全1736件 (1736件中 1-50件目)
今人工知能をつかって、マンガ制作を勉強しています。アンナの旅という題ですが資料として、石ノ森章太郎氏の自伝を読んでみてその自信の苦悩というものが、後ろから追いかけられるようにマンガの制作につながっていったのだとわかります。この破壊するもの、その創造するものが、世界を作っていることがよくわかります。でもこのいずことも無く押し寄せる苦悩、それは実はどこにも存在しないものだとはだれも思えないだろうとおもう。若いからこそ出来る無茶と苦悩とそれはよくわかるようにおもいます。天才なんでしょう。何かを成し遂げた人であり、何万人のなかから競い選ばれた成功者なのでしょう石ノ森氏は60歳と言う若さで、1998年になくなっていますので、27年より前の自伝です。ヘビースモーカーで、モウモウたるタバコの煙の中で、徹夜の連続という命を引き換えに作品が作り出され来たとわかります。 その苦悩をエンジンとして書かれてきたことがわかります。でもその苦悩発生エンジンが、生物に勝手に取り付けられたものであることなんです。でも、その苦悩が「わたし」とは別に勝手に作り出されて、いるモノともし知られたら、どのような物語が作り出されたでしょうか氏のマンガには、それが影のように絵に出てきています。それが魅力と共感を訴えるのですが 影としての絵の魅力なのですけど
2025.08.30
コメント(0)
その様な本があった見てみると、その神様というのは自分にもあった今なら言える、これは神様じゃない、悪魔だいまでも時々出てくるこの悪魔は神様に化けて出てくるので、始末に悪い、わたし(ほんとうのわたし)という者にも化けて出てくる 祓っても、祓っても、つきまとってくる悪魔である特徴なのは、言葉なんだ、でも弱点があることがわかった。じっと見ていると永遠にそこに留まることが出来ない事じっと何も無いところから、その悪魔(神様か)を見ていると、必ず消えるんだ地球最後の日まで、日本沈没まで、じっと一緒に観ているつもりなら 必ず消えるそしてその神様?(悪魔)を優しい目で見ていると3倍速く去って行ってくれるそうすると、何も無い静かななにかが、ずっとある優しい目でみている、声も、文字も無い、そこではこの悪魔?(神様?)は居ることができない
2025.08.20
コメント(0)
60年位前のマンガにこのような図が描いてあった 人ーーーーー>金ーーーーー>徳 ↑ ↓ <-----------ーー人は金を追う、金は徳を追う、徳は人を追う人は追いかけても追いかけても金は逃げていくだけだから、いつまでたっても金はやってこないもし金がほしかったら徳の方を追っかける、そうするとほっといても金はやってくるその様な意味だったとおもう。金はほしいな、では徳とは何なんだ、ぼんやりして何かハッキリしなかった事を覚えているけどいまもって心にこの図が残っている。今ならこう言えるんじゃないだろうか金を掴もう、札束を掴もう、そればかりやっていても、金は逃げていくばかりではその反対をしてみればどうだろうか?金を離す、札束を放り出す、いまならこう言う、それを投資という、し(資=金)を投げ出す事相手は金をほしがっているから、それに投資をするこれが回りくどいけど、そうなるだろう ポイントは金を離すことなんだろうとおもうそれが徳につながっているかどうかは、不明だが掴むな、離せとよく言われるが………… 金を離すのはむずかしいね人の根源から欲に限らず、すべて掴んで、掴み倒してしまうのが、自分だから 全く
2025.08.20
コメント(0)
只管打坐座禅によって、一切の自我がはたらかない状態に自分を置く座禅をしていると、何か考えている自分に気づきます。(覚即、かくそく)考えているときには自我がはたらいているわけですから、その考えを捨てます。次の瞬間にまた何かを考えていたら、それもまた捨てていく少し訓練すると、こうして頭になにも考えがつくられていない状態をつづけることができます。曹洞宗奈良康明 「真ん中が中道か」P89より
2025.08.19
コメント(0)
ある行為をしてあとで後悔し、涙して嘆きながら苦い報いをうけるなら、それは良い行為ではないある行為をしてあとで後悔することなく、喜び、心楽しく報いをうけるなら、それは良い行為である。発句経(ダンマパダ)67,68善悪の判断は、後悔のあるなしにかかっていると言う考え方
2025.08.19
コメント(0)
シャンカラ 8世紀のインドの人物 ヒンズー教における最大の哲学者と言われるシャンカラが弟子入りする者に、最初に発する質問は「君は、だれですか?」 と言う物であったと言われています。それに対する答えは「私はこれらの家系のバラモンです。」とか言う返事が多かったのですがシャンカラがその問いについて、入門時に答えた言葉は「先生、私は地でもなく、水でもなく、火でもなく、風でもなく、虚空でもなくそれらの属性のいずれでもない。わたしは、感覚器官でもなく、統覚機能でもない。わたしはシヴァ神である」そう答えたということです。(物質を構成するものとして、地、水、火、風、虚空 を五大元素とインドでは呼んでいた)(シヴァ神、破壊と創造 ブラフマン(梵天、世界とでも)ともいうもの)
2025.08.18
コメント(0)
A10神経というものが脳にありますがこれは脳の奥から、前頭前野(つまり額の方向)に伸びている重要な神経です。白毫というものは、これと関連があるのではないかとおもえるのです。白毫相というものがありますが、この行動はこの神経系を活動化させるのではと思えるのです。
2025.08.15
コメント(0)
曼荼羅という図形は上から見た図で、立体なのが本来の姿では無いかと思っています。密教に置いては、大檀具(だいだんぐ)というものがありますが、その中央には塔があり敷曼荼羅というモノの上に置かれています。このシステムは、その場所に仏を勧進する(招く)ための道具といわれています。つまり仏様にこの場所に降りていただくものです。密教では、火を焚く護摩供養というものもありますが、それも同様な意味があると思っています。この中心に塔を置くというのは、法華経の見宝塔品第11で表される塔と同じモノと見ています。それだけこの塔は重要な意味を持っていると見ています。
2025.08.15
コメント(0)
左手の人差し指の手の平側のところに、小さなほくろが発生していました。気にはなっていました。実際その様なものが悪性のモノであったという事例を知っているからです。実は今日の朝、消えていました。先日、大腸検査を受けていました。毎年ポリープがあり、削除を繰り返してきました。もう10年以上でしょうか今年の検査では、まったく見えないので、次回は3年先で良いとのことでした。お釈迦様は、亡くなられる記述から大腸ガンでは無かったかと思っていましたので医学の進歩にありがたいと思っています。目の前の人が検査を受ける様に言われて、10年以上放置したため手遅れになったという事例を見てきました。惜しいことです。いつも特に寝るときは、光輪を全身に動かしてきました。その平安な中で眠りについています。しかし、医学というか科学の知見には従うべきだろうと思う次第なのです。手遅れになった人は、検査が怖かったと聞いています。わたしもこの検査は何回やっても嫌なモノですが、その時も南無観世音、ナムキリクと思いながら、検査を終えました。 ありがたいものです。
2025.08.13
コメント(0)
よく聞く言葉です他力とは自分の力ではないということでも自分はいない(=無我)となるとでは観ているのは=他力 となってしまう。南無阿弥陀仏 阿弥陀様に帰依する(身をまかせる)もともとそうなってる
2025.08.11
コメント(0)
無我 わたしはいないわたしはいないのです。ただ作られた物が自動的にこれを書いているとでもおそろしく優秀なAIAIに私はあるんでしょうか?人もその様なものに見えてしまうでもみているモノ、これは誰なんでしょうか 無我なのに
2025.08.09
コメント(0)
キリクという言葉は 梵字なのですが、弘法大師は法華経をキリクという一文字で表したとあります。キリクは観音菩薩を表す物であり、阿弥陀仏もこの文字を当てるところもあります。その意味はもっと広く、仏、菩薩のもつ種子とでもいうか、慈悲と救済でしょうか非常に広い意味を表している様に思えます。 そのようなもの全体、キリクというある意味わからない文字で残し表しておく意味をつけると争いの元になるからです。その思いは同じなのにです。ともあれ南無観世音と、何時も何かあるとき唱えよと言われていましたが、こんどからナムキリクとも言ってみたいと思っています
2025.08.07
コメント(0)
もうずっとむかしのころしょうがくせいだったころ11歳か12歳だったろうか駅の側の材木がいっぱいおいてある道を家にむかってあるいていたもう夜も更けていて、月も無かった街頭もない道をトボトボとあるいていた見上げると星が出ていたと思うその時何をおもったのか、目を閉じた目を閉じると、なにか光る星のようなものが見えた目を開けると、そこには何も無い再度目を閉じると、やはり見えるその光をずっと奥の方を見る様に突き進んでいくとその光は更に強く光、ギラギラと星のように光っている目を開けると何も無い目を閉じると、それがみえる何度つづけても同じなので、何だろうと思いつつ家に歩き出しただれもがその様な物が見えるんだろうとその時は思った。それ以上は何も思わなかったのだが、なにか心の奥底にずっと残っているだれもがその様なものが見えているのでは無い事は、半世紀たってみてわかったしかし、それは誰にでもあり、おそらくだれもがそれを見ることが出来ることもわかった
2025.08.01
コメント(0)
阿字観という行法は、大日経(大日如来=光)との密接な関係があるとわかるので胎蔵界曼荼羅との結びつきを強く感じます。また曼荼羅には立体曼荼羅というものがあります。曼荼羅はその立体を上から見ている姿とありました。つまり、その中心には塔が立っているのです。これが、法華曼荼羅の中央にある塔、それは法華経の第11番「見宝塔品」で、釈迦の説法中に大地から七宝の塔が現れ、その中にいた多宝如来が釈迦の説法を証し、並んで座るという場面を描いています。つまり法華経と曼荼羅は、おなじことを表しているとみています。
2025.07.28
コメント(0)
この二つの曼荼羅は日本の真言密教に弘法大師の手によって日本に伝わりました。その起源について胎蔵界曼荼羅が描かれた根本経典は大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経、または大毘盧遮那経と呼ばれる)から作られた物です。その成立は7世紀頃と推定され、西インドで成立した物のようです。この経典は唐の開元13年(725)にインド僧の善無畏三蔵が80歳の高齢の身でありながら中国にもたらし、中国人の弟子一行の協力を得て漢訳されました。シルクロード経由で中国に伝わった物と言えます。また金剛界曼荼羅が描かれた根本経典は、金剛頂経であり、その成立は7世紀中頃で南インドで成立した物のようです。この経典は不空(不空金剛、不空三蔵とも呼ばれる)人物によって741年(8世紀中頃)から5年を掛けて、南の海のシルクロードを伝って、完全なものが中国に伝えられました。あの理趣経なども、この金剛頂経系です。この事から、密教の系統は二系統あり、西インドと南インドという二つの流れがあり成立は大日経がざっと半世紀早いことから、積み重なるように発展してきたものと思えます。また密教の成立についてはこの発生状況から、二種類の核があり、それが金剛界、胎蔵界を生んだのでは無いかと思えます。この時期以降インドの北西部などは、イスラム等の侵入から戦争による混乱がはじまります。そしてこの南インドの系列から、後期密教がうまれてきたのだろうと思います。
2025.07.28
コメント(0)
消したい記憶という文章があり、色々な話が載っていました。自分にも様々な消したい記憶、失敗や挫折などがありました。そしてそれは、消したいと思っても、それは突然頭に現れて、自分を何度もいじめてくるのです。追い払っても、追い払っても、別の事をもっと面白い事をしていても、その隙間に出てくるのです。それは、自分を痛めつけ、どんどん落ち込んでしまうのです。しかし、それはあるとき、消えてしまい、どこに行ったかと言うのですがまた出てくるのです。これは、消えて無くなるのです。というか一気に減ってしまうのです。また出てきても、それは事実として、平然と、優しく見ているのです。瞑想とはそういう事ができるのです。(それが出来て驚きました。)
2025.07.26
コメント(0)
これを鳴らすと、すぐに心は統一された状態になることが出来ます。音に集中していくその音を聞く、その音の中に入っていくようなリラックスして、全てが静まってきます。その音に入る、音と一体となるこれは入我我入という状態なのですが非常に簡単に統一性が取れます。これは、サマタ瞑想(止瞑想)そのものです。座って呼吸を観ろといっても、その形だけでもできません。そして、あの統一観、動かない心の状態というものは、容易に出来る物では無いとおもいます。すぐに別の考え(思考、悪魔、猿)が沸き起こるのですがそれが少ない様におもいます。集中して棒を廻して、音に入り込んでいくことで容易にその状態を知ることができます。瞑想してみたらといっても、嫌だとか、体が痛いとか色々言っていましたがこれは、とっかかりが良いので、なぜかいつもそれを気が向いたら廻して音をだしています。この統一された状態は、とても心地よいのです。(悪魔が猿が出てこないからです。)時間は短いとはおもいますが、その状態を知ってもらいたいと思っています。
2025.07.18
コメント(0)
シンギングボウルの振動音と、真言宗の阿字観で行なわれている阿息観とは密接な関連があると考えます。阿息観とは、阿字観瞑想において、アー----という声を出して行なう行法は人の体を楽器のように、シンギングボウルの倍音のように発声するのでは無いかと言うことです。阿息観は多人数で行なうのですが、10人くらいでしょうか人の頭は倍音を発生する共鳴板という機能がありますから、アー-という発声を響かせるようにかつ、流れる他の発声と同調させるように、してみました。まだ始めたところですが、阿字観が終わった後の感想ではなにか調子がよいとか、入り込めるたとか、ある人は光輪があらわれたとかいう今までに無い感想が多かったように思えます。それがこれが理由かどうかはわからないのですが、色々試してみたいと想っています。これは声明学と瞑想の深いつながりだと考えています。声明学については752年(天平勝宝4年)に東大寺大仏開眼法要のときに声明(四箇法要)を営んだ記録があり、奈良時代には声明が盛んにおこなわれていたと考えられる。平安時代初期に最澄・空海がそれぞれ声明を伝えて、天台声明・真言声明の基となった。天台宗・真言宗以外の仏教宗派にも、各宗独自の声明があり、現在も継承されている。源氏物語の中に度々出てくる法要の場でも、比叡山の僧たちによって天台声明が演奏されていた。平安時代に中国から入ってきた実践的な仏教声楽は梵唄と呼ばれていた。また、インドの声明にあたる悉曇学という梵字の文法や音韻を研究する学問が盛んとなった。やがて、悉曇学と経典の読謡を合わせたものを声明と呼ぶようになり、中世以後には経典の読謡の部分のみを指して声明と称するようになった
2025.07.17
コメント(0)
これは不空の著作から描き出された法華曼荼羅、法華経の塔の記述(法師品)この曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と同じものを表していると見ていますので中心には大日如来=光であることから、そう見えてしまうのです。
2025.07.12
コメント(0)
この経典は涅槃教から発展し、龍樹(二世紀)には記載がないことから、四世紀頃に成立したと予想されています。その記述の中にお釈迦様は入滅を前に、死別を悲しむアーナンダ(阿難)に話しています。アーナンダよ、この塔を見て「ああ、これがかの世尊、如来、尊敬されるべき人、正しいさとりを得た人の塔なのだ」と、多くの人が感慨も新たに、清らかな心になることができ、この功徳によって五体が壊れて死んだ後、よき所・天の世界に生まれることが出来るからなのだ。岩松淺夫訳「大いなる死(大般涅槃経)」からこれを見てひっかかる点がこの塔なのです。この塔については、引用した人は釈尊の遺骨が祭られた記念の塔とあるのですが、この時点では釈尊は亡くなってはいないのです。釈尊の死後それこそ無数の仏舎利の塔(サンチーなど)が作られるのですけどわたしには、この塔が瞑想にあらわれる光りの塔(月輪)に見えるのです。同じ事が南天鉄塔(大日如来の所説の法門をその上首たる金剛薩埵が結集して、機を見て授けんとしてこの塔に蔵(おさ)め置いたところ、龍樹(龍猛)菩薩がついにこれを開いてその経典 金剛頂経あるいは大日経を伝授したといわれている。)にも言えるのでは無いかと思えるのです。
2025.07.12
コメント(0)
静かな心、大きな海の様なとでも、悠然とある大山の様なとでも、どこまでもある青空のようなものみたいなものが、一瞬でもあるという時点が来るとおもうのです。かく即という邪魔な思考に気がついていく作業をすすめるとそうなるとある時点で、前にもかきましたが、この自動思考とでもいう悪魔が出てこれなくなるのです。完全にでは無いのですが、激減する時点がやって来ます。張り詰めると言うわけでもなく、ダランと放逸しているわけでも無く適度な これも弦の喩え通りです。それを観ているのは、優しい視点になっているんです。世界をその様にみえています。その視点があらわれると、観るものはハッキリとし、きれいに、やさしく投げかけてきます。消しゴムが微笑む んですから思考が現れてくると消えて行くのです。が、なにかしらのものがあるとわかるのです。
2025.07.10
コメント(0)
不安になるという事は、その時その様な身体の(特に上半身)にその様な身体変動が現れているはずです。その身体変動があっても、それを掴まないなら、そういう不安は起こらないというかもっと小さいものなのです。人の心は、常に何かをつかむ様に出来ているので、それをつかんで落ち込んでしまうのはしょうが無いといえます。掴むなら、離せばよいのですが、案外とそれは難しいのです。だから深呼吸という上半身の動作をすると、その不安の身体動作をある程度緩和してくれます。また、深呼吸をするという動作に意識というか心を集中すると、その掴む作用を不安という掴んでいる動作から、少し離してくれるからです。また不安という動作は、もうひとつ法則があり、それを掴み続ける事は出来ないのです。これは常に変わっていくという(諸行無常)事をあらわしています。心は常に別のモノを掴もうとするからです。ですから、呼吸という動作に心が掴むモノを代えてしまう。という事でもあります。その内不安も、そこに居続ける事は出来ないことから、全てが無くなって行きます。新聞紙を丸めて、下から熱を掛けていくと、紙が炭化して、新聞紙の丸まった炭になりそして、その炭は形を崩し、崩れ落ちる、そこに一陣の風によって、炭の粉は飛び去っていくそこには何も無く、空っぽの、平安なモノ、平安な心だけが残っていくそれを観察していきます。(観瞑想)それを繰り返すことで、そこで起こるモノは、私が起こしているものでない、勝手におこってくるものその勝手におこっているものを、自分であると思い込まされて来た事(一切行苦)に気がつくと思います。どこにも私はいない(諸法無我)という理解(知恵)に到ると思います。そこには、静かな心だけがある ことに気がつくと思います。
2025.07.07
コメント(0)
よく不安になったときなど、深呼吸、深い呼吸をすることを指示されるのですがあまりうまくいった記憶はありませんでした。今は瞑想の事から、ある程度うまくいくようにはなったとは思いますが深呼吸をすることと、なぜそうすれば良いのかと言う説明がなかったからです。またその行為はある程度うまくいくのですが、理解がないと(智慧がないと)また同じ事をやってしまうのです。またそれを指示している人も、なぜそうかと問われると、そうなんだからそうだとしか言えない状態ですので、なんとなくそう伝えられて来たのだと思うのです。実際ある程度はうまくいきますから
2025.07.06
コメント(0)
このような記述がありました運に関して、ケルン大学で行われた有名なパターゴルフの実験があります。被験者に「これは幸運のボールです」と伝えてから打ってもらったところ、何も伝えられていないグループに比べて、カップインの確率がなんと35%も向上したのです(*1)。 つまり、「自分はツイている」という思い込みが脳の働きを活性化させ、無意識のうちに行動や判断力までも引き上げてしまうことを意味しています。思い込むという事が大切なのですが人は全員、常にマイナスの事ばかり頭に流れる様に出来ています。だから、この例で言うと はいらないんじゃないかとか、ひっかけるんじゃないかとか 曲がりはどうだとか、……………………ゴルフに限らずそれが全てで起こってしまうので、成果が出ず、またそれが自分を痛めつけて来ます。それは更に運を遠ざけるはずです。瞑想のことをズッと書いてきますが、これはこの思考が起こらなくなっていくからなんです。 何十年もそのことに気がつきませんでした。わたしは、おそろしく運が良いのだと思います。 冗談じゃなく
2025.06.29
コメント(0)
ゾクチェンには夢を使った瞑想修行があるとありました。いつものは夢も見ないのですが、意図的に夢を見るようにしてみました。出てくる夢は、二階に上がってはしごを外されるような夢がでてきます。さて、これをどうするかですが…………… さてさて 悪夢ですね 困った 困った 無意識領域にアクセスする方法で、これで世界を変えていく興味深い手法ですがやり方としては、これも光輪を使うとありますので これを形成して寝ます。通常は夢も見ない深い眠りに入る事ができますが、
2025.06.28
コメント(0)
顕現と空性が不二(同じもの)であるという境地現れている物が(目に見えているモノ、触っているモノ、味わっているモノ、聞いているモノ、匂いを嗅いでいるモノ、考えているモノ)は、実体ではないと言う理解というか、人はその方法しか世界を認識できないから巧妙な仮想実現(VR)の中で暮らしているとでも言うかまたそれから逃れられないでも実体は、電気信号であらわす情報というものの集積体である ということになる 今風に言えば更に明知と空性が不二(おなじもの)であるというそうなれば、顕現(現れた世界)= 明知 = 空性 という事になると思う
2025.06.27
コメント(0)
たとえ煩悩の毒草を目にしたとき、大乗の修行者は、それに触れることを怖れないなぜなら、毒に対処(対治)する方法を知っているから瞑想(禅定)の中で、毒を空性に溶けいらせることによって浄化する方法を知っているからである。とありました。これには頷ける所があります。ある地点から思考がおこらない(起こりにくく)なってきたとかきましたが、それはなにか大きな海の様なものがありそこに落ち込んでいくから沸き立たない波が起こっているのに、その波の下には大きな海のようなモノがあり、そこに収斂していくようなものが、ずっとあるようにみえるのです。そこに気づいていく というか、ただあるだけで 沸き立たないあなたは波ではない、その下に大きな海がある その様な記述を思い出します。
2025.06.27
コメント(0)
無明無明の状態にあるときそこに映し出された映像の中に入り込み、自分の前にあるものは実体であり現実的なモノだと考えている。明知心とは、磨き抜かれた鏡のようなものであり、絶えず沸き起こってくる思考、感情、衝動、煩悩、感覚などは、この鏡に映し出された映像のようなモノとみている明知とは、みにくいものであれ、美しいものであれ、その前に置かれたものを映し出す鏡の力もともと備わっている、原初の叡智、純粋な覚醒原初の叡智とは、あるがままの状態の境地にある心の本性をさしている。だから、もともとの初めから、悟っていると言える。即身成仏あなたは仏であるただそのことに気がついていないだけで来ただけ
2025.06.26
コメント(0)
不動不動明王など、この不動と言う言葉はよく使われます。 不動心とか不動禅とかこの不動とは、本来の境地であるこの場から動かないから、動きようがないから不動であります。それは法性の境地とも、真如として現れるものとも存在の真の状態(不動)大日如来が表すものともそう言う場が存在して常に私達とあるというものが不動なんと言うべきでしょうか
2025.06.26
コメント(0)
十善戒とは このようにあります。不殺生ふせっしょう(生きものを殺さず)不偸盗ふちゅうとう(ものを盗まず)不邪淫ふじゃいん(性生活を乱さず)不妄語ふもうご(うそを言わず)不綺語ふきご(たわごとを言わず)不悪口ふあっく(悪口を言わず)不両舌ふりょうぜつ(二枚舌を使わず)不慳貪ふけんどん(貪むさぼりをせず)不瞋恚ふしんに(怒らず)不邪見ふじゃけん(間違った考えに走らず)のことです。始めの三つが行いの戒いましめ、次の四つが言葉の戒め、最後の三つが心の戒めです。したがって、人は言葉に対する心がけがいかに大切であるかという教えでもありましょう。とありますが、瞑想においてはこれと密接な関係があります。ついついやってしまう難しい物ですけど、これと瞑想の進展には密接な関係がありこれがめちゃくちゃだと進まない様にできているんです。なぜそうなるかは、これらは自我が起こしてしまうからなのです。そしてその自我は実は存在せず、作り出された物であり、もっと根が深い問題としてそれが本当のわたしであると思い込んでいる点な所なのです。難しい事ですが、そのわたしという物に疑問を持つ、おかしいと気がつく事が必要となってくるからです。とても難しく、いつも何かしらやっているのがこのわたしなんです。なぜそうしなければならないかという事は、瞑想をすることでハッキリとしてくるからです。身体があるかぎる完全に逃れることはできません。しかし気がつく事はできます。だから、気がついているのは誰か?になってきます。では気がついている人は何者なのか十善戒は別名 菩薩戒 と言われています。
2025.06.21
コメント(0)
このシンギングボウルで、音と一体になったときその状態を続けていると、思考が起こるはずです。一体感を崩すように出るはずですがその時こそ、それを観るのだと思います。それは観の瞑想(ヴィパッサー)になっているはずで、それにより自らの心を知ることができると思います。(知恵の獲得)観には、止(サマタ)が必要で、その止の力が無いと、観には進みづらいからです。これが古代より止観双翼と呼ばれ、両者を修習する必要が説かれるゆえんです。二つの翼(つばさ)をもって、飛び立つと言われています。戒 定 恵 の三学に対応しているとみています。
2025.06.18
コメント(0)
シンギングボウル(直径10cm 深さ65ミリ)を購入して、叩いてみました。ちょっと練習すれば、良い音が出てきます。これはチベット仏教、ネパール(ネワール)仏教で使用される法具の一つです。これを鳴らしてみてわかったことは、この音を奏でることは、瞑想になると言うことです。聞く瞑想でしょうかその音の中に、はいっていき、音と一体となったとき、心は見事に静まります。この作業じだいが止める瞑想(サマタ)になります。座って瞑想することは、ほとんどの人は難しい作業です。しかし、このリン(シンギングボウル)をならすことは、誰でも簡単にすぐにできます。気が向いたときに叩いてみればよいだけです。瞑想の練習になりますので、一度叩いてみると良いとおもいます。
2025.06.17
コメント(0)
この法華曼荼羅を良く見ると、興味深い点があります。曼荼羅の上部には四天王が書かれていますが、それは東を表す持国天なのです。北が上ではないのです。 これが本来の形式なのです。東は朝日の昇る位置、光の象徴的方角だからだと私は考えています。 持国天(東) | 毘沙門天(北) ー 宝塔(中央) ー 増長天(南) | 広目天(西)京都の東寺には立体曼荼羅がありますが、その構造とは異なっています。では、この構造から何か想像できないでしょうか? この形なのです。あまりにも有名なこの形、そしてその中央にあるものを想像してください。おわかりになると思います。
2025.06.15
コメント(0)
古い形式の曼荼羅とみたとき、興味深い点がみえます。そこに書かれてある八葉の蓮華の中に宝塔があります。つまりこれは、真言宗における阿字観の阿字も八葉の蓮華の中にあります。わたしは、これらは全て同じものを表していると考えています。阿字=宝塔=南無妙法蓮華経=大日如来=毘盧遮那仏=光=天照大神
2025.06.15
コメント(0)
法華経というものは、どういう経典であるかという、この曼荼羅から当時のインドでの法華経の考え方が良くわかるように思います。法華経というものと、密教は実は強いつながりがあります。また 曼荼羅の中央にあるもの(本尊)、これは宝塔なのです。これは鎌倉期に日蓮上人があらわした、文字の曼荼羅が有名です。南無妙法蓮華経という題目と、この宝塔というものは実は同じものであるという事が読み取れるのです。
2025.06.15
コメント(0)
曼荼羅は、真言宗 弘法大師の胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅の両界曼荼羅があまりにも有名です。しかし、これよりも以前に、真言八祖の不空の著作である成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌 成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌に基づいている。不空(705~774)は、不空金剛とも呼ばれ、ソグド人とも伝えられています。弟子に恵果そして空海(弘法大師)につながっていきます。天台宗 真言宗 に於ける法華曼荼羅は、法華経 法華経前半十四品(迹門)に登場する菩薩" 菩薩などを表したものである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hokke_mandala.jpgこの法華曼荼羅は、鎌倉期に書かれた物ですが、その形式はご覧のように一時代前の形式を表しているように感じます。
2025.06.15
コメント(0)
とまあ書いてしまえば、ただの人生訓みたいなのですが77 イエスが言った、「 私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」この私とは、木の中に居て、石の下に居て、そこに私がいるなど、この私は、普通の私では無い事がすぐわかるのです。それは、神とか光であると言ってしまえば、良いのでしょうが目の前の消しゴムがほほえんでくるとなると、話しは違ってきます。それは光であり、それは全てである。その通りで全ては私から出た。というのもそうなってしまうし全ては私に達したというのも、おなじ
2025.06.13
コメント(0)
書かれざる物という意味のアグラファのイエスの言葉が書かれてあります。アグラファの例:7 イエスが言った、「人間に食われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に食われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」これは実際の人間と獅子(ライオン)の話しではないと思います。比喩としてあげてあると思います。人間がライオンなんか食ってもマズイだけですしまたそれが獅子(ライオン)がドロンと人間になるなんて、おかしい話しとみえないでしょう。獅子を忌まわしいモノとみえ、その対比として人間を上げていると思います。これはどう見ても人の心というか、自我(わたし)というものです。忌まわしくないものによって、獅子(いまわしいもの)を食う(消してしまいなさい)でもその逆をやってしまうと、この人の心というか、私という自我は、忌まわしいモノに陥りますと言っていると思います。
2025.06.12
コメント(0)
1,「この言葉の解釈を見出す物は死を味わうことがないであろう」 イエスがトマスに言ったとされるこの言葉つまり不死発句経に『法句経 』114 不死の境地を見ずに百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きるほうがすぐれている不死の事を言っています。梵天勧請から耳あるものたちに不死の門は開かれた。信仰をおこすがよい。人びとに害あるのでは と思い、微妙で卓越した法を説かなかったのだ、ブラフマン(梵天)よ。ここにも不死の門が
2025.06.11
コメント(0)
アルカイックスマイルとは古代日本の飛鳥時代の仏像に見られます。例えば弥勒菩薩半跏思惟像の表情はアルカイク・スマイルであるとされることが多いです。この表情はアルカイックスマイルの特徴は、全体的には無表情でありながら、わずかに口元の両端が上に上がり、微笑んでいるように見えるというミステリアスな微笑です。この表情は実は、瞑想の段階が進んで行くと、誰にでも現れてくるはずと思っています。静かにずっと座っていると、その表情に口元の両端が上がっている事がみえるからです。なにも意識もせず、ただそうなって来ていることが感じられると思います。世界をその様にみえているからなのだと思うのです。
2025.06.08
コメント(0)
このイエスという人物は、肉体のあるイエスとは見えないのです。これはハッキリとある姿があらわれてきます。甘露(アムリタ)サンスクリット語のアムリタ[s:amṛta]の訳語で、アムリタとは不死を意味する言葉です。古代インドの『リグ・ヴェーダ』には、それを飲めば不死が得られ、光となり神となると云い、soma(ソーマ)酒を賛美する一節があります。そこで、本来はソーマ酒をアムリタと云ったようです。仏教では〈さとり〉を指す涅槃をアムリタとも云います。それだけで無く
2025.06.05
コメント(0)
これは前にも書きましたが、1945年にエジプト出見つかった新約聖書には無い外伝の福音書です。イエスの語録として書かれてある物ですが、非常に興味深い記述があります。これは生けるイエスが語った、隠された言葉である。そして、これをディディモ・ユダ・トマスが書き記した。そして彼が言った、1,「この言葉の解釈を見出す物は死を味わうことがないであろう」とあります。書かれざる物という意味のアグラファのイエスの言葉が書かれてあります。アグラファの例:7 イエスが言った、「人間に食われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に食われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」77 イエスが言った、「 私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」105 イエスが言った、「父と母を知るであろう者は、娼婦の子と呼ばれるであろう」108 イエスが言った、「私の口から飲む者は私のようになるであろう。そして、私もまたその者になるであろう。そして、隠されていたものがその者に現われるであろう」114 シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである。」イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るだろうから」なにか、ワケのわからない言葉を述べているようにみえるのですが、私にはこのように見えてしまうのです。
2025.06.05
コメント(0)
密教といえば弘法大師(空海)真言宗があまりにも有名ですが、それ以前にも密教は伝わっています。奈良時代にも様々な密教経典が伝えられておりそれが行われていました。それを大成したのが、弘法大師といえますがその方面に向かい、唐まで留学したのもこの古密教の経典の存在があったのだと思います。古密教の特色は、あの曼荼羅はありません。法具としえは古式三鈷杵(さんこしょう)や繞(にょう)という法具がつかわれていたようです。それを表す物としては、薬師如来像や国宝、薬師寺の吉祥天女像があまりにも有名です。薬師如来像や吉祥天像はここに起源があります。東寺において薬師如来像(安土桃山時代)が大きなスペースで置かれているのも、古密教からの継承とでも言う意味があるのだと思います。
2025.06.04
コメント(0)
シンギングボウルというものがあります。ある人の勧めもありこれを購入してみましたが非常に興味深いもので、チベットとかネパールの仏教の法具であります。この倍音の振動を聞くということは、聞くことを使った瞑想になることがよくわかります。また密教には声明というものがありますが、この倍音を使った音は是非一度聞いてもらいたいものです。また、簡単に音は出せますが、必要なのはあの独特な棒にあります。これがあれば、家の祭壇のりんをつかって同じ音がだせます。
2025.05.28
コメント(0)
暗黒の嵐 電気が使えなくなるバスで逃げている夢などほとんど見ないのに 今までに無い変な夢だったので残してみたい 防災の用意をしておきたい 南無観世音
2025.05.27
コメント(0)
彼ら2人はお釈迦様の最重要な弟子の2人です。元来の出身はバラモン階級の出身です。バラモン階級は北西から侵入したインド=アーリア人種が生み出した階級です。この侵入によって、インド現地の人々と混血が生じました。後期ヴェーダ文献には、村落における同一の家屋に住む者(クラと呼ばれる)の中に女奴隷(ダーシー)の存在があります。この女奴隷は、クラという言葉の語源から、被征服民であるドラヴィダ語起源と考えられこの事が長年にわたって混血を生じさせてきたのです。この事実はバラモン階級も承認せざるを得ない状況でありました。またカウティリアの「実利論」には、女奴隷が主人の子を産んだときは、母子ともに奴隷にあらずと記載されているのは、この現実を物語っています。この舎利弗と目連が、この混血のバラモンであったという興味深い記述がありました。先住民には今はインド南部にあるドラビダ系と今のチベット系の二種類の人種があります。お釈迦様の時代ガンジス川北岸にいたバッジ族というのは、このチベット系では無いかと考えています。またお釈迦様の父が浄飯王と呼ばれていましたが、この米の起源は雲南にありますので、元来インドアーリア人達はこれを食べていなかったのです。母の摩耶夫人、どの姉妹と伝えられるマカハジャハダイゴーターミーの出身地がデーヴァダハ城とあることから、ネパールに近い高地の場所でここも、今のチベット系に近い人種ではなかったかとも思えるのです。
2025.05.21
コメント(0)
中国においては密教の系譜は、唐朝以後の混乱によって失われていきます。日本でもそうですが、どうしても密教は王朝との結びつきが強くなってくるので、儀式とか法具とかその用意が費用と時間がかかるので、平和がひつようなのです。戦乱になるとその系譜がと切れてしまいます。唐朝後の混乱の時代、仏教は弾圧されました。富が寺院に集積してくるので、狙われたとも言えます。この時期、後周 世祖の法難が有名です。寺院などが金属や税収を求めて徹底的に破壊されたので、儀式や法具などを必要とする密教が衰微していったのも当然なのです。この後中国では禅宗とか浄土宗が優勢になってきます。鎌倉期において禅宗が日本につたわりだしたのも、この流れが元になってきます。その後の宋朝になってくると、経済の爆発的発展がおこり仏教の民衆化が起こってきたのだと思うのです。
2025.05.21
コメント(0)
この恵果という空海の師としてよくしられていますが、その記述の中で唐朝において帰依を受けた理由がこの能力なのです。皇帝代宗は恵果を宮中に呼び、疑滞あり願わくはそれを解くようにと命じた。恵果は六歳の童子に大自在天を降ろすと、童子は皇帝の過去現在未来を答えた。驚嘆した皇帝は恵果に帰依し寄進をした。これにより、代宗・徳宗・順宗と3代にわたり皇帝に師と仰がれた。8世紀の時代において、インドより直接その当時のインド密教の状況が伝えれた雰囲気を感じます。また、伝えた人達もバラモンとかサマルカンドなど中央アジアの匂いなどが感じられ当時の唐朝の国際化の雰囲気が感じられますが、それがどのような事跡であったのかがうかがい知れる記述なのです。この後中国では唐末の戦乱が始り、密教の伝統は消えて行きます。よくぞ空海(弘法大師)がこの日本にこれを伝えた奇跡的な事を感じるのです。また、これが今に伝わる事も驚異的です。この密教のもう一つの継承者は今のチベット密教です。ネパールのネワール仏教もその継承者です。今のチベット密教の資料から、日本の密教を見てみると非常によくわかる部分があると思っています。
2025.05.20
コメント(0)
520年頃に南インドより達磨大師が中国にやってきたのも南まわりルートでやってきている。その経路は南インドから貿易風にのってタイ南部のブーケット付近に到着したものと考えられる風は半年ごとに方向が変わるのでインドからブーケットまで一年、陸路150km程度で横断してバンドン湾に至りそこから中国南部へ向かう風を待つという流れとなる。 風の関係で片道大体三年はかかる航路となる 海のシルクロードの流れになるが マラッカ海峡を回るルートはもう少し後の時代になる ブーケットの地域は平地なので比較的タイ湾とベンガル湾への港が行き来しやすく古来より中継地として王国が栄えている場所となっている。インド洋表層海流の流れは 世界の海流は季節にかかわらず一定ですが、インド洋だけは例外です。インド洋上の風系はモンスーンのため夏期に南西の季節風が、冬期には北東の季節風が卓越します。これに対応してインド洋の表層海流も著しい季節変動を示し、アラビア海・ベンガル湾には、夏期に時計周りの、冬期に反時計周りの循環が生じるのです。これによって常に一定の流れが生じ、季節が変わると逆転してくれるので、非常に効率的に行き来できる事が可能です。 この利用によって多数の物資や人や情報が行き来できるのです。玄奘三蔵が苦労して陸路でインドに来ましたが、これを使うことで容易にインドに到達できかつ、流れが定期的にかわってくれるので、これで帰ることも出来るようになったのです。 この事が海のシルクロード成立の秘密なのです。
2025.05.20
コメント(0)
密教である真言宗が伝わった系譜は以下の経路となっています。龍樹 中論であまりにも有名な人物 龍猛とも言われる 龍猛は龍樹とは別人という説もある龍智 龍樹の弟子善無畏 唐の玄宗皇帝の時代の人物 中部インドの王族出身 北回りのルートで長安に至ったのか金剛智 龍智の弟子と伝えれる 玄宗皇帝の時代 719年南まわりのルートで広州に到着して長安にいたる インドのバラモン出身不空金剛(不空三蔵) 善無畏 と 金剛智 の伝えた密教を中国の唐に定着させた父はインド北部のバラモン、母はソグド人と伝えれる 誕生地はサマルカンドともインド南部とも涼州とも有る師である金剛智の遺言により741年に長安を出発し、海のシルクロードを使ってインド、セイロンに至り746年に長安に帰還している恵果空海とつながります。
2025.05.18
コメント(0)
全1736件 (1736件中 1-50件目)