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平易なことばがシンプルに並んでいるそおっとそおっと心に にじんでくる自分の足りなさに気づきそれをあたたかく包むものに気づくちょっと 足を止め視線を 遠くに 高くにそしてゆっくり 深い 呼吸をしたくなる
2013.10.03
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はるか以前、小学生の時に通っていた、人生で唯一の塾体験を思い出した。小5になる時、練習させられるのが嫌でやめたかったピアノの代わりに何故か行くことになった塾。一応進学塾だったのかな。狭い教室の中に、奥に座るには長椅子の上を伝って行かなくてはならないほどの幅に置かれた長机。クラスはテストの成績で別れていたのだろう。席順も前から成績順だったのかな。時々入れ替わっていた気がする。開け放たれた窓からは、下の階にある中華料理屋(だったか)の換気扇からの匂い。いったい何をしていたのだろう。確かに、練習問題の数をこなし様々なパターンに取り組んだのは、後々の勉強に役にはたったのだろうな。けど、塾に行っていない時に大好きだった、学校での自由勉強が自由にできなくなってしまったごとに気づいた。宿題に追われ、やらされる勉強が嫌になって1年間でやめた。練習させられるピアノも、勉強させられる塾もやめられて、めでたしめでたし。子どもの頃から、させられることが嫌な頑固者だったんだな~。ちょっとした思い出…。
2013.08.08
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10年ごとに財布を新調している。と言ってもまだ2回目。きっかけといえば、結婚祝いに恩師に頂いた財布。それがくたびれてきてようやく新調する決心のついたのが、区切りのいい10年目。その時、これもまた10年大切にしたいなと思った。黄緑色に派手すぎない金色の金具。手にもカード類の形にもしっくり馴染んでいる。気づけば今年。そして思い切って新調しました。同じブランドの落ち着いたベージュ系の長財布。まだ皮は固く落ち着きが悪い。何をどのポケットに入れたかも、目で見なけりゃわからない。10年も経つとまた馴染んでいることだろう。この10年間はというと、愛とは何か、愛するとは何かを突き付けられ、学ばされ、実践の場をたくさん与えられてきたような気がする。「愛は忍耐強い。 愛は情け深い。 ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。」1コリント13こんな愛なんて自分の中にそもそもない!だから愛されたい、優しくしてほしい、○○してほしい、○○してほしい、と思う。自分の中にないものを人に求めても、完全にあるわけがないのに。そしていらだち落ち込み不満が募って限界に近かったんだな・・・10年ほど前。じゃあ一体こんな完全な愛を誰が持っているというの。「神は愛です。」1ヨハネ4神=愛先ほどの箇所"神=愛"を代入。「愛は神から出るもの・・・。」1ヨハネ4この10年、神さまから出てくる愛を、少しずつでも体験してきたかな・・・。今日また新たな節目を迎え、新たな思いを期待しつつ。
2012.03.27
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「ファミリーシークレット」 柳美里著様々な用事の立て込んでいるこの時期に、一気に読んだ。理由は、図書館で予約していた順番がようやく回って来て、借りてきたのはいいが気づいたら返却2日前だった!!たくさん順番待ちしている本なので、すぐに読んで返さなきゃ!いや私自身の時間的ゆとりもないし、疲れてもいるから読まずに返そうか。ぱらぱらと頁をめくり始めると、シビアな内容なのに、意外とするする読み進めていけた。なぜだろう。不思議な感覚だった。途中、社会的に注目された事件当事者に関わる記述もあって、なかなか興味深かった。最後の段になって、カウンセリングの会話の中で、その理由らしきものが見当たった。とっくに返却してしまったので私の解釈によるが、「心で感じたこと(感情や好き嫌い)をその場で相手に伝えられない。あとから論理的に考えてようやく言葉になってくる。」傾向。それは、私自身にも当てはまるかもしれないと思った。カウンセリングのやり取りの中で「ここでこういう質問するの?!」「こういう流れになる、こうつながる?!」「こんな解釈をどんどん相手に伝えるんだ?!」なんて思いながらも、自分自身がクライアントになった気分になってくる。「そうです、おっしゃる通りです・・・。」って部分もあったけれど「そうか、そういう部分でそういえば歯がゆい思いや悔いの残る場面があるよなぁ。」という部分もあった。そこを掘り下げてみるのも、今の自分にはいいかも。読み流した割には思いがけず印象に残った本でした。
2011.03.21
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お正月に久しぶりに弟たちと会った。子どものころと変わってないな、とも思うし、変わったなとも思う。それぞれ、社会や家庭での役割の中で様々な道を通ってきたことだろう。肉親の言葉は、ストレートで的を射ている。「相変わらず気が利かんな、ねぇちゃんは。ルーズっていうか、自分のことしか考えとらん。」はっ、まさにその通りなのだろう。子どものころも、そして今も。ぱっと気が利く言葉や行動がとっさにでないんだよ。鈍いと思う。昨年はなんだか余裕がなくなっていて、自分のこと、日常のことで手も頭もいっぱいだったんだろうな。そして、精一杯やってるつもりの自分に驕っていた部分もあるだろう。偽善。今年は、謙虚にいきたい。赦されていることを知っているだけ。謙虚さを。
2011.01.06
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先日の講演会の最後に講師の方への質問があった。「限界を感じられることはありますか。」それに対して。「そんな風に思うのは、自分の調子がよくない時です。そんなときは、やらなければならないことを、ただやっていくのです。」誰でも、しんどく思う時、辛くなる時がある。それでも、やらなくてはならないことを、ただやり続けること。その原動力は、与えられた使命としての目的を持ち続けることにあるのだろう。
2010.09.28
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極限の状態にある人の人生に寄り添う働きをしている方の言葉には力がある。軽やかな口調、可笑しさのスパイスが添えられていても。白浜レスキューネットワーク理事長の藤藪庸一氏のお話を聴く機会がありました。いくつかの事例の紹介と、共同生活や家族のことなど快活に話されていましたが、極限の状態にある人に寄り添い、話を聴き、自立まで共同生活しながら共に歩んでいく、人の人生のあるひと時に寄り添い支援する働きをしている方の話にはゆるぎない力があるのが感じられました。自殺を防ぐことは大切な働きだけど、それは絆創膏貼り(応急処置)に過ぎない。そのような道を選ばなくて済むように、どうせ自分はとなげやりにならずに、正しい態度で助けを求められるような大人を育てていかなくてはならない。だからこそ今は地域の子育てが大切だと思っている、などと言われていました。死ぬつもりで三段壁にいた方が、ほんの一瞬「おっちゃん、死んだらあかんで」と通りすがりの一人の若者に声をかけられたことで、電話をし、助けを求め、共同生活を経て自立していったそうです。彼は後々も、声をかけてくれた若者にいのちを助けてもらってほんとうによかったと、何カ月も共同生活をされてきた藤藪氏に話していたそうです。その若者は、おっちゃんがその後どのような人生を送ったかを見ることがなく、ひょっとしたらそんなことがあったことすら忘れているかもしれません。 一瞬の関わりがこれほどまでに大きなことだなんて。結果を見ることがなくても「何か手伝おうか」と言えたらいい、まずは、職場(など)で挨拶をすることから、という言葉で講演を結ばれていました。
2010.09.24
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「目に見えないけれど 大切なもの ~あなたの心に安らぎと強さを」渡辺和子 著5つの章とさらに小見出しがつけられているので、さらっと読める。細切れ時間でも、さらさらさらっと読めた。「どんな姿の自分も嫌うことなく、その自分と仲良く生きる勇気・・・。・・・情けない自分を受け入れる勇気、・・・自分をみじめに思わない勇気、・・・老いに伴うさまざまの悲しさを一つひとつ"我が物"として認める勇気・・・。若い時に考えていた『勇気』は、何かに毅然として立ち向かい、征服する勇気だったように思います。それが変わったのです。受け入れがたいものを受け入れる勇気というものがあり、それが人間の成長にとって大切なのだということを習いました。・・・いつも生き生きと生きてゆきたい。そのためには、どんな自分も受け入れる勇気を持つことが必要です。そしてその勇気は、多くの場合、自我に死ぬ『小さな死』によってもたらされるのです・・・。」 ~まえがきより感想を一言で述べると、すぅ~っと方の力が抜けるようだった。それは、著者が自分の心に正直でありつつ、前向きに、信仰をもって歩んでおられることが伝わってきたからだろう。本文中には、いくつかの詩や祈りが登場する。その祈りを、私自身の想いに添わせていきたい。「わたしたちは、『ただ老いる』だけの日々を送りたくないものです。『ただ働く』だけの日々でもなく、生活の随所に愛を込め、意味を見出し、自分しか作ることのできない"財産"としての毎日を過ごしたいと願っています。」 本文最後より
2010.09.14
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「精神」というドキュメンタリー映画が新聞で紹介されていたのが目に留まり、2週間程の公開期間にと、時間を都合して観に行った。「正気」と「狂気」の境界線を問い直すという紹介文に惹かれて。ナレーション・説明・音楽一切なしの「観察映画」。もちろんストーリーもない。画面の向こうには、外来の精神科診療所に集う方々、彼らに全人的に向き合う医師、スタッフたち。そこに見えてくるのは、誰の内にもある苦しみ、孤独、内面の問題の部分。一人の人が「病気を持つ者と健常者の間のカーテン。それを偏見と言うなら、健常者の側からもあるが、我々の側にもある。・・・パーフェクトな人は一人もいない。」と明るく語る。彼はさらにマザーテレサの言葉を引用して語る。そこにあるのは、人間そのものの姿。社会制度の隅に追いやられて、生きるのにギリギリあるいはなすすべもない人たちの姿。彼らにはさらなる"自助努力"を求められているのか。病気か健常か、いったい誰が決めることができるのだろう。自覚があって受診して診断されれば"病気"。自覚がなく、あるいは目をそむけて社会生活を送っている者が(私も含めて)健常だと誰が言える。カメラのレンズ越しでは、彼らの話をじっくり聴いているつもりになっているけれど、もし彼らがレンズというカーテンのない目の前にいたら、向き合ってじっくり話を聴くことができるだろうかと自問。残念ながら自信がない。観客8名。出会うべくして出会った映画、と感じた。じっくり観たかったのだけれど135分の上映時間の間に気分が悪くなり、無念ながらも2回、計30分ほどの途中退出。体が気持ちについていかないのか。ちょっと映画館が苦手になりつつある。でも体の内なる声を無視し続けると、壊れてしまう・・・。見逃した場面を観に行きたいな。また気分悪くなっちゃうかな・・・。
2010.07.23
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今日は復活祭。持ち帰った2つの卵を、夕食時に分けて家族みんなで食べた。そろって新しい命に与る時を夢に描きつつ。
2010.04.04
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「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」何度も耳にしたことば。でもなんで?他の人が喜ぶから、と思っていた。今朝、どこからか新たなアイデアがわき上がった。自分にしてもらいたいこと、誰かがこんなことをしてくれたらいいのにと思うこと。それは、他の人よりも自分がよく気のつく、よく配慮できる部分なのかもしれない。それを他の誰かにするということは、自分の得意な部分を生かし、伸ばすことになるのかもしれない。情けは人のためならず、ってことわざがある。ちょっとニュアンスは違うけど。自分の長所を伸ばすためでもあるなら、もっと積極的な思いで、人に何かをできそうな気がする。
2010.01.16
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クリスマスおめでとうございます♪職場へ向かう道すがら、空も線路際の木の葉も小さな花も・・・目に入るものすべてが輝いて見えた。クリスマスの朝、約2000年前にタイムトリップしながら歩いていると、内からこみあげるものが。まずい、ここで泣いちゃ。今から仕事じゃん。今年も何とか過ごせたことを感謝する。罪がなく死ぬ必要などない、死と最も遠いところにおられた方が、それどころか命を生み出し注ぎ出される方がその命を差出し、私をあなたを生かすために、みどりごの姿となって母マリアの胎から地上に降りてこられた。あり得ない、人の想いの範疇では。でも、あり得た、天の父の想いのうちに。Merry Christmas!
2009.12.25
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何かができるといって 驕るなただ 誰かのために仕えることを 喜べ何かができないことで くよくよするなほかのだれかが 活かされるチャンスだから助け合い 補い合えば ええやん・・・自分への エール!
2009.12.01
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何年ぶりのことだろうか。園舎に立ち、園庭を眺めた。子どもたちと通っていたのは6年以上前。延長保育の子ども達が、見上げて大きな声であいさつしてくれた。副園長先生が会議中にもかかわらず出て来て下さり、お付き合いくださった。歳を重ねられた先生が、2階への階段をのぼりながら、持ってきた大荷物を見て「お手伝いしましょうか。」と言ってくださる。そんなこと、とんでもない!働き手として息子を連れてきたんですよ♪毎年毎年子どもたちを新しく迎え、そして送っていかれる中、うちの子どもたちのこともよく覚えてくださっていた。園庭の遊具のまわりには色とりどりの実りが。姫リンゴ、渋ガキ、まだ青いヒイラギ・・・キンモクセイの花々。ヒイラギの実は、クリスマスのころには真っ赤になるんですよって。キンモクセイの花でおままごと、遊具に競って上ったり、お迎えの時にドロ遊びをして先生にきれいにシャワーをしていただいたこと、どこかに置き去りにしていたあの頃の思い出が、にわかに鮮やかによみがえる。会議がひと段落したのか、園長先生(母体教会の牧師先生)も出て来られお話してくださった。ああ、お会いできて嬉しい。息子もあの時の、愛に包み守られた空間時間を思い出していたのか・・・嬉しそうだった。こころのふるさと。子どもたちにとっても、私にとっても。あの頃の出会いによって、人生が変わった。
2009.10.19
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鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。とがれるということは、出っ張っていたり尖っている部分をこすり合わせることで、削ぎ落としなめらかに鋭くされること。身を削られて。どうりで。接する部分が痛むこともありうるんだ。とがれて、光を反射して輝き、道具として良い働きができるように。
2009.09.29
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いろんな話の流れのままに、ちょっと愚痴っぽい話も聞いてもらった。笑いながらだったけど、口から言葉がいっぱいいっぱい連なって出てきた。相手の方の話も聞いた。ちょっとだけだったかも。そしたらなんと!相手の方が「元気出た、頑張ろう!」って。あれれ~~?愚痴聞いてもらったのは私の方なのにな。あ、あの方だな・・・こんなことをされるのは。友に打ち明け、友を受け入れ、共に目を上げ、二人とも力で満たされた。ありがとう。私の愚痴話さえ活かされる方よ。Amazing!
2009.09.20
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痛み。起き上がろうとして、痛みのあまり血の気が引き吐き気をもよおし、再び倒れこむ。向きを変えることも、起き上がることもできない。痛みを感じる前から、痛みを感じることを恐れる。身動きできない。水をひとくち飲み、ただ仰向けに寝転び、静かに、祈りつつ、痛みが過ぎ去るのを待つ。意識は深層に沈んでいく。ずっとずっと楽しみにしていた予定はキャンセル。いつになく、家族が優しい。気遣ってくれている。肉体の痛みはまわりにも見えやすい。目に見えなくても、心の痛みも同じことかも。顔をゆがめている私を子ども達が励ましてくれた。「これも神さまのご計画だよ。」そうかもね。今はそう思えなくてもね。家族の優しさを受け取れたし、普段当たり前に起き上がり動けることが、とても大変なこと、すばらしい奇跡の複合の業なのかもと思えたし。でもね、とっても楽しみだったんだ。タイミング悪いよ。幸い一日ほどで、うそのようにマシになってきました。なんだったんだろう。主はこう仰せられる。「・・・わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いを果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしがあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
2009.08.29
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夏休みが終わりに近づき、夏の様々なイベントが一つずつ終わっていく。それぞれのイベントに関わり、何ヶ月も準備を重ねて来られたお一人お一人に、ありがとう、お疲れさま。イベントは終わっても、そのイベントに込められた思い、そのイベントで見たこと聞いたこと感じたこと、新たに与えられた思い・・・たくさんの土産を、日常に戻っても忘れないでいたい。どんなイベントであれ目的があり、準備に関わったり、当日の運営をしたり、参加したり、それぞれの立場で体験したこと、楽しさだけではなく、しんどさ、困難も丸ごと含めて、それらは財産。イベント終了と同時に忘れ去り、置き去りにしては、もったいない。そして自己満足だけではもったいない。だから、時々、思い返してみる。そうして、残るべきものだけが、残っていく。また今度、何かの機会のために、誰かのために・・・。夏が過ぎゆく。真っ赤になりきれていない赤とんぼが、群れている。
2009.08.26
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10歳も20歳も年上の方々と共にチームで務めをしていると、時々我に返って「いったいどうして私はここでこんなことをしているのだろう。こんなすごい先輩方の中に入って一員のような顔をしているのだろう」と、自己イメージとのギャップに愕然とすることがあります。色々な仲間と色々な役割を担うことが今までもあったのですが、人生経験の大先輩と共にする機会も多々ありました。そんなとき、思い出します。「年が若いからといって、、誰にも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも・・・模範になりなさい。」難しい戒めです。臆せず、高ぶらず。そのために、いつも学ぶ姿勢、自分の意見をはっきり言う態度、他の方を尊ぶ気持ち・・・必要なことがたくさんたくさんあるように思います。毎日新たにされ、新しい思いやひらめきをいつでも受け取れるように、体調を整え、精神、感覚、意識を研ぎ澄ませ、備えをしておきたい。・・・なぁんて、理想は高し。
2009.08.11
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ある仲間の集まり。一人一人が違う背景を持ち、違う視点を持ち、違う考えを持ち、違う意見を持つ。一つの目的のために、別々の角度から、見て聞いて考え意見を出し合う。なるほど、そういう見方があるのか!感心したり学んだり。そうやって経験を積んでいく。お互いに。他の仲間と同じことをする必要はない。違いは、比較するためでなく、卑下するためでもなく、学ぶため。かえって、違うことは素晴らしいこと。自分には見えていない部分もあれば、自分にしか見えない部分もある。このような仲間に加わっているって、何て素晴らしいこと!一区切りの時を迎え、役目を終えられた仲間を送り、新しい仲間を迎える。寂しさと、期待と。新たな思いと、新たな力を受け、やるべきことをやるのみ。託されている限り。次期はもうちょっと勉強していこう・・・。(視点の持ち方、何を勉強すべきかが、ようやくおぼろげにわかってきた?)
2009.06.17
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ゆっさ、ゆっさ、ゆっさ、ゆっさ・・・。布団のなかでうとうと意識と無意識の間をさまよっていた時、揺れを感じた。あ、揺れてる。このあと大きな揺れが来るのか・・・。一瞬のうちに思いめぐらせる。とうとう天国に行く時が来たのか。賛美と喜びと平安に満ちあふれる時空。何も痛むことはない、何も悲しむことはない、何も苦しむことはない。あ、でもちょっと待ってよ。今ひとりで受け持っている役目はどうなるかな。まだもうちょっと生きていたい気がする。・・・?大きな揺れが来る気配がない。よくよく身体の感覚を研ぎ澄ませてみると、私の鼓動が全身に波及して揺れていたのだと判明。自分が揺れているのか周りが揺れているのか、わからなかった。非常に、不思議な感覚。こんなにも力強く動いている私の心臓。この世に生を受けて以来ずっと。自分の意志や力で動かすことはできないんだよね。不思議 miracle。
2009.06.10
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"The Joy in Loving: A Guide to Daily Living" Mother Teresaを2カ月ほど前に購入し、読んでいる。これは今年の初めから読んでいる「マザーテレサ 日々のことば」の英語版。日本語版を読んでいるうちに、マザーの口からの言葉そのままを読んでみたくなったのだ。日本語訳があまりにもなめらかなので、英語でもさほど難しくないだろうとの誤った期待もあった。・・・実はちょっと難しかった。毎日、1日分ずつ。英語で読んでおおよそをイメージしてから、日本語を読む。それぞれに、深い味わい。マザーの愛と平和の思いが伝わってくる。両方読み始めて気づいたこと。言葉の種類が増えると、味わいが深まるということ。マザーの思いはこれらの言葉に表されているものだけではなく、それをはるかに超えるものではないかということ。英語から受ける印象と、日本語で受ける印象が違う時がある。ほぉ、こう訳すのかとか、私ならこう訳すなぁとか。それが時には深い理解や味わいとなり、時には(訳者との)理解や受け取り方の違いとなる。訳の感覚が違うとか、私の英語力が乏しいということもあるだろうけれど、そもそもマザー自身の想いであっても、人間の言葉としてすべて表現しきれるものではないのではないかと思えてきた。言葉の受け手も様々な背景をもつので、受け取り方も千差万別。言葉の無限性でもあり限界とも言えるか。マザーの想いは言葉だけではなく、彼女の行動、しぐさ、表情など丸ごとに表されているのだろう。全身全霊、とでも言おうか。対比させつつ、マザーの想いを推し測りつつ、人間の言葉の可能性と限界をも感じている。
2009.06.02
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牛またはヒツジが迷っているのを見て、 知らぬふりをしていてはならない。ろばについても・・・着物についても・・・。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、 知らぬふりをしていることはできない。ろばまたは牛が道で倒れているのを見て、 知らぬふりをしていてはならない。 (申命記22)先の青年を思い出される・・・。「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。」(ルカ19:10)
2009.04.04
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「誰か・・・。助けて・・・。」私の心の中に、あの情景とともに繰り返される声。音として発せられた叫びではなく、心に届いた(ような気がした)うめきのような声。あの時私に何ができたろう。ほかにできることがあったかもしれない。ある事故の原因となる行動をしてしまったらしい、見知らぬ青年。ただうつむき黙っている。関係機関や関係者に言葉を発することができない。ふだんから、コミュニケーションがうまくとれないらしい。表情もない。関係者に、目の前で責められ、追い詰められ、あるいは人格を否定していると受け止められるような言葉を発せられる。責任能力は?補償は?そのような話の場らしい。聞き耳を立てていたつもりはなかったけれど、すぐ横で聞かぬことの方が難しい。しばらく席をはずすようにと告げられた彼。会計を済ませた私たちの目の前、歩道の隅にしゃがみ込んで頭を抱える彼の姿。立ち上がり、茫然とした様子でうろうろし、またしゃがみ込む。その時、聞こえたような気がした。「誰か・・・助けて・・・。」はっと、彼を見る。そこにいるのは、無表情の彼。私に何ができる。いったい、私に何ができる。苦悩しつつ、祈りつつ、立ち去ってしまった。いったい、私に何ができただろう。いったい。祈ることが精いっぱいだった。何もしなくて、ごめんなさい。どうか、神さま、彼を助けて下さい。
2009.04.03
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「いっつも 楽しそうやね~。」と言われた。そう見えるかな?だって、ここに来れるのがいつもとっても嬉しいんだもん。週に一度の礼拝の時。そう言われて、嬉しかった。力をもらった。ふと考えた。家では、どうだろう。職場では、どうだろう。道歩くときは、どうだろう。いつでもどこでも喜んでいたい。だってImmanuel インマヌエル
2009.02.08
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「マザーテレサ 日々のことば」先月から日ごとにその日のことばを頂いています。我が家の唯一の個室(?!)で。人を愛するということ、愛を行動で表すということ・・・。あるいは聖書の言葉が噛み砕かれている。しばし思いめぐらせ、自分を省みる。誰かを、あるいは最も身近な人たちをもっと愛したい、与えたい、何かしてあげたいという思いが強められると、それに相反するように自分の小ささ無力さ、冷たさ、身勝手さ、自己中心さがクローズアップされていくような。私はこんなふうに思えない、こんなふうにはできない・・・。それでも毎日励ましと新たな力を求める。私は造られた器。小さかろうが欠けていようが、器に愛を満たし、温め、用いるのは創造主。何も悲観することはない。何も卑下することはない。ただ心を明け渡し、満たされ、運ばれるがままに。
2009.02.07
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心の中の 宝箱のふたがそっと あけられる"I trust you."今日 真っ先に目についた 宝物自信のなさによる心配、不安で うじうじしていた時にいただいた ことば"I trust you."そうだそれなら だいじょうぶ私も 誰かに贈りたい「あなたを、信じてる」人の口を通していただいた ことば神さまからの ことば
2009.01.24
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遅ればせながら明けましておめでとうございます。今年も家族そろって元気に新年を迎えられました。それぞれの両親を訪ねることができました。弟妹と会い、又は話すことができました。年末に、おおよその掃除をすることができました。黒豆と煮〆を炊くことができました。今年の正月は、寝込みませんでした!元気に食べて飲んで喋って笑っていました。今日、少しゆっくりしながら、昨年やり残していることを片付けようと思っています。が、もう昼ですね。5日が仕事始めなので、体と心を整えたいと思います。今年の目標は「知」。昨年は、自分の知らなさを知りました。今年は、ちょっと変えてみよう、と思っていることがあります。日々のマナの頂き方。実験です。やっているうちに改良あるいは変更、あるいは元通りになるかもしれませんが。こうして公開することで、自分にはっぱをかけています。このために、手放すべきこともあるでしょう。もうひとつ。May I decrease, He increace.たぶん生涯通しての目標。
2009.01.03
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Merry Christmas ! クリスマス、おめでとう!心から喜びます。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」あなたのために。私のために。
2008.12.25
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今日はクリスマス礼拝。新調されたクランツにロウソクが4本立てられている。今日、その4本すべてに光が灯される。会堂のあちらこちらに、クリスマスのための飾り付けがされている。手作りがいいね。今年は礼拝後にある祝会プロジェクト担当(おおげさ!)だったので、それも司会担当になったので、朝から緊張し、神経過敏になっていた。子ども達に当たってしまったり。あ~あ、クリスマス礼拝の日だというのに、朝からな何をやっているんだか。礼拝を捧げる思いをすっ飛ばして、祝会の段取りばかり気になってしまっていました。表情も硬かったかも。人前に立つのは3年ぶりぐらいだから、人前に立つのが苦手という感覚がよみがえってきていました。でも、礼拝中は礼拝に集中。思いをふり絞って祈る時も与えらえ、だんだん落ち着いてきたよう。内から喜びあふれる礼拝の時でした。年々増し加わる喜び、深みを増す感謝の思い。この小さな者をも、そのままの姿で用いられる主を信頼して。祝会が始まったら、"素"でいきました。主役はイエス様なので、いいや。集まってこられた方々おひとりおひとりに、そして会場準備をしたりお料理や飲み物を用意してくださった方々、賛美やパントマイムを準備して披露して下さった方々、さりげなく片づけたり洗いものをしてくれた方々、駐車場の配慮に協力してくださった方々などすべての人に、感謝の気持ちでいっぱいでした。皆さんのおかげです。大きなハプニングもなく、無事終了。予定終了時間ほぼぴったり。事前、当日共、細かな至らなさは色々あったけれど、許していただこう。片付けも皆さんの協力のおかげでスムーズに終わって、個人的に予測していた時間にほぼ終了。さあ、帰って家族のために夕食の支度をしよう。
2008.12.21
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丸一日、ダンベルを手にトレーニングしているような毎日・・・のような気がする。重量級の予定・用事が次々とやってきて、こなすのに精いっぱい。8時間寝ても朝がすっきり起きられない。頭の整理がつかず、てきぱきと動けない。この重さに耐えることで、訓練されているんだろうか。鍛えられて、もっと重いものを担げるようになっていくのだろうか。もうしばらくしたら、ひと段落かな。変わりっこない、と思っていた状況にも大きな変化があり、(私自身が欲を捨て去れば)少し楽になりそう。クリスマスを待ち望みつつ・・・。
2008.12.04
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寝床の中でうとうとしながら祈っていたら、息子に言われた。「お母さん、眉間が寄ってるよ。」あらら、一日で一番穏やかな気持ちのつもりなのに。言われてみれば、真剣に集中してる時には、無意識に眉に力が入っているようだ。次の日にも、ちょっと頭の中で何かを考えていたら、別の人に言われた。「Smile!」あれれ?別に機嫌が悪かったわけじゃないんだけれどこわばった顔をしていたみたい。気をつけよう。人に、嫌な思いをさせてしまっているかもしれない。眉の力をぬいて・・・。人に見えるようにではなく、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。
2008.11.25
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"ストレス"というものがあるのではなく、ストレスは感じるもの。そんなふうに、聞いた。"幸せ"もそうだろうか。それにしても、感じてしまっているストレスを肩から下ろすのも、けっこうたいへん・・・。原因が過ぎ去っても、ストレス感だけずし~んと残る。休むことなく、日常の役割を果たしながら。今日、明日は、少しゆっくりと過ごそう。・・・と、借りているDVDをパソコンで再生しようとしたら、何度か試みてもできない。ああ、更にストレスを感じてしまった・・・。(DVDplayerがうちにはないので)寝よう。
2008.11.15
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「どっちでもいいですよ。」治療を続けても、続けなくても。え。でも、まだ完治はしていない。はためにはほとんどわからないけれど。「治療しなくて、治っていくでしょうか。」「わからない。」え。難治性なのはわかっているけれど。「どうしますか。」と言われても・・・。それでも、私は、完全な癒しを求める。祈りと、少しでも可能性が高くなるのならばこの治療と。完全な癒しを、ください。
2008.10.22
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あとから心に引っかかった、自分の言動。傷つけちゃったんじゃないかと。いつまでも引っかかっていて、消えない思い。勇気を出して、思い切って、謝りの言葉を送った。人に対して。示された罪を、告白した。神さまに対して。私の思い過ごしだった。傷つけていなかったみたい。よかった。人にゆるされ、神にゆるされた。引っかかっていたものから、解放された。心に引っかかったことは、一つづつ告白して、一つづつゆるしてもらおう。ゆるされることは喜び、祝福。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:8~9)「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ57:15)ゆるされ、ゆるしあって、生かされている。
2008.10.16
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雨降って 地 固まれ。涙の雨で 絆 強まれ。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」 ルカ6:21
2008.08.28
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「『こころの目』で見る」 鈴木秀子著図書館の宗教本コーナーで目に留まった本。様々に広がり、絡まりあう人間関係に行き詰まりや閉塞感を漠然と抱いているとき、新たなヒント、新たな視点が与えられました。私に必要なのは、人に対するこのような視点、このような見方、受け止め方だったのだと感じました。目を向ける必要があるのは「目に見えない世界」。私たち人間(human being)は、地球上でバラバラに棲み、生きているように見えても、実は皆一つにつながっているという、その根の部分。手に例えると、5本の指は目に見える世界doing=一人一人の行動、行為、条件の世界、指につながる手のひらは目に見えない世界being=存在、本来のありのままの自分、無条件の世界だと著者は言います。目に見えない世界には3つの平等がある。誰も命を創り出すことはできない。誰にでも限界がありいつか必ず死ぬ、完璧な人間はいない。それでも皆が命を与えられた大切な存在で人間を超えた大きな慈しみに満たされながら生かされている。筆者の臨死体験やたまごっち開発の秘話(?!)もあり、「目に見えない」根っこの部分に目を向けるということ、その大切さを語られる。具体的な事例が多く、読みやすく、後からその味をじっくり思い返したくなる本でした。出会うべくして出会った本でした。こころがほわ~っと楽になりました。しつこく抱いていた負の感情が、無意識の内に拳が開かれてす~っと手から離れていきました。
2008.08.01
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日没間もないころ、西に向かって自転車を走らせる。川の流れの先の薄暗くなった空に、真っ黒な雲。その縁が、赤みがかった黄金色に輝く。地平線に沈んだ太陽の光に、背後から照らされて。雲の形が、夕闇に際立つ。闇の中の暗黒の問題も、その向こうにあって直接見ることのできない神の、その光に照らされる時、その姿がはっきりと現される。そちらへ、進んでいこう。浮かび上がった問題の向こうには、神が居られるのだから。写真に撮っておきたかった、一時の光景。
2008.07.25
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いやみを言われたと感じた。直接言われたわけではないのに。傍にいる人への言葉だったのに。私が、自分自身を、それに該当すると思っているのだと、あとで気づいた。私に言われたわけじゃない。私のことをそう思っていると言ったわけじゃない。私が、私のことを、そう思っているのだ。思い込みモード。思いつめモード。今の心のモードが、確認できた。さあ、モードを切り替えよう。
2008.07.21
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私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ 4:12-13)どのような状況でも、このように思えますように。
2008.06.25
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もしもし待っていたよ なんだい?もしもし今日も 待っていたよ なんだい?いつでも どこからでもつながるいつも 私からのcallを 待っていてくれるうれしいときつらいときかなしいとき落ち込んだとき心配なとき迷ったときどんな感情も思いも 丸ごと受け止めてくれる共に喜び 共に涙を流してくれる私が 受話器を耳に当てるならいつでも どこででももしもし 天のお父さん待っていたよ なんだい?よく 話してくれたね大丈夫だよいつでも 待っているよいつでも 見ているよ
2008.06.17
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牧師夫妻が、ここでの働きを終えられ、遠い地、新しい地に発たれます。目に見えない、形のない、しかし確かなものを、一人一人にそして教会に残してくださいました。先日のお別れのパーティーには、教会の内外からたくさんの方が集まリました。久しぶりの方、めったにお目にかかれない方、遥か遠くからの方、近くの方、いつもの方。会堂が2倍ぐらいの広さだったらなぁ、としみじみ。彼らを中心にして、懐かしい顔にお目にかかれるのも、また嬉しい時。それぞれの思いはきっと、伝える言葉が見つからないほど大きく、深く、ただただ涙を流しながら見つめ合う。もっと、もっと、共に時を過ごしたかったな。寂しさはきっと、次の日曜日に、実感するのだろうな。でも、ご夫妻が残してくださったものは、確かに存在しています。ご夫妻を通して私たちが受け取った恵み、祝福を、新しい道のりにおいて、主のため、人のために捧げていきたいと、心を新たにさせられました。最後に、ご夫妻の前途の祝福を、皆が心を一つにして祈り、God bless you.を賛美しました。素晴らしい神の家族をありがとう。永遠の命をありがとう。私たちは、いつまでもいっしょです♪See you later! (じゃ、またね!)
2008.04.22
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" Be natural as you are. "これは、一昨年だったか購入したTシャツに描いてある言葉。羊のイラストとともに。この言葉が、ここのところ、私の頭の中で反響している。なんて訳そう。「ありのままのあなたで。」(かすみ草訳)とらわれず、縛られず、ありのままで。自分では意識していなくても、とらわれ、縛られていることがあります。人の目が、評価がになる、どう思われているかが気になります。「こうなりたいなぁ」と思うあまり、「こうでなくては!」と頑張り、現実とのギャップにくじけ、さらには自己憐憫へと。これじゃあ、自由じゃない。自分の意志で頑張っているようでも、実は自分で作り上げた理想像で縛られている。赦され、罪の咎めから、解放され、自由なはずではなかったのか。自由はどこに?「主の霊のおられるところに 自由があります。」そう、完全な赦しを頂いている。完全な贖いが完了している。ただそれを信じれば、受け取れる。信じることで、もう、頂いている。それ以上に何も必要ない。初めて本当に、その赦しを受け取った時には、確かにそう思えた。現在、過去、未来の罪について。でも、なぜか、なぜか、その後の罪について、自分で自分を赦せずにいたみたい。すでに完全に赦されているにもかかわらず。なのに、なのに、古い自分の習慣のまま、自分の行い(不完全なのに)によって、罪から離れようとしちゃう。当然できないから、苦しい。さらに「こうしなきゃ。」に縛られる。できないから自信もなくなっちゃうし、萎縮しちゃう。でも、それは違う、違うんだよ。キリストの贖いは、完全なもの。ただ、その賜物を受け取るだけ。そうすれば、キリストの内にあって、罪のない者とされる。咎めは、もうない。だから、キリストにあって、自由。自分を責める必要もなく、言い訳したり落ち込んだりする必要もない。神さまにはもう責められないんだから。ただ、受け取るだけ。ただ、神の恵みゆえ。だれも誇ることのないために。そこに、賛美と喜びと感謝が湧き上がる。感謝 いたします。参考 「あなたは神の義を いただいていることを ご存知ですか?」 徐 起源 著
2008.04.18
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大河ドラマ「篤姫」を観ていたら、こんなセリフがありました。「そなたの言うことは、正しい。しかし、そなたの物言いは人を傷つける。」正論(と思っていること)を言っていても、そこに愛がないなら、何の値打ちもありません。却って、他人を傷つけることも多々あります。我が身を振り返り、往々にしてそのようなことをしてしまっているのではと、どきっとしました。言葉はいったん口から出たら、戻すことはできません。慎重に・・・愛をもって・・・。これがなかなか、難しいことではあるのです。
2008.04.12
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春頃一緒に、白浜に旅行に行こうねと言っていた。なかなか時間が取れそうにないなぁ、連絡もしなくちゃなぁと、気にかけていた。ふとした機会に、その人が白浜旅行に行って来たことを知った。よかった、と思った。でも、なぁんだ、とも思った。私が思うほどには、気にしていなかったのかもしれない。そんなものなのかもしれない。
2008.03.26
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思い込みすぎだよなぁ、きっと。私も、あの人も。もっとお互い、気楽に生きられたらいいのに。周りはどんな暴風が吹き荒れていても、穏やかで、天が見える、台風の目の中に留まりたい。
2008.03.05
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祈りは きかれる確かに きかれる今は 目に見えずとも確かに 大きな力が はたらいているいつか きっと現れる だから 今日も歩んでいける時がよくても 悪くても
2008.02.29
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少しゆらぎそうになっていました。時間的にゆとりのない日常。それが隙間がなく余裕がないように見える。そんな日々の中で、健康も心も守られ、必要な時間は与えられ、休息の時も与えられていると感じます。それはきっと、これらのことが、私に与えられた役割だから。私がやりたいことは、今、後回しになっているか、中断しています。けれどそのことに不満はなく、今与えられていることをするのが喜びです。毎日、導きと力を求め、毎週、自分を丸ごと捧げて、大いなる力を実感します。自分の頑張りでは、できることではありません。ただ、用いられるがまま。それでもゆらぎそうだと思っていたとき、思わぬ場で、差し出された御手。同じように、ゆらいでいた友人の手を通して。求めれば、与えられる。御心は、成される。今日も、生かされている、喜び。
2008.02.26
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あるクイズ番組を観ていました。「夏目漱石が『今夜は月が美しいですね』と訳した英文は、何でしょう?」答えは、"I love you."いくつかあった選択肢(Good evening. Good bye. I miss you.)のうちで、最も日本人が口にしなさそうなことば。かの二葉亭四迷は、この英文をこのように訳したそうです。「あなたのためなら、死んでもいい。」「あなたのためなら、死んでもいい。」死んでもいいと言わしめるほどの、愛。まさに、そのようにして死なれた方がいる。「あなたの罪を贖うために、私の命をいけにえとして神に捧げます。」約2000年前に、あなたを愛するがゆえに、自らの命を神へのなだめの供え物として捧げた、罪のない神の御子、イエス・キリスト。あなたへの愛ゆえに。私への愛ゆえに。
2008.02.17
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エペソ人への手紙4章7-8、11-15節よりメッセージのテーマは「奉仕の働きをする」でしたが、その中で"霊的な賜物"という部分が私の心に響いたので、思い巡らせながら記そうと思います。「賜物」って、能力や才能とはちょっと違う。自分にはどんな賜物が与えられているのか、自分には何ができるのか、わからないことがよくあります。じゃ、賜物って何?そこで2つの問いかけをしてみます。・人に強いられているわけでもないのにせずには居れない、意識せずにしている、非常に惹きつけられる、やっている方がやらないでいるより心が安らぐようなことは何ですか?・どんなことをした時に、誰かに「恵まれた」とか「祝福された」とか言われますか?周りの人が自分を通して祝福を受けるのはどんなことですか?これらの事をする時に、必ず喜びがあるとは限りません。あるかもしれないしないかもしれない。この2つの質問は、自分の賜物が何であるかを認識するのに役立つものです。賜物は、人に祝福をもたらすもの。これは大きなポイントです。自分が祝福を得るためのものではない。(結果として与えられることはあるでしょうけど)賜物という言葉は、私自身もよくわからないところがあり、自分自身についても"これだ"と言えるものがあるわけではないのです。でも、上の2つの問いかけを自分にしてみる時に、これかなぁ、と思うものが見つかるように思いました。それは決して才能とか能力じゃない。そして、いつも楽しくできるわけじゃない。それでも、今与えられているいくつかの役割については、そうなのかも、と思える気がします。確信があるわけじゃないのです。でも、これが賜物だという確信があるかどうかは、あまり関係ないように思います。私に求められている役割が何であるか。メッセージでは具体的に、実に様々な賜物の例が出されました。困っている人を見ると放っておけない、人が大好きで楽しくお喋りする、賛美、人の話を聴いてカウンセリングする、平和をつくる・・・。言われてみると「あ~確かにそれも賜物と言えるんだなぁ。」と思えました。
2008.02.10
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