨に変わる。雨に濡れた小紫式部の実には、どこか不可解な怪しき魅力を感じる。花言葉は【上品】【聡明】、なるほど紫色からきたらしいが。私的な見地から【怪しき魅力】も加えたいものだ。この実を眺めていて、幼き頃にへんな実だなとしげしげと観察した記憶が蘇る。秋の実といえば、柿の実や梨、それに銀杏とか石榴にいちじく等食べれる実ばかり。子供心に、食べれない実は実ではないと思っていたのだろう。そんな記憶も霧雨の中に遠く霞んでいくばかりだ。投稿のためキーボードを叩いている間に、いつのまにか雨は止む。天気予報では午後から曇り、明日から秋らしいよい天気が続くとか。久しぶりに、五七五七七の三十一文字に挑戦してみる。紫式部には、そんな万葉の時代へのあこがれのようなものを感じさせる怪しき魅力がある。
2017.09.28
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炎天に赤き花あり生け垣の夾竹桃の毒ぞ知るらん 浄至炎天下、夾竹桃が元気なようで、綺麗な花を咲かしています。国道付近や堤防沿いなど、それに公園にも。これを見かけるたびに、危険注意の文字が頭によぎる。夾竹桃は毒の花で、その致死量は青酸カリに匹敵する強力なもの。花にも、葉にも茎にも、そして根にも、周りの土にさえ毒性があるとか。花言葉は【危険】【油断大敵】【危険な愛】など注意奮起の言葉ばかり。最近見た推理ドラマで、殺人犯人の使ったのがこの夾竹桃の葉と茎を蒸し焼きした煙りだった。怖いのはこの花の全て、どこを煮ても焼いても、出した汁も煙りも猛毒であることだ。それを知っているのかどうか知らないが、生け垣に観賞用に街路樹等、至る所に見かける。外国では厳しく植樹を制限している国もあるほどだ。日本では、ヒアリで騒いでいるようだが、夾竹桃は野放しのようだ。被害者が出てからは遅いのだが、とくに幼児が集まる場所は注意。葉や茎を嘗めても、噛んでも危険である。
2017.07.30
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ゆらゆらと風とたわむれゑのころの幼き頃を忍ばせゆれり 浄至 6月に草取りしていた庭に草が生えてきた、雑草とは言え、まことに強いものだ。去年と同じ場所に同じ草が生えている。エノコログサだ、猫じゃらしでも知られている。風にゆられている姿を見ていると、幼き頃に遊んだ想い出が蘇ってくる。はるか遠く昔であるのだが。これで一句と思ったが、エノコログサは秋の季語になっていた。それで短歌で詠んでみる。
2017.07.16
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白桃の熟し加減は薄皮の中に潜めて我を誘う 浄至しろもものじゅくしかげんはうすかわのなかにひぞめてわれをいざなう親戚より白桃が届く。今年の初物で、いつもおすそ分けして頂いている近所のお宅にも、おすそ分け。さっそくこの白桃で一句かと考えたが、桃の実は秋の季語で使えない。ではと、季語のない短歌で一首詠むことに。写真の白桃は最後の一個、記念に撮影した。これには落ちがあり、まず最初に仏壇にお供えして南無阿弥陀仏。2日めに頂こうかと下げると、あちこち腐っていた。桃は腐るのが早いことを忘れてた。腐った部分を取り去ると、ほとんど食べる部分がなし。一番美味しいことしたのは阿弥陀如来か、まさかね。
2017.07.15
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忘れ草願いは多し七夕の星空知らぬ昼の花ゆえ 浄至今年も新暦の七夕の天の川は梅雨空ではよくみえない、旧暦のほうが空がよく澄んでいてくっきり見えるからいいのだが、今年の旧暦の七夕は8月28日である。公園で藪萱草を見つける、古名は忘れ草で、和歌で多く詠まれているらしい。萱草を身につけて願えば、いやな事、心配事など憂きことを忘れさせてくれる花となっている、奈良時代に中国の故事が伝わってきた、七夕伝説も中国から伝わってきたらしいが。七夕には笹に願い事を短冊に書いて天の川に願うのであるが、それは夜でないと叶わない。ところで、藪萱草は朝になると花を開き、夕方なると閉じてしまう一日花である。七夕の願掛けは夜の星空が対象である、星空が拝めない萱草では効力はないはずだ。だから七夕の日は萱草の厄日であろう。などなど、つまらぬ事など考えながら皮肉を込めて短歌を詠んだ七夕の夜であった。
2017.07.08
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もみじ葉も いと寂しかり 隠れ寺 古人の 影ぞ探せむ 浄至因幡で一番の古刹であろう、清徳寺を訪ねる。紅葉の名所であるのだが、やはり天候によりその趣は雲泥の差があるようで。今日は最悪であった。雲が厚く、薄暗く、今にも雨が降りそうではせっかくの紅葉もまったく映えない。開山が和銅2年(709)だからもう千三百年の歴史がある。と言っても、写真のごとく、今にも倒れてしまいそうな古い本堂だけの小寺ではあるが。しかし、あの信州善光寺の奥の院格を持つ。源平時代に平家の武将が必勝祈願にわざわざ訪れたり、当時の著名な高僧が修行していたとか、かなりの寺格を持つお寺のようだ。写真を5枚ほど撮影したら、急に雨が降り出したので慌てて帰路につく。なにしろ、山の谷の一番奥にあり近くに民家が3軒ほどの寂しいところ。住職も大変だろう。気取って短歌を詠んでみたが、どうも文法に問題がありそうだ。間違っていたらすみません。
2016.11.20
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すなおかをいくつこえしかなみおとのまぢかにきこえてうみまだみえず 枝野登代秋 歌低迷していた、鳥取県の短歌界の底辺を広げた優れた歌人であった枝野登代秋の歌。島根県の松江市出身であったが、鳥取市に移住してきて短歌の創作と指導をはじめ。鳥取短歌会の刊行誌【情脈】を発行はじめる、昭和3年のことである。昭和43年に没するまで、一生を短歌に尽くした偉人である、彼の歌碑が砂丘西入口にある。彼がいなければ鳥取県の短歌界は低迷したままであっただろう。彼が歩いたであろう砂丘を歩いてみながら一句詠んでみたが、どうにもならぬ出来だった。踏みしめて砂丘の記憶や秋日和 浄至
2016.10.20
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にじみ出る花の香侘し長雨の金木犀の匂ひ残さず 浄至 吟秋雨前線の影響で長雨が続く、9月もあと2日。庭に金木犀が咲いているのに気がつく。雨ばかり気になって天ばかり見ていたからだが、いつ咲いていたのかな。金木犀の香りは雨に弱くて、匂いが雨に消されてしまうらしいからか。花もさぞかし、匂いがいのないことだろうに。我が家は現在改修のため大工さんが工事中、そちらに神経使っていて投稿まで気がまわらず。数日間お休みしてました。その間に季節はさらに秋が深くなってきたようだ。
2016.09.29
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そば畑紅一点ありひがん花虫の音聴きてまた赤々と 浄至今日は久しぶりの晴れ、もう5日ぶりの好天気。某寺院にて研修あり出席する、テーマは【領解文】を読みその本質を理解する。参加者の多くが、この久しぶりの晴れの日に本堂に籠もるとはもったいないの口調。どうやら、稲刈りに迫られていて気になるらしい。度重なる台風と長雨に、すでに終わっていなればならない稲刈りが遅れているようだ。この週末を狙っているようで、雨が降らなければいいが。帰りに蕎麦畑の側を通ったおり、畑の畦に彼岸花がポツンと咲いている姿を見付ける。やけに気になったので撮影した。帰って一句ではなく一首をヒネってみたが。
2016.09.23
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台風の行方求めて雲流る 窓打ち鳴らし雨音去りし 浄至今日は台風でよく荒れた、最接近した午後1時半頃には和歌山県に上陸したとか。その頃の風雨が一番強く、風速20mくらいの風に視界50mくらいの猛烈な雨だった。各地で洪水警報が発令されていたようだが、幸い鳥取県では避難勧告までは出なかった。午後4時半頃には急に静かになり、雨は弱く風も微風になる。ニュースでは台風は三重県から遠州灘に抜けた模様とか。これから東海地方から関東にかけて荒れそうだ、大丈夫かな。久しぶりに短歌を詠んでみた。
2016.09.20
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心荒ぶる 白兎の守の 喜雨ならば 御簾草なくば 尊ぞ哀れ 浄至 (うらさぶる はくとのもりの きうならば みすくさなくば みことぞあわれ)ひさしぶりに今日は雨、喜雨に草木は喜んでいるだろう。しかし御簾草(みすくさ・ガマの穂の別名)がなくばさぞかし大国の主の尊が悲しむだろうに。喜雨よ、もし白兎の守護神ならば、ガマを蘇らせてくれ 初めは俳句にしたが、心荒ぶる は和歌によく出る言葉、仕方ないので和歌っぽく短歌にした。久しぶりに白兎神社に参拝する。この神社のご祀神は勿論【因幡の白うさぎ】である。古事記にも掲載されている、あまりにも有名な神話の主人公。先日、このブログで白兎とガマの穂が俳句になっていたので気になって参拝する。神社には興味はないが、ガマの穂が年々減って来ているらしいと聞いていたので。神社のすぐ前の池は【不増不滅の池】と言って、不思議にどんな大雨になろうと、日照りが続こうと、池の水面が一定しているのでこんな名前がついたとか、またの名を【御身洗しの池(みたらしのいけ)】と呼ぶ。サメに身の皮を剥がれた白兎が、ちょうど通りかかった大国の主の尊に教授され、この池の水で身を洗いガマの皮で包むと元の身体に戻ったという童謡の通り、それがこの池である。周囲60mくらいの楕円形の池で、周囲にはガマの草がうっそうと群生していたようだが、現在はほとんど見えない。原因はよくわからないが、もし尊が眺められたら、さぞかしお嘆き召されただろうに。
2016.07.26
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憂き日々を数え尽きぬぞ忘れ草 浄至 うきひびをかぞえきれぬぞわすれぐさ 季語は夏 忘れ草=藪カンゾウの別名 (万葉集) 忘れ草 我が紐に付く 香具山の 故りにし里を 忘れむがため 大伴家持 わすれぐさわがひもにつく かぐやまの ふりにしさとを わすれむがため 今日は六月尽、六月最終日であることに気がつく。明日から七月、もう一年も半分終わり、早いような遅いような。そして旧写真俳句ブログから楽天ブログに引っ越して来てちょうど一年となる。その間に半年ばかり休眠していたため、それほど投句の数がないのが気になるが、それでも駄作とはいえよく続いているものだと苦笑している。下手の横好きとはこのことか。それではと日付が変わらないうちに、記念にもう一句投稿することにした。この一年の俳句を振り返ってみると、お世辞にもうまいとも思えないし、後で自分なりに添削しながら後悔ばかりしていた。下手な鉄砲数打ちゃ当たる で、まあまあかなのものもあるかもしれないが。そこで過去の俳句は忘れることにして、それに因んだ句にしようと考えた結果。大伴家持の和歌から引用させて頂くことにした。この和歌を現代語約で読むと、『この花を着物の紐に付けておくと嫌なことを忘れさせてくれるそうだ』 の意味らしい。この花の名は【忘れ草】現在の藪カンゾウの別名。ちょうど藪カンゾウの写真を昨日撮影していたので幸いとばかりに使った。【忘れ草】とは、中国の故事から付けられそのまま日本に輸入されたようだ。これで数ある駄作を忘れてしまう事にしよう。
2016.06.30
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