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GASLIGHTGeorge Cukor白黒113minシャルル・ボワイエ/イングリッド・バーグマン寸評:特別古い映画としてみるのではなく、現行品として見ても十分に鑑賞に耐える作品。同じサスペンスでも、結局のところ心理描写に深みのないヒッチコックよりも、こちらの方が好みだ。イングリッド・バーグマンはスウェーデン時代のもっと若い頃の方が好きだが、ここでも実に美しい。シャルル・ボワイエの悪役ぶりも見事。原作はパトリック・ハミルトンの戯曲で、同じ人の戯曲『ロープ』はヒッチコックが映画化しています(1948)。この『ガス燈』も4年前の1940年にイギリスでソロルド・ディッキンソン監督で最初に映画化されているので、こちらはリメイク。読んでいないのでわかりませんが、構成・台詞などがもともとしっかりしているのだと思います。そう言えば今年アメリカで再度リメイクされるとか。時代設定はどうするのでしょうか。ガス燈を活かすには現代ではなくやはり19世紀末にする必要もありそうですが。昨今のアメリカでのリメイク、それほど見てはいませんが評判はあまり芳しくないないものが多いですね。1940年のイギリス版はまだ見ていませんが、このキューカーのアメリカ版リメイク映画『ガス燈』は立派な映画でした。それを支えていたのはやはりイングリッド・バーグマンの美貌と演技でしょう。もちろんシャルル・ボワイエの悪役ぶりも見事。バーグマンの魅力は、ここではやはり「目」でしょうね。恋の喜びを表現したり、精神的に追い詰められた不安を表現したり、目、目、目ですね。本人の演技か監督の演出かはわかりませんが、最初の方のコモ湖畔のホテルでのキスシーンで、キスをしながらボワイエの肩に置かれた右手を首の後ろの方へ巻き付けていく手の動かし方、こんなところも微妙に巧みな演技です。ゾクっとします。19世紀末のロンドン。早くに両親を失ったポーラは叔母で有名なオペラ歌手アリスに育てられていたが、ある夜物音を聞いてポーラがサロンに入っていくと、叔母アリスが首を絞められて死んでいた。捜査はされるも犯人はわからなかった。同じく声楽を学んでいたポーラはこの忌わしい事件を忘れるべくイタリアに転地していく。イタリアで声楽のレッスンを受けているポーラ。この映画は昔むかしに既に見たことがあると思っていましたが、たぶん勘違いだったようです。ここで歌われているのがドニゼッティの歌劇『ルチア』の有名な「狂乱の場」。自分はオペラ好きなので、こういう場面があれば記憶に残っているはずだからです。教師はポーラに悲劇が表現できていないと指摘する。ポーラはグレゴリーと熱烈な恋愛中で「悲しみ」の表現ができないというわけです。ところでドニゼッティの『(ランメルモールの)ルチア』の「狂乱の場」なんですが、家族の敵対関係などがもとで、色々策略があって別の男と結婚をさせられたり、誤解もされたりして、結局好きな人と結婚できなかったルチアが発狂して、好きな人との結婚を妄想しながら演じられるこのオペラのクライマックスです。これが後のポーラの狂気を仄めかしていると捉えるのは考え過ぎでしょうか。さらにポーラが重要な話があると教師と話をしますが、彼女とグレゴリーとの恋が話題になる瞬間からグルックの「妖精たちの踊り」がバックに流れる。この曲はグルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』の中の曲だから、(ネタバレになりますが)オルフェの物語のようにポーラとグレゴリーの悲恋が仄めかされているようにも思いました。ポーラは幸せのうちにグレゴリーと結婚しますが、グレゴリーはロンドンに住むのが夢だったと語り、ポーラが死んだ叔母アリスから相続した、しかしあの忌わしい思い出のある家に住むことになります。幸せなはずのロンドンでの暮らしですが、彼女は物忘れや勘違い等を夫に指摘される。サロンの絵を外して隠し、ブローチがなくなり、夫の時計を取って隠し等々身に憶えのないことを事実として夫に指摘される。彼女は病気だからと、夫は人に会うことからも外出することからも彼女を避けさせ、結果的に家の中で不安が増幅され、段々ますますおかしくなっていく。夜に夫が外出すると部屋のガス燈が触りもしないのに暗くなったり、誰も居ないはずの屋根裏部屋から足音が聞こえてきたり。一方その頃少年のとき歌を聴いてポーラの殺害された叔母アリスのファンになった警部キャメロン(ジョゼフ・コットン)は、ロンドンに居を構えたばかりの頃のグレゴリー/ポーラ夫妻をロンドン塔で見て、迷宮入りになっていた殺人事件を調べ始め、グレゴリーを監視するようになる。またアリスがとある王侯貴族から贈られたダイヤモンドも消えていることを上司に教えられる。(以下ネタバレ含む)ポーラの精神が段々に病んでいく様子をバーグマンは見事に、また美しく演じている。キャメロン警部に真相を聞かされるとき、キャメロンに聞かされることを一方では現実として受け入れなければという思いがある。キャメロンの指摘は筋が通っているし、夫が信じ込ませようとしたように精神病の母親の血を引いていて自分も頭がおかしいというのを否定してくれる、つまり自分が正常だということになる。しかし他方それは夫の自分に対する愛を否定することでもある。こんなどちらも簡単には受け入れられないアンビバランな感情、しかも半ば夢か精神衰弱の中でそれを表現すること、恐ろしいほどの名演で、アカデミー主演女優賞も頷ける。最後の夫との対決では、半分は精神病を装いつつ、また実際に半分は自分でも良く分からなくなっていて、そして愛を裏切られた現実を受け入れると同時にそんな夫に復讐するかのような行動と言動。こうした微妙と微妙をかけ合わせたような心理を、強さと弱さを共存を、惚れ惚れする美しさの中に表現している。この映画の後バーグマンは仕事も家庭も捨ててロッセリーニ監督のもとに走るわけだけれど、そうした彼女の内なる情念の深さがあってこその演技なのでしょう。(以下完全ネタバレ)これはもともと戯曲、つまり舞台劇。お芝居っていうのはストーリーを知っていても何度も観にいくものですね。そういう意味でサスペンスストーリーではあるけれど、結末まで書いてしまっても良いでしょうか。謎解きを書いてしまいます。グレゴリーはプラハのピアニストで妻子もあった。プラハでアリスの伴奏をして、アリスが贈られたどこかの王室の王冠についていたというダイヤに魅せられてしまった。アリスを殺害しダイヤを奪おうとしたが、物音を聞いたポーラが来てしまい、ダイヤを奪うことなくグレゴリーは逃げた。ダイヤは彼の妄執であり、相続したアリスの家を持つポーラに近付いて結婚し、その家に住み、ポーラを狂人に仕立てて病院に入れ、屋根裏部屋に残されたアリスの遺品の中からダイヤを見つけだそうという計画だったのだ。しかしダイヤは見つけて犯行が完遂される直前にキャメロンに阻止されてしまうという物語。ガス燈が暗くなるワケとか、料理女中エリザベスの耳が遠くなければならないワケ、あるいは最後の夫婦対決の場面など、実に良く練られた本だ。物語として1つだけ突っ込みを入れると、グレゴリーはシャルル・ボワイエなわけだから美男だとしても、どうしてポーラに惚れられることが出来たのか、それがやや荒唐無稽な気がしました。ちなみに蓮っ葉な女中ナンシーを演じていたのはテレビ・ドラマ『ジェシカおばさんの事件簿』のアンジェラ・ランズベリー(当時17才)だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.07.13
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MOLOKH(MOLOCH)Alexandre Sokurov108min(桜坂劇場 ホールCにて)ヒットラーが愛人エバのいるベルヒテスガーデンの山荘を訪れ、滞在する1日を描いた作品。んんん~、やっぱり駄目だな。このソクーロフもボクにとっては、どうもたんなるペテン師ですね。騙しているということでは、ソクーロフは自分で自分を騙しているのかも知れない。その意味では一種のマスタ-ベ-ションですね。たまたま映像的感覚や映画的感覚が優れているから、それっぽいものを作るけれど、でもそこに騙されてはいけないような気がする。表面だけで中味は「ゼロ」とは言わないまでも、さして深いものは感じ取れない。感じとっている人は、好意的拡大・深遠化解釈をしているか、あるいはもともとソクーロフの持っている程度の思想や認識で満足している人ではないだろうか。この映画が1950年頃に、あるいは1960年頃に作られたのならまだわかる。一種の怪物としてヒットラーは神格化あるいは神話化されている面が強かったろうけれど。今では、知能や才覚のある、強いコンプレックスを持った「ごく普通の」人間が、たまたま状況との関連でああなり、あのように歴史を動かしただけだということなど、解り切ったことでしょう。社会の人々の持っていた潜在的欲求を極端な形で具現化したということは。その経緯を正面切って克明に描写するのなら、その映画が良く出来ていれば見るのも面白かろうし、またある種の人間理解や歴史理解につながるかも知れない。でも神秘的なヴェールに包まれた灰緑の映像で、ただそれを仄めかしているだけ。何故仄めかすかって言えば、実は思い込みの思考があるだけだから、仄めかすことで自分の中味のなさを(観客にも自分にも)誤魔化すことしか出来ないということでしょう。せっかく映像感覚は優れているんだから、レーニンだヒトラーだヒロヒトだって気張らずに、もっと自分の中にある下世話でも深く感じていることを映画にしましょうよ、アレクサンドルさん。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.10
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おそいひと aka LATE BLOOMERTuyoshi Shibata白黒83min(DV/35mm 日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)何時間か前に見てきました。非常に面白い映画でした。障害者が殺人鬼になるという物語を、実際の障害者が俳優として演じている。賛否両論は障害者ということに関してばかりだ。監督の意識に実際にあったかなかったは不明だが、ボクはこの作品に障害者ということから離れて、もっと普遍的な意味あいをも感じた。住田雅清という重度身体障害者の俳優の存在感と演技に圧倒された。(引用写真はちょっと恐そうですが、殺人シーンなどもおどろおどろしいものではありません)。住田雅清(42才)、それは役者の名前であると同時に作中の人物の名前でもある。重度の車椅子脳性麻痺の障害者だ。こうした障害者とは一般に、健常者とここでは呼んでおくが、その健常者である我々にとって何なのだろう。街角でそうした障害者と出会うと、目を背ける、あるいは見て見ぬふりをする。それはなぜだろう。それは、大袈裟に言うと、我々が自分のアイデンティティーをそれによって持っている根拠を揺さぶられるからだ。我々は何らかの自己存在価値、別の言い方をすればプライドによってアイデンティティーを保っている。そしてそれには多かれ少なかれ他者との比較が根底にある。いくら自分のために勉強をしていると言っても、クラスで1番になったという誇りは、クラスの残りの生徒に勝ったということだ。こんなプライドにはもちろんピンからキリまである。みんなが持っているわけではないブランドもののバッグを持つのだってそんなプライドの一つ。それはオリンピックで金メダルを取ったというプライドと、プライドであるという意味での本質は何らからない。イケメンの女にもてる男は、そんな自分が嬉しいし、好きだ。もちろん人によって程度の差はあるけれど、「自分が他人より」、だからプライドとなる。全世界の男がみんな同じ顔、スタイル、声・・・だったらそれはプライドとはなり得ない。つまりはもてないブス男がいるからこそのプライドだ。そして「このブス男が!」と優越感を持つこともできるし、そんなブス男を公然とバカにする男もいる。ところがたいていの場合、障害者に出会うと、自分より究極にブスであると思えるはずの障害者を、バカにすることが出来ない。かえって自分の存在を後ろめたくも感じてしまう。つまりは、自分が「もてる男」として持っていたプライドは、障害者を前にすると根拠を無にされてしまうのだ。この健常者と障害者との間には一線があるのである。それが区別とか差別だ。だから障害者に殺人鬼を演じさせたという理由でこの映画に不快感を持つ観客は、その根底にこの「区別」や「差別」意識を強く持っているということだ。健常者が殺人鬼を演じても誰も文句は言いはしない(その映画内容批判は別の問題)。障害者への偏見を助長するというような理屈は、とってつけた理由でしかない。変なカッコウで、妙な歩き方をしている障害者を目にしたとき、目を背けるよりも、指差して大笑いする方が罪がない。なぜなら前者の意識には障害者と健常者を区別する「一線」があるのに対して、人を笑い者にするのは褒められたことではないけれど、後者の意識には「一線」がないからだ(もちろん単なる節度の無さである場合もあるけれど)。色々な価値観から我々は美しい物から醜い物まで、最良の物から最悪の物まで、様々なものをグラデーションを持った連続性のどこかに位置付ける。人だって同じなのだ。肉体的運動能力という物指しで計れば、グラデーションのいちばん下位の方に位置付けられるだけで、自分とは一線の別の側に存在するのが障害者ではない。その住田雅清演じる住田雅清42才。この手の障害者は実年齢よりも幼く見える場合もあるが、彼の麻痺の状態と同様、それはグラデーションの位置付けであって、42才の男性であることに変わりはない。一見子供っぽくも感じられるけれど、最後に俳優・住田雅清のメッセージを引用するように、知的レベルまで劣っているわけではない。普段はおばさんのヘルパーが来て料理等をやってくれる。他にデスメタルのバンドをやっているヘルパーとも言えるし、飲み友だちとも言えるようなバンドマンがいる。ある日そんな彼のもとに、卒業論文を書くために介護を経験したいと、女子大生の敦子が2ヶ月の予定で通うことになる。住田雅清は彼女が来る前から、「その娘はいつ来るの?」と内心わくわくしている。やって来てみると、敦子はなかなか良い娘。そしてそんな彼女に住田雅清は「叶わぬだろう」恋心を持ってしまう。3名のルームメイトと4人で暮らす敦子だったが、ある晩男の友だちも何人か来ていつものように騒いでいると、敦子の携帯が鳴る。彼女が出るとほとんど無言だ。住田雅清はボイス・ヘルプ・マシーンを使って意志を伝えていたが、話すことは出来ない。それを察して敦子はファックスの番号を教える。やがて電話が鳴り、ピーとファックスが送られてくる。「一発やらせてくれ。住田雅清」。戸惑いと怒りで凍り付く敦子。例えばケガをして身体がしばらく不自由で自宅療養をしていて、こんな女性が毎日介護に来てくれていたら、ボクだってその女性に恋をするかも知れない。でも違うのは、ボクがその女性と一線の同じ側にいるのに対して、住田雅清と敦子は一線によって、敦子の意識としては隔てられていることだ。だからボクならばファックスで「君が好きだ。racquo」と送ったであろう。そして仮に恋が実れば、結果としてセックスもするだろう。あるいは不幸にもふられたとしても、ケガの回復後にまた別の女性との恋もあり得る。しかしそんなストーリーは住田雅清にはあり得ないのだ。だからこその「一発やらせてくれ。」という直截の願いであって、彼が特にエロおやじというわけではない。愛と性は本来不可分だ。この一件の前に敦子が「普通に生まれたかった?。」と住田雅清に禁句である質問をするシーンがあった。何日も一緒に過ごして、一緒に彼の友人・ヘルパーのバンドのライブに行ったり、敦子にとって何となく気心が通い合っていたからの、悪気のない質問だった。その時ボイスマシーンで住田雅清は軽く「コロスゾ」と応じたけれど、「普通」という言葉は「普通」と「普通でない」、つまり健常者と障害者という区別の意識を敦子が持っていることを示しているわけだし、「一発やらせてくれ」というのは、彼の偽らざる欲求であるだけではなく、自分を一線で区別している敦子に対して、同じ側、というより連続性の中に自分がいることの受容を求めたのだ。こうして、今までは自分の境遇を何とか受け入れてバランスを保って生きていた住田雅清は、健常者に対する憎悪を無差別殺人という形で出していくことになる。映画は、社会の中で自分ではどうすることも出来ない不遇を持たされた住田雅清が、無差別殺人鬼になっていく過程が描かれていた。冒頭にも書いたように監督にその意識があったかどうかは解らないけれど、障害者という枠を外してのテーマが、ボクには感じられた。良い悪いで言えばもちろん悪いのだけれど、色々な意味で社会の矛盾や不備によって、ここで言う意味での健常者であっても、出口無し(と本人は感じている)不遇に置かれた人々がいる。そんな不遇は、生まれ落ちたときからの全ての偶然や必然の出来事の積み重ねであって、必ずしも本人の責任ばかりとは言えない。そしてその人が持つようになった憎悪は、やはり無差別殺人という結果をも生む。昨今の各地の無差別殺人、通り魔殺人事件。そうした事件(あるいは犯人)を生む本質と過程を描いたメタファーとも受け取れる物語なのだ。健常者による障害者差別が、障害者の憎悪を生み、無差別殺人を生む。この一線による区別が無かったら、住田雅清は敦子に失恋しても殺人鬼にはならなかっただろう。それは健常者の通り魔殺人犯も同じなのである。ある方の日記 へのコメントととして書いたことだが、社会の中での不利益な立場は、それが集団としてまとまっていれば、フランス革命とかロシア革命となる。しかしその背景にある社会の矛盾に苦しむ個人が、集団とならずにバラバラに憎悪を持ったとき、それはこのような事件になるのではないだろうか。以下は、映画のチラシにあった、俳優・住田雅清のメッセージです。「はじめまして、住田雅清と申します。私は、言葉が全くしゃべれず、現在トーキングエイドを使用してコミュニケーションを図っている重度の車椅子脳性麻痺者です。この度『おそいひと』という映画に主演俳優として出演しました。この作品の中で、私は殺人犯を演じています。『障害者が殺人鬼として登場するから、障害者差別を助長する』と感じる方たちもおられるでしょう。日本の映画で今まで殺人を扱った作品は無数にあると思います。この『おそいひと』はその一つに過ぎません。障害者というだけで、過激な表現が暗黙の了解のもとに制約されてきた日本映画界において、障害者が常軌を逸した人物として登場するこの映画は、強いメッセージを持ち、且つ優れた文化作品だと誇りを持って言えます。困難なことかも知れませんが、障害者が自分たちの文化を取り戻す作業が必要だと思います。障害者も障害者の世界に閉じこもらず、もっといろいろな人たちと協力し合い、文化創造を力強くしていかねばならないと思っています。」監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.15
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UNE VRAIE JEUNE FILLECatherine Breillat93min(DISCASにてレンタル)決して単純に広くオススメできる作品ではない。カトリーヌ・ブレイヤの初監督作品だが、物凄くインパクトのある力強い作品。他の映画数本のレビューを書きかけだったのだが、この作品に圧倒されてそれらが脇にすっ飛んでしまった。短く要約するなら、「真摯で赤裸々で妥協のない、あるフェミニズムの主張」とでもなるだろうか。まずは性懲りもなくタイトルのことから。この映画の原作はブレイヤ監督自身の小説『Soupirail』(1974)。西洋建築でほぼ90%ぐらい地面の下に埋まった地下室の、地下室内部から見て壁の天井すぐ下にある高さの低い明り取りと換気のための小窓が soupirail だ。小説は読んでいないが、息の詰まりそうな閉塞感と、そこにあるほんの少しの外界との接触を暗示しているのだろうか?。そして映画の原題を日本語にすると、「本当に」ではなく「本当の若い娘」だ。フランス語の fille という語は英語の daughter と girl の意味を合わせ持った単語だが、品のある言葉遣いでは、daughter の意味であることが明白な場合を除き、fille 単体では使われない。小さな娘なら petite fille や fillette と、若い娘なら jeune fille と言う。fille 単体では娼婦のような意味になってしまいかねないのだ。そんなわけで乙女とか若い娘の場合にはこの映画のタイトルのように jeune fille(ジュンヌ・フィーユ)を使う。なのでこの映画のタイトルの意味するところは「本当の若い娘はこんなもの」といった意味で「本当に "らしい" 若い娘の実像」と捉えるのが正しいのではないだろうか。この映画の時代設定は1963年夏。撮影されたのは1975年。公開は四半世紀後の1999年だ。ブレイヤ監督は1948年生まれだから、1963年というと彼女が14、5才であり、正に映画の主人公アリスの年令。映画の背景にある社会は1970年代のものでもあり、そういう二重の同時代性を持った作品。ブレイヤ女史の初監督作品だが、内容の過激さと資金の問題で公開がずっとされなかったのが、『ロマンス ×』の公開と合わせて公開されたらしい。主人公14才の本当の若い娘の名はアリス。これは描かれる世界はかなり違うが、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を念頭に置いてのことだろう。ヘアバンドをしたアリスの姿の少女性はなんとなくキャロルのアリスを連想させる。1963年夏。ボルドー辺りの寄宿学校に入っているアリスは休みになるとボルドー市の南、フランス南西部大西洋岸から内陸に広がる森林地帯ランドの両親のもとに帰省する。一人っ子の彼女にとって両親とだけの、長い夏休みの生活は息が詰まる。既に小さな女の子ではなく、しかしまだ大人の女にはなっていない中途半端な状態。胸などの発達は年令よりも進んでいる。最近かしばらく前か生理は始まっていて、頭ではなく体の中には、蠢く生や性があり、しかしそれをまだ消化は出来ないでいる。この内部と外界との流通が未消化とも言える。先に書いたように Soupirail という原作小説の題がそれを象徴しているだろうか。あるいは最初の晩彼女は自室のベッドで理由もなく嘔吐するが、これも内部が外界に溢れ出ている象徴だろう。家に到着してすぐの食事のとき、もちろん両親もいるのだが、彼女はスプーンをわざと床に落とし、テーブルの下からそれを拾いながら股間に入れる(あてる?)。これは『不思議の国のアリス』の小さな金の鍵なのかかも知れない。妄想と現実の世界の旅へと彼女は入っていくのだ。物語にはストーリーと言えるほどのこともない。ランド地方だから松材の製材や松脂採取を業とする父の会社でジムなる若い青年が働き始める。彼女は追いかけるけれど、まだまだ幼いからか、彼には恋人がいるからか、無視され続ける。ジムは解雇されるのだけれど、やっと彼女は彼の関心を惹くことが出来た。そして・・・、なのだけれど(ちなみにラストは他のブレイヤ作品と共通)、それよりも途中に描かれる彼女の行動や、妄想や、日常の風景がちょっと過激。蠅取リボンにくっついたたくさんの蠅の死骸やまだ動いている蠅。ニワトリに啄まれて死んだネズミ。産み落とされたばかりのタマゴを手で握りつぶすアリス。田舎だから食べるためには当たり前なのだけれど、飼っているニワトリを絞めて内臓を出す様子。地面に捨てたその内臓を啄む他のニワトリ。遊園地の乗り物で隣合わせて座った中年男性がアレを露出してしごく様子。彼女が死んだ魚のようだと形容する白い液体を射出したあとの萎えた男性のアレ。砂丘で若い女を抱いた父親が外の射出した後にハンカチで拭く萎えたアレ。股間を露出した姿で地面に縛りつけられ、ジムにミミズで攻められる妄想。この少女が変態なのでは決してない。「本当に "らしい" 若い娘」がすべてこういう妄想をするとは言わない。しかし目覚めてから起きた自分を把握するまでのたった1秒か2秒の心理、生理を数ページにまで増幅した書いたのはプルーストだ。自分の内部に蠢く生理的状況を詳しく捉えて描写すればこういうことになるのではないだろうか。男性にあるのが射出欲求と頭での妄想であって、比較的(いやごく)単純なのに対して、女性のそれはもっと生理的感覚が絡んでいるから複雑だ。男性である自分は実感としてそれを感じることはできないから、あくまで想像する女性の世界であって、ボクがこんなことを書いているのはおかど違いかも知れないが。父親は上記のように若い女性とよろしくやっているのだけれど、そんな彼は支配的であり、男尊的であり、白い液体で汚れたパンツやズボンを平気で妻に洗濯させている。フランスにおける、特にこの映画の二重の同時代である60年代、70年代にはまだ、そして都会の知識層よりも田舎の庶民層では、古いフランスとしての男性支配の社会は、現在我々が日本で感じるそれよりも遥かに強固だ。そしてそれを支えているのは被支配の女性でもある。ほんの一部ブレイヤの原作小説の一節を引用しよう。映画の中では、自転車で近くの町まで足をのばすようになっていたアリスについて、保守的(で実は欲求不満でもある)商店のおばさんがアリスの母親に告げ口的イヤミを言った場面(エイスタンレギー夫人というのは商店の女だろう)。(アリスは)もう小さな子供ではないでしょう。それを強調して、恐らくエイスタンレギー夫人はアリスを母親がもっとしっかり監視し始めた方が良いと仄めかしたのだ。それはアリスの母の心に、娘を監視することが当然の行為だという第二の気持ちを芽生えさせたが、それが執拗であったので、決して母が言うことを変えさせることはありえなかった。その母の決定的な言葉とは、生理が始まったことは娘の魂が膿み始めたことなのだから、バカロレア(大学入学資格試験)も近付いているこの時期に、悪徳であり危険でもある悪い習慣を持たせるべきではなく、娘を家から遠くへ外出させることをしてはならないということだった。これはもちろんポルノではない。きわどいかも知れない描写(と言っても行為はさほど描かれはしないが)はあっても、むしろポルノとは正反対のものだ。ポルノというのは既成の性関係の思い込み(男性の支配や女性の能動的被支配)を描くものだが、この映画はその否定を目的としている。まだ大人に成り切る前の子供が、感受性が強いゆえに、大人の女性になる前に、つまり既成の男性支配の男女観に染まる前に感じる身の内に蠢く生や性の真実と、実際の男女の実態を対比で描くことで、現在の男女関係の信仰に問題提起をしようという作品なのだ。ブレイヤの作品はその後のものもすべて関連のテーマの周囲を徘徊しているのだけれど、仮にブレイヤの思いが特殊なものであったとしても、それを一つの主張と受容できない観客(男女とも)の心理の中には、既成の欺瞞を正当なものとして固持したいという抵抗があるのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.02.16
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LA RIFFAFrancesco Laudadio90min(DISCASにてレンタル)時間がない日々だし、パソコンも仮環境で鈍いし、DISCASの予約リストには7ページ249本もの作品を入れてしまっていて、その管理もかなりいい加減になっている。なのでかなり意図的に上位に移動した作品以外は、何が送られてくるかあまり気にしていない。DISCASの予約リストがフォルダ分け出来たら良いのになんて思ったり。基本はフランス映画をなるべく見たいのだけれど、いつの間にやらイタリア映画が送られてくることが多くなりました。そんな経緯で送られてきた作品。1990年にテレビ映画等2本( Vita coi figli と Briganti )に端役で出演していたのを除けば、たぶんモニカ・ベルッチ初の主演長編劇場作品だと思います。今とあまり変わっていませんね。昨日の日記のカトリーヌ・スパークが十代でアイドルだったのに対して、ベルッチはこの映画のとき既に25~26歳で、大人になってからの女優さんなんですね。この映画を見たのは昨年暮だったのですが、あまり大した作品ではなく、レビューも書かないでいたのですが、ある意味昨日の『女性上位時代』とつながると言うか似ているので、感想を書いてみることにしました。昨日の『女性上位時代』と何が似ているかというと、どちらもイタリア映画で、どちらもカトリーヌ・スパークなりモニカ・ベルッチを見る(見せる)ためのような映画で、そして何よりもどちらの映画でも夫が突然死んで冒頭からカトリーヌもモニカは後家さんになってしまうというプロットです。違いは2人が未亡人になってからですね。カトリーヌはもともとの自分の家の財産や夫の財産がたくさんあって、これからも贅沢な暮らしがしていけたのに対して、モニカの方は夫が借金残して死んでしまって、それまでのお金持ちの生活からいきなり路頭に迷う(ちょっと大袈裟?)ことになってしまうこと。おまけに幼い子供も一人抱えている。同様な映画は他にもあるだろうから、この2本だけを比べて論じること出来ないかも知れないけれど、1968年から1991年という二十数年の間に世の中が変わったなという印象。より現実的で、辛辣な条件が主人公の未亡人に課されている。アイドル映画なんていうのはネオリアリスモなんていうのとは対極のような世界だけれど、観客である大多数の人々にとってより自分にも近い境遇が描かれるようになった。一生遊んで暮らすこともできるようなお金持ちの世界は観客にとっては無縁の世界で、そういう物語では観客は満足しなくなったという側面があるような気がします。どちらの映画もほとんど夫は登場しないまま映画が始まるのすが、これは一つにはベルッチやスパークを見せるアイドル映画としては当然かも知れないけれど、男性ではなく女性を主人公にするということ、女性の立場から男性主導社会を見るという視点が、昨日イタリア映画について書いた既成ジェンダー観への諷刺を作品に盛り込むためのような気がしてなりません。物語はそういうわけで、実業家の夫が死んでみたら、遺産で子供と二人暮らせるどころか、家賃は1年分以上未払いだし、子供の保育園のお金も払っていない。彼女は家具・洋服・宝飾品等売れるものはすべて処分し、広いマンションはがらんどうになる。彼女は紹介してもらって、かつては自分も顧客だった高級服飾店の一介の売り子になるけれど、そんなことで多額の借金の返済も出来るはずはない。子供の保育園を維持しようというのは当然として、家賃も高いであろう広い高級マンションを出ないのが面白いですね。それは単に「思い出が・・」とかいうことではないのでしょう。衣食住の住(家)というのはヨーロッパの人にとって生活の基盤、単に住という機能としての基盤ということ以上に、ライフスタイルや、ひいてはその人のアイデンティティーとも関わるような、物理的&心理的基盤という性格があるのではないでしょうか。イタリア人監督ベルトルッチの『シャンドライの恋』でもピアニスト・作曲家でもあるキンスキー氏はシャンドライの願いを叶えるために、家具・調度から始めてピアノまで売ってしまって広い住居はカラになってしまうけれど、家自体は売らない。ローマのスペイン広場の裏にある4階とか5階建ての家一軒だから、これを売ってしまえばピアノまで買い叩かれて売らなくとも、別に立派な家を買うことぐらいできるはずだけれど、それはしないんですね。この映画でモニカ・ベルッチ演ずる後家さんフランチェスカは、若いし美人で妖艶だし、男にはもてる。それで、映画の原題は『La Riffa』で、懸賞 とか くじ とかいうい意味なんですが、彼女はある案を思い浮かんで実行に移す。金持ち20名に1口1億リラでくじを売る。賞品は彼女を4年間独占できるというもの。ところが警察だか検察だか当局にばれてしまう。しかし彼女は頭が良いと言うか、したたかで、実は当局に密告をしたのも彼女ではないのかなんて考えたくなるような見事な結末で映画は終わります。ネタバレはしないでおきますが。まあ金で女を手に入れようというのは男の身勝手と言えば言えなくもないのですが、それを女が手玉にとるというストーリーは、やはり昨日も書いた意味での男女観に関する諷刺が入っているのでしょう。最後になりましたが、この映画はそこそこ楽しめますが、どなたにも特にはオススメはしません。ベルッチの男性ファンにもあまり勧められませんね。アイドル映画として昨日のが満点だったとすれば、こちらはそういう見方で採点しても及第点は無理かも。中途半端な作品です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.21
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LE SALAIRE DE LA PEURHenri-Georges Creuzot白黒148min(レンタルDVD) 気になっていた名作の誉れ高いこの作品、しかし1952年製作というとどうしても近付き難い。この時代の映画には、名作でることはわかっても、現代の自分としては生では楽しめない作品も多々あるからだ。今回友人がレンタルしてきたのを見たが、たいへん面白かった。 中米メキシコの近くという設定だろうか(撮影は南フランス)、ラス・ピエドラスという町。ヨーロッパ本国を何かの理由で逃げてきた人生の失敗者たちの吹きだまりの町。石油発掘に進出してきたアメリカの石油会社関連以外は仕事もなく、飢餓・害虫・猛暑・悪疫・失業で人々は死んでいく。アメリカの石油会社もアメリカ本国から来ているアメリカ人以外の人材は営利のために使い捨てで、その生命など虫けらほどにも思っていない。町を出るには旅費やビザも必要だが、仕事もないのでそんな金はない。モンタンが言うように「入るのは簡単だが、なかなか出ることの出来ない監獄のような」町なのだ。2時間半の映画だが、町のバーに集まるそんな男たちの倦怠、焦燥感、希望のなさ、諦念、そうしたものをクルーゾー監督は最初の1時間でしっかりと描く。 後半はニトログリセリンを、トラックで悪路500キロ先の山中まで運ぶという命を賭けた一獲千金のサスペンス&パニックが、極限状況下で人間の本性が露になる男のドラマとして描かれる。最初の1時間で描かれた4人の男たちの性格描写や人間関係の描写、これがこのサスペンス部分に血と肉を与えており、それがなければ昨今のアメリカ映画的パニック映画でしかない。そしてラストはさすがにクルーゾー監督。人間を洞察した辛辣なものだ。 やや以下ネタバレになるけれど、ラストに至る流れについて感想を書こう。2台のトラックに各2名の運転手、計4名が成功報酬1名2,000ドルで危険な旅にでる。ちなみに1ドル360円の時代だから単純計算で72万円であり、1日程度の仕事だろうから物価を考えればかなりの大金だ。マリオとコンビを組むジョー(シャルル・ヴァネル)は落ちぶれたかつてのヤクザの大物。マリオが何故この地にいるかははっきり説明されないが、逃げてきたことだけは確かだ。マリオはジョーに町のことを説明するのに「監獄」という比喩を使うが、彼は(本物の)監獄にいてしかるべき過去を持つとも言えるのではないだろうか。つまりこの一獲千金の危険な旅とは脱獄に他ならない。そしてそれに彼は命を賭けたのだ。もともと事故で燃え続ける油田を救おうなどという気持ちなど決してない。また彼を愛するゆえにマリアに祈り、出発を断念させようとするリンダ(ヴェラ・クルーゾー)をも振り切って出発する。町(=監獄)に幽閉されていることは当然の身であり、そんな中で彼を真実熱愛する女を与えられていながら、それをモ捨てての脱獄だ。彼は過去と現在の罪を精算しなければならないのであり、簡単なハッピーエンドが彼を待っていたのでは絵空事のサスペンス物語に堕してしまう。ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』もそうだったが、人間の行動に対する当然の、あるべき報い、根底にそういう哲学のあるラストなのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.23
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IRREVERSIBLEGaspar Noe99min寸評:好きな映画か?、人にお薦めの映画か?、楽しい映画か?、もう一度見たい映画か?、と問われれば NO と答えるだろうが、あって良い映画か?、評価するか?、名作か?、真面目な映画か?、できれば見て欲しい映画か?、と問われれば YES とボクは答えるだろう。強姦と暴力を扱った映画だが、モニカ・ベルッチの役が女性なのに アレックス と名付けられている点と映画ラストにベートーベンの交響曲が流れる点が、この映画を解釈するポイントかもしれない。映画を見てひとときの楽しみを得ようという向きには決してお薦めはしない。特に映画とはストーリーを語り、演じるものだと考える人にはお薦めできない。原題は IRREVERSIBLE(不可逆的な、元に戻せない、取り消せない)。日本題『アレックス』はモニカ・ベルッチの演ずる役の名前だが、本来女性の名前ではない。では何故アレックス?。想像するに『時計じかけのオレンジ』の主人公の名前からきている。このキューブリックの傑作の中でマルコム・マクダウェル演じるアレックスはその暴力性の精神改造治療のために椅子に縛りつけられ、まぶたを開いたままに固定され、残虐な映像を無理矢理長時間見せられる。BGMはアレックスの好きなベートーベンの第九交響曲。治療の結果アレックスは暴力の衝動が湧いたりベートーベンの第九を聞くと吐き気を催すようになる。ギャスパール・ノエのこの映画はいわばこの『時計じかけのオレンジ』のアレックスの位置に観客を置く映画なのだ。映画の最初の30分間には28ヘルツの超低音が鳴っているらしい。ヒトの可聴域ギリギリのこの低音は必ずしも耳では聞こえないが、胸郭から知覚され、ヒトに吐き気やめまいを催させると言う。(以下完全ネタバレ)物語はいくつかのシーンが時間的に逆行して描かれる。それを時間順に立て直してストーリーを書いてしまおう。かつてピエールと恋人(夫婦?)関係にあったアレックス(モニカ・ベルッチ)は今はマルキュス(ヴァンサン・カッセル)と暮らし幸せな日々を送っていた。どうやら妊娠したらしい。ある晩ピエールと3人で一緒に行ったパーティーでマルキュスはドラッグとアルコールで羽目を外していた。そんな彼を見てアレックスは家に帰ると言い出し、一人では危険だとマルキュスやピエールが送っていくと言うがそれを断って彼女は一人外に出る。タクシーに乗るため広い通りを渡ろうと横断地下道を使うが、そこで男に襲われ、強姦された上にボコボコに暴行を受けてしまう。ピエールとマルキュスが外に出るとパトカーや救急車が来て騒然としていたが、2人はアレックスが襲われたことを知り、血だらけのアレックスが救急隊に運ばれるところだった。そんな2人に話し掛けたのは地域を島にしているというチンピラ。「警察に任せたって犯人が捕まるかどうか分からないし、捕まったところで刑務所に入るだけだ。オレ達に任せれば警察より先に見つけ出してやるから、復讐すればいい。」と取引きを促す。そして浮上した人物はル・テニアというホモでポンビキの男。マルキュスはピエールを無理矢理連れてそのル・テニアがいるというホモSMクラブ ル・レクトゥム(=直腸)に潜入するが、SMゲイプレーで渾沌とする中をマルキュスはル・テニアを狂ったように探し回る。マルキュスは腕をへし折られ、犯されそうにもなるが、ル・テニアは別の男に消化器で頭をめった打ちにされて息絶える。警官隊が来て男は逮捕され、暴行を受けたマルキュスは救急車で運ばれていく。既に書いたように映画は時間を逆行して進むが、まず娘を強姦して服役していた脂ぎったデブが部屋で男に語っているシーンから始まる。外が騒がしくなり、ル・レクトゥムの事件のシーンとなり、そして更に逆行してル・レクトゥムでの暴行シーン。そしてアレックスが地下道で強姦・暴行を受けるシーンとなる。このル・レクトゥムでの過激な暴行シーンや9分とかの映画史上最長の強姦シーン等が批判された。しかしそういう現実があることを観客に示すことが必要なのだ。まさに観客は『時計じかけのオレンジ』のアレックスの位置に置かれる。肌を露出した服で深夜の街に一人で出るアレックスを自殺的行為だと言う人もいるが、正に物語のこの 平凡性 こそが不可欠な点で、特異な物語では強姦や暴力の現実を普遍化できない。そして時間は更に逆行して幸せだったアレックスとマルキュスが描かれ、妊娠を確認して喜びに浸るアレックス、そして昼間の公園で明るい服を着たアレックスが日光浴をしていて、周囲には戯れる無邪気な子供たちが描かれる、平穏な明るい世界の描写に戻って映画は終わる。そして「時はすべてを破壊する」というテロップ。妻子が暴行されたり殺されたりして、夫が復讐をするという物語はよくある。しかしそういう映画はその夫の個別の物語を描くことになってしまうし、また場合によっては復讐のためということで正当化しておいて、バイオレンスを描くことが目的と思われる映画もある。そして最後に復讐が成功したとき観客はスカッとする。しかしこの映画は違う。最初の30分に吐き気やめまいを起こさせる28ヘルツの音が入っているように、過激な暴力や強姦のシーンを見せ、観客に嫌悪感を催させる。そして時間を遡って平穏で幸せだったアレックスやマルキュスを見せる。それによって観客は、現実に存在する暴力や強姦のおぞましさを再認識させられ、思い起こさせられ、考えさせられるのだ。地下道でアレックスが襲われかけているところで、長い地下道の遠い向こう側に現れた通りすがりの男が写される。しかし彼は事を避けて立ち去ってしまう。現実に存在する暴力を考えないようにしている多くの人々のあり方を象徴しているのがこの人物だ。そこから抜け出して必要な現実直視を促そうというのがこの映画の目的だと思う。そのためにはこの映画は マイナーな 映画ではならなかった。それでは 特殊な映画 で終わってしまう。だからモニカ・ベルッチやヴァンサン・カッセルという人気俳優の起用が是非とも必要だったのだと思う。また観客が見たくないと感じるような過激な暴力・強姦シーンがなければ映画の目的は達成されない。その観点からこの映画の過激な部分は正当化されると思う。また最後にベートーベンの交響曲第7番が流れるが、ここでも『時計じかけのオレンジ』への関連を監督は示している。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.20
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IL DESERTO ROSSOMichelangelo Antonioni寸評:アントニオーニ初のカラー作品、初期イタリア時代およびモニカ・ヴィッティ最後の作品。ヴィッティは美しいし、映画の完成度はほぼ完璧。この映画にはアクションが全くなく、テンポも超ゆっくり。だから合わない人には誘眠効果絶大。モニカ・ヴィッティ演ずる主人公ジュリアナが他者や世界と接点を見出せずに精神不安定の状態にありますが、何かがあってそういう精神不安定になることを描いたのでもなければ、その精神不安定からの回復を描いたものでもない。ただその精神不安定の状況自体を描いたとも言え、とりたてた出来事などは出てきません。ジュリアナは彼女と対になる人物コラドと出会う。正常な精神を保ちながらもコラドも同類。自分の問題の解決の糸口を見出すためもあってか、少なくとも他の登場人物の中で一人ジュリアナの孤独や不安を理解し、手を差し伸べるけれど、結局ジュリアナの状態は映画の最初と最後で何の変化もありません。アントニオーニ初のカラー作品で、普通には色のあるこの世界を無反省にカラーで撮ったのではありません。もちろん非現実的な色が出てくるわけではありません。全体を霧や煙や曇天の生彩のない背景の中に、大化学工場の配管やドラム缶などを赤等に原色で表現した。そのために息子に語るお話の空想の映像を除いて晴天の青空は出てきません。この撮影のために草や木の葉などの緑を、彩度の低い色に着色もしたらしいです。全体が彩度のない灰色の背景に、特に黄色は毒・死・恐怖を表す色として、赤は情欲や情熱を表す色として使われています。ちなみに画家アンリ・マティスにLA DESSERTE ROUGE(赤い食卓の下げもの)、日本ではたぶん「赤のインテリア」という絵画作品があって、アントニオーニはタイトルをここから取ったらしい。一場面でこの絵画と同じ画面構成が一瞬再現されています。(以下ネタバレ)ジュリアナの夫はウーゴは工場経営の大企業家。二人には10歳くらいの息子ヴァレリオがいる。普通的には幸せなはずの3人家族。ジュリアナは息子を連れて工場の敷地を徘徊している。工場ではストが行われていて、路上にはスト中の労働者の姿。その一人がハンバーガーを手にしている。ジュリアナは突然彼に近付き、店まで行けば買えるという男から問答無用で食べかけのハンバーガーを買い取り頬張る。そんな異様な彼女の行動から映画は始まる。夫ウーゴの旧友コラド。彼は父親を継いでやはり企業家だが、目的意識もなければ、ジュリアナ同様やはりこの世界や人々との接点を持てないらしい。工場内でウーゴはジュリアナにコラドを紹介する。コラドはパタゴニアに工場を起業するためのイタリア人技術者や労働者を募集するためにウーゴに相談に来ていた。ジュリアナは慣れない運転で事故を起こし、それ以来精神が不安定で入院していたとウーゴは言う。でもこの事故の話が本当なのか、それとも精神不安定でジュリアナが自殺をして入院し、それを隠すための作り話なのか、どちらかはよくわからない。とにかく彼女が自殺未遂をしたのは確からしい。退院した彼女は近くの小都市に店を開くと言うようになった。その店の彼女。まだがらんどうだ。そこをコラドが訪れる。何の店をするのか問われたジュリアナは、まだ決めていないけれど陶器の店にしたいと言う。現実的な営業意識など彼女にはない。コラドは自分の居場所が見つけられずに、これまで同じ場所に長く住んだことがない。引越してばかりだと語る。外に出た二人。そこは人は誰もいなければ、近くに商店などもない寂しい通りだ。商売などが成り立つ場所ではない。その日コラドはある技術者を訪ねてフェラーラに行くというのでジュリアナも同行する。訪れた技術者の家。妻が応対で出るが、この夫婦にも2人と同じような無目的不確かな生活を感じる。報酬が良くてもそのつもりはないと、妻はコラドの提案を断る。ある日港の岸壁に面した知人の小さな小屋別荘に集う人々。ウーゴもジュリアナもコラドもいる。酒を飲んで、ベッドだけの小さな小部屋での男女の乱痴気騒ぎ。ジュリアナにはここでも人々との接点が見出せない。寒いと言って暖炉に薪をくべるが、薪は足りない。たまたま狭いベッドの上でコラドが足で踏み抜いてしまった赤い壁板を火にくべる。次から次へと壁板を剥がしては火に。いちばん熱心なのはジュリアナとコラドだ。コラドは木製の椅子まで破壊して薪にする。2人にとって部屋の寒さは心の寒さの象徴でもあり、だから心の寒いこの2人が熱心なのだ。やがて岸壁に入ってきた大きな外国船。伝染病者の発生を知らせる黄色い旗が掲げられる。(余談ですが、調べてみたら黄色い船旗は「船上すべて健康なので、検疫を求む」という意味らしい。この辺はよくわかりません。)ジュリアナは恐怖から小屋を後にし、皆も車のところに戻るが、霧の中でただ不安そうなジュリアナを見守るだけの人々。突然一人車のハンドルを握ったジュリアナは岸壁を先端の方へ走り去る。コラドなどが行ってみると海に落ちる寸前で車は止まっていた。彼女は再び自殺を考えたのか。夫が出張で出かける。ある日息子のヴァレリオが脚が動かなくなったと訴える。心配するジュリアナ。息子にせがまれ小島の海岸の少女のお話をする彼女。このお話は、映画の他の大部分の現実世界との対比で、美しい晴天の空と海の映像で描かれるが、彼女の心の状態を表すかのような内容だ。しかし息子の脚は意識的か無意識かの息子の仮病であった。ちゃんと歩いている息子を見て彼女は錯乱する。自分にとっての唯一の現実世界との接点と思っていた息子にも否定されてしまったのだ。錯乱状態の中でコラドの部屋に来たジュリアナ。錯乱状態のまま彼女はコラドに身を任せるが、唯一の解決の糸口かと思われたコラドも何の解決にもならなかった。あてどのなく港のロシア船に乗ってアナザーワールドに行きたいと思う彼女だが、出てきた船員とは言葉は通じず、最後に船員はただ「I love you!」と実体的に無価値な言葉を口にするだけだ。再び冒頭と同じく息子を連れ工場の敷地を徘徊するジュリアナ。最初と何も変わってはいないのだった。ヴィッティ4部作の最後ですが前作の『太陽はひとりぼっち』まではどちらかと言えば、ヴィッティ演じる主人公女性と特定の誰かとの「愛の不毛」や「人間間のディスコミュニケーション」でしたが、既に『太陽はひとりぼっち』でもその傾向が見られた、世界全体、あるいは人々全般との「無接点感」や物の世界との関係を描いていると思います。だから意味は少し違いますが、題名的に考えるなら「『ある女の存在証明』の不能性」と言えるかも知れません。アイデンティティーというのは自分と外界との関係から自分の中に構築されるものだからです。その外界との関係を持てないのがジュリアナなわけです。しかしそれはここに描かれた工場に象徴されるような「単純な工業化による人間疎外」などというものではない、もっと根源的な現代人の心の問題だと思います。だから工場のカラフルな配管などの風景は、美しいものとして描かれています。また2人(特にジュリアナ)は経済的には金持ちで、生活のための嫌でもの仕事の必要性がない有閑な環境にあるわけですが、それは有閑だからこうした精神に置かれるということではなく、有閑だから描き易いということで、フェラーラの技師の場合もそうであるように、誰もにもありうる空漠感だと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.01
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MAIS NE NOUS DELIVREZ PAS DU MALJoel Seria103min(DISCASにてレンタル)はる*37さんの『小さな恋のメロディ』のレビューを読ませていただきましたが、自分の個人的感慨としては偶然にも同じ頃、また自分の感想としてはこの『メロディ』に似た作品『小さな悪の華』を見ました(はる*37さんの日記を読んで『メロディ』を思い出していなければ2つの類似性に気付かなかったかも知れないという意味での偶然です)。はる*37さんのところにコメントしたように『メロディ』は好きな映画なんですが、この2つの映画を似ていると言ったら多くの『メロディ』ファンには怒られそうです。なにせこちらはフランスでしばらく上映禁止になったような作品です(カトリック教会の圧力でしょう)。でも既成社会の矛盾や欺瞞を子供の視点で諷刺した構造は同じで、どちらも1970年頃の作品。一つの共通の時代性を感じます。 映画の構造もラストから先のことは考えられないような作りで、そこで完結しています。『小さな恋のメロディ』がイギリス版白い『小さな*の*』なら、こちらはフランス版黒い『小さな*の*』と言えるのではないでしょうか。と言ってもこの題はどちらも日本公開の意訳タイトル。原題の直訳は「我らを悪からお救いにならないで下さい」ぐらいで、神への祈りの文を逆にしたようなタイトルです。ついでに言うと1976年のブレイヤの『本当に若い娘』(1976)につながる作品かも知れません。ずっと時代を経てソロンズの『ウェルカム・ドールハウス』(1996)への系譜でしょうか。1968年というのは世界的学生紛争の年で、フランスではそれが五月革命へと大規模化し、結果いくつかの変革はあったものの社会の構造は根本的に変わらなかった。1970年頃というのは、そういう挫折感の中で、でもなお社会の不正義に対して目が向いていた時期なのだと思います。 16~7才の少女アンヌ・ド・ボワッシー(ジャンヌ・グーピル)はカトリックの寄宿学校に入れられていた。そこで彼女にくっついている仲の良いただ一人の友達がロール(カトリーヌ・ヴァジュネール)。プライドが高く、賢く、個性も強いアンヌに、より個性の弱いロールがくっついているといった良くあるパターンかも知れない。親分・子分の関係と言ってもよいのだろうが、アンヌは一人で自分の思い通りにするにはまだ弱さも残る年令で、逆に色々思いはありながらも一人では何も出来ない弱い個性のロールがアンヌにくっついている。依存を含んだ支配と、自発的被支配の関係。自己愛的な意味での同性愛的感情もないではないだろうけれど、そこは具体的行動としてははっきりは描かれない。 2人は権威主義で規律のみを押し付ける学校(カトリック教会)に反発していて、また実のところ本当の意味で子供を愛していない親、それらを含めた大人の社会に反抗する2人。アンヌは悪に身を捧げることを自らに誓っていた。ヘビにそそのかされたアダムとイヴの原罪による楽園追放に象徴されるカトリック教義は性の禁忌。モーセ十戒の第6「姦淫してはならない」と第9「隣人の妻を欲してはならない」だ。左右二列にベッドが並ぶ寄宿舎の寝室。カーテンで仕切られた奥は監督のシスターのベッドがある。最後の見回りを終えてカーテンの向こうで着替えるシスター。僧服を脱いだ彼女の長い髪や女の体が灯を背にしてカーテンにシルエットとして映るのを憎悪の目で見つめるアンヌ。また別の日、部屋で2人のシスターが僧服のまま、十字架をバックに、同性愛の行為に及んでいるのを鍵穴から覗き見たこともあった。 夏休み、二人は互いに遠からぬそれぞれの家で過ごすことになる。アンヌ・ド・ボワッシーは名前の「ド」が示すように貴族の出で城のような屋敷に住んでいたが、アンヌを一人残して(執事・庭師など使用人はいる)両親は旅行に出かけてしまう。親と過ごすよりもロールと過ごす方が嬉しいアンヌではあるけれど、実のところこれは親の子供に対する愛情の欠如を示している。普段も週末の帰宅以外は娘を寄宿学校に追い払い、2ヵ月のバカンスは「普段学校に拘束されているのに、休みまで親に拘束されては可哀想だ」などという理論で子供を残して出かけてしまう。出かける時に娘に言うのも「他家にお呼ばれしたら、くれぐれも粗相のないようにね」という世間体を気にした言葉だけで、娘を案じる言葉はない。このような状況はロールも同じだった。 年令的に2人の中にあるのは性の芽生えでもあるのだけれど、2人は周囲の男を若い肢体で挑発する。たまたま夜車の故障で困っている中年男性を助けて彼女たちの部屋(城の別邸を改装したもの)に引き込むが、そこでも2人は濡れた服を暖炉の火で乾かすために下着姿になり、男を挑発する。男は身なりもよく、紳士に振る舞っていたが、挑発に負けてロールが一人になったとき彼女に襲いかかる。もちろんアンヌがロールを一人にしたのも彼女の更なる挑発だったのだろう。学校のシスターも、親の愛情も、何事も表面の体裁だけで実態は汚れているということだ。ロールが2週間不在のときにアンヌはその前にも2人でしたあることを一人で、もっと過激に直接的なやり方で実行する。しかしいたたまれなくなった彼女は今は使われていない城のチャペルに走ってゆき、祭壇に跪いて涙を流す。これは彼女が自分の行為が悪いと知っていて行動しているということを示している。 2人は黒ミサを敢行して互いに血で結ばれ合っていた。そんな2人が最後にどうなっていくか、それは書かないでおくが、上に書いたように『メロディ』同様映画の世界だけで完結した物語の美しいラストだ。途中2人が干し草の山に放火するシーンがあって、夜の闇の中にいくつもの干し草の山が燃えているのは美しい映像だったが、これはこの世界ではない、彼女たちが作り上げた、彼女たちの欲した別の世界の美しさであるかのようだった。2人は汚れたこの世界ではなく、もっと別の美しい世界を求めたのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.07
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CITY OF ANGELSBrad Silberling114min寸評:ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』(1987)の舞台をロサンゼルスに移してのアメリカ版リメイク。ヴェンダースも絶賛したらしいが、良い映画だ。ただ2つの映画はリメイクと考えるよりも別の映画かも知れない。なるほど基本的設定や物語は一緒であり、クレジットもされているように正真ヴェンダース作品のリメイクだ。しかし実はまったく性格の異なる2本の映画だと思う。だからもし採点をするにしても、それぞれのジャンル内で80点だ、90点だ、と採点は出来ても、この2作品を比べて、片方を90点にするならもう一方は80点だ、などというのはあまり意味をなさない。ワインの質と日本酒の質を比べるようなものだ。比較し得る2本の映画ではなかったからこそ、ヴェンダースも手放しに絶賛できたのだろう。このリメイクを高く評価しても、自分の『ベルリン・天使の詩』の評価が変わることはないということだ。そう言えばロサンゼルスって「天使たち」っていう意味だから、この映画の舞台とするには正にうってつけの都市ですね。この映画の中での天使は、人間の持つ感覚とか感情を本来は持たない存在。姿を見せずに人の心を励ますこと、死に行く人に姿を現して天国へ導くこと、そういった使命を遂行する不滅の存在。そんな天使の1人、でも天使を「人」で数えていいのかな(?)、日本語って面倒です。英語なら"an angel"で済むのだけれど・・・。1人の天使セスが、ミスは犯していないのに自分の執刀した手術で患者を死なせてしまった心臓外科医マギーが苦しみ悩む様子を見て恋に落ちてしまう。やがてセスはマギーに姿を見せることもして、2人は愛し合うようになる。でも天使のままのセスと人間マギーの恋は不可能。天使は感覚を持たないから彼女に触れても何も感じることはできない。ある日マギーの患者メッシンジャーにセスは話しかけられる。メッシンジャーはかつて天使で、天使の永遠性を捨てて死すべき人間になった男だったのだ。セスはマギーへの愛のために天使であることを捨てようと思い悩むのだが・・・。映画はヴェンダースのものとは性格も違うし、アメリカ映画らしく、ややくどいほど解りやすく作られている。セスが普通の存在でないことを示すのにポラロイド写真にセスの姿が写っていないのを描写したり、天使が不滅で感覚もないことをマギーに示すためにレタスを包丁で切るときに指を切ってしまっても血も出なければ、指は元通りである描写をしたり、マギーに対しても、元天使のメッシンジャーとの会話でも実際に姿を見せる設定とか。これはこれで良かったと思いますが、指を切るシーンはちょっとグロテスクでやり過ぎでしょうか。ヴェンダースの映画では壁で2つの世界に区切られたベルリンの雰囲気、つまりそうした政治的世界の中での人々の閉塞感のようなものがあり、また物語の語りの意味や復権というテーマがあったので、あの芸術的風の作りはあれで良かった。そういうものを取り払ったこの映画では、生者と天使の恋を描くのに、主人公を生と死にかかわる心臓外科医としたのが巧みだと思います。(ヴェンダースの方では死と隣り合わせの空中ブランコでした。)そしてマギーやセスを取り巻く人々が皆善意の人に描かれていて、人の悪意がほとんど描かれない。そういう善意の世界を背景として、人が生きている意味、幸もあれば不幸もある人生で、自己選択の自由を持ち、一瞬一瞬の生を大切生きていくことの意味を描いていたと思います。感情・感覚はないけれど、しかし静謐で美しい世界にありながらも、それを捨てて有限の「人」の生を選ぶセスが描かれるわけです。単純には「愛のためにすべてを捨てること、自分を賭けることができるか」というテーマでもあります。そしてそのキッカケとなるのがセスのマギーへの愛で、この映画は愛の賛歌の映画に見えました。先日ケン・ローチの『やさしくキスをして』を見て、「決して壊れることのない永続的な(しかし拘束的な)家族愛と、未来の不確実な今だけの男女愛とどちらを大切にするか」という描かれ方があって、たとえ将来の保証がなくても「今の愛」に忠実であることが「人としての」生き方ではないかと思ったのですが、同じような人生や愛に対する考え方だと思います。最初に描かれる幼い子供の死、また人知では死ぬはずのないマギーが手術をした後死んだ患者、こういう何時訪れるか人知ではわからない死を必然とした儚い人の生を我々は生きていて、だからこそ例えば洋梨を食べて美味しいと感じる味覚でもいい、そういう日々の幸せこそ大切にするべきであり、その条件の下では一瞬一瞬を大切に生きるべきだという、こうして改めて言葉にしてみると気恥ずかしくなるようなこと、それを2人の愛を描く中に我々に再認識させてくれる、清々しい映画だと思います。幸福感の中で自転車で風を気持ち良さそうに感じながら走る最後の方のマギーが印象的ですね。アメリカ映画音痴、たぶんここ20年間に作られたアメリカ映画は10本も見ていない自分なので、ニコラス・ケイジもメグ・ライアンも名前しか知りませんでした。後で2人の出演作リスト見たら、見た映画は1本もなかった。どちらも、特にメグ・ライアンはなかなか素敵な人ですね。ヴェンダースの映画でマギーにあたる役を演じたソルヴェイグ・ドマルタンも素敵な人で、彼女あってこそ『ベルリン・天使の詩』も感慨深い映画になっていたけれど、好き嫌いはあるでしょうがこの映画も、性格はかなり違いますが、メグ・ライアンの雰囲気が良かったと思います。だからもっとメグ・ライアンを知っていて彼女が嫌いな観客にはこの映画は駄目かも知れません。ラストに関しては色々と、「こうあって欲しかった」とかもあるでしょうが、ああしなければ映画の意味は薄れてしまうと思います。そしてそういう「こうあって欲しかった」を観客に感じさせたということは、映画の成功でもあると思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.07.14
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